衣兎は一人で(へや)の中央に座り込み、小さな石の鉢に盛られたヤマモモを一粒つまみ上げた。深紅に熟した果実は噛めば口内でほどけ、甘酸っぱい果汁が舌の上を滑っていく。本当は採れたてのヤマモモをユウキたちと楽しむつもりだったのだが、すっかりそれどころではなくなってしまった。けれど、石の鉢に入れておけば決して傷むことはないから、ユウキが元気になるまでこのまま置いておいて構わないだろう。

 紺青をした石の鉢の表面は少しの曇りもなく磨き上げられていて、近くで見れば星空のようにぽつぽつと光の粒が散りばめられていた。この鉢に入れた食べものはいつまでも腐敗することなく瑞々しく、金物ならば曇りも錆もせずに輝き続ける。片手で持てるほどの小さく摩訶不思議なこの鉢も、ツクヨミからの贈りものの一つだった。

 つい先頃のことを思い出し、衣兎は小さくため息をついた。

 有理沙と釣殿での話を終えて(へや)に戻ったときには、ユウキが目を覚ましていた。やはり怪我が痛むのか動くのがややつらそうではあったが、普通に会話ができる程度には回復していた。有理沙はその場に残し、下仕えのウサギに後を任せて、衣兎は自室へと戻った。

 すべて話すと約束した時、有理沙は瞳に怯えと戸惑いを映しながらも頷いてくれた。どのように話すべきか、その時がくるまでに考えておく必要があった。万一このことがツクヨミの知るところとなれば、衣兎とてどうなるか分からないのだから。


「衣兎」


 (へや)の外から呼ばれ、もの思いにふけっていた衣兎の心臓は跳ねあがった。どうにか平静を装って振り向けば、御簾(みす)を袖でのけながらツクヨミが(へや)に入ってくるところだった。胸元の珠飾りをさらりと鳴らし、ツクヨミ自身で贈った雑多なものの隙間を抜けて歩み寄ってくる。衣兎が十二単の裾を引き寄せるように座る位置をやや移動すれば、ツクヨミは空いた場所に足を組んで座った。


「先ほどは騒がしくして申しわけなかった。衣兎にも心配をかけてしまった」


 いつでも涼やかに聞こえるツクヨミの声で優しく言われると、胸の内をくすぐられるような心地がする。だが今は彼を裏切ろうとしている後ろめたさが大きく、衣兎は誤魔化すように憂い気な眼差しを夫から斜め下へとはずした。


「有理沙のお友達がいらしたのだと、お聞きしました。わたくしも、ぜひお話ししてみたかったです」


 あえて甘さを声音に乗せて、ねだるように衣兎は言ってみた。大抵のことは、これだけでツクヨミは叶えてくれる。しかしこのわがままだけは難しいだろうと、衣兎は予想していた。その通り、ツクヨミはふつりと黙り込んでしまった。

 沈黙は長く、衣兎は焦れたように夫へと目線だけを送った。そうして見たツクヨミは、表情を消して衣兎を見詰めていた。


「それはできない」


 ようやくツクヨミが言葉を発し、衣兎はあどけなく首を傾けた。


「なぜですか」

「あれは衣兎にはよくないものだ。ユウキも怪我をした」

「でも……」


 言いよどんで、衣兎はそっと自身の胸に手の平を押しあてた。


「わたくしも人です。だからきっと、楽しくお話しできます」


 衣兎が言い切ると、ツクヨミの目が見開かれ、しかしすぐに細まった。


「有理沙に聞いたのか」


 ツクヨミの声が一段低くなり、衣兎はひやりとしたものを感じた。夫の内心を引き出すために意図して核心に触れたが、やはり有理沙に累を及ばせたくない心理が働いた。動揺を面に出さぬよう気をつけながら、衣兎は世間話として続けた。


「仲のよいお友達に会えたと、有理沙は喜んでいました。有理沙はまだ月の国にきたばかりで、こちらにお友達がおりませんから」

「そうか……」


 思案する表情で口を閉ざし、ツクヨミは宙を見詰めた。今度の沈黙はさほど長くはならず、彼は衣兎に向かって右手を伸ばした。


「こちらへおいで」


 柔らかく言われ、衣兎は一瞬のためらいのあとに左手を持ち上げた。指先が触れ合ったと思ったときには手を握られ、引き寄せられる。抗わずに身を寄せれば、ツクヨミの纏う香りに包まれた。彼の口元が耳元に寄せられ、声が直接鼓膜へと注がれる。


「確かに、さっききていたのは人だ。しかし衣兎を、人と会わせるわけにはいかない」

「……わたくしも、人の世におりました」


 小さな反論をすれば、抱きすくめる力が強まり、すっと鼻の奥へ抜ける香りが濃くなった。


「だからこそだ。人の世にはもう、衣兎を知る者はいない。人と話せば人の世も恋しくなるだろう。それでつらい思いをするのは衣兎だ。そんな姿を、わたしは見たくはない」

「ツクヨミ……」


 衣兎が切なく顔を見上げると、ツクヨミは腕をほどいた。慈しむように頬を撫でられ、深い色をした真摯な眼差しが近くなる。衣兎は自然と目を閉じて、彼の口づけを受け止めた。

 ツクヨミの愛情は全身で感じられるし、衣兎も彼を夫として愛しいと思っている。だのに胸の内に落ちる冷たいものを、衣兎はどうしても拭い去ることができなかった。

 衣兎の体は初潮も迎えぬまま人の(ことわり)から抜け出て、成長を止めてしまった。そのような道を選んだのは間違いなく衣兎自身だ。けれどこの身の時が止まる意味など、幼い心にはまるで理解できていなかった。

 だからなのだと思う。愛する者に愛され、触れられる距離にいるというのに、寂しさが隙間風のように身の内に吹き込んで消えてくれない。

 そんな衣兎の心を知ってか知らずか、ツクヨミが哀れげに囁く。


「衣兎……わたしの衣兎……」


 声に応えるように夫の背に腕を回しながら、衣兎は身の内の隙間風が温度を下げるのを感じた。


(わたくしは……ツクヨミの……)



 第二章 了