夜の学校にいるのはあの日ぶりだった。
真っ暗で、月明りしか頼りがない教室。僕は前の扉から入ってすぐの席、その机の上に座っていた。
やがて足音が聞こえてきた。堂々とした足取りではなくて、ゆっくりと慎重に足を運んでいるから警備の人ではないはず。読みが外れていたら、そのときは素直に謝罪しよう。
だけどそれはいらない心配だった。
扉が開いて入ってきたのは、僕が呼び出した人。
「二見くん?」
「……待ってたよ。潮田」
律義に制服を着ている潮田が不思議そうな顔で僕をみつめてくる。
「どうしたの。こんな時間に、こんな場所で」
「うん。ちょっと」
「ちょっと?」
潮田がさらに不思議そうな顔をした。けど次の瞬間には、何故か穏やかな笑みを浮かべていた。
「でも二見くんの方から呼び出してくれるなんて、私嬉しい。最近はこうして二人きりで会うなんてことも出来てなかったから余計に」
「そうだね」
紘夢の事件以来、僕は紘夢につきっ切りだった。それで自然とキスフレという関係は消滅していた。
「……久々にする?」
潮田が少しだけ頬を赤らめたのが暗闇でもわかった。僕はいつものように「いいよ」とだけ言った。
「嬉しい」
僕のすぐ目の前まで潮田がやってくる。座っているからか、いつもより目線が近い。当然、唇までの距離も。
潮田が僕の頬を両手で包み込むように触れてくる。そのまま潮田が顔を近付けてきて、僕も少しだけ前屈みになると唇が触れ合った。久しぶりの感触。離れて、またその柔らかい唇が僕の唇に触れる。前と何一つ変わらない、触れるだけのキスを何度か繰り返した。
唇が離れて目を見合ったタイミングで、僕は潮田の肩に顔を埋めた。
「…………疲れたんだ」
か細い声で僕は言った。
「疲れた? 何に?」
僕は何も言わない。
「もしかして、紘夢くんのこと?」
その名前が出て、身体が勝手に反応する。
「……そっか。そっか」
潮田が僕の背中に腕を回してきて、ついでに頭を撫でてきた。僕はそのままされるがままになる。
「そうだよね。大変だよね。いくら親友でも限度があるよね。疲れちゃうのも無理ないよ」
とても優しげな、穏やかな声色だった。
「よく頑張ったね。よしよし」
だけど、同時に。
「もういいよ。もう頑張らなくていいよ。私が傍にいてあげる。ずーっと傍にいてあげる。二見くんが望むことなら何でもしてあげる」
嬉しそうで。
「紘夢くんのことなんて、もう忘れよう?」
うっとりとした声色でもあった。
「……うんざりなんだよ」
「うん。そうだね。だから」
「違う」
「…………違う?」
潮田の声に動揺のようなものが含まれた。
その隙に僕は潮田の肩を掴み、彼女を引き剥がし言った。
「君の茶番に付き合うのが」
「何言って」
「潮田」
真っ直ぐに目を見て言う。
「君が紘夢の秘密をバラした犯人なんでしょ」
そして、この壊れた世界を作り出した張本人。
全ての元凶。
「…………へえー」
潮田の口元が僅かに吊り上がる。月光の中で妖艶な笑みを浮かべるその姿を、一瞬だけでも美しいと思ってしまった自分を僕は呪った。今ようやく彼女が美少女ともてはやされる理由がわかったような気がする。
「よくわかったね。二見くんってもしかして名探偵?」
意外にもあっさりと潮田は認めた。もっと否定されるものだと思っていたから、逆に何か企んでいるのではないかと勘ぐってしまう。
「いつから気付いてたの?」
「……たぶん、最初、から」
そう答えると何故か潮田の口角がさらに上がった。まるでこの状況を楽しんでいるようで、今度は美しいと思はなかった。逆に嫌悪感が蓄積されていくのが肌でわかった。
「どうしてわかったのか、参考までに教えて欲しいな」
「君は紘夢に関する情報を集めていた。それから僕達の関係のことも」
潮田が聞いてきた質問には、好きなものとか過去の交際歴、僕達の交友歴以外にこんなものがあった。
どのあたりに住んでるの?
