Evasion ◇ 竜の背に乗り世界を駆ける、刀と蒼炎揺らめく和洋折衷『妖』幻想譚

茂みを掻き分けた先には、一人の少女が座っていた。

二人は、それぞれに違うことを考えながらも、結果、無言で見つめ合う。

(バレてないバレてない!!)
フリーは内心ほくそ笑む。
長い耳は髪の中に隠し、触角は髪に沿わせて後ろ側へ倒し、後頭部で手で押さえていた。
羽根も、転げ回ったせいで割れていたので、背中側を覗き込まれない限りは大丈夫だと思う。

菰野は、黙って状況把握に努めていた。
(こ、これは……)
少女の耳は確かに髪に隠されてはいたが、その長さは髪が隠せる範囲よりも長く、端が少しずつはみ出している。
後頭部を押さえたまま離さない手はえらく不自然だったし、周囲にはどう見ても翅の残骸に見えるものが散らばっている。
(昨日ここで見た人……いや、妖精……の、ようだが。
 えーと……人間のフリをしている、の、だろうか?)
菰野はここまで、わざとゆっくり茂みへ近付いた。
それは、相手に逃げるための時間を与えるためだった。
姿を偽るならば、なぜその間に逃げなかったのか、と菰野は思いかけて、その足の怪我に気付く。
少女のくるぶしには血が滲み、酷い色に変わっていた。
「怪我してるの?」
言葉と同時に、菰野はひょいと垣根を超えていた。
自分で思うよりも早く体が動いてしまい、少女が急に動き出した少年にびくりと肩を揺らす。
「あ、驚かせちゃってごめん。大丈夫、何もしないよ」
謝りながらも両手を開いて相手に見せる。何も怪しいものは持っていないと伝えるために。
「その……怪我、見せてもらってもいいかな?」
元から優しい声質の菰野が、なるべく優しい声で話しかける。
「え?」
問われて、少女は菰野が思うよりもっと可愛らしい声で答えた。
「う、うん……、いいけど……」

フリーは思う「人間って、私たちと同じ言葉使うんだ……」と。
菰野も同様に思っていた「とりあえず、言葉が通じてよかった……」と。

「わー……痛そうだね……。足の指は動く?」
菰野は、フリーの足首に、それはそれは優しく触れた。
「うん、動く……痛いけど……」
フリーは、菰野の纏う柔らかな空気に、ほんの少し緊張を解く。
「打撲と捻挫みたいだね」
菰野はキョロキョロと辺りを見回しながら尋ねる。
「この辺りに川とか無いかな?」
「細い川なら向こうにあったよ」
フリーは昨日見つけた小さな川を思い出して、指差した。
「湧き水かな? 行ってみる」
待っててね。と言われて、逃げようにも動けないフリーが頷くと、菰野は安心させるようにふわりと微笑みを残して、駆け出した。

花が綻ぶような、あたたかな微笑み。
その余韻を残したまま駆け去るその背を見送りながらフリーは思う。
(人間って、思ってたほど怖くない……の、かも?)


菰野は、迷う事なく目的の小川に辿り着いていた。
「これだな……」
サラサラと流れる水に指を差し込むと、それはとても冷たかった。
これで冷やせば彼女の痛みも少しは良くなるだろうか。
そう思いながら、菰野は自身の帯を解くと、冷水に浸した。
すぐ戻ろうと立ち上がった菰野は強烈な目眩に襲われる。
(立ちくらみ……?)


一人残されたフリーは、この森の異様な静けさに、まだ幼い頃の出来事を思い出していた。

人間たちよりずっと聴力の良いフリーの耳をもってしても、この場所には、生きるものの音がまるで聞こえなかった。
ここは、生き物の住めない場所だ。

結界の周りには、リスも小鳥も、……ウサギもいない。

フリーとリルは幼い頃、家でウサギを飼っていた。
ウサギはふかふかで、フリー達によく懐いた。
撫でると気持ち良さそうに目を細めて、撫でれば撫でるほどに伸びた。
フリーもリルも、とても可愛がっていたし、よく世話をしていた。

ある日、うっかり、水を替えた隙にウサギがカゴから飛び出した。
けれどその日はたまたま部屋のドアが開いていて、家の戸がほんの少し開いていた。

二人は必死で後を追ったが、幼いフリーよりもウサギの方が、ずっと足が速かった。
追われて、ウサギはついに結界石の外へと出てしまう。

せめて、村の方へ逃げてくれれば良かったのに。
ウサギは村の外へと、結界石の外へと出てしまった。

そこでやっと、フリーはウサギに追いついた。
ウサギは結界石を出て少しのところで、ぐったりと横たわっていた。

駆け寄ったフリーがウサギを抱き上げると、ウサギは震えながらも必死に目を開いて、フリーを見て、そして永遠に目を閉じた。

しばらくして、リルが母の手をぐいぐい引きながら走って来た。
フリーの腕の中でふかふかの塊は、少しずつ少しずつ、冷たくなってゆく。

ぽたりと、ウサギの毛の上に落ちて弾けた雫は、自分の涙だった。

「お母さん……。なんでこの子……死んじゃったの……?」

母は、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「結界石からは、とても強い力が出ているの。結界の中は結界に守られているから大丈夫なのだけれど……」
「外に出ちゃうとダメなの?」
母の手を両手で握りしめて、リルが尋ねる。その瞳からはポロポロと大粒の涙が溢れていた。
「ええ……。結界石に近づけば近付くほどその力は強く影響してしまうから……。結界のすぐ外には草一本生えないのよ」
母の言葉通り、結界石の内側は雑草だらけなのに、そこから先には一本の草も、蟻の一匹すら姿を見せなかった。
「ボクたちは平気なのに……?」
尋ねるリルの頭を、母は優しく撫でて言う。
「それは、結界の管理者である私が、あなた達を特別扱いするように結界石に設定しているからよ」
その言葉にフリーは反応した。
「……この子にもそれがしてあったら、死ななかったの?」
「そうね……迂闊だったわ……」
「私も、その設定っていうのできるようになりたい……」
「ボクもー」

ガサッと近くで音がして、フリーは回想から戻る。
顔を上げれば、先程の少年が、長い布を手に戻ってきていた。
「ただいま……」
菰野は、近くの木を支えにするようにして、なんとか立っていた。
目眩やフラつきは、あれから一向に治る様子を見せない。
「お、おかえり」
しかしフリーは自分の触角を押さえるのに必死で、そこまでは気付かない。
(今はこの状況をどう切り抜けるかだわ……)
「あー……、さっきより腫れてきちゃったな」
「うん……」
「しっかり固定しておくほうがいいから、ちょっと強めに巻くけど我慢してね」
菰野はフリーの足首を、よく冷やした自身の帯で固定する。
ぎゅっと縛られて、フリーが小さく悲鳴をあげる。
「はは、ごめん……」
苦笑する少年の声があまりに力無く聞こえて、フリーはその顔を見上げた。
(あれ……?)
「これでよし、かな……」
フリーの足の様子をまだ心配そうに診ている少年は、いつの間にか肩で息をしていた。
(なんだかこの人、顔色悪くなってない?)
そこでようやくフリーは気付く。
結界石の強い力が、この少年を侵しているのだと。
「ねえ、具合悪いんじゃない? 早く山を降りたほうがいいよ!」

菰野は、少女が心配そうにこちらを見上げている事に内心驚きながらも、頭が回らなくなりつつあることに気付く。
(あれ? 俺の心配してくれてる……? ああ、そうか。この山にはきっと妖精を隠すために不思議な力が……)
「ありがとう、大丈……夫……」
しかしその言葉の終わりには、菰野は姿勢を保てず地に手をついた。
ぐにゃりと視界が歪む。
「え、ちょっと! ホントに大丈夫!?」
少女の声がなぜかとても遠くで聞こえる。
視界が霞んで、地に付いているはずの自分の手すらよく見えない。
(もしかして……俺はここで、……死ぬ……のか……?)
ゾクリと、例えようもない恐怖が少年を襲う。

フリーは、冷や汗を浮かべて苦しげに荒く息をする少年を見る。
どうしてここまで我慢していたのだろう。
動けるうちに、山を降りていれば……と思いかけ、それを止めていたのが自分の存在だったことに気付く。
(この人に、無理をさせてたのは、私……?)
丁寧に手当てをされた自分の足に、フリーは思わず手を添える。
(私の手当てをしていたから、この人は……)
ひんやりと冷えた布でしっかり固定され、足の痛みは少し軽くなっていた。
このために、たったこれだけのために、この少年はここで命を失うというのだろうか。
(私のせいで……?)

少年の震える肩に、あの日の冷たくなってゆくウサギの姿が過ぎる。
(そんなの……)
フリーは巻かれた帯布の端を握り締める。
(そんなの絶対ダメだ……私が、何とかしなきゃ!)
少女はその金色の瞳に決意を宿す。
「目を瞑って」
「え?」
「いいから早く!」
言われて、菰野は目を閉じた。
(何だろう……声が遠くて……よく聞こえない……)
「いいって言うまで開けちゃダメだからねっ」
フリーは小さな声で呪文を唱える。
呪文は小さくとも、確実に結界石に届いた。

一方、隠れているはずのフリーを延々探していたリルも、結界石の輝きと交信を確認する音に、異変を察知する。
「えっ……フリー!?」

フリーは、菰野の両肩をしっかり掴むと、結界の効果を除外する対象として、少年を指定する。
自身の唇で。対象を示すべく、その額にそっと口付けて。

「え?」

ふわりと花のような香りを残しながら、少女の唇が離れ、菰野は思わず目を開けた。
恥ずかしそうに目を伏せて頬を染める少女と、しっかり目が合う。
「めめめめめめ目ぇ瞑っててって言ったでしょーーーーーーーーーーっっ!?」
まだ両肩を掴んでいた少女が、少年の肩を前後にガクガクと振りながら訴える。
「ご、ごめんっ。あんまり聞こえてなくて……」
答えながら、菰野はその少女の頭上にピンと立つ二本の触角に気を取られる。
(あ、触角……。やっぱりこの子、妖精だったんだ……)
「とにかく目を閉じて! いいって言うまで開けちゃダメっ!!」
「う、うん……」
言われて、菰野は素直にもう一度目を閉じた。
(今度は何だろう……)
「え、えっと……具合は良くなった?」
フリーが気を取り直して、尋ねる。
頬はまだ赤いし、心臓はまだバクバクしていたが、とにかくそれだけは確かめなければならなかった。
「そう言われれば、すっかり……」
言われて初めて気付いた様子の菰野の言葉に、フリーは胸を撫で下ろす。
「よかった……」

菰野も内心驚いていた。
あんなに酷かった目眩も、息切れも、一時は死を覚悟するほどに苦しかった全ての症状が、まるで嘘のように消えている。
この少女が何かしてくれ………………。
そこでようやく菰野も気付く。
さっきの妖精の顔が真っ赤だった理由に。
目を閉じたまま、菰野が赤面していると、少し離れたあたりでガサガサと草を分けるような音がした。
「目、開けていいよ」
少し離れたところから聞こえた声に、菰野はそっと目を開ける。
「あれ、いない……」
と言いかけた菰野は、見つけてしまった。

草むらからはみ出した、二本の触角を。

(うーん……これはきっと、見つけちゃいけないんだろうなぁ……)
触角は、ドキドキハラハラと小さく揺れている。
(しかし、この子は怪我をしているのに、一人で帰れるんだろうか)
菰野が背を向けるべきか否かと悩んでいると、向こうから少年の叫び声が聞こえてきた。
「フリーーーっ!! どこーーーーっ!!!」
途端、触角があわあわと慌てるように揺れ動く。
(うわぁぁぁぁっ! リル、今来ちゃダメーーーーーーっっ!!)

