Evasion ◇ 竜の背に乗り世界を駆ける、刀と蒼炎揺らめく和洋折衷『妖』幻想譚



その森は、今日も耳が痛いくらいに静まり返っていた。
生き物の気配の無いそこは、こんな風に風のない日には木々の揺れる音もなく、自身の草を踏み分ける音と、衣擦れの音、呼吸と心臓の音までもがはっきり聞こえた。

菰野は、木々の隙間から陽の位置を見る。
太陽は真上に近く、彼女との待ち合わせにはまだ早かった。

(ここは、本当に静かだ……)

菰野は倒木の幹にもたれるように座り込むと、自身の膝を抱き抱えた。

(昨日までの事が、全て……。
 夢だったんじゃないかと、思えるほどに……)

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窓の外をチラチラ見ていたフリーが、布を手に、やおら立ち上がる。
「お母さーん。私、散歩してくるねー」
声をかけられ、リリーが振り返った。
「はいはい。気を付けてね」
「明日はビーズ買いに行こうねっ」
リルも気付いて、玄関に向かうフリーをリリーと共に見送る。
「行ってきまーすっ」
「あんまり遅くならないようにね」
ウキウキと楽しそうなその背に、リルも「いってらっしゃーい」と声をかけた。

(いつも、あの布持って行くなぁ……)
と、リルが窓から遠ざかるフリーの背を眺めていると、リリーが声をかける。
「リルも行くんでしょ?」
「うん、もうちょっとしたら出るー」
問われて、少年は笑顔で答えた。
そんなリルを、母はじっと見る。
リルはフリーと同じように、生き生きと瞳を輝かせていた。
「そして、毎回フリーよりちょっと早く帰ってくるのよね……」
「フ、フリーには内緒だよっ?」
慌てる様子のリルに、リリーは細い眉を少しだけ寄せると、苦笑を浮かべて答えた。
「はいはい……。危ないことしないのよ?」
「はーいっ」

素直に答えるリルには『危ないこと』など微塵もするつもりがない。
それを感じ取って、リリーは何とも言えない気持ちになった。

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フリーは流れる小川に自身の背を映しながら「うーん……」と呟く。
「羽、大分伸びてきちゃったなぁ……」
川には、羽が隠れるように、服と肌の間に布を挟み入れた自身の姿が映っていた。
「そろそろ布だけじゃ誤魔化せないかも……。小さめに切る方がいいかなぁ? でも男の子っぽいのも嫌なんだよねー……」
呟きながらも、フリーは菰野との待ち合わせ場所へと向かう。
触角も後ろ側で髪と共にリボンで纏められていたが、耳はやはり髪こそ前に出してあるものの、そのままだった。
どうやら、まだ髪だけでは隠し切れていないことに気付いていないようだ。
「あ、リルにフード付きのケープ借りたらいいかも? あれなら羽のスリットも入ってないし……」
茂みを抜けると、少し視界が開ける。
待ち合わせ場所である倒木の向こうに、優しい栗色の髪がのぞいていた。
(あ、菰野もう来てる。私の方が早いかと思ったのに……)
フリーは、結局家で待ちきれず、約束の時間よりも早く来ていた。
「早かったね、菰野。お待た…………せ……!?」
菰野は、膝を抱え込んだ姿勢のまま眠っていた。

フリーは菰野を見つめる。
菰野は、疲れ切った顔をしていた。
よく見れば、目の下にはクマのようなものまで浮かんでいる。
眉もじわりと苦しげに寄せられており、普段の柔らかい印象とはまるで違う様子の少年に、フリーは思わず息を詰めた。

(起きるまで待ってようっと……)
とても起こせそうにない寝顔に、フリーは会話を諦めると隣に座った。
「……ーーっ」
ほんの少し、掠れた声のようなものが聞こえてた気がして、フリーはもう一度菰野を見る。

菰野の閉じられた瞼の隙間から、涙が一雫、静かに零れた。
(涙……)
音もなく、ゆっくりと頬を伝うその一粒を、フリーは思わず指で拭う。
(菰野……何があったの……?)

