薄暗い気持ちだった。
 佐倉はあのままチャイムが鳴り、担任が教室に来る直前までいじめられ続けた。そのほとんどが暴力だった。酷かった。僕は見ているだけだった。
 佐倉は無抵抗だった。完全に諦めていた。たぶん、反論を述べたあの瞬間から。
 そんな重苦しい気分を引きずったまま、僕は紘夢の部屋を訪ねた。
「紘夢」
 名前を呼びながらノックをする。
「……紘夢?」
 いつもならすぐに返事があるのに今日は返事がなかった。ドアに耳を押しあてるが、部屋の中からは物音一つしなかった。
「紘夢、寝てるの?」
 やっぱり返事はない。
「入るよ」
 レバー式のドアノブを握り、ドアを押す。
「…………あれ?」
 ドアが開かなかった。ドアノブは何の問題もなく上下に動くから鍵はかかっていない。壊れていなければ、だけど。
 もう一度ドアを開けようと試みる。けど、どれだけ頑張っても開かなかった。何だろう。何かがドアの前に置かれている……?
 瞬間、嫌な予感がした。
「紘夢! 紘夢!」
 ドアを激しく叩きながら、ガチャガチャとドアノブを上下させる。それでも返事はない。これだけ騒いでも返事がないなんておかしい。どうにかして紘夢の部屋に入ることは出来ないか、必死に頭を働かせる。
「…………ベランダ」
 紘夢の部屋はリビングとベランダでつながっていた。だからリビングからベランダに出れば紘夢の部屋に行ける。
 一目散にリビングへと向かう。おばさんが「巧くんどうかしたの?」と聞いてきたけど、無視してベランダに出る。
 そして紘夢の部屋を覗いて、僕は息が詰まった。
 ドアのすぐ前で、紘夢が倒れていた。
「おばさん、救急車呼んで! 紘夢が倒れてる!」
 リビングにいるおばさんに声だけで指示を出して、僕はガラス戸に手をかけた。でも鍵がかかっていて開かなかった。周りを見渡すと植木鉢があった。迷っている時間はない。僕は植木鉢を力いっぱいぶつけガラスを叩き割った。その割れたところから手を突っ込み解錠し部屋の中に入った。
「紘夢!」
 散らばったガラスの破片が足の裏に突き刺さるのも気にせず、紘夢に駆け寄る。
 紘夢はぐったりとしていた。目を固く閉ざして、ぴくりとも動かない。
 その首には制服のネクタイが巻きついていた。
 僕は膝から崩れ落ちた。
「紘夢? な、んで。ねえ」
 震える手で横たわる紘夢の身体に触れる。
「…………え?」
 触れたところから熱が伝わってくる。
「……あ、たた、かい」
 紘夢の身体はまだ温かかった。もしかしてと思い、首に巻きついていたネクタイを取り、脈を測る。
「……脈、ある」
 慌てて胸のあたりを凝視すると僅かだけど動いていた。つまり呼吸もある。
 生きている。
 紘夢はまだ生きている。
 その事実は僕にとって希望だった。
 再びネクタイを見る。結び目は何処にもなくて、千切れたような跡もない。おそらくドアノブに括りつけて死のうとしたけど、結び目が甘かったがために紘夢の体重に耐え切れず解けてしまった。でもその前に紘夢の意識は消失し、ドアを防ぐような形で倒れていた。そんなところだろう。
「紘夢、紘夢、目を開けて。お願い」
 紘夢を抱きかかえ必死に呼びかける。だけど紘夢は目を覚まさない。それどころか紘夢の呼吸が徐々に弱くなってきていることに気が付いた。
「嫌だ。紘夢、ねえ、紘夢!」
 僕の腕の中で紘夢の命が消えていく。
「嫌だよ。お願い。死なないで。僕を一人にしないで」
 僕は紘夢を床に仰向けで寝かせ、懸命に心臓マッサージを行った。ほとんど休むことなく蘇生措置を繰り返した。
 やがて救急隊が駆けつけてきて、紘夢は病院に搬送された。
 救急車の中で、紘夢の心臓は、一度止まった。
