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 ああ、またかと思った。同時に久々だとも思った。
「久しぶり」
 僕の思ったことを言ってくるあたりが夢らしいし、本当に僕自身の分身なんだなと改めて痛感した。
 目の前の彼は中等部の制服を着ていた。背も以前会ったときよりもかなり伸びていた。僕は中二、中三の頃に一気に背が伸びて、あとは緩やかに伸び続けているという感じだったからそのどちらかなのだとわかった。
 だから何って話だけど。
「今回は聞いてこないんだね。学年」
「だいたい予想ついてるし」
 それよりも別に聞きたいことがあった。
「何でここなの」
 僕達は夜の病室にいた。しかも物の配置から察するに紘夢の病室だ。ただ紘夢の姿は何処にもなく、ベッドに腰かける僕の前に中学生の僕が立っているという状況だった。
「悪意しか感じない」
「悪意? これはきみの夢だよ。ぼくに抗議されても困る」
「でも君は僕の無意識なんでしょ」
「なるほど。確かにぼくにも原因はありそうだね」
 にも、じゃなくて八割方君のせいだよとは言えなかった。
「さて、本題に入ろうか」
 そう言いながら彼が浮かべた笑顔は何だか気味が悪くて、僕は軽く身震いをした。
「どうしてキスしなかったの?」
「寝込みを襲うようなことしたくなかったんだよ」
「嘘だよね」
「嘘じゃないよ。十パーセントくらいは本心だから」
「それはもう嘘だよ」
 僕は反論出来なかった。
「何でしょうもない嘘吐くの。ぼくはきみなんだから誤魔化せないのに」
「僕がしょうもない人間だから」
「我ながら卑屈」
「僕は君が嫌いな、なりたくなかった都合のいい大人だからね」
 彼が深い溜め息を吐く。それを見て僕は初めて彼を上回れたような気がした。いつも優位な態度を取ってくる彼にはムカついていたから、少しだけ気分が良かった。
「自分の無意識に言い返したくらいで得意気にならないで欲しいな」
 不機嫌そうな顔だった。
「すれば良かったのに。キス」
「して、どうなるの」
「何かわかったかもしれない」
「どうせ無理だよ」
「せっかく初めてキスしたいって思えたのに?」
「むしろ今まで一度も思えなかったことが異常なんだよ」
 そういう意味では僕はようやく普通の人間に近付けた。そして普通の人間は、キスがしたいと思ってもすぐに実行したりはしない。心の中で吟味して、時間をかけてその正体を探る。結果、恋愛感情で相手も同じ気持ちだったらいよいよ実行に移す。それが普通の人間の、普通の恋愛模様。
「じゃあ潮田悠那は異常なんだ」
「少なくとも正常ではないよね」
 僕なんかとキスがしたいなんてどうかしている。
「しようよ」
「何を」
「キス」
「誰と」
「ぼくと」
「嫌だって前にも言ったよね」
「言った。でもきみは」
 彼が僕に詰め寄ってきて。
 そして押し倒された。
「迫られたら、断れない」
 僕は僕に馬乗りになられていた。
 逃げたいのに身体が動かない。手を押さえつけられているから、無理やり突き放すことも出来ない。僕のくせに、年下のくせに、無駄に力が強かった。
 彼が僕に覆いかぶさってくる。
 僕と同じ顔が近付いてくる。死んだような、虚ろな目をしていた。それこそがいつもの僕だった。
 鼻先が触れ合って息がかかる。潮田とのキスで慣れたつもりだったけど、僕の心臓は凄い勢いで鳴っていた。
「いいよね。どうせただの夢なんだから」
 唇がさらに迫ってくる。
 その距離は一センチを切っていた。
「……………………やめて」
 絞り出すように言うと、彼の動きがぴたりと止まった。
「断れるじゃん」
「え?」
 彼の身体が離れる。手首は鬱血していたけど痛みはなかった。
