衣兎は、平静を保とうとするように白湯をひと口飲んでから話を続けた。


「ツクヨミが人をウサギを変えて集めるようになったのは、わたくしが寂しがったからなのです」

「ツクヨミ様が、衣兎様のために?」


 つい繰り返した有理沙に、衣兎はゆったりと頷く。


「わたくしは元々、有理沙と同じ、人の世におりました。京の三条に父の屋敷があり、そこでツクヨミと出会ったのです。出会った頃のツクヨミはとてもお話しが下手で、なんとなくほうって置けませんでした」


 有理沙は目を丸くした。あれほど優雅に話し、立ち振る舞うツクヨミが、かつては話下手な青年だったなどまるで想像がつかない。

 有理沙の表情から言わんとするところを察してか、衣兎は淡く苦笑のようなものを浮かべた。


「わたくしと出会うまで、誰かと話すということをしたことがなかったようなのです。最初にツクヨミが、月からきたと言ったときには冗談だと思っていましたけれど。夜毎、人目を忍んで会いにきてくださる彼と話す内に、彼の言葉は本当なのだとわたくしも思うようになっていました」


 懐かしんでいるのか、衣兎は遠くを見るように目を細めた。


「だからわたくしは、家から逃げてツクヨミについてきました」

「逃げたって、家でなにか悪いことが?」


 有理沙が思わず問うと、衣兎は物思いにふけるように、手の中の湯呑のふちを指先で何度かなぞった。


「縁談が、あったのです。それまでにも、たくさんの殿方が(ふみ)や花を送ってくださってましたし、皆様それは立派な公達(きんだち)だともお聞きしておりました。でもわたくし、お顔も知らないような方から選ぶことなどできなくて……父が、痺れを切らしたのです」


 衣兎の雰囲気からかなり育ちがよいのだろうと有理沙は予想してはいたが、やはりその通りであったらしい。しかしまだあどけなさの残る衣兎に縁談とは、ずいぶんと行動の早い親だという印象を有理沙は受けた。


「あの、失礼を承知でお聞きするんですけど……それは、衣兎様が何歳の時ですか」


 衣兎は有理沙の質問を少々不思議がる様子で、首を傾けて答えた。


「十四の時です」


 本当にお姫様なのだ、と有理沙は確信した。衣兎の着ている十二単や屋敷の造りから、もしやとは思ってはいた。けれど古典も歴史も定期試験でよくて中の上程度の成績に入る知識しかないので、あまり自信がなかったのだ。それでも衣兎が千年前の姫君だとするならば、すべて納得がいく。当時の姫君の輿入れは、十三か十四が普通であったはずだ。月の都も輝夜殿も時代めいているのは、衣兎のために造られたものだからなのだろう。

 有理沙は生きてきた時代が違うので同じ感覚に照らしてはいけないのかもしれないが、連れ添いになるなら顔も知らぬ相手よりも、毎夜会っていたツクヨミの方が、となる気持ちは共感できる気がした。

 衣兎は、いつの間にか空になっていた湯呑を置いた。


「今でも、体は十四のままです。ここには昼も夜もありませんし、暦もありませんから、本当の年齢はすぐに分からなくなりました。少なくとも、もう人ではなくなってしまったのだと今では理解しています。でも……始めは、そうではありませんでした」


 顔を上げた衣兎の瞳に憂いが透けて見え、有理沙は彼女が泣くのではないかと思った。

 風が吹いて、衣兎の黒髪をさらった。庭の玉の木がきらめいて、枝が鈴音のように涼やかに鳴る。衣兎は風で乱れる髪を、撫でつけるように押さえながら続けた。


「わたくしが縁談を嫌って家から逃げたのは確かですが、ツクヨミを好きになっていたからこそ決めたことでした。でもわたくしは、ツクヨミと一緒になるとはどういうことか、まるで理解していなかったのです。なにもない月でツクヨミと二人きりの暮らしに耐えられなくなり、わたくしは――帰りたいと、願ってしまった」


 衣兎は首を巡らせて、庭へと視線をやった。白砂に植えられた玉の木が黄金色にまたたくように輝き、その奥ではヤマモモの木が濃い影のようにたたずんでいる。


「かつてここは、銀のススキの原しかありませんでした。ツクヨミがどこからか手に入れてくるものを食べ、今がいつかも分からぬまま眠るだけ。話せる相手もツクヨミのみ……幼かったわたくしはすぐに飽いて、京での暮らしが恋しくなってしまったのです。しかし、ツクヨミがそれを許してくれるはずがありませんでした――ツクヨミは怒り、雷でススキの原を焼きました」