少年の肌は、思うよりずっと柔らかかった。
それ以上涙が溢れてこない様子に、フリーはホッとする。

と、一瞬遅れて真っ赤になった。
(って拭く必要ないから!! 全っ然ないから!!!)
フリーは、思わず取ってしまった自分の行動に驚きながら、涙を拭いた右手を握り締める。

フリーが恥ずかしさからバタバタと慌てても、菰野は変わらず、苦し気に眉を寄せたまま眠っていた。

フリーはそんな少年の横顔を見つめる。
(起きたら話してくれるかな……。
 あんまり、悲しい話じゃないといいんだけど……)
フリーは、いつも自分の話を聞いてくれる菰野が、どんな辛さを抱えて生きているのか、今まで全く知らなかったことに気付いた。

菰野はいつも明るくて、あたたかくて。
フリーの話を、いつも遮る事なく最後まで聞いてくれた。
尋ねればいくらでも、自分の失敗談とか、お供の人のおかしな話だとか、そんな話ばかりをしてくれた。
だから、フリーは思い込んでしまっていた。
この人はきっと恵まれた人で、いつも楽しく生きているのだろうと。

……どうしてそんな風に思っていたんだろう。
こんなに優しい人なのだから、私が嫌な気分にならないよう話題を選ぶなんてこと、しない方がおかしい。
こんな簡単なことに、どうして今まで、私は気付けなかったのか……。

まるで、自分ばかりが浮かれていたようで。
菰野を無理に付き合わせていたのかも知れないと思うと、フリーは心の奥が重くなった。

菰野が目を覚ましたら、今度は私が聞こう……。
……本当の、菰野の言葉を……。

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「うーん……」
リルは耳の後ろに手をあて、聞き耳を立てながら首を傾げた。
その様子に、久居は内心の焦りを隠し尋ねる。
「どうしました?」
「ええと……。二人とも、寝てるみたい?」
リルの不思議そうな声に、久居はホッとした。
「そうですか……」
一昨日は譲原の通夜だった。
一晩中起きていた菰野は、それでも日中の仕事をこなしていた。
何かしていないと余計に辛い様子の菰野を止め切れず、久居はいつも通りの鍛錬に付き合った。
けれど菰野は、心も身体も疲労していたにもかかわらず、昨夜もろくに眠れていない様だった。
菰野にとって、城以外に心安らげる場所があってくれた事を感謝しつつ、久居は答える。
「助かります……」
「助かるの?」
リルが不思議そうに、くりっと首を傾げる。
と、その後頭部には、特大のタンコブがあった。

「リ……リル、その大きなタンコブは、一体…………??」
「コブ?」
言われて、リルが自分の後ろ頭を撫でる。
「うわあっ、本当だー! 大きなタンコブーっ!!」
そんなリルに久居は思わず突っ込む。
「気付いていなかったのですか?」
「そういえば、昨日寝るとき上向くと頭が痛かったんだけど……。どこでぶつけたのかなぁ……」

久居はその様子を見ながら思う。
これだけ大きなコブができるほどの後頭部の強打ともなれば、場合によっては気を失った可能性もある、と。
「リル、昨日は何があったのですか?」
「えっとー、昨日はお母さんと封具屋さんに行ってー……、お店のおじさんに、石に手を当ててって言われてー……」
久居は封具屋という聞き慣れない単語を気にかけつつも、頷きを返す。
「けど、気付いたら家に帰ってて、……よく分かんないの……」
やはり。と久居は思った。
(しかし、こんな小さい子に、意識を失うほどの何が……)
リルは半ベソで、痛むらしいコブをつついている。
「うー……。触ると痛い……」
「触らないでおきましょうね」
久居は仕方なく突っ込んだ。
菰野の母である加野が、自室で倒れたのは、今から五年ほど前の事だった。
女官が慌ただしく城を駆けていた。
血を吐いて倒れたと、断片的に耳にして、菰野が母の部屋を目指して走り出す。
その背を久居は必死で追った。

「母様!! 母様っ!!」
「お止めください菰野様!!」
倒れた母に縋ろうとする菰野を、久居は全力で抑えた。
「離せ久居!」
「出来ません!」
加野には持病もなく、前日までに体調不良などは無かった。
「未知の伝染病である可能性もあるんです!」
久居はそう言ったが、おそらく毒殺であろうことは理解していた。
だからこそ、久居は菰野を加野に触れさせるわけにはいかなかった。
どこに毒物が残っているか、まだ分からない以上は。
「久居っ!!」
菰野の悲痛な叫びに、久居の奥歯がギリッと鳴った。
その音に、母ばかりを見つめていた菰野がはじめて久居を見る。
久居は目を伏せていたが、その横顔は今まで見たどの顔よりも苦し気に見えた。
「私は、どのように思われても構いません……」
菰野の視線に、久居が低く唸るように告げる。
「けれど、菰野様のお命だけは、この身に代えてもお守り致します」
「……久居……」
菰野は、そんな久居の姿に、母へ触れることは、今は叶わないのだと知る。

