隼は、体の動きを確かめるようにぐるぐると肩を回した。前に後ろにと念入りに肩甲骨を回転させたあとには、大きく足を開いてしっかりと筋肉を伸ばし、ほぐしていく。

 拝殿前の石畳で入念にストレッチをする隼を、有毅は賽銭箱に座って眺めていた。


「隼」

「ん?」

「ジャージでいくの?」


 隼は準備運動を中断することなく腰を回しながら、いかにも不思議そうにしている有毅の問いに答えた。


「しっかり準備しろって言ったのは有毅だろ」

「それはそうだけど」

「危険なことがあるかもしれないんだろ? だったら、いつでも走れる格好の方がいいに決まってる」


 自信を持って隼は断言したが、有毅は理解しつつもぴんときていない様子だった。

 隼は学校指定の青いジャージの上下を着ていた。足元はグレーのランニングシューズで、誰が見ても運動前に準備体操をしているだけに見えるだろう。唯一ランニングに向いていないのは、左肩から斜めがけしている黒いエナメルのスポーツバッグくらいだろうか。

 サッカー部の練習は終わり間際の時間だったが、隼はその時間さえも惜しく適当に理由をつけて抜けてきていた。森の向こうでは今頃、チームメイトたちがトンボを持ってグラウンド整備にいそしんでいることだろう。


「宮司の子なんだから、もっとこう、それっぽい格好をするのかと」


 イメージを語る有毅を、隼は目をすがめて見やった。


「狩衣のことを言ってるのか? 祭祀のドレスコードではあるけど、おれはまだそういう立場にない。作務衣(さむえ)でもいいけど、動きやすさならやっぱりジャージだろ。大切なのは信仰心であって、装束自体に力があるわけじゃない。でなきゃ、散歩ついでの気軽な参詣とかもできないだろ」

「でも、それでご利益に影響が出たりしないの?」


 上体を曲げて脇を伸ばし、隼はちょっとだけ唸った。


「どうかな。相手は神様だから、礼儀に則って祭り上げるに越したことはない。でも、ちゃんとした祭祀ならともかく、急場にまでそこまでしないとご利益がないんだとしたら性格悪すぎないか? 八百万(やおよろず)の神っていうくらいだから、中にはそういうのもいるだろうし、粗末に扱われたことで祟る神霊の話も確かにあるけど、そういうのは信仰心の問題であることがほとんどだ。きちんとお祭りすれば大抵はそれで済む。日々の感謝って言えば聞こえはいいけど、ようは普段からのご機嫌とりが大事なんだよ、神様ってのは」


 まだ首をひねっている有毅を横目に見ながら、隼は腕を体の前で交差させて肩のストレッチをした。


「難しく考えなくても、人間関係と同じだよ。恩も親交も礼儀もないようなやつがいきなりきて、困ってるから助けろって言われても、有毅だって嫌だろう」

「それはまあ確かに」

「おれは、そういうのはちゃんとするようにしてる。親に言われての習慣ってのもあるけど。一応、潔斎もしてきたから大丈夫だろう」

「潔斎って言ったって、シャワー浴びただけじゃん」

「しないよりいいだろう」

「ふうん」


 有毅は考える様子で、賽銭箱に座ったまま足をぶらつかせた。


「隼って、信心深いんだかドライなんだか分かんないよね」

「神様の存在を否定する気はなくても、合理的にいきたいんだよ。有毅は祭られたいと思うか?」


 手首を回しながら隼が問えば、有毅はちょっと面食らった顔をしてから唸った。


「そういうのはいいかな。そもそもぼくは神霊とは違うし、神様のことはよく知らない。ぼくは有理沙のそばにいられたら、それでいいんだ」

「そうか」


 最後に軽く跳躍して、十分に体が温まったことを確かめた隼は、よし、と自身に気合を入れた。


「それで、どうしたらいい?」


 準備万端とばかりに隼が言い、有毅は賽銭箱から軽やかに立ち上がった。


「鎮守の森のどこかに入口がある。その時々で移動するものなんだけど、まだ月の匂いがしているから、ふさがってはいないはずだ。探せばすぐに見つかると思う」


 そう言って、有毅は少しだけ鼻をひくつかせた。


「こっちの方かな」


 有毅が指差した方向を見て、隼は怪訝に眉をひそめた。


「本殿?」

「の、裏の方」


 胡乱に言った言葉をすぐさま継がれ、隼は有毅をちらと()めつけた。有毅は涼しい顔をしていて、隼はひとまず文句を飲み込んだ。


「裏ってことは、竹林の方か」

「そのはず。有理沙の気配が最後にしたのも竹林の方だった」

「そこまで分かってるなら、早くいこう」


 社殿を回り込むべく、隼は体の向きを変えた。


「ぼくは先にいくよ」


 視界の端で有毅の姿がかき消えた。有毅がいた場所を余韻のように落ち葉が風に乗って通り過ぎていき、隼はちょっと肩をすくめた。


「便利だなぁ」


 今の有毅の体は案外快適なのではないかとぼんやり考えつつ、隼は遅れをとるまいと石畳を駆け出した。