かぐやの国のアリス

 緩やかに引っ張り上げられるような感覚を覚え、有毅は薄く目を開いた。最初に視界に入ったのは、光を吸い尽くすほど黒い空と、それを縁どって揺れるススキの花穂。ススキで切りとられた黒の真ん中で、大きく丸い瑠璃色の星がくっきりとその姿を主張している。それで、ここが月であり、自分がススキの原に仰向けで寝ているのだということを、有毅は認識した。

 有毅は寝ころんだまま、顔の前に右手の平をかざした。少年の白い手が、確かな輪郭を持ってそこにあった。


「……消えてない」


 確かに自分は、消滅に抗いはした。しかし途中から意識はほとんど失われ、そのまま消えるしかないところまでいったように思われた。それがなぜ、消えることなく意識をとり戻すことができたのだろう。

 消滅をまぬがれただろうことに実感がないまま、有毅は左右へ首を巡らせる。右へと顔を向けた時、触れられるほど間近に隼の顔があり、有毅は目を大きくした。

 隼は地面にうつ伏せ、寝息をたてていた。日焼けした頬が、さらに黒く汚れている。泥がついているのかと思ったが、よく見れば墨汁であるようだ。枕にしている指先も、墨で黒く染まっていた。

 隼を起こさぬよう、有毅はゆっくりと腕をついて起き上がった。体の下の草は、かさりとも音をたてない。すっかりそういうものとして馴染んでいたので、完全に体を起こしたところで葉擦れのような音を聞きつけて、有毅はかえって驚いた。

 音の正体を求めて見やれば、体の横に細長い和紙が落ちていた。どうやらこれが有毅の胸か腹に乗っていて、体を起こした拍子に落下したらしい。

 何度もぐしゃぐしゃに丸めたのではと思えるほど皺になり、泥までついた和紙を拾い上げてみれば、殴り書いたようにひどく荒れた筆文字が並んでいた。それは、「吉野有毅比古命《よしのゆうきひこのみこと》」と、読むことができた。

 ちょっと息を吸って、有毅はかたわらの隼にちらと目を向けた。


(また隼に助けられた、かな)


 有毅は左手に和紙を持ったまま、右手を伸ばして隼の肩に触れた。軽く肩を叩いてはみるが、感触が伝わらないだろうことは分かっているので、顔を寄せて呼びかける。


「隼、隼」


 幼馴染みはなかなか目を開かない。有毅は少々焦れて、耳に口を寄せて声を大きくした。


「隼、起きて」

「ん……」


 ようやく唸る声を出して、隼は体を丸めるように身じろぎした。隼がうっすら目を開いて少しだけ頭を上げたので、有毅は体を低くして顔を覗き込んだ。


「……有毅?」

「うん。おはよう、隼」


 隼は視点のぼんやりした表情で、有毅の顔を見詰めて何度か目をしばたかせた。その瞳がゆっくり焦点を結ぶ。途端に、隼は勢いよく起き上がった。そして、ぎょっとして身をそらせた有毅の肩を、強くつかんだ。


「有毅!」


 叫ぶように呼び、肩と言わず頬と言わず、有毅のあちこちに触れた。


「消えてないな。どこもなんともないな」


 言いながら確かめるように、触れ、つかみ、撫で回す。力強い隼の腕に揉みくちゃにされ、有毅はじたばたした。どうにか腕を突っ張って、隼を引き離す。


「大丈夫、消えてない。消えてないから」


 有毅は隼の目を見て強く言った。見開かれた隼の目が、間近にじっと見詰め返してくる。これで大丈夫なことが伝わったろうと有毅が思った矢先、今度は飛びかかるように抱きつかれた。


「ちょっ、隼」

「よかった!」


 のけぞる有毅の耳元で、隼が叫ぶように言う。


「本当によかった。おれ、もう駄目なんじゃないかとばっかり」


 感極まって、隼の声は震えていた。抱きしめられる腕の力が強まり、有毅は居心地悪くちょっと顔をしかめる。抜け出すのは簡単ではあるが、隼がこれで安心するのであればと、有毅はひとまずそのままでいることにした。


「隼、ぼくになにかした?」


 有毅は抱きつかれたまま、隼の肩口で問うてみた。考えるような間があって、隼の腕が緩んだ。体を離した隼が地べたに胡坐をかいたので、有毅も向き合う位置に座り直した。

 話す体勢を作ったところで隼がすぐに話し始めるかと思いきや、言葉に悩む様子で口元を歪めて唸った。有毅は軽くため息をついて、問い直した。


「隼、ぼくになにをしたの? これはなに?」


 左手に持ったままのぐしゃぐしゃな和紙を、隼に差し出して見せる。筆文字で有毅の名前の書かれたそれを見やって、隼は観念したように口を開いた。


「有毅を祭った」
 一瞬意味が分からず、有毅は眉を寄せた。


「祭ったって、神様みたいに?」

「神様みたいにっていうか、神様にしたんだ。依代(よろしろ)を作って神格化して祭った」


 有毅の持つ和紙を示して、隼は言った。


「神様を祭る一番大きな目的は、祟りや災いを鎮めてご利益に転じさせることだけど、特定の人物を神格化して祭れば名前と影響力を現世(うつしよ)に残すこともできる。有名なのだと、徳川家康の東照大権現とか。さすがに大権現は無茶だけど、なんらかの形で神格化できれば有毅が消えずにすむんじゃないかと思ったんだ。というか、他に方法が思いつかなかった」

「それで、吉野有毅比古命(よしのゆうきひこのみこと)?」


 有毅が和紙の文字を読み上げると、言葉を詰まらせて隼は目をそらした。


「神号のセンスがないのは認める。でも仕方ないだろう。咄嗟のことだったんだから」

「ふーん」


 得心がいって、有毅は改めて自分の顔の前に右手の平をかざして見た。数度、手を開閉して動きと感触を確かめる。

 有毅の様子を窺うように、隼は少しだけ首を前に伸ばした。


「嫌だったか?」


 有毅が気のない声を出したからか、隼の眉尻が不安げに下がる。有毅は苦笑して首を横に振り、かざしていた右手を下ろした。


「嫌とか、そういうことじゃない。ただ、やっぱり隼はすごいなって思っただけ。本当に隼はいっつも、信じられないことをやってのける。将来有望な後継者に恵まれて、月乃浦(つきのうら)神社は安泰だね」


 本心から有毅が言えば、隼は面食らった顔をした。若干照れたのか気まずそうに頬をかき、とり繕おうとするように咳払いして表情を改める。


「まともな道具も場所もなかったから、本当にできるか自信はなかったし、信者もおれしかいない状態だけど、有毅が消えてないってことは多分うまくいったんだよな。有毅は、なんか違う感じがしたりするか?」

「確かに、ちょっと違うかも。多分、できることが増えてる」


 有毅が感覚で答えると、隼は意外そうにまばたきをした。


「例えば?」

「うーん、そうだなあ」


 有毅は考えながら、名前の書かれた和紙を両手の平で挟むようにして、軽く皺を伸ばした。それを半分に折って中央を確かめ、両端を合わせ三角形にしていく。和紙をどんどん小さく折っていく有毅の手元を、隼は奇妙なものを見るように覗き込んだ。和紙はやがて、手の平に乗る大きさの、白いウサギになった。


「できた」


 有毅が満足して宣言すれば、隼は呆れたように目をすがめた。


「こんな時に折り紙かよ」


 げんなりする隼に向かって、有毅はつまみ上げた和紙のウサギを小さく揺すった。


「こんな時だからだよ。ぼくが折り紙をできる、っていうのがすごいんだ。ものに(さわ)れても、持ったりつかんだりするのはあまり得意じゃなかったから。でも、今は普通に持ててる。あとは――」


