少しだけ寝不足だった。
 課題が思っていたよりも難しくて時間がかかってしまった。家を出て駅で紘夢と会っても欠伸が止まらなかった。これ授業中に寝ちゃうんじゃないかってくらい眠くて、電車が揺れるたびにうとうとしてしまう。
「立ちながら寝ると危ないぞ」
「わかってる」
 そう言いつつも、また寝落ちしそうになる。
「肩使う?」
「使う」
 紘夢の斜め後ろに陣取り肩に頭を乗せる。僕の方が若干背が高いから少しだけ身体を曲げないといけないけど、今は体勢なんて気にしていられなかった。
「何してたらそんな寝不足になるんだよ」
「課題だけど」
「…………課題?」
 紘夢の顔が青ざめていくのがわかった。
「やっべ、やるの忘れてた」
「僕の写す?」
 半分寝ながら聞いた。
「あーいや、それは大丈夫。自分で何とかするから。提出って確か五時間目だったよな。休み時間全部使えばいけるだろ」
 昨日の僕と全く同じ思考回路をしていることに少しだけ笑う。ずっと一緒にいると言動や考え方が似てくるっていう話は案外正しいのかもしれない。
「あ、でも間に合いそうになかったらお願いするかも」
「うん。いつでも頼って」
 眠気がピークに達する。目を閉じて、そのまま身を委ねる。耳元で「ガチ寝じゃん」って声が聞こえたような気がするけど、反応する気力はなかった。
 やがて髪を触られるような感覚と「二見」と呼ぶ声がした。名字で呼んできたということはもうすぐで学校の最寄りに着くということなのだろう。脳をフル稼働させて巧じゃなく二見を呼び起こす。
 そして僕は目を開く。預けていた頭を肩から離して、戦友の目を見る。
「おはよう、松葉」
「おはよ。ちょっとはましになったか?」
「おかげさまで」
「そりゃ良かった。ほら、もう着くぞ」
「うん。ありがとう」
 駅のホームに降り立つと僕達と同じ制服を身に纏った生徒がちらほらいた。生徒の数は学校が近付くにつれて徐々に増えていく。この当たり前の光景が僕はあまり好きじゃなかった。決められた服を着て、決められた時間に間に合うように行動して、決められた枠組みから外れないように息をする。まるで箱詰めされる商品のように。
 けどそうは思っても、僕も松葉も結局はその中の一人でしかない。不良品として廃棄処分されないように取り繕い続けなければいけない。
「どうした?」
 下足室でなかなか上履きに履き替えない僕に向かって松葉が心配そうに聞いてくる。
「何でもないよ」
 言いながら履き替えて松葉の隣に並び歩き出す。この教室に向かって歩いているときが一番緊張する。だってあの教室に平和なんて存在しない。
 松葉が扉に手をかける。その手が少しだけ震えていたけど、何も見なかったことにした。僕もきっと同じようになってしまうから。
 そして扉が開かれる。
「おはよー!」と高らかに挨拶をしながら教室に一歩足を踏み入れたその瞬間から、松葉は皆の松葉紘夢になる。
 その松葉と目が合って、皆に気付かれないように小さく笑い合う。それは朝教室に入ったら必ず行う、ちょっとした別れの挨拶みたいなものだった。今日を乗り切った先でまた会おう、健闘を祈る。そんな意味が込められていた。
 日課を終えた僕らはそれぞれの席へと向かう。松葉がクラスの大半と言葉を交わすのに対して、僕はそれなりに仲良くやっている二人にだけ軽く挨拶をしてから席に着いた。
 直後、教室が静寂に包まれた。
 何事かと顔を上げると佐倉が教室に入ってきたところだった。その肩には鞄がかけられていたけど、いじめが始まってから佐倉は鞄を常に持ち歩くようにしていたから今登校してきたのか、何処かに出かけていて戻ってきたのかはわからない。ただ教室の空気が変わってしまったのは確かだった。
「また来たのかよ、ブス」
