翌朝、教室に着いた瞬間、世界が音を立てて崩れ始めた。
 その音というのは鞄が床に落ちる音だった。落としたのは僕ではない。松葉だった。
 教室にいた全員が黒板に書かれている文字に目を奪われていた。

 松葉紘夢は元虐待児
 親の愛を知らない哀れな人間

 言葉が出なかった。
「何、これ」
 酷く震えた松葉の声が聞こえてきて、はっとなる。見ると、松葉の顔は青ざめていた。そして教室を飛び出していった。
「松葉!」
 僕はすぐに松葉の後を追った。教室の空気も気になるけど、今は松葉の方が優先だ。
 数メートル先を行く松葉がトイレに駆け込む。それを見て僕もトイレに駆け込んだ。
 松葉は便器に吐いていた。一番手前の個室、鍵がかかっていなくてドアも完全に開いた状態で吐いていた。僕は迷わず松葉のいる個室に入り鍵を閉め、その背中をさすった。
 朝食を全部吐き出して、それでも足りなくて、胃液を吐き続けた。
 やがて松葉の身体が僕の方に倒れてきた。制服が汗でぐっしょりと濡れていた。呼吸も少し荒い。吐き過ぎて軽い脱水症状を起こしているようだった。
 鞄からペットボトルの水を取り出す。僕の鞄が斜め掛けのもので良かった。でなきゃあの瞬間、僕も松葉同様に鞄を落としていただろうから。
「松葉、水飲んで」
 かろうじて意識のある松葉に水を差し出す。
「無理、吐く」
「吐いてもいいから、一旦、身体に入れて」
 早く水分を体内に吸収させないと本格的にまずいことになる。そうなる前に、少しでもいいから水を飲ませたい。
「手、力、入んない」
「じゃあ口開けて」
 ペットボトルを松葉の口元まで持っていきゆっくりと傾ける。水が松葉の口の中に注ぎ込まれる。同時に入り損ねた水が口の端から流れていき、僕達の制服を濡らした。
 しばらくそうやって水を飲ませていると、少しずつだけど松葉の顔色がよくなってきた。
「……巧、俺どうしよう」
 その目には涙が溜まっていた。
「巧……巧……」
 そして縋るように僕の制服を掴んできた。その手は震えていた。
「俺、怖い」
「大丈夫だよ」
 手を重ねる。
「僕は紘夢の味方だよ」
 何があっても、絶対にこの手を離したりしない。
「とりあえず保健室行こう。立てる?」
「……立てない」
「わかった」
 僕は紘夢を背中に乗せ廊下に顔を出す。チャイムはとっくの前に鳴っていた。もしこの状況を先生に見られたら、紘夢だけ回収されて僕は教室に帰らされるかもしれない。紘夢の精神状態を考えても、それだけは防ぎたかった。
 廊下には誰一人としていない。右、左、右。再三確認して、僕は保健室へと向かった。
 保健室の前で一瞬、立ち止まる。両手は背中にいる紘夢が落ちないように支えるのに使っているから塞がっていた。仕方がないので足で乱暴に扉をノックすると、十秒もしないうちに養護教諭である女性が出てきた。
 先生は僕達のことを見た瞬間、ぎょっとしていた。でもすぐに真面目な顔になって、僕達を保健室に入れてくれた。
 ひとまず紘夢をベッドに寝かせた。
 何があったのか聞かれ、僕は教室であったことは伏せて「急に気分が悪くなったみたいで、朝食を全部吐いてしまった」とだけ説明した。それで体温を測ると微熱だった。先生は軽度の熱中症と判断して早退を進めてきた。
「松葉くんどうする?」
「帰りたい。けど」
「あ、そっか」
 紘夢の家には車がない。迎えに来てもらうというのは、少し難しい。
「あの、僕が送ります」
 僕がそう言うと先生は怪訝そうな顔になった。
「授業はどうするの」
「どうせ遅刻ですし、授業なんかより松葉の方が大切なので」
 先生の目を真っ直ぐに見て、僕はきっぱりとそう言ってのけた。数秒後、先生が床に穴が開くのではと思うくらい深い溜め息を吐いた。
「わかった。二人共早退ってことで担任の先生に報告しておく」
「ありがとうございます」
「ただ当然だけど、二人の保護者の方にも連絡はするから」