その様子に、菰野は今の声がこの少女の知り合いなのだろうと判断すると、小さく独り言を残して背を向ける。
「女の子も消えちゃったし、今日のところは帰ろうかな」
(えーと、捻挫は軽度だったし、ひと月もあれば……)
「また来月のこの日、ここに来てみよう……」
菰野はそう言い残すと、駆け出した。
あまりにわざとらし過ぎたかと、自分の発言に照れながらも、菰野はそのまま振り返ることなく、山をおりて行った。

ピクリとリルの耳が揺れる。
リルはフリーよりもさらに聴覚が鋭く、菰野の声が僅かに聞こえた。

フリーは菰野の姿が見えなくなると、草むらから顔を出す。
(行っちゃった……)
去ってもらわなきゃ困るはずなのに。
それでも、どこか淋しい気がして、フリーはしばし菰野の去った方を見つめていた。

そうして、ふと、リルがこちらに来ないことに気付く。
リルは、聞きなれない人の声に、足を止めて悩んでいた。
(まさか、人間とか……!? どうしよう……っ! お母さんを呼んできた方がいいかな……。フリーの声も、ちっとも聞こえないし……)
「リルーーーっ」
そこへ元気そうなフリーの声が届く。
「フリーっ!?」
リルは慌ててそちらへ走った。
「こっちこっちー。足挫いちゃって、動けないのよー」
フリーが元気そうに、むしろ呑気そうに手を振っている。
「だ、大丈夫だった!? 何もされてない!? 今この辺から人の声が……」
「な、何のこと?」
フリーが内心ギクリとしながら答えると、リルがキョトンとした顔になる。
「え!? フリーは聞いてないの? 男の子みたいな声が……」
「えー? 聞いてないなー……。空耳じゃない?」
「ええええええええ!?」
リルがずいっと詰め寄る。
「け、結界石には交信したよね? 空耳じゃないよね?」
ちゃんと聞いたもんっ。と涙目で弟に訴えられて、フリーは
「う、うんうん。リルが気付いて来てくれるかなーと思ってね」
と答えた。
「な……。なんだ……そっかぁ……」
リルが、へなへなとその場に崩れる。
どれだけ息を詰めていたのか、深い深いため息が、長く続いた。
「もー、リルは心配しすぎだって」
「うん……けど本当に……よかっ…………」
顔を上げたリルの大きな瞳からは、大粒の涙が溢れていた。
「あ……」
止まらない涙の粒に、リルが声を漏らす。
「ご、ごめんね、ホッとしたらつい……」
涙の溢れる瞳を細めて、恥ずかしそうに苦笑する弟に、フリーの良心が痛んだ。
「ううん……私こそ、なんかその……色々ごめん……」
「あ、肩貸すね」
リルがぴょこんと立ち上がると、膝をパタパタと叩く。
「その前に、あっちに落ちてるカゴ拾ってきてくれる?」
「うんっ」
タッと駆け出す弟の後ろ姿に、さっきの少年の後ろ姿が重なった。
フリーはもう一度、足に巻かれた帯に触れる。
(さっきの男の子、私と同じくらいの歳かな……)
リルよりずっと頼もしく男らしかったその少年を思い返していると、あの時唇に触れた少年の体温がじわりと蘇る。
途端に真っ赤になる顔をバタバタ手で扇ぎながら必死で冷ましていると、リルが「拾ったよー」とカゴを持ってきた。
「何してるの?」
リルに聞かれて、フリーは慌てて答える。
「何でもないわよっ。ほら、帰るわよ、肩貸しなさいよっ」
リルは「はーい」と素直に答えて、自分より背の高い姉をヨイショと支えた。
「何でフリーはこんな遠くにいたの?」
「えーとねー、隠れる場所を探してたら、偶然カゴを見つけてー……」
リルの質問に適当に答えながら、フリーは、チラリと振り返る。

(また……、会えるかな……)

僅かに頬を染め、再会を願うその横顔は、今まで少女が誰にも見せたことのない表情だった。


灯りの落とされた薄暗い部屋に、乾いた咳の音だけが聞こえる。
譲原皇の寝所には、寝台に横たわる彼以外に、何人かの女官が控えていた。

譲原皇は食事もままならなくなり、寝たきりとなっていた。
げっそりとこけた頬、苦し気に口元を覆う手も、骨と筋ばかりが目立った。
乾いた咳が幾度となく繰り返されていたが、そこに水音が混ざると、控えていた女官がそれぞれに濡れ布巾や椀を持って介助に入る。

掌に広がる温かい感触に、譲原は薄っすらと目を開く。
そこへはやはり、赤いものが滴っていた。

(そろそろ私も……、姉上の許へ逝かねばならないか……)

死ぬ事は、それほど怖くはない。
もうとっくに覚悟は済んでいた。

けれど、可愛い子ども達を残して逝くことだけが、譲原には酷く心残りだった。

葛原なら、きっと真面目に国に尽くしてくれるだろう。
小柚も、あの母が付いていれば大丈夫だろう。

心配なのは、菰野だった。
母も父も無く、何を残してやることもできない。
それどころか、本当のことすら、まだ話せずにいる。

譲原は、身動きの取れぬ病床で、ただひたすらに菰野を憂いていた。

(菰野……)

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菰野は、誰かに呼ばれた気がして足を止めると、振り返った。
譲原皇によく似た栗色の髪が小さくなびく。
主人の後ろに付き従っていた久居も、菰野に倣い立ち止まる。
「いかがなさいましたか?」
「いや……何でもない……」
ほんの少し眉を寄せて俯く菰野に、久居は心中を慮る。
「菰野様……」
二人は譲原皇への謁見を断られ、部屋へと戻る途中だった。
菰野達は、もう六日も譲原皇に目通りできずにいる。
皇の容態はそれほどまでに悪いのかと、思いはしても、お互い口には出来なかった。

「兄様ーーーっ」

廊下の向こうから、鈴を転がすような可愛らしい声が聞こえる。
軽い足音と共に、瞳を輝かせ破顔した愛らしい少年が駆けてくる。
「菰兄様ーっ!」
幼い少年は、駆けてきた勢いそのままに、ぴょんと菰野の胸元に飛び込んでくる。
「小柚!」
久居は、小柚に対して膝を付く姿勢を取りつつも、抱き止める菰野がよろけない様、肩と腕でその背を支えた。
小柚の後ろからは、慌てて小さな主人の後を追う従者達の姿が見える。

「もう本丸に来ていたんだな」
声をかけると、菰野の胸元で幼い少年はパッと顔をあげる。
「はいっ、昨夜着きましたっ」
ニコニコと嬉しそうな顔を見ていると、菰野もつられて嬉しくなってくる。
「御戴冠式まで、まだ半月はあるだろう」
あまりに気の早い到着に、菰野は苦笑を浮かべつつもその頭を撫でてやる。
「葛兄様の御戴冠式もっっもちろん楽しみなのですがっっ、それよりっっ少しでも早く菰兄様にお会いしたかったのですっっ」
わふわふと全力で尻尾を振る子犬のような小柚に、菰野はいくらか気圧されつつも、微笑みを返す。
「ありがとう……」
自分よりもひとまわりは小さな頭を、菰野はそっと撫でる。

そこへ、低い声がじわりと滲むように響いた。
「ほう……」
ゾクリと背筋を這うような声に、小柚が弾かれるように顔を上げる。
従者達が一層姿勢を低くする中、菰野はゆっくりと振り返った。
そこには、いつの間に現れたのか、この城の第一皇子である葛原が居た。

「面白いことを言うな、小柚」
葛原は、壁に肩を預けて腕を組み、こちらを見下ろしている。
今年で二十一歳になるその青年は、母親譲りの燻んだ黒髪を揺らして暗く笑った。
前髪は目の下あたりまで伸ばされていて、その目元を隠している。
「く、葛兄様……」
「まるで、私が”だし”にされているかのように聞こえるのだが?」
「い、いえ……その……」
言い淀む小柚を背に庇うように、菰野が一歩前に出る。
「葛兄様、小柚は分の低い私を気遣ったまでの事。決して葛兄様を軽んじたわけではありません」
菰野がふわりと微笑むと、張り詰めた空気がわずかに緩む。
「葛兄様の御戴冠式、私もとても楽しみにしております」

(菰野……)
葛原は感情の読めない表情で菰野を一瞥すると、黙って背を向けた。

去りゆく背中に、菰野が声をかける。
「叔母様にはお変わりありませんか?」

葛原は足を止めると、振り返らずに答える。
「そんなこと……お前には関係ないだろう……」
告げるその表情は酷く険しかったが、誰にも見られることの無いまま、葛原は立ち去る。

けれど、菰野には分かった。
その強く握り込まれた拳で、葛原がどんな顔をしていたのかが。
(葛兄様……)

はぁぁぁぁぁぁと大きなため息に、菰野は小柚を振り返る。
「怖かったです……」
率直な感想に菰野は苦笑を漏らす。
「こらこら、本丸に居る間は、言葉に気をつけるようにな」
そう嗜めながらも、菰野の心は六つ年上の義兄、葛原のことでいっぱいだった。

自分がまだ小柚ほどに幼かった頃、葛兄様は手習いが終われば毎日のように菰野の元を訪れ、日が暮れるまで共に過ごした。
優しく、聡明で、菰野をとても可愛がってくれていた義兄……。
一体いつから、何が理由でこんなことになってしまったのか。
菰野にはまだ分からなかった。

「菰兄様」
小柚の声に、菰野は我に返る。
「私も部屋に戻りますね。お昼を済ませたら……その……、菰兄様のお部屋に伺ってもよろしいですか?」
期待に満ちたつぶらな瞳に上目遣いで見上げられて、菰野は「ああ、待っているよ」と答えた。
途端、ぱあっと小柚が破顔する。
「では失礼しますっ」
ペコリと頭を下げると、小柚は嬉しそうに駆け去ってゆく。
その後を、数人の従者がまたパタパタと小走りで追いかけて行った。

「菰野様。今日のお墓参りはよろしいのですか?」
背後でようやく立ち上がった久居の落ち着いた声に尋ねられ、菰野はハッとする。

(そうだった! 今日はフリーさんに会う約束が……)
小柚に思わず二つ返事を返してしまった迂闊さを反省する菰野。
(いや、何故久居がそれを!?)
菰野の視線に気付いてか、久居が返事をする。
「今月に入ってずっと、二日おきにお墓へ行かれるので、私も把握しました」
「そ、そうか……」
妖精とのことがバレていない様子に、菰野がそっと息を吐く。
「せっかくなのですから、小柚様とお参りされてはいかがですか?」
そう言う久居の声がどこかよそよそしい気がして、菰野はもう一度その顔を見上げる。

