かぐやの国のアリス

 月の国には、昼も夜もない。空の色は移ろうことなく常に暗い。ゆえに、そこに暮らすウサギたちは好きな時に寝起きし、好きな時に食べ、好きな時に働いている。

 それで日々の営みがつつがなく巡っているのが有理沙(ありさ)には不思議に感じられたが、時間に縛られないというのも、それはそれで案外うまくいくものなのかもしれない。

 そんな場所であるから、月の国にきてどれくらい時間が経ったのか、有理沙にはまったく分からなかった。身に起こったことがあまりにも目まぐるしく、一日経っているのかいないのか、あるいはもう数日経っていることもあるかもしれない。

 親に心配をかけているだろうか。(はやと)がここに来たということは、少なくとも彼には気を揉ませているのだろう。それが分かったところで、今の有理沙にできることはなにも思いつかないけれど。

 そうして頭の中を駆け巡る思いを追い駆けながら、有理沙は目の前で傷の手当を受けているユウキを見詰めていた。

 銀灰色をしたやや年かさのウサギが、ユウキの背中の擦り傷に薬を塗っている。続いて正面に回って口の中を観察すると、銀灰ウサギは、うむ、と小さく唸った。


「問題なさそうですね。あとは、それだけ飲んでおいてください」


 銀灰ウサギは枕元に置いてある丸い盆を示した。そこには小振りの湯呑があり、緑に濁ったお茶に似た飲料が入っていた。


「またどこか痛むようなら言ってくださいね」


 事務的で淡々とした言葉にユウキが静かに頷くと、銀灰ウサギは立ち上がり、軽く会釈をして(へや)を出ていく。有理沙は会釈を返してそれを見送った。

 ちょっと息を吐いて有理沙が顔を戻せば、ユウキがさっそく湯呑をとり上げて口をつけていた。


「うっ……まずい」


 よほど飲めた味ではないだろうことが、ユウキの表情から伝わってきた。耳を垂れ、目をしばたかせながら、ちびちびと湯呑のふちを舐めている。やがて、らちが明かないと判断したのか目を閉じて、湯呑の中身を一気に喉へ流し込んだ。


「ううう……」


 ユウキが薬の味に身もだえする姿に、有理沙は思わずふと笑いをもらした。彼の子供っぽい仕草は、本当によく知る弟のものだ。よそいきに大人びた顔を見せはしても、やはりこうして一緒にいると内面の幼さが目につくように思う。


「ねえ、ユウキ」

「ん?」


 口をすぼめたおかしな表情のまま、ユウキが振り向いた。有理沙は今度は笑うことなく、慎重に言葉を選びながら続けた。


「さっきのことなんだけど」

「さっき?」

「隼が、きてたでしょ」


 もだえ震えていたユウキの動きが、ぴたりと止まった。つかの間、どこか気まずい沈黙が落ちる。有理沙がひるまずに見詰め続けていると、ユウキはまだ舌に違和感がある様子で口をもごもごさせながら湯呑を置いた。


「そうだね……うん、そうだ」


 まるで今思い出したような口振りで、ユウキは言う。有理沙は小さないら立ちを覚え、体の前に前脚をついて身を乗り出した。


「ユウキが飛びかかったのは、有毅(ゆうき)だった。ねえ、なにが起きてるの?」


 ユウキは有理沙を見詰め返した。ユウキが目を細めると、頬の毛がふっさりと膨らむ。


「うん。あれはぼくだ。でも大丈夫。あのぼくに有理沙は渡さない。分は、ぼくの方にあるんだ。ぼくが本物だから」


 有理沙は目をぱちくりした。


「どういうこと?」


 わけが分からない、と有理沙が眼差しでうったえると、ユウキは体ごと向かい合うように座り直した。


「向こうのぼくには体がない。ぼくから抜け出たものだから。お互いをはっきり認識したからには、もう同時に存在はできないけど、消えるのは向こうだ」


 ユウキは自身で理解してしまっているから、説明になっていないことに気づいていないらしい。しかしそれを問いただすより先に、有理沙は一つの言葉が引っかかった。


「消える? 有毅が消えるの?」


 ユウキが小さく笑った。


「消えるといっても、元に戻るだけだ。ぼくの中にあったものが、ぼくの中に戻るだけ。ぼくはずっと独りだったんだ。だから今度は、ぼくが有理沙と暮らす番。偽物はもう終わり」

「偽物……」


 確かに、有毅の姿は有理沙以外の人には見えなかった。けれど間違いなく、有理沙にとって唯一無二の双子の弟だった。そこへもう一人――もう一羽の弟が現れただけでも衝撃だというのに、ずっと弟と思って接していた相手が偽物だと言う。なにを信じて、どう感情を表現したらよいか、有理沙は分からなくなっていた。

 呆然とする有理沙の前で、ユウキは背筋を伸ばしてすっくと立ち上がった。


「帰ろう有理沙。いつまでもお邪魔してたらツクヨミ様に申しわけない」


 ユウキにうながされ、有理沙は頭がよく働かないままゆるゆると立ち上がった。前脚を引かれて、ユウキの白い背中についていく。


「ユウキ」


 寝殿(おもや)へ繋がる渡殿(わたりろうか)とぼとぼと歩きながら、有理沙はつい呼びかけていた。


「ん?」


 ユウキは足を止めることなく、声だけで応える。有理沙は一瞬だけためらって、問いを続けた。


「どこに帰るの?」


 今度こそユウキは立ち止まって、不思議そうな(まなこ)で振り返った。


「家に帰るんだよ?」


 よどみない赤色の眼差しに有理沙は軽く息をのみ、慌ててとりつくろった。


「うん、そうだよね。ごめん、変なこと聞いて」


 ユウキはちょっと首をひねったが、特になにも言わずに進行方向に向き直って再び歩き出した。有理沙は気づかれぬよう、そっとため息をついた。

 ユウキの言う家とは、有理沙がウサギになって最初に目覚めたあの家以外にない。有理沙自身もあれが自宅だと認識してはいる。けれど本当に帰る場所であるかと言われれば、途端に自信がなくなってしまう。

 胸の内のもやもやは、どうしようとも晴れそうにない。今は、すべてを話すと言った衣兎の言葉を待つしかないのだろうと、有理沙は覚束なく考えるのだった。
 衣兎の使者がやってきたのは、帰宅してほどなくだった。


「有理沙様はご在宅ですか」


 玄関の方から呼びかけられて有理沙が土間に顔を出すと、黒の毛に白の襟巻模様のあるウサギが戸口に立っていた。


「はい。ここにいますけど」


 有理沙が返事をすれば、襟巻模様のウサギは前脚を揃えてぺこりとお辞儀をしてから用件を告げた。


「衣兎様のお使いできました。お話ししたいことがあるそうで、有理沙様に輝夜殿までお越しいただきたいそうです」


 思っていたよりもずっと早い呼び出しに、有理沙は軽く瞠目した。慌てて返事をしようと口を開きかけ、ところが後ろから顔を覗かせたユウキに遮られてしまった。


「有理沙、出かけるの?」


 来客の姿を見ようとしてか、背中に貼りつくように身を乗り出してくるユウキを、有理沙は鬱陶しく押しやった。


「衣兎様がお話ししたいことがあるからきて欲しいんだって」


 引き剥がすように有理沙に部屋へ押し込まれたユウキは、機嫌を損ねることもなく髭をそよがせた。


「ぼくもいく」

「だめ」


 間髪入れずに有理沙が拒絶すると、さすがのユウキも気に障ったらしく口元を歪めた。


「なんで」

「なんでも」


 頬を膨らませるユウキにいかにも粗雑に返しながら、有理沙は内心で冷や汗をかいていた。うまく言いくるめて、ユウキの同行を阻止しなくてはいけない。


「空気読みなさい。衣兎様があたしを指名したってことは、女の子同士だからできる話がしたいってこと。女子トークに男子が参加するなんて野暮野暮。それとも、ユウキも女子になる? ユウキはあたしとそっくりだから、女の子になってもかわいいかもなぁ」


