いじめには段階、ゲームでいうところの難易度みたいなものがある。
 初級編は至ってシンプルで仲間外れからの無視に始まり、所持品隠しに破損、そして悪口大会。ポイントはいかに周りを味方につけるか。共犯者が増えれば攻撃力は上がるし、その分陰湿さも上がってくる。ただ無駄に正義感の強い人や教師にバレたら非常に面倒な道徳の時間になり、形だけの謝罪会見イベントが発生してしまうから注意が必要。目的は精神破壊。
 中級編は精神攻撃に加えて物理攻撃も入ってくる。軽い水責めとかもここに分類される。スタンダードなのはやっぱり殴る蹴るといったもの。それから髪を引っ張ったり突き飛ばしたり、物を投げつけたり。体育で球技だとボールの集中砲火だ。死なない程度に痛めつける。
 ただシンプルなものというのは徐々に飽きてくるもので、今度はどうすればより相手を苦しめることが出来るのかという考えに移行していく。暴行の度合いが格段に上がって、平気で階段から突き落としてくるようになる。水責めも本格的になり水中に顔面を押し込まれる。変なものを食べさせられるし、監禁なんて日常茶飯事だ。こうなればもう上級編に片足を突っ込んでいる状態。馬乗りで殴られるなんてものが可愛く見えてくる。
 そしてついに上級編。手始めに衣服を剥ぎ取られる。裸の写真を撮られ、ばら撒かれたくなければ十万持って来いと性的いじめと金銭の要求を融合させた必殺技を撃ってくるようになる。しかもチャージ時間は一切なく連続で撃てる上に防御は完全無効というチート技だから質が悪い。殴るときもバットといった武器で滅多打ちにしてくる。他にも次々と口にするのも憚られるような所業がいとも簡単になされていく。
 ここまでくれば正直相手の生死なんてどうでもよくなっている。だからうっかり殺してしまっても大丈夫なように遺書を書かせたりする。自殺されたらされたで別の相手をみつけるだけ。ただその場合は一時的に活動が出来なくなるというデバフをかけられるから、なるべく自殺ではなく不登校に持っていきたい。というように、いじめる側といじめられる側の激しい読み合いになる。戦略性とスリルが最高潮に達しているからのめり込む人はのめり込んでしまう。
 いじめる側が「ただの遊びだった」という言い分を多用するのは、こんなふうに本当にゲーム感覚だから。自分達はプレイヤー狩りのギルドでフィールドは学校の教室。ターゲットはソロ、もしくは二人程度の弱小ギルド。精神的だろうが物理的だろうがどちらでも構わないから、とにかくPK(プレイヤーキル)がしたい。そういう感じ。
 これがおよそ十八年に及ぶ僕の人生経験に基づくいじめに関する考察。高校生小論文コンクールなんかに出したら、なかなかにいい線行きそうだと思った。こんなことで賞なんかとっても全然嬉しくないけど。
 そして現在、佐倉へのいじめは中級編だった。細かくいうと、中級編と上級編手前の間くらい、そろそろ悪食(あくじき)が始まりそうというような状態。初級編から中級編への移行が決定的になったのは、やっぱり佐倉が髪を切ってきた日だった。つまり僕が原因。そのことを未だに謝れていない。
 制服移行期間も終わって全員が夏服になった。
 そんな中、佐倉一人だけがジャージを着ていた。
「佐倉、制服はどうした」
 五時間目、数学教師であり僕達の担任でもある先生が出席確認のときに言った。
「昼休みに水遊びしてたら佐倉さんに誤射しちゃったんです」
 佐倉ではなくて潮田が答える。
「ほどほどにしろよ」
 抑揚も感情も一切感じられない平坦な声だった。くすくすと小さい笑い声が教室の至る所からしていた。それを注意することもなく、淡々と授業が始まる。
 一連の流れを見て僕は「こいつまじでやる気ないな」と思った。生徒を気にかけるなんて珍しいと思ったらこれだ。結局面倒なことを起こしたくないだけなんだ。どうして教師なんかになったのだろう。不思議で仕方がない。
 ところでいじめられる側というのも、その反応はいくつかのタイプに分かれる。