 誰かが言った。それを皮切りに、ざわざわと教室内が佐倉への悪口で埋まっていく。限界まで膨らんだ風船が破裂したみたいに、一瞬で、それまで人間だったものがモンスターに変身していく。
 僕は目だけ動かして周りの様子を伺う。同調して大声で悪口を言い合っているやつ。本心か誤魔化しかはわからないけどただひたすら笑っているやつ。俯いて完全無視を決め込んでいるやつ。僕と同じように様子を伺っているやつ。皆、もれなくモンスターだった。
 そんなモンスターの群れに佐倉は裸足で突っ込んでくる。一切気にしていないという顔をして、淡々と歩みを進める。昨日死のうとしてたくせに、何でそんな顔してるんだよ。佐倉の態度がまるで理解出来なかった。僕がそんなことを考えている間も佐倉の足は動き続ける。
 そして、何故か、僕の目の前で、佐倉が止まった。
 また、静けさが戻ってくる。
 ああ、検品が始まった、と僕は思った。
「…………何」
 もしかして昨日の口止めに来たのだろうか。誰かに言いふらすつもりなんて微塵もないから、口止めならせめて人がいないところでやってもらいたい。でもそれを言う訳にもいかず、僕は佐倉の反応を待つしかなかった。
「これ」
 佐倉が何かノートみたいなものを差し出してくる。
 それは学級日誌だった。
「今日、私達日直」
 黒板を見ると、確かに日付の下に二見という文字と佐倉という文字が並んで書かれていた。何でこんなタイミングで佐倉と日直。自分の運のなさを恨む。
「日誌、二見くんが書いて。他は全部私がやるから」
 僕は考える。
 どうすればいいのか。
 どうすることが正解なのか。
 必死に頭を働かせる。
 僕が行動を取るまで、たぶん数秒だったと思う。
 その数秒で僕はいろんなパターンを考えた。
 そして、その中の一つを僕は選択した。
 僕は力づくで、無理やり、日誌をひったくり、佐倉を押した。
 バランスを崩した佐倉が尻もちをつく。
 その拍子にぶつかった机と椅子が悲鳴のような音を立てた。
「……わかったから、早く僕の前から消えて」
 目も合わせず、出来る限り冷たい声で、口調で、そう言った。
 佐倉はすくりと立ち上がってスカートの裾を正すと「じゃあ、お願いね」とだけ言って自分の席に戻っていった。
 それを合図に教室に音が戻る。「二見くん優しー」「相手が二見で良かったな」「あんなやつの言うことなんて聞かなくていいんだぞ」「手伝ってくれてありがとうございますだろうが」そんな言葉が僕や佐倉に投げかけるのを聞いて、僕は自分の行動は正解だったのだと、検品に合格したのだと瞬時に理解した。
 でも全然嬉しくなかった。
 何が、優しいだ。
 か弱い女の子を突き飛ばすのが優しさだというのなら、戦争はノーベル平和賞だろうか。
 昨日の夜、教室で首を吊ろうとしていた佐倉の姿を思い出す。その位置というのは、佐倉をいじめている女子の主犯グループがよく集まっている席の真上だった。そんなこと彼女達が知っているはずもなく、通常運転で佐倉のいじめの計画を立てている。
 僕はどうしようもない気持ちでいっぱいだった。
 チャイムが鳴って、一時間目の担当の先生が教室に入ってくる。それよりも数瞬早く佐倉への悪口が止む。まるで何事もなかったかのように振る舞う姿に毎度のことながら吐き気を覚える。何なんだよと叫びたくなる。
 ついさっき佐倉に酷いことをしたくせに、僕は何を考えているのだろう。他の人を棚に上げて振りかざす正義感なんて、偽善もいいところだ。本当、終わってる。
 せめてもの罪滅ぼしとしていつもより綺麗に日誌を書こう。そう思って記入するページを開くと二つ折りにされた紙が挟まっていた。何だろう。特に何も考えず紙を開く。そこには僕に向けられた短いメッセージと連絡先が書かれていた。それは別にたいしたことじゃない。