加野の部屋はしばらく代わる代わる訪れる人々で騒然としていたが、加野が運ばれたのは医務室ではなかった。
菰野の母は既に処置のしようもなく、事切れていた。

「……なぜ、母様は急に……?」
菰野の震えるような小さな声が、ざわめきの残る廊下に落ちる。
「昨日はあんなに……お元気でいらしたのに……」
誰一人居なくなった母の部屋の前に、菰野は立ち尽くしていた。
譲原皇からは、まだ室内への立ち入りは禁じられている。
久居は、慎重に言葉を選んで答えた。
「加野様が迷い込まれた山は、人が踏み入ることのできない山です……。
 私達の知らない毒を持った植物があったとしても、おかしくありません……」
「……毒……?」
不安を滲ませ聞き返す、菰野の声。
それに答えたのは、久居ではなかった。

「毒なんかじゃない」
現れたのは葛原だった。
彼の言葉に、遠くを通り過ぎようとしていた女官達も、足を止めこちらの様子を窺っている。
葛原は、いつから聞いていたのか、はっきりと強い言葉で続ける。
「加野伯母様は、神の山を侵し……妖精まで目にしてしまったそうじゃないか」
菰野はおずおずと振り返り、久居はその場に膝を付く。
「これは妖精の呪いだよ」
敬愛する義兄の言葉に、葛原を見上げる菰野の顔がじわりと青ざめる。
「妖精の……呪い……?」
「さあ、分かったらもう部屋に帰るんだ。菰野まで呪われてしまうよ?」
葛原は優しげに言いながら、宥めるように菰野の頭を撫でる。
「は……はい……」
身長差もあり、菰野から葛原の顔は見えなかったが、葛原の口端が大きく歪むのを、久居だけが目にした。

それまでずっと菰野に優しかった葛原が、徐々に態度を変えていったのは、あの時からだったのかも知れない……。と久居は振り返る。

葛原は、その後も加野の件に関して妖精の呪いという見解を示し、譲原皇が発言を控えたこともあってか、城の者達はすっかり加野の死を妖精の呪いだと信じたようだった。


「久居ー、準備できたよー」
リルに呼ばれて、久居はそちらを振り返る。
リルは、かき集めた土を盛り上げて、その山のてっぺんに棒を一本刺したものの前にしゃがみ込んでいた。
手招きをされて、久居もリルに向かい合うように山の前にしゃがむ。
「リルからどうぞ」
促されて、リルは両手でざっくりと山から土を取り除ける。
どうやら二人は棒倒しを始めたようだ。

久居は土を除けながらも、考える。
加野の死因が分からない以上、いずれはそうなっていたのだろうが、それにしても葛原の発言は決定的だった。と。
(やはり……、菰野様がこの山に近付くのは、自殺行為ですね……)

「久居、どうしたの?」
土を除けたまま手を止めていた久居に、リルが心配そうに声をかける。
「いえ、何でもありませんよ」
久居は、いつも通りに微笑んで答えた。
偽りの言葉にホッとした様子で、またウキウキと土を除けるリル。
嬉しそうな表情に、久居は胸の奥が軋んだ。

……自分でも気付かないうちに、自分をまっすぐ慕ってくれるリルに、弟の面影を重ねてしまっていたのだろうか……。

命に代えても、菰野を守り抜くと誓ったはずなのに……。
自身の甘さが、今も菰野を危機にさらし続けているという事実を、久居はもう一度噛み締めた。

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一方で菰野は、深く暗い夢の中にいた。
どんなに目が慣れてもそこは薄暗く、右も左も分からない。
何もない場所を、少年は手探りで彷徨っていた。
その姿は、今よりも五つほど幼く見える。

手足に纏わりつくような重苦しい空気の中、少年は母を探して駆けていた。
「母様……。母様、どちらですか……?」
不意に何か柔らかいものを踏んで、それが自身の探していた母だと気付く。
「母様!」
床に倒れた母は、血溜まりに沈んでいた。
「しっかりしてくださいっ! 母様! 一体何があったのですか!!」
菰野の声に、母はピクリと指先を動かす。
「母様!!」
悲痛な菰野の叫びに応えるようにして、母は、緩慢に血溜まりから顔を上げる。
どろりと血のしたたり落ちる、血塗れの顔を。
ゆっくりと口を開いた母は、溢れる赤いものとともに、ごぼりと囁いた。

