本殿はその日、未だかつてないほど煌びやかに飾られていた。
質実剛健を良しとする譲原の代では考えられないほどの装飾に、その式に参加した者達は主君が変わったことを実感させられた。
おそらくは葛原の母である雪華の仕業だろう。
葛原自身は、華美な物にあまり興味を示さなかったが、その母は輝く物や美しいものに目がなかった。

笛の音や太鼓の音が、空気に溶け込むように、静かに鳴り響く。
厳かな空気の中、長い祭事服を引きながら、葛原は一人姿勢を正し中央を進んだ。

菰野と小柚も今日ばかりは式服を着て、葛原の姿を見守っている。
「いよいよですね」
小柚の囁くような声に、菰野も
「ああ、そうだな」
とだけ小さく答えた。

烏帽子を外し、口上を述べた葛原の頭へ、神官が冠を乗せる。
これは本来ならば、譲原が果たすべき役だったが、この場に皇の姿は無かった。

菰野は、義兄の頭に冠が結ばれるのを、息が詰まりそうな気持ちで見ていた。
もう、今までと同じではいられないかも知れない。
母が亡くなっても、それでも菰野はこの城で、譲原皇にあたたかく見守られ、久居に支えられながら過ごしてきた。
けれど、そんな日々は、もうこれで終わってしまったのだと、もう二度と戻りはしないのだと。
そんな予感は、確信に近いほどの重さで、菰野の胸を押し潰す。

戴冠した葛原は、そっと目を開く。
これで、この国(藩)は名実ともに葛原の物となった。
燻んだ黒髪の下で、彼は見るものの心を凍てつかせるほどの、暗い決意をその瞳に宿していた。

菰野の背筋を、ぞくりと悪寒が通り過ぎる。
「菰兄様……」
隣から不安そうな声がして、菰野は隣に立つ小柚を見た。
「やはり、お父上はいらっしゃいませんでしたね……」
大きな瞳をわずかに伏せる小柚の肩を、菰野は優しく支える。
「大丈夫。今しっかりお休みになっていらっしゃるのだから、時期に良くなるよ」
「そう……ですよね……」
「ああ……」
それは、菰野自身の願いでもあった。
(……母様……。どうか、譲叔父様をお守りください……)
菰野は母の面影に縋るように、心から祈りを捧げた。

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「お待ちください葛原様っ!」
「譲原様は現在ご容態が……っっ」
入室を止めようとする衛兵達を、葛原は憎々しげに見下ろした。
「お前達……私を何だと思っている?」
「く、葛原皇……」
「この城に、皇に従えぬ者は居ないはずだが?」
言われ、衛兵達は渋々その場に膝を付く。
「……し、失礼致しました……」
「ご無礼をお許しください……」
葛原は、彼らを見下すと、ふんと鼻を鳴らし「早く開けろ」と命じた。

中はほとんど真っ暗に近かった。
「父上」
葛原は声をかけるが、慌てて駆け寄ってきたのは女官達だった。
「葛原様! 譲原様は今……」
必死に伝えようとする女官達に、葛原は腕を振る。
「下がれ」
「で、ですが……」
腕に当たらない程度に距離を取りつつも、一人の女官が食い下がる。
「下がれと言ったのが、聞こえなかったのか?」
「譲原様は、絶対安静で……」

「よい。お前達、下がりなさい」
その声は、ひどく掠れ、揺れていた。

女官が泣き出しそうな顔で下がるのを横目に、葛原は父の枕元へと近付いた。

「父上……」
ただ、父の顔が見たかった。
どうしても、戴冠の儀を務め上げた旨報告がしたくて、葛原はここへ来た。

何故なら、自分はそのためだけに生まれ、そのためだけにここまで生きてきたのだから。

「こんな時分にどうした」
父は、顔を動かすことすらなかった。
ただ、その優しい栗色の瞳は確かに葛原を見た。
葛原は、父にはもう起き上がる力も無いのかと心を痛めつつも、一方で、こうも思う。
私程度では体を起こすまでもないとお思いなのか……と。
きっと、ここへ来たのが菰野なら、父上は無理をしてでも向き合うのだろう。
自嘲を口元に浮かべつつ、葛原報告した。
「戴冠の儀、不備無く務めて参りました」
「そうか、ご苦労であった。式に行けず、すまなかったな」
「いえ……」
そう答えながらも、これがもし、菰野の式であったなら、父上は這ってでもおいでくださるのだろう。と葛原は思う。