家族構成は?
昔の紘夢くんってどんな子だったの?
小三からの付き合いってことは、もしかして紘夢くんって転校生?
どれも紘夢の過去につながるものばかりだ。
「たとえその中に嘘が混じっていたとしても、断片をかき集めることが出来れば過去を割り出すことくらい簡単だろうね」
これに関しては完全に僕の落ち度だ。僕が情報を提供したがためにこんなことになった。
なら、その責任は僕が取らなければならない。
「でもそれだけだと私が犯人っていう確証はないよね」
「そうだね。だけど君がミスをしてくれたおかげで、僕は確証を持てた」
「ミス?」
「あの学級裁判だよ」
ぴくりと潮田の右眉が動いた。
「君はあそこで僕を庇うべきじゃなかった。何故なら、僕こそが誰よりも紘夢のことを知っている人物だから。あれを書くことが出来るとしたら僕以外に考えられない。そんな一番の容疑者である僕を君は庇った。そして別の人物を、佐倉を犯人として吊るしあげた。それが君が犯したミスだよ」
誰が犯人かわからない状況で一番の容疑者を庇うのはあまりにも不自然だ。そんなことが出来たのは、僕が犯人ではないという絶対的な自信があったから。じゃあその自信は何処から手に入れたのか。答えは簡単。自分自身が犯人だから。自分が犯人なら庇うのも擦り付けるのも思いのままだ。
「どうして僕じゃなくて佐倉を犯人にしたの? いじめられていたからヘイトを集めやすそうだった?」
「それもあるけど違うかな」
「じゃあ何で」
「簡単だよ。聞いてたの、二見くんと佐倉の会話」
僕達の会話を聞いていた? 一体、いつのどの会話だ。
考える。
そして思いつく。
「…………事件の前日の会話、だね」
「正解だよ。さすが名探偵。記憶力がいいね」
満面の笑みで褒めてくる潮田が気持ち悪くてしょうがない。怖い。
「佐倉が二見くんと紘夢くんの関係を正すって言ってくれたとき、私初めて佐倉に感謝しちゃった。これを使わない手はないよねって」
「それで翌日に実行した訳だ」
「そ。だから二見くんは絶対に佐倉が犯人だって思ってくれると踏んでたんだけどなあ。ねえ、どうして佐倉を疑わなかったの?」
「佐倉は曲がったことが嫌いだから」
それは佐倉にも言ってあげた言葉だった。だけど僕よりも佐倉の中身を知らないであろう潮田が、これだけの言葉で全てを理解出来るはずがないと思い補足する。
「佐倉はとても真っ直ぐな女の子なんだ。僕達みたいに歪んでいない、綺麗な心の持ち主なんだ。だからいじめの主犯である君にも臆せず立ち向かってきた。僕を助けようと動いた」
校舎裏での一件は潮田も憶えているはずだ。佐倉は僕達の間に割って入ってきて、潮田を止めようとしていた。
「君が聞いた言葉だって、佐倉なりに僕達のことを考えて言ってくれた言葉だったんだ。僕達が僕達であるために言ってくれた。だから紘夢を傷付けて追い込むようなことするはずがないんだよ」
いや、たとえ紘夢のことがなかったとしても。
「佐倉が、傷付けられることの痛みを知っている人間が、そんなことするはずがない」
「随分と信頼してるんだね。二見くんは紘夢くんのことだけしか見えてないと思ってた。迂闊だったなあ」
そう言った潮田は何故か少しだけ寂しそうだった。
「どうしてこんなことを? 君は紘夢のことが好きだったんじゃないの」
「どうしてだと思う?」
「僕が邪魔だった? 僕がいなくなれば紘夢を手に入れられる。だからわざと紘夢を傷付けて、僕が見放すのを待った。そしてひとりぼっちになった紘夢の心に付け入ろうとした」
誰かに捨てられた直後の傷付いた人間の心ほど付け入りやすいものはない。そして辛くて苦しいときに支えてくれた人というのは、それだけで特別な存在になる。潮田はそんな人間の心理を利用して紘夢を手に入れようとした。それ以外に考えられなかった。
「やっぱりさすがに名探偵でも人の心の中まではわからないか」
ぽつりと呟かれたその言葉は僕の推理が外れていることを物語っていた。
「二見くんは根本から間違ってるよ。ううん、間違いって言うよりは勘違いかな」
「……どういうこと」
「私が好きなのは紘夢くんじゃないよ」
「え?」
紘夢じゃない。潮田は紘夢が好きな訳ではなかった。どういうことだ。だったらただ紘夢を傷付けるためだけに情報を集めていたのか。わからない。頭が酷く混乱している。
「私が好きなのは、二見くんだよ」
「………………………………は?」
「私はね、ずーっと、二見くんのことが欲しかったの」
「欲しい? 欲しいって、え?」
潮田が僕を好き?