「きみは断れない、受け身な人間なんじゃなくて、断るのが怖いだけだよ。拒絶されるのが怖い。嫌われるのが怖い。だから何もかも受け入れる。そうすれば相手の気分を害さないで済むから」
 窓際、月明かりの中で彼が微笑む。
「きみの本当は何処にあるんだろうね」
 佐倉みたいな言葉だと思った。

 △

 頭は覚醒していた。ただ夢の内容が最悪すぎて目を開ける気になれなかった。自分にキスされそうになるとかどんな夢だよ。もう少しましなやり方はなかったのか、ともう一人の僕に抗議の念を飛ばしながらようやく目を開くと、またベッドの上には僕しかいなかった。どうやら今日も僕の方が起きるのが遅かったらしい。
「おはよ」
 身体を起こして声のした方に顔を向ける。
紘夢は着替えをしていた。といっても病院着から病院着への着替えだからたいして何も変わらない。
「おはよう」
 それだけ言って、僕も制服に着替える。
「……ああ、そっか」
 いつも制服と一緒に置かれているはずのネクタイがないと思ったら、昨日の夜、図らずとも動かしてしまったんだった。最終的に何処に置いたんだっけ。よく憶えていない。
「巧」
 肩を叩かれ振り返ると紘夢が僕のネクタイを差し出してきた。
「これ、床に落ちてた」
「ありがとう。探してたんだ」
「たまには俺が結んでやろうか」
「いいよ、紘夢下手くそだし。結局やり直すことになるんだからさ」
 でもその不器用さのおかげで助かったと言っても過言ではないから、少しだけ複雑な気分だった。
 受け取って、自分でネクタイを結ぶ。一応念のため鏡で曲がっていないことを確認する。これでちゃんと結べていなかったら紘夢から大ブーイングを受けるところだった。
「じゃあ学校行ってくるね」
「いってらー」
 無駄に間延びした語尾に見送られながら病室を出る。扉が完全に閉まった途端、僕は深く息を吐いた。
 普通だった。何事もなかったかのようだった。紘夢がネクタイを結びたいと言ってきたときはひやっとしたけど、その一点だけで他は特に気になる点はなかった。ただ何もなければないで不安になってくる。また我慢しているんじゃないか、溜め込んでいるんじゃないかと心配になる。けど向こうが何も言ってこないのなら、このまま見守る方がいいのではとも思う。むやみに踏み込んで傷付けたくはなかった。
 この考えこそが、夢の中の僕が言っていたことなのだろうか。でも誰だって大切な人は傷付けたくないと思うはずだ。その相手が精神的に弱っているのだとしたら、なおさらだ。それの何が悪いのだろう。人を傷付けないように配慮することの何処に問題があるのだろう。
 そう思うのに。
「本当の二見くんは何処にいるの?」
「きみの本当は何処にあるんだろうね」
 どうして、こんなにも胸に引っかかるのだろう。
 誰か僕に答えを教えて欲しい。

 下足室で佐倉と出くわした。
 佐倉は上履きを履いていなかった。靴下でそのまま廊下に立っていた。隠されたか汚されたかで履けなかったのだとすぐにわかった。小学生の頃、僕もよくやられた。
「おはよう」
 声をかけられたけど無視して上履きに履き替える。こんないつクラスメイトに見られてもおかしくないようなところで話しかけないで欲しい。困るんだよ、本当に。そのまま佐倉を素通りして教室を目指しているとスマホが震えた。仕方なく画面を見る。
》話したいことがあるんだけど
 僕は何も見なかったことにしてスマホをしまった。関わりたくないと思った。
 ところが教室に着いたタイミングでスマホが連続で震え出した。延々とポケットの中でぶるぶると震えている。鬱陶しい。我慢出来なくなってトーク画面を開く。
》ねえ
》ちょっと
》聞いてる?
