かぐやの国のアリス

「危ない!」


 叫び声に、吉野有理沙(よしのありさ)は反射的に振り向いた。西日を背に、黒々とした丸い影がこちらに向かってくるのが見えた。影が震えるように揺れた気がして目を凝らすと、長い耳が二本、影の上部にひょこりと現れた。


「ウサギ?」


 有理沙が思わず呟いた瞬間だった。顔面を衝撃が襲った。


「あだぁっ!」


 たまらず叫んで、尻餅をつく。有理沙の顔を直撃したものは、頭上へと跳ねあがり、やがて落ちて地面を数度跳ねて転がった。


「いったぁ……」


 顔のど真ん中にくらったせいで、視界がくらくらする。血の匂いはしないので鼻血は出てはないようだが、すぐには立てそうになく、有理沙は両手で顔を押さえてうずくまった。スカートの下は体操着を履いているので多少変な体勢になるのは平気だけれど、紺の制服と鞄が砂で真っ白になるのは、いかんともしがたかった。


「有理沙!」


 グラウンドで練習していたサッカー部員の一人が、こちらへ走ってくるのが指の間から見えた。なぜ彼が、と考えながらかたわらを横目に見やれば、白黒模様のサッカーボールが転がっていた。

 奇妙に思って有理沙が首をひねっていると、青い縞のユニフォームが視界を占めた。


「大丈夫か」

「……(はやと)


 気遣うように顔を覗き込んでくる幼馴染みに、有理沙はちょっと眉をしかめる。隼が手を差し出してきたので、左手は鼻を押さえたまま、右手で彼の手をとった。


「危ないって言ったのに、なにぼーっとしてんだよ」


 助け起こしながら隼が言い、有理沙はむっとして、彫りの薄い彼の顔をにらみつけた。


「ボールをぶつけてきたのはそっちなんだから、謝るのが先でしょうが。嫁入り前の顔に傷がついたらどうしてくれんの」


 下ろした手を腰に当てて有理沙が上目に詰め寄れば、隼はなだめるように両手をかざして苦笑した。


「悪い悪い。おれが悪かったって。それより有理沙、鼻が真っ赤だぞ」


 指摘され、有理沙は思い切り隼の腰を蹴りつけた。


「いてっ」


 よろめく隼に向かって、有理沙は憤然と仁王立ちする。


「ばか隼! それが怪我させた女子に言うこと? デリカシーないにもほどがあるんじゃないの?」


 声を大きくした有理沙に、隼は腰をさすりながらちょっと片眉を上げた。


「違うって。おれなりに心配をだな……」

「おーい」


 今にも言い争いを始めようとする二人を、別の声が遮った。顔を向ければ、他のサッカー部員たちがこちらを見ていて、二人に一番近い一人が手を振っていた。


「痴話喧嘩するのは構わないけど、先にボールをとってくれないか」


 これが、有理沙の怒りに油を注いだ。むかっ腹を立てたまま、有理沙はボールを拾い上げた。そのまま駆け出すと同時に、前方へとボールを放る。


「これでもくらえ!」


 ワンバウンドしたボールを、力いっぱい蹴り飛ばした。

 怒り任せの剛速球はサッカー部員の頭上を飛び越え、コートを横切り一直線にゴールへ向かう。皆の視線が注がれる中、ボールは美しい放物線を描き、ゴールポストの上を通り過ぎた。


「あ」


 ロングシュートを決める気満々だった有理沙の口から、間抜けた声が出る。

 ボールはさらに飛距離を伸ばし、フェンスまでをも越えた。がさりと、クマザサの藪が大きく揺れた。


「やば」

「あーあ」


 有理沙の呟きに、隼の呆れ声が重なる。数歩進み出た隼は腕を組んで、横目に有理沙を見下ろした。


「とってこいよ」


 有理沙は唇を尖らせた。


「えー。あそこは隼んちでしょ。隼がとってきたらいいじゃん」

「ボール飛ばしたのは有理沙だろうが。入って怒られるような場所じゃねえんだから、さっさといってこいって」

「ちぇー」


 不満に頬を膨らませつつ、有理沙は鞄をその場に置いてグラウンドを駆けた。

 新たに出してきたボールで練習を再開するサッカー部員を横目に見ながら、有理沙は走り込みをする陸上部のわきをすり抜けて、学校の敷地を囲うフェンスにとりついた。きしむ音を立てる金網をローファーで蹴るように、一息にのぼり切る。軽々とフェンスを乗り越え飛び降りた先は、幼馴染みの隼こと松本隼(まつもとはやと)の自宅――月乃浦(つきのうら)神社の敷地だった。

 月乃浦神社の歴史は紀元前にまで遡れると、隼が言っていたように記憶している。さして関心がなかったので詳細は忘れてしまったが、切妻屋根の社殿は古ぼけているし、高校の校舎がまるごと入りそうなほど広大で遠目にもこんもりと茂る鎮守の森は、確かに歴史がありそうだというのが有理沙の印象だった。