 先生が言い終えたのとほぼ同時にチャイムが鳴る。
「僕、松葉の荷物取ってきます」
 自分の荷物をベッドの脇に置いて、保健室を出ようと足を前に出したとき。
「巧」
 人前なのに取り繕うことを忘れた紘夢が僕の手を掴んでくる。
「すぐ戻って来るから」
 安心させたくて僕は笑顔を見せた。単なる笑顔じゃなくて、なるべく優しいものになるように心がけて。それが伝わったのか紘夢は「わかった」と言って僕の手を離してくれた。
「行ってくるね」
 今度こそ前進し保健室を出るために扉を開ける。
「…………何でいるの」
 廊下に出て一歩目。
 目の前に潮田がいた。
「どうしてここにいるの」
 後ろ手で扉を閉めながら、もう一度聞く。
「これ、必要になるんじゃないかなって思って」
 潮田はさっき紘夢が落した鞄を抱えていた。
「……ありがとう」
 どういうつもりかはわからないけど、とりあえずお礼を言って鞄を受け取る。
「紘夢くんと話せる?」
「悪いけど、今は会わせられない」
「それは残念」
 やけに素直だなと思った。素直すぎて気味が悪いけど、その素直さに今は感謝する。
「…………教室、どんな感じ?」
「気になる?」
 だから聞いているんだとも言えず、僕は頷いた。
「大荒れだよ」
「やっぱり」
「でも安心して。一時間目の先生が来る前に、黒板の文字は消しておいたから」
「ありがとう」
 全然安心は出来ないけど、先生に見られなかっただけまだましかもしれない。
「そろそろ戻った方がいいんじゃない?」
「二見くんは戻らないの?」
「僕は松葉と一緒に早退するから」
「そっか。じゃあまた明日ね。紘夢くんにお大事にって言っておいて」
 小さく手を振って、潮田が廊下を駆けていく。その後ろ姿を最後まで見守ることはなかった。
 保健室に入ると、先生は電話中だった。目だけで戻ってきた旨を伝えて、紘夢の元へと向かう。
「松葉、戻ったよ」
 紘夢のいるベッドを覗くと、紘夢は寝息を立てていた。起こす訳にもいかないので、中には入らずそっとカーテンを閉めた。
「二見くん」
 呼ばれて振り返ると、いつのまにか電話を終えていた先生がすぐ目の前にいた。
「松葉なら寝てますけど」
「それはいいんだけど」
 何処か様子がおかしかった。
「何ですか?」
 堪らず僕の方から聞く。
「二見くんと松葉くんって付き合い長いの?」
「それなりに」
「聞いてもいい?」
「何を、ですか」
「松葉くんの家のこと」
 空気が凍りついたような気がした。時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。耳障りで仕方がない。
「松葉くんの連絡先、ご両親のがないの。それどころか保護者欄に名前すら書かれていない」
「それの何が問題なんですか」
 先生の顔が少しだけ歪んだのがわかった。
「松葉は叔母夫婦と暮らしてます。ただそれだけです。何か問題でもありますか」
「それだけって」
「ああ、それから」
 僕は最大限の敵意を込めて言った。
「二度とあの人達のことを紘夢の両親だなんて言わないでください」
 相手が大人だろうと関係ない。紘夢を傷付ける人間は絶対に許さない。
「……松葉が目を覚まし次第帰ります。それから松葉の傍にいてあげたいんで、ベッド脇にいます」
 先生が何か言ってくる前に中に入りわざとらしくカーテンを閉めた。鍵なんてものはないから、別に入ってこようと思えば全然入ってくることが出来るのだけど、さすがに空気を読んだのか先生が入ってくることはなかった。
 ただの保健室のベッド脇に椅子が置いてあるはずもなく、僕は紘夢の身体を踏まないように気を付けながらベッドの淵に腰かけた。
「紘夢」
 紘夢は寝ながら泣いていた。そのこぼれ落ちる涙を指で拭ってあげる。
「大丈夫だよ」
 僕が守るから。
 あの夜、僕は決めたんだ。
 僕は紘夢のために生きるのだと。

 ▼