》ねえってば
》スタンプ × 三十個くらい
》ここでまで無視しないでよ
 向こうの画面でそれらが一気に既読になったのを想像して溜め息が出た。こいつこんなウザ絡みするような人間だっけ。ついにぶっ壊れたのだろうか。
〉佐倉、うるさい
》二見くんが無視するから
〉無視ならいつものことでしょ
 ブロックされていないだけ感謝して欲しい。
〉で、何。用件を簡潔に言って
》冷たいね。前はもっと優しかった
〉電源落していい?
》話したい、直接
〉僕は話すことなんてない
》私がある
 本気で電源切りたくなってきた。これならまだ一応は僕の意見を聞いてくれる潮田の方がましな気がした。
》前に話した屋上のドア前で待ってる
 勝手にしてくれと思った。そんな僕の心を読んだのか、続けてメッセージが送られてくる。
》二見くんが来てくれるまで待ち続けます
》放課後になっても帰りません
》いつまでも待ちます
 そんな見え透いた脅し文句を使われても困る。引っかかる人なんている訳がない。あるとすれば、その人はよっぽどのバカかお人好しのどちらかだ。
 どうせすぐに諦めて教室にやってくるだろうと思った。あの真面目な優等生に授業をサボり続けるなんてこと出来るはずがない。出来たとしてもせいぜい一、二時間くらいだと高を括っていた。
 でも佐倉は一時間目が終わっても教室に現れなかった。そのまま二時間目、三時間目とも現れず、ついに四時間目が終わり昼休みになっても佐倉はまだ教室にやって来ない。
 行かなくていいと思った。行く必要なんてない。向こうが一方的に呼び出してきて、勝手に待っている。ただそれだけの話。
 なのに僕の足は佐倉の待つ場所へと向かっていた。
 本当に、損な性格をしていると思う。

「言っとくけど、僕はバカでもお人好しでもないから」
 ドアの前で体育座りをしている佐倉にそう言うと、佐倉はわかりやすく顔をしかめた。
「何言ってるの?」
「別に。それで話って?」
「元気に共依存やってる?」
「そういう話なら教室に帰る」
 佐倉に背を向け階段を降りようとしたところで「待って」という声が飛んできた。
「ごめん。今の冗談」
 僕は溜め息を吐いてから身体を向き直し佐倉の元へと向かった。
「君、そんなキャラだっけ」
 隣に座りながら尋ねる。
「私のキャラって何」
「真面目で、冗談で人を不快にさせるようなことをしないようなキャラ」
 佐倉がやらかすときというのは、本気でそう思っていてそれを口にしてしまったとき。わざとやっている訳ではないのだということは理解しているつもりだ。
「二見くんから見た私って、そんな聖人みたいな人なの?」
「誰もそんなこと言ってない」
「なら何?」
「真面目で勤勉な優等生」
「私、好きで優等生やってる訳じゃない」
 気まずい雰囲気が流れる。
「…………松葉くんどんな感じ?」
「どんなって聞かれても」
「元気とか、元気じゃないとか」
「両方。その時々によって違う」
 主に精神面が。
 体調の方は特に何の問題も起きていない。心停止と昏睡による後遺症のようなものも今のところは見られない。ただ精神状態がどうしても安定しない。波があって、楽しく談笑出来たかと思えば、数時間後には泣き出したりする。
「じゃあその首の傷は元気じゃないときにつけられたってこと?」
「……首の傷?」
「ここ」
 佐倉の手が僕の首に伸びてきて、右側の後ろらへんを触ってきた。
「爪でつけられたような傷がある」
 その傷は十中八九、昨日の夜、首を絞められたときについた傷だ。
「ねえ、これって」
「さあ? 寝てるときに自分で引っ掻いたんじゃない?」
 佐倉が次に言おうとしていた言葉を塞ぐように、首に添えられている手を払いながら言う。
「松葉が僕を手にかける訳ないでしょ」
「……そう、だよね」