 つまんでいた折り紙ウサギを、有毅は手の平に置き直した。それを隼の顔の高さまで持ち上げてやる。思わずといった目つきで凝視する隼の鼻先で、ウサギが跳ねた。


「うわっ」


 ひっくり返りそうになって後ろ手をついた隼に、有毅は笑い声をたてた。その間にも折り紙ウサギは数度跳ねて隼の頭へと飛び移り、紙製の耳をそよがせた。


「どうなってるんだ」


 目を白黒させる隼に有毅はさらに笑って、折り紙ウサギを手の上に呼び戻した。


「これはぼくだ。隼が作ってくれた。お札のままじゃあ難しかったけど、これなら動ける」

「動けるったって……そういうつもりじゃなかったんだけどな」

「なかなかいい体だよ。身軽で便利だ」


 有毅が上機嫌で言えば、隼は呆れ顔で体勢を起こして、膝に頬杖をついた。


「それならいいけど、さすがにここでウサギは冗談きつくないか」

「そうかな」


 折り紙ウサギがまたぴょんと高く跳ねて地面に着地し、隼の周りを一周して有毅の手へと戻った。はしゃぐようにせわしなく跳ねまわる白い紙のウサギを、隼はしばらく黙って眺めた。


「なあ、有毅」

「ん?」

「ウサギと言えばなんだけど」


 声色の変化を察して、有毅は目線を折り紙ウサギから隼へと戻した。隼は変わらず、折り紙ウサギを見詰めていた。


「ツクヨミのところにいた白ウサギ。あれは……有理沙だったのか?」


 隼の瞳に戸惑いが映るのを見て、有毅は手元に戻った折り紙ウサギを撫でた。


「うん。有理沙は月の国のものを食べたんだろうね。でも、隼のことが分かった。人だった時の記憶はまだ消えてないんだ。だからきっと、とり戻せる」

「そうか……」


 低く呟いて、隼は沈黙した。しかしその瞳はまだ震えていて、彼がなにか迷っていることが見てとれる。有毅には、その迷いの正体に察しがついていた。


「隼が蹴飛ばした、もう一羽の白ウサギはぼくだ」


 有毅の方から言えば、隼がはっと目を上げた。隼が動揺を現したので、有毅はかえって冷静になって淡々と続けられた。


「有理沙にもツクヨミにもユウキって呼ばれてただろう? ぼくなんだ、あれは」


 隼は口を引き結んでいたが、有毅の発言に背を押される形で躊躇を振り払った。


「あれが本当に有毅なら、あの時どうしてあんなに怯えたんだ。消えそうになった原因っぽかったし、あの白ウサギも有毅を消したがってた」


 記憶を辿るように言った隼に、有毅は首肯した。


「会うのはまずかったんだ。ぼくは――ドッペルゲンガーだから」
「ドッペルゲンガー?」


 素っ頓狂な声で、隼は鸚鵡返(おうむがえ)しに言った


「ドッペルゲンガーって、もう一人の自分に会うと死ぬっていう、あのドッペルゲンガー?」

「そう、そのドッペルゲンガー。だから本当は、ぼくとウサギのぼくは会っちゃいけなかったんだ。月の国にきたら遭遇する可能性があるのは分かってたけど、まさかあそこで会うことになるなんて思わなかった。用心してぎりぎりまで隠れてたのに、意味なかったなぁ」


 だから輝夜殿までの道中は姿を消していたのか、と隼は納得したが、事前に言ってくれてもよかったのではとも思った。かといって今更とやかく言っても(せん)ないことなので、隼は話を掘り下げる方へ意識を向けた。


「でも、相手はウサギだろう。それでもドッペルゲンガーって言えるのか」


 隼が純粋に湧いた疑問をそのまま発すると、なぜか有毅が少し笑った。


「そう言われると確かにそうなんだけどね。ドッペルゲンガーって、現象としていくつか説や原因があるんだけど、その中に幽体離脱がある」


 有毅が平然と言ってのけ、隼は専門外の話にやや気後れを感じた。


「……またずいぶんオカルトな話になってきたな」

「ぼくと普通に話してる隼にそれを言う資格はないよ。隼だってオカルトなことしてるじゃん」

「それは、まあ、ごもっともで」


 隼が引き下がって口を閉じたので、有毅は気をとり直して続けた。


「ぼくは隼に呼ばれて抜け出た霊体なんだ。だからウサギのぼくが本来のぼくで、本体ってことになる。体から霊体だけが知らない間に抜け出ることは普通の人でも意外とあることなんだけど、眠ってる間や気づかない内に戻れば問題ない。でも、意識があるときに遭遇するとまずい。本来、同時に存在してはいけないものが互いを認識すると、競争が始まる」

「競争って、居場所をとり合うってことか?」


 重々しく、有毅は頷いた。


「本体は霊体が抜けたことを認識すると、急速に死へと向かい始めるんだ。だから霊体を吸収しようとする。霊体を戻すことができれば、死をまぬがれるから。霊体は本体に吸収されると二度と抜け出せなくなる。でも、吸収される前に本体が死ねばそのまま自由でいられる。だからなんだ、ドッペルゲンガーに会うと間もなく死を迎えるって言われているのは。本体か霊体、どちらかが必ず消滅することになる」

「有毅が消えかけたのは、ドッペルゲンガーの生存競争に負けそうだったってことか」

「そういうこと。なんだかんだ言っても、実体があるかどうかのアドバンテージって大きいんだ。でも、隼のお陰で状況が変わった」


 有毅の手の平から折り紙ウサギがふわりと舞い上がった。ウサギは背の高いススキの穂先に折り目を引っかけて乗り、さらに隣の花穂へと器用に飛び移っていく。有毅は銀のきらめきの中を跳ねるウサギを見上げた。


「ぼくは神霊になって新しい体も手に入れた。本体にとらわれなくなったんだ。だから――」


 一瞬言いよどんで、有毅は折り紙ウサギへ向けた眼差しをまぶしそうに細めた。


「おそらくウサギのぼくは、もう長くはもたない」

「それって、つまり……」


 息をのんだ隼に、有毅は続きを言わせまいとするように笑いかけた。その笑みはどこか悲哀じみていて、隼は胸苦しさを感じて口を閉じた。


「ごめん、隼」


 謝って、有毅がゆっくり立ち上がった。隼は黙ってそれを見上げる。


「隼は完全な状態でぼくを連れ戻すって言ってくれたけど、始めから無理だったんだ。完全に月の国のものになった体に戻る気もなかったし。……本当のことを言えなくてごめん。でも、隼がぼくのために頑張ってくれてるのは嬉しかった」


 ススキの綿毛が、二人の間を舞った。銀の綿毛が有毅から発せられる儚い輝きのようで、互いの属する場所が隔たったのだと、隼は視覚的に見せつけられたような気がした。けれどそこに立っているのは、物心ついた時から見てきた幼馴染みの姿に相違ない。

 隼は勢いをつけて立ち上がると、自分より少し背の低い有毅の頭に手を乗せた。柔らかな髪の感触はするが、やはり人らしい温度は感じられない。

 怪訝に見上げてくる有毅に、隼は口の片端を上げた。


「別に、努力が全部水の泡になるわけじゃない。だから気にすんな。帰ったら、もっとちゃんとした格好いい依代を、またおれが用意してやるよ」


 信じられないものでも見たように、有毅の目が見開かれた。と、次の瞬間には噴き出し、口を押さえて大笑いをした。


「すっごい口説き文句だなぁ、それ。さすが過ぎでしょ」

「うっせ。なんにも口説いてないっての。これは、決意表明ってやつだ」


 有毅が腹を抱えてあんまり笑うものだから、隼はややへそを曲げて目をすがめた。有毅は涙さえ浮かべるほどひとしきり笑い、やがて目元を拭ってようやく息を吐き出した。


「そういうことにしておくよ。……ありがとう」

「おう」


 有毅の頭をくしゃりと最後にひと撫でして、隼は数歩下がった。


「それにはとにかく、有理沙をとり戻さないとな」


 言いながら、隼は膝に手を当てて屈伸を始めた。有毅をかついでの全力疾走から、思いつくままに行った有毅を祭る儀式でかなり消耗してはいたが、ひと眠りしたお陰で頭はすっきりしていた。空腹と喉の渇きはあっても、まだ動くことはできる。ともすればぎくしゃくしそうな関節と筋肉を、隼は念入りなストレッチでほぐしていった。