 ほんの数十秒だったけど、それが良くなかったのか、紘夢はなかなか目を覚まさなかった。でももう少し発見が遅れていて、もし僕があのまま動揺に呑まれて心臓マッサージを行っていなかったら死んでいたかもしれない。だから君のしたことは正しかったのだよ、と部屋に突入するときに割ったガラスで傷だらけになってしまった手足の治療を受けているときに言われた。
 一週間、紘夢は眠り続け、そして目を覚ました。
 目覚めた直後、紘夢は酷く混乱していた。どうしてこんなことをしてしまったのかという動揺と後悔。生きていて良かったという安心感に、それと同じくらいの死ねなかったことへの絶望。数多の感情が複雑に絡み合って、紘夢の心を激しく乱した。
 連絡を受けた僕が駆けつけたとき、紘夢の病室は荒れ果てていた。感情を上手くコントロール出来なくて泣き叫びながら暴れていた。
 けど僕の顔を見た瞬間、動きがぴたりと止まった。紘夢が消えそうな声で僕の名前を呼んだ。僕は紘夢の元に駆け寄り、その身体を強く抱きしめた。
「良かった。紘夢、良かった」
 病室は滅茶苦茶だし、かなりの人に迷惑をかけてしまったみたいだけど、それでも目を覚ましてくれたことが嬉しくてしょうがなかった。
「巧、ごめん。巧、巧」
 紘夢が泣いて、僕も泣いた。そのまま二人して床にへたり込んだ。
 しばらくそうしていると寝息が聞こえてきた。疲れて眠ってしまったらしい。一週間ぶりに目覚めたばかりの身体で大暴れしたのだから無理もない。むしろそんな身体でよく暴れられたなと思う。
 紘夢はしばらく入院することになった。精神状態が非常に不安定な上に、一週間も昏睡状態だったから仕方がないことだった。
 そして問題が発生した。
 紘夢は僕以外の人間とは一切口を利かなくなった。近付くことすら許さなかった。心を完全に閉ざしてしまっていた。僕だけが、唯一、紘夢の傍にいられる人間だった。
 僕は毎日お見舞いに行った。
「首の痣、だいぶましになったね」
 その細い首に優しく触れると、紘夢が身をよじった。
「くすぐったいんだけど」
「ごめん。でも、良かった」
「うん」
 時計を見ると、そろそろ面会終了の時間だった。
「もう時間だね」
「あ、あのさ」
 紘夢が僕の服を掴んできた。
「何?」
「今日()泊まって欲しい」
 紘夢の入院している病院は申請すれば病室に泊まることが出来た。専用の入館証がもらえて、それを提げていれば面会終了時刻を過ぎていても自由に病院内を歩くことが出来た。
「一緒にいて欲しい」
「うん。いいよ」
 紘夢の顔が安心したようなものになる。
「申請してくるから、少しだけ待ってて」
「わかった」
 僕はすっかり病室宿泊の常連になっていた。紘夢は僕以外の人間は断固拒否だったから離れるのが心配だというのもあったけど、それ以上に僕自身が宿泊を望んでいた。昼間は学校があるから一緒にはいられない。だからせめて夜だけでも紘夢の傍にいてあげたかった。
 寝るときは相変わらず同じベッドだった。宿泊者用の簡易ベッドもあったのだけど、それを使うことはなかった。
 病院のベッドは僕の部屋のベッドよりも少しだけ大きかったけど、僕達は身を寄せ合って眠っていた。もっと近くにいて欲しい。抱きしめて欲しい。泣きそうな目でそんなことを言われたら断れるはずがなかったし、それで紘夢が安心して眠れるのなら僕は喜んでそのお願いを聞き入れた。
「巧」
「どうしたの?」
「俺、どうしたらいいかな」
「どうもしなくていいよ」
 頭を撫でる。
「ここにいてくれるだけでいい」
「巧、泣いてる?」
 言われて、そこで初めて僕は自分が泣いていることに気が付いた。
「ごめん。俺のせいだよね」
 紘夢が僕の目尻に触れてくる。
「違う。紘夢のせいじゃない」
「じゃあどうして?」
「わからない」