 なにせ双子だから、と思いながら有理沙は人間の有毅の女装に少しばかり思いを馳せてみた。有毅は同世代の男子にしては線が細いから、実際かなり似合うのではなかろうか。

 有理沙のよからぬ想像を察してか、ユウキは渋い顔をして沈黙すると、見るからに不満げながら引き下がった。


「……留守番してる」


 有理沙は作戦の成功を確信してにこりと笑んでみせた。


「そうそう。怪我してるんだから家で大人しくしてたらいいの。それじゃあ、ちょっといってくるね」

「いってらっしゃい」


 ユウキの見送りを受けて、有理沙はお使いウサギと共に家を出た。

 月の都は昼夜の感覚がないためその時々で開いている店が少しずつ違っていたが、通りの賑わいはいつでも変わらぬものだった。いき交うのはウサギばかりであるが、その言葉や立ち振る舞いは人となんら違ってはいない。その理由を考えて有理沙はぞっとしたものを感じ、歩きながら身震いした。

 輝夜殿に着くと、そのまま真っ直ぐ奥の対屋(はなれ)へと通された。途中で横切った寝殿(おもや)は整然としていて、確かにツクヨミは不在であるようだ。

 衣兎の(へや)は裏庭に面した御簾が巻き上げられていた。室内は相変わらず雑多なものであふれていたが、障屏具(しょうへいぐ)がないだけでずいぶんと開放的な印象になる。

 衣兎は、裏庭を見渡せる(えんがわ)に円座を敷いて有理沙を待っていた。床に広がる衣兎の衣は、春の若葉を思わせる萌葱(もえぎ)色をしていた。


「よかった。きていただけて」


 やってきた有理沙を見て、衣兎はほっとしたように頬を緩めた。

 お使いウサギにうながされるまま有理沙が衣兎の隣に座れば、別の側仕えのウサギがやってきて衣兎と有理沙の前に白湯を置いていく。側仕えの二羽がさがるのを待って、衣兎はさっそく有理沙へと体を向けた。


「あれから、なにかお口にされましたか」

「いいえ。飲みもの以外はなにも」


 質問の意図が分からなかったが、有理沙は素直に答えた。自宅でユウキからはあれこれと食べものをすすめられたが、考えることが多くてあまり食欲を感じなかったのだ。それを伝えれば、衣兎は息をつくように、そうですか、と呟いた。


「ここのものは、あまり食べない方がよいかもしれません。もちろん、無理はよろしくありませんが」

「もしかして、あたしがウサギになったことと関係が?」


 恐る恐る問えば、衣兎は憂うように眉間を曇らせた。しばらくためらうような間があり、有理沙が辛抱強く待ってようやく口を開いた。


「月の国のものを食べれば、体は月の国のものになっていきます。有理沙は、もうお気づきかもしれませんが……ここのウサギたちは皆、元は人です。誰もそのことを覚えていませんし、ここで生まれた子もおりますから全員ではありませんけれど」


 やはり、と思うと同時に驚きが胸の内に広がり、有理沙はつかの間息を止めた。有理沙も、隼の姿を見るまで人であったことを忘れかけていた。同じようにここのウサギたちも、ウサギとして過ごす内に人としての記憶が消えてしまったのだろう。


「どうして、ウサギに」


 かろうじて続けた問いは、息が足りずかすれた。それでも衣兎は聞きとれたらしく、ややうつむいて瞳を翳らせた。


「……わたくしのせいなのです」


 絞り出すようなか細い声で言い、衣兎は胸の前で両手を組んだ。


「すべて、わたくしが悪いのです。ツクヨミを止められない、わたくしが」
 衣兎は、平静を保とうとするように白湯をひと口飲んでから話を続けた。


「ツクヨミが人をウサギを変えて集めるようになったのは、わたくしが寂しがったからなのです」

「ツクヨミ様が、衣兎様のために?」


 つい繰り返した有理沙に、衣兎はゆったりと頷く。


「わたくしは元々、有理沙と同じ、人の世におりました。京の三条に父の屋敷があり、そこでツクヨミと出会ったのです。出会った頃のツクヨミはとてもお話しが下手で、なんとなくほうって置けませんでした」


 有理沙は目を丸くした。あれほど優雅に話し、立ち振る舞うツクヨミが、かつては話下手な青年だったなどまるで想像がつかない。

 有理沙の表情から言わんとするところを察してか、衣兎は淡く苦笑のようなものを浮かべた。


「わたくしと出会うまで、誰かと話すということをしたことがなかったようなのです。最初にツクヨミが、月からきたと言ったときには冗談だと思っていましたけれど。夜毎、人目を忍んで会いにきてくださる彼と話す内に、彼の言葉は本当なのだとわたくしも思うようになっていました」


 懐かしんでいるのか、衣兎は遠くを見るように目を細めた。


「だからわたくしは、家から逃げてツクヨミについてきました」

「逃げたって、家でなにか悪いことが?」


 有理沙が思わず問うと、衣兎は物思いにふけるように、手の中の湯呑のふちを指先で何度かなぞった。


「縁談が、あったのです。それまでにも、たくさんの殿方が(ふみ)や花を送ってくださってましたし、皆様それは立派な公達(きんだち)だともお聞きしておりました。でもわたくし、お顔も知らないような方から選ぶことなどできなくて……父が、痺れを切らしたのです」


 衣兎の雰囲気からかなり育ちがよいのだろうと有理沙は予想してはいたが、やはりその通りであったらしい。しかしまだあどけなさの残る衣兎に縁談とは、ずいぶんと行動の早い親だという印象を有理沙は受けた。


「あの、失礼を承知でお聞きするんですけど……それは、衣兎様が何歳の時ですか」


 衣兎は有理沙の質問を少々不思議がる様子で、首を傾けて答えた。


「十四の時です」


 本当にお姫様なのだ、と有理沙は確信した。衣兎の着ている十二単や屋敷の造りから、もしやとは思ってはいた。けれど古典も歴史も定期試験でよくて中の上程度の成績に入る知識しかないので、あまり自信がなかったのだ。それでも衣兎が千年前の姫君だとするならば、すべて納得がいく。当時の姫君の輿入れは、十三か十四が普通であったはずだ。月の都も輝夜殿も時代めいているのは、衣兎のために造られたものだからなのだろう。

 有理沙は生きてきた時代が違うので同じ感覚に照らしてはいけないのかもしれないが、連れ添いになるなら顔も知らぬ相手よりも、毎夜会っていたツクヨミの方が、となる気持ちは共感できる気がした。

 衣兎は、いつの間にか空になっていた湯呑を置いた。


「今でも、体は十四のままです。ここには昼も夜もありませんし、暦もありませんから、本当の年齢はすぐに分からなくなりました。少なくとも、もう人ではなくなってしまったのだと今では理解しています。でも……始めは、そうではありませんでした」