久居はいつもと変わらない顔をしている……ようにも見えたが、わざと素知らぬ顔をしているようにも見えた。

(これは……何か気付かれてるんじゃないか?)
菰野は頭を抱える。

おかしいとは思っていた。
墓参りとは言え、久居がふた月もの間、一人で外出させてくれるなんて。
ちょっと考えてみれば分かるほどに、あり得ない事だった。

「どうかなさいましたか?」
久居が綺麗に微笑む。
その完璧なまでの美しさに、菰野はその笑顔が全くの作り物であると知る。
「何でも……ない……」
どこまで把握されているのかは分からなかったが、追求せずにいてくれるならば、それを有り難く思う事にして、菰野は話を切り上げた。

がっくりと肩を落とす年下の主人の背を、従者は満足気に見つめる。
主人は賢明だった。
限られた中ではあったが、自由を手放さない選択が出来たこの少年を、従者は心で讃える。
それで良いと、久居は思う。
「小柚様には私からお伝えしておきましょうか」
「いや、出かける前に寄って行く……。俺の空返事のせいだ」
菰野の言葉に、久居はもう一度、心の中で主人を誇りに思った。

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静かな静かな森の中。鳥の声すら聞こえないそんな場所に、二人は居た。
倒れた大木をベンチ代わりに、金髪の少女と栗色の髪をした少年が隣り合って座っている。

少女は触角を髪と一緒にハーフアップの要領で結んでいた。
その上を大きめのリボンで隠している。

「……と、言うわけなんだ」
菰野が苦笑とも自嘲とも取れないような笑みを滲ませつつ、言葉を切る。
「じゃあ、そのお供の人は、菰野がここに来てる事知ってるかもなんだ?」
フリーの問いに、菰野は今度こそはっきりと苦笑を浮かべて答える。
「うーん……多分」
「けど、そのお供の人はこんなとこまでは来れないよね」
「そうだね、どこまで知っているのか……」
と答えつつも、菰野は内心、久居なら全てを把握していてもおかしくないような気がしていた。
「フリーさんは、こんなに度々僕と会ってて大丈夫?」
菰野の心配に、フリーは笑顔を見せる。
「うん、最近はリルも全然ついて来るとか言わなくなったし……」
と、そこまで答えて疑問に思う。
「あれ? そういえば何で何も言わなくなったんだろう。ちょっと前までどこに行くにもしつこく付き纏ってきたのに……」
そんなフリーの言葉に、菰野の笑顔が小さく引き攣る。
フリーと菰野は、同じような顔でしばし見つめ合うと、声を重ねた。
「「まさか……ね……?」」
リルの耳がぴょこっと跳ねる。
待ち人の登場に、小さな少年は破顔した。
「お待たせしました」
落ち着いたその声に、大岩にもたれて日向ぼっこをしていたらしい少年が、ブンブンと小さな手を精一杯振る。
「遅かったねー、心配したよー」
そう言うリルに、久居は頭を下げると非礼を詫びた。
「すみません。菰野様に警戒されてしまいまして……」
「え」
久居は、ここまでに何度振り返られたか、またその度に隠れたかを説明する。
菰野は、久居の様子から、おそらく自分に気付かれないよう後をつけているのだろうと踏んだらしく、酷く後ろを気にしながら山を登ってきたらしい。

おそらくどこまで付いて来るのかが心配だったのだろう。
それは、この山の気……正確には結界石による、久居への身体的影響を配慮してのことだと、久居にも分かっていた。

実際、久居も一度は死にかけた。
あの時、同じように少女を探していたこの少年に出会わなければ、久居はこの山で力尽きていた可能性があった。

「菰野様は何かおっしゃっていましたか?」
「えっとー、久居に何か気付かれたとは言ってたけど……。
 ここまで来れるとは思ってないみたいだったよ」
にっこり笑って、リルが答える。
「そうですか、それは何よりですね」
その笑顔に、久居も微笑みで応える。

リルはフリーよりも可聴域が広い。
なので、フリーの可聴域の外で、なおかつリルからだけは向こうの声が聞こえるあたりに、二人はいつも待機していた。

「結界の事といい、お世話になり通しですね……」
久居が、精一杯の感謝を込めて、小さな少年に礼を述べる。
「ありがとうございます、リル……」
その言葉の端が、恥ずかしそうにほんの少しだけ小さくなる。
「久居もやっと、ボクの名前普通に呼んでくれるようになったね」
嬉しそうにそう言って、リルは両手を胸の前で合わせた。
言われた久居は、赤くなりつつある自身の顔を、手で覆っている。
「まだ……何というか、違和感が……」
「そんなに恥ずかしいの?」
「呼び捨てというのは弟以来なもので……」
弟という単語にリルが反応する。
「え、久居って弟がいるの? 何歳?」
「それより、こう頻繁に村を離れて大丈夫なのですか?」
リルは久居を見る。
久居は穏やかに微笑みを浮かべたままの、何ともなさそうな顔をしていた。
リルは話を逸らされたような気がしたが、それは久居にとって聞かれたくないことだったのかも知れない。と思ことにした。
「リルの村には寺子屋のような……読み書きを教えてくれるような場所はないのですか?」
「……学校? あるよ」
それだけを答えて、リルは小さく俯く。
「見たところ、リルは十かそこらのようですが……その学校とは、毎日通うところではないのですか?」
久居の言葉は、責めるようなものではなかった。
ただ優しく、こちらを心配するその声に、リルは正直に答える。
「うーん、学校はね、毎日あるんだけど……。ボクが行くと他の人の迷惑になっちゃうから……」
リルの反応に、久居は話題を変えた方が良いだろうかと考えを巡らせる。
「あ、ボクね、これでも十四歳なんだよ」
その発言には久居も正直驚いた。
実は、少年の姿はその半分くらい、七つか八つほどに見えていたからだ。
小さめに見積もっては失礼だろうと、大きめに口にしたのだが、まだ足りなかったらしい。
「そ、そうだったのですか、すみません」
「ううん。ボクは他の人たちより見た目の成長が遅いから……」
そう言って、リルは頭頂部より少し後頭部寄りの、つむじから生えている小さなツノを指先で示す。
歪みない綺麗な円錐の形をしたそれは、親指の第一関節まで程の大きさではあったが、確かにそこから生えていた。
「村の人たちは、大人も子どもも皆、触角が生えてるんだけどね」
そう言って指先で撫でられたツノは、とても硬そうに見えた。
「お父さんが、その……妖精じゃないから、ボクにはツノが生えてるの……」
「リル……」
久居は、悲し気に遠くを見つめるリルに、何と声をかけたものかと躊躇う。
しばらくの沈黙。

「妖精ってね、必ず男女の双子で生まれるんだよ」
リルがまた口を開き、久居は言葉を飲み込んだ。
「男の子は父親そっくりで、女の子は母親そっくりなの」
久居は”まさか”と思う……。
「でも、フリーはお母さんそっくりじゃなくて、ボクなんてちっともお父さんに似てなくて……」
震える言葉は、少しずつ涙に滲んでゆく。
村のどこへ行っても、この少年は異端だった。
妖精の姿をした姉ですら、村にとっては正しい妖精の姿でなく、それでも、姉はいつもリルを心ない言葉から守ってくれたのだと、少年は言った。

「村の皆は、ボクのこと……気持ち悪いって……」
震えているのは言葉だけでなく、膝の上で強く握り締められた少年の小さな拳の上に、涙の雫はポタリと落ちた。
久居は、震える肩をそっと抱き寄せる。
胸元に抱えた頭は、やはりまだとても小さかった。
「すみません……。辛い話をさせてしまいましたね……」
言われて、リルは驚いたように久居の顔を見る。
こんな自分に触れようとする人がいるなんて、とても信じられなかった。
久居はこちらを気遣うように、心配そうな顔でリルを見つめ返している。

彼は、辛い話をさせてしまったと言った。
そう、ボクは辛かった話を、うっかり、彼にしてしまった。
久居が優しくて……、いつも、どんな話でも聞いてくれて。
だからきっと、この話も、聞いてくれると思った。

……こんなことを、誰かに話したのは、生まれて初めてだった。

今までずっと、生まれてからずっと、母と姉と自分の三人だけで暮らしていたから。
母も姉も、自分を大切にしてくれるから。
だからこそ、こんな話はできるはずも無かった。

リルは、久居の胸にそっと頬を寄せてみる。
「リル……?」
久居は優しく薄茶色の髪を撫でた。
そこに、ツノが生えていても。
少年の耳が自分と違う形をしていても。

「ありがとう……久居」

久居はポロポロと涙を零す少年の髪を、背を、慰めるようにゆっくりと撫でる。

「ボクの話を聞いてくれて……」

リルは、人に話を聞いてもらうことの幸せを噛み締める。
その耳には、楽しそうに会話をするフリーと菰野の声が届いている。
普段の、村で必死に気を張るフリーではなく、家でリルにお姉さん風を吹かせるフリーでもなく、肩の力を抜いて、くだらないことでただ楽しそうに菰野様と笑い合うフリーは、リルの知らない人のようだった。
(フリーも、こんな気持ちなのかな……)
リルと違い、フリーには妖精の友達も幾人かいたけれど、それでもこんな風に、何でも話せる相手ではなかったのかも知れない。

ハッとリルは気付く。
「ごめんっ。ボクの話してたら、フリー達の話聞けないよねっ」
慌てる少年に、久居は優しく告げる。
「いいんですよ、菰野様の安全さえ確認できれば。何かあれば知らせていただけますね?」
「うん。変な音がしたら絶対気付くよっ」
リルが、ぎゅっと両手を握って言う。
「それなら安心です」
久居は微笑んで、リルに言った。
「……リルの話を、もっと聞かせていただけますか?」
リルは、一瞬驚いたような顔をして、それから嬉しそうに笑った。
「うんっ」
目尻に残る涙の粒が、少年の薄茶色と一緒に日差しにキラキラと舞う。

「何話そうかなー、何か聞きたいことある?」
ほんの少し照れ臭そうなリルに、久居が尋ねる。
「それでは……、妖精の寿命というのは、どのくらいなのですか?」
「えーと、長生きの人だと九十歳を超える人もいるくらい……だよ」

(やはり!!)
久居は確信する。
人間の間では、妖精は非常に長命な種族なのだとされていた。
けれどそれは、人間がその代替わりに気付いていなかっただけなのだと。

「ボクはもっと長生きするかもって、お母さんが言ってたよー」
「それは、リルの父君が長命な種族だと言うことですか?」
「うん、お父さんはすごーーく長生きするんだってー」
久居は、鬼という存在に思いを馳せる。
昔話に出てくる鬼は、そのほとんどが筋骨隆々とした大男の姿で描かれていたが、目の前の少年は、それとはかけ離れた、線の細い儚げな印象だった。

「なるほど、それでリルは実年齢より幼く見えるのですね」
「うんうん」
「……と言うことは? フリーさんはリルと同い年には見えないと言うことで……?」
久居はやっと気付く。
自分の勘違いに。
「フリーはちゃんと十四歳くらいに見えるよー。背もボクよりこのくらい高くてー……」
久居は、菰野がリルと同じくらいの見た目の妖精と会っているのだと思っていた。
しかし、そうではなかった。
菰野が頻繁に逢瀬を重ねている相手は、ほとんど同い年の少女だったのだと、久居はようやく気が付いた。
(……菰野様……!?)
こうして、久居はまた、新たな心配の種を抱え込んだ。
本殿はその日、未だかつてないほど煌びやかに飾られていた。
質実剛健を良しとする譲原の代では考えられないほどの装飾に、その式に参加した者達は主君が変わったことを実感させられた。
おそらくは葛原の母である雪華の仕業だろう。
葛原自身は、華美な物にあまり興味を示さなかったが、その母は輝く物や美しいものに目がなかった。