 どうして泣いているのか自分でもわからなかった。なのに、僕の意思とは反対に涙が出てきてしまう。止め方もわからなくてむせ返った僕を、今度は紘夢の方から抱きしめてきた。
「紘夢?」
「巧、いつもこうしてくれるから」
「……うん」
「今日は俺の番」
「ありがとう」
 僕は大人しく紘夢に身体を預けた。二人分の体温が溶けあう。その温もりがとても心地良かった。やがて睡魔が襲ってきて、僕はそれに身を委ねた。
 眠りに落ちる直前、何処からか「ごめん」と言う声が聞こえたような気がした。

 朝、目を開いた瞬間、僕は焦った。いつもならすぐ目の前にあるはずの紘夢の顔がなかった。
「紘夢!」
「うわあ!」
 僕が飛び起きたのと、紘夢の間抜けな声が病室に響いたのはほぼ同時だった。
「びっくりした。どうしたんだよ、急に」
 紘夢は冷蔵庫の前にいた。手には水の入ったペットボトル。どうやら水を飲もうとしていたらしい。
「びっくりしたのはこっちだよ。いなくなったかと思ったじゃん」
「いなくなる? 俺が? 何で」
「だって」
 だって、色々あったし。
「巧?」
「怖かったんだ」
「怖かった?」
「いないことが、怖かった」
 前に佐倉の自殺未遂を目撃したとき、僕は死が救済になるのならそれもありだと思った。でもいざ大切な人が自殺を図ったと知ったら、目の前が真っ暗になった。
 脳裏に紘夢が倒れていたときのことが浮かぶ。全身の力が抜けていて、どれだけ呼びかけても目を開いてくれない。徐々に弱くなっていく呼吸。大切な人の命がすぐそこで終わろうとしていた。
 怖かった。怖くて仕方がなかった。
 救急車の中で一度心臓が止まったときも。
 目を覚ましてくれるのを待っているときも。
 ずっと、怖かった。
 だから起きたときに紘夢がいなくて、僕はこれまでの全てが夢だったんじゃないかと思った。本当の紘夢はまだ目を覚ましていないか、死んでしまっていて、その現実に耐えられなかった僕が見ていた都合のいい夢。
「もしかして昨日泣いたのもそれが理由?」
「…………そうかも」
 紘夢が傍にいてくれることが、その生きている証拠である熱と鼓動を感じられることが嬉しかったのと同時に、これが夢だったらどうしようという不安で泣いてしまった。そう考えると自分でも納得がいく。そうか、だから僕は泣いてしまったのか。
「やっぱり、俺のせいじゃん」
 僕は首を振る。
「紘夢は悪くない。僕が、僕の心が弱いだけ」
「巧は弱くない」
 紘夢が僕の元までやってきて手を握ってきた。その手を握り返して、存在を確かめる。
「俺、ちゃんといるから」
「うん」
「夢でも、幻でもないから」
「うん」
「ごめん。本当に」
「謝らないで」
 今生きているんだから、謝らなくていい。
「……ありがとう。もう大丈夫」
 そう言って僕の方から手を離すと、紘夢も手を離した。
「そろそろ学校行く準備するね」
「わかった」
 制服に着替え、準備を進める。
また一日が始まってしまう。そう思うと憂鬱で仕方がない。
 だけど手の中にはまだ微かに温もりが残っていた。
 それだけで今日も一日頑張れるような気がした。

 教室に着くや否や、僕は男女三人組に囲まれた。
「なあ、俺ら二見に聞きたいことがあるんだけど」
「ちょっといいかな?」
「まじですぐ終わるから」
 三人の顔からは敵対心のようなものは見られない。本当に、純粋に、僕に何か聞きたいことがあるみたいだった。だとしたら断る理由もないので小さく頷く。
「ありがとう。あのね、聞きたいことっていうのは、松葉くんのことなんだけど」
 なるほどと思った。この三人は松葉と同じグループにいた人達だった。
「松葉くんって、今入院してるんだよね?」
「……うん」
「その、気を悪くしないで欲しいんだけど」