僕のことが欲しかった?
ますます何を言っているのかわからない。
「知ってる? 紘夢くんってね、二見くんと話しているとき凄く優しい目をしているんだよ。いつだって二見くんのことを庇って、守ってて。だから欲しくなったの。そんなにも紘夢くんに大切にされている二見くんのことが欲しくて仕方がなかった」
今のでようやくわかった。
潮田悠那は。
どうしようもなく誰かが大切にしているものが欲しくなってしまう、略奪者だったんだ。
「初めから、僕が目当てで近付いてきたんだね」
「そうだよ。二見くん、よく紘夢くんが好きな女の子の相手をしていたから、紘夢くんのことを聞くふりすれば関われるって思ったの」
そして僕はその罠にかかり、潮田は紘夢が好きなのだと思い込んでいた。
「じゃあ、キスをしてきたのも」
「逆にそれ以外に何かあるの?」
「…………自分の身体は大事にした方がいいよ」
いつだったか潮田に言われた言葉だった。
「君は、女の子なんだから」
「こんなときでも私を気遣ってくれるなんて、やっぱり二見くんは優しいね」
「紘夢の過去をバラしたのは」
「もちろん邪魔だったからだよ。だって紘夢くん、全然二見くんのこと譲ってくれないんだもん。独占欲の塊。仕方がないから、いなくなってもらおうと思って」
笑顔でそう言う潮田に、心の底から怒りが湧いてくる。
「そんなに怖い顔をしないで。せっかくの可愛い顔が台無しだよ」
伸びてきた手をすぐさま払う。
「その汚い手で僕に触れないで」
紘夢の過去を黒板に書き殴ったその手で気安く触らないで欲しい。
「君のせいで、君のせいで紘夢は!」
「私は別に物理的に殺そうとした訳じゃないんだよ。あくまでも精神的に苦しめて、その姿を見ることに耐えられなくなった二見くんが自分から離れてくれるか、逆に潰れてしまった二見くんを私が助けられればなって思っただけ。私はそれ以上のことはしてない。その先を選んだのは紛れもなく紘夢くん自身だよ」
「やっぱり、知ってたんだね」
紘夢が自殺しようとして、それに失敗したことを。
「知ってるよ」
さも当然というような言い方だった。どうやって知ったのかは聞かない。聞いたら、僕の頭がおかしくなるような気がした。
「……でも残念だったね。僕が君の思う通りに動かなくて」
「そうなんだよね。今頃二見くんは私のものになってくれてると思ってたんだけど」
おかしいな、なんて言いながら潮田は小首を傾げる。
「ねえ、どうしたら私のものになってくれる?」
「僕は君のものにはならない」
「そんなにも紘夢くんが大切?」
「少なくとも、君への評価が紘夢を超えることは一生ないよ」
「じゃあ二番でいいよ」
瞬間、僕の背中を冷たいものが通った。
「紘夢くんがどうしようもなく一番なんだったら、私、二番でもいい。永遠に二番でいい。だから私のものになってよ」
潤んだ瞳が向けられる。
「好き。好きだよ、二見くん。私と付き合って」
人から告白されたのはこれが初めてだった。だけどちっとも嬉しくない。
「悪いけど、紘夢を傷付けるような人間とは付き合えない」
どうかこれで諦めてくれと願う。でもこれで諦めるような人間ならわざわざ紘夢を陥れるようなことをしないということも理解していた。
「そんなこと言っていいの? もっと凄いことだって黒板に書けるんだよ。例えば紘夢くんが二見くんに迫ってるとか。そうなったら、紘夢くん、今度こそ死んじゃうかも」
だから告白に応じなかった場合、潮田が僕を脅迫してくることなんて想定済みだった。
「残念だけど、困ることになるのは潮田の方だよ」
「私が? 何言って」
