半ば這うように、隼はススキの斜面をのぼった。常ならば苦もなく駆け上がれるだろう緩い傾斜だが、有毅を背負って走り続けた果ての坂はやはり苦しいものがある。有毅に重さはないとは言っても、人を一人背負う体勢は腕の自由が効かず、想定以上に体への負担が大きかった。

 隼はウサギに襲われて消えかかる有毅を見て、どうにか引き離さなければと輝夜殿を逃げ出した。有毅は普段から自身の意思で消えたり現れたりということはしていたが、それとは明らかに様子が違うことが隼にも分かったからだ。有毅の体はときおり揺らぐように透け、そのたび抗おうとするようにうめきを漏らす。幼馴染みのこのような姿は見たことがなく、隼を余計に焦燥させた。

 ウサギで混み合う中を縫うように都を駆け抜け、驚くウサギたちに見向きもせず畦道を突っ切った。誰にも追われず、他者の目にもつかない場所を求めて走り続けた結果、隼が辿り着いたのは最初に降り立ったススキの原だった。

 息を切らせて斜面をのぼり切り、民家が見えなくなるところまで歩いたところで、隼は力尽きるように倒れ込んだ。途端に、どっと全身から汗が噴き出す。渇き切った喉が貼りついて呼吸もままならない。体の水分が足りず目が回る。ペットボトル飲料の一つでも持ってくるべきだったと今更ながら後悔した。

 どうにか有毅を背中から地面に降ろすと、隼は覗き込むように両手をついて顔色を窺った。輝夜殿から離れたことでうめく頻度は減ったようだが、目を伏せた有毅の輪郭はやはり不安定にかすんで見えた。


「有毅、消えるな……頼むから、消えないでくれ」


 請うように呼びかけるも、有毅の目は開かない。むしろ有毅の姿が徐々に薄らぐようで、隼は唇を噛んだ。


「くそっ、どうしたら」


 考えろ、と隼は自身に言い聞かせた。有毅が神隠しにあったとき、不完全ながらも呼び戻せたのだ。ならば今回も、できることがあるはずだ。

 隼はスポーツバッグを下ろし、なにか使えるものはないかとファスナーを開いた。バッグの中から小さな紙片がいくつかこぼれ落ちた。逃げ出す際にツクヨミに投げつけた、切幣(きりぬさ)だった。

 切幣は半紙と麻を細かく切ったものに米と塩を混ぜたもので、神前に撒いて祓い清めるのに使用する。人でないものを相手にするならは使えることもあるかもしれないと、社務所に作り置いてあったものを適当な菓子箱に詰めて持ち出してきたのだ。ツクヨミにバッグを叩きつけた際に、紙製の箱がひしゃげて中身が出てしまったらしい。こぼれただけの切幣をツクヨミが嫌うそぶりを見せたということは、穢れに相当するものを持つ者なのかもしれない。

 切幣はまたツクヨミと対決するときに使えるかもしれないなどと少し考えながら、今すぐ使えるものを求めて隼はスポーツバッグの中をあさった。

 拝殿と社務所から、とりあえずバッグに入るものは色々と持ち出してきてはいた。気休めくらいにはなるだろうかとご神札(しんさつ)とお守りも入れてきたが、今は役に立ちそうもない。こういう時に役立たないのなら、毎日参詣して信仰する意味を考えてしまう。平穏な暮らを続けるために祈っているのだから、平穏に暮らさせて欲しいものである。隼の場合、日々境内を掃き清め、宮司の父に(なら)って過ごしているのだから、苦しい時の神頼みとはならないはずだ。

 そんなことを愚痴のようにつらつらと考えながらバッグをひっくり返したところで、隼はふと手を止めた。


「信仰の意味……」


 呟いてみて、隼は口を引き結んだ。

 それは、降って湧いたひらめきのようなものだった。今の隼に果たしてできるのかは賭けでしかない。有毅が嫌がる可能性もなくはなが、完全に消えてしまうよりはずっとましなはずだ。それに有毅は言っていたはずだ。有理沙のそばにいられればいいのだと。そのためならば、受け入れてくれるだろう。

 問題は必要な道具が揃っていないことと、正式な手順がよく分からないこと。隼の父とて、ここまでのことはしたことはあるまい。過去に例があったとしても、やすやすと行なわれることではないのだから。


「ああ、くそっ」


 悪態をつくことで、隼は悩みを振り払おうとした。根本的に分からないことを考えても、答えなど見つかるはずもない。その間に有毅が消えてしまったら終わりなのだから、できることがあり、そこに可能性があるのなら縋るしかないのだ。

 隼はバッグからスポーツブランドの筆箱と、丸ごと放り込んできたロールタイプの和紙を引っ張り出した。さらに筆箱をあさるのがもどかしく、逆さまにして中身をすべてばらまく。散らばった文房具の中から筆ペンと(はさみ)を拾い上げて、地面に広げた真っ白な和紙に向かった。

 鋏で長方形に割いた和紙に、叩きつけるように筆先を置く。下敷きすらもないまま、草の茂る地面の上でまともな文字など書けるわけもない。しかしこの急場で文字の乱れを気にするような相手ならば、信仰する意味はないと隼は本気で考えていた。


「有毅は、絶対に消えさせない」


 決意を込めて口にしながら、隼は筆を走らせた。