 問題は差出人が佐倉だということだった。
 紙を制服のポケットの中に隠す。
 真面目に授業を聞くふりをしながら、何故佐倉がこんなことをしてきたのか、その答えを探す。
 やっぱり昨日ばったり出会ってしまったからだろうか。それしか考えられない。けどだからって僕に言ってくることないだろと思う。
 正直、僕はもう佐倉と関わりたくなかった。
 それにこれを挟んだのはきっと僕が佐倉を突き飛ばす前だったろうし、今は気が変わっているかもしれない。あんなことされたら僕の顔なんて見たくもないと思うのが普通だ。でも日誌が僕の手元だから訂正出来なかった。そうだ、そうに違いない。
 じゃあどうして破り捨てることが出来ないのか。
 それは、たぶん、罪悪感からだった。
 僕の中でさっきの行動は相当心にきていた。自分で選択したくせに、こんなことを思うのはずるいことだって知っている。けれどもやってしまった後悔と罪悪感で胸が痛んでしまう。僕が弱虫じゃなければ、もう少しだけ賢かったら、傷付けずに何とかやり切る方法もあったかもしれない。
 だから。
 だからせめてこれくらいは。
 休み時間、トイレの個室に入って書かれていた連絡先を登録し、メッセージを送ってみる。
〉二見だけど
 返事が返ってくる。
》登録してくれてありがとう
〉あの紙、正気?
 僕に向けられたメッセージ。それは「どうすればいいか、アドバイスが欲しい」というような内容だった。
》正気。昨日してくれたみたいにアドバイスして欲しい
 あれ、アドバイスじゃなくて提案なんだって。
〉佐倉って実は頭悪いの?
 勉強ばかりしてるとバカになるっていうけど、もしかしたらそれは佐倉のために作られた言葉なのかもしれない。
》そうかも。だからいじめられるのかな
 僕は答えられなかった。
》私、どうしたらいいと思う?
 時間を見る。
〉授業始まるからまたあとで
 そう送ってスマホをポケットにしまった。
 ずっと個室に籠っておいて流さないのも不自然なので使用してないけど流しておく。水の無駄遣い。資源は大切にしましょう。そんな貼り紙が貼ってある。誰が貼るんだろう。風紀委員と書いていた。じゃあどうでもいいや。
 そのときに佐倉の連絡先が書かれた紙も一緒に流した。これで証拠隠滅だ。
 授業中に今度は佐倉にするべきアドバイスを考える。
 何だろう。わからない。別に佐倉に何か非があってこうなった訳じゃないし。
 ……しいて言うなら。
 そしてまた休み時間、僕は佐倉に回答を送る。
〉見た目。その長い髪、なんか芋っぽい
 佐倉は髪を伸ばしっぱなしにしていて、しかも結んでもいないからなんか凄い地味で芋っぽく見えた。凝ったアレンジをしろとは言わないけど、せめて一つに結ぶとかすればだいぶ印象は変わると思う。人の容姿にとやかく言うのはどうかとも思ったが、佐倉の場合は身だしなみだから言うことにした。
 それから。
〉人とちゃんと話すこと
 佐倉は普段、本当に全然喋らない。だから朝僕に話しかけたのを見て驚いた人も多かったと思う。僕もまさかクラスメイトの前で話しかけられるなんて思っていなかった。昨日話せたのは二人だけだったからなのだと勝手に解釈していた。
〉昨日、僕と話したみたいに普通に話してみなよ
》このクラスに今さら私と話してくれる人なんている?
〉別にクラスメイトじゃなくてもいいじゃん
 クラスに友達がいないなら、他クラスに友達を作ればいい。ここに居場所がないのなら、別の場所を居場所にすればいい。簡単な話だ。
》二見くんは駄目なの?
〉駄目って何が
》話し相手
 僕は困った。
 何でそんなこと言えるんだろう。だって僕はあんなにも酷いことをしたのに。
 単純に理解出来なかった。
〉怒ってないの?
》どうして怒るの?