 昨日のあれはそれこそ精神状態の波が最底辺にきていたから起きてしまったこと。その証拠に松葉は酷く動揺していた。僕を殺したくはないと言っていた。同じ過ちを繰り返さないよう見張ってくれと頼んできた。だからあれは本気だった訳じゃない。本心じゃない。ただの事故。
「でももし、松葉くんが本気で二見くんを殺そうとしてきたとしたら、きっと二見くんはそれを受け入れるんだと思う。松葉くんの殺意を受け止めて、死んでいくんだと思う」
 まるで昨日の僕達の様子を見ていたかのような考察だった。
「よくわかってるね」
 僕はあの瞬間、殺されてもいいと思った。そして今だって。松葉に頼まれているから殺されないよう努力はするし全力で止めるけど、松葉になら殺されてもいいという考えが消えた訳ではない。もし僕への殺人未遂が続いたら、きっと最後には僕は約束を破ってその刃を受け止めるのだと思う。
「私、二見くんに死んで欲しくないよ。松葉くんにも、二見くんを殺させたくない」
 佐倉の目から涙がこぼれた。
「だから私はあの日、二人の関係を正したいって言ったんだよ」
「…………聞いてもいい?」
 佐倉が頷く。
「松葉の、紘夢の秘密をバラしたのは佐倉?」
「違うって言ったところで誰も信じない」
「人からどう思われるかじゃなくて、佐倉自身のことを聞いてるんだけど」
 僕をみつめる目が丸くなる。
「本当の自分とか、そういうのやっぱりよくわからないけど、でも声に出して主張したことっていうのが本当になるんだと思う」
「でも信じてもらえなかったら、本当にはならない」
「違うよ」
 それは、違う。
「その場合は、相手からしたら君が嘘を吐いたっていうことが本当として捉えられるんだよ。そして信じてくれた人にとっては、君の主張は本物の本当になる」
「なら嘘はどうなるの」
「その逆になる。嘘が信じられればその嘘は本当になってしまうし、見破られれば真実が明るみになって本物の本当と出会える」
「二見くんは時々難しいことを言う」
 そう言う割には、さっきにも増して涙が流れていた。まるでダムが決壊したかのようだった。大粒の涙が頬を伝っているのに、佐倉はそれを隠そうとはしなかった。
「私はやってない。あんな酷いことしない。違う。私じゃない」
「…………うん。そうなんじゃないかって思ってた」
 佐倉が犯人じゃないってことくらい気が付いていた。
「どうして」
「君は曲がったことが嫌いだから」
 少なくとも僕の前ではいつだってそうだった。
「私、自殺しようとした」
「でも今生きてる」
「え?」
「君は死ななかった。踏み止まった」
「それは」
 また佐倉の瞳が潤む。
「二見くんが、そうさせたんでしょ」
「……僕? いや、だからあれは」
 そういうのじゃないんだって。そう言おうとした僕を佐倉が「違う」という言葉で阻んでくる。
「二見くんは私を見捨てることも出来た。見殺しにすることだって出来た。逃げ出して、何もなかったように振る舞うことだって出来た。でもそうしなかった。私に、声をかけてくれた。何してるのって、私に話しかけてくれた。それがどれだけ嬉しかったか」
 自身の胸に手を当てて佐倉は言う。
「嫌われ者の私に二見くんは道を示してくれた」
「…………僕はそんな善人じゃない」
 今佐倉が話してくれた内容というのは美化されすぎている。僕はあのとき、咄嗟に身体が動いてしまっただけで助けようと思って動いた訳じゃない。あの一言目だって、身体の動きに合わせて出てしまったというだけ。僕の意思で話しかけたのではない。
「君の期待に応えられない」
「期待って何」
「僕は君が思っているような人間じゃないんだよ。本当に、どうしようもない、救いようのない人間」
「どうしてそんなこと言うの? 二見くん、自己評価低すぎるよ。もっと自分に自信を持ってよ」
「別に誰かに、不特定多数に評価されたいなんて思ってない」
 僕は。
「僕は、本当に、紘夢さえいてくれればいいって、ずっとそう思ってた。そう思って生きてきた。僕には紘夢しかいない。他に何もない」