 着地した体勢から体を伸ばした有理沙は、見える限りの地面を覆うクマザサを見て頭を掻いた。

 ひと抱えはありそうな大木が立ち並ぶ森は、複雑に重なり合って茂る枝葉に日差しが遮られ薄暗かった。ぽつぽつとした黄色いまだらを描く木漏れ日は、クマザサの葉の上で揺れるばかりで地面に届きようもない。この暗い薮を掻き分けてのボール捜索となると、勝手知ったる場所とはいえ、なかなか骨が折れそうである。


「……やるしかないか」


 息を吐いて軽く気合を入れ、有理沙は泳ぐように藪を掻き分けた。


「有理沙」


 ボール捜索を開始した矢先に呼ぶ者があり、有理沙はすぐに顔を上げた。真正面に細身の少年が立ち、身を屈めている有理沙を見下ろしていた。糊のきいた白のワイシャツに紺ズボンとストライプ柄のネクタイを合わせたその装いは、有理沙が所属する高校の制服だ。


有毅(ゆうき)。いたの」


 少年は色素の薄い瞳を細くして、ふと笑んだ。


「ぼくはいつだっているさ」

「それもそっか」


 つられるように、有理沙は少年と同じ色の瞳を細めて笑い返した。

 有毅は有理沙の双子の弟だ。生まれる前からずっと一緒で、離れていたことがあるのは、たった一度だけ。そしてその一度以来、有毅の姿は――有理沙にしか見えない。
 有毅が神隠しにあったのは、七歳になったばかりの秋だった。

 隼を交えた三人でこの月乃浦神社の境内で遊んでいる最中に、飛ばしてしまった靴を拾いに森の藪へ入って、そのまま消えてしまった。

 始めは、すぐに見つかるだろうと思った。けれど隼と二人で手分けして探しても見つからず、仕方なく親たちにも手伝ってもらった。しかし親たちも見つけることができず、やがて警察による捜索がされる事件にまで発展したが、有毅の行方はようとして知れなかった。行方をくらませた神社と結びつけて、神隠しに違いないと誰かが言っていた。

 神様に気に入られて連れ去られてしまったのだと。

 唐突に半身をむしりとられてしまったような日々を、有理沙は今でもまざまざと思い出すことができる。離れることなど考えたこともなかった片割れの喪失に、有理沙は正気ではいられなかった。

 夜は赤ん坊のように泣き通し、昼間も寝不足で思考がぼんやりしたまま気づけば泣いていた。隼は毎日の登下校時に顔を見せにきたが、有理沙は彼が持ってきてくれたプリントを積み上げるばかりで、会話もままなっていなかった気がする。

 今にして思えば、有毅の失踪でただでさえ憔悴していた両親に、さらなる心配と負担をかけてしまっていたことだろう。失踪現場となってしまった隼の家もさぞ大変だったに違いない。けれどあの時の有理沙は、自身の中の不安や恐怖と戦うのに精いっぱいで、周りに目をやる余裕などなかった。

 有理沙たち家族がそんな日々を過ごしていた中だった。ついに捜索が打ち切られてしまい、絶望に打ちひしがれた翌日――有毅が帰ってきた。

 有理沙は、有毅が帰ってきたことを真っ先に母に報告した。母は、もう有毅はいないのだと怒り、初めて有理沙に手を上げた。そして、泣き崩れた。有理沙の隣に、有毅がいるというのに。

 母のヒステリーを見て、有理沙は有毅の話をしてはいけないのだと、幼いながらに悟った。以来、有毅の存在は有理沙だけの秘密になった。

 有毅が高校の制服を着ているのは、有理沙と通学するのが楽しいから、というのが本人の言い分だ。生徒でもないし、他の人には見えないのだからわざわざ制服である必要はないと有理沙は思うのだが、妙なこだわりを持っているようなのだった。


「有理沙、帰らないの?」


 鼻の奥で土の匂いを感じながら藪を泳ぎ回る有理沙を、有毅は不思議そうに眺めて言った。


「帰るところだったの。なのに隼にボールをぶつけられて、ほんと最悪」


 有理沙は会話に応じつつも、クマザサの根元近くまで顔をうずめて、どこかにボールが見えないかと目を凝らした。


「早く帰った方がいい」


 降ってきた声が硬質さを帯びた気がして、有理沙は不審に思って体を起こした。有毅は相変わらず、かたわらで直立したまま有理沙を見ていた。


「有理沙は、早く帰った方がいい」


 有毅が繰り返すので、有理沙は怪訝に眉をひそめた。


「もちろん帰るよ。ボールを見つけたらすぐに帰る。そうやって言うなら、探すの手伝ってよ」


 有理沙が再びクマザサに身を沈めてボール捜索を開始すると、有毅が小さくため息をつくのが聞こえた。手を貸す気がないらしいことが分かり、ついむっとする。ボールを見つけるまで絶対に帰るものかと、少々意地になって有理沙は捜索を続けた。


「気をつけて、有理沙。近くまできてる」

「はあ?」


 急に有毅が固い声で言う。わけが分からず、有理沙は今度は顔だけを上げたが、有毅はこちらを見ていなかった。

 遠くをにらむような眼差しに誘われ、有理沙は身をひねって彼の視線の先を見やった。

 今いる場所よりなお暗い、鎮守の森の奥。クマザサの藪が途切れた先は、幹をうねらせるシイの木が互い違いに立ち並んでいた。その奥には翡翠色の屏風を広げたように竹林が茂り、静謐な陽光にその身を透かして、木々の輪郭を照らし出している。やはりここは神域なのだと思い出させるその光景は、しかし有理沙にとっては見慣れたものだった。


