かぐやの国のアリス

 穴の底に着いた隼は、一面のススキの原に感嘆の息をもらした。


「すっげぇ……」


 ススキが波打つたび銀の野原をきらめきの走るさまは、この場所にきた目的をつかの間忘れさせるものだった。隼がつい景色に見入っていると、隣に並ぶように有毅が姿を現した。


「綺麗な場所だよね」

「本当に月なのか、ここは」

「そうだよ」


 有毅は腕を掲げ、頭上を指差した。


「あれが地球。ぼくらは、あそこからきた」


 有毅が示す先を追って、隼は空を仰ぎ見た。普通の夜空ならあるだろう濃淡がまるでない真っ黒な空。そこに満月のように円を描く大きな星があった。表面で渦を巻いている白い模様は雲だろうか。


「まじか……」


 隼の中で月へいくといえば、アポロ11号の月面着陸映像なのだが、竹林の穴を通ってきたことといい、どうもかなりイメージと違う場所らしい。根の国という言葉がつい頭に浮かび、縁起でもない、と隼は考えを振り払うように首を振った。死者の国とまで言わなくとも、概念的に近い空間ではありえるかもしれないが。


「有理沙は、どこにいるんだ」


 言いながら、隼はススキの原へと視線を戻した。前後左右、見渡す限りの銀の野原に起伏はなく果てもない。だからこそ他に誰かいれば見えそうなものなのだが、人らしき影は見えなかった。


「きっと、ツクヨミのところにいる」

「ツクヨミ?」


 聞き捨てならず、隼は眉間を厳しくして有毅を見た。


「ツクヨミって、古事記に出てくる、月神の?」


 慎重に問うた隼に、有毅は首を横に振った。


「ツクヨミとは名乗ってるけど、彼は神様とか、そういうものじゃない。人ではないことは確かだけど。ツクヨミ自身も、自分がなんなのかは分かっていないんだと思う」


 淡々と語る有毅の表情が強張っている。それで隼は、ツクヨミとやらがどんな存在かおおよそ察した。


「それで、有理沙はそのツクヨミにつかまって閉じ込められてるってことか」


 有毅はまた首を横に振った。


「閉じ込められているってことはないと思う。むしろ歓迎されて、もてなされてるんじゃないかな」

「は? ツクヨミっていうのは悪いやつじゃないのか?」

「ぼくにははっきり分からない。ただ……」


 言いよどむように、有毅は言葉を途切れさせた。わずかに唇を噛み、考え込む様子で沈黙する。隼が言葉の続きを待っていると、有毅は息を吐いてこちらを見た。


「隼、これからぼくが言うことは、絶対に守って欲しい」


 有毅が声色を変えたので、隼は体ごと向き直った。ここが隼の知らない場所である以上、頼りになるのは有毅しかいない。

 有毅は言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を発した。


「ここの食べものを、絶対に口にしてはいけない」

「食べたら、どうなるんだ」


 訝しむ隼に、有毅は一呼吸置いてから続けた。


「月の国のものを食べた生き物は、月の国のものになってしまう――帰れなくなるんだ」


 隼は、有毅の言葉の意味が咄嗟に入ってこなかった。ただ、胸の内でざわりとしたもの恐ろしさが首をもたげた。血の気が引くのを感じながら隼は有毅を見詰めた、次の瞬間には眼差しを鋭いものにした。


「そのこと、有理沙は知ってるのか」


 有毅は気まずそうに瞳をさまよわせ、隼から目線をそらした。


「有理沙は知らない。伝える余裕がなかった」


 反射的に距離を詰めて、隼は有毅の襟をつかんだ。


「有理沙はツクヨミにもてなされてるって言ったな。それって当然、食事も出されてるんじゃないか」

「……おそらく」


 目を合わせないまま呟くほどの声で有毅が言い、隼は頭に血がのぼった。


「有理沙はもう帰れないとか言わないよな」


 突き飛ばすよう襟を離せば、有毅が尻餅をついた。触れる質量が感じられないので、どうにも気持ち的なすわりの悪さを伴う。有毅に怒るのはお門違いだとはどこかで思いながら、隼は憤りを抑えられなかった。様々な悪態が頭をよぎったが、それを口にするのだけはどうにか堪えた。


「……ごめん。でも、戻す方法があると思うんだ」


 囁くように有毅は言い、シャツの襟を整えながら立ち上がった。


「まだ有理沙はこちらにきたばかりだから、食べ物が完全に体に馴染む前なら、きっと間に合う。でも、隼まで月の国のものになってしまったら、もうぼく一人ではどうにもできない」


 有毅は、うつむけていた顔を上げた。


「月の国にはツクヨミと、その奥方、それからツクヨミが集めたウサギしかいない。ウサギたちは善良だから攻撃してくることはない。でも、だからこそ、ここでは一番危険なんだ。彼らは悪意なく、色々なものを食べさせようとしてくるから」


 進み出た有毅は隼の横を通り過ぎ、数歩いった先で振り返った。


「これからぼくらは、ツクヨミのいる輝夜殿(かぐやでん)に向かう。輝夜殿のある月の都の住民はみんなウサギなんだ。だから、本当に気をつけて」


 有毅がいく先を示す。隼はまだ憤然として納まらないものを感じていたが、深く息を吐いて冷静さをとり戻す努力をした。有毅の言う通りであるなら、内輪でもめている余裕はない。


「……分かった。十分に気をつける」


 自分をとり戻して隼が了解すれば、有毅は口元に薄く笑みを見せた。


「心配だな。隼は優しいから」

「どこがだよ」


 隼は本心から返したが、有毅は笑い声を立てただけだった。


「悪かったな。乱暴なことして」


 気をとり直すように隼が謝罪すれば、有毅は目を伏せてから首を横に振った。


「ううん。ぼくも悪かったんだ。さっきも言った通り、きっとまだ間に合うと思うけど、ゆっくりしてもいられない。急ごう」


 有毅が先行して歩き出し、隼はすぐにあとを追った。

 ススキをどんなに掻き分け進もうとも、有毅の足音がすることはない。それでも一生懸命に地面を踏みしめるように歩く背中に、隼はある種の頼もしさを感じると同時に、自分も頼られているのだと実感した。

 有毅だけならば、歩く必要などないはずだ。それでもあえて隼に合わせて歩いている。それほど有毅は、隼の力を必要としてくれているのだ。

 有理沙と有毅、必ず二人とも助けてみせると改めて誓って、隼は銀の野原を突き進んだ。
 香ばしい匂いを感じて、有理沙はゆるゆると目を開いた。ぼやけた視界が焦点を結べば、黒ずんだ板戸に向かって自分が寝ていることを認識できた。心地よい布団の肌触りを感じながら、有理沙は寝起きの倦怠感に引きずられるように、ごろりと寝返りを打って向きを変えた。