 タイプ一、普通に抵抗する。「やれてくれ」「助けてくれ」と声の限り周りに発信する。そうすればいつか誰か助けてくれるかもしれないという淡い期待を抱いている。だがそう上手くはいかないのだと徐々に諦めというものを知っていき、最終的に不登校になる。
 タイプ二、全面戦争。真っ向から対峙する、折れるものなら折ってみろというスタンス。正義感故にいじめられてしまった人がよく陥る。強い意志と心を持ち合わせているから、いじめる側が飽きてしまう。ただ折れてしまったときに一番苦しむのはこのタイプ。自分の正義は全て無意味だったと知ったときの絶望感に殺されてしまう。
 タイプ三、無抵抗。最初から全部諦めている。どうせ殴られるのだから言い返すし、殴り返したりもする。根底に諦めがあるから、全面戦争タイプと似て非なるタイプ。心を殺して、誰にも期待せず、ただ時間が過ぎるのを待つ。もしかしたらある意味最強かもしれない。だって最初から死んでいる、ゾンビみたいなものだから。
 それで佐倉はというと、どうやらこのタイプ三のようだった。自殺による復讐を企てていたような人間だから、最初は隠れタイプ二なのだと思っていた。僕達のいない裏ではいじめグループとドンパチやっているのだと勝手に想像していた。
 でもそうではないのだと気が付いた。
 佐倉はたぶんずっと諦めていた。
 だから僕に自殺の現場を見られても動揺しなかった。僕が突き飛ばしたことにも「しょうがない」と言ってきた。普通に話をしてきた。
 それもこれも全部諦めているから。
 あの自殺も、どうせいつか死ぬならせめて何か置き土産をしよう、というそんな諦めから始まったのではないだろうか。佐倉は「自殺はするかもしれない」と言っていたけど、たぶんもう自殺を図ろうとはしないと思う。いじめに関してはとっくに諦めているからそれを苦に死ぬとは思えないし、元々そっちの理由で死ぬつもりはなかった。そして理由であった復讐も僕が無駄だと説いて諦めさせてしまった。
 いや、まあ、だから何だって話なんだけど。
 僕達は所詮他人で、友達でも何でもない。ただの同じ教室に居合わせただけのクラスメイト。他人以上友達未満の関係。それ以上でもそれ以下でもない。
 このところ僕はおかしい。佐倉に振り回され、潮田にも振り回されている。
 もうやめよう。佐倉について考えるのは。潮田ともなるべく早く縁を切って、正常な僕に戻ろう。それが一番いい。
 だって僕には。
 僕は。
 ……それなのに。
「二見くん、ちょっといいかな」
 放課後、松葉と帰ろうとしていたところを潮田に捕まった。
「な、何?」
 目を合わせずに聞く。
「あのね手伝ってもらいたいことがあるんだけど、少しだけ付き合ってくれない?」
「えっと」
 助けを求めて松葉に視線を送ると、僕の意図が伝わったのか口を挟んでくれる。
「それ、俺も手伝ったら駄目なの?」
「うーん、二人でってお願いされてるんだ」
「お願いって先生に頼まれてるってこと? じゃあ俺と二見で行くよ」
「駄目だよ。私が頼まれてるんだから」
「俺とお前で行くってのは?」
「そんなに二見くんを私に貸すのが嫌? 独占欲が強いんだね」
 控えめに笑う潮田に対して、松葉は真顔でしかも眉をピクリと動かしている。
 険悪な雰囲気だった。どうしてこんなことになっているのだろう。だいたい何で僕なんだ。潮田って松葉のことが好きなんじゃなかったのか。だったらせっかく二人になれるチャンスなのに、何故僕を選ぶのだろう。単純に二人きりになるのは恥ずかしいとか? それともまた僕に何か聞きたいことでもあるのか。
「…………わかった」
 わからないでよ。
 言いたかったけど言えなかった。
「俺、教室で待ってるから」
「……うん」
「じゃあ二見くん借りていくね。行こ、二見くん」
 潮田が僕の手を引っ張りながら歩き出す。親猫から引き剥がされる子猫ってこんな気分なのだろうか。心細さと不安でいっぱいだった。
「何処向かってるの?」
 廊下に出ても潮田は僕の手を離してくれなかった。
「すぐにわかるよ」
「あの、何で僕なの」
