月の国には、昼も夜もない。空の色は移ろうことなく常に暗い。ゆえに、そこに暮らすウサギたちは好きな時に寝起きし、好きな時に食べ、好きな時に働いている。
それで日々の営みがつつがなく巡っているのが有理沙には不思議に感じられたが、時間に縛られないというのも、それはそれで案外うまくいくものなのかもしれない。
そんな場所であるから、月の国にきてどれくらい時間が経ったのか、有理沙にはまったく分からなかった。身に起こったことがあまりにも目まぐるしく、一日経っているのかいないのか、あるいはもう数日経っていることもあるかもしれない。
親に心配をかけているだろうか。隼がここに来たということは、少なくとも彼には気を揉ませているのだろう。それが分かったところで、今の有理沙にできることはなにも思いつかないけれど。
そうして頭の中を駆け巡る思いを追い駆けながら、有理沙は目の前で傷の手当を受けているユウキを見詰めていた。
銀灰色をしたやや年かさのウサギが、ユウキの背中の擦り傷に薬を塗っている。続いて正面に回って口の中を観察すると、銀灰ウサギは、うむ、と小さく唸った。
「問題なさそうですね。あとは、それだけ飲んでおいてください」
銀灰ウサギは枕元に置いてある丸い盆を示した。そこには小振りの湯呑があり、緑に濁ったお茶に似た飲料が入っていた。
「またどこか痛むようなら言ってくださいね」
事務的で淡々とした言葉にユウキが静かに頷くと、銀灰ウサギは立ち上がり、軽く会釈をして室を出ていく。有理沙は会釈を返してそれを見送った。
ちょっと息を吐いて有理沙が顔を戻せば、ユウキがさっそく湯呑をとり上げて口をつけていた。
「うっ……まずい」
よほど飲めた味ではないだろうことが、ユウキの表情から伝わってきた。耳を垂れ、目をしばたかせながら、ちびちびと湯呑のふちを舐めている。やがて、らちが明かないと判断したのか目を閉じて、湯呑の中身を一気に喉へ流し込んだ。
「ううう……」
ユウキが薬の味に身もだえする姿に、有理沙は思わずふと笑いをもらした。彼の子供っぽい仕草は、本当によく知る弟のものだ。よそいきに大人びた顔を見せはしても、やはりこうして一緒にいると内面の幼さが目につくように思う。
「ねえ、ユウキ」
「ん?」
口をすぼめたおかしな表情のまま、ユウキが振り向いた。有理沙は今度は笑うことなく、慎重に言葉を選びながら続けた。
「さっきのことなんだけど」
「さっき?」
「隼が、きてたでしょ」
もだえ震えていたユウキの動きが、ぴたりと止まった。つかの間、どこか気まずい沈黙が落ちる。有理沙がひるまずに見詰め続けていると、ユウキはまだ舌に違和感がある様子で口をもごもごさせながら湯呑を置いた。
「そうだね……うん、そうだ」
まるで今思い出したような口振りで、ユウキは言う。有理沙は小さないら立ちを覚え、体の前に前脚をついて身を乗り出した。
「ユウキが飛びかかったのは、有毅だった。ねえ、なにが起きてるの?」
ユウキは有理沙を見詰め返した。ユウキが目を細めると、頬の毛がふっさりと膨らむ。
「うん。あれはぼくだ。でも大丈夫。あのぼくに有理沙は渡さない。分は、ぼくの方にあるんだ。ぼくが本物だから」
有理沙は目をぱちくりした。
「どういうこと?」
わけが分からない、と有理沙が眼差しでうったえると、ユウキは体ごと向かい合うように座り直した。
「向こうのぼくには体がない。ぼくから抜け出たものだから。お互いをはっきり認識したからには、もう同時に存在はできないけど、消えるのは向こうだ」
ユウキは自身で理解してしまっているから、説明になっていないことに気づいていないらしい。しかしそれを問いただすより先に、有理沙は一つの言葉が引っかかった。
「消える? 有毅が消えるの?」