「なにもないじゃない。一体なにがいたの?」


 苦情を添えながら有理沙は視線を戻した。けれどそこに有毅の姿はなく、白い縁どりのあるクマザサの葉が揺れているだけだった。


「もう、勝手なんだから」


 現れた時と同じに、葉擦れの音ひとつさせず消えてしまった。本人の意思だけで自在に現れたり消えたりできるのだから、ずいぶんと都合いい体質になったものである。消えたといっても、近くにはいるのだろうが。

 不満を腹に溜めつつも、有理沙は気をとり直して藪に体を沈めた。

 もう一度身を低くして、改めて目を凝らす。注意深く視線を巡らせ、影の中に無数の筋を描くクマザサの茎の隙間にようやく、白い球を見つけた。


「あった!」


 うっかり見失わないよう身を屈めたまま、有理沙は一目散に藪を駆けた。クマザサの葉を振り払うように薙ぐと、独特の青臭さが顔を打つ。しなる枝葉をよけながら突き進めば、ボールに手の届く距離まではあっという間だった。

 ボールを拾い上げようと、有理沙は両手を伸ばして最後の茎を掻き分け――真っ黒なつぶらな瞳と目が合った。

 それは、三角形の口元から生える髭と、真っ直ぐ伸びる長い耳をそよがせ、丸い尻にぽっちりとだけついた小さな尾を震わせていた。そして、黒い毛並みの両前脚で、サッカーボールを重そうに抱えていた。


「……ウサギ?」
 この鎮守の森に、ウサギなどいただろうか。これだけ自然が豊かならば、たまたま有理沙が目撃していなかっただけで昔からいたのかもしれない。けれどウサギが、自身の体と変わらない大きさのボールを持てるほどたくましい動物だったとは、ついぞ知らなかった。

 じっとこちらを見る小さな目がまばたきしたので、有理沙もつられてまばたいた。

 途端に、ウサギがくるりと体を反転させた。有理沙に背中を向け、後足二本で猛然と駆け出す。サッカーボールを持ったまま。


「あっ、ちょっ、ちょっと待って!」


 有理沙は焦って、藪の間に消えようとする黒い背中を追った。

 藪の合間を跳ねるように、ウサギは駆けた。有理沙は何度もその姿を見失いそうになりながら、波打つ葉と葉擦れの音を頼りにかろうじて追い駆ける。

 ウサギは二本脚で走る生き物だっただろうかという疑問は、今の有理沙にはどうでもよかった。とにかく早く捕まえて、ボールをとり返さなければ。

 ウサギがクマザサの藪を抜けた。視界が開け、これで見失わずにすむと思いきや、障害物がなくなった分だけウサギの足が早くなった。


「待ちなさい! 待てこら!」


 声をあげてはみるが、それでウサギが待ちはしない。地面で波打つシイの根に何度も足をとられかけつつも、有理沙はウサギを視界からはずさないことに意識を集中させて走った。

 視野が翡翠色に染まり、竹林に入ったことが分かった。青竹を透かして瑞々しさを帯びた西日の中を、ウサギは迷わず駆けていく。ボールを抱えたその背中は無邪気な童子のようにも見えて、有理沙は胸の内に小さなざわめきを覚えた。

 正面を走っていたウサギが、地面に消えた。しまったと思い、有理沙は慌てて走るスピードを上げた。

 ウサギが消えた場所は緩い傾斜になっており、一部が竹の地下茎の露出した階段状になっていた。段差の先はまたしばらく竹林が続き、再びシイの森へと繋がっていく。有理沙は段差を飛び降りて視線を巡らせたが、ウサギの姿はどこにも見当たらなくなっていた。


「参ったなぁ」


 ぼやいてみても、見失ってしまった事実は変わらない。ボールが見つからなかったと言っても怒られはしないだろうが、どうにも後味が悪く思えてしまう。しかし、ウサギに持ち去られてしまったとなってはやはり簡単に見つかる気はしない。ひとまず戻ろうと、有理沙はきびすを返した。

 ふと視界に、黒々とした穴を見つけた。たった今、有理沙が飛び降りた地面の段差。ちょうどその場所に、地下茎に縁どられた穴が、ぽっかりと口を開けていた。

 こんな場所に穴があった記憶はない。おそらく最近できたものなのだろう。


「……もしかして」


 ウサギの巣穴かもしれない、と有理沙は期待した。ウサギがどのような場所に巣を作るのか正直よく知らなかったが、地面に穴を掘る動物であることは間違いないはずだ。これが巣穴であるならば、さっきのウサギが中にいる可能性はある。

 驚かせて逃がしてはまた追い駆けっこをするはめになるので、有理沙は足音を忍ばせて穴に歩み寄り、覗き込んだ。

 穴の入り口は、竹の地下茎に支えられてそれなりにしっかりして見えた。幅は有理沙の肩よりもやや広いので、中に入れないこともないだろう。けれど穴の中は墨を流し込んだように真っ暗で、様子がまったく伺えなかった。