「そんなことない」
「あるんだよ」
 世の中には、そういう人だっているんだよ。
「わからないんだ」
「何が?」
「何もかも」
「見ようとしていないだけじゃなくて?」
 見ようとしていない、か。
 何処かで聞いたような言葉だった。同じようなことを前にも言われた気がする。何処で、誰に言われたんだっけ。考えて、思い出す。
「僕は時々、僕自身と話す夢を見るんだ」
「変な夢だね」
 自分でもそう思う。
「その夢の中の僕はね、過去の僕の姿をしていた。しかも彼は僕の無意識だって言うんだ。僕が見ようとしていない部分なんだって」
「それで?」
「昨日の夜、言われた。僕は受け身な人間なんじゃなくて、断るのが怖いだけなんだって。嫌われたくないから、そうしているんだって」
 きっと彼の言うことはあっているのだと思う。いや『きっと』というのは保険か。僕の無意識を名乗る者が言っているのだ。認めるしかない。僕はどうしようもない臆病者だ。
「ただその対象には紘夢も含まれていたのかなって」
 もしそうなのだとしたら。
「僕のこれまでって、何だったんだろう」
 僕はずっと紘夢のことを想って、そのための選択をして生きてきたのだと思っていた。でもそうじゃなかったとしたら。拒絶されることに怯えて、嫌われないようにするためだけに動いてきたのだとしたら。
「…………何で、こんな人間になっちゃったんだろうね」
 何処で間違えたんだろう。
「そんなこと言わないで」
 佐倉が悲しそうな声で言う。
「拒絶されたくないのは誰だって同じだよ。それが自分にとって大切な人なのだとしたら、なおさらそうだよ」
「慰めてくれなくていいよ」
 僕が異常で、最低な人間だってことはわかりきっていることなんだから。
「慰めとかじゃない」
「じゃあ何?」
「二見くんは二見くんだよ」
「意味がわからない」
 佐倉は僕をどうしたいんだ。僕に何を求めているんだ。わからない。何もわからない。
「言ったでしょ。僕は君の期待には応えられない。君が望む僕になってあげられない」
「どうして期待とか、そういうこと言うの? これは二見くんの人生だよ。誰のものでもない、二見くんのための人生なんだよ。相手を思いやることも大切だけど、少しくらい自分のために生きてよ。誰かの求める姿になろうとしないでいいんだよ。二見くんは二見くんでいていいんだよ」
 真剣な眼差しが向けられる。
「貴方は何もかも自分の思い通りにしなくちゃ気が済まない女の子の心を満たすための愛玩人形(おもちゃ)じゃない」
 少し前まで毎日のようにキスをしていた女子の顔が頭に浮かぶ。
「貴方は貴方以上に臆病で自分の気持ちに嘘を吐き続けている男の子の心を救うためだけに生まれたんじゃない」
 世界で一番大切な親友の顔が頭に浮かぶ。
「貴方は貴方であるために生まれたの」
 僕の顔は頭に浮かばなかった。
 それはきっと、僕が僕というものを持っていないから。空っぽの人間だから。
「でもそれは二見くんだけに言えたことじゃない。松葉くんにだって言える」
「紘夢にも?」
 僕達は互いに依存していて、互いのためだけに生きてきた。僕は紘夢で、紘夢は僕で、容量を埋め尽くしてしまっている。だから自分というものがなくて。
 今、僕は何を考えていた。
 何で気が付かなかったのだろう。
 僕達は同じだった。ずっとずっと同じだった。その僕が自分というものを持ち合わせておらず、紘夢のことしか見ていなかった。そんな僕と同じだってことは、紘夢も自分を持っていないことになる。
 違う。そうじゃない。僕はそんなことを望んだ訳じゃない。何で。どうして。
「…………こんなはずじゃなかった」
 僕は、僕はただ。
「紘夢に、幸せになって欲しかった、だけなんだ」
 紘夢を幸せにしたかった。その深い悲しみを取り除いてあげたかった。もう二度と傷付いて欲しくなかった。