「どうしてだと思う?」
「わからないよ」
 さっきの松葉との小競り合いといい、何から何までわからない。
「着いたよ」
 連れてこられたのは準備室だった。そこは主に委員会や部活関係の資料が置かれているところで、結構簡単に鍵を借りられるようなところだった。
 潮田が鍵を開ける。
「入って」
 もしかして本当に何か頼まれたのかもしれない。それこそ委員会関係の仕事とか。そう思って、潮田の指示に従い準備室に入った。
 直後、僕は自分の考えの甘さを呪った。
 ガチャッと鍵が閉まる音がした。
「え?」
 驚いて振り返った瞬間、潮田が僕の胸に飛び込んできた。心臓が派手に鳴りだした。自分が置かれている状況が理解出来なくて身体が硬直してしまう。
「し、潮田?」
 乾いた喉でようやく声を出す。
「悠那。そう呼んで?」
「でも」
「二人のときだけでいいから」
「…………悠那」
 女子のことを名前で呼ぶのはこれが初めてだった。
「ねえ」
 熱い瞳が向けられる。
「キスして」
 意味がわからなかった。
「キス、して欲しい」
 迷って、僕は「いいよ」と答えた。潮田が僕の首に腕を回してきた。動揺しながらも、僕はそれを受け入れた。潮田の顔が近付いてくる。僕も潮田に顔を近付ける。潮田が目を閉じて、僕も目を閉じた。そして触れるだけのキスをした。
 僕のファーストキスだった。
「もう一回」
 それから僕達は角度を変えて触れるだけのキスを何度かした。
 僕は何をしているのだろう。
 潮田は何で僕なんかとキスをしているのだろう。
 これは新手のいじめだろうか。僕にキスをさせているところを隠しカメラか何かで撮っていて「襲われたって言われたくなかったら、お金用意して」みたいな感じで脅迫してくるつもりなのかもしれない。
 もしくは僕を松葉の代わりにしようとしているのか。松葉に対しての恋情や欲を僕で発散しているのかも。
 どちらにしろ気分のいいことではない。
 キスをしている間、ずっとそんなことを考えていた。
「二見くんは」
 僕の首に腕を回した状態で潮田が言う。
「紘夢くんともこういうことしたことある?」
 またその話かと思った。
「ないよ」
「付き合ってないの?」
「付き合ってない」
「紘夢くんのこと好きなの?」
 その質問に僕はイラっとした。
「仮に好きだって答えたらどう思うの? 同性愛者は気味が悪いって迫害するの?」
「しないよ。私、これでも理解がある方なんだよ。ただ」
「ただ?」
「ライバルが増えちゃうなって。それだけ」
 それってやっぱり松葉を奪い合うライバルってことだろうか。もしかしたら潮田は自分とキスすることで僕が反応をしたら異性愛者、反応しなかったら同性愛者と判断しようとしたのかもしれない。そして僕が淡々とキスをするものだから松葉が好きなのか聞いてきた。そういうことだろうか。
 でもね潮田。
 君は全面的に僕を勘違いしている。
「僕は松葉に恋愛感情は抱いてないよ」
「じゃあもし、紘夢くんにキスしてって言われたらちゃんと断るってこと?」
「断らないよ」
 何の迷いもなく僕は答えた。
 潮田の表情が少しだけ崩れる。
「僕は誰にでもこうだよ」
「誰にでもキス出来るの?」
「出来るよ」
 だって何も感じないから。
「もし松葉が望むなら、僕は肉体関係を結んだっていい。する側でもされる側でもどちらにでもなるよ」
 割と本気でそう思っていた。
「それは恋愛感情じゃないの?」
「違う。僕はそうなりたいと思っている訳じゃなくて、あくまでも向こうが望むのなら受け入れようって思ってるだけだから」
「自分の身体は、もっと大事にしないと駄目だよ」
「潮田に言われたくないよ」
 一歩間違えれば襲われてしまうかもしれない状況を作り出している潮田にだけは言われたくなかった。
「だから」
 潮田が僕の口を塞いだ。
「悠那って呼んでよ」
「悠那」
「お詫びにキスして」
「わかった」
 僕は潮田にキスをした。
「もしも私が二見くんとしたいって言ったら、してくれるの?」