「次はどうやっていく? 同じようには無理だろう」


 上体を左右に曲げながら隼が問うと、有毅は背中を向けて空を仰いだ。


「輝夜殿に直接乗り込もう」


 頭上へと、有毅が手を掲げる。その白い指先に、ススキの原を跳ね回っていた折り紙ウサギが舞い戻った。


「ちょっと下がってて」


 有毅に言われて、隼は準備運動を中断して後ろへとさがった。なにをする気かと見詰める隼の前で、有毅の指先にいた折り紙ウサギが高く飛び上がる。その動きを、隼は思わず目で追い駆けた。

 折り紙ウサギの小さな影が、空に浮かぶ地球に重なる。それを頂点に、今度はゆっくりと降下を始めた。小さかった影が、地面に近づくにつれ大きくなる。近づいているのだから大きく見えて当然だが、その速度に違和感を覚える。それが本当に折り紙ウサギが大きくなっているからだと隼が気づいた時には、人の身の丈は軽くあるウサギが目の前に着地した。


「どぇえ!」


 仰天する隼を気にもとめずに、有毅はウサギの額を軽く叩いた。着地の衝撃はないようだったが、ウサギが身じろぎするとかさりと音が鳴るので紙製なのは確かだ。皺や泥汚れもそのままな有毅の依代は、隼の前で伏せるように身を低くした。


「背中に乗って。輝夜殿までなら一瞬で着ける」


 有毅は当然のように言ったが、隼は目の前のできごとが信じられずに顔を拭った。


「まじか……」


 自分はとんでもないことをしたのかもしれないと、今更のようにひるんだ心地になる。しかし一方で胸の高鳴りと期待も強くあり、隼は深呼吸して心を決めた。


「よし、いこう」
 一面の田畑が見渡せる小屋の前に、ウサギたちが集まっていた。瓦屋根の乗った小屋と畑の間には、しっかりと踏み固められた広場がある。その中央に、頑丈な木枠に三つの大きな歯車がついた装置が置かれていた。歯車は地面に対し水平に一列に連なっており、真ん中の歯車の軸が上に突き出している。軸には長い長い横木がとりつけられていて、それを何羽ものウサギで協力して押せば、三つの歯車が連動してぐるぐると回った。

 装置の近くにいる一羽が竹糖(ちくとう)の束を拾い上げて、歯車の間に差し込んだ。竹糖はゆっくりと歯車に巻きとられ、つぶれた繊維となって装置の反対側から出てくる。そうして絞られた褐色の糖蜜の雫は、装置の下に置かれた桶へと落ちて溜まっていく。

 横木を押すウサギたちは、息を合わせるように声高く歌った。


 いろはに金平糖 金平糖は甘い
 甘いはお砂糖 お砂糖は白い
 白いはウサギ ウサギは跳ねる
 跳ねるは水玉 水玉は青い
 青いはオバケ オバケは消える
 消えるは燈籠(とうろう) 燈籠は光る
 光るはお空のお星様


 こうして圧搾された糖蜜は小屋の中で煮詰め、茶褐色のどろりとした白下糖(しろしたとう)呼ばれる状態で甕に溜めて冷却される。それを麻や木綿で包んで加圧と研ぎを繰り返すことで、乳白色の砂糖へと精製されるのだ。

 小屋の前に立つツクヨミは空気に溶け込む甘い香りを感じながら、陽気に作業をするウサギたちを微笑ましく眺めていた。

 こうした技術や知恵は、人の世からきたウサギたちによってもたらされたものだ。ツクヨミにできないことが必要になったら、できるものを人の世で見つけて連れてこればいい。月の国は、そうして少しずつ大きくなってきた。ウサギが増え、さらに都が大きくなれば、衣兎が求める暮らしをさせてやれる。そしてウサギを増やすには、つつがない営みを支えてやる必要があった。

 ツクヨミは、ウサギたちのなすことに目を配り、声に耳を傾けることを惜しまなかった。それがひいては、衣兎のためになる。


「ツクヨミ様」


 小屋から顔を出したウサギに呼ばれ、ツクヨミは斜め下へと顔を向けた。薄墨色の小柄なウサギが、木綿に乗せた乳白色の塊を抱えて立っていた。のし餅のように平たく固められた砂糖を、薄墨ウサギは得意そうに掲げた。


「見てください。わたしが初めて研がせて貰ったお砂糖ができあがったんです」


 期待の眼差しで見上げてくる薄墨ウサギにツクヨミは微笑み、目線を合わせるように身を屈めた。


「きめ細かくよい色だ」


 穏やかに言いながら、欠けた端の小さな欠片を拾い上げて口へと運ぶ。欠片はすんなりと舌の上で溶け、まろやかな甘みが口内に広がった。


「よくできている」


 ツクヨミが褒めてやれば、薄墨ウサギは照れくさそうに目を細めて髭と耳をそよがせた。


「よかったらこれは、このまま輝夜殿にお持ちください」


 薄墨ウサギの提案に、ツクヨミは少しだけ目を見開いた。


(なれ)が初めて作ったのだろう。自分で使わなくてよいのか」

「自分のはまだありますし、これは特に綺麗にできたんです。だから、ツクヨミ様と衣兎様に差し上げたいんです」


 どこかあどけなく薄墨ウサギが言い、ツクヨミは笑みを深めて額の毛並みを撫でてやった。


「ありがとう。衣兎も喜ぶ」


 薄墨ウサギはいかにも嬉しそうにツクヨミの手の平に頬を擦りつけてから、小屋の中へと体を向けた。


「持っていけるように包んできます」


 跳ねる軽快さで、薄墨ウサギが小屋の中へと駆けていく。ツクヨミはそれを見送って体を起こし、竹糖の圧搾作業へと目を戻した。

 ぎいぎいと音をたてて圧搾機の歯車が回る。さらに高く響き渡るウサギたちの歌声を聞きながら、ツクヨミは胸元の珠飾りを指でもてあそんだ。

 ウサギたちは無欲で働きものだ。しかしこれは、ツクヨミの意図によるものではない。

 衣兎の望む暮らしをさせてやるには、ツクヨミが持たない人の知恵と技術が必要だった。しかし人との接点を持たせたくないゆえに、衣兎の名でもあるウサギに変えた。

 ウサギとなった者たちは人としての記憶と共に、人らしい感情も失っていった。人ならば当たり前に持つだろう他者への恨みや嫉妬、おおよそ悪意と呼べるものはないと言えるだろう。人の世からきた者よりも、月で生まれたウサギたちの方がその傾向はわずかながら強く表れた。代を重ねるほどに、本物のウサギへと近づいているのかもしれない。なぜそうなったかはツクヨミにも分からなかったが、知恵を伝える者を呼び込んで絶やさぬようさえすれば、都合がよいのは確かだった。


「ツクヨミ様、お待たせしました」


 小屋の中から薄墨ウサギが戻ってきた。ツクヨミは身を屈め、小さな前脚が差し出す木綿袋を受けとった。真っ直ぐに向けられる期待の眼差しに応えるように、袋を持たない方の手で柔らかなの毛並みを撫でてやる。薄墨ウサギは気持ちよさそうに、うっとりと目を細くして耳を寝かせた。

 人に近しい知恵を持ちながら、ただ純真に、主人としてツクヨミを慕う動物。だから安心して衣兎のそばに置ける。愛する者は、一切の悪意から遠ざけべきなのだから。

 ツクヨミのそばにさえいれば衣兎の幸福は約束される。そうでなくてはならないのだ、と強く思いながら、ツクヨミは作業に打ち込むウサギたちと別れて輝夜殿へと戻った。





 寝殿(おもや)に上がると、下仕えのウサギたちがツクヨミを出迎えた。足をぬぐっている間に、板の間に畳を敷かれ、麦湯(むぎちゃ)が運ばれてくる。ツクヨミもウサギたちを労いながら、いつも通りに腰を落ち着け体を休める。輝夜殿の主人たるツクヨミの帰宅に合わせ、毎度行なわれる一連の流れ。しかし今回、わずかな違和感がツクヨミの中で引っかかった。