 三人の代表という感じで喋っていた女子が残りの二人の顔をちらりと見る。「本当に聞くの?」「だって二見くらいしか知ってる人いないだろ」「なあ頼むよ」「わかった」話はまとまったらしく、彼女の視線が僕に戻る。
「松葉くんが入院してる理由、自殺未遂って本当なの?」
 一瞬、時間が止まったかと思った。
 何で。誰にも言っていないのに。どうして話が漏れているんだ。
「その話、誰から聞いたの?」
「誰っていうか、皆言ってるよ。ね?」
「ああ。気付いたときにはそんな噂が広まっててさ」
 つまり噂の出どころはわからないということか。
「なあ、どうなんだよ」
「ガセだよ。自殺未遂じゃない」
 僕は何の迷いもなく嘘を吐いた。
「松葉のは事故だよ。寝ている間にコードが首に絡まって、運悪く窒息しちゃったんだ。SNSとかでも朝起きたらコードが首に巻きついていたって話はよく聞く話だし、本当に運が悪かっただけなんだ」
 即興で作り上げたにしては、なかなかにいい嘘だと思う。首が絞まったことで窒息したというのは本当だから、万が一痣が残ってしまっても誤魔化せるはず。もちろんよく見ればコードの太さじゃないって気付かれるだろうけど、逆に言えばぱっと見程度では何によってついた痣なのか気付かれないということでもある。予めそういう事故に遭ったのだと言ってさえおけば凝視してくる人はいないだろう。
 どうか信じてくれと祈りながら返事を待つ。
「あー俺、この前イヤホンしながら寝てたら息苦しくて目覚めたんだよな。そしたら首に絡まってた」
「俺もほぼ毎朝コード首に巻きついてるわ」
「いや毎朝ってやばいでしょ。どうしたらそうなるのよ」
 その反応からして、どうやら死線を潜り抜けたらしい。
「でも、そっか。事故、だったんだね。良かった」
「うん。だから皆にもそう伝えといてくれると助かる」
「わかった。ありがとう。教えてくれて」
「ううん。僕の方こそもう少し早く説明するべきだったよね。勝手に話したら松葉が嫌がるかなって思って言えなかったんだ」
 平気で嘘を重ねる。でもこれらの嘘は全部松葉を守るためのものだから、どうか見逃して欲しい。
「あ、じゃあさ今度皆でお見舞い行こうぜ」
「え」
「いいね!」
「いつ行く?」
 どうしよう。やばい。まずい方向に話が進みだした。
「なあ、松葉の入院してる病院って何処なの?」
「えっと」
 今お見舞いに来られるのは非常に困る。まさかこんなにも秒でお見舞いに行こうって話が出るとは思っていなかった。僕以外面会謝絶の理由はまだ考えられていない。
「何? 早く教えろよ」
「駄目だよ、皆。二見くんを困らせたら」
 三人の後ろから、突然潮田の声が聞こえてきた。
 何で潮田が。状況が呑み込めないまま潮田が三人に言う。
「紘夢くんが自殺じゃなかったって知って嬉しいのはわかるけど、そのままのテンションで迫ったら怖がられるのは当然だよ。二見くん人見知りなんだから」
「え、ああ、そうだよな。ごめんな、二見」
「いや、全然大丈夫、だよ」
 横目で潮田を見ると、潮田は僕に向かって笑顔を浮かべていた。まるで私に任せてと言っているみたいだった。その読み通り、さらに潮田は続ける。
「お見舞いのことも、大勢で病室に押しかけるのは迷惑じゃないかな。それに紘夢くん、あんなことがあってずっと学校休んでたし、いきなりクラスメイトが会いに行ったらそれこそ怖がらせちゃうだけだと思うんだけど」
「でも俺らだって松葉のこと心配だし」
「うん、そうだよね。だからさ、二見くんにクラスの代表として行ってもらうのはどうかな。紘夢くんに渡したいものとか言いたいことがある人は二見くんにお願いするの。紘夢くんも気心の知れた親友の二見くんの方が安心出来ると思うな」
 やや間があって、三人は顔を見合わせた。
「……まあ、潮田がそう言うなら」