笛の音や太鼓の音が、空気に溶け込むように、静かに鳴り響く。
厳かな空気の中、長い祭事服を引きながら、葛原は一人姿勢を正し中央を進んだ。

菰野と小柚も今日ばかりは式服を着て、葛原の姿を見守っている。
「いよいよですね」
小柚の囁くような声に、菰野も
「ああ、そうだな」
とだけ小さく答えた。

烏帽子を外し、口上を述べた葛原の頭へ、神官が冠を乗せる。
これは本来ならば、譲原が果たすべき役だったが、この場に皇の姿は無かった。

菰野は、義兄の頭に冠が結ばれるのを、息が詰まりそうな気持ちで見ていた。
もう、今までと同じではいられないかも知れない。
母が亡くなっても、それでも菰野はこの城で、譲原皇にあたたかく見守られ、久居に支えられながら過ごしてきた。
けれど、そんな日々は、もうこれで終わってしまったのだと、もう二度と戻りはしないのだと。
そんな予感は、確信に近いほどの重さで、菰野の胸を押し潰す。

戴冠した葛原は、そっと目を開く。
これで、この国(藩)は名実ともに葛原の物となった。
燻んだ黒髪の下で、彼は見るものの心を凍てつかせるほどの、暗い決意をその瞳に宿していた。

菰野の背筋を、ぞくりと悪寒が通り過ぎる。
「菰兄様……」
隣から不安そうな声がして、菰野は隣に立つ小柚を見た。
「やはり、お父上はいらっしゃいませんでしたね……」
大きな瞳をわずかに伏せる小柚の肩を、菰野は優しく支える。
「大丈夫。今しっかりお休みになっていらっしゃるのだから、時期に良くなるよ」
「そう……ですよね……」
「ああ……」
それは、菰野自身の願いでもあった。
(……母様……。どうか、譲叔父様をお守りください……)
菰野は母の面影に縋るように、心から祈りを捧げた。

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「お待ちください葛原様っ!」
「譲原様は現在ご容態が……っっ」
入室を止めようとする衛兵達を、葛原は憎々しげに見下ろした。
「お前達……私を何だと思っている?」
「く、葛原皇……」
「この城に、皇に従えぬ者は居ないはずだが?」
言われ、衛兵達は渋々その場に膝を付く。
「……し、失礼致しました……」
「ご無礼をお許しください……」
葛原は、彼らを見下すと、ふんと鼻を鳴らし「早く開けろ」と命じた。

中はほとんど真っ暗に近かった。
「父上」
葛原は声をかけるが、慌てて駆け寄ってきたのは女官達だった。
「葛原様! 譲原様は今……」
必死に伝えようとする女官達に、葛原は腕を振る。
「下がれ」
「で、ですが……」
腕に当たらない程度に距離を取りつつも、一人の女官が食い下がる。
「下がれと言ったのが、聞こえなかったのか?」
「譲原様は、絶対安静で……」

「よい。お前達、下がりなさい」
その声は、ひどく掠れ、揺れていた。

女官が泣き出しそうな顔で下がるのを横目に、葛原は父の枕元へと近付いた。

「父上……」
ただ、父の顔が見たかった。
どうしても、戴冠の儀を務め上げた旨報告がしたくて、葛原はここへ来た。

何故なら、自分はそのためだけに生まれ、そのためだけにここまで生きてきたのだから。

「こんな時分にどうした」
父は、顔を動かすことすらなかった。
ただ、その優しい栗色の瞳は確かに葛原を見た。
葛原は、父にはもう起き上がる力も無いのかと心を痛めつつも、一方で、こうも思う。
私程度では体を起こすまでもないとお思いなのか……と。
きっと、ここへ来たのが菰野なら、父上は無理をしてでも向き合うのだろう。
自嘲を口元に浮かべつつ、葛原報告した。
「戴冠の儀、不備無く務めて参りました」
「そうか、ご苦労であった。式に行けず、すまなかったな」
「いえ……」
そう答えながらも、これがもし、菰野の式であったなら、父上は這ってでもおいでくださるのだろう。と葛原は思う。

「雪華は変わりなかったか?」
問われ、葛原は言葉に詰まる。
「は、母上は……」

母へは何度も出席するよう文を届けた。
けれどいつまで経っても出席の返事は無く、葛原は一昨日ついに直接会いに行った。
しかし、目通りは叶わなかった。

追い縋る女官の制止を振り切り、母のいる部屋までは行ったものの、何故ご出席いただけないのかと尋ねる葛原に、母は御簾越しに告げた。
「そのようなもの、何故私がわざわざ出向かねばならないのですか」
言葉を失った葛原に、母は冷たく告げた。
「帰りなさい」と。

母は、自分の息子が皇となることを、望んでいたはずだった。
だから、式には当然出てもらえるものと、葛原は思っていた。
……けれど、そうでは無かった。

結局、式に顔を出した葛原の血縁は、腹違いの弟の小柚と、従兄弟の菰野だけだった。

「母上は、物忌みのためご出席いただけませんでした」
寝台の端を握りしめながら、葛原が何とかそう告げた途端、譲原は咳き込み始める。
激しく咳き込む苦しげな父を、どうする事もできずに、葛原は瞳を揺らす。
その背を撫でることも、その肩に触れることも、自身には許されていないと彼は思っていた。

肩で息を継ぎながら、譲原はそんな長男の固く握り締めた手へ必死に手を伸ばす。
父の手に、自身の拳があたたかく包まれて、葛原は息をする事を忘れた。

「葛原……これからはお前が……この国(藩)の、皇だ……」
譲原は苦し気な息の隙間から、何とか一つずつ言葉を紡ぐ。
「この国を……菰野達を、頼む……」
「はい、父上……」

葛原が部屋を後にすると、中では女官達が慌ただしく譲原の世話を始める。
戸の外までわずかに聞こえる悲鳴のようなやりとりに、葛原の侵入を許してしまった衛兵達が、申し訳なさそうに顔を見合わせていた。

葛原はそんな中を振り返らずに歩いてゆく。

父があたたかな手を重ねてくれた右手の甲を、左手でそっと包むようにして胸元に抱き寄せる。

父に頼まれたのだ。
この国と、菰野達を。
それはなんと光栄な事だろうか。

正直、葛原にとってこの国(藩)はどうでも良い存在だった。
それでも、父の頼みとあらば、誠心誠意、この国(藩)に生涯尽くすつもりがあった。

きっと父は間も無く逝くのだろう。
それは葛原にはどうしようもないことだったが、父がそれを辛く思っていることは、葛原にも分かった。
父は、菰野と別れたくないのだ。
だから私に菰野達を託した。

だとすれば、葛原が父の為にできることはひとつだった。

(父上が……向こうで寂しくならぬよう、父上が旅立たれた後を、菰野にも追わせましょう……)
葛原は、菰野を眼裏に浮かべて誓う。
(この、私の手で……)

本当は葛原も後を追いたかった。
父と離れる事は、葛原にとって死よりも辛いことだった。
けれど、それは許されない。
父に、この国の未来を託されてしまったから。

自身は、この国を、立派に守り抜いた後に、堂々と会いに行こう。
そうすればきっと、父は褒めてくれる。
……今度こそ。
よく務めたと、微笑んでくださるに違いない。

葛原は、それまでの長い長い孤独を、一人耐え抜く覚悟を、そっと胸に秘めた。


「お母さんっ」
フリーに呼ばれて、母が振り返る。
金に輝く母の長い髪が、ふわりと円を描くように揺れた。

「帯飾りの作り方教えて!!」
「突然どう……」
「今すぐっ」
フリーとリルの母、リリーは、娘に食い気味に言われて圧倒される。
「そうねぇ、ええと……」
リリーは、引き出しから細かく仕切りのされた箱を取り出すと、そこから一本、ガラス玉と紐で編まれた装飾品を手に取った。
「こんな感じのものでいいかしら?」
大きな玉が三つ、その上下にいくつか小さなガラス玉が並んだデザインは、シンプルで誰にでも馴染みそうだった。
「うんうんっ! これお母さんが作ったの?」
「ええ、そうよ」
リリーは、ほんの少し目を細めてそれを見ている。
その飾りは赤と茶色でシックにまとめられていた。
淡い金色の母には少し地味過ぎる気がして、一体いつ頃、誰のために作ったものかとフリーは一瞬気になったが
「じゃあ、まずは材料を買いに行きましょうか」
と言われて、そんな疑問は吹き飛んだ。
「やったぁ♪」
喜ぶフリーの背で、ぴょこっと、まだ伸びきらない翅が元気に立ち上がる。
あの日割れてしまった翅は、割れてしまったなりに、母が何とか形を整えて切ってくれた。
元通りの大きさになるまではもうしばらくかかるだろうけれど、フリーは、短い翅も身軽に動けて悪くは無いと思っていた。
「あ、このデザインなら男の子が付けても平気だよね?」
フリーがほんの少しだけ恥ずかしそうに尋ねる。
「ええ、問題ないと思うけど……どうして?」
リリーは、そんな娘が可愛らしくて、あえて尋ねてみる。

フリーはギクリと笑顔を引き攣らせて
「う、うまくできたら、リルにも作ってあげようかなー……とか……」
と答えた。
フリーの言葉に、奥の部屋からひょっこりリルが顔を出す。
「ボクを呼んだ?」

おそらく名前が聞こえて顔を出しただけのリルが、テンパっていたフリーにその頭を両手でがっしりと掴まれる。
「はわわわわわ……」
何かタイミングが悪かったらしいことを理解して、リルがじわりと青ざめる。
「呼んでないからね……?」
ミシミシと力が加わる手に怯えながら、リルは必死で頷いた。

----------

村の手芸品店は、村にある店の中では広い方で、二階までたくさんの商品が所狭しと並べられていた。

ずらりと並んだ色とりどりのガラス玉を前に、フリーが絶句する。
(お、思ったより、多いわね……)
「えーと、菰野はいつも緑系の服着てるから、同系色で選ぶとして……」
ぶつぶつと口の中で唱えるフリーに、リルはぼんやりと思う。
(フリー、菰野って人にプレゼントなのかな……)
ガラス玉はどれも美しく、静かに艶やかに輝いている。
リルは、久居の髪のような、濡羽色に輝く玉を一粒、手に取ってみた。
(ボクも久居に何か作ってみようかな……)