 そこは、板の間に囲炉裏の切られた見知らぬ部屋だった。

 はてここはどこだっただろうと考えながら、有理沙は億劫に起き上がった。億劫だと思ったわりには、体はずいぶんと軽く感じられた。

 板戸と障子戸に囲われた部屋は、趣ある古民家を思わせるものだった。むき出しの太い梁と屋根裏は囲炉裏の煙で燻されて、黒く艶を放っている。木目鮮やかな床板に切られた囲炉裏には、五つずつ串に刺した団子が火を囲うように並べられていた。白い餅肌にこんがりとした食べ頃な焼き色がつき、香ばしい匂いを立ち昇らせている。枕元を見やれば、有理沙が探していたサッカーボールが置かれていた。

 転がらないよう座布団に乗せられているボールを見て、有理沙はウサギたちの宴会での自身の食べっぷりを思い出した。フードファイターもかくやあらんとばかりに、一体何人前を平らげただろう。しかもそれだけの量を食べたあとで、手元に戻ったサッカーボールで子ウサギたちと全力で走り回って遊んだのである。思い返すだけで、有理沙は自分の胃袋の強靭さにおののいた。

 散々走り回ってさすがに疲れ、休憩をしたところまでは覚えているのだが、そこから先の記憶がなかった。茣蓙に寝そべったのは確かなので、そのまま居眠りしてしまったのかもしれない。目覚めないまま宴会が終わって、起こさぬよう誰かが運んでくれたのだとしたら、大変に申しわけないことをしてしまったと、有理沙は頭を抱えた。

 ふと、部屋の外から誰かが歩いてくる音に気がついた。有理沙とは囲炉裏を挟んだ位置にある障子戸。その向こうの土間を歩く、軽快な足音がこちらに向かってくるのが分かる。足音はあっという間に近くなり、障子に影が映ったと思った瞬間には、がらりと戸が引き開けられた。

 顔を覗かせたのは、真っ白な毛並みのウサギだった。


「おはよう、有理沙」

「……おはよう」


 目が合うと同時に挨拶されたので、有理沙は思わず返事をした。白ウサギの声は、聞き覚えのあるような少年のものだった。けれど平板で抑揚に乏しく、そういう話し方をする者に覚えはない。

 当たり前のように部屋に入ってきた白ウサギは、素焼きの皿を一枚と、小さな甕を抱えていた。そのまま囲炉裏端の円座にちょこんと座り、皿と甕をかたわらに置く。前脚を伸ばして、囲炉裏に並べられている団子を一本とると、焼き加減を確認するようにくるりと回してから、串を持って甕の中へ逆さに入れた。そしてとり出された団子は、透き通った飴色のたれを纏っていた。

 白ウサギはそれを皿に置くと、他の団子も次々に手にとってはたれを纏わせて、皿に置いていった。

 慣れた手つきで団子を積み上げる白ウサギを観察しながら、このウサギは誰だったろうかと有理沙は考えた。

 ススキの原での宴会に、こんなに真っ白なウサギがいただろうか。あの場にいたすべてのウサギと話したわけではないし、数もたくさんいたので白ウサギがいなかったとは断言できない。それでも会話はしなかったはずだ、とは思うのだが、親しく呼ばれたことを考えると自信がなくなった。有理沙があれこれと思い巡らせていると、団子を積み上げ終わった白ウサギが有理沙に向かって皿を差し出した。


「食べる?」


 甘辛い匂いに誘われて有理沙は手を伸ばしかけたが、宴会で食べた量を思い出して踏みとどまった。


「ありがとう。でも、今はお腹が空いてないから」

「そう」


 白ウサギはあっさり皿を引っ込めると、自分で団子を一本とって、ぱくりと口に入れた。もぐもぐと小刻みに動くその愛らしい口元を眺めて、有理沙は布団を押しやって座り直した。


「あなた、名前は?」


 有理沙が少々改まって尋ねると、白ウサギは団子を飲み込んでから、不思議そうにこちらを見た。


「有理沙、ぼくが分からない?」


 逆に問われて、有理沙は焦った。やはり面識があったらしい。けれどウサギの顔など有理沙から見たら皆同じで、色や柄以外にどう見分けろというのか。

 有理沙が挙動不審に目線をさまよわせていると、白ウサギは団子の皿を置いて肩をすくめた。


「ずっと離れてたから仕方ないのかな。ぼくはすぐに有理沙だって分かったのに」


 やれやれと言いたげな口調が、ふいに有理沙の記憶にあるものと重なった。まさかと思ったのは一瞬で、彼しかいないという確信をする。それでもやはりどこかでは信じられず、有理沙は慎重に呟いた。


「……ユウキ?」


 白ウサギは笑うように、うっそりと頬の毛を膨らませて赤い目を細めた。あんぐりと、有理沙は口を開いた。


「ユウキ、なんでウサギになってるの」

「なんでって、有理沙もウサギなのに?」

「え?」


 弟はなにを言っているのだろうと思いつつ、有理沙は自身の手に目を落としてぎょっとした。目の前のユウキと同じ真っ白な毛に覆われた、丸い前脚がそこにあった。


「え? え?」


 頬に触れ、頭に触れる。口元からは細い髭が弧を描いて伸び、頭の上には真っ直ぐに立ち上がった二本の耳があった。


「なんで? なんで? え?」


 混乱して顔中を撫でまわす有理沙を尻目に、ユウキは団子をもう一本食べ始めた。


「月の国の住民は、ツクヨミ様と奥方様以外みんなウサギなんだ。なにも不思議がることじゃない」

「でも、そんなの困る」


 有理沙が縋るように言えば、ユウキは団子の串を口からはずして首を傾けた。


「なにが困るの?」

「なにがって……だって、あたし帰らないと」

「ここが有理沙の家だよ。どこに帰るって言うのさ」

「どこって……」


 それ以上言葉が続かず、有理沙は呆然とした。ユウキが言うように、ここが有理沙の家であるはずだ。だというのに、帰らなければという焦燥が、胸の内をじりじりと焼いている。頭での理解と感情があまりにもちぐはぐしていて、悪い物でも食べてしまったように胃の腑のあたりがきゅうと痛む気がした。

 ユウキは相変わらずのんきに団子を食べている。それを恨めしく思いながら、有理沙は気分の悪さを誤魔化そうと、枕元にあったサッカーボールを引き寄せた。ひと抱えもあるボールを体の前にやれば、顎を乗せられてほどよく体重も預けられる。有理沙はサッカーボールのぴかぴかとした表面をちょっと撫でた。このボールを探していただけのはずが、ずいぶんおかしな事態になってしまったようだ。