「雪華は変わりなかったか?」
問われ、葛原は言葉に詰まる。
「は、母上は……」

母へは何度も出席するよう文を届けた。
けれどいつまで経っても出席の返事は無く、葛原は一昨日ついに直接会いに行った。
しかし、目通りは叶わなかった。

追い縋る女官の制止を振り切り、母のいる部屋までは行ったものの、何故ご出席いただけないのかと尋ねる葛原に、母は御簾越しに告げた。
「そのようなもの、何故私がわざわざ出向かねばならないのですか」
言葉を失った葛原に、母は冷たく告げた。
「帰りなさい」と。

母は、自分の息子が皇となることを、望んでいたはずだった。
だから、式には当然出てもらえるものと、葛原は思っていた。
……けれど、そうでは無かった。

結局、式に顔を出した葛原の血縁は、腹違いの弟の小柚と、従兄弟の菰野だけだった。

「母上は、物忌みのためご出席いただけませんでした」
寝台の端を握りしめながら、葛原が何とかそう告げた途端、譲原は咳き込み始める。
激しく咳き込む苦しげな父を、どうする事もできずに、葛原は瞳を揺らす。
その背を撫でることも、その肩に触れることも、自身には許されていないと彼は思っていた。

肩で息を継ぎながら、譲原はそんな長男の固く握り締めた手へ必死に手を伸ばす。
父の手に、自身の拳があたたかく包まれて、葛原は息をする事を忘れた。

「葛原……これからはお前が……この国(藩)の、皇だ……」
譲原は苦し気な息の隙間から、何とか一つずつ言葉を紡ぐ。
「この国を……菰野達を、頼む……」
「はい、父上……」

葛原が部屋を後にすると、中では女官達が慌ただしく譲原の世話を始める。
戸の外までわずかに聞こえる悲鳴のようなやりとりに、葛原の侵入を許してしまった衛兵達が、申し訳なさそうに顔を見合わせていた。

葛原はそんな中を振り返らずに歩いてゆく。

父があたたかな手を重ねてくれた右手の甲を、左手でそっと包むようにして胸元に抱き寄せる。

父に頼まれたのだ。
この国と、菰野達を。
それはなんと光栄な事だろうか。

正直、葛原にとってこの国(藩)はどうでも良い存在だった。
それでも、父の頼みとあらば、誠心誠意、この国(藩)に生涯尽くすつもりがあった。

きっと父は間も無く逝くのだろう。
それは葛原にはどうしようもないことだったが、父がそれを辛く思っていることは、葛原にも分かった。
父は、菰野と別れたくないのだ。
だから私に菰野達を託した。

だとすれば、葛原が父の為にできることはひとつだった。

(父上が……向こうで寂しくならぬよう、父上が旅立たれた後を、菰野にも追わせましょう……)
葛原は、菰野を眼裏に浮かべて誓う。
(この、私の手で……)

本当は葛原も後を追いたかった。
父と離れる事は、葛原にとって死よりも辛いことだった。
けれど、それは許されない。
父に、この国の未来を託されてしまったから。

自身は、この国を、立派に守り抜いた後に、堂々と会いに行こう。
そうすればきっと、父は褒めてくれる。
……今度こそ。
よく務めたと、微笑んでくださるに違いない。

葛原は、それまでの長い長い孤独を、一人耐え抜く覚悟を、そっと胸に秘めた。