 松葉紘夢は虐待児だった。
 生まれて間もない頃から、ずっと虐待を受けていた。
 ネグレクトと暴力。
 親の愛なんて知らない。愛のない環境で日々を過ごしてきた。
 当然身体は同級生達よりも一回りは小さかった。でも幼い頃なんて、周りより多少小さい子なんて山ほどいる。また紘夢自身が虐待を隠していた。幼いながらに誰かに相談したら殺されると、そう感じていた。
 故に、紘夢への虐待に気が付く人はいなかった。
 小学二年生の冬までは。
 その当時紘夢の担任だった先生が体育のとき、紘夢の身体に不自然な痣があることに気が付いた。問いただすのは愚策だと考えたその先生は真っ先に児童相談所に調査を要請した。それで紘夢への虐待が発覚した。
 最初、紘夢は児童養護施設に引き取られた。けどすぐに事情を聞きつけた叔母夫婦が紘夢の保護者を買って出た。紘夢は叔母夫婦と暮らすために引っ越しと転校を余儀なくされた。
 そして小学三年生の春。紘夢は僕のいる小学校に転校してきた。
 クラスは別だった。だからこのときはまだ、僕は紘夢の存在を知らなかった。というよりその頃僕はクラスでいじめられていたから、いちいち二つ隣のクラスに来た転校生のことなんて気にしていられなかった。
 僕達が出会ったのはその年の秋。運動会の学年での合同練習中だった。
 僕のいた小学校というのはなかなかにバイオレンスなところで、小三にしてわざと転ばされたりなんてことが日常茶飯事だった。先生のいないところでは殴られたりもしていた。それでその練習中も、僕は何度も足を引っかけられ何度も転んで膝がズル剥けになったところで練習をリタイアした。僕を気遣ってくれる友人なんているはずもなく、一人で足を引きずりながら保健室に行った。
 保健室に入ると、同じように膝を怪我した男の子しかいなかった。知らない顔。体操服のゼッケンを盗み見る。
 3年1組 松葉
 知らない名前だった。
「先生ならいないよ。えっと」
 松葉が僕のゼッケンを見てきたのがわかった。
「ふたみ、で読み方あってる?」
 僕は頷いた。
「膝、痛そう。座ったら?」
 言われて松葉の隣に座った。ただ長らく同級生と言葉を交わしていなかったからどうしていいかわからず僕は俯いた。それで僕の意思とは関係なしに松葉の膝が目に留まった。松葉の方も僕と同じくらいズル剥けだった。ズル剥けの膝が四つも並ぶと、かなりグロテスクだった。
「転んだの?」
 僕の膝を見ながら松葉が聞いてきた。
「…………転ばされたって言ったら笑う?」
 気が付いたらそんなことを言っていた。
「笑わない。だって」
 顔を上げる。
「俺も、同じだから」
 松葉は困ったような顔をしていた。たぶん僕も同じような顔をしていたと思う。初めて話した相手にいきなりいじめられていることを、しかも二人同時に告白したのだから変な空気になっても仕方がない。
「俺、松葉紘夢。この春転校してきたんだ」
「僕は二見巧」
「よろしく」
 松葉が握手を求めてきて。
「……よろしく」
 僕はその手を取った。
 それから僕達の交流が始まった。
 クラスが違うし何より僕達はいじめられているから学校内ではなかなか会えなかった。でも例の合同練習や放課後に公園で会っていた。さながら密会だった。
 会って、僕達は互いの状況やこれまでの境遇を話していた。そのときに僕は紘夢が転校してきた経緯を聞いた。また現在いじめられているのも虐待児だったことがクラスの連中にバレてしまったからなのだと教えてくれた。
 それで僕も僕のこれまでについて紘夢に話した。
 僕は家族愛には飢えていなかった。普通に良好でそこに不満を抱いたことはなかった。
 ただ友達と呼べる人はいたことがなかった。幼稚園の頃からずっといじめられてきた。といってもそれこそ最初は可愛いもので初級編よろしくの仲間外れとか無視程度のものだった。
