潮田は結構積極的だった。
 積極的に僕に情報を聞きにきた。
 Q:紘夢くんってどんな音楽を聴くの?
 A:哲学っぽいことを歌ってるロックバンド
 Q:今まで彼女とかいたことある?
 A:誰とも付き合ったことないよ 
 Q:二見くんは?
 A:僕もないよ
 Q:二人っていつから仲良いの?
 A:小三。ねえこれ関係ある?
 他にも沢山、ありふれた質問とよくわからない質問をされて、そのたびに僕は律義に答えてきた。律義といっても答える姿勢だけで、たまに面倒くさくなって適当に答えたりもしたけど、そういうときはちゃんと松葉に辻褄合わせを頼んでいるから実質嘘ではない。
 昼休み、また一人で食べていたところに潮田がやってきて一緒に食べることになった。
「二見くんってどうしていつもこんなところで一人で食べてるの? 紘夢くん以外にも友達いたよね。どうしてなの?」
「いや、えっと」
 僕は回答に困った。
 僕がここで食べている理由。それは至ってシンプルで教室にいたくなかったから。教室にいると嫌でもいじめの現場を目撃してしまう。それで誰もいないこの場所に避難してきていた。
 でもそれをバカ正直にいじめの主犯格である潮田に言えるはずがなかった。
「その」
 意味のない言葉を発することで時間を稼ぐ。
 どうしよう。何て答えよう。
 景色が綺麗だから?
 目の前にはフェンスしかない。全然綺麗じゃない。
 孤独を愛しているから?
 痛い中二病。却下。
 …………。
「怒らないから正直に言ってみて?」
 世界で一番信用出来ない言葉が飛んできた。
「絶対に二人だけの秘密にする」
 今度は世界で二番目に信用出来ない言葉だ。
「ね、大丈夫だよ」
 そう言いながら潮田が僕の手を握ってくる。
「それともやっぱり私じゃ信用出来ない?」
 迷っている暇はない。
 僕は首を振る。出来るだけそれらしく見えるよう、俯きながら弱々しい声で言う。
「……人が多いの苦手なんだ」
 心臓が爆速で鳴っている。緊張で若干声が上ずってしまったけど、自然体な感じが逆にちょうど良かったかもしれない。
「そっか。じゃあしょうがないね」
 横目で潮田の顔を見ると聖母のごとく穏やかで優しい笑顔を浮かべていた。いつもの余裕綽々で魔王みたいな態度とはまるで違っていた。これに皆騙されるんだろうなと思った。
「人見知りなんだね。私のことも怖かったりする?」
「怖くないよ」怖いよ。
「二見くんにはお世話になってるから、私が守ってあげるね」
「あ、うん、ありがとう」余計なお世話だ。
「二見くん可愛い」
「可愛いは嬉しくないかな」早く何処かに行って欲しい。
「あ、友達呼んでるから行くね。また話そうね」
 潮田がスマホをいじりながら駆けていく。
 姿が完全に見えなくなって僕は脱力した。
 疲れた。
 アスファルトと目が合う。ずっと見ていると異様な疲労感からか、もう何もかもどうでもよくなってその場に寝転びたくなった。そしてその欲望に身を委ねる。
 意味もなく仰向けになると青空が広がっていた。刺すような青に目が眩む。見ていられなくて瞼を下ろす。そうすると今度は強い眠気に襲われる。食後に昼間の暖かさに包まれながら横になって、しかも目を閉じているとなれば眠くなるのも当然だと思う。予鈴が鳴っているのはわかっているのだけど、こうなるともう起きようとは思えない。僕は現状を受け入れることにした。
 授業をサボることに罪悪感がない訳ではない。けれども僕はこんな感じでたまに授業をサボる。どうせ内部進学をするのだから、ずっと真面目にやっていくなんてしんどいだけだ。適度にガス抜きをしないと潰れてしまう。そういう言い訳。
 やがて本格的に睡眠の入口に差し掛かる。ふわふわとした感覚。現実と夢の狭間で、今自分がどっちにいるのかだんだんとわからなくなっていく。
 そして僕は夢の世界に落ちていった。

 ▲

 いつかの僕がいる。
 ランドセルを背負っていた。一人で俯きながらとぼとぼと歩いている。普通なら無邪気に希望を信じているような年齢なのに、まるで正反対で小学生とは不釣り合いな暗い表情。目も虚ろで光がない。実際、その歳で僕は希望なんて捨てていた。
 僕が派手に転ぶ。小石や段差に躓いた訳じゃない。後ろからやってきた別の男子児童達に突き飛ばされたのだ。彼らは謝りもせずゲラゲラと笑いながら走り去っていく。僕は立ち上がり服に付いた砂埃を払うと、死んだような目で彼らの後ろ姿を見ていた。
 惨めだった。夢だとわかっているけど酷く死にたい気持ちになる。