 その時はたと違和感を覚えて、有理沙は首をひねった。左右に何度か首をひねって考えてみるが、違和感はぬぐえない。どうにもすっきりせず、ついに唸ると、ユウキが気づいて顔を向けた。


「有理沙、どうしたの?」

「ううん。なんでもない」


 有理沙が咄嗟に平静を装えば、ユウキはすぐに興味を失った様子で顔を戻して団子を食べ進めた。

 わけの分からない違和感でユウキを心配させてはいけない気がして、有理沙は脱力しながら小さくため息をついた。


(あたし、なんでボールなんて探してたんだっけ)



 第一章 了
 目抜き通りに出ると、ずっと聞こえていた喧騒が一層大きくなって打ち寄せた。道の真ん中で枝を垂らしている柳並木の下を、ウサギたちが耳をそよがせ陽気にいき交っている。空は相変わらず夜の色をしていたが、白い石畳の道がほの明るく光っているようで視界には困らない。道の両側には木造長屋造りの商店が暖簾を並べ、客を呼び込む声があちこちで飛び交っていた。暖簾の色はウサギたちの毛並みよりずっと多彩で鮮やかな色柄をしていて、活気を煽り立てるようだ。

 月の都は、一歩ごとに有理沙(ありさ)の興味をそそるものであふれていた。店先で交わされる、店主と客のちょっとしたやりとりまで、有理沙の長い耳は拾っていく。

 どこかの家で子ウサギが生まれた。あそこの娘さんは大工の息子にぞっこんらしい。そんな会話についつい耳を澄ませていた有理沙だったが、前を歩くユウキの白い背中と距離が開いたことに気づいて慌てて追い駆けた。

 ユウキが出かけると言うので、有理沙も一緒に家を出てきた。実は少しばかり気分の悪さはあったのだが、なんとなく独りになりたくないと思ったのだ。けれど外に出た途端すっきりとしたので、ただの起き抜けの不調だったらしい。一本裏通りにある家まで届くほどの大通りの賑やかさが、有理沙の胸を躍らせたのも大いに影響したに違いなかった。


「あらユウキ、また奥方様のところ?」


 有理沙が追いついたところでちょうど声をかけるものがあり、ユウキが髭を揺すって立ち止まった。有理沙も足を止めると、道の脇へと顔を向けた。そこには、色とりどりの干菓子を並べた菓子屋があった。声をかけてきたのは、店先で品出しをしていた茶鼠(ちゃねず)色の雌ウサギだ。

 茶鼠ウサギを見たユウキは、声を発さずにその場で頷いた。有理沙は弟の愛想のない様子に軽く眉をひそめたが、茶鼠ウサギは構うことなくさらに明るく言った。


「それならこれを持っておいきよ。奥方様は桃がお好きだから」


 茶鼠ウサギが売り台から箱を一つとり、ユウキはやはりなにも言わずにそちらへ歩み寄る。有理沙は茶鼠ウサギが差し出した箱の中身が気になり、ユウキの肩越しに覗き込んだ。

 桃の実と花をかたどった薄紅色の落雁が、白い箱の中に並んでいた。箱の底には揺らめく水面を思わせる青い濃淡の金平糖が敷き詰められていて、鮮やかな花手水(はなちょうず)のようにも見えた。


「わあ、かわいい!」


 有理沙が無邪気に声をあげると、茶鼠ウサギはころころと笑い声をたてた。


「そうでしょう。ユウキ、こちらの娘さんは?」


 水を向けられ、これまで茫洋としていたユウキの表情にようやく笑みのようなものが浮かんだ。


「彼女は有理沙。ぼくの双子の姉さんなんだ」


 ごく端的に紹介をされたので、有理沙はユウキの隣に立って軽くお辞儀をした。


「有理沙です。双子の弟がお世話になってます」

「色白なところがユウキとそっくりね。こちらこそよろしくね」


 有理沙の丁寧な挨拶に、茶鼠ウサギは気さくに微笑んだ。
 蓋をして紙を巻いた落雁の箱を受けとると、ユウキがさっさと歩き出し、有理沙は慌てて会話を切り上げてあとに続いた。


「ユウキ、ちゃんと挨拶くらいしなさいよ。感じ悪いよ」


 菓子屋での一連のやりとりでユウキがあまりにも淡々としていたので、有理沙はつい苦言を呈した。けれどユウキは振り返りもせずに、黙々と歩を進めるばかりだ。有理沙は歩幅を大きくして、ユウキの隣に並んだ。


「ユウキっってば、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ」


 ユウキはやっと応えたが、顔は進行方向を向いたままだ。


「平気だよ。いつもあんな感じ。ツクヨミ様や奥方様に喜んで貰いたいだけだから、ぼくがどう反応しても一緒なんだ」
「だからって……」


 有理沙がさらに説教を続けようとしたところで、ユウキが足を止めた。急に立ち止まるものだから、追い抜きそうになって会話まで途切れてしまう。どうしたのかと有理沙は思ったが、瓦屋根の乗った門が目の前にあり、目抜き通りの一番奥まできたのだとすぐに気づいた。


「ここは?」

「ツクヨミ様のお屋敷。みんな、輝夜殿って呼んでる」


 常夜の空の下でことさら明るく見えるその屋敷は確かに名前の通りであるようだと、有理沙は思った。

 四つの柱が屋根を支える大門を中心に築地塀が左右に長く続いており、その広大さが並大抵ではなかろうことは外からでも伺い知れる。戸は開いていたが、塀も門もそびえる高さがある上に、庭園があまりに広いため少し覗いたくらいでは建物が見えない。けれど枝葉を茂らせて並ぶ庭木のどれもが黄金色に輝いていて、有理沙は息をのんだ。わずかな風に枝が揺れるたび、さらさらと鈴を鳴らすような音がしている。

 その不思議な音に有理沙が耳をそばだてていると、いつの間にかユウキが門をくぐって庭へと進んでいた。


「あ、ユウキ、待って」


 ユウキを追って門に飛び込めば、金の庭はますます輝いてるようだった。白い玉砂利を敷き詰めた道はただでさえ明るいというのに、そこから見える庭木の幹や枝がすべて、磨き上げられた金色をしているのだ。よく見ると、地面に接している根の部分は銀色であるようだ。枝の先には白い泡の粒のような実が鈴なりになっており、門の外でも聞こえたさらさらという音を奏でていた。