 それでも有理沙は少しでも生き物の気配を探ろうと、地面に両膝をつき、穴の中へと身を乗り出した。

 その時だった。

 とん、と。誰かが有理沙の背中を押した。


「えっ」


 思わぬことに驚いた、ほんの一瞬の間。悲鳴をあげる(いとま)もなく、有理沙の体は穴へと吸い込まれた。

 穴は狭いはずなのに、なにかにぶつかったり擦れたりする感覚はなかった。なにもない空中に、体が放り出されたようだ。ジェットコースターに安全バーをしないまま乗ったら、こんな風になるのかもしれないと、妙に冷静に考える。

 視界は墨や漆の色よりもさらに暗く、落ちただろう穴の入り口も、もう見えなかった。上も下も分からず、自分は本当に落ちているのか、あるいは飛び上がっているのかも判然としなくなってくる。

 不意に、光が差した。有理沙が落ちていく先に、淡く光るものが見える。穴の底だろうかと思った瞬間、光が一面に広がり、幕を引きはがすように暗闇が消えた。そして目の前に、茶色い地面が見えた。

 驚く間もなく、有理沙の体は地面に投げ出された。


「あいたっ」


 仰向けにひっくり返り、なにが起きたのか分からないまま、有理沙は呆然と伸びた。腰を打ったのか、背骨の下の方が痺れたように痛んでいる。身じろぎすれば、厚く折り重なった草が体の下で乾いた音をたてた。深く茂った草が落下の衝撃を多少なりとも和らげてくれたのならば、不幸中の幸いと言えるかもしれない。

 自分の中の衝撃が過ぎ去るのを待って、有理沙は慎重に起き上がった。


「いたたた……」


 やはり腰を打っているらしい。ひどく傷めてなければいいのだけれど、と思いながら腰を押さえ、有理沙はようよう立ち上がって顔を上げた。そして一面に広がる銀色の野原に、言葉を失った。

 見渡す限り果てなく見える、ススキの原だった。

 ススキは有理沙の目線ほどの高さがあった。茎の一本一本が獣の尾に似た豊かな花穂をつけ、銀色に輝きながら波を描きそよいでいる。揺れた穂先から綿毛が舞うたび、野原の上をさやかなきらめきが走り抜けるようだった。その眺めが、地平線の彼方まで続いてた。

 ここがどこなのか疑問に思いつつも、有理沙は感嘆せずにはいられなかった。


「うわあ、すごい!」


 地平線に見える空が夜の色をしていて、有理沙は頭上を仰ぎ見た。

 空は、有理沙が落ちた穴と同じに黒かった。とはいっても完全な闇ではなく、大きな青い月が高い位置で輝き、ススキの原を照らしている。

 月は本当に青かった。青白い月というのはあるものだが、それにしても、これほど鮮やかな瑠璃色になることがあるだろうか。さらには青と混じり合うように白が渦を描いてまだら模様を作っており、月とはこんな風だったろうかと、有理沙はちょっと首をひねった。

 よく考えてみれば、穴に落ちて月が見えるというのもおかしな話だ。穴が別の場所に通じていたとして、入口となった神社の近辺にこんな原っぱはなかったはずだ。

 顎に手を当てて有理沙が考え込んでいると、人の声が鼓膜をかすめた気がした。はっとして振り向くが、そこにはススキが茂るばかりで人の姿はない。それでもじっと耳をすませていると、再び声らしきものが有理沙の耳朶(じだ)に届いた。やや甲高さのあるそれは、子供の声のようだ。幼い子供ならば、背の高いススキに阻まれて姿が見えなくても不思議ではない。

 有理沙は声のする方角を見定めると、ここがどこなのかの答えを求めて、銀色の野原へ分け入った。
 声に近づくにつれ、それが歌であることに有理沙は気づいた。それも複数人の声が重なり、合唱をしている。歌の合間にさんざめくような話し声も聞こえて、かなりの人数が近くにいるのだろうことが分かる。少しずつ鮮明になってくる歌声の陽気さに力を得て、有理沙はススキの綿毛を巻き上げながら猛然と野原を突き進んだ。

 ススキが途切れ、視界が開けた。そして、ウサギがいた。

 一羽ではない。十は確実にいるだろうか。様々な柄や体色のウサギが集まり、跳ねまわり――餅つきをしていた。

 ススキの原の真ん中で、その場所だけは綺麗に刈り込まれていた。遊びまわるには十分な広さだろう円形の広場の中央に、立派な白木の臼が置かれ、ウサギたちがとり囲んでいる。

 ひときわ体が大きな茶色いウサギが杵を振り下ろすたび、周りのウサギがやんやと囃し立てる様が見てとれた。

 ずっと聞こえていた歌に意味を持った歌詞がのって、ようやくはっきりと有理沙に届いた。


 ウサギさんの餅つきは
 トーン トーン トッテッタ
 トッテ トッテ トッテッタ

 おっこねて おっこねて
 おっこね おっこね おっこねて

 とっついて とっついて
 とっつい とっつい とっついて

 シャーン シャーン
 シャン シャン シャン

 トッテ トッテ トッテッタ


 目の前の光景が信じられず、有理沙は唖然として立ち尽くした。

 なぜ、こういう時に有毅が出てきてくれないのだろう。普通と少し違う彼が見えるところにいてくれたならば、この現実離れした状況ももう少し冷静に受け入れられそうな気がするのだが。