突然、潮田が固まる。僕の後ろに視線を合わせたまま目を大きく見開いている。だけど僕は別に驚いたりしない。だって潮田が何を見ているのか僕は知っているから。
「タイミングばっちりだよ、佐倉」
「なら良かった」
佐倉が僕の隣に並ぶ。
「何で。どうして佐倉がここにいるのよ」
「二見くんに頼まれたの」
「頼まれた?」
「……いいの?」
「いいよ」
僕がそう言うと佐倉は手に持っていたスマホを操作する。やがて音声が流れてくる。
『潮田。君が紘夢の秘密をバラした犯人なんでしょ』
『……へえー。よくわかったね。二見くんってもしかして名探偵?』
「これって」
「そうだよ」
今流れているのは、僕達二人の会話だ。
「もし潮田がさらに紘夢に危害を加えるって言うなら、僕達はこれを公表する」
「……本気?」
「本気だよ。僕は、僕達は、本気で君と戦うつもりだよ」
潮田の顔が強張る。
「どうして。どうしてそこまで出来るの。私にはわからない。どれだけ与えても何かが返ってくる訳でもない。かといって与え続けられる訳でもない。なのに」
「それは君にも言えることだよ」
潮田の言葉を遮って僕は言う。
「仮に僕が君のものになっていたとして。きっと僕は君に何も返せないし、君もいつか僕に飽きて別の誰かを探すんだろう」
「そ、それは」
「略奪で得た心を長く繋ぎ止めておくなんて不可能だよ。必ず何処かで綻びが生まれる」
その果てにあるのは、どうしようもない虚無感。孤独と絶望。
「……これは僕の想像なんだけど、潮田はさ、味方が欲しかったんじゃないの。どんなときだって傍にいてくれて、自分を受け入れてくれる、そんな存在が」
だから僕と紘夢に目を付けた。自分の求める関係を築いている僕達に。そして僕を選んだのは、きっと僕が常に受け身な人間だったから。人に委ねる人間だったから。そんな僕なら、自分のことを受け入れてくれる。傍にいてくれる。たとえそれが、自分がお願いしたからで僕が自分を殺している状態なのだとしても。実際、僕は彼女の傍にいたし、佐倉からの言葉がなければ惰性で関係を続けていただろう。
「どうしてって、その答えがまだだったよね。これは結構単純な話なんだ。何か崇高な考えがあってのことじゃない。ただ、僕はね」
その続きを言った途端、潮田の目が大きく見開かれる。そのままゆっくりと頭が下がっていき、項垂れる。きっと期待外れなことを言ってしまったのだと思った。でもそれでいいとも思った。僕は潮田のために生きている訳じゃない。潮田のための僕は、もう存在しない。
「…………いつか、本当がみつかるといいね」
そう言って僕は潮田の横を通りすぎて教室を出た。僕のすぐ後ろを佐倉が早足でついてくる。やがて佐倉が僕の隣に並んで、同じ歩幅で廊下を歩く。
「やっぱり、二見くんは優しすぎると思う」
ぽつりと佐倉が呟いた。
その意見に僕は少しだけ不服だったので異議を申し立てる。
「僕としてはこれほどまでにないくらい残酷なことをしたと思ってるんだけど」
現実を突き立てられるのは、いつだって苦しい。見たくないものを見せられるなんて、残酷以外の何があるのだろう。
「まさかだけど、これで潮田さんが改心すると思ってる?」
「しないだろうね。きっと、反省もしないと思う」
けど。
「自分を省みるようにはなるかもしれない」
「それは反省と何が違うの?」
きょとんとした顔で佐倉がみつめてくる。どうやら本当にわかっていないようだった。前から思っていたけど、佐倉は言葉の意味を断定するのが苦手なようだ。頭がいいから、様々な選択肢を出してしまい一つに絞れないのかもしれない。観察力は立派なのに変なの、と少しだけ笑ってしまう。