「……妖精の……呪いよ……」

衝撃に、菰野は目覚めた。
心臓が激しく跳ね、息が詰まる。
夢だったのだと気付いた途端、全身から汗がどっと噴き出した。

ふと、自身に触れる体温に視線を振れば、菰野の肩に寄りかかるようにして、フリーが寝息をたてていた。

菰野の肩が大きく揺れる。
至近距離のフリーの顔は、あんな夢の直後に見るには刺激が強すぎた。
思わず全身に入ってしまった力を、意識的に抜きながら、菰野は空を見上げる。
陽はもう随分と動いていた。

菰野は心を落ち着けながら、もう一度フリーの顔を見る。
フリーは菰野の肩に頬を寄せて、静かに寝息を立てている。
彼女が寝てしまったのは、自分が寝ていたせいだろう。

(……起こさないで、待っててくれたんだ……)

彼女がひとりで、自分の隣で、待ちくたびれて寝てしまった事を思い、じわりと解れかけた心を、さっきの夢の光景が上から暗く塗り潰す。
妖精の呪いだと囁く母の言葉が、耳の奥で繰り返されて、菰野はたまらず悪寒に背を震わせた。
それを振り切るように、力一杯、頭を振る。

(そんな事あるわけない!)

フリーは、すっかり気を許した寝顔を菰野に見せている。
そんな妖精の姿を、菰野はもう一度見つめると、心の中で強く叫ぶ。

(そんな事……絶対……あるものか!!)

菰野の激情にあてられたのか、フリーが小さく身じろぐ。
もにょもにょと眠そうに顔を動かして、フリーは目を開いた。
その僅かな間に、可能な限り、菰野は心を整える。
「おはよう。待たせちゃったね、ごめん」
柔らかく声をかけられて、フリーは自分が寝てしまっていたことに気付く。
「あ、ううん。私こそ寝ちゃったみたいで、ごめんね……」
フリーは焦りつつ答える。
顔を上げると、菰野は、いつものように静かに微笑んでいた。

さっきは確かに、苦しそうな顔をして眠っていたのに。とフリーは思う。
フリーと目が合うと、菰野はまた、ふわりと微笑んだ。

やはりそうだ。とフリーは確信する。
この人は、たとえ辛いことがあっても、その直後でも、笑える人なんだ……。
そう気付くと、目の前のこの笑顔さえ、どこか辛そうに思える。
ううん。きっと、本当に、辛いんだろう。
理由はまだ分からないけれど、眠れないほどの何かがあったのは、間違いないのだから。

フリーは、しっかりと息を吸う。
彼の心の芯に、自分の声を届けるために。
「……菰野、何があったの?」
栗色の瞳を、金色の瞳が真っ直ぐ見つめている。
フリーの言葉に貫かれ、菰野は思わず小さな声を漏らした。
「え……」
その声は、いつもよりも掠れて聞こえた。


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(菰野を育ててくれた、叔父さんかぁ……)
フリーは、手を動かしながら数日前の会話を思い浮かべていた。
(どんな人だったのかな……)
と、手元でブチッという音とともに、何かが千切れる感触が伝わる。
「あ゛」
やっと半分まで編めていた帯飾りは、結んだばかりの紐の付け根から引き千切られていた。
「うわぁぁぁんっ! またちぎれたぁぁぁ!!」
「力任せに引っ張るからよ……」
頭を抱えて絶叫する娘の手元を覗き込みながら、リリーがため息と共に告げる。
「リルはあんなに綺麗に細工編みできるようになったのにねぇ」
言われて、机の反対側で編んでいる弟にフリーが目をやると、リルは既に三十センチ以上はありそうな紐を、まだ編み続けていた。
「って、そんなに長く編んでどうするのよ!!」
「えっと……、紐を作ろうかなーって……」
なぜか、はにかむように答えるリルに、フリーはがっくりと肩を落とす。
「紐って……。そのまんまだ……」

フリーは自分の席に戻ると、千切れてしまった帯飾りから、ガラス玉を一つずつ取り出して、また並べる。
別れ際に、菰野は言った。
『服喪が30日あるから、また来月のこの日に、ここで会おうね』と。
30日も会えないのかとフリーはショックだったが、それでも、こうまで自分が不器用だったと知った今、時間はたっぷりあって良かったようにも思える。
(次会うまでには、絶対完成させてみせるんだからっ!!)
フリーが、決意も新たに力一杯拳を握り締める。
「わー……フリーがやる気満々だ……」
リルが、隣で燃え上がるフリーの決意に、身の危険を感じて後退る中、フリーは何十回目かになる編み直しを始める。