 餅つきをするウサギたちの向こうで、なにかが跳ねるのが見えた。餅つきウサギたちよりも一回り体が小さい子ウサギたちが、じゃれあい遊び回っている。その内の黒い子ウサギが、自身の体ほどもあるボールを、ぽーんと投げ上げるのが見えた。

 その瞬間、有理沙は穴に落ちる前のできごとを思い出した。


「あ! ボール!」


 有理沙が声をあげると、歌が途切れ、ウサギたちが一斉に振り向いた。

 驚かせてしまったらしいことを有理沙は危ぶんだが、そもそも黒ウサギがサッカーボールを持ち去ったのが悪いのだと思い直す。逃げてしまったとしても構わないだろう。ボールさえ返してもらえるのであれば。

 有理沙が思い切って足を踏み出すと、ウサギたちはわっと大声をあげた。


「お客様だ!」


 叫ぶと同時に、ウサギたちが群れになって駆けてきた。予想と反する反応に、有理沙はかえってぎょっとして足を止めた。その足元へ、ウサギたちはお構いなしに群がり、とり巻いていく。


「やっとお客様がみえたぞ!」

「新しい子は久しぶりだね」

「ねえねえ、君の名前は?」


 押し合いへし合いしながら、ウサギたちが詰め寄る勢いで畳みかける。有理沙はさっきまでの勢いをすっかり失い、気圧されるまま体を引いた。


「ちょっと、ちょっと待って」


 勢いに耐えかねて後退った有理沙のひかがみを、誰かが後ろから押した。


「うわっ」


 膝からひっくり返りそうになり、慌てて足を前に出して踏みとどまる。首をひねって背後を見れば、両前脚をいっぱいに伸ばしたウサギと目が合った。


「さあさあ、立ち話もなんですから。あっちに座って、どうぞゆっくりしていってくださいな」

「え、いや、あたしはボールを」

「まあまあ、そう言わずに」


 正面の二羽が有理沙の手を片方ずつつかんだ。後ろから膝やふくらはぎを押すのに合わせて、両腕を引っ張られれば、有理沙はたたらを踏むように進むしかない。体が小さいとは言っても、餅つきができるほどの力があるのだ。多少の抵抗が意味をなすはずもなかった。

 熱烈な歓迎はありがたいとは思うが、こう強引ではやはり気後れしてしまう。

 脚を押すウサギの数はいつの間にか増え、有理沙はあっという間に餅つき会場の真ん中近くまで連れていかれた。


「ツクヨミ様、ツクヨミ様! お客様がみえました!」


 白黒のぶち模様の子ウサギが、甲高く叫びながら先行するように走り出した。子ウサギは餅つきの臼を素通りし、さらに向こうへと駆けていく。有理沙は子ウサギの向かう先を目で追った。

 有理沙がいたのとは反対側の広場の端。ウサギたちがボール遊びをしていた場所を見渡せる位置。花穂を躍らせるススキを背景に、白い衣を着た男が座っていた。
 降って湧いた見知らぬ男の姿に、有理沙は息をのんだ。臼とウサギたちの影になって、つい今まで彼の存在に気づけていなかった。

 地面に胡坐をかいたまま、男は駆け寄ってきた子ウサギを抱き上げ、白い袴の膝に乗せた。袴と同色の幅広い袖が地面を刷くようにこすったが、気にする様子はない。

 ゆったりとした襟と腹の部分を紐で留めた着物は、狩衣(かりぎぬ)と呼ばれるものだ。月乃浦神社の祭祀で宮司が着ているのを、有理沙も見たことがある。烏帽子(えぼし)はつけておらず、長い黒髪を背中で緩く束ねるにとどめている。身じろぎするたびに淡く輝くその髪の艶といったら、花の女子高生の有理沙としては嫉妬せずにはおれない。

 首からは長い数珠に似た飾りをさげていて、透き通った珠の連なる中に一つだけある大きな珠の中で五色(ごしき)の輝きが揺らめいていた。

 男がぶち模様の毛並みを撫でると、子ウサギは心地よさそうに目を細めて鼻をひくひくと動かした。子ウサギは甘えるように男に身をすり寄せてから、指差すように前脚を持ち上げ改めて言った。


「ツクヨミ様、見てください。新しい子がきてくれました」


 男が顔を上げた。頬の後れ毛を掻き上げながら向けられた涼しい眼差しに、有理沙は思わずどぎまぎした。


「そのようだね」


 そう低く言った彼の声は、眼差し同様に涼やかだった。


「さあさあ、ツクヨミ様のお隣りへどうぞ」

「ちょっと、そんなに引っ張らないで」


 ウサギに腕を強く引かれ、有理沙はつんのめるようにしてツクヨミの前まで進んだ。近づいてみればそこには、二人でゆとりをもって座れる広さの茣蓙(ござ)が敷かれていた。くつろげるよう、厚めの座布団までがその上に置かれている。ずいぶんと準備がよすぎではないかと有理沙は思ったが、とりあえずは疑問の前に口にすべき事柄があった。