 僕は答えられなかった。
 代わりにスマホの電子音が鳴った。相手はおそらく松葉だ。潮田にもそれがわかったのか、あからさまに嫌そうな顔をしてきた。何でそんな顔? 大事な話を邪魔されたから? もう訳がわからない。気持ちが悪い。
「ごめん。松葉が待ってるから」
 そう言って潮田を引き剥がし、横を通り過ぎていく。
「二見くん」
 鍵を開けたタイミングで名前を呼ばれた。
「これからも、こうしてキスしたい」
 僕は小さく頷いて準備室を出た。
 唇を擦りながら廊下を早足で進む。
 何だったんだ、今の時間は。
 整理が追いつかない。意味がわからない。頭の中がぐちゃぐちゃだった。
 怖い。
 早く、松葉のところに行きたい。
 教室が見えてくる。
「松葉!」
 逃げ込むように教室に入ると、松葉は驚いたような顔をした。そして大慌てで僕の元に駆け寄ってきた。
「二見? どうしたんだよ、そんなに慌てて」
 肩で息をする僕の背中を松葉がさすってくれる。それで安心したのか、僕は徐々に落ち着きを取り戻していった。
「ごめん。ありがとう。もう大丈夫」
「…………潮田に何かされたのか」
「えっと」
「されたんだな」
 松葉の目はガチ切れ寸前だった。
「だから嫌だったんだ」
 吐き捨てるように松葉は言った。
「待ってろ。俺が文句言ってきてやる」
「ちょ、ちょっと待って」
 松葉の腕を掴んで潮田の元へ行こうとするのを阻止する。
「大丈夫だから。僕は全然平気だから」
 知られたくない。
「けど!」
「本当に大丈夫だから」
 今あったこと、松葉にだけは知られたくない。
「ちょっとした事故みたいなもので、僕が過剰に反応しちゃってるだけだから」
 僕の異常性を知られたくない。
「……本当に大丈夫なのか? 我慢しなくていいんだぞ」
「してないよ」
 だって僕には。
「…………わかった。無事で良かった」
「心配かけてごめん」
「俺の方こそ取り乱して悪かった」
 松葉の顔がいつもの優しい顔に戻る。それを見て僕は安堵の息を吐いた。
「俺、巧を傷付けるようなやつ絶対許せないから」
「僕もだよ」
 僕には紘夢しかいないから。
 僕は紘夢さえいてくれれば、それでいい。

 ▲

「なんか面倒なことになってるね」
 目の前に僕がいた。僕は公園のベンチに座っていた。そこは前回訪れた公園だった。
「……少し育った? 今何年生?」
「小六」
「今が一番大変な時期だね」
 色々な意味で。
「そっちの方が大変そうだけど」
 そう言いながら僕の隣に座ってきた。
「何でそんなことになってるの?」
「僕が知りたいよ」
 潮田の狙いがわからない。
「どうだった? 学年で一番可愛い女の子とキスして」
「別に」
「だよね」
「わからないんだよ。何もかも」
 手の甲を唇に当てる。
「キスしてもわからなかった」
 キスしたいという感情がわからない。その先に進みたいという気持ちが理解出来ない。
「むしろ怖かった」
 相手の感情が見えないのは怖い。
「なら、試しにぼくとしてみる?」
「嫌だよ」
 いくら夢で僕が簡単に身体を差し出せる人間といっても、過去の自分とキスをするのは気が引ける。
「でもまたキスするんでしょ?」
「……そうらしいね」
 頷くべきでなかったと思う。でもしょうがなかった。断ったらそれこそどうなるかわからない。紘夢に危害が及ぶかもしれない。
「いいよ。そのうち慣れる」
 きっとキスしているときに何も思わなかったのは、初めてだったし突然のことで頭が回らなかったから。そして我に返った瞬間に潮田悠那の人間性を思い出して怖くなった。だから最初から全部わかっている状態でキスをするなら、恐怖を感じることもない。それにこの関係を続けていれば別の何かを感じ取れるかもしれない。
「けど彼に触れても何も思わなかったよね」
「それとこれはまた違う」
「違わないよ」
 違っててくれよと思った。
「何をどうしたらそんなにこじれるの?」
「僕だって普通になりたいよ」
 でも普通がわからない。
「小学生のおガキ様にはわからないよ」
