この鎮守の森に、ウサギなどいただろうか。これだけ自然が豊かならば、たまたま有理沙が目撃していなかっただけで昔からいたのかもしれない。けれどウサギが、自身の体と変わらない大きさのボールを持てるほどたくましい動物だったとは、ついぞ知らなかった。

 じっとこちらを見る小さな目がまばたきしたので、有理沙もつられてまばたいた。

 途端に、ウサギがくるりと体を反転させた。有理沙に背中を向け、後足二本で猛然と駆け出す。サッカーボールを持ったまま。


「あっ、ちょっ、ちょっと待って!」


 有理沙は焦って、藪の間に消えようとする黒い背中を追った。

 藪の合間を跳ねるように、ウサギは駆けた。有理沙は何度もその姿を見失いそうになりながら、波打つ葉と葉擦れの音を頼りにかろうじて追い駆ける。

 ウサギは二本脚で走る生き物だっただろうかという疑問は、今の有理沙にはどうでもよかった。とにかく早く捕まえて、ボールをとり返さなければ。

 ウサギがクマザサの藪を抜けた。視界が開け、これで見失わずにすむと思いきや、障害物がなくなった分だけウサギの足が早くなった。


「待ちなさい! 待てこら!」


 声をあげてはみるが、それでウサギが待ちはしない。地面で波打つシイの根に何度も足をとられかけつつも、有理沙はウサギを視界からはずさないことに意識を集中させて走った。

 視野が翡翠色に染まり、竹林に入ったことが分かった。青竹を透かして瑞々しさを帯びた西日の中を、ウサギは迷わず駆けていく。ボールを抱えたその背中は無邪気な童子のようにも見えて、有理沙は胸の内に小さなざわめきを覚えた。

 正面を走っていたウサギが、地面に消えた。しまったと思い、有理沙は慌てて走るスピードを上げた。

 ウサギが消えた場所は緩い傾斜になっており、一部が竹の地下茎の露出した階段状になっていた。段差の先はまたしばらく竹林が続き、再びシイの森へと繋がっていく。有理沙は段差を飛び降りて視線を巡らせたが、ウサギの姿はどこにも見当たらなくなっていた。


「参ったなぁ」


 ぼやいてみても、見失ってしまった事実は変わらない。ボールが見つからなかったと言っても怒られはしないだろうが、どうにも後味が悪く思えてしまう。しかし、ウサギに持ち去られてしまったとなってはやはり簡単に見つかる気はしない。ひとまず戻ろうと、有理沙はきびすを返した。

 ふと視界に、黒々とした穴を見つけた。たった今、有理沙が飛び降りた地面の段差。ちょうどその場所に、地下茎に縁どられた穴が、ぽっかりと口を開けていた。

 こんな場所に穴があった記憶はない。おそらく最近できたものなのだろう。


「……もしかして」


 ウサギの巣穴かもしれない、と有理沙は期待した。ウサギがどのような場所に巣を作るのか正直よく知らなかったが、地面に穴を掘る動物であることは間違いないはずだ。これが巣穴であるならば、さっきのウサギが中にいる可能性はある。

 驚かせて逃がしてはまた追い駆けっこをするはめになるので、有理沙は足音を忍ばせて穴に歩み寄り、覗き込んだ。

 穴の入り口は、竹の地下茎に支えられてそれなりにしっかりして見えた。幅は有理沙の肩よりもやや広いので、中に入れないこともないだろう。けれど穴の中は墨を流し込んだように真っ暗で、様子がまったく伺えなかった。

 それでも有理沙は少しでも生き物の気配を探ろうと、地面に両膝をつき、穴の中へと身を乗り出した。

 その時だった。

 とん、と。誰かが有理沙の背中を押した。


「えっ」


 思わぬことに驚いた、ほんの一瞬の間。悲鳴をあげる(いとま)もなく、有理沙の体は穴へと吸い込まれた。

 穴は狭いはずなのに、なにかにぶつかったり擦れたりする感覚はなかった。なにもない空中に、体が放り出されたようだ。ジェットコースターに安全バーをしないまま乗ったら、こんな風になるのかもしれないと、妙に冷静に考える。

 視界は墨や漆の色よりもさらに暗く、落ちただろう穴の入り口も、もう見えなかった。上も下も分からず、自分は本当に落ちているのか、あるいは飛び上がっているのかも判然としなくなってくる。

 不意に、光が差した。有理沙が落ちていく先に、淡く光るものが見える。穴の底だろうかと思った瞬間、光が一面に広がり、幕を引きはがすように暗闇が消えた。そして目の前に、茶色い地面が見えた。

 驚く間もなく、有理沙の体は地面に投げ出された。


「あいたっ」


 仰向けにひっくり返り、なにが起きたのか分からないまま、有理沙は呆然と伸びた。腰を打ったのか、背骨の下の方が痺れたように痛んでいる。身じろぎすれば、厚く折り重なった草が体の下で乾いた音をたてた。深く茂った草が落下の衝撃を多少なりとも和らげてくれたのならば、不幸中の幸いと言えるかもしれない。

 自分の中の衝撃が過ぎ去るのを待って、有理沙は慎重に起き上がった。


「いたたた……」


 やはり腰を打っているらしい。ひどく傷めてなければいいのだけれど、と思いながら腰を押さえ、有理沙はようよう立ち上がって顔を上げた。そして一面に広がる銀色の野原に、言葉を失った。

 見渡す限り果てなく見える、ススキの原だった。

 ススキは有理沙の目線ほどの高さがあった。茎の一本一本が獣の尾に似た豊かな花穂をつけ、銀色に輝きながら波を描きそよいでいる。揺れた穂先から綿毛が舞うたび、野原の上をさやかなきらめきが走り抜けるようだった。その眺めが、地平線の彼方まで続いてた。

 ここがどこなのか疑問に思いつつも、有理沙は感嘆せずにはいられなかった。


「うわあ、すごい!」


 地平線に見える空が夜の色をしていて、有理沙は頭上を仰ぎ見た。

 空は、有理沙が落ちた穴と同じに黒かった。とはいっても完全な闇ではなく、大きな青い月が高い位置で輝き、ススキの原を照らしている。

 月は本当に青かった。青白い月というのはあるものだが、それにしても、これほど鮮やかな瑠璃色になることがあるだろうか。さらには青と混じり合うように白が渦を描いてまだら模様を作っており、月とはこんな風だったろうかと、有理沙はちょっと首をひねった。

 よく考えてみれば、穴に落ちて月が見えるというのもおかしな話だ。穴が別の場所に通じていたとして、入口となった神社の近辺にこんな原っぱはなかったはずだ。

 顎に手を当てて有理沙が考え込んでいると、人の声が鼓膜をかすめた気がした。はっとして振り向くが、そこにはススキが茂るばかりで人の姿はない。それでもじっと耳をすませていると、再び声らしきものが有理沙の耳朶(じだ)に届いた。やや甲高さのあるそれは、子供の声のようだ。幼い子供ならば、背の高いススキに阻まれて姿が見えなくても不思議ではない。

 有理沙は声のする方角を見定めると、ここがどこなのかの答えを求めて、銀色の野原へ分け入った。