 有理沙は砂利につまずきそうになりながらも目が離せず、近くの木々を仰ぎ見ながらユウキの半歩後ろを歩いた。


「玉の木だよ」


 危なっかしい有理沙の様子に気づいたように、ユウキが振り向きながら言った。


「玉の木?」

「ツクヨミ様が奥方の衣兎(いと)様のために、蓬莱山(ほうらいさん)からとってきて増やしたんだ。ここは、衣兎様のためのお庭だから」


 蓬莱山がどこかは有理沙には分からなかったが、奥方のためにこれだけの庭を作り上げるツクヨミが相当な愛妻家であろうことは察せられた。容姿だけでなく立ち振る舞いや笛の音まで優雅なツクヨミを有理沙は思い出し、そんな男性に愛される奥方はさぞ幸せな女性だろうと少々羨む気持ちが芽生える。

 金の並木を抜けると、ようやく目的の屋敷が見えた。視界の端から端まで占めるほど大きな屋敷に、有理沙はもう何度目になるか分からないため息をついた。丹塗りの柱と白い壁のコントラストのなんと鮮やかなことか。建物の手前には瑠璃色の水をたたえた池があり、上下反転した屋敷を鮮やかさそのままに映している。池を渡る赤い欄干の橋が建物に向かって真っ直ぐに伸びており、その(たもと)に、ツクヨミが立っていた。
 輝夜殿はいくつもの棟を渡殿(わたりろうか)で繋いだ構造で、有理沙の知る神社とよく似ていた。ツクヨミの出迎えを受けた有理沙とユウキが通されたのは、橋を渡って正面にある寝殿(おもや)だ。庭に面した壁はとり払われており、板の間に敷かれた緋色の敷物に誘われるまま座れば、黄金色に輝く庭園が一望できた。屋根は都の他の家々よりもずっと高くて、天井を見上げるだけで首を傷めてしまいそうだ。

 白い狩衣の裾をさばいてツクヨミが有理沙たち二羽の向かいに腰を落ち着けると、控えていたウサギたちが高坏(たかつき)を捧げ持って出てきた。きつね色のあられが盛られたそれが有理沙たちの側とツクヨミの側にそれぞれ一つずつ置かれる。さらにツクヨミの前には、漆塗りの酒器がひと揃え乗った盆も置かれた。


「召し上がれ。せっかくきたのだから、ゆっくりしていきなさい」


 下仕えのウサギたちが下がると同時にツクヨミが言った。

 どこへいっても食べものばかり勧められている気がする、とぼんやり思いながら、有理沙はあられへと白い前脚を伸ばした。


「いただきます」


 あられは歯を立てるとほろりと崩れるように砕け、醤油の香りが口から鼻腔にまで広がった。この国はなぜこんなにもおいしいものばかりなのだろうと感じ入らずにはおれない。

 有理沙がうっとりと目を細めると、ツクヨミは涼しい目元を和ませて呟いた。


「もう馴染んできているようだね」


 なにが、とはツクヨミは言わなかった。都のウサギたちのことだろう、と有理沙は解釈した。


「ユウキもみんなも、よくしてくれています」


 ツクヨミは綻ぶように笑みを深めた。


「それはよかった。皆よい子たちばかりだ。仲よくしなさい」

「はい」


 耳朶を柔らかく撫でるツクヨミの声は胸の中心に染み入るようで、有理沙は自然と返事をしていた。

 ツクヨミは満足そうに頷くと、首を傾けるようにユウキへと視線を移した。


「ユウキはどうだ。願いが叶えられて、なにか変わったか」


 耳を少し震わせて、ユウキは赤い目を細くした。


「有理沙がいるととても落ち着くし、楽しみが多いです。ありがとうございました」

「ユウキは衣兎をよく慰めてくれている。これくらいのことは、あってよいだろう」


 ユウキとツクヨミの会話を、有理沙はあまり理解できないまま聞いた。有理沙のことを言っているのだとは思うが、どうしてかあまり深く聞いてはいけない気がしたのだ。手酌した盃を当てたツクヨミの唇が笑みの形をしていたので、彼の機嫌がよいことだけは察せられた。


「ツクヨミ様」


 ユウキが改まった声を出した。


「奥方様は起きていらっしゃいますか」

「ああ。先ほどの様子だと、今はとても気分がよいようだ」


 ツクヨミの笑みが、目に見えて分かるほど温かみを帯びた。声まで晴れやかで、奥方が本当にお好きなのだと有理沙でもしみじみと感じとれた。

 ユウキは丁寧な所作で、抱えていた菓子の箱を正面に置いた。


「奥方様への贈りものを預かってきました。お(へや)へいく許しをいただけますか」

「衣兎はユウキの来訪をいつでも心待ちにしている。有理沙も、ぜひ挨拶をしていってやっておくれ」


 鷹揚に言ったツクヨミに向かって、ユウキは前脚をついてお辞儀をした。菓子の箱を抱え直して立ち上がり、あられをぱくついていた有理沙の肩をつつく。


「いこう、有理沙」

「うん」


 有理沙は最後に一つだけあられを口に放り込んで立ち上がり、ツクヨミに一礼してから屋敷の奥へと向かうユウキを追い駆けた。

 奥方の住まいは屋敷正面から見て寝殿(おもや)の奥、裏庭を横切る渡殿(わたりろうか)の先の対屋(はなれ)だった。屋敷の裏も白砂に玉の木が植えられており、輝夜殿の庭はどこを切りとって見ても輝きであふれている。

 それらを横目に見ながら対屋(はなれ)を囲う(えんがわ)をユウキのあとについて歩いていると、ふと有理沙の目が庭の一角へと吸い寄せられた。

 金銀の木々の間を縫うように、表の池につながっているだろう小さな流れがある。その流れを渡った庭の端。敷地を囲う築地塀のすぐ手前。輝く木々の合間でそこにだけ、茶色の樹皮に緑葉を茂らせた木が植えられていた。けれどそれで、庭の美しさが損なわれているわけではない。瑞々しい葉の間には小さな深紅の実が無数になっていたし、木の下には玉の木に負けぬ麗しさを醸す女性がたたずんでいたからだ。
「ユウキ。あの人は誰?」


 有理沙が女性を指差しながら尋ねると、ユウキはすぐに足を止めて庭を見やった。


「衣兎様だ」


 あの方が、と有理沙は思った。

 ツクヨミの奥方は紋の織り込まれた紅梅色の十二単を着て、蝶鳥を呼ぶ花のようにそこに立っていた。腰を過ぎるほど長い髪は少しの乱れもなく、背中で艶めく流れを作っている。顎を持ち上げた横顔は小さな口元にあどけなさを残す愛らしさで、ツクヨミでなくとも心奪われる者は絶えないことだろう。

