衣兎の使者がやってきたのは、帰宅してほどなくだった。


「有理沙様はご在宅ですか」


 玄関の方から呼びかけられて有理沙が土間に顔を出すと、黒の毛に白の襟巻模様のあるウサギが戸口に立っていた。


「はい。ここにいますけど」


 有理沙が返事をすれば、襟巻模様のウサギは前脚を揃えてぺこりとお辞儀をしてから用件を告げた。


「衣兎様のお使いできました。お話ししたいことがあるそうで、有理沙様に輝夜殿までお越しいただきたいそうです」


 思っていたよりもずっと早い呼び出しに、有理沙は軽く瞠目した。慌てて返事をしようと口を開きかけ、ところが後ろから顔を覗かせたユウキに遮られてしまった。


「有理沙、出かけるの?」


 来客の姿を見ようとしてか、背中に貼りつくように身を乗り出してくるユウキを、有理沙は鬱陶しく押しやった。


「衣兎様がお話ししたいことがあるからきて欲しいんだって」


 引き剥がすように有理沙に部屋へ押し込まれたユウキは、機嫌を損ねることもなく髭をそよがせた。


「ぼくもいく」

「だめ」


 間髪入れずに有理沙が拒絶すると、さすがのユウキも気に障ったらしく口元を歪めた。


「なんで」

「なんでも」


 頬を膨らませるユウキにいかにも粗雑に返しながら、有理沙は内心で冷や汗をかいていた。うまく言いくるめて、ユウキの同行を阻止しなくてはいけない。


「空気読みなさい。衣兎様があたしを指名したってことは、女の子同士だからできる話がしたいってこと。女子トークに男子が参加するなんて野暮野暮。それとも、ユウキも女子になる? ユウキはあたしとそっくりだから、女の子になってもかわいいかもなぁ」


 なにせ双子だから、と思いながら有理沙は人間の有毅の女装に少しばかり思いを馳せてみた。有毅は同世代の男子にしては線が細いから、実際かなり似合うのではなかろうか。

 有理沙のよからぬ想像を察してか、ユウキは渋い顔をして沈黙すると、見るからに不満げながら引き下がった。


「……留守番してる」


 有理沙は作戦の成功を確信してにこりと笑んでみせた。


「そうそう。怪我してるんだから家で大人しくしてたらいいの。それじゃあ、ちょっといってくるね」

「いってらっしゃい」


 ユウキの見送りを受けて、有理沙はお使いウサギと共に家を出た。

 月の都は昼夜の感覚がないためその時々で開いている店が少しずつ違っていたが、通りの賑わいはいつでも変わらぬものだった。いき交うのはウサギばかりであるが、その言葉や立ち振る舞いは人となんら違ってはいない。その理由を考えて有理沙はぞっとしたものを感じ、歩きながら身震いした。

 輝夜殿に着くと、そのまま真っ直ぐ奥の対屋(はなれ)へと通された。途中で横切った寝殿(おもや)は整然としていて、確かにツクヨミは不在であるようだ。

 衣兎の(へや)は裏庭に面した御簾が巻き上げられていた。室内は相変わらず雑多なものであふれていたが、障屏具(しょうへいぐ)がないだけでずいぶんと開放的な印象になる。

 衣兎は、裏庭を見渡せる(えんがわ)に円座を敷いて有理沙を待っていた。床に広がる衣兎の衣は、春の若葉を思わせる萌葱(もえぎ)色をしていた。


「よかった。きていただけて」


 やってきた有理沙を見て、衣兎はほっとしたように頬を緩めた。

 お使いウサギにうながされるまま有理沙が衣兎の隣に座れば、別の側仕えのウサギがやってきて衣兎と有理沙の前に白湯を置いていく。側仕えの二羽がさがるのを待って、衣兎はさっそく有理沙へと体を向けた。


「あれから、なにかお口にされましたか」

「いいえ。飲みもの以外はなにも」


 質問の意図が分からなかったが、有理沙は素直に答えた。自宅でユウキからはあれこれと食べものをすすめられたが、考えることが多くてあまり食欲を感じなかったのだ。それを伝えれば、衣兎は息をつくように、そうですか、と呟いた。


「ここのものは、あまり食べない方がよいかもしれません。もちろん、無理はよろしくありませんが」

「もしかして、あたしがウサギになったことと関係が?」


 恐る恐る問えば、衣兎は憂うように眉間を曇らせた。しばらくためらうような間があり、有理沙が辛抱強く待ってようやく口を開いた。


「月の国のものを食べれば、体は月の国のものになっていきます。有理沙は、もうお気づきかもしれませんが……ここのウサギたちは皆、元は人です。誰もそのことを覚えていませんし、ここで生まれた子もおりますから全員ではありませんけれど」


 やはり、と思うと同時に驚きが胸の内に広がり、有理沙はつかの間息を止めた。有理沙も、隼の姿を見るまで人であったことを忘れかけていた。同じようにここのウサギたちも、ウサギとして過ごす内に人としての記憶が消えてしまったのだろう。


「どうして、ウサギに」


 かろうじて続けた問いは、息が足りずかすれた。それでも衣兎は聞きとれたらしく、ややうつむいて瞳を翳らせた。


「……わたくしのせいなのです」


 絞り出すようなか細い声で言い、衣兎は胸の前で両手を組んだ。


「すべて、わたくしが悪いのです。ツクヨミを止められない、わたくしが」