 小学生になってからも僕へのいじめは続いた。幼稚園で僕をいじめていた人達も僕と同じ小学校に上がったからだ。そこに別の幼稚園や保育園から来た人が加わって、僕へのいじめは加速した。そして小三になって暴力が始まった。
 何がいけなかったのかわからない。目立たなくて大人しい性格だったから根暗だと思われたのかもしれない。言動が他人からしたら気持ち悪かったのかもしれない。実際その通りだと思う。だから友達が出来ない。人から嫌われる。そうやって仕方がないことなのだと自分に言い聞かせてきた。
「俺は巧を気持ち悪いと思ったこと一度もない」
 僕が話を終えたとき、紘夢がそう言ってくれた。
 その言葉は僕にとって救いだった。

 僕達は徐々に心を開いていった。
 一緒にいるのを見られて二人まとめていじめられるようになっても、僕達は互いを売ったりしなかった。決してその手を離したりはしなかった。いつしかいじめられている者同士の仲間意識みたいなものは消えていた。
 僕にとっての初めての友達は紘夢だった。
 紘夢がいれば辛いいじめも耐えられた。どれだけ殴られても平気だった。
 僕は完全に紘夢に心を許していた。だから小四になる前の春休みに、紘夢が「巧の家に泊りに行きたい」と言ってくれたときは当然二つ返事で承諾した。
 でもそこで僕は、紘夢が僕に見せていなかった心の重荷を知ることになる。
 夜、僕達は同じベッドで寝ることになった。入学祝で勉強机と同時に与えられたシングルベッドは小学生の僕にはかなり大きかった。紘夢も紘夢でまだ身体が小さかったから問題ないだろうということでそうなった。
 僕が先に布団に入って、紘夢が後から入ってきた。
 そのときにぽろっと紘夢が言った。
「誰かと一緒の布団で寝るの初めて」
 心臓が跳ねた。
「……お、おばさん達とは寝てないの?」
「いい人達だってことはわかってるんだけどね。大人と寝るのはどうしても怖いんだ」
 困ったように笑う紘夢を見て、僕は泣きそうになった。
 僕はわかっていなかった。話を聞いて、わかった気になっていた。虐待をしていた両親から離れることが出来たからといって、それで終わりじゃなかった。紘夢はこの先もずっとその過去に振り回される。何処かで思い出して傷付き続ける。一生、怯え続けないといけない。僕が受けている慢性的ないじめなんかとはレベルが、次元が違う。
「大丈夫だよ」
 気が付いたら僕は紘夢を抱きしめていた。
「僕が傍にいるから」
 心の底からそう思った。
「……本当に?」
 僕は頷く。
「ずっと一緒にいてくれる?」
「うん」
「こんなふうに一緒に寝てくれる?」
「もちろんだよ」
「大きくなっても?」
「大きくなっても」
 抱きしめていた手を緩める。
 そして紘夢の目を見て僕は言う。
「何があっても紘夢の傍にいるよ」
 紘夢の目から涙がこぼれた。大泣きしながら嗚咽を漏らす紘夢をもう一度抱きしめると、紘夢の方も僕の身体に手を回してきた。そのまま抱き合う形で僕達は夜を明かした。本当の意味で心が通じ合ったのだと僕は思った。
 嬉しかった。初めて人と深いところで繋がることが出来て、とても嬉しかった。
 ただ一つ、思ったことの二割程度しか伝えられなかったことが心残りだった。芽生えた感情を当時の僕は上手く言語化出来なかった。
 僕は味方だよ。傍にいるよ。
 その部分しか伝えることが出来なかった。
 けど今ならはっきりと言える。
 僕はこの夜に自分の使命を悟ったんだ。
 何もない人生だった。訳もわからず人に嫌われて、いじめられて、何のために生きているのかわからなかった。ずっと死にたかった。生きていたくなかった。こんな人生、さっさと捨ててしまいたかった。
 でも紘夢と一夜を共にしてようやくわかった。
 僕は紘夢に会うために生まれてきた。
 僕は紘夢を支えるために、この世界に産み落とされた。
 僕は紘夢を守らなくてはいけない。
 僕は紘夢のために生きるんだ。
 それが僕の生きる理由。僕に与えられた使命。
