夏はまだ全然終わりじゃないのに、夏休みは勝手に終わる。
始業式。
時間割りもくそもない、やる意味のあるのかわからない面倒な行事。そんなもののためだけに学校へ行くなんて嫌でしょうがないけど、でも今日はどうしても行かなければならない事情があった。
平常授業のときと同じくらいの時間に家を出て駅へと向かう。
「…………紘夢?」
駅前、僕達がよく待ち合わせをするあたりに紘夢が立っていた。何をするでもなく、ただそこに立っていた。まるで、誰かを待っているかのように。
「おはよう」
駆け寄ってそう言うと、紘夢は一瞬だけ僕の顔を見た。そして何も言わず改札の方へと歩き出した。ほんの少しだけ感じる胸の痛みを無視して僕は紘夢の隣に並ぶ。
「ありがとう。待っててくれて」
返事はやっぱりない。それでも僕は隣を歩き続けた。
あの一件以来、紘夢は僕とも口を利かなくなった。だけど他の人とは違って、傍にいることだけは許された。きっと紘夢なりに僕の言葉を受け入れ、整理しようとしてくれているのだろう。今はまだ僕との新しい距離をはかりかねている。そういうことなのだと思っている。
「相変わらず、ネクタイを結ぶのが下手くそだね」
ホームで電車を待っているとき、ふと曲がったネクタイが目に付いた。
「久々だもんね。しょうがないか」
今日、始業式に合わせて紘夢は復学する。僕がどうしても行かなければならない事情というのは、このことだ。紘夢が無事に今日を乗り越えてくれるか見守る必要があった。でも今はこんな関係だから、まさか駅で待っていてくれているなんて思わなかった。
だから少しくらいは期待してもいいのかもしれない。そう思い、ネクタイに手を伸ばす。
「ネクタイはこう結ぶんだよ」
以前は手癖で素早く結んであげるだけだったのを、今回は教えながら丁寧にゆっくりと結んであげる。
「ちゃんと覚えてね」
いつか一人で出来るようになるために。
電車が来て中から人が大量に降りてくる。そのうちの一人が僕にぶつかる。しかもその相手は相当急いでいたらしくかなりの衝撃だった。ほぼ正面からまともにくらった僕の身体はバランスを崩し後ろに傾く。次に来るであろう腰の痛みを想像して、反射的に目を閉じた。
でも痛みはこなかった。その代わりに僕が感じたのは人の体温だった。
目を開くと、紘夢が僕の後ろに立ち僕の身体を支えてくれていた。
「紘夢」
心配と焦りが混じったような目が僕を見ていた。けど目が合った瞬間に身体は離れ、顔も別の方へと向いてしまった。
それでも僕は嬉しくて仕方がなかった。
「ありがとう」
紘夢は何も答えなかったけど、別に良かった。
最寄り駅に着いてそこから学校までの道を歩いていると、徐々に紘夢の歩くペースが落ちてきた。
「まだ時間もあるからゆっくり行こう」
そうやって声をかけながら、少しずつ前に進む。
何十人に追い抜かれたかわからない。あまりにものスローペースな僕達を変な目で見てくる人もいた。そのたびに紘夢は「先に行けよ」というような視線を送ってきた。けどここで置いてけぼりにするなんて僕には出来なかった。確かに適切な距離を心がけようと言い出したのは僕の方だけど、今この瞬間の適切な距離は隣にいることなのだと判断した。
その追い抜いていった人達の中に潮田と佐倉の姿もあった。
潮田はほんの一瞬だけ僕達のことを見て、一切表情を崩さず、また何も言わずそのまま進んでいった。
佐倉の方は潮田とは対照的だった。僕達を見た途端に心配そうな表情になって、声をかけようとしてくれた。でも今この状態でクラスメイトに会うのは紘夢も想定していないだろうし、心の準備も出来ていないと思うからジェスチャーで先に行ってくれるようお願いした。
下足室に到着したのと予鈴が鳴ったのはほとんど同時だった。
「焦らなくていいからね」
どうせ最初の数分は教室待機だ。多少遅刻したところで問題はない。急ぎ足で教室に向かう生徒が半数の中、僕達は先程と変わらずゆっくりとしたペースで足を進め、ついに教室の扉の前に僕達は到着した。
紘夢の手が扉に向かって伸びていく。しかしそこで紘夢の動きは止まってしまう。見ると、肩が小刻みに震えていた。
「大丈夫だよ」
安心させたくて、その肩に手を伸ばす。
でもその手は紘夢に触れる直前で払われた。
乾いた音が鳴る。紘夢の目が大きく見開かれる。自分でもどうしてそんなことをしてしまったのかわからない。そう言いたげな顔をしていた。
わかっている。紘夢は何も言わないけど、その顔を見ればちゃんと伝わっている。急に触られそうになって反射的に払ってしまっただけだって。ちゃんとわかっているから、大丈夫。
大丈夫、なはずなのに。
払われた手がヒリヒリと痛む。
僕は悲しくて仕方がなかった。
駅で僕を待ってくれて。
前みたいにネクタイを結ばせてくれて。
転びそうになった僕を助けてくれて。
少しは前進したって、そう思っていた。
期待していた。
自惚れていた。
「紘夢」
だから伝えたくなった。
どうしても、どうしようもなく伝えたい。
「僕は、紘夢のことが好きだよ」
これは恋愛感情ではないけれど、それでも伝えたい。
「愛してる」
心の底から、僕は紘夢を愛している。
紘夢は驚いたような顔になって、次の瞬間には今にも泣き出しそうな顔になった。最初は堪えようとしているようだった。けどすぐに諦めたのか、紘夢の目から涙が溢れて止まらない。そのまま大粒の涙を流しながら、紘夢はとても小さな声で「うん。知ってる」と言った。
それだけで、声が聞けただけで、僕はもう充分だった。
チャイムが鳴る。
紘夢が自らの手で扉を開ける。
そして僕達は、やがて終わる世界へと入っていった。