「わかってくれて嬉しい」
「あ、じゃあさ、色紙書こうぜ。クラス皆に回してさ」
「私、手紙も書こうかな」
「二見、書けたら持って行ってくれるよな」
「う、うん。もちろんだよ」
「ありがとな。早速色紙用意しようぜ。購買に売ってるっけ?」
 それで三人は購買へと向かった。
 ようやく解放されて、僕は小さく息を吐いた。疲れた。凄く、疲れた。
「大変だったね」
「あのさ、聞いてもいい?」
「なあに?」
「何で、僕を助けたの」
 学級裁判のときといい、今回といい、最近の潮田は事あるごとに僕の味方をしてくる。僕を助けてくる。
「言ったでしょ。私が守ってあげるって」
 確かにキスをする仲になるよりも前にそんなことを言っていたような気がする。
「それに今は紘夢くんがいないから、私が紘夢くんの代わりになろうかなって思ったんだ」
「松葉の、代わり」
 嫌な響きだった。
「二見くんも凄く辛いと思うけど、私は二見くんの味方だからね」
「…………ありがとう」
 心にもないお礼の言葉を口にする。
「困ったことがあったらいつでも頼ってね」
 そう言って潮田は女子のグループの元へと戻っていった。
 その女子グループで出来た輪の中心に佐倉の姿があった。集団リンチの真っ最中。頭から飲み物をぶっかけられていた。笑い声が教室に響く。僕はなるべくそっちを見ないようにして自分の席へと向かった。
 あの学級裁判で有罪判決が下ったことで佐倉へのいじめはヒートアップしていた。正義の名のもとに処罰を行使している。そう思い込んでいるようだった。日に日に酷くなっていく様を見続けるのは辛かった。いつも最悪の気分だった。向こうは見せしめのつもりなのだろうけど、見せられているこっちも拷問だった。
「あ」
 一瞬だけ佐倉と目が合った、ような気がした。反射的に逸らしてしまったから、もしかしたら僕の勘違いかもしれない。
 でも僕が佐倉を見てしまったのは事実だった。その姿を見ると胸が苦しくなる。だからなるべく見ないようにしていたのに、つい見てしまった。
 どうして佐倉は学校を休まないのだろう。こんな地獄みたいな場所に、どうして毎日ちゃんと通うことが出来るのだろう。逃げればいいのに。わざわざいじめられに来る必要なんてないのに。これも諦めからなのか、それとも休めば犯行を認めるようなものだからなのか。僕には判断のしようがなかった。

 病室に入った瞬間、紘夢の顔がぎょっとなった。それもそのはずで僕は朝には持っていなかった紙袋を複数提げていた。全部、紘夢への見舞い品だった。授業もある中、たった半日でよくここまで集まったなと思う。それほど紘夢は人気者で、皆から好かれていた。
「それ、何?」
 当然、そう聞かれる。
「皆が紘夢にって」
 紙袋の中から色紙が見えていた。佐倉以外のクラスメイト全員が短いメッセージを書いていた。そこに書き切れなかった人が別に手紙を書いたり、入院中は暇だろうということでたまたま持っていた文庫本やCD、DVDなんかが次々と集まって、こんなことになっていた。
「……いらない」
「だよね」
 これが本当にただの事故だったらきっと嬉しかっただろう。でもそうじゃない。紘夢のは自殺未遂で今は僕だけにしか心を開いていない。いやたぶん実際のところはこうなるよりも前から、もっといえば最初から、クラスメイト達に心を開いていなかったと思う。だって平気で人をいじめるような連中だ。そんな人達からもらった言葉なんて、嘘くさくて信じられる訳がない。
「でも話題になったときに一切見てなかったら困ることになるだろうし、目だけでも通しておきなよ」
「そうする」
「本とかは適当なタイミングで僕が返しとくよ」
「ありがとな」
「いいよ。気にしないで」
 こうなったのは僕のせいみたいなものだから。
「ここに置いとくね」