「どうして笑ってるの?」
「佐倉はステータスの振り方が極端すぎるなって思って」
「二見くんにだけは言われたくない」
「それはお互い様だと思うけど」
変な間が出来る。
「ま、まあ、だからさ、そういう足りないところっていうのは、あとからいくらでも補正をかけられると思うんだ。自分がどうにかしたいって思うなら」
言い終えた直後、自分の吐いたセリフがあまりにもらしくなくて気恥ずかしさが込み上げてきた。顔の中心に熱が集中している。「なんか暑くない?」誤魔化すように手で扇いで熱を冷ます。
「もしかしてさっきのはそういう意味?」
そんな僕を知ってか知らずか、佐倉は平常運転で聞いてきた。
「そうだよ」
だから僕もなるべくいつも通りそう返した。
夜の学校と病院だったら、どちらかというと現在進行形で忍び込んでいる病院の方が圧倒的に緊張する。学校は一応生徒だし忘れ物とか言って適当に誤魔化せば許してもらえそうだけど、病院はそういう訳にもいかないだろう。いくら友人が入院しているとはいえ、侵入なんて方法で会いに行くのは褒められたことじゃない。僕だけなら顔を憶えられているだろうから、急いでいて宿泊の申請をするのを忘れてしまったとでも言えば何とかなりそうだけど、今日は佐倉が一緒にいる。これはさすがに誤魔化せない。だから何が何でもみつかる訳にはいかない。
病院の消灯時間というのは何故か早くて、二十一時には否応なく消灯してしまう。高校生の二十一時なんて十八時みたいなものだ。これから夜が始まるという時間帯。だけど電気がないから何も出来ない。そういう訳で、僕と紘夢はどちらかが眠りにつくまで喋っているということが多々あった。
「だから、たぶん起きてると思う」
真っ暗なリノリウムの廊下をすり足で歩きながら佐倉にそう説明した。
「というより、僕のことを待ってる気がする」
夕方に『とても大事な用事が出来たから夜遅くなる』というメッセージを送ったっきり、連絡を取っていなかった。僕のスマホが鳴れば作戦の邪魔になると思って電源を切っていた。そしてそのまま充電切れになったのか、いくら電源ボタンを押しても起動してくれなかった。仕方がないので、何も言わずに病院までやってきた。
「ここだよ」
紘夢の名前が書かれたネームプレートを指して言う。
「佐倉はここで待っていて。それで、もし僕が間違いを犯しそうになったら止めにきて欲しい」
「わかった」
扉に手をかける。その状態で深呼吸を繰り返す。
「……大丈夫?」
心配そうな目で佐倉が問いかけてくる。
「大丈夫じゃない」
全然、大丈夫じゃない。緊張で手は震えているし、喉も乾いて、今にも泣き出してしまいそうだった。
「でも、決めたから」
手に力を込め、気力だけで震えを止める。
「いってくるよ」
そして僕は病室の中に入った。
真っ先に目に入ったのは風に揺れている白いカーテンだった。月明かりに照らされて光を帯びているようなカーテンの中で、僕に背を向け佇んでいた人影が振り返る。
「……巧?」
「そうだよ、紘夢」
ゆっくりと近付き、紘夢のすぐ目の前で足を止める。
「遅くなってごめん。スマホも充電切れちゃって、連絡出来なかった」
僕の弁明を聞いた紘夢は静かに首を横に振る。
「いや、来てくれただけで充分」
幸せそうな笑顔が向けられて、胸が痛む。
それでも僕は言わなくちゃいけない。
「紘夢」
ベッドに腰かけてその隣を軽く叩き座るように促すと、紘夢は素直に僕の横に座った。
「凄く、凄く大切な話があるんだ」
「大切な話?」
「僕と紘夢のこと」