》だって
》しょうがないじゃん
 しょうがないって、何だよ。
 そう返したいのに返せない。
 チャイムが鳴る。授業が始まって、やがてまた休み時間がやってくる。
 僕はスマホを見なかった。いや、見れなかったの方が正しいのかもしれない。
 そのまま僕は家に帰るまでスマホに触らなかった。
 自室でベッドに横になりながら画面を見る。通知欄に何もきていないのを確認して、僕は安心してしまった。
 僕は最後まで佐倉に謝ることが出来なかった。

 翌日、事件が起きた。
 学校に来ると、佐倉がショートカットになっていた。皆唖然としていた。バカみたいに口を開けているやつもいた。隣にいた松葉も目を丸くして突っ立っていて、僕が軽く肘で突くとようやく動き出した。まるで昔の電化製品みたいだと思った。
 ショートカットの佐倉はそれなりに似合っていた。
 だから上手くいくんじゃないかと思った。
 上手くいってくれと久々に誰かのために願った。
 でもやっぱり現実はそう上手くはいってくれない。
 二時間目が終わる頃にはまたすっかりいつもの光景に戻っていた。
「色気づいてんじゃねえよ」
 誰かがいつにも増して攻撃的な口調で言った。綺麗に切り揃えられた髪が引っ張られている。勝手に穢されたような気持ちになる。
 違うんだと言いたくなって、けど言えなくて、僕は瞬間接着剤で張り付けられたかのようにただ椅子に座っていた。何も聞きたくなくてイヤホンを耳に挿し、いつもより大きめのボリュームでたいして好きでもないバンドの曲を聞いた。
 僕のせいだと思った。
 いや僕のせいだった。
 失敗した。
 自分の手に収まらないものだったのだ。僕は判断を見誤った。結果、不必要に佐倉を傷付けることになった。
 僕は佐倉のことを見れなかった。
 もう二度と、佐倉には関わらないと心に決めた。

 昼休み、もう一つ事件が起きた。
 こっちは僕の身に起きた事件。
「一緒にいい?」
 誰も来ないような校舎裏で一人で弁当を広げていたら、突然、クラスメイトの潮田悠那(しおたゆうな)に声をかけられた。潮田の手には弁当箱があった。仕方がないので「いいよ」と答えると潮田は満面の笑みを浮かべて僕の隣に座った。
「二見くんのお弁当美味しそうだね」
「ただの冷食だよ」
「一つちょうだい」
「いいよ」
 潮田がれんこんのはさみ揚げを僕の弁当箱から取る。その空いたスペースに代わりに卵焼きが召喚される。
「どう思った?」
「…………どうって?」
「佐倉の髪型」
 心臓が跳ねた。
 何のつもりだろう。再検品だろうか。
 言葉を慎重に選ぶ。
「別に、ちょっとびっくりしたくらい」
「あはは。確かに皆びっくりしてたね」
 潮田が笑っているのを見て、心の中で安堵する。
「あの、何でまた急に僕に話しかけたの?」
 潮田と話したことなんてほとんどなかった。佐倉よりは多いけど。
「実はね、二見くんにちょっと聞きたいことがあって」
 手招きされたかと思うと、今度は口元に両手で小さなメガホンが作られる。内緒話をするときのポーズだった。こんなところ誰も来ないのに。そう思いながら顔を傾けつつ耳を近付けると、潮田もまた近付いてきて、僕の頬に潮田の手が少しだけ触れた。
 潮田が囁いてくる。
「紘夢くんって好きな人とかいるのかな?」
 僕は、またかと思った。
 僕に話しかける女子というのは大きく二種類に分けられる。
 一つは、どうしても僕に話しかける必要があったから仕方なく話しかけたという女子。
 そしてもう一つは。
 松葉狙いの女子。
 理由は考えるまでもない。僕が松葉と仲が良いから。松葉のことを聞き出したいのなら僕に聞けばいいし、僕と仲良くしていれば松葉の心象も良くなる。そういう浅はかで、単純で、愚かで、ほんの少しだけ純度の混じった理由。
 面倒くさいことが始まってしまった。