 よほど恐ろしいできごとだったのだろう。衣兎は語りながら自身の肩を抱いて、身を震わせた。元々小柄な衣兎がさらに小さく見え、有理沙は思わずその細い肩に触れた。


「衣兎様は悪くありません。あたしだって、きっとそんな暮らしをずっとなんて続けられない」


 有理沙が励ますと、衣兎はすぐに震えを止めてふわりと笑んだ。


「ありがとうございます」


 気持ちを落ち着かせるように、衣兎は体を伸ばして深く息を吐いた。


「ツクヨミがウサギを連れてきたのは、それからすぐです。突然、いく羽ものウサギを連れてきて、焼野原となった場所にこの屋敷を建てさせ始めたのです。人のように話し、立ち働くウサギたちがとても奇妙で。このウサギたちはなんなのかとツクヨミに問うたら、京から腕のよい大工を連れてきた、と……それでわたくしは、彼がなにをしたか理解しました」

「最初のウサギが、大工?」


 あまりにも意外な気がして、有理沙は目を見開いた。衣兎はゆっくりとまばたきをして頷く。


「わたくしが京に帰りたがるなら、ここに京を造ればよいと考えたようでした。珍しいものを手に入れてはわたくしのところに持ってくるようになったのも、その時からです」

「でも、なぜウサギ?」


 屋敷や都を造ろうとして大工を連れてくるという発想までは、有理沙にも分かる。けれど、わざわざウサギの姿に変えてしまう必要があるのだろうか。
 有理沙の言外の問いまで汲んだように、衣兎は笑みを悲しげなものにした。


「ツクヨミは、自身以外の人の形をしたものが、わたくしの気を引くことをとても嫌悪しています。わたくしが人の姿を見たら、また人の世に帰りたがってしまうと思っているのです。人でないツクヨミと一緒になることへの覚悟がわたくしに足りなかったのだと言われれば、それは否定のしようもありません。そのせいで、ツクヨミに道を外させてしまったのですから……」


 この場にいないツクヨミの姿を見るように、衣兎は目を細くした。それは、夫を見詰める妻としての眼差しであるようだった。


「ツクヨミはとても真っ直ぐで純粋な方。まるで子供のように、わたくしの気を引こうとし、外へ目を向けることを決して許してくださらない。自分の目の届かぬ行動をわたくしがすることさえ強く厭《いと》う。そしてわたくしは、そんなツクヨミの怒りに触れることが怖くて仕方がないのです」


 今度は有理沙が震える番だった。

 ツクヨミが衣兎に注ぐ愛情は、本物に違いないのだろう。衣兎へ向けられる眼差しも表情も、愛する妻を慈しむ夫そのものだった。そして――その肥大化した感情に、衣兎は縛りつけられ、押しつぶされようとしている。

 絶句する有理沙の白い前脚を、衣兎が握った。


「有理沙は、わたくしの希望です。あなたはツクヨミの力から抜け出して、人としての記憶をとり戻しました。ならばわたくしも、いつかツクヨミから逃れることができるかもしれない。そう、思うことができるのです」

「希望……あたしが……」


 戸惑う有理沙に、衣兎は力強く頷いた。


「ユウキもそうでした。有理沙のように、はっきりと記憶を持っていたわけではありませんでしたけれど。双子の姉がいるのだと、いつも楽しそうに聞かせてくれました。わたくしも、ここ以外の場所の話を聞くのがとても楽しかったのです」

「ユウキが、そんなことを……」


 有毅が神隠しにあったとき、有理沙が寂しさで消えそうになってしまっていたように、ユウキも同じ思いをしていたのかもしれない。

 その後、有毅が戻ってきて有理沙は元気をとり戻したけれど、ウサギのユウキは有理沙の記憶だけを維持したまま寂しさの中にい続けていたのだろうか。そう考えると、ユウキに対する罪悪感のようなものが有理沙の胸に湧き上がった。


「有理沙に見せたいものがあります」


 衣兎は囁くように言って有理沙から手を離すと、立ち上がって(へや)へと入っていった。ところ狭しと並ぶ珍品を慎重に避けて、文台(つくえ)へと歩み寄る。そこに置かれた文箱(ふばこ)からなにかをとり出して、衣兎はすぐに戻ってきた。


「これを」


 再び(えんがわ)に座りながら、衣兎は白い緒の通された小さな巾着を差し出した。手の平に収まるほど小さなそれは、地紋のある銀杏色で、着物の生地で作られていることが見てとれる。様子をうかがいつつ有理沙が前脚を出すと、衣兎は白い毛並みの上へと巾着をそっと置いた。

 布と毛皮越しに、丸く固い感触が前脚に触れた。ちらと衣兎へ視線を向ければ、有理沙の行動を待つ様子でじっとこちらを見ている。

 有理沙は巾着を持ち直し、ゆっくりとその口を開いて中を覗き込んだ。巾着の底に、白い楕円形のものが見えた。