また泣きそうになる。
どうにか涙を堪えて、ついに僕は言う。
「こんな関係、もう終わりにしよう」
自分でも驚くくらい真っ直ぐではっきりとした声だった。
「こ、こんな関係って?」
逆に紘夢の声は酷く震えていて弱々しかった。
「紘夢だってわかってるでしょ。本当は、ずっと、気付いていたはずだよ」
だからそんなにも動揺しているんだ。もし何もわかっていないのだとしたら、今みたいに声が震えたりしないはずだから。
「……俺のこと、嫌いになった?」
「違う。嫌いになんかなってない」
「じゃあ、何でそんなこと言うんだよ」
紘夢の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちて、シーツに染みが出来ていく。
「俺、ずっと巧がいてくれたから生きてこれた。巧がいなかったら、俺、どうやって生きればいいかわからない。わからないんだよ」
嗚咽を漏らしながら泣く姿を見て、抱きしめたくなる衝動を抑え込む。ここで手を差し伸べてしまったら何も変わらない。停滞したまま。それだけは避けなければいけない。
「僕だって、ずっと紘夢のために生きてきた。紘夢がいなくなったら、僕は、何のために生きればいいのかわからない」
「だったら」
「でもそれじゃ駄目なんだ。僕達は、自分の足で立たなきゃいけない。今はまだどうしていいかもわからなくても、それでも前に進まなくちゃいけない」
「自分の足って。嫌だよ。巧と一緒にいたい」
紘夢の細くなった手が僕の服を掴んでくる。夜空のような黒い瞳からは止めどなく溢れる涙は、まるで星屑のようだった。そのまま倒れ込んできて僕の胸に顔を埋めてくる。震えるその背中に僕はまた手を回しそうになった。数秒、両腕が宙を彷徨って、でも紘夢に触れることなく腕を下ろした。
「……何で?」
弱々しい声が静寂に包まれた病室に響く。
「ずっと、ずっと一緒にいてくれるって、約束したじゃんか」
紘夢の、僕の服を掴む力が僅かに強まった。
「俺、巧に出会うまでずっと一人だった。誰も俺の傍にいてくれなかった。孤独だった。惨めでしょうがなかった。寂しかった。でも巧が俺を救ってくれた。巧が傍にいてくれたから、ずっと一緒にいてくれるって約束してくれたから、俺は生きてこれた」
ああ、そっか。
その言葉が、ずっと一緒にいるという約束が、紘夢を縛りつけていたんだね。
「ごめん。ごめん、紘夢。僕のせいだね」
救いの言葉は一種の呪いなんだ。生きるための力になってくれる代わりに、生き方を制限してしまう。
「紘夢、僕は決別をしようって言っている訳じゃないんだよ」
佐倉の言葉を借りながら、少しずつ説明をする。
「僕達はお互いのことばかり見て生きてきた。そうして自分というものをないがしろにしてきた。僕は誰に対しても何に対しても受け身で、どんな要求でも呑んでしまう。紘夢にも自分のことで何か思い当たる節があるんじゃない?」
「お、俺は」
「僕達は卒業しなくちゃいけないんだ。この関係から卒業する。紘夢が紘夢であるために。僕が僕であるために」
紘夢の肩に手を置いて身体を引き離し、真っ直ぐに目をみつめる。
「物理的に傍にいることだけが一緒にいるっていうことじゃない。精神的なところ、心の深いところで繋がっているのなら、それは一緒にいるのと変わらないと思う。どれだけ遠くにいても、傍にいられる」
心の奥底にある本当に大切なものだけは、誰にも奪えない。決して変わらない。絶対的な不可侵領域。もしかしたらそれこそがこの世界で唯一の真実なのかもしれない。
「……嫌だ」
「紘夢」