 顔を上げた衣兎の瞳に憂いが透けて見え、有理沙は彼女が泣くのではないかと思った。

 風が吹いて、衣兎の黒髪をさらった。庭の玉の木がきらめいて、枝が鈴音のように涼やかに鳴る。衣兎は風で乱れる髪を、撫でつけるように押さえながら続けた。


「わたくしが縁談を嫌って家から逃げたのは確かですが、ツクヨミを好きになっていたからこそ決めたことでした。でもわたくしは、ツクヨミと一緒になるとはどういうことか、まるで理解していなかったのです。なにもない月でツクヨミと二人きりの暮らしに耐えられなくなり、わたくしは――帰りたいと、願ってしまった」


 衣兎は首を巡らせて、庭へと視線をやった。白砂に植えられた玉の木が黄金色にまたたくように輝き、その奥ではヤマモモの木が濃い影のようにたたずんでいる。


「かつてここは、銀のススキの原しかありませんでした。ツクヨミがどこからか手に入れてくるものを食べ、今がいつかも分からぬまま眠るだけ。話せる相手もツクヨミのみ……幼かったわたくしはすぐに飽いて、京での暮らしが恋しくなってしまったのです。しかし、ツクヨミがそれを許してくれるはずがありませんでした――ツクヨミは怒り、雷でススキの原を焼きました」


 よほど恐ろしいできごとだったのだろう。衣兎は語りながら自身の肩を抱いて、身を震わせた。元々小柄な衣兎がさらに小さく見え、有理沙は思わずその細い肩に触れた。


「衣兎様は悪くありません。あたしだって、きっとそんな暮らしをずっとなんて続けられない」


 有理沙が励ますと、衣兎はすぐに震えを止めてふわりと笑んだ。


「ありがとうございます」


 気持ちを落ち着かせるように、衣兎は体を伸ばして深く息を吐いた。


「ツクヨミがウサギを連れてきたのは、それからすぐです。突然、いく羽ものウサギを連れてきて、焼野原となった場所にこの屋敷を建てさせ始めたのです。人のように話し、立ち働くウサギたちがとても奇妙で。このウサギたちはなんなのかとツクヨミに問うたら、京から腕のよい大工を連れてきた、と……それでわたくしは、彼がなにをしたか理解しました」

「最初のウサギが、大工?」


 あまりにも意外な気がして、有理沙は目を見開いた。衣兎はゆっくりとまばたきをして頷く。


「わたくしが京に帰りたがるなら、ここに京を造ればよいと考えたようでした。珍しいものを手に入れてはわたくしのところに持ってくるようになったのも、その時からです」

「でも、なぜウサギ?」


 屋敷や都を造ろうとして大工を連れてくるという発想までは、有理沙にも分かる。けれど、わざわざウサギの姿に変えてしまう必要があるのだろうか。
 有理沙の言外の問いまで汲んだように、衣兎は笑みを悲しげなものにした。


「ツクヨミは、自身以外の人の形をしたものが、わたくしの気を引くことをとても嫌悪しています。わたくしが人の姿を見たら、また人の世に帰りたがってしまうと思っているのです。人でないツクヨミと一緒になることへの覚悟がわたくしに足りなかったのだと言われれば、それは否定のしようもありません。そのせいで、ツクヨミに道を外させてしまったのですから……」


 この場にいないツクヨミの姿を見るように、衣兎は目を細くした。それは、夫を見詰める妻としての眼差しであるようだった。


「ツクヨミはとても真っ直ぐで純粋な方。まるで子供のように、わたくしの気を引こうとし、外へ目を向けることを決して許してくださらない。自分の目の届かぬ行動をわたくしがすることさえ強く厭《いと》う。そしてわたくしは、そんなツクヨミの怒りに触れることが怖くて仕方がないのです」


 今度は有理沙が震える番だった。

 ツクヨミが衣兎に注ぐ愛情は、本物に違いないのだろう。衣兎へ向けられる眼差しも表情も、愛する妻を慈しむ夫そのものだった。そして――その肥大化した感情に、衣兎は縛りつけられ、押しつぶされようとしている。

 絶句する有理沙の白い前脚を、衣兎が握った。


「有理沙は、わたくしの希望です。あなたはツクヨミの力から抜け出して、人としての記憶をとり戻しました。ならばわたくしも、いつかツクヨミから逃れることができるかもしれない。そう、思うことができるのです」

「希望……あたしが……」


 戸惑う有理沙に、衣兎は力強く頷いた。


「ユウキもそうでした。有理沙のように、はっきりと記憶を持っていたわけではありませんでしたけれど。双子の姉がいるのだと、いつも楽しそうに聞かせてくれました。わたくしも、ここ以外の場所の話を聞くのがとても楽しかったのです」

「ユウキが、そんなことを……」


 有毅が神隠しにあったとき、有理沙が寂しさで消えそうになってしまっていたように、ユウキも同じ思いをしていたのかもしれない。

 その後、有毅が戻ってきて有理沙は元気をとり戻したけれど、ウサギのユウキは有理沙の記憶だけを維持したまま寂しさの中にい続けていたのだろうか。そう考えると、ユウキに対する罪悪感のようなものが有理沙の胸に湧き上がった。


「有理沙に見せたいものがあります」


 衣兎は囁くように言って有理沙から手を離すと、立ち上がって(へや)へと入っていった。ところ狭しと並ぶ珍品を慎重に避けて、文台(つくえ)へと歩み寄る。そこに置かれた文箱(ふばこ)からなにかをとり出して、衣兎はすぐに戻ってきた。


「これを」


 再び(えんがわ)に座りながら、衣兎は白い緒の通された小さな巾着を差し出した。手の平に収まるほど小さなそれは、地紋のある銀杏色で、着物の生地で作られていることが見てとれる。様子をうかがいつつ有理沙が前脚を出すと、衣兎は白い毛並みの上へと巾着をそっと置いた。

 布と毛皮越しに、丸く固い感触が前脚に触れた。ちらと衣兎へ視線を向ければ、有理沙の行動を待つ様子でじっとこちらを見ている。

 有理沙は巾着を持ち直し、ゆっくりとその口を開いて中を覗き込んだ。巾着の底に、白い楕円形のものが見えた。
 有理沙にはそれが、小さな卵に見えた。しかし慎重に巾着からとり出せば、卵よりもずっと固く、磨き上げたように艶やかな表面が、ささやかな明かりまでも強く反射した。ひっくり返してみれば、殻を縦に割ったような裂け目があり、ぎざぎざと刻みの入ったふちを見せていた。


「これは……貝、ですか?」


 有理沙が自信なく問うと、衣兎はゆっくり頷いた。


「ツバメが産んだ、子安貝(こやすがい)です」


 ぽかんとして、有理沙は衣兎と前脚の貝とで視線を行き来させた。


「ツバメって、貝を産むんですか」


 有理沙の表情に、衣兎が思わずといった様子で笑った。


「実際には分かりません。ですがわたくしは、そうに違いないと思っています」


 衣兎は有理沙から庭へと視線を移したかと思うと、軒先を見上げるように顔を持ち上げた。


「ずいぶん昔のことになりますが、ここにツバメがきたことがあるのです。ここには本来、ウサギ以外の動物はいないはずですから、どこか人の世と繋がった時に、迷い込んでしまったのでしょう。ツバメはたった一羽で、(つがい)もないままこの軒に巣を作りました」