 奥方は花弁のように無数の色を重ねた袖を持ち上げて、緑葉の間の深紅の実をもいでは片手に持った小さな紺青の鉢に入れていた。

 ユウキが対屋(はなれ)の中には入らず、簀子(ぬれえん)から庭へと降りる(きざはし)を下ったので、有理沙もあとに続いた。敷き詰められた白い玉砂利を踏めば、どんなに忍び足をしようとも音がする。音に気づいてこちらを見た奥方が、花開くように微笑んだ。


「ユウキ。いらっしゃい」


 奥方は声までも愛らしかった。鈴を転がすような、とはこのような声を言うのだろう。果実を入れた鉢を持ち直した奥方は、緋色の袴の裾をやや持ち上げるようにして歩み寄ってきた。

 奥方は遠目にもあどけなさを感じたが、近くで見上げると人としては小柄でより幼さが見てとれた。幼いとは言っても、有理沙より二つか三つ下だろうかといったところだ。ツクヨミと並ぶと、かなり歳の差があるのではと思われる。


「こんにちは衣兎様。お邪魔しています」


 ユウキが礼儀正しく頭を下げ、有理沙も一拍遅れてそれを真似た。


「お友達が一緒なのですね。白い毛並みがユウキとそっくり」


 奥方の声も言葉も純真そのもので、ユウキはちょっと誇らしそうに顔を上げた。


「双子の姉の有理沙です。前にお話しした」

「初めまして奥方様。有理沙と申します」


 有理沙はユウキの隣に並んで、頭を下げ直した。

 普通なら、これですぐに奥方が返事をされるだろうと思った。けれどなかなか声が振ってこず、有理沙は顔を上げるタイミングを逸して戸惑った。待てども返事がないようなので、上目にそっと窺い見る。元から色白な奥方の頬がさらに青白くなっているように見えて、有理沙は怪訝に思って首を傾げた。


「あの、奥方様?」


 有理沙が声をかけると、奥方は我に返るように息をのんだ。


「あ、その、失礼いたしました」


 奥方はとり繕うように早口になって、姿勢を正した。


「有理沙ですね。ユウキから話は伺っています。とても素敵な姉君だとか」

「いえいえ、それほどでもないんですけど」


 ユウキが有理沙のことをなんと伝えているかは不明だが、褒められれば悪い気はしない。少々シスコン気味ではあるが、つくづくいい弟を持ったと思う。

 有理沙が照れからこめかみの毛をかけば、奥方は口元に袖を当てて上品に笑った。


「ユウキにはとてもお世話になっています。有理沙も、わたしとお友達になってくれると嬉しいのですけれど……」


 わずかに頬を染めて愛くるしく言われては、頷かないわけにはいかない。同性の有理沙ですらそうなのだから、ユウキが懐いているのも分かろうと言うものだった。


「もちろん。ぜひ仲よくしてください、奥方様」


 有理沙が持ち前の快活さで請け合えば、奥方は朝空が曙に染まるように頬を紅潮させて表情を綻ばせた。


「衣兎と呼んでください。そうそう、ヤマモモを採っていたんです。皆でいただきましょう」


 採れたての果実を盛った鉢を掲げて見せる衣兎の姿は、年相応の少女らしいものだった。


「お菓子もあります」


 ユウキが落雁の箱を差し出すと、衣兎はしゃぐ声をあげた。


「たくさんお話する時間ができそうです。麦湯(むぎちゃ)を用意させますね」
 通された衣兎の(へや)がものであふれていて、有理沙は驚いた。

 花鳥の描かれた金屏風や、艶やかな漆塗りの文台(つくえ)、鏡台などがあるのはまだ分かる。繊細に描かれた蒔絵の図柄など、大変女性らしい調度だ。けれど、螺鈿(らでん)が輝く漆塗りの箱や、彫刻のされた金の小槌といったきらびやかなものが飾られていると思えば、赤い緒が結びつけられているだけの瓢箪(ひょうたん)も転がっている。屏風の前にある大きな沈香(じんこう)の塊など、それだけでどれほどの価値があるのか有理沙には計り知れない。

 そういった見るからに高価そうな品々が一応は台座に乗せて飾られているのだが、無造作な並びはいかにも持て余している印象が強かった。


「本当はもっと片づけたいのですけど、もう場所がなくて。それに、せっかくいただいたものをしまい込んでしまうのも、申しわけないというか」


 衣兎は言いわけするように呟きながら、床を埋めるものをいくつか端に寄せていった。そうして空いた場所に側仕えのウサギたちがようやく畳を敷き、有理沙たち二羽を招く。気後れして立ち尽くす有理沙をよそに、ユウキは勝手知ったる様子で赤い(へり)の畳に座った。


「有理沙も、どうぞ座って」


 衣兎にうながされ、有理沙はものを蹴らぬよう慎重に歩いてユウキの隣へと腰を下ろした。


「これ全部、貰いものなんですか」


 衣兎ほどの美少女ならば、贈りものをする者はいくらでもいるに違いない。そうは思いつつも、有理沙は聞かずにはいられなかった。

 有理沙たちと向かい合う位置に座った衣兎は、やや眉尻を下げて笑った。


「すべてツクヨミからいただきました。あの方は、よいと思ったものはどんなものでも手に入れてくるのです。飾ると喜んでくださるから、できるだけ飾るようにはしているのですけど、どうしても置き切れないものも多くて」


 今度こそ有理沙はあっけにとられた。仲睦まじいのは素晴らしいことだが、ツクヨミによる衣兎への溺愛っぷりは尋常ではないらしい。


「愛されてて羨ましいです。いいなぁ。あたしにもツクヨミ様くらいかっこうよくって優しい彼氏がいたらなぁ」


 恋人を作るなら、やはり愛されてこそというのが乙女心である。さらに容姿端麗な貴公子となれば、文句のつけようなどあるはずがなかった。

 有理沙も、高校に入学して比較的すぐに彼氏がいたことはあるが、典型的な釣った魚に餌をやらないタイプで、ひと月と続かずに別れてしまった。愛は少々重いくらいで、案外と丁度いいのかもしれない。

 そこまで考えたところで、有理沙は自身の記憶に浮かんだものにふと疑問を持った。


(高校?)