 どうすればその使命を遂行出来るのか、紘夢の笑顔を守るためには何をしなければいけないのか、小学生の足りない頭で必死に考えた。
 そうして、まずはこの環境から脱出しなければならないと思った。
 いじめられ続けている限り、僕達が心から笑える日は来ない。平穏は訪れない。けどいじめが終わるとも思えない。きっと彼らといる限り、僕達はいじめから逃れられない。
 だったら、彼らのいない環境に行けばいい。
「中学受験しよう」
 小四の夏、僕は紘夢にそう提案した。
「中学受験?」
「そう。中学受験」
 私立だろうが公立だろうが、二人揃っての転校なんてどう考えても不可能だ。残りの二年半はどう足掻いても彼らと顔を合わせることになる。でもその先、中学ならまだ可能性がある。
「誰も僕達を知らないところに行こう。そこで最初からやり直すんだ」
「でも上手くいくかな」
「僕達ならやれるよ」
 紘夢の手を強く握る。
「一緒にこの世界から逃げよう」
 このどうしようもない、くそみたいな世界から逃げるんだ。そして僕達が平和に生きられる世界を僕達の手で作るんだ。
「うん。俺、巧についていく」
 僕達の脱出計画が始まった。
 中学受験をするためには当然だけど家の承諾が必要だった。僕は両親に、紘夢は叔母夫婦に頼み込み、なんとか許しを得た。
 一緒の塾に通って、休みの日も一緒に勉強をして、僕達は合格を目指した。自分達の未来がかかっているから必死になって勉強をした。
 そのかいあって僕達は無事、今通っている中高一貫校に合格した。
 僕達のことを知っている人は誰一人としていない中学は、ゴミ溜めのような小学校とは違って息がしやすかった。
 中等部一年、僕達は同じクラスになった。
「巧は良かったの?」
「何が?」
「俺達のグループに入らなくて」
 紘夢はクラスの中でも中心的なグループに所属していた。僕が進めたのだ。紘夢は綺麗な顔立ちをしているし、僕に見せる人懐っこい笑顔がとても魅力的だった。虐待なんてなければ、いじめなんてなければ、きっとクラスの中心で皆を引っ張ってくれるような存在になっていたと思う。それこそいじめが起きる前は、それなりに皆と上手くやっていたみたいだった。だから僕は紘夢に本来の自分の姿を取り戻して欲しかった。
「僕はいいよ。大勢で何かをするのは得意じゃないんだ」
 いじめられなくなって、紘夢にも笑顔が増えて、僕はそれだけで充分満足だった。
「けど巧が最初からやり直そうって言ったんじゃん」
「あーそうだっけ」
「そうなんだよ」
 紘夢が不満げな顔で見てくる。
「いいんだよ、本当に。僕は僕で平和な世界を迎えることが出来た訳だし。何事もなく、目立たず日々を過ごせて楽しいよ」
「ま、無理にとは言わないけどさ」
「紘夢の方こそ無理しなくていいからね」
「わかってるって」
 僕達はそれなりに上手くやっていた。
 でも平和は長くは続かなかった。
 二学期に入って、いじめが始まった。
 標的にされたのは僕とよく話していた男子だった。
 そしていじめの主犯が紘夢のいるグループのリーダー的な男子だった。
 毎日、執拗に、いじめは行われた。背負い投げで地面に叩きつけられたり、生ゴミを食べさせられたりしていた。極めつけは全裸の写真を教室にばら撒かれていた。金銭の要求を断ったその罰なのだと主犯の男子が言っていた。
 やがて彼が不登校になって、次は誰にするかという話が行われていた。
「二見か真野(まの)。お前、どっちがいいと思う?」
 心臓を握り潰されるような感覚がした。けどそれは僕の名前が出たからではなくて。
「え、俺が決めるの?」
 その問いかけをされているのが紘夢だったからだ。
「あいつら何か暗いじゃん。目障りだと思わね? だからどっちかにしたいんだけど、俺は散々遊んだからさ、紘夢が決めてよ」
 決めて、じゃなくて、決めろという命令だった。