フリーはかなり長い事、似たような二色の玉を、こちらが良いかあちらが良いかと悩んでいたが、ようやく会計を終えて親子三人は店を出た。
「ほら、外に出たらフードを被りなさい」
母が、リルのツノを隠すように短いケープのフードを頭にかける。
「はーい」
「じゃあ私は仕事に行くから、二人は先に帰っていてね」
「帰ったら、作り方教えてねっ」
フリーの待ちきれない様子に、母は苦笑しながらも
「ええ、ちゃんと戸締りして、いい子にしてるのよ」
と言い残して、足早に村の中央へと向かった。
「「いってらっしゃーい」」
と見送る二人。
フリーは、母の姿が小さくなると、買ってもらったばかりのガラス玉が入った紙袋に視線を落とした。
(菰野、喜んでくれるかなぁ……)
栗色の彼が嬉しそうに微笑む姿を想像すると、思わずフリーの口元が弛む。
隣からリルの視線を感じて、フリーは慌てて姉らしく振る舞った。
「ほら、帰るわよっ」
「はーい」
リルは、姉が嬉しそうな顔を見せてくれるのが、とても嬉しかった。
いつもフリーは、リルのためにとやりたいことを我慢しているような気がしていたから。
今日だって、フリーだけなら学校に行けるはずなのに、こうやってボクに付き合って休んでいるのだと、リルには分かっていた。

「おい」
背にかけられた声に、リルはビクリと肩を揺らした。
「お前らそんなとこで何してるんだ」
振り返れば、青年というには幼いが少年というには可愛げが足りないような、フリー達より一つ二つ上の学年の男子が三人、こちらを見下ろしている。
この三人は、学校に行く度何かとフリー達にいちゃもんをつけてくる、フリー達にとって会いたくない三人だった。
「久しぶりじゃないか」
(嫌な奴らに会っちゃったわ……)
フリーが、サッとリルを背に隠すようにして前に出る。
「学校サボって仲良く買い物か?」
真ん中に立つ男子が、フリーに一歩近付く。残る二人は傍観する構えだ。
「あんたには関係ないでしょ」
フリーの言葉に、男子はあからさまにムッとする。
「何買ったんだよ、見せてみろ」
ぐいっと紙袋を掴まれて、フリーが抵抗する。
「ちょっと! やめてよ!!」
「少しぐらいいいだろ!」
「嫌だってば!!」
(菰野にあげる、大事なプレゼントなんだから!!)
フリーは、この袋を絶対に手放したく無かった。
けれど、男子も引っ込みがつかなくなったのか、それを取り上げるまで手を離す様子がない。
紙袋がミシミシと小さな音を立てる。
(ど、どうしよう……)
リルが、どうしたらいいのか分からずに、オロオロとそんな二人を見ている。
が、そんな時間は長くは続かなかった。

二人に力一杯引っ張られて、紙袋は無惨に裂ける。
その勢いで、ガラス玉は派手に宙を舞った。
男子はよろめいたが、彼に対抗するべく全体重をかけていたフリーは思い切り尻餅をつく。
その後を追うように、飛び散ったガラス玉が次々と着地しては、地にぶつかり砕け散ってゆく。

「ああ……」
次々に壊れてゆくそれを見るフリーの表情が悲痛に歪む。
「な、何だよ……。お前が手を離さないからだぞ」
引っ込みがつかない男子の言葉に、後ろの二人はやれやれと顔を見合わせた。
またこれで、この男子はフリーに嫌われただろう。と。
一方で妖精の男子は、地の上でまだ丸い形を保っていたガラス玉に、ままならない苛立ちをぶつけた。
「ケッこんなもん」
男子の靴の底で、生き残っていた粒が小さな音を立て砕ける。

リルは信じられなかった。
どうして彼はこんな事をするのか、理解できなかった。

「なんてことするの!? やめなさいよ!!」
フリーが慌てて体を起こし、男子を睨む。
その間に、男子は二つ目の粒を踏み割った。
「やめなさい? 人に物を頼む態度じゃねーな」
男子はフリーの視線に気を良くしたのか、口端を持ち上げた。
そんな二人のそばに転がる黒い粒。
それは、リルが先ほど選んだとっておきの一粒だった。

ガラスを二重にして焼いてあるらしいそれは、一見真っ黒い玉だったが、光に透けると中から赤い光が覗く。
まるで久居の瞳のようだと、リルは思った。
欲しがるには少し高かったそれをじっと見つめていたら、フリーが「それ、最後の一個じゃない? 買うなら入れたら?」と勧めてくれた。

男子の靴がその玉を狙うのが分かった。
何とかしなきゃと焦りはするも、リルには何もできなかった。
「ダメッ!!」
手を出したのは、フリーだった。
フリーの手を、男子の靴は踏み付けた。
「いっ……!」
ザリッという嫌な音と共に、手の甲に走る熱と痛み。
フリーは痛みに顔を顰めた。

「おわぁ!」
男子が慌てて飛び退く。
「き、急に飛びついてくんじゃねーよ!!」

フリーの手の甲には、数え切れないほどの切り傷が残っていた。
「痛……」
そこから、じわりと鮮血が湧き出る。
(うわー……。靴の裏にガラス片がついてたんだ……)
フリーが思ったよりも酷い傷に、眉を寄せつつ起き上がる。
男子はすっかり青ざめながら、二、三歩下がった。

「フリーっ!」
リルが慌てて駆け寄る。パサリとフードが後ろへ落ちた。
「ん……大丈夫……。リルの玉も無事だよ、ほら」
フリーが痛みを堪えるようにほんの少し息を詰めながらも、痛む手を少しずつ開いて手の中に握り締めた黒い玉をリルに見せた。

ピシッと小さな音がして、その玉に亀裂が走る。
落ちた時の衝撃か、踏まれた際の衝撃かはわからなかったが、フリーの手の中で、黒い玉は無惨に弾けた。
「あ」

リルにはやはり、理解できなかった。
なぜこの姉が、こんな風に、悲しい思いをしなくてはならないのか。

リルは思う……『許せない』と。


「ご、ごめんね、割れちゃっ……」
フリーが、リルに悲しみを見せぬよう、苦笑を浮かべて振り返る。
「……リル?」
しかし、弟はこちらを見ていなかった。

ゆらり。と弟のまわりの空気が揺れた。
リルは、無言で立ち上がると、男子へ向かい歩いた。
まるで陽炎のように、リルを包む空気がふわふわと揺れる。
それが炎だと気付く者は、この場に居なかった。

「な……何だよ……。何か文句あんのか?」
男子の声にも、リルは反応を示さない。
ただ、一歩ずつ、ゆっくり、男子へと近付くリルに、男子の背を悪寒が駆け上る。
「何とか言えよっ!!」
恐怖に駆られ、男子はリルの頭を押し返す。
じゅうっと何かが焼ける音は、その場の全員に聞こえた。

「……うーー」
男子は目を見開く。煙の上がる自分の手を引き寄せ、掌を見るまでが、まるでスローモーションのようにゆっくりに感じられた。
「うわああああああああああああ!!」
平和な村には似つかわしくない恐怖を孕んだ絶叫に、リルがハッと意識を取り戻す。
「手があああああ!!!」
後ろの男子が、その手を覗きこみ「融けてる……」と呟いた。
「い、医者呼んでくる!!」
もう一人の背の高い男子が、翅を翻して駆け出す。
フリーは、リルの肩を掴んだ。
「行くよリル! 人が来る前に!!」
「で、でもガラス玉拾わなきゃ……」
「いいから早く!!」
フリーは無事な方の手で弟の手を引いて、振り返らずに走り出す。
リルは、散らばったガラス玉に名残惜しそうな視線を投げつつも、姉に従った。

家まで一気に駆け戻ったフリーは、家の中にリルを入れると、戸の鍵を閉める。
手が融けていると、言っていた……。
それを思い返す度に、フリーは底知れない恐怖を感じる。
必死で息を整えようとしているフリーに、リルはおずおずと尋ねる。
「フリー……、何があったの?」
その言葉に、フリーは目を見開いた。
(え……!? リルは自分が何をしたのか……、分かってない……?)
不安そうに、姉の言葉を待つリルに、フリーは何と答えるべきかと思案しながら、手を顔に近付ける。
「あぁ〜、えーと……」
しかしいつもの癖で持ち上げた右手はズキンと痛み、傷口からはジャリッとガラス片の擦れる音がした。
「いった……」
「だ、大丈夫?」
ジャリッという音は、耳の良いリルにも聞こえたのだろう。
姉の痛みを思ってか、リルの薄茶色の瞳は潤んでいた。
手の中に残ったガラス片を取り出す作業を思うと、フリーも憂鬱になる。
「とりあえず、リルはピンセットと虫眼鏡持ってきてくれる?」
「うんっ」
タタタと二階に駆け上るリルの足音を聞きながら、フリーは水場へと向かう。
「まず洗った方がいいよね……。うわー……沁みそう……」
水汲みポンプのハンドルを何度か押し下げると、水が流れ始める。
(きっと今頃、お母さんのところに人が行ってるよね……)
フリーは、この村で、たった一人で自分達を守り続けている母のことを思う。
(あんまり……酷い事、言われてないといいんだけど……)
冷たい水は、やはり傷口に沁みて、痛かった。
菰野と久居は城の中を駆けていた。
本来ならば走るべきではない場所だったが、今は一刻を争っている。

上がった息も流れる汗もそのままに、菰野がバタンと部屋に入ると、葛原が振り返った。
「菰野、静かに入って来い」
「……っ、すみま、せん……」
はぁはぁと荒い息の合間から、菰野が詫びる。
「来て、くれたか、菰野……」
葛原のすぐ隣から、弱々しく掠れた声がした。

「譲叔父様……」
菰野がその寝台の脇に膝を付く。

「菰野と……、二人で、話をさせてくれ……」
葛原はギリッと小さく歯を鳴らし「……はい、父上」と下がった。
葛原は苛立たしげに、そばに控えていた女官達を共に下がらせる。

「……菰野」
呼ばれて、菰野はもう一歩、譲原へと身を寄せる。
「はい……」
「最後の頼みを……聞いてくれるか?」

最後、という言葉に、菰野の胸は締め付けられる。
「私に……出来ることでしたら」
「そんな顔を、しないでくれ……」
譲原が差し出した手を、菰野は大切そうに支える。
「お前には、いつも……辛い思いばかり、させてしまうな……」
譲原はすっかり細くなった指で、菰野の頬を撫でる。
菰野はその手に頬を寄せると「そんなことはありません」と答えた。
ゆっくり目を閉じて、開く。
「父上、母上と共に過ごせて、私は幸せでした」
その言葉に、譲原はハッとなる。
「ーーお前……、知っていたのか……」
「はい」
とだけ、菰野は答えた。
「私を……恨んでいるだろうな」
「そのようなこと、決してありません!」
菰野は大きく首を振る。
頬を包む譲原の手を、菰野は両手でしっかりと握り締める。
「私を生かしてくださったこと、お傍に置いてくださったこと……。
 本当に……、感謝しています……」
堪えきれず、菰野の頬を涙が一筋伝う。
それは、幼い頃からずっと傍で見守り続けくれた、父への感謝の涙だった。

譲原は口元を弛める。
「そうか……」
譲原は、最後の頼みと称して、一度だけでも父と呼んでくれればと思っていた。
けれど、菰野の中で、自身はずっと父でいられたのだ。
それを知り、譲原の心は満たされてゆく。
よかった……、本当に……。
もう、思い残す事は何も無い。
(久居……、菰野を頼むぞ……)
部屋の壁際に控えていた久居が、ハッと顔を上げる。