 荷物置き場に紙袋を並べる。
「今日は変わったことあった?」
 ベッドの淵に座りながら尋ねる。
「いつも通りカウンセリングの人が来たくらい」
「そっか。何か話せた?」
 紘夢は静かに首を振る。
「無理しないでいいからね。カウンセリング受けなきゃ死ぬ訳でもないし」
「死にかけたからこうなってるんだけどな」
「それ、自分で言う?」
 僕がそう言うと紘夢はけらけらと笑い出した。良かった。思ったより明るい。このまま快方に向かってくれることを祈るばかりだ。
「もうすぐ夏休みだね」
「もうそんな時期になってたのか。俺、既に夏休みみたいなものだったから忘れてた」
「退院したら行きたいところある?」
「退院出来るかな」
「してよ」
 してくれなきゃ困る。
「僕、紘夢とやりたいことがまだ沢山ある。遊びに行きたいし、大学にも一緒に行きたいよ」
「退院は出来てもさ、卒業と進学出来んのかな。期末受けてないし」
「入院なんだから多少は考慮してくれるんじゃないの」
「考慮してくれなかったら?」
「二学期頑張るしかないよね」
「ついていける気しねえ」
「大丈夫だよ。僕が教えるから」
 今の僕はそのために学校へ行っているようなものなのだから。
「えー、巧スパルタだから嫌だ」
「紘夢がふざけるからでしょ。真面目に勉強してたの中学受験のときだけじゃん」
「それは巧だって同じだろ。授業平気でサボったりするし」
「出席日数に気を付けて、試験でそれなりに点数取れば多少サボっても平気だよ」
「巧って真面目なのか不真面目なのかよくわからないよな」
「どうなんだろうね」
 一応、絶対にやらなくてはいけないものはやるようにしている。そうでない場合は適当にこなす。潮田からの質問の回答がその例だ。必要最低限のことさえやっていれば生きていける。
「いいんだよ。全部やろうとしないで」
 自分に出来ることなんて限られているのだから、全部を一人でやろうとしなくていい。
「僕達、ずっとそうしてきたじゃん」
 頑張りすぎなくていいんだよ。紘夢は充分頑張ってきたんだから、あとは僕に任せてくれたらいい。僕に出来ることならなんだってする。支え続ける。
「休みたいときは休めばいいんだよ」
「どのくらい休んでていい?」
「動きたくなるまで」
「もう二度と動けないって思ったら?」
「本当にもう二度と動けないのか確かめたらいい」
「本当だったら?」
「ヒモになるしかないよね」
 最後の最後で僕はお道化てみせた。その先を、心の中にあった本当の答えを、僕は口にしたくなかった。
「巧が養ってくれる?」
「いいけど、その代わり紘夢が家事担当ね」
「おばさんに味噌汁の作り方聞いとこう」
「花嫁修業か」
 真面目な空気は完全に消えていた。
「病めるときも、健やかなるときも、真心を尽くすよ」
 なのに、それを言った紘夢の顔はやけに真面目だった。僕が花嫁なんて言ったから結婚式の真似事を始めたのかとも思ったが、それにしては表情が硬い。
「冗談だって」
 とても冗談には見えなかった。

 寝苦しかった。身体が重くて上手く動かせない。もしかして金縛りかなと思ったけど、息苦しさを感じて金縛りではないと思った。何かがおかしい。こんな経験今まで一度もしたことがなかった。怖くなって目を開いた。
 見て、僕は困った。
 紘夢が僕に馬乗りになって、僕の首を絞めていた。一切光のない、虚ろな目で僕を見下ろしていた。
 視線を横に逸らすと、ベッドサイドにある棚の上に制服のネクタイが置いてあった。紘夢の制服はここにはないから、あれは僕のものだ。
 それで、全部、納得した。
 抵抗する気はなかった。
 首が絞められていく。苦しい。けど苦しいだけで、僕の意識が沈む気配は一向に訪れなかった。入院生活で痩せてしまった紘夢の力では僕を落とすことすら出来ない。