 はて、高校とはなんだったろうと有理沙は考えた。教育機関であることは漠然と分かるのだが、月の国にはそんな場所はないはずだ。一体いつ、自分はそんなところにいっていたのだろう。


「有理沙にはぼくがいるだろう」


 考え込みかけたところにユウキの声が割り込んできて、有理沙の中の疑問はまたたく間に霧散した。


「ユウキは弟でしょ」

「弟って言っても歳は同じだし」

「双子なんだから当たり前。あたしは弟じゃなくて彼氏が欲しいって話をしてるの」

「そんなに違わないと思うけどなぁ」


 ユウキは間延びした声で言い、有理沙はまさか本当に理解できていないのではなかろうかと危ぶんだ。

 衣兎がおかしがる笑い声をたてた。有理沙とユウキが視線を向けると、衣兎は笑いを堪えようとするように、幼さが際立つ口元を袖で押さえた。


「失礼いたしました。とても、楽しそうでしたから」


 言葉ではそう言ったが、笑いは抑え切れていない。そんなに大笑いするような会話だっただろうかと、有理沙は口をへの字に曲げた。
 ようやく笑いを納めた衣兎が、まぶしいものを見るように目を細めた。


「わたくしは、ユウキと有理沙が羨ましいです。言い合いができるような兄弟がいたことがありませんでしたから」

「兄弟って面倒なことも多いですよ。素敵な旦那様に愛されてる方が、ずっと幸せだと思います」


 有理沙が率直に言うと、ユウキがむっとしたように鼻先を向けてきた。


「ぼくが面倒ってこと?」

「まあ、たまにね」


 ユウキは不満そうに口を尖らせたが、衣兎がまた笑い声をたてたので言い合いにはならなかった。


「ユウキも、いつもより楽しそうです」


 呟いて、衣兎は笑みを淡いものに変えた。


「愛されていることは、分かっているのです。ツクヨミは、たくさんのものと言葉をわたくしにくださいますから。この身しか持たないわたくしのために、あの方はなんでもしてくださる。でも……」


 衣兎の言葉が途切れると同時に、笑みも消えた。ややうつむいた瞳に、隠しようもない憂いの影が差す。

 有理沙は衣兎の表情を、慎重に覗き込んだ。


「なにか、うまくいっていないんですか」


 どんなに理想的に見える夫婦でも、やはりすべてが順風満帆とはいかないのだろうか。有理沙にはまだ分からない世界だったが、歳の近い同性だから話せることもあるかもしれない。そうでなくても、儚げな衣兎には親身になりたいと思わせるものがあって、有理沙はわずかに身を乗り出した。

 しかし、衣兎はゆるゆると首を横に振った。


「いいえ。きっと、わたくしがわがままなだけなのです。こんなに愛していただけているのですから」


 気分を変えようとするように、衣兎ははつらつと微笑んだ。


「わたくしのことよりも、有理沙の話が聞きたいです。ユウキと有理沙がどんな姉弟なのか、わたくしはもっと知りたいです」


 そう言われてしまっては、これ以上深く問いただすことは有理沙にはできなかった。他人の夫婦関係に首を突っ込めるほど、図々しくはなれない。

 その後、衣兎が一時見せた影は鳴りを潜め、幼き妻の悲哀をこの時はまだ知ることはできなかった。
 (はやと)は極力音をたてぬよう慎重にススキを掻き分け、その細い隙間から見えたものに息をのんだ。踏み固められた白い道を、ウサギが二本脚で歩いていた。

 隼はさらに慎重にススキの茎から手を離し、隣で隼と同じ体勢で身を屈めている有毅(ゆうき)少年を見た。


「ウサギって、二本脚の動物だったか?」


 声をひそめつつも、隼はつい問いただす口調になった。

 垣間見たウサギの三角形の鼻や、そよぐ長い耳、小さな尻尾は動物園や小学校の飼育小屋で見たものと一致する。けれどそれが二本脚で歩いているとなると、話は別だった。


「ここのウサギはみんな二本脚で歩けるんだ。人の言葉も話せば餅つきもするし、商売もする。姿がウサギってだけで、人と大して変わらない」


 有毅は少しも意外でないように言う。日本でない場所にきた以上は常識が通じないことは重々承知しているつもりだったが、隼は面白くないものを感じた。


「そういうことは言っておいてくれ。事前情報が少な過ぎやしないか」

「ぼくは言ったよ。月の国にいるのはツクヨミと奥方とウサギたちだけだって」

「そう言われても、二本脚のウサギだとは思わないのが普通だと思うぞ」

「そうかなぁ」


 本当に納得がいかなそうに有毅が言うものだから、隼はげんなりして目をすがめた。


「人から見えなくなって、人の常識も抜けたんじゃないか」

「んー、それは確かにそうかも」


 嫌味のつもりの言葉をあっさりと認めてしまうところがあまりに有毅らしい。月の国へくるまでに感じた頼もしさはなんだったのかと、隼は脱力した。

 有理沙をとり戻すために月乃浦(つきのうら)神社の竹林から月の国へとやってきた隼は、有毅に導かれるままススキの原を進んできた。銀色の野原は果てしなく見えたが、意外と早く終わりに着いた。方角も判然としないほど平坦だった野原がわずかに下り坂になったところで途切れ、今度は見渡す限りの田園が現れたのだ。

 碁盤の目のように規則正しく区切られた田んぼには水が張られ、ウサギたちが背中を丸めて田植えをしている。かと思えば、別の一面では黄金色の稲穂が頭を垂れていて、刈りとりの真っ最中だ。田んぼ一面ごとに季節が違っているとしか思えない光景は美しくはあったが、隼の中では奇妙さが上回った。

 とにかくまずは様子を窺おうと、隼たちは慎重に身を隠して坂を下り、今に至っている。


「それで、このまま出ていって大丈夫なのか。ウサギが攻撃してくることはないんだろう」


 有毅は少し唸るような声を出したが、そこに深刻そうな色はなかった。


「大丈夫だとは思うけど、ぼくは一旦、姿を消すよ。ぼくが近くにいると怪しまれるかもしれない」

「ウサギには有毅の姿が見えるのか」

「ここが本来ぼくがいるべき場所、とも言えるかもしれない。今のぼくは、存在としては隼よりもウサギに近いんだ」


 当然のような口調で有毅は言いながら、一度自身の手の平に目を落とし、また隼へと視線を戻した。


「ぼくは見つからないように、姿を消して少し離れたところをいくよ。ただ、そうするとなにかあったときに咄嗟に助けるのが難しくなる。さっきも言った通り、ここのものは絶対に食べてはいけない。ウサギたちは隼をもてなそうとするだろうけど、とにかくツクヨミの所へ案内して欲しいとだけ伝えるんだ。彼らなら、きっとそれでツクヨミのところまで連れていってくれる」

「そんなにうまくいくかねぇ」


 隼は危ぶんだが、有毅は自信があるようだった。


「大丈夫。月の都までもそれほど遠いわけじゃないし。それじゃあ、ぼくはもう消えるから」


 最後の言葉と同時に、有毅の体が透けた。隼は反射的に呼び止めようとしたが、伸ばした手は空をかいた。少年の姿は跡形もなくなり、隼はいき場をなくした手をそのまま持ち上げて頭をかいた。