菰野は、握り締めていた手から、ほんの僅かに重みが消えたことを感じ取る。
それは、魂の重みだった。

「ゆ……譲叔父様……?」

事態に気づいた葛原が、譲原の名を呼び縋る菰野を突き飛ばすようにして、場所を入れ替わる。
「父上! 父上っ!!」
譲原は、もう目を開けなかった。

「お前達! 何をぼさっとしている!!」
怒鳴られて、女官と医師が慌ただしく譲原を取り囲む。

その外側で、突き飛ばされて床に手をついていた菰野が、ゆっくり顔をあげる。
「お怪我はありませんか?」
そんな菰野を、久居が助け起こした。

二人は、人の輪から距離を取るようにして、部屋の壁際に控えた。
壁を背に立つ菰野の足元で、久居は静かに膝を付く。
「小柚は、まだ来てないんだな……」
菰野の呟きに、久居は「そのようですね」と同意する。
「本丸(ここ)までは距離があるからな……」
「はい……」
寝台の脇では、今も葛原が必死で父を呼んでいた。
「父上っ!!」
(最後の最後まで……菰野だけなのですか!?
 何故私には何も仰ってくださらないのですか!?)
葛原の瞳から止めどなく涙が溢れる。
寝台で眠る父は、満足そうに満ち足りた表情を浮かべていた。
……それが葛原には、悲しくてたまらない。
自分がどれほど、彼にとって必要でないのかを、はっきり見せつけられているようだった。
「父上ーーーーっ!!」
葛原の慟哭が、広い寝室に響き渡る。

菰野は、その悲しげな声に胸をじわりと締め付けられた。
義兄は最初で最後の支えを失ってしまった。
もう、この世で彼を気にかける者は自分しかいないのではないか、と菰野は思う。
けれど、自身は、その兄に疎まれていた。

確かに距離を取られている。
けれど、まだ嫌われているわけではないと、菰野は内心思っていた。

葛原が菰野を見る目には、嫉みや悲しみこそ滲んでいたが、嫌悪の色が映る事は未だ無かった。

「父上……」
葛原の声が、徐々に小さく、涙に濡れて溢れ落ちる。
見れば、医者も女官も、譲原から一歩離れていた。

菰野は、譲原の言葉を思い返す。
『最後の頼みを……聞いてくれるか?』と父は言った。
何だって、聞くつもりでいた。
けれど、父はそれを告げることなく、逝ってしまった。

(……最後の頼みを、伺いそびれてしまったな……)

久居は、主人の靴を濡らした雫に気付く。
けれど気付かぬフリをして、視線を戻した。

菰野は、溢れる涙を、もう止められなかった。
せめて声を漏らさぬよう、歯を食いしばる。
自分が泣けば、きっと兄はそうと見せずに心を痛めるだろう。

孤独な兄を支えたい。
菰野はずっと、そう思い続けてきた。

……本当は、父に、兄を救ってほしかった。

けれど、もうそれは叶わない。永遠に……。

いつも優しかった譲原の笑顔だけが、胸に広がる。
自分は置いて行かれたのだと、心が理解する。

(父上……)

菰野は、母の元へ逝ってしまった父に縋るように、胸の内で呼んだ。

----------

すっかり夜中になった頃、リリーは帰宅した。
その横顔には、疲労の色が濃い。
「あ、お母さん、おかえり……」
家に入ると、すぐの廊下に、フリーが毛布に包まるようにして座り込んでいた。
「フリー? どうしたの、こんなところで……」
「ん……、お母さん待ってた……」
「ごめんなさい、遅くなって」
「ううん、私達のせいでしょ?」
フリーは、母を気遣った。
「リルは?」
「疲れたみたいで、ご飯食べたらすぐ寝ちゃった」
「そう……」
初めての力の発現に消耗したのだろう。とリリーが推測する。
「お母さん、リルね、あの時意識がなかったみたいなの……」
フリーは、母をまっすぐ見上げて続ける。
「何やっちゃったのか、まだ分かってないみたい……」
「それで、フリーがこんなところで待っててくれたのね」
リリーはフリーの隣に並んで座り込んだ。
「うん……。リルに本当の事を言った方がいいのか分からなくて……」
リリーは、フリーがリルの事を大切にしてくれている事を嬉しく思う。
けれど同時に、その為にフリーは少し無理をし過ぎているのでは、とも思う。

あ。とフリーは思い出したように尋ねた。
「あいつ、手の怪我は大丈夫だった?」
リリーは微笑んで答える。
「ええ、すぐ治療したみたいで、私が行った時には綺麗に治っていたわよ」
「よかったぁ……」
フリーがホッと胸を撫で下ろすのを見ながら、リリーは尋ねる。
「あなたの怪我はどうなの?」
「あ、うん平気平気。切れたの手の甲ばっかりだし、動かさなければほとんど痛くな……」
そんな娘の手を、リリーはつついてみた。
フリーはガバッと手を抱え込んで、声にならない悲鳴を飲み込む。
「痩せ我慢しないで、フリーも明日は病院に行きなさいね」
「だ、大丈夫だって。ちゃんとガラスの欠片も取り除いたし……」
ズキズキと痛む右手を体で庇いながら、フリーは左手でパタパタと遠慮する。
今日買ってもらったガラス玉も結構高かったのに、病院にかかれば、もっとお金がかかる。
そう思うフリーの心を見抜いてか、リリーは
「子どもがお金の心配なんてしないの」
と笑ってみせた。
案の定、フリーはギクリと肩を揺らす。
「ダメになっちゃったガラス玉も、また買いに行きましょうね」
リリーが微笑んで言うと、フリーもようやく明るい表情を見せた。
「う、うんっ!!」

金色の瞳から、ぽろっと涙が零れる。
「あれ?」
(わぁぁっ、安心したら涙腺が!!)
フリーが、恥ずかしさから慌てて母に背を向ける。

リリーは、そんなフリーの顔を見ないように背中側から肩を抱きよせる。
「リルを守ってくれたのね。ありがとう……」
感謝を込めて、リリーはフリーの頭を撫でた。
「う、うん、リルは私の弟だしねっ」
フリーが、照れ隠しからか、小さいしねっ。鈍臭いしねっ。と言葉を足していくのを、リリーは苦笑しながら聞く。

弟。と言う言葉に、リリーは先ほどまで顔を合わせていた、自身の弟の姿を思い浮かべる。
リリーと同じ淡い金髪を短く整え、両サイドの髪を後ろに撫でつけた清潔感のあるスタイルの、リリーの双子の弟。
彼は、まだ若くはあったが、今では立派にこの村を治める長だった。


リリーはあの後、リルが怪我をさせたという子とその友達の両親達に囲まれていた。
言われるのは至極もっともなことばかりで、リリーはただ、彼らの言い分に頭を下げる他なかった。

「皆さん、この一件は私に預けていただけませんか?」
そこに現れたのが、弟だった。
「まあ……村長がそう仰るのなら……」
と村人達は、まだ憤りを抱えつつも、渋々リリーを解放した。

感謝の言葉とともに「人徳があるのね」と声をかけると、弟は「まあ、それなりに」と返した。
「治癒術者の手配をしてきたら、こっちが遅くなっちゃったな。ごめん、姉さん」
そう苦笑する弟は昔のままのようにも見えたが、やはり彼は、立派な村の長となっていた。

「それで……、リルの事なんだけど」
こちらに背を向けて話し出す弟に、リリーは覚悟を決めながら相槌を打つ。
「ええ……」
「俺が庇ってやれるのも、もう……限界なんだ……」
弟は、苦しげに、絞り出すようにして告げる。
「リルを……村から出してもらえないか?」
彼もきっと、こんな事を言いたくはないのだろうと思うと、リリーには何も言い返せない。
言葉に詰まる姉へ、弟は慰めるように囁いた。
「すぐにとは言わない……が、前向きに考えてほしい」
リリーはしばらくの沈黙の後
「……分かったわ……」
と返事をした。


「お母さん」
フリーの声に、リリーはハッとする。
「……いつまで撫でてくれるの?」
フリーはまだ、あのまま大人しくリリーに頭を撫でられていた。
「フリーがハゲるまで?」
思わず誤魔化すと、フリーは慌てて後退り「ハゲてたまるかぁぁっ」と突っ込んだ。

リリーは思う。

フリーは、リルと離れられるのかしら……。
ずっと一緒だった二人を引き離した時、二人がどうなるのかが、リリーには未だ読みきれなかった。

リルは、あの人と二人で生活していけるのかしら……。
あの、のんびりのほほんとした子が、果たしてあの短気な人と二人きりで生活できるのか、これもリリーには僅かに不安だった。

ここに今、あの人が居てくれれば……。と。
今まで何度繰り返したかも分からない思いと共に、リリーは檜皮色の髪と目をした頼れる夫の名を、胸の内で呼ぶ。

(クザン……)
翌日、フリーは村の端にある小さな診療所に居た。
そこにリルと母の姿は無い。

「はい、そこに手を入れてー」
「……はーい……」
リルとフリーが小さい頃から通っているこの診療所には、キツイ印象の女医が一人いるきりだった。
青みがかった黒髪を肩につかない程度に切り揃えたツリ目の医者に言われて、フリーが嫌そうに治療器へと手を入れる。
(うぅ……、この感じ、嫌なんだよねー……)
診療所の机に備え付けられた治療器は、内部に取り付けられた石同士が反応し、治癒術とほぼ同様の光を溢れさせている。
(手の皮が……ゾワゾワする……)
じわじわと傷口の肉や皮が動き、肉同士を繋ぎ合う感覚に、フリーが顔を引き攣らせていると、医者は手のひら大の浅い容器にいくつかのガラス片を並べて持ってきた。
「ほら、ガラス片がまだ残ってたわよ。血管に入ったりすれば、心臓に流れる事だってあるんだからね?」
じりっと詰め寄られて、フリーは引き攣った笑いを浮かべた。
「次は絶対、すぐに、病院に来ること!! いいね!?」
片手を治療器に入れているため、それ以上下がりようがないフリーが、ガラス片を眼前に突きつけられて冷や汗を浮かべつつ答える。
「は、はーい……」
「全く、この間もすぐ病院に来るように念を押したのに、あんな大きな傷、痕が残ったらどうするの。フリーは女の子なんだから、もっと体を大事に……」
「先生ー、温熱終わりましたー」
その声に、他の患者がいてくれて助かったと、フリーはホッとする。
「はいはーい」
と医者は返事をしつつ、小さくひとつ舌打ちを残して去った。
心配してくれるのは有難かったが、長すぎるお説教は勘弁してほしい。

フリーは、不思議な光を放つ治療器に視線を落とす。
今頃リルは、母と共に能力測定中のはずだ。
上手くいってるかな……。
と、フリーはリル達に思いを馳せた。

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「この石に両手をあてて、いいと言うまで離さないようにな」
「は、はい」
封具屋では、髭の店主が風呂敷包の中から取り出したひと抱えほどの丸い石に、リルが言われるままに手を添えたところだった。
ツヤツヤと言うわけではないが、なだらかなフォルムのその石は、触れるとひんやりとしていた。
石がごく僅かに振動する音が、ブウウウンと低く耳に届く。

(うわ……どんどん冷たくなってくる……)

石は低く唸り続け、急速に身体中の熱を吸い取られてゆく感覚に、背筋がぞくりと震える。

(なんか……怖い……)

「お、お母さん……」
恐怖から、母に助けを求めるが、母はいつも通りに笑って答えた。
「大丈夫よ、リルの持っている力がどのくらいあるか量っているだけだから。
 痛くも痒くもないでしょ?」

「う、うん……」

痛かったり痒かったりはしないけど……。

何か……。

……何か……。



出てきちゃ、いけない、ものが……。


リルの中にチリっと小さな何かが揺らめいた。

心臓の音が、やけに大きく響いている。


小さな何かは、青白く光っている。

(何……だろう……)

ふわりと揺れると、それは一瞬で大きく広がった。

(これは………………炎……?)



