有理沙にはそれが、小さな卵に見えた。しかし慎重に巾着からとり出せば、卵よりもずっと固く、磨き上げたように艶やかな表面が、ささやかな明かりまでも強く反射した。ひっくり返してみれば、殻を縦に割ったような裂け目があり、ぎざぎざと刻みの入ったふちを見せていた。


「これは……貝、ですか?」


 有理沙が自信なく問うと、衣兎はゆっくり頷いた。


「ツバメが産んだ、子安貝(こやすがい)です」


 ぽかんとして、有理沙は衣兎と前脚の貝とで視線を行き来させた。


「ツバメって、貝を産むんですか」


 有理沙の表情に、衣兎が思わずといった様子で笑った。


「実際には分かりません。ですがわたくしは、そうに違いないと思っています」


 衣兎は有理沙から庭へと視線を移したかと思うと、軒先を見上げるように顔を持ち上げた。


「ずいぶん昔のことになりますが、ここにツバメがきたことがあるのです。ここには本来、ウサギ以外の動物はいないはずですから、どこか人の世と繋がった時に、迷い込んでしまったのでしょう。ツバメはたった一羽で、(つがい)もないままこの軒に巣を作りました」


 今でもそこに巣があるかのように、衣兎は軒を見詰める。有理沙も誘われるように、同じ場所へと目をやった。空を真っ直ぐに切りとる軒先が筋状に木目を見せているだけで、ツバメの巣の痕跡はわずかも残ってはいなかった。


「ツバメは、どうなったんですか」


 続きをなかなか口にしない衣兎を、有理沙はうながした。衣兎は有理沙に視線を戻した。その顔は、これまで見た衣兎の表情でもっとも静かな穏やかさをたたえていた。


「いなくなってしまいました。巣の中に、その子安貝だけを残して」


 有理沙は、前脚に乗せた子安貝へと視線を落とした。


「だから、ツバメが産んだ貝」


 卵によく似た子安貝を前脚の上で転がしてみる。ひやりとした感触がするだけで、有理沙にはなんの変哲もない貝殻に見えた。


「ツバメはいなくなってしまいましたが、きっと元の世に帰ったのだとわたくしは思っています。だからその子安貝もまた、わたくしの希望です」


 有理沙は、はっとして顔を上げた。衣兎の表情は変わらぬ穏やかさで、ずっと瞳にあった憂いも今は鳴りを潜めていた。


「有理沙は、人の世に帰りたいですか?」


 急な問いに、有理沙は咄嗟に答えられなかった。

 月での暮らしが嫌かと問われれば、それは否と思う。周りのウサギたちは善良で優しく、時間に追われることもなく、これほど気ままに暮らせる場所は他にないだろう。

 けれど、と有理沙は考える。

 これまで暮らしてきた人の世も、有理沙は嫌いではなかった。クラスメイトと他愛ない会話をして、隼とどつき合って、有毅とあれこれ話ながらおやつを食べて宿題を片づける。試験や人間関係など面倒なことも多いが、そんな部分も含めて懐かしいと感じてしまっていることに、有理沙は不思議な心地になった。

 なにより脳裏をよぎるのは、両親のことだった。有毅がいなくなり、その上さらに有理沙までいなくなったらどうなってしまうのか。有毅の失踪で憔悴した親たちの姿を思い出し、有理沙は息が詰まった。

 どちらの暮らしも嫌ではないのなら、有理沙をより必要としてくれている者が多いのはどちらか、と考えるのは、ある種の自惚れだろうか。

 有理沙は、そっと子安貝を握った。


「……帰りたいです」


 長過ぎる沈黙のあとで有理沙がやっと答えれば、衣兎が笑みを深めた。慈愛に満ちたその笑みは、年相応の少女のようでもあり、温かに包み込む聖母のようでもあった。


「それは差し上げます。わたくしは無理でも、有理沙はきっと帰ることができるから」





 輝夜殿を退出した有理沙は、目抜き通りをとぼとぼと歩きながら、首にさげた小さな巾着に触れた。子安貝をなくさぬようにと、衣兎が巾着の緒を長いものにつけ替えてくれた。首からさげられれば、いつでも身に着けていられる。

 しかし有理沙は、衣兎が希望だと言ったこの子安貝を、本当に自分が受けとってよかったのかいまだ迷っていた。

 通りの真ん中で、有理沙は足を止めた。目抜き通りは両側に商店が並んでいるので、歩くだけならば中央の方が空いている。それでもやはり賑わいの中なので、急に立ち止まった有理沙にいく羽かのウサギが驚いて避けていく。

 物思いに沈んでいた有理沙は彼らへの気配りもできないまま顔を上げて、柳並木と、その向こうの黒い空を仰いだ。真上に浮かぶ大きな瑠璃色の星を目にとめ、その表面の複雑なまだら模様に見入る。それが地球で、人の世のある場所なのだと、今の有理沙にははっきりと分かった。

 衣兎は諦めた表情をしながら、あの空に見える人の世に帰りたくて仕方がないのだろう。だからどんなに小さな希望でも、見つけると手元に置かずにはいられないのだ。子安貝も、ユウキも、有理沙も。

 衣兎はツクヨミを愛すると同時に怯え、その手から逃れることを願ってもいる。その心は到底、有理沙には理解が及ばなかったが、このままではいけない、とだけは強く感じた。


(本当に希望があるとするなら――隼だ)


 ウサギになることなく、輝夜殿までやってきた幼馴染みの少年。彼は有理沙のように迷い込んだわけでも、連れてこられたわけでもなく見えた。だとするならば、自らの意思でやってきたということになる。なぜ彼が有毅と一緒だったのかは不明のままだが、彼らがまだ近くにいるならば、帰るためのヒントもそこにある気がした。

 有理沙は顔を正面に戻すと、くるりと回れ右をした。そうして体を反転させた勢いのまま石畳を蹴り、もときた道を駆け戻った。