ユウキが小さく笑った。
「消えるといっても、元に戻るだけだ。ぼくの中にあったものが、ぼくの中に戻るだけ。ぼくはずっと独りだったんだ。だから今度は、ぼくが有理沙と暮らす番。偽物はもう終わり」
「偽物……」
確かに、有毅の姿は有理沙以外の人には見えなかった。けれど間違いなく、有理沙にとって唯一無二の双子の弟だった。そこへもう一人――もう一羽の弟が現れただけでも衝撃だというのに、ずっと弟と思って接していた相手が偽物だと言う。なにを信じて、どう感情を表現したらよいか、有理沙は分からなくなっていた。
呆然とする有理沙の前で、ユウキは背筋を伸ばしてすっくと立ち上がった。
「帰ろう有理沙。いつまでもお邪魔してたらツクヨミ様に申しわけない」
ユウキにうながされ、有理沙は頭がよく働かないままゆるゆると立ち上がった。前脚を引かれて、ユウキの白い背中についていく。
「ユウキ」
寝殿へ繋がる渡殿とぼとぼと歩きながら、有理沙はつい呼びかけていた。
「ん?」
ユウキは足を止めることなく、声だけで応える。有理沙は一瞬だけためらって、問いを続けた。
「どこに帰るの?」
今度こそユウキは立ち止まって、不思議そうな眼で振り返った。
「家に帰るんだよ?」
よどみない赤色の眼差しに有理沙は軽く息をのみ、慌ててとりつくろった。
「うん、そうだよね。ごめん、変なこと聞いて」
ユウキはちょっと首をひねったが、特になにも言わずに進行方向に向き直って再び歩き出した。有理沙は気づかれぬよう、そっとため息をついた。
ユウキの言う家とは、有理沙がウサギになって最初に目覚めたあの家以外にない。有理沙自身もあれが自宅だと認識してはいる。けれど本当に帰る場所であるかと言われれば、途端に自信がなくなってしまう。
胸の内のもやもやは、どうしようとも晴れそうにない。今は、すべてを話すと言った衣兎の言葉を待つしかないのだろうと、有理沙は覚束なく考えるのだった。
それで日々の営みがつつがなく巡っているのが有理沙には不思議に感じられたが、時間に縛られないというのも、それはそれで案外うまくいくものなのかもしれない。
そんな場所であるから、月の国にきてどれくらい時間が経ったのか、有理沙にはまったく分からなかった。身に起こったことがあまりにも目まぐるしく、一日経っているのかいないのか、あるいはもう数日経っていることもあるかもしれない。
親に心配をかけているだろうか。隼がここに来たということは、少なくとも彼には気を揉ませているのだろう。それが分かったところで、今の有理沙にできることはなにも思いつかないけれど。
そうして頭の中を駆け巡る思いを追い駆けながら、有理沙は目の前で傷の手当を受けているユウキを見詰めていた。
銀灰色をしたやや年かさのウサギが、ユウキの背中の擦り傷に薬を塗っている。続いて正面に回って口の中を観察すると、銀灰ウサギは、うむ、と小さく唸った。
「問題なさそうですね。あとは、それだけ飲んでおいてください」
銀灰ウサギは枕元に置いてある丸い盆を示した。そこには小振りの湯呑があり、緑に濁ったお茶に似た飲料が入っていた。
「またどこか痛むようなら言ってくださいね」
事務的で淡々とした言葉にユウキが静かに頷くと、銀灰ウサギは立ち上がり、軽く会釈をして室を出ていく。有理沙は会釈を返してそれを見送った。
ちょっと息を吐いて有理沙が顔を戻せば、ユウキがさっそく湯呑をとり上げて口をつけていた。
「うっ……まずい」
よほど飲めた味ではないだろうことが、ユウキの表情から伝わってきた。耳を垂れ、目をしばたかせながら、ちびちびと湯呑のふちを舐めている。やがて、らちが明かないと判断したのか目を閉じて、湯呑の中身を一気に喉へ流し込んだ。