(待っててね、菰野!!)
紐は、その身に余るほどの気持ちを込められ、力一杯引かれた途端に勢いよく千切れ飛んだ。
「あ゛っ!」
「こんにちは」
注文の品が入荷したとの連絡をもらって、リリーは仕事帰りに、封具屋を訪れていた。
扉の開閉に合わせて、カランとドアベルが軽い音を立てる。
「やあ、いらっしゃい。やっと手に入ったよ」
中では、口髭を蓄えた店主が、背を向けてごそごそと戸棚から品を取り出していた。
「これが……」
と振り返った店主の言葉がリリーを目にした途端、途切れる。
「お前さん……その髪は……」
言いにくそうに尋ねられて、リリーは努めて明るく微笑んだ。
「若く見えるでしょう?」
リリーの長く美しかった金色の髪は、すっかり短く、肩に付きそうにもない。
「……そうだな。二十歳でも通用しそうだ」
店主の気遣いに、リリーはクスッと笑って礼を言う。
「これが、坊主用の封印石だ」
店主が台の上に布包みを開くと、そこには小さなリルの手にもすっぽり収まるほどの大きさの、濃紺色をした石があった。
「あら、思ったより小さい石なのね」
「だが、力はお前さんが耳から下げているものよりずっと強力だ」
言われて、リリーが自分の耳に飾られている細長い雫型をした赤い石に触れる。
金色の留め具からぶら下がっている赤い石は、指先に当たると小さく揺れた。
「扱いには十分気をつけてくれ、下手をすれば厄介な事にもなりかねん代物だ」
釘を刺されて、リリーが答える。
「ええ、気をつけるわ」
手に取ってみたリル用の封印石は、リリーの親指と中指で輪を作ったほどの大きさで、厚みは指の半分程もなかった。
平行四辺形のような、ダイヤのような輪郭で、ぺたんとした形のそれは、鋭角の方に穴が開けてあり、皮紐が通され首に下げられるようになっていた。
濃紺色をしたそれには、まるで細かい細かい金と銀の粉がかけられたかのような煌めきが内包されている。
傷が入ると赤い跡が残るらしいその石を、リリーは傷付かぬよう丁寧に布で包み直して持ち帰った。


「ただいまー」
リリーの声に、リルがわくわくと駆け寄る。
「おかーさんっおかえりーっ! ボクの石どんなのだった?」
「はい、これよ」
布ごと手渡され、リルが両手を揃えて受け取る。
「わあっ! ありがとーっ」
母の顔を見上げて笑顔で礼を伝えたリルが、大きな疑問符を浮かべる。
「あれ……? 何か変……?」
「お母さんっ! その髪!! 切っちゃったの!?」
後ろからフリーの悲鳴に近い声があがって、リルはやっと気付いた。
「あ、髪が、短くなってたんだ」
ポンと手を叩くリル。
「ええ、若返ったでしょ?」
リリーが笑って答えると、リルもにっこり笑って返した。
「うんうんっ。おかーさん可愛いよーーっ」
そんなニコニコのリルの後ろでは、フリーが何ともいえない顔で同意する。
「う、うん……。とっても似合ってるよ……」

リリーはリルに石を無くさぬよう、とても力の強い石なので、扱いに気を付けるよう、繰り返し注意している。
「はーいっ」
と元気なリルの返事に、リリーはほんの少しの不安を残しつつも、それを任せた。

そんな二人を遠目に見ながら、フリーは思う。
母は、髪を売ってしまったのだと。
どんなに慌ただしい朝にだって、いつも綺麗に整えられていた、長く美しい金色の髪……。
ずっとずっと、母が手入れを欠かさず伸ばしていた髪が、こんなにあっさり、こんなに突然失われてしまった事に、フリーもまた、責任を感じていた。

部屋の隅でしょんぼりしているフリーに、リリーは気付く。
自分よりも明るい色をした、フリーの髪を撫でて、リリーは囁く。
「いいのよ、こういう時のために伸ばしていたんだから……」
「でも……」
納得のいかない様子で目を伏せる娘に、リリーは優しく伝える。
「ありがとうフリー、その気持ちだけで十分よ」

