「ドッペルゲンガー?」


 素っ頓狂な声で、隼は鸚鵡返(おうむがえ)しに言った


「ドッペルゲンガーって、もう一人の自分に会うと死ぬっていう、あのドッペルゲンガー?」

「そう、そのドッペルゲンガー。だから本当は、ぼくとウサギのぼくは会っちゃいけなかったんだ。月の国にきたら遭遇する可能性があるのは分かってたけど、まさかあそこで会うことになるなんて思わなかった。用心してぎりぎりまで隠れてたのに、意味なかったなぁ」


 だから輝夜殿までの道中は姿を消していたのか、と隼は納得したが、事前に言ってくれてもよかったのではとも思った。かといって今更とやかく言っても(せん)ないことなので、隼は話を掘り下げる方へ意識を向けた。


「でも、相手はウサギだろう。それでもドッペルゲンガーって言えるのか」


 隼が純粋に湧いた疑問をそのまま発すると、なぜか有毅が少し笑った。


「そう言われると確かにそうなんだけどね。ドッペルゲンガーって、現象としていくつか説や原因があるんだけど、その中に幽体離脱がある」


 有毅が平然と言ってのけ、隼は専門外の話にやや気後れを感じた。


「……またずいぶんオカルトな話になってきたな」

「ぼくと普通に話してる隼にそれを言う資格はないよ。隼だってオカルトなことしてるじゃん」

「それは、まあ、ごもっともで」


 隼が引き下がって口を閉じたので、有毅は気をとり直して続けた。


「ぼくは隼に呼ばれて抜け出た霊体なんだ。だからウサギのぼくが本来のぼくで、本体ってことになる。体から霊体だけが知らない間に抜け出ることは普通の人でも意外とあることなんだけど、眠ってる間や気づかない内に戻れば問題ない。でも、意識があるときに遭遇するとまずい。本来、同時に存在してはいけないものが互いを認識すると、競争が始まる」

「競争って、居場所をとり合うってことか?」


 重々しく、有毅は頷いた。


「本体は霊体が抜けたことを認識すると、急速に死へと向かい始めるんだ。だから霊体を吸収しようとする。霊体を戻すことができれば、死をまぬがれるから。霊体は本体に吸収されると二度と抜け出せなくなる。でも、吸収される前に本体が死ねばそのまま自由でいられる。だからなんだ、ドッペルゲンガーに会うと間もなく死を迎えるって言われているのは。本体か霊体、どちらかが必ず消滅することになる」

「有毅が消えかけたのは、ドッペルゲンガーの生存競争に負けそうだったってことか」

「そういうこと。なんだかんだ言っても、実体があるかどうかのアドバンテージって大きいんだ。でも、隼のお陰で状況が変わった」


 有毅の手の平から折り紙ウサギがふわりと舞い上がった。ウサギは背の高いススキの穂先に折り目を引っかけて乗り、さらに隣の花穂へと器用に飛び移っていく。有毅は銀のきらめきの中を跳ねるウサギを見上げた。


「ぼくは神霊になって新しい体も手に入れた。本体にとらわれなくなったんだ。だから――」


 一瞬言いよどんで、有毅は折り紙ウサギへ向けた眼差しをまぶしそうに細めた。


「おそらくウサギのぼくは、もう長くはもたない」

「それって、つまり……」


 息をのんだ隼に、有毅は続きを言わせまいとするように笑いかけた。その笑みはどこか悲哀じみていて、隼は胸苦しさを感じて口を閉じた。


「ごめん、隼」


 謝って、有毅がゆっくり立ち上がった。隼は黙ってそれを見上げる。


「隼は完全な状態でぼくを連れ戻すって言ってくれたけど、始めから無理だったんだ。完全に月の国のものになった体に戻る気もなかったし。……本当のことを言えなくてごめん。でも、隼がぼくのために頑張ってくれてるのは嬉しかった」


 ススキの綿毛が、二人の間を舞った。銀の綿毛が有毅から発せられる儚い輝きのようで、互いの属する場所が隔たったのだと、隼は視覚的に見せつけられたような気がした。けれどそこに立っているのは、物心ついた時から見てきた幼馴染みの姿に相違ない。

 隼は勢いをつけて立ち上がると、自分より少し背の低い有毅の頭に手を乗せた。柔らかな髪の感触はするが、やはり人らしい温度は感じられない。

 怪訝に見上げてくる有毅に、隼は口の片端を上げた。


「別に、努力が全部水の泡になるわけじゃない。だから気にすんな。帰ったら、もっとちゃんとした格好いい依代を、またおれが用意してやるよ」


 信じられないものでも見たように、有毅の目が見開かれた。と、次の瞬間には噴き出し、口を押さえて大笑いをした。


「すっごい口説き文句だなぁ、それ。さすが過ぎでしょ」

「うっせ。なんにも口説いてないっての。これは、決意表明ってやつだ」


 有毅が腹を抱えてあんまり笑うものだから、隼はややへそを曲げて目をすがめた。有毅は涙さえ浮かべるほどひとしきり笑い、やがて目元を拭ってようやく息を吐き出した。


「そういうことにしておくよ。……ありがとう」

「おう」


 有毅の頭をくしゃりと最後にひと撫でして、隼は数歩下がった。


「それにはとにかく、有理沙をとり戻さないとな」


 言いながら、隼は膝に手を当てて屈伸を始めた。有毅をかついでの全力疾走から、思いつくままに行った有毅を祭る儀式でかなり消耗してはいたが、ひと眠りしたお陰で頭はすっきりしていた。空腹と喉の渇きはあっても、まだ動くことはできる。ともすればぎくしゃくしそうな関節と筋肉を、隼は念入りなストレッチでほぐしていった。


「次はどうやっていく? 同じようには無理だろう」


 上体を左右に曲げながら隼が問うと、有毅は背中を向けて空を仰いだ。


「輝夜殿に直接乗り込もう」


 頭上へと、有毅が手を掲げる。その白い指先に、ススキの原を跳ね回っていた折り紙ウサギが舞い戻った。


「ちょっと下がってて」


 有毅に言われて、隼は準備運動を中断して後ろへとさがった。なにをする気かと見詰める隼の前で、有毅の指先にいた折り紙ウサギが高く飛び上がる。その動きを、隼は思わず目で追い駆けた。

 折り紙ウサギの小さな影が、空に浮かぶ地球に重なる。それを頂点に、今度はゆっくりと降下を始めた。小さかった影が、地面に近づくにつれ大きくなる。近づいているのだから大きく見えて当然だが、その速度に違和感を覚える。それが本当に折り紙ウサギが大きくなっているからだと隼が気づいた時には、人の身の丈は軽くあるウサギが目の前に着地した。


「どぇえ!」


 仰天する隼を気にもとめずに、有毅はウサギの額を軽く叩いた。着地の衝撃はないようだったが、ウサギが身じろぎするとかさりと音が鳴るので紙製なのは確かだ。皺や泥汚れもそのままな有毅の依代は、隼の前で伏せるように身を低くした。


「背中に乗って。輝夜殿までなら一瞬で着ける」


 有毅は当然のように言ったが、隼は目の前のできごとが信じられずに顔を拭った。


「まじか……」


 自分はとんでもないことをしたのかもしれないと、今更のようにひるんだ心地になる。しかし一方で胸の高鳴りと期待も強くあり、隼は深呼吸して心を決めた。


「よし、いこう」