 紘夢はあまりいじめに積極的じゃなかった。いじめられる苦しみを知っている紘夢がいじめる側に回れる訳がなかった。どうにかこうにか加担しないようにしてきた。
 その曖昧な態度が気に食わなかったのだろう。
 彼の命令を直訳するとこうだ。
 お前が俺達の仲間だというのなら、証明してみせろ。
 紘夢が選んだどちらかが次にいじめられる。それはつまりそのいじめを始めた人になるということ。
 彼は紘夢を同じところまで堕としたかった。
 そしてもし選べなければ。
「ほら、選べよ」
 わざとらしい大声で彼が言う。
「えっと」
 ちらりと紘夢が僕のことを見た。
 目が合う。
 視線が外れる。
 紘夢が彼に向かって言う。
「……真野」
「理由は?」
「二見は俺の親友なんだ。真野は前に二見の悪口を言ってたから」
「へえー。そりゃ親友が傷付けられたら許せないわな」
 それで真野が次の標的として選ばれた。

「あれ、本当なんだよ」
 帰り道、突然、紘夢がそう言ってきた。
「あれって?」
「…………真野が巧の悪口言ってたって話」
 くしゃりと紘夢の顔が歪む。
「ごめん。今の、言い訳」
 紘夢の目には涙が溜まっていた。
「幻滅した?」
「してない」
 真っ直ぐに目を見て言う。
「する訳ない」
 だって。
「あんなの、仕方ないよ」
 あんな検品紛いなことをされたら誰だって同じことをする。僕だって、与えられた選択肢の内のどちらかを選んでしまう。
「紘夢は悪くない」
 悪いのは脅しで選ばせるあいつらの方だ。
「ごめん。僕が紘夢ならクラスの中心になれるなんて言ったから」
「それこそ巧は悪くない。全部、俺が選んだんだ。あのグループに入ることも、真野を次の標的にすることも」
「自分を責めないで」
「でも!」
「紘夢」
 僕は少し前から考えていたことを告げる。
「もしものときは、僕を売っていいよ」
「は、何言って」
「僕はもう二度と紘夢にあんな思いをさせたくない。だから選択を迫られたときは、迷わず僕を捨てて。大丈夫だよ。僕は紘夢が優しい人だってこと知ってるから。一緒にはいれなくなるけど、心までは引き離せない。心で繋がっていられるなら、僕は平気だよ」
 紘夢が僕のせいでいじめられるなんて絶対に嫌だ。紘夢はもう充分傷付いた。一生分の傷をあの人達と小学校の同級生達に負わされた。これ以上傷付く必要はない。これ以上傷は負わせない。
「紘夢は僕が守る」
 紘夢がいじめられるくらいなら、僕がいじめられる。
 その覚悟ならもう出来ている。
 あとは紘夢が頷いてくれるだけ。
 なのに。
「嫌だ」
 紘夢は首を縦ではなく横に振る。
「俺は絶対に巧を売ったりしない。絶対に見捨てたりしない。俺、ずっと巧に救われてきた。巧は俺にとって大切な人なんだ」
「僕だって紘夢のことが大切だよ。だから」
「……巧は何もわかってない」
「え?」
 紘夢の瞳の奥が切なげに揺れた。でもそれも一瞬で、次の瞬間には何か覚悟を決めたようなものに変わっていた。
「巧が俺を守るって言うなら、だったら、俺が巧を守る」
 僕の手を強く握って、紘夢は続ける。
「俺が絶対に巧に矛先が向かないようにする。何があっても守り抜く。巧を傷付けさせない。この手を離したりしない。俺には巧が必要なんだ」
 握られた手を見て、僕は泣きそうになった。
 あんなことを言ったけど、本当は怖かった。もちろん本心ではあった。紘夢のためなら僕なんてどうなってもいいと思った。けど恐怖を感じていたのもまた事実だった。紘夢の傍にいられなくなるのは、どうしようもなく怖かった。
「僕のせいで紘夢もいじめられるかも」
「巧のせいだとは思わないけど、でもそのときはそのときだ」
 僕の好きな笑顔で紘夢は言った。
「それに巧が言ったんだからな。ずっと一緒にいてくれるって」
「そうだったね」
 危うくその約束を破るところだった。
「ありがとう」
「戦おう。戦って、俺達の世界を守り抜こう」
「うん」