「本当にマイペースなやつ」


 隼はぽつりとだけ呟いてから、意を決するように息を吐いてススキの隙間に手を入れた。

 勢いをつけてススキの間から隼が飛び出せば、田んぼを囲う道を歩いていたウサギが跳びあがって振り向いた。よほど驚いたのか、茶色の耳と髭をぴんと立てて隼を凝視する。体まで真っ直ぐに伸ばしたウサギがあまりにもつぶさに見てくるので、隼も思わず硬直して見返した。

 ウサギは体の大きさに見合わないほど大きな(すき)をかついでいた。人が普通に使う鋤と大差はないかもしれないが、ウサギの体が小さいので余計に大きく見える。有毅が大丈夫だと言っていたものの、隼は警戒しながら口を開いた。


「あの、ちょっと道を聞きたいんだけど……」


 隼の声に反応して、ウサギの耳が震えた。真っ黒いつぶらな目が、こんなに大きくなるのかと思えるほどに見開かれる。想定以上に驚かせてしまったらしく、もしやまずい事態になるのではと隼は焦った。けれど、それが杞憂であることはすぐに判明する。

 ウサギが、大きな後ろ足で強く地面を叩いた。

 たーん、と。毛に覆われた脚が奏でたとは思えない高い音が響き渡った。


「みんなぁ! お客様だ!」
 瑠璃色の星が輝く空の下、賑やかな笛太鼓の音が風に乗り、稲穂を揺らして田畑の上を駆け抜けた。どんどん、ぴーひょろー、どこか調子はずれの演奏を聞きつけて、ウサギたちが農作業の手を止め集まってくる。あっと言う間に膨れ上がっていく一団は、耳や尾を振り振り、笛太鼓に負けないほど陽気に大合唱をした。


 ソソラ ソラ ソラ
 ウサギのダンス

 タラッタ ラッタ ラッタ
 ラッタ ラッタ ラッタラ

 脚で蹴り蹴り
 ピョッコ ピョッコ 踊る

 笛を吹き吹き
 ラッタ ラッタ ラッタラ


 もう何度聞かされたか分からない歌詞に、隼はげんなりとため息をついた。隼をとり囲むように、ウサギたちが歌い躍り、跳ねまわっている。始めは数羽だったものが、一体どこから湧いてきたのかと思うほどに数が増え、気づけば畦道いっぱいにひしめく行列となっていた。

 最初に出会った一羽は、他のウサギを呼び集めるなり宴会の準備をしようとした。それを押し止める形で、宴会より先にツクヨミに会いたいと隼が伝えれば、案内を快く買って出てくれた。間違いなく、有毅が言っていた通りにことが進んだのだ。よもやこんな大パレードになろうとは思いもしなかったが。

 有毅が姿を消したのは、この大行列を予期してではなかろうかという疑念すら湧いてくる。学校指定のジャージで大量のウサギに囲まれてのパレードなど、どんなに間抜けて見えるだろう。しかし考えてみれば、見るものはウサギしかいないので、隼は恥じるのはやめて心を無にすることに徹することにした。

 田園を抜けた先の畑では冬瓜が実っており、さらにその隣の畝では大根が白い花を咲かせていた。田んぼは一面ごとに季節が違ったが、畑では畝ごとに季節が入れ替わっているとしか思えない。こんなにも混沌とした植えられ方をしていても、目につく野菜はどれも大きく艶やかに成長しているのだから不思議だ。瓜畑に藁が敷かれていたりなど、きちんと手をかけられているらしいのを見てとって、隼は少々感心した。見た目は小さなウサギでも、本当に人と同じようにここで暮らしを営んでいるのだ。


「さあさあ、見えてきましたよ。あそこが月の都です」


 間近にいた一羽が、前方を指差して高らかに言った。左右には相変わらず季節が入り混じった田畑が広がっていたが、道の先に目を凝らせば建物が集まっているのが隼にも視認できた。

 笛太鼓の音色がひときわ(やかま)しくなった。畦道は少しずつ幅を増し、ついには白い石畳の大通りとなる。またたく間に近くなった都の入り口では、行列のやってくる音を聞きつけたウサギたちが詰めかけて、大歓声をあげていた。

 一体なんのヒーロー凱旋かと、隼はうんざりして頭を抱えたくなった。

 都に入った途端、白い粒が隼に降り注いだ。沿道のウサギたちが、隼に向かって放り上げるように投げているのだ。服に引っかかった粒を手にとれば、それはよく見慣れたものだった。


「……米?」


 ライスシャワーは結婚式のイベントではなかったか。けれどここは地球ではないので、習慣自体が違うのかもしれない。

 月の都は、低い平屋の建物ばかりであるようだった。ウサギの身の丈にあった大きさで、屋根の高さも隼の身長に届くか否かといったところだ。木造の長屋が多く、テレビの時代劇を思い起こさせる。今歩いている柳並木の道が目抜き通りらしい。ときおり横道と交差しながら、白い石畳が都の奥まで真っ直ぐに続いている。その最奥の突き当り、他の家々よりもずっと大きな屋敷があることに、隼は気づいていた。あれがおそらく、有毅の言っていた輝夜殿だろう。

 隼が目星をつけた通り、ウサギの行列はどんちゃんと笛太鼓を奏でながら最奥の屋敷へと彼を誘う。名のある寺社かとばかりにそびえる大門の前に人が立っているのを見つけて、隼は表情を引き締めた。

 月の国にきて初めて見る人間だった。狩衣を着ているということは男に違いない。白の上下は神事で着る浄衣(じょうえ)かとも思ったが、烏帽子をつけていないのが隼から見てどうしても違和感がある。首からは長さのある珠飾りをさげていて、五色にきらめく様が妙に目を引いた。


「ツクヨミ様、お客様をお連れしました」


 真っ先に門へいきついた一羽がうやうやしく、それでも一帯に響く声量で言った。やはり目的の人物なのだと分かり、隼は努めて動揺を飲み込んだ。この先に有理沙がいるかもしれないのだ。中に入る前に揉めごとを起こすのは悪手だと、自身に言い聞かせる。