 今でもそこに巣があるかのように、衣兎は軒を見詰める。有理沙も誘われるように、同じ場所へと目をやった。空を真っ直ぐに切りとる軒先が筋状に木目を見せているだけで、ツバメの巣の痕跡はわずかも残ってはいなかった。


「ツバメは、どうなったんですか」


 続きをなかなか口にしない衣兎を、有理沙はうながした。衣兎は有理沙に視線を戻した。その顔は、これまで見た衣兎の表情でもっとも静かな穏やかさをたたえていた。


「いなくなってしまいました。巣の中に、その子安貝だけを残して」


 有理沙は、前脚に乗せた子安貝へと視線を落とした。


「だから、ツバメが産んだ貝」


 卵によく似た子安貝を前脚の上で転がしてみる。ひやりとした感触がするだけで、有理沙にはなんの変哲もない貝殻に見えた。


「ツバメはいなくなってしまいましたが、きっと元の世に帰ったのだとわたくしは思っています。だからその子安貝もまた、わたくしの希望です」


 有理沙は、はっとして顔を上げた。衣兎の表情は変わらぬ穏やかさで、ずっと瞳にあった憂いも今は鳴りを潜めていた。


「有理沙は、人の世に帰りたいですか?」


 急な問いに、有理沙は咄嗟に答えられなかった。

 月での暮らしが嫌かと問われれば、それは否と思う。周りのウサギたちは善良で優しく、時間に追われることもなく、これほど気ままに暮らせる場所は他にないだろう。

 けれど、と有理沙は考える。

 これまで暮らしてきた人の世も、有理沙は嫌いではなかった。クラスメイトと他愛ない会話をして、隼とどつき合って、有毅とあれこれ話ながらおやつを食べて宿題を片づける。試験や人間関係など面倒なことも多いが、そんな部分も含めて懐かしいと感じてしまっていることに、有理沙は不思議な心地になった。

 なにより脳裏をよぎるのは、両親のことだった。有毅がいなくなり、その上さらに有理沙までいなくなったらどうなってしまうのか。有毅の失踪で憔悴した親たちの姿を思い出し、有理沙は息が詰まった。

 どちらの暮らしも嫌ではないのなら、有理沙をより必要としてくれている者が多いのはどちらか、と考えるのは、ある種の自惚れだろうか。

 有理沙は、そっと子安貝を握った。


「……帰りたいです」


 長過ぎる沈黙のあとで有理沙がやっと答えれば、衣兎が笑みを深めた。慈愛に満ちたその笑みは、年相応の少女のようでもあり、温かに包み込む聖母のようでもあった。


「それは差し上げます。わたくしは無理でも、有理沙はきっと帰ることができるから」





 輝夜殿を退出した有理沙は、目抜き通りをとぼとぼと歩きながら、首にさげた小さな巾着に触れた。子安貝をなくさぬようにと、衣兎が巾着の緒を長いものにつけ替えてくれた。首からさげられれば、いつでも身に着けていられる。

 しかし有理沙は、衣兎が希望だと言ったこの子安貝を、本当に自分が受けとってよかったのかいまだ迷っていた。

 通りの真ん中で、有理沙は足を止めた。目抜き通りは両側に商店が並んでいるので、歩くだけならば中央の方が空いている。それでもやはり賑わいの中なので、急に立ち止まった有理沙にいく羽かのウサギが驚いて避けていく。

 物思いに沈んでいた有理沙は彼らへの気配りもできないまま顔を上げて、柳並木と、その向こうの黒い空を仰いだ。真上に浮かぶ大きな瑠璃色の星を目にとめ、その表面の複雑なまだら模様に見入る。それが地球で、人の世のある場所なのだと、今の有理沙にははっきりと分かった。

 衣兎は諦めた表情をしながら、あの空に見える人の世に帰りたくて仕方がないのだろう。だからどんなに小さな希望でも、見つけると手元に置かずにはいられないのだ。子安貝も、ユウキも、有理沙も。

 衣兎はツクヨミを愛すると同時に怯え、その手から逃れることを願ってもいる。その心は到底、有理沙には理解が及ばなかったが、このままではいけない、とだけは強く感じた。


(本当に希望があるとするなら――隼だ)


 ウサギになることなく、輝夜殿までやってきた幼馴染みの少年。彼は有理沙のように迷い込んだわけでも、連れてこられたわけでもなく見えた。だとするならば、自らの意思でやってきたということになる。なぜ彼が有毅と一緒だったのかは不明のままだが、彼らがまだ近くにいるならば、帰るためのヒントもそこにある気がした。

 有理沙は顔を正面に戻すと、くるりと回れ右をした。そうして体を反転させた勢いのまま石畳を蹴り、もときた道を駆け戻った。
 ウサギの群れに紛れるように、ユウキは目抜き通りの中央を歩いていた。留守番をすると有理沙に宣言はしたが、やはり気になって出かけてきてしまった。それでも一応はそれなりの時間を家で待ってはいたのだ。そろそろ衣兎との話が終わっていてもおかしくはないだろうし、迎えにいくという名目でなら輝夜殿の前までいっても構わないだろう。姉離れができないのかと、また有理沙に呆れられてしまうかもしれないけれど、ユウキにとっては気にするほどのことでもなかった。

 ユウキが有理沙と暮らした記憶は、彼女が月の都にやってくる以前には存在していない。それでも不思議とずっと、自分に双子の姉がいることはユウキの意識にあり続けていたし、自分とよく似た白ウサギを見て間違いなく有理沙だと思った。彼女がきて以来、都での暮らしで少なからず感じていた居心地の悪さがなくなり、ごく自然に会話を楽しめるようになっている。だからユウキは、他のウサギたちのように陽気になりきれなかったのは、姉が隣にいなかったからなのだと理解した。

 体の大きなウサギが前からきて、ユウキは柳の幹に身を寄せるように道を譲った。大きなウサギは笑って小さく会釈し、通り過ぎていく。気にする必要はないと言う代わりに会釈を返して、ユウキは歩行を再開した。

 月の国のウサギたちは総じて善良だ。誰も威張らないし、意地悪するような者もいない。すべてはツクヨミのお陰だ。ときおり新たに連れてこられるウサギが必ず善良であることはもちろんのこと、すべてのウサギが善良であれるように、ツクヨミは分け隔てなく心を砕いてくれている。そしてそれがすべて、奥方の衣兎のために行なわれていることも、ウサギたちはよく分かっていた。

 ふとユウキは、向かう先に白ウサギが立っているのに気づいた。柳並木を見上げている姿は姉に間違いない。いき違いにならずに会えたことにほっとして、ユウキは姉に声をかけようと右前脚を上げた。

 ところが、ユウキが声を出す前に、有理沙がこちらに背中を向けてしまった。姉はそのまま道を引き返すように駆け出し、置いていかれる形になったユウキは足を止めた。

 白ウサギの背中が遠ざかり、その他多くのウサギの合間へと消えていく。その光景に、ユウキはざらついた胸騒ぎを覚えた。脳裏をよぎるのは、輝夜殿に現れたもう一人の自分。

 姿が違っても、あれもまた自分の姿の一つであると、ユウキは見た瞬間に分かった。そして、有理沙を奪うものであることも確信した。だから決して、あれを近づけさせてはいけない。

 ユウキは髭を震わせると、有理沙を完全に見失う前に、その背中を追い駆けた。


 *☾


 全力疾走で輝夜殿まで引き返した有理沙は、案内を待つことなく黄金色の庭木の間を駆け抜けた。築地塀にそって大きく建物を回り込み、正面の池へと引かれた川を飛び越える。下仕えのウサギたちの目を避けて目指すのは、奥の対屋のある裏庭。