「じゃあ今は惨めじゃないの?」
 突然、僕が僕に聞いてきた。
「どうだろうね」
「ぼくはそんな都合のいい大人にはなりたくないよ」
 僕は都合のいい大人なのだろうか。言われている意味がよくわからなかった。
 視線を落とすと小学生の僕の膝から血が流れていた。
「痛くない?」
「痛いよ」
 僕も胸が痛かった。
 僕は僕の手を引いて近くの公園まで行った。
 水飲み場で膝を洗ってあげる。
「友達出来た?」
「……君は今何年生?」
「小四」
「君が去年出会った彼が僕の友達だよ」
「そっか」
 世界の終わりのような顔にほんの少しだけ明るさが戻る。年相応の小学生にはまだまだ遠かったけど、今はそれで充分だった。
 最後に何故か持ち合わせていた絆創膏を傷口に貼る。
「そろそろ時間だね」
「また会える?」
 どうしてだか僕はそう聞いていた。
「ぼくに会いたいの?」
 わからない。
「会おうと思えば会えるんじゃない。だってこれはきみの夢なんだから」
「そうだね」
「じゃあぼくは行くね」
「待って。一つ聞きたいことがある」
「何?」
 不思議そうな顔をしながら首を傾げている僕に問いかける。
「君は紘夢のこと好き?」
 数瞬の間もなく僕は答えた。
「うん。好きだよ」
 羨ましくてしょうがなかった。

 △

 頬を突かれる感覚で目を覚ます。
「あ、起きた」
 ぼやけていた視界の焦点が徐々に合っていく。
 そこには松葉の顔があった。
「え、あ、松葉? 何やってんの?」
「それはこっちのセリフなんだけど。何でこんなところで寝てるんだよ。もう授業終わったぞ」
「え」
 あまりの衝撃に勢いよく上体を起こすと、僕の顔を覗き込んでいた松葉の額に僕の額が激突した。ゴチンっという鈍い音と痛みに顔を歪める。
「ご、ごめん」
「いや、俺の方こそ」
 ただこの激突のおかげで僕の意識は完全に覚醒した。
 そこでようやく僕に制服のブレザーがかけられていることに気が付いた。
「これ、誰のだろ」
「へ?」
 まだ若干痛むのか松葉の口からは間抜けな声が漏れた。
「お前の……じゃないよな。これ女子のだし」
 僕達の学校は女子がブレザーで男子は学ランだった。
「心当たりはないのか?」
 心当たりと聞かれて思いつくのは一人しかいない。
「潮田、かな。実はここで一緒に弁当を食べてたんだ。それで潮田がいなくなった後に寝ちゃったから、僕がいないことに気が付いた潮田がかけてくれたのかも」
 だとしたら起こして欲しかったのだけど、僕が起きなくて諦めたという可能性もあるから何とも言えない。
「…………また潮田」
「松葉?」
「いや、何でも。にしてもあいつ今日ブレザー着てたっけ。よく憶えてないんだよな」
 松葉がそんなふうに言うのは今が制服移行期間といって、冬服と夏服のどちらを着てもいい期間だったからだ。自分の体調や気候に合わせることが出来るからこそ、上着を着ている人もいれば既に半袖を着ている人もいて統一感というものが一切ない状態だった。
「二見は潮田がブレザー着てたか憶えてないのか?」
「それがほとんど俯いてたから制服とかよく見てなくて」
「まあどのみち制服なんて気にかけないか」
「潮田ってまだ教室にいる?」
「もう帰ったと思うけど。てかたぶん誰も残ってない」
「そっか」
 となるとこれは持って帰らないといけない。潮田か別の誰かかは知らないけど、せっかく貸してくれたのだからきちんとアイロンをかけて返そう。もちろん母にやってもらうのではなく自分の手で。
「これ荷物」
「ありがとう」
「帰ろう」
「うん」
 僕達はいつものように並んで帰る。
 ただ紘夢の様子が少しおかしかった。
「紘夢何か怒ってる?」
「そりゃあんなところで寝てたら誰でも怒るって。サボるにしてももっと別のサボり方があるだろ」
「そうじゃなくて」
 わからない。どうして不機嫌なのか、まるでわからなかった。
「潮田と何話してんの?」
「別に取り留めもない話だけど。あとは紘夢に関する質問だったり、僕達に関する質問だったり」
 え、何。何で潮田。疑問符が次から次へと沸いてくる。
「俺、あいつのこと好きじゃないよ」
「知ってるよ」
 そんなこと言われなくても知っている。だから適当に回答をしたりするんじゃないか。
「ていうか、僕だって別に話したくて話してる訳じゃないんだけど」
 話しかけられたくなくて、僕だってそれなりに逃げたり隠れたりしている。なのにどうしてか僕のお気に入りの場所だった校舎裏はバレるし、それ以外の場所にいてもみつかってしまう。僕探知機でも持っているのかと思うくらい、ここ最近は潮田に絡まれていた。