リリーが先に異変に気付く。
けれど、それは既に手遅れだった。

ゴウッとリルを中心に熱気が部屋を包む。

さっきまで冷たくて仕方なかった石が、焼けるほどに熱い。
低かった振動音も今は耳を刺すほどに甲高く、ギィィィィとその限界を告げていた。

「容量超過だ! 石から手を離せ!!」
髭の店主が太い声で叫ぶ。

(手を……。石から……。離さな……きゃ……)

リルはその言葉を確かに耳にする。しかし体が動かない。
息は上がり、苦しいのに、この体は自分のものじゃないように、まるで動こうとしなかった。

「聞いてるのか!? 手を……!!」
「危ない!!」
リルの肩を掴もうとした店主へ、リリーが飛び付いた。
ドサっと二人一緒に床に倒れて、店主は叫ぶ。
「な……何を……!?」
「今あの子に触れたら、融けてしまいます!」
言い切られ、店主は息を呑んだ。
焼けるのではなく、融けると彼女は言った。
それは一体、どれだけ高位の炎なのか。

鬼火で実現できる温度ではないはずだ。
この少年は、鬼との子ではなかったのか!?

店主が思い巡らす間にも、店内のあらゆるものが、熱に巻かれ、熱気に煽られめちゃくちゃになってゆく。

「リル!! 石を離して!!」

ぼんやりと開かれたままのリルの瞳は、すでに光を失っていた。
リリーの必死の叫びは、もうリルの耳に届いていない。

「リル!!!!」

ピシッと石に亀裂が入る。
次の瞬間、石は大きく弾けて粉々になった。

支えを失って、リルはそのまま後ろに倒れる。
ドサッという音の前に、ゴッと強かに頭を打つ音がした。

リリーは、慎重にリルへ触れる。

「……気を失っているだけみたいね……」
汗にまみれたリルの額に張り付いた、薄茶色の髪をそっと剥がす。
リルはほんの少し眉を寄せて、疲れた顔で眠っていた。

「ふぅ……。危うく店ごと潰されるところだったな……」
髭の店主は、パタパタとエプロン状の作業着の前を叩きながら、息を吐いた。
「すみません……」
「いやいや……。しかし、計測岩塊を割ってしまう程となると、うちで手に入るもので封じ切れるかどうか……」
計測用の石は、もうその姿をどこにも残していなかった。
「そうですか……」
リリーの沈んだ声に、店主は苦笑を浮かべて振り返る。
「方々にあたってみよう。いつもお前さんの結界には世話になっているからな」
そう言って、店主は店の外を確認する。
植木も、看板も、店の外は少し前と寸分変わらぬ様子だった。
これだけの力を発揮させても、結界の外となる店外には全く影響が出ていない事に、店主は感嘆する。
この店の営業用結界を張ったのは、他でもないリリーだった。

「ただなぁ……、その……額が……」
店主は申し訳なさそうに、頭を掻きながら言う。
「ええ、それは分かっています。計測石の弁償もさせてください」
リルが手を当てていた石は、この店で一番大きい、普段は棚の奥に仕舞われているような代物だったが、それですら、リルの力には耐えきれなかった。
「ああ、助かるよ」
「いえ、ご迷惑をおかけしました」
「封石の目処がつき次第連絡しよう」
「お願いします……」
酷く荒れた店内で、そんな会話をして、リリーはリルを背負い、店を出た。

生まれてから十四年を経てもまだ、リルの身体は、細いリリーの背にすっぽりと収まるサイズだった。

リリーはそんなリルを振り返る、背中ですぅすぅと眠る我が子は、思っていたよりも、ずっと軽く、小さく思える。

この小さな温もりを、そう遠くないうちに手放す事になる。
リリーはもう、それを分かっていた……。

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黒い煙が、もうもうと立ち上る。
炎は今、譲原の眠る棺を包んでいた。

葛原は、父を見送りながら、燃え上がる炎に誓いを立てる。

(父上……。喪が明けたらすぐにでも、菰野をそちらへ逝かせます。
 楽しみにしていてください……)


その森は、今日も耳が痛いくらいに静まり返っていた。
生き物の気配の無いそこは、こんな風に風のない日には木々の揺れる音もなく、自身の草を踏み分ける音と、衣擦れの音、呼吸と心臓の音までもがはっきり聞こえた。

菰野は、木々の隙間から陽の位置を見る。
太陽は真上に近く、彼女との待ち合わせにはまだ早かった。

(ここは、本当に静かだ……)

菰野は倒木の幹にもたれるように座り込むと、自身の膝を抱き抱えた。

(昨日までの事が、全て……。
 夢だったんじゃないかと、思えるほどに……)

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窓の外をチラチラ見ていたフリーが、布を手に、やおら立ち上がる。
「お母さーん。私、散歩してくるねー」
声をかけられ、リリーが振り返った。
「はいはい。気を付けてね」
「明日はビーズ買いに行こうねっ」
リルも気付いて、玄関に向かうフリーをリリーと共に見送る。
「行ってきまーすっ」
「あんまり遅くならないようにね」
ウキウキと楽しそうなその背に、リルも「いってらっしゃーい」と声をかけた。

(いつも、あの布持って行くなぁ……)
と、リルが窓から遠ざかるフリーの背を眺めていると、リリーが声をかける。
「リルも行くんでしょ?」
「うん、もうちょっとしたら出るー」
問われて、少年は笑顔で答えた。
そんなリルを、母はじっと見る。
リルはフリーと同じように、生き生きと瞳を輝かせていた。
「そして、毎回フリーよりちょっと早く帰ってくるのよね……」
「フ、フリーには内緒だよっ?」
慌てる様子のリルに、リリーは細い眉を少しだけ寄せると、苦笑を浮かべて答えた。
「はいはい……。危ないことしないのよ?」
「はーいっ」

素直に答えるリルには『危ないこと』など微塵もするつもりがない。
それを感じ取って、リリーは何とも言えない気持ちになった。

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フリーは流れる小川に自身の背を映しながら「うーん……」と呟く。
「羽、大分伸びてきちゃったなぁ……」
川には、羽が隠れるように、服と肌の間に布を挟み入れた自身の姿が映っていた。
「そろそろ布だけじゃ誤魔化せないかも……。小さめに切る方がいいかなぁ? でも男の子っぽいのも嫌なんだよねー……」
呟きながらも、フリーは菰野との待ち合わせ場所へと向かう。
触角も後ろ側で髪と共にリボンで纏められていたが、耳はやはり髪こそ前に出してあるものの、そのままだった。
どうやら、まだ髪だけでは隠し切れていないことに気付いていないようだ。
「あ、リルにフード付きのケープ借りたらいいかも? あれなら羽のスリットも入ってないし……」
茂みを抜けると、少し視界が開ける。
待ち合わせ場所である倒木の向こうに、優しい栗色の髪がのぞいていた。
(あ、菰野もう来てる。私の方が早いかと思ったのに……)
フリーは、結局家で待ちきれず、約束の時間よりも早く来ていた。
「早かったね、菰野。お待た…………せ……!?」
菰野は、膝を抱え込んだ姿勢のまま眠っていた。

フリーは菰野を見つめる。
菰野は、疲れ切った顔をしていた。
よく見れば、目の下にはクマのようなものまで浮かんでいる。
眉もじわりと苦しげに寄せられており、普段の柔らかい印象とはまるで違う様子の少年に、フリーは思わず息を詰めた。

(起きるまで待ってようっと……)
とても起こせそうにない寝顔に、フリーは会話を諦めると隣に座った。
「……ーーっ」
ほんの少し、掠れた声のようなものが聞こえてた気がして、フリーはもう一度菰野を見る。

菰野の閉じられた瞼の隙間から、涙が一雫、静かに零れた。
(涙……)
音もなく、ゆっくりと頬を伝うその一粒を、フリーは思わず指で拭う。
(菰野……何があったの……?)

少年の肌は、思うよりずっと柔らかかった。
それ以上涙が溢れてこない様子に、フリーはホッとする。

と、一瞬遅れて真っ赤になった。
(って拭く必要ないから!! 全っ然ないから!!!)
フリーは、思わず取ってしまった自分の行動に驚きながら、涙を拭いた右手を握り締める。

フリーが恥ずかしさからバタバタと慌てても、菰野は変わらず、苦し気に眉を寄せたまま眠っていた。

フリーはそんな少年の横顔を見つめる。
(起きたら話してくれるかな……。
 あんまり、悲しい話じゃないといいんだけど……)
フリーは、いつも自分の話を聞いてくれる菰野が、どんな辛さを抱えて生きているのか、今まで全く知らなかったことに気付いた。

菰野はいつも明るくて、あたたかくて。
フリーの話を、いつも遮る事なく最後まで聞いてくれた。
尋ねればいくらでも、自分の失敗談とか、お供の人のおかしな話だとか、そんな話ばかりをしてくれた。
だから、フリーは思い込んでしまっていた。
この人はきっと恵まれた人で、いつも楽しく生きているのだろうと。

……どうしてそんな風に思っていたんだろう。
こんなに優しい人なのだから、私が嫌な気分にならないよう話題を選ぶなんてこと、しない方がおかしい。
こんな簡単なことに、どうして今まで、私は気付けなかったのか……。

まるで、自分ばかりが浮かれていたようで。
菰野を無理に付き合わせていたのかも知れないと思うと、フリーは心の奥が重くなった。

菰野が目を覚ましたら、今度は私が聞こう……。
……本当の、菰野の言葉を……。

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「うーん……」
リルは耳の後ろに手をあて、聞き耳を立てながら首を傾げた。
その様子に、久居は内心の焦りを隠し尋ねる。
「どうしました?」
「ええと……。二人とも、寝てるみたい?」
リルの不思議そうな声に、久居はホッとした。
「そうですか……」
一昨日は譲原の通夜だった。
一晩中起きていた菰野は、それでも日中の仕事をこなしていた。
何かしていないと余計に辛い様子の菰野を止め切れず、久居はいつも通りの鍛錬に付き合った。
けれど菰野は、心も身体も疲労していたにもかかわらず、昨夜もろくに眠れていない様だった。
菰野にとって、城以外に心安らげる場所があってくれた事を感謝しつつ、久居は答える。
「助かります……」
「助かるの?」
リルが不思議そうに、くりっと首を傾げる。
と、その後頭部には、特大のタンコブがあった。

「リ……リル、その大きなタンコブは、一体…………??」
「コブ?」
言われて、リルが自分の後ろ頭を撫でる。
「うわあっ、本当だー! 大きなタンコブーっ!!」
そんなリルに久居は思わず突っ込む。
「気付いていなかったのですか?」
「そういえば、昨日寝るとき上向くと頭が痛かったんだけど……。どこでぶつけたのかなぁ……」