「つけてみたーっ! 似合うー? 似合うー?」
リルが首に濃紺の石を下げて、嬉しそうに部屋をくるくる回っている。
「あらあら、とっても素敵よ」
リルに答えて振り返る母の背に、フリーは決意と共に声をかけた。
「お母さんっ! 私も、もっと髪伸ばすっ! お母さんみたいに、なりたいから!!」
フリーは願う。
私も、母のように、大切な人を守れるようになりたい。と。
そのために役に立ちそうなことなら、何でもしておこう。
髪を伸ばすことも、手入れを欠かさないことも、いつか誰かの助けになるかも知れない。

そこへ、何も気付かないままのリルが不思議そうに声をかける。
「フリーが髪を伸ばしても、お母さんみたいなピカピカの金髪になるわけじゃないよ?」
確かに、フリーの髪はひたすら明るい黄色い髪で、淡い金色に深い輝きを持つリリーの髪に比べると、高貴さというか深みというか、そういうものが足りないと、フリーも自覚はしていた。

ゆらり。と姉の背後に怒気が揺らいで、失言に気付いたリルが慌てて背中を向ける。
瞬間、リルの両こめかみはフリーの拳に挟まれた。
「人が気にしてる事をっ!!!」
ぐりぐりと回転をかけつつ、拳がこめかみにめり込む。
「ぎゃぁぁあああああ!!」
リルの悲鳴が、村外れの小さな家に響いた。
それから数日後の、静かな静かな森の中。
「ってねー、フリーが怒るんだよー? 本当の事言っただけなのに……」
リルが、その時の事を、納得のいかない様子で訴えている。
「そうですか……」
話を聞いていた久居は、フリーが何に心を痛めたのかが理解できた。
(それは、おそらく……)
考えつつも、久居が後ろ手で自身の髪を括り終えると、リルがぱあっと破顔する。
「できた!?」
その期待に満ち満ちた表情に、久居は少し照れながらもそれを披露した。
「はい、一応できましたが……、こんな感じで良いのでしょうか……」
久居の髪は、いつものように後ろの高い位置でひとつにまとめられていたが、よく見れば、リルが丁寧に編んでいた長い飾り紐で括られている。
紐の端には小さなガラスビーズが二つずつ通っていたが、目立つほどの物ではなかった。
一応、久居が城勤めの最中でも身につけていられるよう、リルなりに考えての事だったようだ。
「装飾品など初めてなもので、よく分からないのですが……」
「久居、とっても似合ってるよっ!」
リルの嬉しそうな声に、久居の胸は締め付けられる。
「ありがとうございます……リル……。……一生大切にしますね……」
「え? それはちょっと大袈裟な気が……」
久居が、口の中で小さく小さく付け足した言葉は、リルには十分聞こえてしまったらしい。
リルの胸元では、濃紺色の石が揺れてキラリと光を返す。
久居はほんの少し躊躇ってから、口を開いた。
「リル……」
「うん?」
もうここへは二度と来ないと、今日、彼に伝えるならば、これは今伝えなければならないはずだ。
そう自身を説得して、久居は切り出す。
「リルの周りの方が黙っている事を、私が言うのもどうかと思ったのですが……」
久居の言葉は、リルへと静かに降り注ぐ。
「その石は、これからずっとリルの物なのですから、その代償が何であったのか、知っておくべきではないでしょうか……」
「うん……?」
リルは、胸元に下がっている石を手に取る。
どこにも角の無い、ぺたんとした石。
「おそらく……の話ですが、その石はお母様の髪と引き換えに手に入れたもので……」
そこではじめて、リルの顔色が変わる。
「フリーさんはその事に気付いていたようですね……」
リルは手の中に収まるひんやりとした石を握りしめる。
その石は、リルの手にしっくり馴染んだ。
「そ……そう……なの……?」
俯くリルに、久居は目を伏せて「おそらく……」と答える。
「え……じゃあ、ボクの封具を作らなければ……お母さんの髪は、今も長いままだったんだね……」
しゅん……と凹んでしまったきり顔を上げないリルに、久居が責任を感じて、おずおずと手を伸ばす。
初めて会った頃よりも、少し伸びてきたリルの後ろ髪は、襟を通り越し、肩へとかかっている。
途端、リルは勢い良く顔を上げた。
「わかった!!」
その勢いに驚き顔の久居を置いて、リルはグッと拳を掴む。
「ボクも! 髪伸ばす!!」
「……いえ、そういうわけでは……」
「この辺が! チクチクして痒いけど! 我慢するっ!!」
「いや、それは……」
久居は、話が微妙にずれている事に気付きながらも、突っ込んでしまう。
「括ってしまえば良いのでは……?」
「え?」