「あーうん。そう、だよな」
「何なの」
「いや、ごめん。今の忘れて。まじで、ほんとに」
 もしかして。
「え、まさかだけど、潮田に妬いてるの?」
 紘夢がわかりやすく顔を背けた。
 ええ……。
「あのさ」
「だって俺は学校であんまり話せてないのに潮田は普通に話してさ。なんか、こう、ずるいじゃんか」
 無駄に早口だった。どうやら冗談の類ではないらしい。
「ずるくないよ。何言ってんの。頭おかしいんじゃないの」
「頭おかしいは言いすぎだろ」
「おかしいよ。どう考えたっておかしいよ」
「いやずっと仲良くしてた友達が急に違う人と仲良くしだしたらモヤモヤするじゃん」
「女子か」
 思考が完全に女子のそれだ。もしくは面倒くさい彼女か。
「…………俺って心狭い?」
「割と」
「………………自覚はしてるつもりです」
「だいたい潮田とは友達じゃないし」
「……………………はい」
 しおらしくしている紘夢を見ていると、なんだか急に可哀想に見えてきた。
 いや理不尽に機嫌悪くされた僕の方が可哀想だろ。
……けどな。
 僕はわざとらしく大きな溜め息を吐いてから言った。
「家来る?」
「行く」
 結局僕は紘夢に甘い。

 翌日、教室に入ると潮田は既に登校していた。
 潮田はブレザーを着ていなかった。これで潮田が貸してくれた可能性が高くなってきた。ただ僕一人だと話しかけづらいというのと、また松葉が面倒なムーブをかましてきそうという理由で二人一緒に潮田のところに行く。
「おはよ」
「紘夢くんおはよう。それから」
 松葉の後ろに隠れていた僕を潮田が覗き込んでくる。
「二見くんもおはよう」
「お、おはよう」
「どうして隠れてるの? 二見くんの方が身長高いんだからバレバレだよ」
「教室で話すのは緊張するから」
 僕が珍しく教室でも松葉といるからか、潮田と話しているからか、はたまたその両方なのか。さっきから視線が痛かった。いくら松葉と仲が良いといっても、僕単体での教室での立ち位置は底辺に近い。発言権なんて与えられていない、ヒエラルキーでいうところの水草程度の人間。注目を浴びてしまうのは当然だった。
「んーじゃあ場所変える?」
「あ、えと、たいした用じゃないから。ここで大丈夫」
 ちらりと松葉の方を見ると「早く済ませちまえよ」という顔をしていた。僕もその意見には心から同意なので、頑張って聞いてみる。
「昨日ブレザー貸してくれたのって潮田?」
 一瞬、教室がざわついた。嫌なざわつき方だった。怖い。手先が小刻みに震えていた。
「ブレザー? ううん。私じゃないよ」
 その一言で正常な空気に戻る。皆それぞれ元の話に戻っていくのが肌でわかった。
「でもどうして私だと思ったの?」
「昼休みに話したあと、僕そのまま寝ちゃって。起きたらブレザーがかけられてたんだ」
「だから戻って来なかったんだね。ごめんね、ちゃんと一緒に戻れば良かった」
「それは全然いいんだ」
 どちらにしろ別の場所でサボるか、普通に授業を聞かずに寝ていただろうから。
「潮田じゃないとなると誰が貸してくれたんだろう」
「お前他に心当たりはないのか?」
 僕は首を横に振る。
「もしかしたらこのクラスじゃないかもしれないよね」
 潮田が名案を思いついたときの要領で両手を叩きながら言った。
「だとしたら持ち主探すの相当大変だぞ」
「職員室前の落とし物コーナーに置いておけばいいんじゃないかな。貸してくれてありがとうございますってお手紙添えて」
 確かにそれが一番いいかもしれない。本当は直接お礼が言いたかったのだけど、まさか全校生徒に聞いて回る訳にもいかないし、そもそも貸してくれた人というのがたまたま通りがかった人で互いに名前も知らない間柄という可能性だってある。だとしたらブレザーを返してもらうために僕を訪ねてくるなんて展開にはならない。そう考えると、何かのきっかけで見てもらえそうな落とし物コーナーに置いておくのが賢明だろう。
「じゃあそうしようかな」
「私、メッセージカード持ってるよ。一枚あげるね」
 何でそんなもの持ち歩いているんだろう。よくわからないけど「ありがとう」とお礼を言って一枚もらった。
「あ、俺ペン持ってるよ」
「ありがとう」
 借りたペンでメッセージカードに「ブレザー貸してくれてありがとうございます。助かりました」と書き、ブレザーの入っている紙袋の中に入れた。
「それだとわからないんじゃねえの」