 僕達はきっと、このどうしようもない、くそみたいな世界からは逃げられない。
 なら戦うしかない。自分達の武器を磨いて、それぞれに出来ることをして、大きな闇に飲み込まれてしまわないようにするしかない。そうやって僕と紘夢、二人だけの世界を守り抜く。
 それだけでいい。それ以上は望まない。僕達二人が平和に過ごせるなら他には何もいらない。
 僕は紘夢さえいてくれれば、それでいい。

 中二。紘夢と違うクラスになった。気弱な男子がいじめられていたけど、去年も同じクラスで紘夢と仲良くしていた男子がいたから僕がいじめられることはなかった。
 中三。また違うクラスだった。目に見えたいじめみたいなのはなかった。ただ女子の間で軽い無視みたいなのが流行っていた。
 高一。クラスは違っていたけど、ニクラス合同になった体育で一緒になれた。僕達が出会うきっかけとなった合同練習のときのようで楽しかった。紘夢のクラスの男子がよくボールをぶつけられていたけど別にどうでもよかった。
 高二。久々に同じクラスになれた。教室ではあまり一緒にいられなかったけど、ただ同じ空間に紘夢がいてくれるだけで僕は安心出来た。水の中でも息が出来た。生きて、いられた。
 高三。今年も同じクラス。相変わらず登下校と放課後くらいしか隣にいられないけど、その我慢も残り一年を切っていた。この一年を乗り切れば、大学に行けば、一つの空間に拘束されることはなくなる。自由になれる。もう何も気にしなくて良くなる。
 本当に、あと少しだった。
 なのに、どうして今なんだろう。
 僕達が築き上げた世界が崩れていく。

 ▽

 紘夢は学校へ行けなくなっていた。ずっと自分の部屋に閉じこもっていた。
 僕は毎日、朝学校に行く前と放課後に紘夢の部屋を訪ねた。僕だけが部屋に入ることを許されていた。だから本当はずっと紘夢の傍にいてあげたかった。けど学校の情勢も気になるし、僕まで休んでしまっては授業面やいつか復学するときに上手くサポート出来なくなる。それは避けたかった。紘夢が戻りたいと思えたときに障害になるものは取り除いておきたかった。
 そして暴露事件から一週間経った、六時間目のHR。チャイムが鳴っても担任が現れず、代わりに学級委員の梅澤(うめざわ)が教壇に立って言った。
「皆、一週間前にあったことは知ってると思う。松葉への心無いことが黒板に書かれてた。それで松葉は今学校に来れなくなってる。今日はそのことを皆で話し合いたいと思ってる。松葉もこれ以上広まって欲しくないと思ってるだろうから、先生には席を外してもらった。だから皆、遠慮せず自分の意見を述べて欲しい」
 うわ、こいつまじか。高三にもなって正気かよ。最悪だ。あり得ない。まじでない。勘弁して欲しい。本当ついていけない。無理。吐きそう。
 こんな学級裁判みたいなことしたって何の意味もない。どうしてそのことに気付けないのだろう。脳内お花畑にも程がある。でもやめてくれと言えるはずもなく、梅澤が拍手喝采を浴びているのを見ていることしか出来ない。
「何か知っている人はいないか?」
 拍手が止み、今度は至る所から話し声が聞こえてくる。
「どんな些細なことでもいいんだ」
 梅澤が呼びかけるも誰も手を挙げない。
 だから、無駄だって。
 下手に発言なんてしたら自分が犯人にされかねない。皆それを理解しているから、周りと相談するふりをしてやり過ごそうとしている。
 結局、紘夢のことを心から心配している人なんていないんだ。
 その事実にふつふつと苛立ちが湧いてくる。ムカつく。腹立たしい。だけどここで怒りをぶつけたところで何も解決しない。僕の激情なんかで罪を告白してくれる人だったら、そもそも黒板に秘密を明かすなんて卑怯な方法を執らないはずだ。
「発言いいかな?」
 すっと潮田が手を挙げた瞬間に教室が静まり返る。何なの、調教でもされてるの。そんなことを思っている間に潮田が立ち上がる。