そんなわけで、久居はリルの背後で、その髪を結っていた。
「櫛まで持ってるって、すごいねー」
「側付きは、身嗜みを整えることも仕事の内ですからね」
久居は、指一本分ほどの横幅の小さな櫛でリルの髪をまとめながら、自身にはない小さなツノを前に躊躇う。
「角には触覚があるんでしょうか……? 触れても良いものなのかどうか……」
そんな久居に、リルは「ないよー。触って大丈夫ー」とのんきに答えながら「久居の髪はいつもつやつやだもんね」と続ける。
「ああ、これは椿油を塗っているのです」
「え、そうなの? 久居は元々ツヤツヤなんだと思ってた」
「私の髪は、光を反射しない性質なので……」
答えながら、久居は紐を引き絞った。
「はい、できましたよ」
ふわりと囁くような言葉とともに、久居は小さな鏡を袂から出すとリルに差し出した。
「わぁーーーっ!!」
リルは、くるくると向きを変えながら、自身の後ろで揺れる小さな尻尾を右へ左へと揺らして喜んでいる。
「久居とお揃いだーっ。わーいわーいっ」
ふわふわと花を振りまくリルに、久居が申し訳なさそうに謝る。
「紐が私のお古で申し訳ないですが……」
「ううんっ、嬉しいよっ!」
久居を見上げるリルの、心の底から幸せそうなその笑顔に、久居は伝えるべき言葉を飲み込んでしまう。
(リル……。今日こそ、もう二度とここへは来ないと告げねばならないのに……)
久居は、拳を握り締めた。

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菰野の前には、ぐしゃぐしゃに絡まった紐にガラス玉がいくつか括り付けられたような物が、広げられた布の中央に乗せられ、差し出されていた。
「え……これ……本当にもらっていいの?」
「う……うん……」
ぼろぐしゃっとしたそれを前に、フリーが改めて思う。
(やっぱり……迷惑だったかなぁ……)
正直、これは、私でも欲しくないな……。と自身の作ったそれをフリーが布で覆おうかと思った時、菰野がそれを手に取った。
「あ」
菰野は、帯飾りをそっと引き寄せて尋ねる。
「着けてみてもいいかな?」
「う、うん。着けられるものなら……」
フリーが思わずそう返すと、菰野は丁寧に帯の間にそれを挿し入れた。
菰野をイメージして選ばれた緑を基調にしたガラス玉達が、陽を浴びてキラキラと輝く。
新緑のような淡く瑞々しい緑、深い森を思わせる思慮深い緑。
それはどちらもが、フリーの思う菰野の色だった。
所々に添えられた、琥珀のようなこっくりとした茶色の小さな玉も、菰野の栗色の髪によく似合う。
「わぁ、素敵だね」
言われて、フリーがようやく俯いていた顔を上げる。
そんなまさか。という表情で。
「え……?」
「ありがとう。嬉しいよ、とっても」
ふわりと微笑む菰野の周囲は、空気までもが煌めくように揺れている。
「ほ、本当……に……?」
フリーは、どこか疑わしげにその顔を見てしまうが、
「うんっ」
と菰野がにっこり笑うのを見て、ようやく本当に受け取ってもらえたのだと知る。
途端に、フリーの頬が熱くなってくる。
耳まで赤くなりそうなそれを、止められないままに、フリーは目を細めて答える。
「……私も、嬉しい!」
弾む声に合わせて、サラリと明るい金の髪が揺れる。
鮮やかに染まった頬に、喜びに綻んだ唇。
ゆるりと緩んだ金色の瞳には、吸い込まれそうな煌めきがあった。
菰野は、目の前でほんの少しだけ花開いた少女に、思わず見惚れてしまう。
(……可愛い……)
少女につられるように、少年の頬が熱くなってゆく。
二人は、静かな静かな森の中で、お互い黙ったまま、赤い顔を伏せた。

菰野は、帯に飾られた手編みの飾りを指先ですくう。
歪な編み目や、千切れた紐の跡に、悪戦苦闘の痕跡が残っている。
そこから菰野には、この少女が自分のために苦心した様が容易に想像できた。
「なんか……この一ヶ月はすごく長く感じてたんだ……」
先に口を開いたのは、菰野だった。
囁きのような声に、フリーも柔らかい声で応える。
「うん、私も……。でも」
フリーは、俯いていた顔をゆっくりあげる。
頬の紅潮は落ち着きつつあったが、ほのかに残った朱色が、いつも活発な少女に少しの繊細さを残している。
「これからはまた、いっぱい会えるね」
期待を込めた金色の眼差しに見上げられて、菰野も微笑みで応じる。
「うん。会えるね」
「よかった……」
フリーのほっとしたような表情に、菰野もまた、安らぎを感じる。