久居はその様子を見ながら思う。
これだけ大きなコブができるほどの後頭部の強打ともなれば、場合によっては気を失った可能性もある、と。
「リル、昨日は何があったのですか?」
「えっとー、昨日はお母さんと封具屋さんに行ってー……、お店のおじさんに、石に手を当ててって言われてー……」
久居は封具屋という聞き慣れない単語を気にかけつつも、頷きを返す。
「けど、気付いたら家に帰ってて、……よく分かんないの……」
やはり。と久居は思った。
(しかし、こんな小さい子に、意識を失うほどの何が……)
リルは半ベソで、痛むらしいコブをつついている。
「うー……。触ると痛い……」
「触らないでおきましょうね」
久居は仕方なく突っ込んだ。
菰野の母である加野が、自室で倒れたのは、今から五年ほど前の事だった。
女官が慌ただしく城を駆けていた。
血を吐いて倒れたと、断片的に耳にして、菰野が母の部屋を目指して走り出す。
その背を久居は必死で追った。

「母様!! 母様っ!!」
「お止めください菰野様!!」
倒れた母に縋ろうとする菰野を、久居は全力で抑えた。
「離せ久居!」
「出来ません!」
加野には持病もなく、前日までに体調不良などは無かった。
「未知の伝染病である可能性もあるんです!」
久居はそう言ったが、おそらく毒殺であろうことは理解していた。
だからこそ、久居は菰野を加野に触れさせるわけにはいかなかった。
どこに毒物が残っているか、まだ分からない以上は。
「久居っ!!」
菰野の悲痛な叫びに、久居の奥歯がギリッと鳴った。
その音に、母ばかりを見つめていた菰野がはじめて久居を見る。
久居は目を伏せていたが、その横顔は今まで見たどの顔よりも苦し気に見えた。
「私は、どのように思われても構いません……」
菰野の視線に、久居が低く唸るように告げる。
「けれど、菰野様のお命だけは、この身に代えてもお守り致します」
「……久居……」
菰野は、そんな久居の姿に、母へ触れることは、今は叶わないのだと知る。

加野の部屋はしばらく代わる代わる訪れる人々で騒然としていたが、加野が運ばれたのは医務室ではなかった。
菰野の母は既に処置のしようもなく、事切れていた。

「……なぜ、母様は急に……?」
菰野の震えるような小さな声が、ざわめきの残る廊下に落ちる。
「昨日はあんなに……お元気でいらしたのに……」
誰一人居なくなった母の部屋の前に、菰野は立ち尽くしていた。
譲原皇からは、まだ室内への立ち入りは禁じられている。
久居は、慎重に言葉を選んで答えた。
「加野様が迷い込まれた山は、人が踏み入ることのできない山です……。
 私達の知らない毒を持った植物があったとしても、おかしくありません……」
「……毒……?」
不安を滲ませ聞き返す、菰野の声。
それに答えたのは、久居ではなかった。

「毒なんかじゃない」
現れたのは葛原だった。
彼の言葉に、遠くを通り過ぎようとしていた女官達も、足を止めこちらの様子を窺っている。
葛原は、いつから聞いていたのか、はっきりと強い言葉で続ける。
「加野伯母様は、神の山を侵し……妖精まで目にしてしまったそうじゃないか」
菰野はおずおずと振り返り、久居はその場に膝を付く。
「これは妖精の呪いだよ」
敬愛する義兄の言葉に、葛原を見上げる菰野の顔がじわりと青ざめる。
「妖精の……呪い……?」
「さあ、分かったらもう部屋に帰るんだ。菰野まで呪われてしまうよ?」
葛原は優しげに言いながら、宥めるように菰野の頭を撫でる。
「は……はい……」
身長差もあり、菰野から葛原の顔は見えなかったが、葛原の口端が大きく歪むのを、久居だけが目にした。

それまでずっと菰野に優しかった葛原が、徐々に態度を変えていったのは、あの時からだったのかも知れない……。と久居は振り返る。

葛原は、その後も加野の件に関して妖精の呪いという見解を示し、譲原皇が発言を控えたこともあってか、城の者達はすっかり加野の死を妖精の呪いだと信じたようだった。


「久居ー、準備できたよー」
リルに呼ばれて、久居はそちらを振り返る。
リルは、かき集めた土を盛り上げて、その山のてっぺんに棒を一本刺したものの前にしゃがみ込んでいた。
手招きをされて、久居もリルに向かい合うように山の前にしゃがむ。
「リルからどうぞ」
促されて、リルは両手でざっくりと山から土を取り除ける。
どうやら二人は棒倒しを始めたようだ。

久居は土を除けながらも、考える。
加野の死因が分からない以上、いずれはそうなっていたのだろうが、それにしても葛原の発言は決定的だった。と。
(やはり……、菰野様がこの山に近付くのは、自殺行為ですね……)

「久居、どうしたの?」
土を除けたまま手を止めていた久居に、リルが心配そうに声をかける。
「いえ、何でもありませんよ」
久居は、いつも通りに微笑んで答えた。
偽りの言葉にホッとした様子で、またウキウキと土を除けるリル。
嬉しそうな表情に、久居は胸の奥が軋んだ。

……自分でも気付かないうちに、自分をまっすぐ慕ってくれるリルに、弟の面影を重ねてしまっていたのだろうか……。

命に代えても、菰野を守り抜くと誓ったはずなのに……。
自身の甘さが、今も菰野を危機にさらし続けているという事実を、久居はもう一度噛み締めた。

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一方で菰野は、深く暗い夢の中にいた。
どんなに目が慣れてもそこは薄暗く、右も左も分からない。
何もない場所を、少年は手探りで彷徨っていた。
その姿は、今よりも五つほど幼く見える。

手足に纏わりつくような重苦しい空気の中、少年は母を探して駆けていた。
「母様……。母様、どちらですか……?」
不意に何か柔らかいものを踏んで、それが自身の探していた母だと気付く。
「母様!」
床に倒れた母は、血溜まりに沈んでいた。
「しっかりしてくださいっ! 母様! 一体何があったのですか!!」
菰野の声に、母はピクリと指先を動かす。
「母様!!」
悲痛な菰野の叫びに応えるようにして、母は、緩慢に血溜まりから顔を上げる。
どろりと血のしたたり落ちる、血塗れの顔を。
ゆっくりと口を開いた母は、溢れる赤いものとともに、ごぼりと囁いた。

「……妖精の……呪いよ……」

衝撃に、菰野は目覚めた。
心臓が激しく跳ね、息が詰まる。
夢だったのだと気付いた途端、全身から汗がどっと噴き出した。

ふと、自身に触れる体温に視線を振れば、菰野の肩に寄りかかるようにして、フリーが寝息をたてていた。

菰野の肩が大きく揺れる。
至近距離のフリーの顔は、あんな夢の直後に見るには刺激が強すぎた。
思わず全身に入ってしまった力を、意識的に抜きながら、菰野は空を見上げる。
陽はもう随分と動いていた。

菰野は心を落ち着けながら、もう一度フリーの顔を見る。
フリーは菰野の肩に頬を寄せて、静かに寝息を立てている。
彼女が寝てしまったのは、自分が寝ていたせいだろう。

(……起こさないで、待っててくれたんだ……)

彼女がひとりで、自分の隣で、待ちくたびれて寝てしまった事を思い、じわりと解れかけた心を、さっきの夢の光景が上から暗く塗り潰す。
妖精の呪いだと囁く母の言葉が、耳の奥で繰り返されて、菰野はたまらず悪寒に背を震わせた。
それを振り切るように、力一杯、頭を振る。

(そんな事あるわけない!)

フリーは、すっかり気を許した寝顔を菰野に見せている。
そんな妖精の姿を、菰野はもう一度見つめると、心の中で強く叫ぶ。

(そんな事……絶対……あるものか!!)

菰野の激情にあてられたのか、フリーが小さく身じろぐ。
もにょもにょと眠そうに顔を動かして、フリーは目を開いた。
その僅かな間に、可能な限り、菰野は心を整える。
「おはよう。待たせちゃったね、ごめん」
柔らかく声をかけられて、フリーは自分が寝てしまっていたことに気付く。
「あ、ううん。私こそ寝ちゃったみたいで、ごめんね……」
フリーは焦りつつ答える。
顔を上げると、菰野は、いつものように静かに微笑んでいた。

さっきは確かに、苦しそうな顔をして眠っていたのに。とフリーは思う。
フリーと目が合うと、菰野はまた、ふわりと微笑んだ。

やはりそうだ。とフリーは確信する。
この人は、たとえ辛いことがあっても、その直後でも、笑える人なんだ……。
そう気付くと、目の前のこの笑顔さえ、どこか辛そうに思える。
ううん。きっと、本当に、辛いんだろう。
理由はまだ分からないけれど、眠れないほどの何かがあったのは、間違いないのだから。

フリーは、しっかりと息を吸う。
彼の心の芯に、自分の声を届けるために。
「……菰野、何があったの?」
栗色の瞳を、金色の瞳が真っ直ぐ見つめている。
フリーの言葉に貫かれ、菰野は思わず小さな声を漏らした。
「え……」
その声は、いつもよりも掠れて聞こえた。


----------


(菰野を育ててくれた、叔父さんかぁ……)
フリーは、手を動かしながら数日前の会話を思い浮かべていた。
(どんな人だったのかな……)
と、手元でブチッという音とともに、何かが千切れる感触が伝わる。
「あ゛」
やっと半分まで編めていた帯飾りは、結んだばかりの紐の付け根から引き千切られていた。
「うわぁぁぁんっ! またちぎれたぁぁぁ!!」
「力任せに引っ張るからよ……」
頭を抱えて絶叫する娘の手元を覗き込みながら、リリーがため息と共に告げる。
「リルはあんなに綺麗に細工編みできるようになったのにねぇ」
言われて、机の反対側で編んでいる弟にフリーが目をやると、リルは既に三十センチ以上はありそうな紐を、まだ編み続けていた。
「って、そんなに長く編んでどうするのよ!!」
「えっと……、紐を作ろうかなーって……」
なぜか、はにかむように答えるリルに、フリーはがっくりと肩を落とす。
「紐って……。そのまんまだ……」

フリーは自分の席に戻ると、千切れてしまった帯飾りから、ガラス玉を一つずつ取り出して、また並べる。
別れ際に、菰野は言った。
『服喪が30日あるから、また来月のこの日に、ここで会おうね』と。
30日も会えないのかとフリーはショックだったが、それでも、こうまで自分が不器用だったと知った今、時間はたっぷりあって良かったようにも思える。
(次会うまでには、絶対完成させてみせるんだからっ!!)
フリーが、決意も新たに力一杯拳を握り締める。
「わー……フリーがやる気満々だ……」
リルが、隣で燃え上がるフリーの決意に、身の危険を感じて後退る中、フリーは何十回目かになる編み直しを始める。

(待っててね、菰野!!)
紐は、その身に余るほどの気持ちを込められ、力一杯引かれた途端に勢いよく千切れ飛んだ。
「あ゛っ!」

Evasion ◇ 竜の背に乗り世界を駆ける、刀と蒼炎揺らめく和洋折衷『妖』幻想譚

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