有理沙たちが驚いて顔を振り向けると、目の前のススキの間から白ウサギが姿を現した。ススキを掻き分けてきたのなら音ですぐに気づきそうなものだが、絶え間なく轟き渡る雷鳴に紛れてしまったらしい。


「ユウキ、ついてきてたの?」


 白ウサギのユウキは答えず、静かさをたたえた赤い目で有理沙を見据えた。


「早く帰った方がいい」


 思いがけぬ者の出現に有理沙は息をのんだが、返すべき言葉はもう決まっていた。ユウキと同じ赤い目で、有理沙は弟を見詰め返した。


「もちろん帰るよ」


 ユウキは頬の毛を膨らませて目を細めた。


「それじゃあ、帰ろう。今すぐに」


 白い前脚をユウキが差し出す。有理沙はその指先をちらと見ただけで、とることはしなかった。


「あたしが帰りたいのはそっちじゃない。あたしは人に戻って、お父さんとお母さんのいる家に帰る」


 有理沙がきっぱりと言い切れば、ユウキは怪訝そうに首を傾げた。


「それは、帰らないってこと?」


 有理沙は首を強く左右に振った。


「違う。あたしは帰る。ねえ、ユウキも一緒に帰ろう。お父さんとお母さんは今でもユウキを探してる。隼だっているし、ユウキも独りでいなくてすむんだよ」


 自分で言いながら、その通りだ、と有理沙は思った。有毅の帰りを待っているのは、誰よりも両親なのだ。ユウキと共に帰ることができれば、おそらく有毅にまつわるなにもかもが解決する。

 有理沙は戸惑いを見せる衣兎からいったん離れて、ユウキに向き直った。


「ユウキ、一緒に帰ろう」


 期待を込めて、今度は有理沙の側から前脚を差し出した。しかしユウキの眼差しにあらわれたのは、不快げな色だった。


「有理沙がなにを言ってるか分からない」


 いら立ったように、ユウキは足を鳴らした。


「ぼくの家はここだ。有理沙の家もここだ。有理沙はここでぼくと一緒に暮らすんだ」


 飛びかかる勢いで、ユウキは有理沙の肩をつかんで引っ張った。引っ張られた肩がきしみ、有理沙は顔を歪めた。


「やめてユウキ、痛い!」

「有理沙はいっちゃだめだ。やっと一緒にいられるようになったのに、勝手に出ていくなんて絶対だめだ」


 ユウキは力を緩めず、有理沙は必死に前脚を突き出して抵抗した。


「ユウキ、乱暴はやめてください」


 衣兎も制止の声をあげて駆け寄り、もみ合う二羽の白ウサギの間に割って入ろうとした。二羽の間に腕を差し入れて引き離そうと力を込めたが、ユウキは決して有理沙を離そうとしない。衣兎は必死で考えた末に、ユウキの背後に回り抱き上げるようにわきの下を両手でつかんだ。ユウキの両足が浮き、有理沙をとらえる力がわずかに緩む。その一瞬で有理沙はどうにか拘束から抜け出す。しかし身をよじったユウキが、衣兎の腕を蹴りつけた。