 言われてみれば、手紙が見えていないとこのブレザーが自分のなのか持ち主が判断出来ない。
「マスキングテープ貸してあげる。これなら剥がすときに紙袋もメッセージカードも破けないから、両方綺麗に保存してもらえるよ」
 別に保存してもらわなくていいのだけど、他にいい案もないので今は素直に潮田の案に乗っておく。
「ありがとう。凄く助かったよ」
 マスキングテープを潮田に返し、ペンを松葉に返す。
「ちゃんと持ち主に届くといいね」
「そうだね」
「まだ時間あるし、今のうちに持っていけば?」
「そうする」
 もう一度二人にお礼を言ってから、僕は落とし物コーナーへ向かった。
 
 目的地に着いた瞬間、僕は逃げ出したい気分になった。
 そこには佐倉がいた。
 佐倉とはあの一件以来、本当に関わりを断っていた。出来る限り近寄らないようにして、メッセージも無視していた。
 どうしようか迷って、僕は当初の目的を優先することにした。ここで変に引き返すとかえって目立ってしまう。大丈夫。いつも通りガン無視しておけばいい。
 横に並ぶ。
 メッセージカードが見えるような形で紙袋を置く。
 あとは教室に戻るだけとなったとき。
「二見くんって」
 佐倉が話しかけてきたけど僕は無視して教室に戻ろうとした。だってもう二度と関わらないと決めていた。
 なのに。
「松葉くんと付き合ってるの?」
 そんなことを聞いてくるものだから、僕の足は止まってしまった。
「何言ってんの。意味わからないこと言わないでくれる?」
 イラつきながら言った。
「昨日、私、見たんだよね」
「ちょっと待って。こんな人目のつくところで、これ以上変なこと言わないで欲しいんだけど」
「じゃあどうすればいいの?」
 周りの様子を伺う。クラスメイトの顔は見当たらない。時間もまだある。
「五歩離れた状態でついてきて」
 僕達は校舎裏に移動した。
「ここなら誰にも聞かれない」
 僕がここで出くわしたことがあるのは松葉と潮田、それから僕にブレザーをかけてくれた心優しい女生徒さんの三人だけだ。簡単に話を聞かれるような場所ではないということだけは確かだった。
「で、見たって何を」
「二見くんと松葉くんが、放課後、ここでキスしてるとこ」
「………………………………は?」
 僕と? 松葉が? キス? 何を言ってるんだ。そんなことしていない。意味がわからない。
「バカなこと言わないで」
「だって私見た」
「だいたい考えてみてよ。僕達、男同士なんだけど」
「二見くんはそういう偏見とか持ってない人だと思ってた」
「ないけど」
 それとこれとはまた話が違う。
「放課後って言ったよね。だったらそれ、見間違いだよ。松葉は僕が寝ているのを起こすために覗き込んでいただけ。君が何処から見てたのか知らないけど、角度とかの問題でキスしてるように見えた」
 もしくは額をぶつけたときのことか。けどあれはお互い大ダメージを喰らっていたから、見間違えるなんてことはないはず。そのあとは普通にここから去ったし、別に勘違いされるようなこともしていない。
「寝ている二見くんに松葉くんがキスして、それから起こしたって可能性は?」
「それこそないよ」
 松葉が僕にキスするなんてあるはずがない。もしあるとしたら、とっくの昔に行くところまで行ってしまっているはずだから。でも僕達は健全な距離を保っている。
 だからそんなことを考える佐倉のことを僕は許せなかった。
「あのさ、僕だけなら別に何を言われたって構わないよ。慣れてるから。でも君の不確かな情報に松葉を巻き込まないでくれるかな。迷惑なんだよね、そういうの」
「二見くんでも怒ったりするんだね」
「君が怒らせてるんでしょ」
「そうだね」
 舌打ちをしたい気分だった。僕は相当苛立っていた。当然だ。親友との間にあらぬ話を立てられたら堪ったものじゃない。
「もういいでしょ。全部、君の、勘違い。見間違い。わかったら二度とこんな話しないで」
 授業開始五分前を告げる予鈴が鳴っていた。いい加減僕も限界だったので、今度こそ教室に戻ろうとした。
「待って。最後にもう一つだけ」
「……何」
「潮田悠那とは関わらない方がいい」
「知ってるよ。そんなこと」
 僕は佐倉を置き去りにして校舎裏をあとにした。
 その佐倉はチャイムが鳴ったと同時に入ってきた。皆が見ていた。もちろん僕も彼女を見ていた。でもたぶん気が付いたのは僕だけだったと思う。
 佐倉はついさっきまで着ていなかったブレザーを着ていた。
 僕はまた舌打ちをしたくなった。