 ツクヨミは来訪を告げたウサギに向かって頷くと、顔を上げて柔和に微笑んだ。暗色の瞳と目が合い、隼は息を吸い込んで背筋に力を入れた。


「よくいらした。我々は客人を歓迎する。どうぞこちらへ」


 ツクヨミが言うと同時に、ウサギの群れが左右に割れた。ひしめき合っていたウサギたちの真ん中に、ツクヨミと隼とを繋ぐ一筋の道ができ上がる。

 思っていたよりもずっと早く、敵の本拠地に着けたらしい。近くに有毅はいるだろうかと秘かに気配を探りながら、隼は深呼吸して大きく足を踏み出した。

 ウサギたちの間を抜けて目の前に立ってみると、ツクヨミは隼よりも頭一つ分近く背が高く、見上げる形になった。ツクヨミが切れ長い目を細めて見据えてくるので、隼は負けじと眉間に力を入れてにらみ返した。彼が有理沙と有毅を連れ去った元凶だとするならば、すぐさま喧嘩を売らなかったとしても愛想よくする必要もないと思ったのだ。


(なれ)の名を聞かせて貰えるか」


 一拍置いてから、隼はごく低く答えた。


「松本隼」

「隼、か」


 確かめるように言って、ツクヨミが笑みを深めた。なぜ笑うのか分からず、隼は身構える。ツクヨミは、隼に道を開けるように足を斜めに引いた。


「どうぞ中へ。わたしは(なれ)に興味がある。ここにきた人で、わたしを名指した者は初めてだからね」
 門の内側のあきれ果てるほどの豪奢さに、隼はだらしなく開きそうになった口を慌てて閉じた。庭に立ち並ぶ金色の木々は作りもののように見えるが、風にしなる枝の動きは妙にリアルだ。

 もの珍しさについ目を奪われそうになるが、あまりきょろきょろしては舐められる気がして、隼は斜め前を先導するツクヨミの背中を見続ける。

 金の木立を抜け、池にかかる橋を渡って辿り着いた屋敷の建物は、都の家々と違って人に合った大きさがあった。ツクヨミが人の姿をしているのだから当然といえば当然だ。ただ、そうして見たとしても、丹塗りの柱が目を引く屋敷は、隼の生家である月乃浦神社の社殿よりずっと広大であることは、歴然としていた。

 寝殿(おもや)には、すでに食事の支度がされていた。板の間に敷かれた緋色の敷物の上に、お膳が二客置かれている。朱塗りの椀はまだすべて蓋がされていたが、できたての料理独特の温かな香りが立ちのぼっていた。


「さあ、そちらへ」


 ツクヨミがお膳の一方を示した。隼はそれには従わず、立ったままツクヨミをにらみ据えた。隼の強固な姿勢を見てとって、ツクヨミは息を漏らすように笑い、たいそう婉麗(えんれい)な動作でお膳の前に胡坐をかいた。

 誘うような流し目を向けられ、その雅やかさが妙に癇に触る。芽生えた対抗心から、隼は持ちうる最大限の上品さで、ツクヨミの向かいの膳についた。

 肩からはずしたスポーツバッグを隼が横に置くと、二人の着席を待ち構えていたように、奥の(ふすま)から数羽のウサギが出てきた。静々と進み出てきたウサギたちはお膳に乗った椀の蓋を丁寧に開いていく。餅の入った汁ものに、色鮮やかな香のもの。里芋の煮っころがしには胡麻入りの味噌がかかっている。


「召し上がれ。飲み交わしながらゆっくり話そう」


 ツクヨミが親しげに言い、そばにやってきたウサギが隼に盃を差し出した。一足先にツクヨミは盃を傾け、唇を湿らせている。隼はここまでくるまでにかなり喉が乾いていたが、出されたものを口にするわけにもいかず盃を断った。そうでなくても、高校生の身で酒類と思しきものを飲むわけにはいかない。

 隼はつばを飲み込んで喉の渇きと空腹を誤魔化しながら、膝の上で拳を握った。一方でツクヨミはウサギに脇息を持ってこさせ、体を斜めにしてごくくつろいだ様子で盃を空ける。


「それで、なんの用だったかな。(なれ)は、わたしに会いにきたのだろう」


 やおら、ツクヨミから切り出した。隼は握った手の平が汗ばむのを意識しながら、一語ずつはっきりと声にした。


「有理沙がここにいるって聞いた」


 ツクヨミの涼しい目元が素早く細まった。


「なるほど。それで?」

「有理沙を返してくれ」


 力を込めたあまり、隼の声は震えた。ツクヨミが、ほのかに笑った。けれどそれ以上の反応はせず、二杯目の盃を空け、なにごともないように里芋へと箸を伸ばす。


(なれ)も、冷めない内に食べなさい。とてもよい味だ」


 品よく、それでいて幸福そうにツクヨミは里芋を頬張り、隼は眼差しと声をさらに尖らせた。


「いい大人がはぐらかすな。有理沙を返せ」


 いら立ちを隠さない隼に、ツクヨミはため息のようなものをついた。


「落ち着きなさい。有理沙は確かにここにいる。だからこそ焦らずともよい。餅の数は足りるか。(なれ)のような育ち盛りの若者ならば、さぞたくさん食べるだろう」


 だんっ、と。隼は拳で床を叩いた。


「ここのものは食べない。そっちの作戦は知ってるんだ。早く有理沙を返せ。有理沙はどこにいるんだ」


 咀嚼したものを飲み込んだツクヨミは、なお余裕ありげに脇息に頬杖をついた。


「わたしを知っていたことといい、どうやら(なれ)になにか吹き込んだ者がいるらしい。人の世に知り合いはもういないと思っていたが、果たして――」

「ぼくが教えた」


 ツクヨミの言葉にかぶせて言う声があった。声の近さに驚いて隼が真横を見れば、並ぶ位置に有毅が正座していた。着ている制服の折り目が、姿を消した時よりも整っている気がする。


「出てくるならもっと早く出てこいよ」

「ごめん、ごめん。心の準備に時間がかかって」


 有毅はあっさりした声音で返し、隼は怪しんで目をすがめた。こうして軽口を交わしながらも、有毅は視線を正面からそらしはしなかった。声振りはともかく、緊張しているのは確かなのかもしれない。

 隼も改めて正面へ目線を戻すと、ツクヨミは相変わらずゆったりと脇息に身を預けていた。だがその眼差しは、推し量るような色で有毅へと注がれていた。

 ツクヨミが声を発する前に、有毅が先手を打った。


「お久しぶりです。今度は姉がお世話になっているようで」

「……なるほど」


 ツクヨミは呟く声量で言って、口の端を上げた。


「これは面白い。よく戻ってくる気になったものだ」

「戻ってきたわけではないです。姉を返して貰いにきました」


 有毅の声はあくまで平静だった。ツクヨミはくつくつと喉を鳴らし、やがて声をあげて笑った。


「どちらも姉への思いが強くて感心する。言っておくが、有理沙をここへ呼ぶことを望んだのは――ユウキだ」