 ウサギたちが緊張したように耳を立て、落ち着かなげな様子を見せている。ツクヨミは、麦湯(むぎちゃ)を持ってきた生成色のウサギに声をかけた。


「わたしの留守中、なにかあったか」


 声の届く範囲にいたウサギたちが一斉に毛を膨らませ、あからさまに狼狽えた。


「あ、あの、その、えっと……」


 声をかけられた一羽は、慌てふためいて視線を右往左往させた。これほどウサギたちが動揺することは滅多になく、ツクヨミの目元が自然と厳しくなる。ウサギたちがとり乱すほどのできごととはなんだろうとツクヨミは考え、ふと、一つの答えにいき着いた。


「衣兎はどうしている」

「ひゃっ」


 ツクヨミが言い切る前に、生成ウサギは怯えた声を上げて体を丸めた。途端に、ツクヨミの中でなにかが波立った。荒々しく立ち上がったツクヨミにウサギたちは悲鳴をあげ、床に叩きつけられた湯呑が割れる甲高い音が響いた。


「衣兎はどうした」


 低められたツクヨミの声に、普段の穏やかさは微塵もなかった。

 生成ウサギは膝が立たぬほど震え、何度も口を空回りさせながらようやく答えた。


「あのあの、その、いい、衣兎様は、ご不在です」


 ツクヨミの目が、鋭利に細まった。同時に、胸元の珠飾りの光が鮮やかさを増す。


「どこへいった」

「それが、その……分かりません」


 細められたツクヨミの目の奥で、不穏な輝きが揺らいだ。


「それで許されると思っているか?」


 空気の温度までをも変えるほど低い声に、悪意に慣れていないウサギたちは抱き合って怯え、生成ウサギも悲鳴をあげて床に伏せた。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! でも、本当に分からないんです」


 生成ウサギは顔を隠すように組んだ前脚のわずかな隙間から、片目でツクヨミを見上げた。冷え切った主人の表情に、慌てて再び顔を伏せる。萎縮していっぱいいっぱいになりながら、生成ウサギは苦労の末に小声で続けた。


「衣兎様が出かけられるところを見た者もいないのです。衣兎様はお一人で考えごとをされたいとわたし達に申しつけられて、それで……」


 生成ウサギはつばを飲み込み、顔を床に擦りつけるほど低くした。


「……消えて、しまわれました」


 空が白く閃き、雷鳴が轟いた。



 第三章 了
 低く唸るような遠鳴りを聞きつけ、(はやと)は折り紙ウサギの背中で天を仰いだ。頭上の空は相変わらず平坦な黒で、瑠璃色の星だけが存在を誇示している。しかし進行方向に目を移せば、とぐろを巻くように垂れ込める灰色の雲が見えた。


「天気が崩れそうだな」

「おかしい」


 なにげない隼の呟きに、後ろに乗っている有毅(ゆうき)がかぶせ気味に言った。


「月の国に雲が出るなんて」


 駆ける折り紙ウサギに振り落とされないよう注意しながら、隼は首を捻って有毅の方を見た。


「なにがおかしいんだ」


 有毅は固い表情で、前方の雲だけを見詰める。


「月の国に雲はないはずなんだ。雨が降らなくても水は湧くし、種を撒いて世話さえすれば農作物は育つ。そこに天気の影響は一切存在しない。ここはそういう場所だ。それなのに、どうして雷雲が……」


 雲が光った。青白い光が、縦に筋を描いた。


「落ちた!」


 隼が叫んだのと、轟音が耳をつんざいたのは同時だった。二人が向かう先に、赤い光が灯った。


「急げ! 輝夜殿に火が!」


 隼が言い終わる前に、折り紙ウサギは心得たように速度を上げた。

 再びやってきた月の都は、ウサギたちが右へ左への大わらわに駆け回っていた。悲鳴をあげて逃げ惑うウサギもいれば、桶に溜めた水を必死で運んでいるウサギもいる。彼らを飛び越して駆けつけた輝夜殿はそこだけが赤く染まり、塀の上で炎の穂先がちろちろと揺れていた。

 折り紙ウサギが高く飛び上がった。輝夜殿全体を見渡せるほど高く飛び、風に乗ってゆっくり降下する。素早く目を巡らせれば、最も火の手が大きいのが寝殿(おもや)であることが分かった。炎は腕を広げるように、渡殿(わたりろうか)を伝って対屋(はなれ)へと穂先を伸ばし、屋敷全体を包み込んでいく。外周は砂庭と池に囲われているので敷地の外まで燃え広がる懸念は少なそうだが、建物が燃え落ちるのは時間の問題と思われた。下仕えのウサギたちが命からがら、こけつまろびつ次々に飛び出してくる。ごうごうと地鳴りのように響いて聞こえるのが炎のあげる音なのか、あるいは雷鳴なのかも判然としない。

 折り紙ウサギが、池を渡る橋へと着地した。池は炎の色を水面に映し、赤く染まっていた。


有理沙(ありさ)はどこだ」


 折り紙ウサギの足元を我先に駆け抜けていくウサギの中にも、庭の隅で身を寄せ合うウサギの中にも、白ウサギの姿は見つからない。まだ建物の中にいるのだろうかと思い、隼は火柱をあげる御殿へと目をやった。

 炎を噴き上げる階の上に、白い人影があった。二度目の相対となる相手に、隼の表情は自然と強張る。燃え盛りきしむ御殿から出てきただろうツクヨミは、炎が見えてないかのように優雅な足どりで階を下った。火影(ほかげ)に浮かび上がる姿の威圧感は凄絶を極め、声を出せずにいる隼の背を汗が伝った。

 白砂の庭に降りたツクヨミが、据わった目で隼たちを見た。


衣兎(いと)を連れ去ったのは(なれ)らだったか」


 低音で発せられたツクヨミの言葉に、隼は訝しんだ。


「いと?」


 問い返した隼の声に反応するように、ツクヨミの胸元の珠飾りが光った。


「隼、つかまって!」


 有毅が叫ぶのと、折り紙ウサギが身をひるがえしたのは同時だった。刹那、轟音が隼の鼓膜を貫き、青白い閃光が網膜を焼いた。強い光に目が眩み、視界が失われる。ちらちらと視野を浸食する黒い斑紋をどうにかやり過ごしながら慎重に目蓋を開けば、目に飛び込んできたのは炎に包まれた橋だった。逃げるのが一瞬でも遅ければその炎の中にいただろうことに、隼は背中の汗がそのまま凍りついたような心地がした。

 ゆっくりと進み出てきたツクヨミが、炎を踏んで橋を渡り始めた。


(なれ)らがきたから、衣兎は消えたのだろう。どこにいる」

「一体なんの話をしてるんだ。人探しをしてるのはこっちだってのに」


 隼が呟く声で言えば、ツクヨミの据わり切った目が細まった。


「とぼけるつもりか」

「とぼけるもなにも、知らな――」

「隼、ちょっと作戦変更!」


 言い返そうとした隼を有毅が遮り、折り紙ウサギが勢いよく飛び上がった。慌てて折り紙ウサギの耳にしがみつきながら、隼は背後に非難の目を向けた。


「どうしたんだ急に! なんで逃げるんだ」

「戦略的退却! どうしてかは分からないけど衣兎様がいなくなって、ツクヨミがキレてるんだ。しかも、それがぼくらのせいだと思われてる。紙に火はさすがにまずい。いったん距離をとらないと」


 折り紙ウサギは輝夜殿の築地塀を飛び越えて着地し、往路よりずっと速く都の中心を駆け戻る。振り落とされそうになる体を、隼は必死で支えた。


「その()()ってのは誰なんだ」

「ツクヨミの奥方。ツクヨミは奥方を溺愛してるんだ」

「まじか……」


 かなり面倒な方向へこじれた事態に、隼はうんざりしてぼやいた。

 低い雷鳴が空気を震わせた。輝夜殿の上にわだかまっていた雷雲がとぐろを解き、都を覆うように広がっていく。雲が閃き、並木の柳が火を噴き上げた。


「うわぁ、やばいやばい」


 折り紙ウサギが飛び退くように跳ねる。有毅は焦った声をあげて、通りに面した長屋の屋根に折り紙ウサギを飛び乗らせた。道を右往左往するウサギたちを眼下に見ながら、折り紙ウサギは足を止めずに家々の屋根を軽快に飛び移る。

