夜、課題をやろうと思ったら問題集がなかった。今日授業で使った記憶はあるから、机の中に忘れてきたと考えるのが妥当だ。
 けどもし誰かに隠されたとかだったらどうしよう。
 ない、とは思う。少なくとも今のところ僕は何のヘマもやっていない、はず。知らないところで反感を買っていたとかだったらどうしようもないのだけど。
 不安が押し寄せてくる。背後からじわじわと首を絞められているような感覚になる。
 課題自体は明日提出ではあったが別に一回くらい忘れてもどうってことはない。そもそも僕は定期的に課題を忘れる。それは試験のときに出されるものは絶対に出さないといけないけれど、こういう宿題系の課題は多少出さなくても問題はない。仮にちゃんと提出を目指すとしても今回の課題の量的に休み時間を全部費やせば朝学校に行ってからでも全然間に合うと思う。つまりどちらを選択するにせよ問題はない。
 でも僕はもう問題集がなかったらという考えで頭がいっぱいだった。
 しょうがないので僕は問題集を取りに行くことにした。一刻も早く問題集の存在を確かめたかった。今なら普通に電車も通っている時間だしさっさと行って帰って来よう。そうして僕は夜の学校へと向かうべく家を出た。

 西校舎の端から三番目の窓の鍵が壊れているというのは生徒の間では有名な話だった。実際鍵は壊れていて、僕は靴を脱いでそこから校舎内に侵入した。
 警備の人にみつからないように慎重に廊下を歩いていく。電気なんて当然点けられるはずがないし、スマホのライトもちょっと危うい。だから月明かりと壁だけを頼りに自分の教室を目指した。
 夜の学校はとても不気味だった。幽霊とか信じている口じゃないけど、それでも何か出そうだなと思ってしまうくらいには気味が悪かった。日中教室で散々モンスターを見ているのに何言ってるんだって話だけど、人間の方が百億倍怖いけど、けどばっかり言ってるけど、怖いものは怖い。
 まさかこんなにも怖いとは思っていなかった。知っていたら紘夢を呼んだのに。紘夢ならきっと面白がってついてきてくれるはずだし、一緒にいたら怖さも軽減されそうだと思った。
「……え?」
 今、何処かで物音がしたような気がした。足音が反響したような音ではない。もっと、こう何か、引きずるような音。
 耳をそばだてる。
 ……やっぱり聞こえる。
 音は足を進めるごとに大きくなっていく。
 ズズッ、ギギーッ、ズッ。
 これ、机を引きずる音だ。こんな時間に一体誰が何のために。全くもって意味がわからなかった。この学校に通うのは中等部と合わせてかれこれ六年目に入ったが「夜に鳴り響く机の音」なんて学校の七不思議はなかったはずだ。
 てかこの音、僕の教室から鳴ってないか?
 何でよりによってこのタイミングで。最悪だ。机を引きずる音なんて明らかに人為的な音だし、もしかして不審者だろうか。だとしたら警備の人に言った方がいいのでは。いやでも言いに行ったら僕が忍び込んだこともバレてしまう。ええ、どうしよう。
 迷って、とりあえず一回教室に行ってみることにした。それでもし本当にやばい人がいたら、怒られることを覚悟して警備の人に泣きつこう。
 さっきよりもさらに慎重に教室に近付く。音はもう止んでしまったけど、教室からは誰も出てきていないからまだ中にいるはず。僅かに開いていた扉の隙間からそっと中を覗く。
 見て、瞬間、僕は扉を開けた。
「何、してるの」
 震える声で聞く。
 そこにいたのは、佐倉だった。
 佐倉は、天井付近にある金具に紐を通して今まさに首を吊ろうとしているところだった。
 机の上に立って、紐で出来た輪っかに首を通して、あとは机を蹴るだけという段階で、僕は思わず教室に飛び込んでしまった。そんな僕の姿を見て、佐倉は自身の首を輪っかから抜く。
「何してるんだよ」
 聞かなくてもわかりきっているけど、もう一度僕はそう聞いた。
「親愛なるクラスの皆に、絶対に忘れられない思い出を作ってやろうと思って」
 それを聞いてまず最初に思ったのは「微妙に口悪いな」だった。次に「こいつ何言ってんだ?」と思った。
「そういうのは思い出じゃなくて、トラウマって言うんだよ」
 訳がわからなくて、僕は訳がわからない返事をした。
「二見くんはどうして学校にいるの?」
「忘れ物を取りに」
「二見くんでも忘れ物とかするんだね、意外。あと忍び込んでまで取りに来るような人だったなんて思わなかった」
 何で普通に会話してるんだろう。
 しかもまともに会話したの、これが初めてだ。