 裏庭から見た対屋(はなれ)は先ほど有理沙がいたときのまま、御簾が巻き上げられて室内まで見渡すことができた。有理沙が使った湯呑や円座は片づけられているようだったが、衣兎はまだ(えんがわ)に座り、物思いにふける様子で庭を眺めていた。

 有理沙が木の陰から進み出ると、白砂を踏む足音に気づいた衣兎が振り向いた。


「有理沙?」


 意外そうに呼びかけた衣兎に有理沙は頷いて、早足に歩み寄った。衣兎は立ち上がって有理沙を出迎え、庭へと降りる階まで進み出る。


「どうしましたか? なにか忘れものですか?」


 有理沙は首を横に振り、階をあがって衣兎の前に立った。


「いいえ。衣兎様と、どうしてもお話ししたいことがあって」


 有理沙の固い声に衣兎はびっくりした顔をして、視線を左右に巡らせた。


「では、改めて白湯でも用意させて……」

「大丈夫です。必要ありません。すぐに済むので」


 有理沙は失礼を自覚しながら衣兎の言葉を遮り、戸惑う黒い瞳を真っ直ぐに見上げた。


「衣兎様。衣兎様は、人の世に帰りたいんですよね」


 衣兎の目が見開かれ、瞳が大きく揺らいだ。


「それは……」

「あたしは、ツクヨミ様から逃れる希望なんですよね。それって、ツクヨミ様から逃げたいってことでしょう?」


 有理沙が迫るように畳みかければ、衣兎は怯えたように後ずさった。


「そうです。そうですが、でもそれは……」

「今なら逃げられるかもしれません」


 衣兎が息をのむのが聞こえた。今にも逃げ出しそうな少女の手を、有理沙は両前脚でつかんだ。


「隼が――あたしの友達が、まだ近くにいるはずです。それに、有毅も」

「ユウキ?」


 衣兎が問い返し、有理沙は手を握る前脚に力を込めて頷いた。


「どうして有毅と隼が一緒にいたのかはあたしにも分からないけど、二人が一緒にいることに、意味があると思うんです。人の世から有毅が消えた時、隼もそこにいたから。だからあたしは、これから二人を探します。二人と会うことができれば、帰る方法が分かる気がするんです」


 まくし立てる有理沙の言葉を、衣兎はじっと見詰める眼差しで聞き入っていた。有理沙は言葉と一緒に吐き切った息を、改めて吸い込んで続けた。


「あたしは、隼たちを見つけて人の世に帰ります。だからこれだけ、衣兎様に聞きにきました――衣兎様は、人の世に帰りたいですか?」


 衣兎は瞳の震えさえ止めて有理沙を凝視した。そこに映る感情を見逃すまいと、有理沙も正面から衣兎の目を見返す。

 刹那の沈黙。それは、少女の決意をうながすのに必要な間だった。

 有理沙の前脚を、衣兎の手が握り返した。見詰める少女の眼差しが力を帯びる。


「――帰りたいです」


 迷いを断ち切るように衣兎は言い、有理沙は頷く代わりに笑みを返して少女の手を引いた。
 緩やかに引っ張り上げられるような感覚を覚え、有毅は薄く目を開いた。最初に視界に入ったのは、光を吸い尽くすほど黒い空と、それを縁どって揺れるススキの花穂。ススキで切りとられた黒の真ん中で、大きく丸い瑠璃色の星がくっきりとその姿を主張している。それで、ここが月であり、自分がススキの原に仰向けで寝ているのだということを、有毅は認識した。

 有毅は寝ころんだまま、顔の前に右手の平をかざした。少年の白い手が、確かな輪郭を持ってそこにあった。


「……消えてない」


 確かに自分は、消滅に抗いはした。しかし途中から意識はほとんど失われ、そのまま消えるしかないところまでいったように思われた。それがなぜ、消えることなく意識をとり戻すことができたのだろう。

 消滅をまぬがれただろうことに実感がないまま、有毅は左右へ首を巡らせる。右へと顔を向けた時、触れられるほど間近に隼の顔があり、有毅は目を大きくした。

 隼は地面にうつ伏せ、寝息をたてていた。日焼けした頬が、さらに黒く汚れている。泥がついているのかと思ったが、よく見れば墨汁であるようだ。枕にしている指先も、墨で黒く染まっていた。

 隼を起こさぬよう、有毅はゆっくりと腕をついて起き上がった。体の下の草は、かさりとも音をたてない。すっかりそういうものとして馴染んでいたので、完全に体を起こしたところで葉擦れのような音を聞きつけて、有毅はかえって驚いた。

 音の正体を求めて見やれば、体の横に細長い和紙が落ちていた。どうやらこれが有毅の胸か腹に乗っていて、体を起こした拍子に落下したらしい。

 何度もぐしゃぐしゃに丸めたのではと思えるほど皺になり、泥までついた和紙を拾い上げてみれば、殴り書いたようにひどく荒れた筆文字が並んでいた。それは、「吉野有毅比古命《よしのゆうきひこのみこと》」と、読むことができた。

 ちょっと息を吸って、有毅はかたわらの隼にちらと目を向けた。


(また隼に助けられた、かな)


 有毅は左手に和紙を持ったまま、右手を伸ばして隼の肩に触れた。軽く肩を叩いてはみるが、感触が伝わらないだろうことは分かっているので、顔を寄せて呼びかける。


「隼、隼」


 幼馴染みはなかなか目を開かない。有毅は少々焦れて、耳に口を寄せて声を大きくした。


「隼、起きて」

「ん……」


 ようやく唸る声を出して、隼は体を丸めるように身じろぎした。隼がうっすら目を開いて少しだけ頭を上げたので、有毅は体を低くして顔を覗き込んだ。


「……有毅?」

「うん。おはよう、隼」


 隼は視点のぼんやりした表情で、有毅の顔を見詰めて何度か目をしばたかせた。その瞳がゆっくり焦点を結ぶ。途端に、隼は勢いよく起き上がった。そして、ぎょっとして身をそらせた有毅の肩を、強くつかんだ。


「有毅!」


 叫ぶように呼び、肩と言わず頬と言わず、有毅のあちこちに触れた。


「消えてないな。どこもなんともないな」


 言いながら確かめるように、触れ、つかみ、撫で回す。力強い隼の腕に揉みくちゃにされ、有毅はじたばたした。どうにか腕を突っ張って、隼を引き離す。


「大丈夫、消えてない。消えてないから」


 有毅は隼の目を見て強く言った。見開かれた隼の目が、間近にじっと見詰め返してくる。これで大丈夫なことが伝わったろうと有毅が思った矢先、今度は飛びかかるように抱きつかれた。


「ちょっ、隼」

「よかった!」


 のけぞる有毅の耳元で、隼が叫ぶように言う。


「本当によかった。おれ、もう駄目なんじゃないかとばっかり」


 感極まって、隼の声は震えていた。抱きしめられる腕の力が強まり、有毅は居心地悪くちょっと顔をしかめる。抜け出すのは簡単ではあるが、隼がこれで安心するのであればと、有毅はひとまずそのままでいることにした。