 何度目になるか分からない雷鳴が轟いた。一瞬前までいた家の屋根から火の手があがり、隼はさすがに肝を冷やした。通りから、ウサギたちの悲鳴が聞こえた。


「あいつ、町まで燃やす気か」

「それだけ我を忘れてるんだ。被害が広がる前に早く都の外に出よう」


 波立つ海原のようにきらめく瓦屋根の上を、折り紙の白ウサギは跳ねていく。そのあとを雷鳴が追い駆け、また火の手があがる。罪なきウサギたちの悲鳴にさいなまれながら、隼を乗せた折り紙ウサギは死に物狂いで都を駆け抜けた。

 連なっていた家が途絶え、折り紙ウサギは平坦な道に下りて速度を上げた。都を覆っていた雷雲は細くなり、首を伸ばすように折り紙ウサギを追い続ける。

 石畳の道が砂利道に変わり、幅員(ふくいん)が狭くなると共に景色が緑豊かな田畑へと移っていった。ウサギたちが丹念に育て上げた実りにさえ、雷は容赦なく降り注ぐ。

 地平に、銀にきらめくススキの原が見えた。あそこならば、他に巻き込むものもないように思われた。畦道を駆け抜けた折り紙ウサギは、ススキの斜面を一足でのぼり切るように高く飛んだ。

 跳躍した頂点を過ぎ、下降を始めた時だった。進行方向をじっと見据えていた隼は、ススキの花穂の合間に、白い影がちらと覗いたのを見つけた。


「有理沙!」
 地を這うように轟く遠鳴りが聞こえて、有理沙の隣を歩いていた衣兎が立ち止まった。先行しかけた有理沙が慌てて足を止めて振り向けば、衣兎は強張った顔を後方に向けていた。見開かれたその視線の先へ、有理沙もつられるように目をやる。

 後方の空に、高く伸びあがる灰色の雲があった。渦巻くようなうねりの間を青白い閃光が走り抜ける。光からわずかな間を置いて雷鳴が有理沙たちのところまで届き、鼓膜だけでなく全身の毛までびりびりと震わせた。痺れるようなその鳴動に、有理沙は不快さから髭を揺すった。

 衣兎の案内で、有理沙たちは輝夜殿を抜け出してきた。これまでにも衣兎はツクヨミの留守中にこっそり出かけたことはあったそうで、身支度さえできれば抜け出すこと自体は案外やさしかった。そういった事情から意外にも衣兎は裏道をよく知っていたが、逃げ出せたら、と考えたことはあっても、本当に逃げ出そうと決意して輝夜殿を出るのは初めてに違いなかった。

 白い(うちぎ)の裾を短くからって胸に懸帯(かけおび)をした衣兎の後ろをいきながら、実のところ有理沙は、逃走を持ちかけた責任として先を歩きたいと思っていた。とは言っても月の国にきて間がないゆえに致命的に土地勘がない。どうしても、衣兎に頼らざるをえなかった。顔見知りのウサギと出くわしても、衣兎が先を急いでいると言えば善良なウサギたちは誰もがなにも疑わずに道をあけてくれた。

 そうして大きな問題もなく都を出た一人と一羽の少女たちは、話し合った上でまずススキの原を目指した。隼の居場所はまるで分からなかったが、人の世から月にきた者が最初に降り立つ場所ならば手がかりがあるかもしれない。それに衣兎の話によれば、なんらかの行事がある時以外はススキの原にいく者は少ないから身を隠しやすいだろうとのことだった。

 雷鳴が聞こえたのは、大通りを避けて田畑をぐるりと回り込むように畦道を歩み、進行方向に銀のススキの斜面が見えてきた時だった。


「ツクヨミが気づいた……」


 白い袿を被った肩を悲痛に震わせて衣兎は呟き、縋るものを求めるように有理沙の方へ手を伸ばした。動揺から空を掻く指先を有理沙がつかまえてやれば、少女は小さな白ウサギにしがみつこうとするように草むらに膝をついた。握った手から怯えが伝わってきて、有理沙はなだめるように前脚で衣兎の前髪に触れた。


「落ち着いてください。まだ、なにも起きていません」


 今にも泣きそうに、衣兎は有理沙を見下ろした。


「ですが、あれはツクヨミの雷です。ツクヨミが、わたくしを探している」

「衣兎様」


 有理沙はできるだけ優しく呼んでやりながら、衣兎の手を握る力を少しだけ強めた。


「人の世に帰るんでしょう? ここで立ち止まったらすぐにつかまってしまいます。早く、隼たちを見つけないと」

「……そうですね」


 衣兎の声音はまだまだ怯えをはらんでいたが、有理沙の励ましでゆるゆると立ち直した。

 少女たちは手をとり合い、四季の入りまじる田畑の間を懸命に進んだ。その間も、彼女たちの意気地を折ろうとするように、背後では雷鳴が絶えず鳴り渡っていた。できるだけ振り返らないようにしながら畦道を抜け、ススキの斜面を踏みしめるようにのぼる。

 ひと際大きな雷鳴が空気を走り抜けた。その他一切の音がその一瞬に掻き消え、少女たちは悲鳴を上げて互いにとり縋った。のぼり切った斜面の上から恐る恐る振り返れば、遠く見えている灰色の雲が赤く照り映えていた。真っ黒な空の中で鮮やかに雲を染め上げている赤の正体に、衣兎が先に気づいた。


「都がっ!」


 衣兎の叫びで、有理沙もようやくなにが起きているか理解した。


「そんな……!」


 都が燃えている。距離があるので都のどこが燃えているかまでは見えないが、雲が赤く染まるほどの炎があがっているのだ。ただの火事であるはずがなかった。

 赤い雲は筋を描く稲妻を纏い、吠えるように轟音をあげ続けている。雲から地上へ閃光が走るたび炎の赤が濃さを増して、雷鳴の振動が有理沙たちのところまで打ち寄せた。

 膝から崩れるように衣兎が地面に座り込み、有理沙は慌ててその体を支えた。


「ツクヨミ、なんてことを……ウサギたちまで巻き込むなんて」

「こんなの、ひどい……」


 それ以上の言葉が、有理沙は見つからなかった。

 少なくとも有理沙が見てきたツクヨミは、ウサギたちによく気を配り、可愛がっているように見えた。だから衣兎を連れ出すことで怒りを買ったとしても、それほど悪い事態にはならないのではと思っていた。

 しかしそれはあまりに楽観的に過ぎたらしい。ツクヨミはかつてススキの原を焼き払ったように、そこに暮らすウサギたちもろとも都を焼き尽くそうとしている。ツクヨミにとって衣兎以外の命はどうでもいいのだと、話だけでは分かっていなかったことを思い知らされた気がした。

 衣兎が、真正面から有理沙の両肩をつかんだ。


「有理沙、戻りましょう。このままでは、ウサギたちが……」

「でも、それだと衣兎様が」


 衣兎を帰していいのか、有理沙は迷った。確かに衣兎さえ戻れば、おそらくツクヨミの怒りは収められるだろう。しかし、衣兎自身はどうなる。正気を失うほどの執着を見せる相手だ。本当に二度と逃げ出せぬよう、厳重に閉じ込めるくらいのことはするかもしれない。それだけはさせてはいけないと、有理沙は必死で考えを巡らせた。

 その時だった。すぐそばで少年の声がしたのは。


「有理沙、帰らないの?」
 有理沙たちが驚いて顔を振り向けると、目の前のススキの間から白ウサギが姿を現した。ススキを掻き分けてきたのなら音ですぐに気づきそうなものだが、絶え間なく轟き渡る雷鳴に紛れてしまったらしい。