 だから教えてあげることにした。
「紘夢。そんなんじゃ僕は殺せないよ」
 手を伸ばし紘夢の頬に触れながら僕はそう言った。
 すると紘夢の目に光が戻った。
「……た、く?」
 紘夢の視線が手元に移動する。瞬間、紘夢の顔が歪み僕の首を絞めていた手が緩んだ。途絶えていた酸素が一気に入り込んできて、僕は軽くむせた。僕の目から生理的な涙がこぼれたのに対し、紘夢の目からは心理的な涙が溢れていた。
「俺……俺、何で、こんなこと」
 生温い雨が降ってくる。
「ごめん、巧。どうしよう。俺、巧に酷いことを。ごめん。ごめん」
 馬乗りのまま紘夢が倒れ込んできて、僕に覆いかぶさってくる。その身体は酷く震えていた。
「ごめん。本当に、ごめん」
「大丈夫だよ。ちょっと悪い夢を見ていただけだよ」
 右手で頭を撫でながら、左手で抱きしめる。どちらかが泣いているときに触れ合うのはもはや習慣だった。そうしないと落ち着けない。心が休まらない。他人からすれば気持ち悪いと思われるかもしれないけど、僕達にとってはこの行為こそが特効薬だった。
 やがて紘夢は無言で僕の上から下りてベッドに腰かけた。僕も身体を起こし、そのすぐ隣に並んだ。
「落ち着いた?」
「ごめん」
「いいよ。気にしてない」
「何で気にしてないなんて言えるんだよ。だって、俺、巧のこと」
 殺そうとしたのに、と言った声はとても弱々しかった。
「何で、か」
 その理由は実に単純だった。
「僕は紘夢になら殺されたっていいって、そう思ってるからだよ」
 こんなのおかしいって本当はわかっている。でもこれが僕の本心だった。
 紘夢が自殺してこの世界にたった一人取り残されるくらいなら、僕も一緒に死にたい。一緒に連れて行って欲しい。そしてどうせ死ぬんだったら、紘夢に殺してもらいたい。紘夢のその手で、僕の息の根を止めて欲しい。
 棚の上にあるネクタイを手に取る。
「僕を殺してもいいよ」
 そう言ってネクタイを差し出した僕の手を紘夢は払った。
「ごめん。俺のせいだ」
 何に対しての謝罪なのかわからなかった。
「俺、巧を殺したくない。だから俺が巧を殺さないように見張って」
 紘夢が僕の顔を両手で包んでくる。
「巧に死んで欲しくない。生きてて欲しい。もし俺が死んでも、巧は生きて」
「そんなの無理だよ」
 紘夢のいない世界でなんて生きていけない。
「一緒に生きるか。一緒に死ぬか。そのどちらかだよ」
「じゃあ一緒に生きよう」
「自殺しないって、一人で勝手に死なないって約束してくれる?」
「約束する。自殺しない。一人で勝手に死んだりしない」
「…………わかった」
 紘夢の手に自分の手を添える。
「紘夢が僕を殺さないよう、ちゃんと見張るよ」
「ありがとう」
「今日はもう寝よう。身体に障るといけないから」
 布団の中へと促すと、紘夢は素直に横になった。それを見て僕も横になる。
「おやすみ」とほぼ同時に言った。
 紘夢はすぐに眠ってしまった。
 僕はなかなか眠れそうになかった。それで起こさないように慎重に紘夢の身体を抱き寄せた。
 目の前に穏やかな寝顔があった。もう悪い夢を見ませんようにと心の底から願う。
 そのとき、初めて、紘夢にキスをしたいと思った。
 ゆっくりと顔を近付ける。紘夢の寝息が僕にかかる。心臓の音が、耳元でやかましく鳴っていた。
 あと、少し。
 もうほんの少し近付けるだけで、僕はこの感情の正体を知ることが出来る。
 でも僕が紘夢にキスをすることはなかった。
 するまでもないと思い直した。
 僕のこれはきっと庇護欲だ。親が子を想うのと同じようなもので、その愛情表現としてキスをしたいと思っただけ。そうだよ。そうに違いない。
 だってこんな感情が、恋愛感情であっていいはずがない。