「待って。お願いだからちょっと待って」


 無理に座らされる前に、有理沙はどうにかウサギたちを押し止めた。有理沙の必死さを不思議がるように、ウサギたちの視線が集まる。ツクヨミまで同じ視線を寄こしてきたので有理沙は落ち着かない心地になったが、ようやく話を聞いて貰えそうなことには少しだけほっとした。


「あたしはサッカーボールをとりにきたの。黒いウサギが持っていたでしょう? 返してくれない?」


 有理沙が言い終わると同時に、ツクヨミの狩衣の袖がもぞりと動いた。気づいた有理沙が注意を向けると、地面に届く幅のある袖の隙間から、黒い鼻先が怯えたようにそろそろとのぞく。ツクヨミが腕を上げるようにして袖をどければ、真っ黒な子ウサギがすっかり姿を現した。袴に貼り付くように身を縮めていた黒ウサギは、焦ったようにツクヨミの背中へと回り込んだ。


「こら、隠れるでない」


 ツクヨミは身をひねって黒ウサギの首根っこをつかまえ、体の前へと連れ出した。動きに合わせ、ツクヨミの胸元で珠飾りがさらりと鳴る。


「さっきの(まり)はどこに?」


 ツクヨミの声はやはり穏やかだったが、やや問い質す響きを帯びていた。つかまれたままの子ウサギは怯えたように耳を垂れ、黒い体を丸めた。


「さっき投げたときに、向こうのススキの中に……」

「他にとったものはないね?」

「ありません」

「それなら、すぐにとってきて返して差し上げなさい。いっておいで」


 ツクヨミが手を放してやると、子ウサギは転がるように慌ただしくススキの原へと駆けていった。

 子ウサギの姿を見送ったツクヨミは、改めて有理沙へと顔を向けた。


「迷惑をかけ申しわけなかった。まだ幼い子だ。大目に見てやってくれると嬉しい」


 彼に謝られると思っていなかった有理沙は、一瞬返事に迷ってもごもごと口を動かした。


「ボールを返してもらえるなら、あたしは構わないけれど」

「そうか。それならばよかった」


 安堵した様子でツクヨミが表情を綻ばせ、有理沙は思いがけず心臓が跳ねた。顔のいい男性の微笑みというのは、それだけでかなりの威力があるものだと、身に染みて実感する。

 ツクヨミは有理沙の内心になど気づかない様子で、自身の隣に置かれた座布団を示した。


「あの子はすぐに戻ってくるだろうが、せっかくだ。ゆっくりしていくとよい。皆、宴を続けよう」
 ツクヨミの一声で、有理沙をとり囲んでいたウサギたちは揃って返事をして行動を再開した。


「さあさあ、お座りくださいな」


 席を勧められ、有理沙は多少の気後れを感じたが、少しくらいならいいかと思い直した。ウサギにもてなされる宴というのもなかなか楽しそうだ。

 有理沙はローファーを脱いで茣蓙に上がり、お邪魔しますと一声かけてツクヨミの隣に腰を下ろした。


(なれ)の名は?」


 座るなりツクヨミに問われ、有理沙は目をぱちくりした。


「あ。()()って、あたし? あたしは、吉野有理沙」

「有理沙か。外からここに加わる者は久しぶりだ。よく覚えておこう」


 ツクヨミの言い方に引っかかりを覚えて、有理沙は首を傾げた。お客がくるのが久しぶりだから親しくしたい、ということだろうか。

 そんなやりとりをしている間に、茣蓙に座る二人の前にお膳が運ばれてきた。優美な脚つきのお膳の上に、朱塗りの鮮やかな椀が並べられている。椀に施された蒔絵(まきえ)の華やかさに、有理沙は少々驚いた。これだけ豪華なお膳は、よほどの高級旅館でもなければなかなかお目にかかれないかもしれない。


「どうぞ召し上がれ」


 配膳をしたウサギにうながされ、有理沙はさっそく両手を合わせた。


「ありがとう。いただきます」


 有理沙は期待に胸を膨らませて、まずは一番手前の大きな椀の蓋を開いた。ふわりと、優しい出汁の香りが鼻先をくすぐった。椀の中身は、澄んだ汁に青菜と餅の入ったお雑煮だった。

 豪華な膳のわりに、料理は質素な印象だ。それでも食欲を誘う香りに、自然と唾液が湧き出す。考えてみれば、今日は日課となっている学校終わりの買い食いをしていないのだ。有理沙は空腹を満たすべく、すべすべとした塗り箸をとり上げ、水面(みなも)の満月のような餅をつまんだ。

 つきたての餅はふわりとした感触と共に、箸の先を包み込んだ。そっと持ち上げれば、汁をまとって薄く伸びていく。その絹のように白さに見入りつつ、有理沙は餅を頬張った。餅はなめらかに舌をすべり、噛むほどに甘みを増した。汁のわずかな塩味がその甘みを淡く包み、つるりと喉へと落ちていく。