「隼、ぼくになにかした?」


 有毅は抱きつかれたまま、隼の肩口で問うてみた。考えるような間があって、隼の腕が緩んだ。体を離した隼が地べたに胡坐をかいたので、有毅も向き合う位置に座り直した。

 話す体勢を作ったところで隼がすぐに話し始めるかと思いきや、言葉に悩む様子で口元を歪めて唸った。有毅は軽くため息をついて、問い直した。


「隼、ぼくになにをしたの? これはなに?」


 左手に持ったままのぐしゃぐしゃな和紙を、隼に差し出して見せる。筆文字で有毅の名前の書かれたそれを見やって、隼は観念したように口を開いた。


「有毅を祭った」
 一瞬意味が分からず、有毅は眉を寄せた。


「祭ったって、神様みたいに?」

「神様みたいにっていうか、神様にしたんだ。依代(よろしろ)を作って神格化して祭った」


 有毅の持つ和紙を示して、隼は言った。


「神様を祭る一番大きな目的は、祟りや災いを鎮めてご利益に転じさせることだけど、特定の人物を神格化して祭れば名前と影響力を現世(うつしよ)に残すこともできる。有名なのだと、徳川家康の東照大権現とか。さすがに大権現は無茶だけど、なんらかの形で神格化できれば有毅が消えずにすむんじゃないかと思ったんだ。というか、他に方法が思いつかなかった」

「それで、吉野有毅比古命(よしのゆうきひこのみこと)?」


 有毅が和紙の文字を読み上げると、言葉を詰まらせて隼は目をそらした。


「神号のセンスがないのは認める。でも仕方ないだろう。咄嗟のことだったんだから」

「ふーん」


 得心がいって、有毅は改めて自分の顔の前に右手の平をかざして見た。数度、手を開閉して動きと感触を確かめる。

 有毅の様子を窺うように、隼は少しだけ首を前に伸ばした。


「嫌だったか?」


 有毅が気のない声を出したからか、隼の眉尻が不安げに下がる。有毅は苦笑して首を横に振り、かざしていた右手を下ろした。


「嫌とか、そういうことじゃない。ただ、やっぱり隼はすごいなって思っただけ。本当に隼はいっつも、信じられないことをやってのける。将来有望な後継者に恵まれて、月乃浦(つきのうら)神社は安泰だね」


 本心から有毅が言えば、隼は面食らった顔をした。若干照れたのか気まずそうに頬をかき、とり繕おうとするように咳払いして表情を改める。


「まともな道具も場所もなかったから、本当にできるか自信はなかったし、信者もおれしかいない状態だけど、有毅が消えてないってことは多分うまくいったんだよな。有毅は、なんか違う感じがしたりするか?」

「確かに、ちょっと違うかも。多分、できることが増えてる」


 有毅が感覚で答えると、隼は意外そうにまばたきをした。


「例えば?」

「うーん、そうだなあ」


 有毅は考えながら、名前の書かれた和紙を両手の平で挟むようにして、軽く皺を伸ばした。それを半分に折って中央を確かめ、両端を合わせ三角形にしていく。和紙をどんどん小さく折っていく有毅の手元を、隼は奇妙なものを見るように覗き込んだ。和紙はやがて、手の平に乗る大きさの、白いウサギになった。


「できた」


 有毅が満足して宣言すれば、隼は呆れたように目をすがめた。


「こんな時に折り紙かよ」


 げんなりする隼に向かって、有毅はつまみ上げた和紙のウサギを小さく揺すった。


「こんな時だからだよ。ぼくが折り紙をできる、っていうのがすごいんだ。ものに(さわ)れても、持ったりつかんだりするのはあまり得意じゃなかったから。でも、今は普通に持ててる。あとは――」


 つまんでいた折り紙ウサギを、有毅は手の平に置き直した。それを隼の顔の高さまで持ち上げてやる。思わずといった目つきで凝視する隼の鼻先で、ウサギが跳ねた。


「うわっ」


 ひっくり返りそうになって後ろ手をついた隼に、有毅は笑い声をたてた。その間にも折り紙ウサギは数度跳ねて隼の頭へと飛び移り、紙製の耳をそよがせた。


「どうなってるんだ」


 目を白黒させる隼に有毅はさらに笑って、折り紙ウサギを手の上に呼び戻した。


「これはぼくだ。隼が作ってくれた。お札のままじゃあ難しかったけど、これなら動ける」

「動けるったって……そういうつもりじゃなかったんだけどな」

「なかなかいい体だよ。身軽で便利だ」


 有毅が上機嫌で言えば、隼は呆れ顔で体勢を起こして、膝に頬杖をついた。


「それならいいけど、さすがにここでウサギは冗談きつくないか」

「そうかな」


 折り紙ウサギがまたぴょんと高く跳ねて地面に着地し、隼の周りを一周して有毅の手へと戻った。はしゃぐようにせわしなく跳ねまわる白い紙のウサギを、隼はしばらく黙って眺めた。


「なあ、有毅」

「ん?」

「ウサギと言えばなんだけど」


 声色の変化を察して、有毅は目線を折り紙ウサギから隼へと戻した。隼は変わらず、折り紙ウサギを見詰めていた。


「ツクヨミのところにいた白ウサギ。あれは……有理沙だったのか?」


 隼の瞳に戸惑いが映るのを見て、有毅は手元に戻った折り紙ウサギを撫でた。


「うん。有理沙は月の国のものを食べたんだろうね。でも、隼のことが分かった。人だった時の記憶はまだ消えてないんだ。だからきっと、とり戻せる」

「そうか……」


 低く呟いて、隼は沈黙した。しかしその瞳はまだ震えていて、彼がなにか迷っていることが見てとれる。有毅には、その迷いの正体に察しがついていた。


「隼が蹴飛ばした、もう一羽の白ウサギはぼくだ」


 有毅の方から言えば、隼がはっと目を上げた。隼が動揺を現したので、有毅はかえって冷静になって淡々と続けられた。


「有理沙にもツクヨミにもユウキって呼ばれてただろう? ぼくなんだ、あれは」


 隼は口を引き結んでいたが、有毅の発言に背を押される形で躊躇を振り払った。


「あれが本当に有毅なら、あの時どうしてあんなに怯えたんだ。消えそうになった原因っぽかったし、あの白ウサギも有毅を消したがってた」


 記憶を辿るように言った隼に、有毅は首肯した。


「会うのはまずかったんだ。ぼくは――ドッペルゲンガーだから」
「ドッペルゲンガー?」


 素っ頓狂な声で、隼は鸚鵡返(おうむがえ)しに言った


「ドッペルゲンガーって、もう一人の自分に会うと死ぬっていう、あのドッペルゲンガー?」

「そう、そのドッペルゲンガー。だから本当は、ぼくとウサギのぼくは会っちゃいけなかったんだ。月の国にきたら遭遇する可能性があるのは分かってたけど、まさかあそこで会うことになるなんて思わなかった。用心してぎりぎりまで隠れてたのに、意味なかったなぁ」


 だから輝夜殿までの道中は姿を消していたのか、と隼は納得したが、事前に言ってくれてもよかったのではとも思った。かといって今更とやかく言っても(せん)ないことなので、隼は話を掘り下げる方へ意識を向けた。