「痛っ」

「衣兎様!」


 ユウキを手放し、蹴られた箇所を押さえた衣兎に、有理沙は咄嗟に身を寄せた。日焼けを知らぬ衣兎の腕に、爪の跡が痛々しく赤い筋を描いて、薄く血をにじませていた。


「怪我が……どうしよう」


 手当てをしなければと有理沙は慌てふためいたが、衣兎は素早く腕を引っ込めてほのかに笑ってみせた。


「これくらいなら大丈夫です」

「でも」

「本当に、平気ですから」


 重ねようとする言葉を封じられ、有理沙は耳を垂れた。けれど次の瞬間には湧きあがった怒りで耳をぴんと立て、有理沙はユウキに向かってわめいた。


「ユウキ、なんてことするの」

「だって、有理沙と引き離そうとするから」


 衣兎に怪我をさせてしまったことにひるんだのか、ユウキはややおよび腰になって反論した。有理沙は勢いづいて、だんっ、と強く足を踏み鳴らした。


「だってじゃない。女の子に怪我させて言いわけする気? ユウキ、どうしちゃったの。そんな風じゃなかったでしょ?」


 詰め寄る有理沙の剣幕に、ユウキは後ずさった。気圧されて身を縮めながら、それでも有理沙を見る眼差しだけは力を失わなかった。


「有理沙がいけないんだ。有理沙がぼくの分からない話ばかりして、どこかへいこうとするから。ぼくは悪くない」


 ユウキが早口に言い、有理沙は一瞬で頭に血が上った。ユウキの両耳をつかんで、ぐいと顔を近づけた。


「怪我させておいて、悪くないわけないでしょう!」


 ユウキは首をくすめて逃げ出そうとしたが、有理沙は耳を放さなかった。


「ねえユウキ、本当に分からないの? お父さんとお母さんのこと、本当に忘れちゃったの? 隼のことは覚えてるでしょう?」


 畳みかけるように問えば、ユウキは目を閉じて首を大きく振った。有理沙の前脚を強引に振り払い、ふらつくように数歩さがる。有理沙を見るために開いた赤い目は、うるんで揺れていた。


「分からないよ! ぼくはずっと有理沙を待ってたんだ。他は知らない。隼のことは顔を見た時には知ってる気がしたけど、どうして知ってるのか分からないんだ。おかしいんだ。ここでの暮らししか知らないはずなのに、ここ以外の記憶がある。みんなみたいに、都の暮らしも楽しめない。ぼくだけが楽しくない。ぼくだけ、みんなとなにかが違う。きっと有理沙がいなかったからなんだ。有理沙がきてくれて、やっとみんなと同じになれると思ったのに……なのに、別のぼくが出てきて、もっとおかしく……」


 叫び訴える声は次第に震え、やがてユウキはなにか堪えるようにうずくまった。顔を伏せる弟の姿が痛ましく映り、有理沙は胸を押さえた。

 有毅は幼い頃から、有理沙や隼に比べると大人しい少年だった。活発な二人について走り回っていたから運動は苦手でないようだったが、どちらかといえば室内で遊んでいる時の方が楽しそうだったし、有理沙が一緒でなければあまり外には出たがらない子供だった。一人ではどこにもいかないくせに、有理沙がいくならばどこへでもついてきたがった、とも言える。幼心に鬱陶しさを感じることがなくはなかったが、突き放すことをしなかったのは、有理沙にとって彼が双子の半身である意識が染みついていたからだ。

 その関係は、おそらく今でも変わっていない。有理沙はユウキにどんな疑念を抱いても、非情になることだけはどうしてもできない。ユウキは神隠しにあったあとも有理沙の姿をを求め続け、満たされない感情が長い時間の中で焦げついてしまったのだろう。そして有理沙がいたからこそ外に向いていた心は、生まれながらの性質に従って内へ向いてしまった。

 有理沙はうずくまるユウキの前に座り、背中にぺたりと寝た耳を撫でてやった。興奮して暴れたせいか、ユウキの耳はとても熱くなっていた。


「あたしもユウキがいなくなった時、すごく寂しかった。でも、あたしだけじゃない。お父さんもお母さんも、隼も、みんな寂しがったんだよ。今は分からなかったとしても、隼を見て少しでも思い出したことがあったなら、帰ったらきっと全部思い出せる。だから、衣兎様にちゃんと謝って、一緒にいこう。そしたらユウキも寂しい思いをしなくてすむから」


 諭す口調で、有理沙は言った。ユウキに届くと信じて、何度も耳を撫でてやる。辛抱強く寄り添い、ユウキの言葉を待ったが、なかなか反応を示さない彼に有理沙は少々焦れた。


「ねえユウキ、聞いてる? ユウキってば」


 こちらを向かせようと、ユウキの肩を揺すった。その勢いで白ウサギの体がぱたりと横向きに倒れた。ようやく見えた顔は、目が伏せられ、苦悶に歪んでいた。ごく細い呼吸にユウキの喉が笛のような音をたてるのを聞いて、有理沙は凍りついた。


「ユウキ!」


 叫びは、雷鳴に掻き消えた。