「ううう……」
ユウキが薬の味に身もだえする姿に、有理沙は思わずふと笑いをもらした。彼の子供っぽい仕草は、本当によく知る弟のものだ。よそいきに大人びた顔を見せはしても、やはりこうして一緒にいると内面の幼さが目につくように思う。
「ねえ、ユウキ」
「ん?」
口をすぼめたおかしな表情のまま、ユウキが振り向いた。有理沙は今度は笑うことなく、慎重に言葉を選びながら続けた。
「さっきのことなんだけど」
「さっき?」
「隼が、きてたでしょ」
もだえ震えていたユウキの動きが、ぴたりと止まった。つかの間、どこか気まずい沈黙が落ちる。有理沙がひるまずに見詰め続けていると、ユウキはまだ舌に違和感がある様子で口をもごもごさせながら湯呑を置いた。
「そうだね……うん、そうだ」
まるで今思い出したような口振りで、ユウキは言う。有理沙は小さないら立ちを覚え、体の前に前脚をついて身を乗り出した。
「ユウキが飛びかかったのは、有毅だった。ねえ、なにが起きてるの?」
ユウキは有理沙を見詰め返した。ユウキが目を細めると、頬の毛がふっさりと膨らむ。
「うん。あれはぼくだ。でも大丈夫。あのぼくに有理沙は渡さない。分は、ぼくの方にあるんだ。ぼくが本物だから」
有理沙は目をぱちくりした。
「どういうこと?」
わけが分からない、と有理沙が眼差しでうったえると、ユウキは体ごと向かい合うように座り直した。
「向こうのぼくには体がない。ぼくから抜け出たものだから。お互いをはっきり認識したからには、もう同時に存在はできないけど、消えるのは向こうだ」
ユウキは自身で理解してしまっているから、説明になっていないことに気づいていないらしい。しかしそれを問いただすより先に、有理沙は一つの言葉が引っかかった。
「消える? 有毅が消えるの?」
ユウキが小さく笑った。
「消えるといっても、元に戻るだけだ。ぼくの中にあったものが、ぼくの中に戻るだけ。ぼくはずっと独りだったんだ。だから今度は、ぼくが有理沙と暮らす番。偽物はもう終わり」
「偽物……」
確かに、有毅の姿は有理沙以外の人には見えなかった。けれど間違いなく、有理沙にとって唯一無二の双子の弟だった。そこへもう一人――もう一羽の弟が現れただけでも衝撃だというのに、ずっと弟と思って接していた相手が偽物だと言う。なにを信じて、どう感情を表現したらよいか、有理沙は分からなくなっていた。
呆然とする有理沙の前で、ユウキは背筋を伸ばしてすっくと立ち上がった。
「帰ろう有理沙。いつまでもお邪魔してたらツクヨミ様に申しわけない」
ユウキにうながされ、有理沙は頭がよく働かないままゆるゆると立ち上がった。前脚を引かれて、ユウキの白い背中についていく。
「ユウキ」
寝殿へ繋がる渡殿とぼとぼと歩きながら、有理沙はつい呼びかけていた。
「ん?」
ユウキは足を止めることなく、声だけで応える。有理沙は一瞬だけためらって、問いを続けた。
「どこに帰るの?」
今度こそユウキは立ち止まって、不思議そうな眼で振り返った。
「家に帰るんだよ?」
よどみない赤色の眼差しに有理沙は軽く息をのみ、慌ててとりつくろった。
「うん、そうだよね。ごめん、変なこと聞いて」
ユウキはちょっと首をひねったが、特になにも言わずに進行方向に向き直って再び歩き出した。有理沙は気づかれぬよう、そっとため息をついた。
ユウキの言う家とは、有理沙がウサギになって最初に目覚めたあの家以外にない。有理沙自身もあれが自宅だと認識してはいる。けれど本当に帰る場所であるかと言われれば、途端に自信がなくなってしまう。
胸の内のもやもやは、どうしようとも晴れそうにない。今は、すべてを話すと言った衣兎の言葉を待つしかないのだろうと、有理沙は覚束なく考えるのだった。