「でも、相手はウサギだろう。それでもドッペルゲンガーって言えるのか」


 隼が純粋に湧いた疑問をそのまま発すると、なぜか有毅が少し笑った。


「そう言われると確かにそうなんだけどね。ドッペルゲンガーって、現象としていくつか説や原因があるんだけど、その中に幽体離脱がある」


 有毅が平然と言ってのけ、隼は専門外の話にやや気後れを感じた。


「……またずいぶんオカルトな話になってきたな」

「ぼくと普通に話してる隼にそれを言う資格はないよ。隼だってオカルトなことしてるじゃん」

「それは、まあ、ごもっともで」


 隼が引き下がって口を閉じたので、有毅は気をとり直して続けた。


「ぼくは隼に呼ばれて抜け出た霊体なんだ。だからウサギのぼくが本来のぼくで、本体ってことになる。体から霊体だけが知らない間に抜け出ることは普通の人でも意外とあることなんだけど、眠ってる間や気づかない内に戻れば問題ない。でも、意識があるときに遭遇するとまずい。本来、同時に存在してはいけないものが互いを認識すると、競争が始まる」

「競争って、居場所をとり合うってことか?」


 重々しく、有毅は頷いた。


「本体は霊体が抜けたことを認識すると、急速に死へと向かい始めるんだ。だから霊体を吸収しようとする。霊体を戻すことができれば、死をまぬがれるから。霊体は本体に吸収されると二度と抜け出せなくなる。でも、吸収される前に本体が死ねばそのまま自由でいられる。だからなんだ、ドッペルゲンガーに会うと間もなく死を迎えるって言われているのは。本体か霊体、どちらかが必ず消滅することになる」

「有毅が消えかけたのは、ドッペルゲンガーの生存競争に負けそうだったってことか」

「そういうこと。なんだかんだ言っても、実体があるかどうかのアドバンテージって大きいんだ。でも、隼のお陰で状況が変わった」


 有毅の手の平から折り紙ウサギがふわりと舞い上がった。ウサギは背の高いススキの穂先に折り目を引っかけて乗り、さらに隣の花穂へと器用に飛び移っていく。有毅は銀のきらめきの中を跳ねるウサギを見上げた。


「ぼくは神霊になって新しい体も手に入れた。本体にとらわれなくなったんだ。だから――」


 一瞬言いよどんで、有毅は折り紙ウサギへ向けた眼差しをまぶしそうに細めた。


「おそらくウサギのぼくは、もう長くはもたない」

「それって、つまり……」


 息をのんだ隼に、有毅は続きを言わせまいとするように笑いかけた。その笑みはどこか悲哀じみていて、隼は胸苦しさを感じて口を閉じた。


「ごめん、隼」


 謝って、有毅がゆっくり立ち上がった。隼は黙ってそれを見上げる。


「隼は完全な状態でぼくを連れ戻すって言ってくれたけど、始めから無理だったんだ。完全に月の国のものになった体に戻る気もなかったし。……本当のことを言えなくてごめん。でも、隼がぼくのために頑張ってくれてるのは嬉しかった」


 ススキの綿毛が、二人の間を舞った。銀の綿毛が有毅から発せられる儚い輝きのようで、互いの属する場所が隔たったのだと、隼は視覚的に見せつけられたような気がした。けれどそこに立っているのは、物心ついた時から見てきた幼馴染みの姿に相違ない。

 隼は勢いをつけて立ち上がると、自分より少し背の低い有毅の頭に手を乗せた。柔らかな髪の感触はするが、やはり人らしい温度は感じられない。

 怪訝に見上げてくる有毅に、隼は口の片端を上げた。


「別に、努力が全部水の泡になるわけじゃない。だから気にすんな。帰ったら、もっとちゃんとした格好いい依代を、またおれが用意してやるよ」


 信じられないものでも見たように、有毅の目が見開かれた。と、次の瞬間には噴き出し、口を押さえて大笑いをした。


「すっごい口説き文句だなぁ、それ。さすが過ぎでしょ」

「うっせ。なんにも口説いてないっての。これは、決意表明ってやつだ」


 有毅が腹を抱えてあんまり笑うものだから、隼はややへそを曲げて目をすがめた。有毅は涙さえ浮かべるほどひとしきり笑い、やがて目元を拭ってようやく息を吐き出した。


「そういうことにしておくよ。……ありがとう」

「おう」


 有毅の頭をくしゃりと最後にひと撫でして、隼は数歩下がった。


「それにはとにかく、有理沙をとり戻さないとな」


 言いながら、隼は膝に手を当てて屈伸を始めた。有毅をかついでの全力疾走から、思いつくままに行った有毅を祭る儀式でかなり消耗してはいたが、ひと眠りしたお陰で頭はすっきりしていた。空腹と喉の渇きはあっても、まだ動くことはできる。ともすればぎくしゃくしそうな関節と筋肉を、隼は念入りなストレッチでほぐしていった。


「次はどうやっていく? 同じようには無理だろう」


 上体を左右に曲げながら隼が問うと、有毅は背中を向けて空を仰いだ。


「輝夜殿に直接乗り込もう」


 頭上へと、有毅が手を掲げる。その白い指先に、ススキの原を跳ね回っていた折り紙ウサギが舞い戻った。


「ちょっと下がってて」


 有毅に言われて、隼は準備運動を中断して後ろへとさがった。なにをする気かと見詰める隼の前で、有毅の指先にいた折り紙ウサギが高く飛び上がる。その動きを、隼は思わず目で追い駆けた。

 折り紙ウサギの小さな影が、空に浮かぶ地球に重なる。それを頂点に、今度はゆっくりと降下を始めた。小さかった影が、地面に近づくにつれ大きくなる。近づいているのだから大きく見えて当然だが、その速度に違和感を覚える。それが本当に折り紙ウサギが大きくなっているからだと隼が気づいた時には、人の身の丈は軽くあるウサギが目の前に着地した。


「どぇえ!」


 仰天する隼を気にもとめずに、有毅はウサギの額を軽く叩いた。着地の衝撃はないようだったが、ウサギが身じろぎするとかさりと音が鳴るので紙製なのは確かだ。皺や泥汚れもそのままな有毅の依代は、隼の前で伏せるように身を低くした。


「背中に乗って。輝夜殿までなら一瞬で着ける」


 有毅は当然のように言ったが、隼は目の前のできごとが信じられずに顔を拭った。


「まじか……」


 自分はとんでもないことをしたのかもしれないと、今更のようにひるんだ心地になる。しかし一方で胸の高鳴りと期待も強くあり、隼は深呼吸して心を決めた。


「よし、いこう」
 一面の田畑が見渡せる小屋の前に、ウサギたちが集まっていた。瓦屋根の乗った小屋と畑の間には、しっかりと踏み固められた広場がある。その中央に、頑丈な木枠に三つの大きな歯車がついた装置が置かれていた。歯車は地面に対し水平に一列に連なっており、真ん中の歯車の軸が上に突き出している。軸には長い長い横木がとりつけられていて、それを何羽ものウサギで協力して押せば、三つの歯車が連動してぐるぐると回った。

 装置の近くにいる一羽が竹糖(ちくとう)の束を拾い上げて、歯車の間に差し込んだ。竹糖はゆっくりと歯車に巻きとられ、つぶれた繊維となって装置の反対側から出てくる。そうして絞られた褐色の糖蜜の雫は、装置の下に置かれた桶へと落ちて溜まっていく。

 横木を押すウサギたちは、息を合わせるように声高く歌った。


 いろはに金平糖 金平糖は甘い
 甘いはお砂糖 お砂糖は白い
 白いはウサギ ウサギは跳ねる
 跳ねるは水玉 水玉は青い
 青いはオバケ オバケは消える
 消えるは燈籠(とうろう) 燈籠は光る
 光るはお空のお星様