「それだけだったのに」
 床にはいくつもの水滴が落ちていた。それが自分の目からこぼれ落ちたものだと気が付くのに時間がかかった。だけど気付いてしまったらもう後の祭りで、僕はさっきの佐倉以上に涙を流していた。そんな僕の背中を佐倉がさすってくれる。
「全部、全部間違いだったんだ。僕のしたことは、間違っていた」
「それは違う」
「だけど!」
「確かに互いを気にかけてばかりで、自分というものを見失っているかもしれない。それは良くないことだと思う。けどその全てが間違いだったなんて私は思わない。だって互いが支えになっていたのは紛れもない事実でしょ。そこにあった感情は、相手を大切だという気持ちは、全部、本物でしょ。偽物なんかじゃない。その全てが間違いだったなんて悲しいこと言わないで」
 佐倉の手が僕の胸に触れる。
「その芽生えた感情こそが、二見くんなんだよ。それが二見巧の心なんだよ」
 僕の、心。
「だから、二見くんのこれまでを、どうか否定しないであげて」
 また視界が滲む。
「でも、僕はもう、どうしていいかわからない」
 これまでを肯定出来たとして、この先はどうすればいいのだろう。だって僕はこの生き方しか知らない。歩き方を知らない。今の生き方をやめるとしても、どうやって生きていけばいいのかわからない。それに紘夢を見捨てるような真似はしたくない。
「卒業すればいいんだよ」
「そつ、ぎょう?」
「二見くんは松葉くんを、松葉くんは二見くんを卒業する。それぞれの足で立って、歩いて行けるように」
 それぞれの足で。
 つまり、それって。
「決別するってこと?」
 紘夢と決別する。想像しただけで胸が苦しくなる。緩みきった涙腺のせいで、また泣けてしまう。
「二見くんは割と極端。なにも今生の別れを強いている訳じゃない」
「じゃあどういう意味?」
「本当に助けが必要なときは助けに行ける距離にいるということ」
「本当に必要なとき」
「親友って物理的な距離が近いことを言うんじゃないと思う。精神的な距離、なんだと思う。傍にいられなくても、心が繋がっていれば、相手のことを支えることだって出来るはずだよ」
 いつかの僕の言葉を思い出す。
『心までは引き離せない。心で繋がっていられるなら、僕は平気だよ』
 それは夢の中の僕が言ったものではなくて、紛れもない僕自身が言った言葉だった。
 昔の僕はちゃんとわかっていたんだ。紘夢のために生きると決めてもなお、あの頃の僕は距離を置くという選択をすることが出来た。その理由は紘夢がいじめられないようにするためで、現在置かれている状況とはまるで違う。でも素直に純粋に愛を叫べて、小難しいことなんか一切考えず心の繋がりこそが最も尊いものだと信じていた過去の自分の方がずっと紘夢のことを想っていた。それだけは間違いない。
 だから、あんな夢を見続けていたのだろう。
 僕達は、僕に、いい加減目を覚ませ、大切なことを思い出せと言いに来たのだろう。
 僕が見ようとしていないことというのは、こういうことだったのだ。
「どうして、忘れていたのかな」
「二見くん?」
 佐倉が心配そうな顔で覗き込んでくる。
「…………わかってくれると思う?」
 ほんの一瞬だけ佐倉の目が丸くなった。そしてゆっくりと頷いた。
「うん。すぐには無理かもしれないけど、でも、きっと、届くと思う。二見くんの言葉なら、松葉くんの心まで届くはず」
「……そう、だといいな」
「大丈夫だよ。だって二見くんが松葉くんを想っているように、松葉くんだって二見くんを想っているから。少なくとも、私はそう思う」
「ありがとう」
 僕の行く先は決まった。
 だけどその前に一つだけ片付けなければならないことがある。
「あのさ、佐倉に協力して欲しいことがあるんだけど」
「何をするつもり?」
 僕は言ってのける。
「この世界を終わらせる」