「たとえそうなのだとしても、俺は巧の傍にいたい」
紘夢の手が再び僕に触れる。
「好きなんだ。巧のこと、ずっと、ずっと好きだった。友達としてじゃなくて、恋人の好き。一人の男として、巧のことが好き。だから傍にいて欲しい。傍にいたい。俺、巧と付き合いたい。男同士だけど、それでも巧と付き合いたい」
目頭が熱くなる。少しでも気を抜いたら泣いてしまいそうだった。
その苦しさを飲み込んで、僕は静かに首を横に振った。
「違う。違うよ、紘夢。僕達のこれは、恋愛感情じゃない」
僕達のは。
「ただの、共依存だよ」
くしゃりと紘夢の顔が歪む。そのまま俯いて、縋りつくように僕に触れていた手から力が抜けてずり落ちていく。
「僕は紘夢と本当の親友になりたい。だから今は無理でも、少しずつでいいからわかって欲しい」
紘夢は何も言わなかった。下を向いたまま黙り込んでしまった。
「…………今日は帰るね」
ベッドから立ち上がった瞬間、紘夢の顔が上がる。
「た、く?」
「ごめん。今は、今夜は一緒にいたらいけないと思うから」
「嫌だ、行かないで。一緒にいて」
「ごめんね」
紘夢に背中を向け扉に向かって歩き出す。
「待って、巧、行かないで!」
背後から紘夢の叫び声が聞こえる。
それでも僕は足を止めない。
「戻ってきて! お願いだから一人にしないで!」
叫び声が徐々に悲痛なものに変わっていく。耳を塞ぎたくなる。だけどこれは僕が背負うべき痛み。紘夢を僕なしじゃいられないようにしてしまったことへの罰なんだ。
「巧!」
扉に手をかける。
「やだ、こっち向いてよ。巧、ねえ、巧ってば」
振り向いたら駄目だ。ここで振り向いたら、今度こそ戻れなくなる。
「ごめん。本当にごめん」
僕は扉を開けて、廊下に足を踏み出す。
「巧! た」
そして紘夢の言葉を掻き消すように扉を閉めた。直後、我慢していた涙が溢れてきた。足に力が入らなくなってその場にへたり込む。胸が張り裂けそうだった。痛くて、苦しくてしょうがなくて、ひたすら泣いた。中にいる紘夢に聞こえないように声を押し殺して泣き続けた。
やがて体の機能として泣くのをやめた僕が見たのは心配そうにしている佐倉の顔だった。
「変なところを見せてごめん」
僕の謝罪に佐倉は静かに首を振る。
「お疲れ様。よく頑張ったね」
差し伸べられた手を借りてようやく立ち上がる。
「帰ろう」
僕の方からそう言って病院をあとにした。
静かな夜の街を佐倉と並んで歩く。時折僕達の横を車が通りすぎるくらいで、人通りはほとんどなかった。
「これからどうするの?」
控えめな声で佐倉が聞いてきた。
「とりあえず、明日、終業式が終わったらもう一度話に行ってみる。そこからは様子を見ながらだけど、徐々に会う時間と頻度を減らしていこうと思う」
ああは言ったものの、僕だって本当は傍にいたい。ずっと傍にいてあげたい。離れることに慣れていないのは僕だって同じなんだ。怖いし、不安で死にそうな気分になる。だから少しずつ距離を置いて慣れていかないといけない。僕は紘夢がいない日常に。紘夢は僕がいない日常に。慣れて、順応して、一人でも生活出来るようにならなければならない。
「時間はかかると思う」
「うん」
「それでも僕は紘夢と一緒に歩いて行きたいよ」
「二見くんと松葉くんならきっと大丈夫だよ」
「ありがとう」
それからしばらくお互い無言で歩いて。
突然、佐倉の足が止まった。
「佐倉?」
佐倉が深呼吸をする。
「二見くん!」
夜の闇に佐倉の声が響き渡る。
「私、二見くんのこと好きだよ!」
考えて、僕は答えた。
「うん。それはたぶん、本当だと思うよ」