「ぼくはきみだよ」
 すっと手が伸びてきて。
「どうしてこんな夢を見るのか教えてあげるよ」
 小さくて細い指が僕の唇に触れた。
「夢は記憶や心を整理するためのもの。きみの場合はまだ何も知らないであろう過去の自分に胸の内を話すことで整理しようとしている。会話で糸口をみつけようとするのは、現実でもよくあることだからね。それでもってきみは取り分け明晰夢を見るのが得意みたいだから、無意識のうちに会話形式を選んだ」
 触れられていた手が離れる。
「だからね、ぼくは全部知ってるんだよ」
「君は僕の本心ってこと?」
「そうとも言える。ただしきみが見ていない、見ようとしていないことなんだけどね。いや忘れてしまったっていう方が正しいのかな」
「どうすればそれがわかる?」
「本当にわかりたいと思ってる?」
 わからない。それすらも見えていない。
「せいぜい足掻けばいいよ」
 僕らしい冷たい言葉だった。

 △

 目の前に紘夢の顔があった。カーテンの隙間から差し込まれる光は明るい。時計を見ると目覚ましの鳴る五分前だった。ちょうどいいので、目覚ましの設定をオフにして身体を起こす。
「紘夢、朝だよ。起きて」
「……あと五分」
 五分早く起きて五分待ったら結局同じだけど後ろにズレるよりはいいかと思い、その五分の内に着替えを済ませた。
「五分経ったよ」
「もう少しだけ」
「全く」
 むにゃむにゃ言っている姿を見て僕は溜め息を吐いた。長期戦になるのだけは嫌だったのでカーテンを開けて布団を剥ぎ取ると、紘夢は眩しさに目を細めながら身体を丸めた。
「ほら起きてよ」
「うーん」
 目を擦りながらもようやく起き上がってくれるが、まだ寝ぼけているのかベッドの上であぐらをかいてゆらゆらと横揺れしている。
「これ着替え」
 制服を紘夢の前に置くとゆっくりと着替えだした。よくそんな半分寝ている状態で着替えられるなと思う。ただ最後の工程で紘夢の手は止まった。
「結べない」
 男子の夏服にはネクタイがあった。眠気で上手く手が動かないらしく、何度かチャレンジしていたけど全然綺麗に結べていなかった。
「貸して」
 このままじゃ埒が明かない。僕は紘夢の手からネクタイを取り結んであげる。というか、こういう状況でなくても紘夢はネクタイを結ぶのが下手くそだった。いつも緩々で曲がっていて結局僕が結び直すことになる。だから初めから僕がしてあげる方が都合が良かった。
「ほら結べたよ」
「…………ん?」
 ほぼ閉じられていた紘夢の目がゆっくりと開かれる。
 そして。
「うわあ!」
 急に大声をあげた。
「ちょっといきなり何。うるさい」
「何はこっちのセリフなんだけど」
「いつまで寝ぼけてるつもり? 紘夢がネクタイ結べないって言うから、僕が代わりに結んであげたんでしょ」
 僕は切れ気味で言った。
「あーね。そういうことね」
「何なの」
「別に。目開けたらいきなり巧の顔がドアップだったから、ちょっとびっくりしただけ」
「あっそ」
「あ、ネクタイありがとう」
「どういたしまして」
 ベッドから下りて荷物に手を伸ばしながら思う。
 大丈夫。いつも通りやれている。何の問題もない。潮田とキスしたって僕達の関係は何一つ変わらない。
「巧、どうかした?」
 僕が変な体勢で止まっていたからか紘夢が聞いてくる。
「やっぱり昨日何かあったんじゃ」
「何でもないよ。ちょっと考え事をしてただけ」
「何かあればすぐに言えよ。俺、巧のためなら」
 潮田と縁を切る。
 そう言いたいのだろう。
「うん。ありがとう。けど本当に大丈夫だから」
「ならいいんだけど」
 苦しい。
「朝ごはん、もう出来てるんじゃない。早く行こう」
「俺、おばさんの味噌汁好き」
「そういうのは本人に言ってあげなよ。喜ぶよ、きっと」
 紘夢に隠し事をするのは、心が苦しい。
 けど僕はどうしてもこの関係を壊したくない。紘夢の傍にいたい。傍にいて欲しい。ここがどうしようもなくひび割れて歪んだ世界だとしても守り抜かないといけない。
 たとえ僕自身が壊れてしまおうとも。