 だって潮田は松葉のいる男女グループと佐倉いじめの主犯グループの二つに所属している女子。つまり女子のトップに君臨している人物だった。
 潮田悠那の噂は中一の、入学したばかりの頃から聞いていた。
 簡潔にいえば、美少女だった。
 長ったらしくいうと、黒くて大きな瞳に、綺麗で透き通るように白くて滑らかな肌。高三にもなればがっつり化粧をしてくる女子なんかもいるけど、潮田の場合は全然化粧っけがない。なのに化粧をしているのと遜色ないほどの整った顔立ち。肩くらいまでの髪はさらさらで艶やかだし、身体つきも華奢で背はさほど高くない。そして綺麗なソプラノの声。何から何まで最初から完璧に仕上がっていた。当然男子からは人気があり、美少女ともてはやされていた。僕は興味ないんだけどね。
 それでもって、なかなかにいい性格をしていた。もちろん悪い意味で。
 人にやらせるのだ、いじめを。
 自分は直接手を出さない。やるのはせいぜい悪口くらいで、あとはずっと近くで傍観して笑っている。人を操るのが上手なのだと思う。「次はこうしたら面白いんじゃないかな」そんな感じで計画を伝えて、グループの人に実行してもらう。一番質の悪いタイプ。
 そんな女子が松葉狙いで僕に近付いてきた。最悪の展開だった。
「……今はいないんじゃないかな」
 だけど僕に選択肢はない。変に拒んで、妙な噂を立てられて、それで松葉に危害が及ぶくらいならこれくらいどうってことない。適当に仲良くして、質問に答えて、どうにか告白まで持っていけば勝手に終わってくれる。
「そっか。ねえこれからも二見くんに話しかけてもいいかな。色々話聞かせて欲しいんだけど」
「うん。いいよ」
 特技の作り笑いを浮かべる。
「嬉しい、ありがとう。じゃあ私先に戻ってるから。また教室でね」
 小さく手を振って、潮田が校舎裏から消える。
 やっと一人になれた。疲れと安堵から大きな溜め息が出た。
 潮田はたぶん全面的に松葉のことを勘違いしていると思う。
 教室での彼は松葉であって松葉ではない。僕はそのことをよく知っている。
 もしかしたら自分とよく似ていると思っているのかもしれない。松葉も佐倉に直接手を出したことはないから、自分と同じで人を使うタイプなのだと思っているのかも。ふざけるな。お前と一緒にするなと叫びたくなるのを必死に抑える。
「何も知らないくせに」
「二見!」
 松葉の声が聞こえて顔を上げる。見ると、校舎の影から松葉が顔を覗かせていた。
「もうすぐで予鈴なるぞ」
 言いながら近付いてきて、僕の隣に座る。
「何かあった?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「元気ないように見えたから」
「あー」
「もしかして潮田に何かされた?」
 僕は固まってしまった。そんな僕を見て松葉はやっぱりという顔をした。
「別に何かされたって訳じゃないんだけど。ていうか、よくわかったね」
「潮田が今日は他に食べたい人がいるって言ってたし、ここから潮田が出てくるの見えたから」
「そっか」
「それで何があったんだ?」
「松葉に好きな人はいるのかって聞かれた。たぶん、いつものやつだと思う」
 隠す理由もないので普通に話す。というかこれまでもこういうことがあったときは毎回すぐ報告していたから、どのみち早くても放課後には話していた。
「いつもごめんな」
「全然。だっていつものことじゃん」
「巧、無理してない?」
 松葉が僕を名前で呼んでしまったのは無意識だったのだと思う。それくらい僕は酷い顔をしていたのかもしれない。
「昨日のこと」
「昨日のこと?」
「佐倉のこと」
「……うん」
 僕が初めて自分の意思で、自発的に、いじめに加担したときだった。
「気にしなくていいと思う。だって俺が同じ立場になったら、同じことすると思うから」
 いつもよりも優しい声色だった。その程よい声の低さが心地良くて、自然と気持ちが落ち着いていく。