「おいしいー!」


 有理沙は感嘆して、夢中で箸を進めた。配膳をしたウサギは有理沙の反応に満足した様子で髭をそよがせた。


「お気に召したようでよかったです。たくさんありますから、どんどん召し上がってください。きなこやお醤油、餡子はもちろん、大根おろしのお餅もできますよ」


 口の中のものを飲み込んでから、有理沙は目を丸くした。


「そんなにたくさん! どうしよう。全部おいしそう」

「それなら、全部お持ちしましょう」


 配膳ウサギは一旦その場を離れると、餅つきウサギたちの方へと駆けていった。するとすかさず別のウサギが進み出てきて、小振りな椀型の盃を有理沙に差し出した。


「甘酒はお好きですか?」

「もちろん大好き。ありがとう」


 有理沙は迷わず盃を受けとった。少し香りを楽しんでから、盃の縁にそっと口をつける。白くとろりとした甘酒は人肌に温かく、口に含めば夢のような甘さが広がった。


「これもおいしいー」


 甘さの余韻にうっとりと酔いしれると、有理沙は盃を置いて箸を持ち直した。

 次々と運ばれてくる料理はどれも素朴だったが、想像を上回るおいしさで有理沙は感動しっぱなしだった。不思議と満腹になる気配はなく、味に飽きることもなく、箸は止まらない。有理沙が目の前の椀を残らず空にしたとしても、追加の餅がどんどんつかれ、速やかに新しい椀に入れ替えられた。

 有理沙が何杯目になるか分からないお雑煮をすすっているときだった。隣からくすくすと笑う声が聞こえた。振り向くと、膳のものを食べ終えたツクヨミがくつろいだ様子でこちらを見ており、有理沙は我に返るようにしまったと思った。


「ご、ごめんなさい。あたし、いつの間にかこんなに食べて」


 初対面の男性に無遠慮な大食いっぷりを披露してしまったことに気づき、今更ながら羞恥心が込み上げる。有理沙が慌ててとり繕うように椀と箸を置くと、ツクヨミは声を上げて笑った。


「食べ物はいくらでもある。好きなだけ食べなさい。今日はとても気分がよい。誰か、笛を」


 ツクヨミが声をかけると、どこからともなく篠笛を捧げ持ったウサギが進み出てきた。篠笛を受けとると、ツクヨミは有理沙にちらりと視線を投げかけた。


(がく)は好きかな」


 有理沙が是とも否とも答える前に、ツクヨミは笛を唇にあてた。あれほど騒がしくしていたウサギたちが、水を打ったように静まり返った。息をのむことさえ憚られるほど、待ちわびるような沈黙。

 ツクヨミがそっと、笛に息を吹き込んだ。

 紡ぎ出された音に、有理沙は詰めていた息を吐き出した。笛の音は妙なる調べとなって、高く、時に低く響き、耳朶を慰める。有理沙に笛の良し悪しが分かるような教養はなかったけれど、どこか懐かしさも覚える音色に自然と聞き入った。

 笛に合わせて、誰かが歌い出した。それはよく知る歌のようなのに、記憶のものと少しずつずれて、心の繊細な部分に触れるようだった。とても美しく耳に心地いいはずなのに、切なく切なく、歌は響く。


 ウサギ ウサギ
 なに見て跳ねる
 まんまるお目々に映るのは
 見えども届かぬ 恋し君
 松本隼(まつもとはやと)は、甘しょっぱいスポーツドリンクを一気に口へと流し込んだ。周りではサッカー部の仲間たちが、同じように水分補給をしながら汗を拭き、思い思いにストレッチや休憩をしている。隼はスポーツドリンクを飲み込みながら、目の前の青いベンチへと視線を落とした。そこには隼の荷物と一緒に、有理沙の鞄を置いていた。

 荷物の持ち主はすぐに戻るだろうと思ったが、さすがに地面に放り出したままではまずいだろうと拾っておいた。しかし一向に、有理沙が戻ってくる様子がない。この休憩を最後にもう一ゲームほど練習したら、部活時間も終わりになるだろう。

 隼は水筒を鞄にしまうと、隣にいた部員の肩を叩いた。後頭部を刈り上げた同年の部員は、顔だけで振り向いた。


「ん? どうした?」

「有理沙がボールとりにいったまま戻ってこないから、少し様子を見てくる。練習が始まるまでに戻らなかったら、先生に適当に言っといてくれ」

「はいはい。分かったよ。羨ましいなぁ、お熱くて」

「ばーか。そんなんじゃねえよ」


 仲間の肩を軽く小突いてから、隼はサッカーコートを横切るように駆けだした。

 隼と有理沙の通う高校は、少し運動部が強い以外はこれといって特色のない普通科の進学校だった。男女で同じ紺のブレザーもごくシンプルなもので、制服を目的にくる生徒などもいはしない。唯一特徴と言えるかもしれないとすれば、隼の父が宮司をしている月乃浦神社と隣接していることくらいだ。