「私、二見くんは絶対に犯人じゃないと思う」
 半分ぐらいが潮田を見続けて、半分ぐらいが僕を見てきた。
「二見くんも紘夢くんもお互いのことを凄く大切に思ってた。皆だって紘夢くんが教室から出て行ったとき、真っ先に二見くんが追いかけて行ったの見てたでしょ。そんな心優しい二見くんが犯人な訳ないよ」
 まるで応援演説だった。疑いを向けられるよりはいいけど、それでも気分のいいものではなかった。僕達の関係を、そんな簡単な言葉で、わかったように言われたくはなかった。
「どうなんだ、二見」
 発言を求められて、渋々立ち上がる。
「僕は」
 今度こそ皆が見ていた。怖い。膝が震えている。
 でも言わなきゃ。それにここで嘘を吐く必要は何処にもないのだから、言いたいことを言えばいい。
「僕はやってない。僕と紘夢は小学生のときからの親友で、僕は何度も紘夢に助けられてきた。紘夢は僕にとってかけがえのない存在なんだ。だから僕は紘夢のこと支え続けたいって思ってる」
 松葉、ではなく、紘夢、という呼び方をしたのは、その方がちゃんと伝わると思ったからだった。それから少しだけど潮田への対抗意識みたいなものもあった。
「二見が松葉を大切に思ってるってこと、凄く伝わってきたよ。俺も潮田の言う通り、二見が犯人だとは思えない。俺は二見を信じたい。皆はどうだろう」
 梅澤がそう促すと一斉に拍手が起きた。どうやらずっとこんな感じで進んでいくらしい。気持ち悪い。
「ありがとう。そうだ、二見は何か心当たりはないか?」
「心当たり」
「例えば、こう言うのもあれだけど松葉が誰かから嫌がらせを受けていたとか、恨まれていたとか」
 嫌がらせなら現在進行形で行われているこの学級裁判がそうだと思う。勝手に議論されて、憶測だけで話を進めて行く。あることないことが語られる。自分のいないところでやられるから反論を述べることも出来ない。こんなの噂話を拡散されるようなものだ。
 でもそれをバカ正直に言える訳がない。言って、僕にヘイトが集まってしまったら、僕が犯人にされてしまうかもしれない。そしたら僕は紘夢から引き離されてしまうだろう。それだけは避けたい。せっかく潮田が庇ってくれたんだ。これを無駄にしてはいけない。
「僕の知る限りでは嫌がらせも受けていないし、恨みも買ってないと思う」
 僕はここで退場する訳にはいかない。紘夢のためにも教室に居続けないといけない。だから今はやり過ごす道を選ぶ。
「そうか。わかった。もう座っていいぞ」
 言われるがまま僕は席に着く。疲労困憊だった。早く終わって欲しいと心底思う。
「潮田も座っていいからな」
「ううん。私の本題はここからだよ」
 本題?
 嫌な予感がした。
「私、犯人は佐倉だと思うんだ」
 教室がざわつく。その騒音に紛れて潮田が小さく笑ったような気がした。
「佐倉、二見くんのこと好きなんだよね」
 ざわめきが大きくなる。「え、まじで?」「嘘、やば」「二見くんかわいそー」そんな声が聞こえてくる。
 僕は直感であの日の続きなのだとわかった。
「二見くんと仲の良い紘夢くんのことが邪魔だったんでしょ。それに紘夢くんってクラスの中心的存在でしょ。嫌われ者の自分と違って人気のある紘夢くんに嫉妬したんじゃない?」
 佐倉が立ち上がる。
「違う。私は犯人じゃない。そんなこと思ってない」
 こんな状況なのに佐倉の声は落ち着いていた。毅然とした態度で、冷静に、はっきりと言ってのけた。それは凄いことだと思う。少なくとも僕だったら絶対に出来ない。
 けどそんな反論、何の意味も持たない。
「それ、誰が信じると思う?」
 何かが佐倉に向かって飛んで行く。
 それはテニスボールだった。投げたのは元テニス部の男子。
 それを皮切りに、様々なものが教室を飛び交いだした。
 止める人間がいない教室は完全に無法地帯だった。
「これが私達の総意だよ」
 佐倉への断罪イベントが始まった。