「ありがとう。なんかこの前と逆になっちゃったね」
「いつも慰められてばかりだからな。たまにはいいだろ?」
「そうだね」
 予鈴が鳴る。教室に戻らないといけない。
「サボるか?」
「何言ってんの。二人でサボったらそれこそ目立つよ。各自別々にサボるって言うなら話は別だけど」
「冗談」
 松葉が先に立ち上がり手を差し出してくる。その手を借りて僕も立ち上がる。
「そうだ。今日、泊まりに行ってもいい?」
 僕は即答で「いいよ」と言った。

 僕達は同じベッドで寝る。
 いかがわしい意味はなく、本当にただ一つのベッドで並んで寝るだけ。小学生のときからずっとそうで、これはその延長戦、癖の名残りみたいなものだった。シングルベッドに男子高校生が二人。窮屈でほとんど身動きは取れないけど、その窮屈さが良かった。人が、心から信頼出来る人物が近くにいるというのは強い安心感があった。
 先に寝てしまった紘夢の顔がすぐ近くにある。その穏やかな寝顔を見ていると、いい夢が見れそうだなと思えてくる。
 何回か、真剣に、僕は紘夢のことが好きなのではないかと考えたことがある。
 そして毎回、違うという結論に至る。
 そりゃ「紘夢って睫毛長いよな」とか「結構整った顔立ちしてるよな」とか「なんか放っておけないんだよな」とか、そういうことは普通に思ったりする。
 でもキスしたいみたいな感情は一度も湧いたことがない。今ある精神的な繋がり以上のことをしたいとは思わない。ドキドキするみたいなこともない。それは単純に紘夢が同性だからという理由ではなくて、もし紘夢が異性だったらと考えてみても同じ答えになる。
 そもそも恋愛感情というものが、よくわからない。
 紘夢のことは凄く大切に思っている。かけがえのない存在だと思っている。そういう意味では僕は紘夢のことが好きなのだと思う。
 だけどそれはどうも女子達が紘夢に向けるような好きとは違う形をしているらしい。どの子もやっぱり大小様々だが紘夢との身体的接触を望んでいる。
 じゃあ何だ。肉欲がないものは全て恋愛感情ではないのかと聞かれたら、それも違うと思う。接触はハグや手を繋ぐ程度だけで肉体関係は一切なく、精神的な繋がりだけで一緒にいられるカップルや夫婦だって世の中には沢山いる。
 だったら僕のこれだってきっとそのパターンで、普通に恋愛感情でいいじゃないか。
 そこで、そうだね、って言えたらどれだけ良かっただろう。
 布団から手を出し、そっと紘夢の髪を撫でる。紘夢は少しだけくすぐったそうにしたけど起きることはなかった。
 …………何も感じないんだ。
 いくら肉体関係を必要としなくても、好きな人に触れたら少しくらいは嬉しかったり優しい気持ちになったりするはずだ。
 僕は、無、だった。
 こんなの恋愛感情と呼べない。
 僕は人として大切な何かが欠けているのかもしれない。本来備わっていなければならない根本的な何かが不足している。
 だから恋がわからない。
 愛がわからない。
 倫理の授業を思い出す。
 キリスト教における無償の愛を表すアガペー。神様が人間を愛するときに何か利益を得たりはしないから、我々人間も同じように愛し合っていかなければならない。そんな感じの内容だったはず。
 つまり愛とは、見返りを求めることなく相手を大切にし続けるということなのだろう。
 けれども果たして、人は何の損得勘定もなしに、ただ無償の愛を注ぎ続けることなんて出来るのだろうか。
 無理だと思う。
 もしかしたら何処かにはそんな愛も転がっているのかもしれない。けど少なくとも僕が見てきた限りでは、何処にも存在していない。教室というちっぽけな世界ですら、僕達はいがみ合って生きている。愛の欠片もない。
 じゃあ結局、愛って何なんだ。
 僕はいつか人を愛せるのだろうか。
 どれだけ考えても答えは出なかった。