 とはいっても、神社と高校になにか関係があるわけではない。この高校への進学を決めた理由とて、近くてサッカーができるからというだけだ。隼たち家族の住む家は神社の敷地内にあるので、朝ゆっくりできるのと、忘れ物をとりにいきやすいのが非常に都合がよかった。

 できるだけ急いで戻ろうと、隼は砂埃の舞うグラウンドを一気に走り抜けて、緑のフェンスをよじのぼった。


「有理沙ー、ボール見つかったかー」


 フェンスから飛び降りながら、隼はクマザサの藪に向かって声をかけた。いつものわめくような声が返ってくるだろうと予想しながら、フェンスを背にして真っ直ぐに立つ。けれど返事はなく、声が聞こえなかったのだろうかと思って、隼は軽く息を吸った。


「おーい、有理沙ー」


 返事はなかった。返事どころか、近くの藪にいれば聞こえるだろう葉擦れの音さえもなく、林床(りんしょう)のクマザサもしんとしている。薄暗い鎮守の森の奥も、わずかな風に木々の枝葉が小さく揺れる以外に、動くものの気配は見えなかった。


「有理沙ー、いないのかー?」


 もう一度呼んでみるが、やはり応えるものはない。さすがに不審に思って、隼は眉をひそめた。


「隼」


 突然、真横から呼びかけられて、隼は弾かれるように振り向いた。紺ズボンの制服を着た少年が、間近に立っていた。見覚えのある姿に、隼は胸を撫で下ろした。


「なんだ、有毅か。急に出てきたら驚くだろう。でも、有毅がいるってことは、有理沙も近くにいるんだな。あいつ、どこまでいったんだ」


 有毅に問いかけながら、隼は改めて目の前の森と見渡した。つるべ落としに日は低くなり、森を漂う薄闇も色を濃くし始めている。けれど有理沙が近くにいるなら見つけられるはずだと思い、隼は森の底に目を凝らした。


「有理沙が連れていかれた」
「え?」


 出し抜けに有毅が囁き、隼は咄嗟に聞きとれずに聞き返した。


「なんだって?」


 振り向けば、色素の薄い瞳が真っ直ぐに隼を見ていた。


「有理沙が連れていかれた」


 有毅は繰り返し、有理沙とよく似た顔を悲痛に歪ませた。


「やっぱり、ぼくだけでは駄目だった。自分が見つからないようにするのが精いっぱいで、なにもできなかった」


 有毅の言葉が浸透するのに時間がかかった。じわじわと意味を悟り、隼は冷水を浴びせられたように血の気が引いていく。


「連れていかれたって、まさか……」


 ゆっくりと、有毅が頷いた。


「そんな!」


 声を荒らげ、隼は有毅の肩をつかんだ。


「なんで今になって有理沙が! 有毅だけじゃなくて、どうして有理沙まで……どうして!」


 有毅が消えた幼き日の記憶が蘇り、隼は打ち震えた。

 毎日のように自宅に警察がきて、マスコミが押し寄せ、出かけることさえままならなかったのを思い出す。たくさんの大人たちが有毅の失踪時のことを聞きたがり、同級生たちは遠巻きにして噂し、隼を腫物のように扱った。耐え忍ぶしかない日々だった。しかし両親は疲れ切った顔をしながらも、お前は心配しなくていいのだと、隼を気づかってくれていた。

 隼は疲弊していたが、大きな負担は両親が引き受けてくれていた。だからこそ、なにより気がかりだったのが、有理沙のことだった。

 双子の弟である有毅がいなくなって、有理沙は急速に生気が希薄になったようだった。学校にくるどころか、まったく外に出ることもなく家に籠るようになった。こちらがどんなに話しかけても反応は鈍く、そのまま有理沙まで消えてしまうのではないかと、隼は焦燥した。

 そんな状況から必死の思いで、元のはつらつとした有理沙をとり戻したのだ。それが再び奪われるなど、隼にとってあってはならないことだった。

 狼狽える隼の手を有毅はそっとつかんで、肩から離させた。触れた有毅の肌に、人らしい体温はない。肌の感触はあっても、質量を伴ってはいなかった。


「ぼくは、有理沙をとり戻したい」


 隼を見る、有毅の眼差しが強くなった。


「お願いだ、隼。有理沙をとり戻すのに力を貸して欲しい。ぼく一人では無理でも、隼と協力できればきっとできる。こんなことを頼めるのは、ぼくを呼び戻せた隼だけなんだ」


 有毅の声はあくまで静かだったが、縋る響きがあった。有理沙を失いたくないと思うのは、隼だけではない。

 隼は手を下ろすと、何度か深呼吸して、自身の中の動揺を懸命に抑え込んだ。


「おれは、どうしたらいい?」


 隼が真正面から問えば、有毅も同じように正面から隼を見詰めた。


「ぼくと一緒に、月の国へいって欲しい」

「月? 有理沙は、月にいるっていうのか?」


 有毅はゆっくり頷いた。


「人でないものを、相手にすることになる。危険なことはできるだけないようにするつもりだけど、保証はできない。いく前にしっかり準備して」


 笑うようにほんの少しだけ、有毅は目を細めた。


「隼は前よりずっと力をつけているし、ぼくもいる。だから、きっと大丈夫。有理沙は、ぼくと同じにはならない」