 こうして圧搾された糖蜜は小屋の中で煮詰め、茶褐色のどろりとした白下糖(しろしたとう)呼ばれる状態で甕に溜めて冷却される。それを麻や木綿で包んで加圧と研ぎを繰り返すことで、乳白色の砂糖へと精製されるのだ。

 小屋の前に立つツクヨミは空気に溶け込む甘い香りを感じながら、陽気に作業をするウサギたちを微笑ましく眺めていた。

 こうした技術や知恵は、人の世からきたウサギたちによってもたらされたものだ。ツクヨミにできないことが必要になったら、できるものを人の世で見つけて連れてこればいい。月の国は、そうして少しずつ大きくなってきた。ウサギが増え、さらに都が大きくなれば、衣兎が求める暮らしをさせてやれる。そしてウサギを増やすには、つつがない営みを支えてやる必要があった。

 ツクヨミは、ウサギたちのなすことに目を配り、声に耳を傾けることを惜しまなかった。それがひいては、衣兎のためになる。


「ツクヨミ様」


 小屋から顔を出したウサギに呼ばれ、ツクヨミは斜め下へと顔を向けた。薄墨色の小柄なウサギが、木綿に乗せた乳白色の塊を抱えて立っていた。のし餅のように平たく固められた砂糖を、薄墨ウサギは得意そうに掲げた。


「見てください。わたしが初めて研がせて貰ったお砂糖ができあがったんです」


 期待の眼差しで見上げてくる薄墨ウサギにツクヨミは微笑み、目線を合わせるように身を屈めた。


「きめ細かくよい色だ」


 穏やかに言いながら、欠けた端の小さな欠片を拾い上げて口へと運ぶ。欠片はすんなりと舌の上で溶け、まろやかな甘みが口内に広がった。


「よくできている」


 ツクヨミが褒めてやれば、薄墨ウサギは照れくさそうに目を細めて髭と耳をそよがせた。


「よかったらこれは、このまま輝夜殿にお持ちください」


 薄墨ウサギの提案に、ツクヨミは少しだけ目を見開いた。


(なれ)が初めて作ったのだろう。自分で使わなくてよいのか」

「自分のはまだありますし、これは特に綺麗にできたんです。だから、ツクヨミ様と衣兎様に差し上げたいんです」


 どこかあどけなく薄墨ウサギが言い、ツクヨミは笑みを深めて額の毛並みを撫でてやった。


「ありがとう。衣兎も喜ぶ」


 薄墨ウサギはいかにも嬉しそうにツクヨミの手の平に頬を擦りつけてから、小屋の中へと体を向けた。


「持っていけるように包んできます」


 跳ねる軽快さで、薄墨ウサギが小屋の中へと駆けていく。ツクヨミはそれを見送って体を起こし、竹糖の圧搾作業へと目を戻した。

 ぎいぎいと音をたてて圧搾機の歯車が回る。さらに高く響き渡るウサギたちの歌声を聞きながら、ツクヨミは胸元の珠飾りを指でもてあそんだ。

 ウサギたちは無欲で働きものだ。しかしこれは、ツクヨミの意図によるものではない。

 衣兎の望む暮らしをさせてやるには、ツクヨミが持たない人の知恵と技術が必要だった。しかし人との接点を持たせたくないゆえに、衣兎の名でもあるウサギに変えた。

 ウサギとなった者たちは人としての記憶と共に、人らしい感情も失っていった。人ならば当たり前に持つだろう他者への恨みや嫉妬、おおよそ悪意と呼べるものはないと言えるだろう。人の世からきた者よりも、月で生まれたウサギたちの方がその傾向はわずかながら強く表れた。代を重ねるほどに、本物のウサギへと近づいているのかもしれない。なぜそうなったかはツクヨミにも分からなかったが、知恵を伝える者を呼び込んで絶やさぬようさえすれば、都合がよいのは確かだった。


「ツクヨミ様、お待たせしました」


 小屋の中から薄墨ウサギが戻ってきた。ツクヨミは身を屈め、小さな前脚が差し出す木綿袋を受けとった。真っ直ぐに向けられる期待の眼差しに応えるように、袋を持たない方の手で柔らかなの毛並みを撫でてやる。薄墨ウサギは気持ちよさそうに、うっとりと目を細くして耳を寝かせた。

 人に近しい知恵を持ちながら、ただ純真に、主人としてツクヨミを慕う動物。だから安心して衣兎のそばに置ける。愛する者は、一切の悪意から遠ざけべきなのだから。

 ツクヨミのそばにさえいれば衣兎の幸福は約束される。そうでなくてはならないのだ、と強く思いながら、ツクヨミは作業に打ち込むウサギたちと別れて輝夜殿へと戻った。





 寝殿(おもや)に上がると、下仕えのウサギたちがツクヨミを出迎えた。足をぬぐっている間に、板の間に畳を敷かれ、麦湯(むぎちゃ)が運ばれてくる。ツクヨミもウサギたちを労いながら、いつも通りに腰を落ち着け体を休める。輝夜殿の主人たるツクヨミの帰宅に合わせ、毎度行なわれる一連の流れ。しかし今回、わずかな違和感がツクヨミの中で引っかかった。

 ウサギたちが緊張したように耳を立て、落ち着かなげな様子を見せている。ツクヨミは、麦湯(むぎちゃ)を持ってきた生成色のウサギに声をかけた。


「わたしの留守中、なにかあったか」


 声の届く範囲にいたウサギたちが一斉に毛を膨らませ、あからさまに狼狽えた。


「あ、あの、その、えっと……」


 声をかけられた一羽は、慌てふためいて視線を右往左往させた。これほどウサギたちが動揺することは滅多になく、ツクヨミの目元が自然と厳しくなる。ウサギたちがとり乱すほどのできごととはなんだろうとツクヨミは考え、ふと、一つの答えにいき着いた。


「衣兎はどうしている」

「ひゃっ」


 ツクヨミが言い切る前に、生成ウサギは怯えた声を上げて体を丸めた。途端に、ツクヨミの中でなにかが波立った。荒々しく立ち上がったツクヨミにウサギたちは悲鳴をあげ、床に叩きつけられた湯呑が割れる甲高い音が響いた。


「衣兎はどうした」


 低められたツクヨミの声に、普段の穏やかさは微塵もなかった。

 生成ウサギは膝が立たぬほど震え、何度も口を空回りさせながらようやく答えた。


「あのあの、その、いい、衣兎様は、ご不在です」


 ツクヨミの目が、鋭利に細まった。同時に、胸元の珠飾りの光が鮮やかさを増す。


「どこへいった」

「それが、その……分かりません」


 細められたツクヨミの目の奥で、不穏な輝きが揺らいだ。


「それで許されると思っているか?」


 空気の温度までをも変えるほど低い声に、悪意に慣れていないウサギたちは抱き合って怯え、生成ウサギも悲鳴をあげて床に伏せた。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! でも、本当に分からないんです」


 生成ウサギは顔を隠すように組んだ前脚のわずかな隙間から、片目でツクヨミを見上げた。冷え切った主人の表情に、慌てて再び顔を伏せる。萎縮していっぱいいっぱいになりながら、生成ウサギは苦労の末に小声で続けた。


「衣兎様が出かけられるところを見た者もいないのです。衣兎様はお一人で考えごとをされたいとわたし達に申しつけられて、それで……」


 生成ウサギはつばを飲み込み、顔を床に擦りつけるほど低くした。


「……消えて、しまわれました」


 空が白く閃き、雷鳴が轟いた。



 第三章 了