「ユウキ、ついてきてたの?」


 白ウサギのユウキは答えず、静かさをたたえた赤い目で有理沙を見据えた。


「早く帰った方がいい」


 思いがけぬ者の出現に有理沙は息をのんだが、返すべき言葉はもう決まっていた。ユウキと同じ赤い目で、有理沙は弟を見詰め返した。


「もちろん帰るよ」


 ユウキは頬の毛を膨らませて目を細めた。


「それじゃあ、帰ろう。今すぐに」


 白い前脚をユウキが差し出す。有理沙はその指先をちらと見ただけで、とることはしなかった。


「あたしが帰りたいのはそっちじゃない。あたしは人に戻って、お父さんとお母さんのいる家に帰る」


 有理沙がきっぱりと言い切れば、ユウキは怪訝そうに首を傾げた。


「それは、帰らないってこと?」


 有理沙は首を強く左右に振った。


「違う。あたしは帰る。ねえ、ユウキも一緒に帰ろう。お父さんとお母さんは今でもユウキを探してる。隼だっているし、ユウキも独りでいなくてすむんだよ」


 自分で言いながら、その通りだ、と有理沙は思った。有毅の帰りを待っているのは、誰よりも両親なのだ。ユウキと共に帰ることができれば、おそらく有毅にまつわるなにもかもが解決する。

 有理沙は戸惑いを見せる衣兎からいったん離れて、ユウキに向き直った。


「ユウキ、一緒に帰ろう」


 期待を込めて、今度は有理沙の側から前脚を差し出した。しかしユウキの眼差しにあらわれたのは、不快げな色だった。


「有理沙がなにを言ってるか分からない」


 いら立ったように、ユウキは足を鳴らした。


「ぼくの家はここだ。有理沙の家もここだ。有理沙はここでぼくと一緒に暮らすんだ」


 飛びかかる勢いで、ユウキは有理沙の肩をつかんで引っ張った。引っ張られた肩がきしみ、有理沙は顔を歪めた。


「やめてユウキ、痛い!」

「有理沙はいっちゃだめだ。やっと一緒にいられるようになったのに、勝手に出ていくなんて絶対だめだ」


 ユウキは力を緩めず、有理沙は必死に前脚を突き出して抵抗した。


「ユウキ、乱暴はやめてください」


 衣兎も制止の声をあげて駆け寄り、もみ合う二羽の白ウサギの間に割って入ろうとした。二羽の間に腕を差し入れて引き離そうと力を込めたが、ユウキは決して有理沙を離そうとしない。衣兎は必死で考えた末に、ユウキの背後に回り抱き上げるようにわきの下を両手でつかんだ。ユウキの両足が浮き、有理沙をとらえる力がわずかに緩む。その一瞬で有理沙はどうにか拘束から抜け出す。しかし身をよじったユウキが、衣兎の腕を蹴りつけた。


「痛っ」

「衣兎様!」


 ユウキを手放し、蹴られた箇所を押さえた衣兎に、有理沙は咄嗟に身を寄せた。日焼けを知らぬ衣兎の腕に、爪の跡が痛々しく赤い筋を描いて、薄く血をにじませていた。


「怪我が……どうしよう」


 手当てをしなければと有理沙は慌てふためいたが、衣兎は素早く腕を引っ込めてほのかに笑ってみせた。


「これくらいなら大丈夫です」

「でも」

「本当に、平気ですから」


 重ねようとする言葉を封じられ、有理沙は耳を垂れた。けれど次の瞬間には湧きあがった怒りで耳をぴんと立て、有理沙はユウキに向かってわめいた。


「ユウキ、なんてことするの」

「だって、有理沙と引き離そうとするから」


 衣兎に怪我をさせてしまったことにひるんだのか、ユウキはややおよび腰になって反論した。有理沙は勢いづいて、だんっ、と強く足を踏み鳴らした。


「だってじゃない。女の子に怪我させて言いわけする気? ユウキ、どうしちゃったの。そんな風じゃなかったでしょ?」


 詰め寄る有理沙の剣幕に、ユウキは後ずさった。気圧されて身を縮めながら、それでも有理沙を見る眼差しだけは力を失わなかった。


「有理沙がいけないんだ。有理沙がぼくの分からない話ばかりして、どこかへいこうとするから。ぼくは悪くない」


 ユウキが早口に言い、有理沙は一瞬で頭に血が上った。ユウキの両耳をつかんで、ぐいと顔を近づけた。


「怪我させておいて、悪くないわけないでしょう!」


 ユウキは首をくすめて逃げ出そうとしたが、有理沙は耳を放さなかった。


「ねえユウキ、本当に分からないの? お父さんとお母さんのこと、本当に忘れちゃったの? 隼のことは覚えてるでしょう?」


 畳みかけるように問えば、ユウキは目を閉じて首を大きく振った。有理沙の前脚を強引に振り払い、ふらつくように数歩さがる。有理沙を見るために開いた赤い目は、うるんで揺れていた。


「分からないよ! ぼくはずっと有理沙を待ってたんだ。他は知らない。隼のことは顔を見た時には知ってる気がしたけど、どうして知ってるのか分からないんだ。おかしいんだ。ここでの暮らししか知らないはずなのに、ここ以外の記憶がある。みんなみたいに、都の暮らしも楽しめない。ぼくだけが楽しくない。ぼくだけ、みんなとなにかが違う。きっと有理沙がいなかったからなんだ。有理沙がきてくれて、やっとみんなと同じになれると思ったのに……なのに、別のぼくが出てきて、もっとおかしく……」


 叫び訴える声は次第に震え、やがてユウキはなにか堪えるようにうずくまった。顔を伏せる弟の姿が痛ましく映り、有理沙は胸を押さえた。

 有毅は幼い頃から、有理沙や隼に比べると大人しい少年だった。活発な二人について走り回っていたから運動は苦手でないようだったが、どちらかといえば室内で遊んでいる時の方が楽しそうだったし、有理沙が一緒でなければあまり外には出たがらない子供だった。一人ではどこにもいかないくせに、有理沙がいくならばどこへでもついてきたがった、とも言える。幼心に鬱陶しさを感じることがなくはなかったが、突き放すことをしなかったのは、有理沙にとって彼が双子の半身である意識が染みついていたからだ。

 その関係は、おそらく今でも変わっていない。有理沙はユウキにどんな疑念を抱いても、非情になることだけはどうしてもできない。ユウキは神隠しにあったあとも有理沙の姿をを求め続け、満たされない感情が長い時間の中で焦げついてしまったのだろう。そして有理沙がいたからこそ外に向いていた心は、生まれながらの性質に従って内へ向いてしまった。

 有理沙はうずくまるユウキの前に座り、背中にぺたりと寝た耳を撫でてやった。興奮して暴れたせいか、ユウキの耳はとても熱くなっていた。


「あたしもユウキがいなくなった時、すごく寂しかった。でも、あたしだけじゃない。お父さんもお母さんも、隼も、みんな寂しがったんだよ。今は分からなかったとしても、隼を見て少しでも思い出したことがあったなら、帰ったらきっと全部思い出せる。だから、衣兎様にちゃんと謝って、一緒にいこう。そしたらユウキも寂しい思いをしなくてすむから」


 諭す口調で、有理沙は言った。ユウキに届くと信じて、何度も耳を撫でてやる。辛抱強く寄り添い、ユウキの言葉を待ったが、なかなか反応を示さない彼に有理沙は少々焦れた。


「ねえユウキ、聞いてる? ユウキってば」


 こちらを向かせようと、ユウキの肩を揺すった。その勢いで白ウサギの体がぱたりと横向きに倒れた。ようやく見えた顔は、目が伏せられ、苦悶に歪んでいた。ごく細い呼吸にユウキの喉が笛のような音をたてるのを聞いて、有理沙は凍りついた。


「ユウキ!」


 叫びは、雷鳴に掻き消えた。
 有理沙はなにが起きたか分からず、混乱のままさらに強くユウキの肩を揺すった。


「ユウキ。どうしたの、ユウキ」


 力なく揺れるばかりのユウキの体に、押し寄せた不安が有理沙の心臓を痛いほどに叩く。ユウキはまったく反応を示さないかに見えたが、不意に低くうめいて弱々しく体を丸めた。