 ていうか話せるじゃん。何で普段は話さないんだろう。何で今僕とは話をしてくれているのだろう。二人だけだからだろうか。わからない。けど考えたってわかるはずがないのだから、諦めて僕も普通に会話をすることにした。
「……自殺するの?」
「そのつもりだったんだけど、二見くんにみつかっちゃったから今日はやめとく」
 今日は、か。
「もし僕達への復讐として自殺するんだったら、やめといた方がいいよ」
 紐を回収している佐倉に向かって僕は言った。
「どうして復讐だと思うの?」
「さっき、忘れられない思い出を作ってやるとか言ってたから」
 もしいじめを苦に現実からドロップアウトしたいが故の自殺なら、もっと別のことを言ったはずだ。例えば「もう何もかも嫌になった」とか「もう耐えきれないから」とか。
「意味、ないと思うよ」
 単にさよならしたいからというのであれば、その自殺はその人にとって救済になるかもしれない。でも理由が復讐のためであるこの自殺には何の意味も持たない。
「だって、皆、忘れるよ」
 あいつらは自分のしたことなんて簡単に忘れる。罪悪感の欠片すら感じないようなやつらだ。死んだってきっと何も思わない。反省なんて絶対にしない。秒で忘れて、初めからいなかったものと認識する。そして、同じことを繰り返す。
「君が死んでも、また新しい君が生まれるだけだよ」
 これが現実。どうしようもない、くそみたいな世界。決して変えることが出来ない理。
「だいたい、高校なんてそのうち終わるじゃん。佐倉が内部進学か外部受験かは知らないけど、どちらにしろ卒業したらここでの関係性なんて一部を残して簡単に消えるよ。縁なんて勝手に切れるんだから、無意味な復讐なんてやめといた方が賢明だと思うけど」
「……今のは説得? 二見くんは、私の自殺を止めたいの?」
「違うよ。ただの提案」
 僕はただ事実をありのままに告げて、こっちの方がいいのではないかと提案しているだけにすぎない。
「僕の言葉を踏まえて、それでも死にたいなら死ねばいい」
「……考えとく」
 机の上から佐倉が飛び降りる。履いていた制服のスカートが翻ったけど中は暗くて見えなかったし、別に見たいとも思わなかった。
 ズズッ、ギギーッ、ズッ。
 使っていた机を佐倉が元の配置に戻す。
「その机の音」
「音が何」
「廊下まで響いていたから、次があるなら気を付けた方がいいよ」
「忠告、どうもありがとう」
 棒読みで全然ありがたそうじゃなかった。そんな佐倉を横目に僕は当初の目的である問題集の安否確認をするために自分の席を目指す。
「二見くんは」
 椅子を引こうとした手が止まる。
「二見くんは、私のこと忘れる?」
 僕は考える。
 佐倉が死んだら、自殺したら、僕は何を思うだろう。
 たぶん、少しだけ罪悪感に苛まれて、少しだけ悲しくて、少しだけ眠れなくて、少しだけ今日のことを思い出して、少しだけ泣くんだろう。
 それでも、いつかは。
「忘れると思うよ」
 きっと、僕は佐倉のことを忘れる。それが佐倉の死後、どれくらい経ってからになるのかはわからないけど、僕は忘れてしまうのだと思う。臭い物に蓋をするように、記憶の、心の奥底に閉じ込めて一生開けられない錠をかけてしまうのだろう。僕は佐倉のその名前すらも綺麗さっぱり忘れて、普通に真人間のふりして生きていくに違いない。
「逆にさ、僕が死んだら佐倉は僕のこと忘れる?」
 佐倉は少しだけ難しい顔をして、そして言った。
「私も忘れると思う」
 一ミリも悲しくはなかった。最初にそういうものだと言ったのは僕の方だったからお互い様だ。
「これでわかったでしょ。僕達でさえ、互いのことを忘れるんだ。あいつらは絶対に、確実に君のことを忘れる」
「うん、よくわかった。でも自殺はするかもしれない」
「それは自由にしたらいいんじゃない」
 佐倉が復讐なんてバカな無駄死にじゃなくて、本当に心から死にたいと願って自殺するのなら僕に止める義理はない。僕達は所詮、その程度の関係でしかない。
「いいこと教えてくれたからそのお礼に、もし自殺することになったら、二見くんの名前は遺書に出さないでおいてあげる」
 それがお礼というのは物凄く微妙だったけど、一応「ありがとう」と言っておいた。
「じゃあ僕はそろそろ帰るよ。課題もやらなきゃいけないし」
 佐倉は「わかった」と一言だけそう言うと片付けの続きを始めた。それで僕達の会話は終わった。
 また明日とか、そういうことは言わなかった。というより言えなかった。それはたぶん向こうも同じだった。僕達に明日はあってないようなものだったから。
 佐倉から視線を外し、ようやく僕は机の中を覗き見る。
 問題集は問題なくそこにあった。