「ユウキ、苦しいの? お腹が痛いの?」


 夢中でとり縋って呼びかけていると、横から伸びてきた衣兎の手が有理沙の前脚を押さえた。


「あまり動かしてはだめです」


 厳しさをはらんだ声に止められ、有理沙は縋る相手を衣兎に変えて涙ぐんだ。


「衣兎様、ユウキどうしちゃったんだろう。どうして急に、こんな……」

「わたくしにも、分かりません」


 衣兎は動揺で息を詰まらせる有理沙の背中を数度撫でてから、横たわるユウキに触れ、耳に口を寄せた。


「ユウキ、聞こえますか。ユウキ」


 衣兎の声にも、ユウキは応えない。ときおりうめきながらか細い呼吸を繰り返すばかりの弟の姿に、有理沙の心臓は引き絞られた。

 恐慌する頭で、必死に原因を考える。ユウキに持病らしいものはなかったはずだ。では最近、なにがあったか。記憶を辿り、輝夜殿で隼がユウキを蹴り飛ばしたのを思い出す。あの時、隼の足はユウキの腹部に直撃しているように見えた。やはり外から見えないところに傷を負っていたのかもしれない。

 有理沙の恐怖を煽るように、心音だけでなく雷鳴までが大きくなり、鼓膜が痛んで耳鳴りがした。目を覚まさないユウキの姿に、有理沙の呼吸まで苦しくなってくるようだ。

 その時、予期しない方角から声がした。


「有理沙!」


 よく知る少年の声に、有理沙の意識が性急に引き戻された。はっとして空を仰げば、角ばった白いものが頭上を通過した。目を丸くする有理沙の前に降り立ったのは、大きな折り紙のウサギだ。一瞬不安を忘れるほど仰天した有理沙だったが、折り紙ウサギの背に乗る隼と有毅を見て、即座に現状を思い出した。


「隼!」


 有理沙が呼び返すと、険しかった隼の表情がやや和らいだ。


「よかった、見つけた」


 声に安堵をにじませた隼に対し、有理沙は切羽詰まって叫び返した。


「隼、ユウキの様子がおかしいの!」


 一度開いた眉間を隼は再びひそめ、有理沙の隣に横たわる白ウサギに気づいて顔を強張らせた。隼の肩口から首を伸ばすように、有毅も有理沙たちに顔を見せた。その瞳に哀切が覗き見えた気がして、有理沙の背筋を冷えたものが這い下りた。

 隼はウサギのユウキにはなにも言わないまま、硬質な表情で衣兎へと視線を移した。


「もしかして、その子がツクヨミの奥さん?」


 衣兎の幼い見た目のせいだろう。隼は怪訝さを隠さない声色で誰にともなく問うた。答えたのは、それまで呆然としていた衣兎自身だった。


「はい。衣兎と申します」


 隼はさらになにか言おうとするように口を開き、しかし間近で轟いた雷鳴に素早く口をつぐんで顔を上げた。

 耳をつんざく轟音と同時に、視界が閃光で真っ白になった。悲鳴をあげて、有理沙は身を伏せた。つかの間、視覚と聴覚が役目を果たさなくなり、痺れるような感触が毛皮の表面を走り抜ける。衝撃が去り、頭痛がするほどの耳鳴りに耐えながら恐る恐る目を上げれば、目の前のススキが広く薙ぎ倒されていて、その中心に、ツクヨミがいた。


「ここにいたか」


 穏やかに話すツクヨミしか知らなかった有理沙は、発せられた声の冷たさにぞっとした。真っ直ぐに向けられた冷徹な眼差しに、衣兎があえぐように息をもらす。


「ツクヨミ……」


 鷹揚な動作で、ツクヨミは手を差し伸べた。


「衣兎、こちらへきなさい。彼らは衣兎にとってよくない者だ」


 隼たちに目もくれず、ツクヨミは平板な声音で言う。衣兎は唇の端を引き結び、答えあぐねる間を置いてようやく声を発した。


「都は、どうしたのですか。ウサギたちは、無事ですか?」

「さて。わたしには分かりかねる」


 いかにも興味がなさそうにツクヨミが言い放ち、ユウキに寄り添っていた衣兎は勢い込んで立ち上がった。


「分からない? あれだけのことをしてですか!」


 衣兎は叫び、ツクヨミの背後に見える火影を指さした。

 ツクヨミに反論してみせた衣兎に驚いて、有理沙は少女の横顔を見上げた。衣兎が声を荒らげることがあるとは思わなかったのだ。怒りに打ち震えているかと思われた少女の眼差しは、隠しきれない恐れをにじませ揺れていた。少女の覚悟が有理沙にもうかがえる。

 雷雲は塊となってススキの原の上まで流れてきていたが、遠く見える地平は、いまだ衰えることのない炎を立ち上げ赤く燃えていた。ツクヨミは衣兎の示す景色にちらと目をやっただけで、心動かされた様子もなくすぐさま顔を戻した。


「衣兎がわたしから逃げなければ起きなかったことだ」

「それは……」


 言葉を失う衣兎に向かって、ツクヨミは改めて腕を伸ばした。冷たかったかんばせが、ふと柔らかく綻ぶ。あまりに鮮やかな表情の変化に、有理沙はかえって空恐ろしさを感じた。


「屋敷と都はまた造ればよい。ウサギはいくらでも連れてくることはできる。衣兎の望むものはすべて手に入れ、なんでも造ろう。わたしにはそれができるし、これまでもそうしてきた。なにも不満に思うことはないはずだ。わたしと共にいることが、衣兎の幸福になる」


 一方的に言い切るツクヨミに、有理沙もいよいよ黙っていられなくなった。初めて会った時や、輝夜殿で怪我をしたユウキに見せた優しさが偽りだったならば、あまりにいたたまれない。人として好ましいとさえ思っていたからこそ、裏切られたと感じられた。


「ツクヨミ様、そんな勝手な――」

「勝手に決めないでください!」


 悲鳴のように叫んで、衣兎が有理沙を遮った。感情の高ぶりに、衣兎の華奢な肩がわなないている。


「わたくしの幸福はわたくしが決めます。あなたに決められることではありません。お願いです、ツクヨミ。わたくしはあなたを嫌いになりたくありません。どうか、わたくしの話を聞いてください」


 祈るように、衣兎は体の前で両手を組んだ。ツクヨミの顔から再び笑みが消えた。差し伸べられていた腕がゆっくりとおろされ、目元が鋭利に細まる。


「やはり、好ましくない影響が出ているようだ。放っておかずに早く対処すべきだったらしい」


 ツクヨミの胸元の珠で五色の光が揺らめき、雷雲の唸りが大きくなった。

 力を失って、衣兎はくずおれた。少女の決死の訴えは、わずかもツクヨミに届かなかったのだ。なけなしの勇気はいとも簡単にへし折れ、衣兎は打ちのめされて両手をついた。


「衣兎様……」


 有理沙は思わず呼んだが、それ以上どう言葉をかけていいか分からなかった。

 打ちひしがれる衣兎の頭上を、折り紙ウサギが飛び越えた。隼と有毅を乗せた折り紙のウサギが軽やかに跳ね、ツクヨミと少女たちの間に着地する。柳眉をひそめたツクヨミと正面から向き合い、隼は大げさなため息をついた。


「他人の夫婦関係に口を出すもんじゃないと思って黙って聞いてたけど、さすがにこれ以上は無理だ」


 呆れて面倒がっているのが、声から明らかだった。それでも、目の前で困っている者を見捨てておけないのが、隼だった。次に発せられた彼の声は、幼なじみの有理沙ですら聞いたことがないほど低いものだった。


「最低だな、あんた」
 隼にとって他人の男女トラブルほど、どうでもいいものはなかった。芸能ニュースの熱愛だ離婚だと騒ぎ立てる報道にさえ、まるで関心が持てない。だから、ツクヨミと奥方のいざこざに巻き込まれたのだと分かった時には、とにかく面倒臭い以外の感想が出てこなかった。

 それでも、自分より年下に見える少女が大の男に追い詰められ傷ついているのを目の前にしてしまっては、さすがに看過はできない。よせばいいのに、と自分で自分に思いながら、隼はツクヨミの前へと出ていた。


「奥さんに逃げられてブチ切れるとか、はたから見てると大分やばいぞ」

「うわぁ、はっきり言うなぁ」


 真後ろにいる有毅が間延びした声で言ったが、否定をしないということは同意見なのだろう。それで勢いづいた隼は、攻め手を緩めることなく続けた。


「奥さんが話を聞いてくれって言ってるんだから、聞くくらいしてやればいいのに。どうも別れ話ってわけでもなさそうだしさ。無視はさすがにかわいそうだろ」


 隼が言葉を重ねるほどに、ツクヨミの眉間の溝が深くなっていた。冷ややかだった美貌が、みるみる憤怒に歪んでいく。怒ると言うことは図星なのだろうと、隼は勝手に解釈した。ツクヨミと最初に会った時にはなにを考えているか分からない男だと思ったが、とるに足らない高校生を相手に本気で怒りをあらわにするあたり、根はかなり大人げないかもしれない。


「子供が分かったような口をきく。わたしといることを選んだのは衣兎だ。衣兎は、わたしのそばにいなくてはならない。わたし以上に、衣兎を幸せにできる者はいないのだから」


 鳴りやまぬ雷鳴と紛うほどに凄んだ声だった。しかし隼は怖じ気づくどころか、ツクヨミの脅しつけるようなやり方を笑い飛ばした。


「分かってないのはあんただろう。この勘違い束縛野郎」


 隼が言い終わるか終わらないかの内に、折り紙ウサギが飛びすさった。轟音と共に降り注いだ稲妻が地面をうがつ。ススキの原の真ん中に火柱が立ち上がった。


「あっぶね」

「隼が煽るからだって」


 呆れたように言う有毅を、隼は一瞬だけ横目に見た。


「だって事実だろう」

「そりゃ、言いたくなる気持ちは分かるけどさ」


 有理沙の真横まで下がった折り紙ウサギの背で有毅と早口にやりとりしながら、隼は体の前に回したスポーツバッグの中を探り、引っ張り出した紙切れを足下の有理沙に投げた。


「これ持って離れてろ」


 有理沙は慌てて両前脚を伸ばし、ひらひらと舞う紙片が地面につくぎりぎりで受け止めた。


「これって、お(ふだ)?」

「雷よけ。気休めにくらいなるだろ。危ないからちゃんと離れてろよ」


 困惑しているだろう有理沙を見もせず粗雑に言い渡して、隼は折り紙ウサギの背で体勢を作り直した。


「有毅、いけるな」


 隼の背中に向けて、有毅はちょっとため息をついた。


「オッケー。正直、火は勘弁して欲しいんだけど、まあなんとかかわすさ」


 ぼやきながらも、有毅の声音によどみはない。頼もしい幼馴染みに感謝するように、隼は折り紙ウサギの首元を撫でた。


「一気にいくぞ」


 隼の宣言と同時に、折り紙ウサギが強く地面を蹴った。


 *☾


 高く跳ねた折り紙ウサギの背中を見送った有理沙は、投げ渡されたお(ふだ)を小さく折り畳んで、首からさげている子安貝の巾着に押し込んだ。隼たちが前に出てくれたことで、恐れるばかりだった思考が冷静さをとり戻して働き出した感覚がする。二人のようにツクヨミに立ち向かえなくても、できることはあるはずだ。

 巾着の口をしっかり閉じてから素早く顔を上げ、有理沙はうずくまっている衣兎の肩を叩いた。


「衣兎様。すぐに離れましょう。急がないと、火に囲まれてしまいます」


 うなだれたまま衣兎は、顔に落ちかかる髪の隙間からのぞくように力なく有理沙を見た。


「有理沙、わたくしは……」

「ツクヨミ様は、隼がきっとなんとかしてくれます。ユウキを運ぶのを手伝ってください」


 打ちひしがれる衣兎に役割を頼むことでどうにか励まし、有理沙は横たわるユウキの肩の下に前脚を差し入れた。ユウキはいまだ、苦しげな呼吸を繰り返していた。


「ユウキ、しっかりして。絶対に助けるから、もうちょっと頑張って」


 有理沙は息を吸って、ユウキの上体を抱き起こした。自分と変わらぬ体格の者を抱きかかえるのはかなりの重労働だ。有理沙が唸り声をあげながら苦労していると、横から伸びてきた手がそっとユウキを抱き上げた。反射的に振り向いた有理沙に、衣兎が頷く。衣兎の顔にはまだ悲哀の色が濃かったが、すぐには立ち直れずとも少しでも動こうとする姿に、有理沙はほっとした。


「ありがとうございます」

「いいえ。早くいきましょう」


 衣兎はユウキを赤子のように慎重に抱いて立ち上がった。

 落雷による火は、有理沙たちをとり巻き始めていた。有理沙が前に立ち、両腕の塞がった衣兎のためにススキをかき分け進む。後ろを気にしてちらとだけ振り返ってみれば、青い顔をした衣兎の背後に細く揺れる炎が見え、さらにその向こうで跳ねる折り紙ウサギの姿も目についた。折り紙ウサギが跳ねるのに合わせて、雲に閃光が走る。轟く雷鳴に首をすくめるように、有理沙は顔を正面に戻した。

 視界を黒煙が覆い始めた。どうにか振り払おうとするが、表皮を撫でる熱風で火が間近まで迫っているのが分かる。熱さで髭が縮れそうだと有理沙が思った矢先、目の前に雷の柱が突き立った。衝撃と轟音で、体が後ろへとなぎ倒される。何度もまばたきして鼓膜や網膜が痛むのをどうにか押さえつけながら顔を上げると、進行方向のススキの原は火の海に変わっていた。


「有理沙、こちらへ!」


 呆然とする有理沙を、衣兎が強く抱き寄せた。紐を解いた白い袿の中へと、ユウキ共に抱き込まれる。


「衣兎様」

「大丈夫です」


 心配する有理沙の呼びかけを、衣兎は素早く遮った。


火鼠(ひねずみ)の毛が織り込まれた衣ですから、燃えることはありません」


 だから大丈夫だ、という衣兎の額から汗が落ちる。燃えないとは言っても、炎の熱は確実に衣の中を蝕んでいる。有理沙も、自身の耳が熱をもっているのが感じられた。

 また、近くに雷が落ちた。


「衣兎様っ」


 悲鳴のように叫んで、有理沙はユウキ越しに衣兎へしがみつき、衣兎も二羽のウサギを抱く腕をきつくした。


「大丈夫、大丈夫です。ツクヨミが、わたくしを殺すはずがないのですから、わたくしといれば大丈夫です」


 衣兎の声は有理沙たちを安心させようというだけでなく、自身に言い聞かせているようでもあった。火の勢いは増すばかりで、いつまた雷が落ちるかも分からない。炎に巻かれるのが先か、雷に打たれるのが先か。どちらにしても、危機に変わりはなかった。

 その時、有理沙と衣兎に挟まれる形になっていたユウキが身じろぎした。有理沙ははっとして、その肩を慎重に揺らした。


「ユウキ、気がついたの?」


 顔を覗き込むと、固く閉じられていたはずの目がうっすらと開いていた。ユウキが目覚めたことは喜ばしくはあっても、安堵できる状況ではない。今起きなくても、という複雑な感情も心の隅にありつつ、有理沙はユウキを強く抱くように身を寄せた。その有理沙の前脚を、ユウキが弱々しく押しのけた。有理沙と衣兎の間で手足をばたつかせてもがき、抜け出そうとしている。


「ユウキ、出ちゃだめ」


 有理沙は暴れるユウキを押さえつけたが、どこからその力が出ているのか、足掻く彼を止め切れない。衣兎も腕に力を込めるも、ユウキはそれさえも無心に身をひねって脚で押しやる。

 暴れるユウキを必死で押さえている内に、彼の前脚に子安貝の袋の緒が絡まった。首が締まるのが分かり有理沙が息を詰めた刹那、袋の緒が切れる。あ、と思った時には、ユウキは袋の緒を絡みつかせたまま有理沙と衣兎の腕からするりと抜け出した。


「ユウキ!」


 ユウキが衣兎の肩を蹴り、真上に高く飛び上がった。

 青白い稲妻が一筋、白ウサギの上に落ちた。