二人は見つめ合うと、もう一度微笑みを交わす。

ここで相手と会うことが、自分のためだけでなく、相手のためにもなっている。
そう思えるこの時は、何物にも代え難いと、二人は感じていた。
一方で久居は、握り締めた拳を一層握り込んでいた。
「リル……」
声をかけられて、まだ鏡を握って自身の後ろ髪とぴょこぴょこ戯れていたリルが顔をあげる。
久居は、言わなければならないと、わかっていた。
「私は……、私は、もう……。ここへは……」
わかっているはずなのに、そこから先が、どうしても、久居には紡げない。
異様に静かな森に、ギリッと、自身の拳の軋む音だけが聞こえた。

「わっ、大変っ!! コモノサマもうすぐこっちに向かってきちゃう!!」
リルが手を耳の後ろにあて、慌てた様子で声をあげる。
「ご、ごめんねっ、鏡に夢中でぼーっとしてたみたいっ」
リルが鏡を、ありがとうと添えつつ久居に返す。
久居は何も言えず、それを受け取った。
村の方向へバタバタと駆け出したリルが、茂みの手前でピタと足を止め、振り返る。
「久居っ。また二日後にね!!」
嬉しそうなリルの笑顔が、久居の胸に痛みを伴って滲み込む。
迷いなく遠ざかる軽い足音に、久居はその背を見送った。
(リル……)
黒髪の従者は、城へ向かって足を動かしながらも、自分を慕ってくれる小さな少年へ、胸の中で謝罪を繰り返す。
(すみません……、どうしても、ダメなのです……)
最後の茂みを抜けると、加野の墓の隣へと出た。
久居はそこで足を止めると、後ろを……リル達の住む山を、振り返る。
(この山に、立ち入ることだけは……)

どのくらいそこに立ち尽くしていたのか。
後から下山してきた菰野が、茂みを抜けてすぐのところで久居に鉢合わせて、声をあげる。
「うわぁっ! ひひひ久居っ!? どうしたんだこんなとこでっ」
尋ねられ、久居は静かに目を伏せる。
「山を……見ていました……」
確かに、山を見ていた風ではあった。
けれど、それにしたって、少し様子がおかしいと菰野は思う。
(……久居……?)
力無い従者の声に、少年主人は彼を案じたが、これ以上尋ねる事は自身の首を絞めると分かっている。
頭の隅に過ぎる金色の笑顔に、菰野は喉まで出かかった言葉を、なんとか飲み込んだ。

----------

城に戻った二人は、新たな皇である葛原皇に、謁見の間へと呼ばれていた。
「葛原皇。菰野、只今参りました」
入室の許可を得て、二人は皇の前へと進み、膝を付く。
「喪が明けたそうだな」
「はい」
葛原は、かつて譲原皇が座していた場所に鎮座していた。
「まあ、お前からすれば叔父だからな。忌日が十日、服喪もひと月というところだが……。私にとっては実の父なのでな。忌日は五十日、服喪も十三ヶ月に亘るわけだ」
「はい」
葛原の、どこか菰野を軽んじるような言い振りにも、菰野は表情を変えることなく答える。
「一年以上も政をしないわけにはいかないが、せめて忌中はな……」
おもむろに、葛原は袂からずっしりと量のありそうな書簡を取り出した。
「菰野、今回お前には前皇の親類達へ、この書簡を持って葬儀の報告に行ってもらう」
葛原の指示に、伏せたままの久居と菰野の顔色が変わった。
けれど、それは誰にも見られる事はない。
「……はい……」
「多少なりとも血の濃い者が行く方が良いだろう。早くとも半年はかかる行程だ。まあ……一年だな。一年のうちに、この全てに回り挨拶を済ませてこい」
ポンポンと手の内で書簡を弄んでいた葛原が、菰野へそれを手渡す。
「はい……確かに承りました」
両手で慎重に押し頂いたそれを、菰野は丁寧に懐へと仕舞った。
菰野の帯の上で、小さなガラス玉がぶつかり合う音が僅かに聞こえて、葛原はその存在に気が付いた。
「出立はいつになる?」
「はい……明後日……いえ、明々後日の朝にはこちらを発ちます」
面をあげる許可のないまま、菰野は地を見つめて思う。
(せめて明後日、フリーさんに事情を話してから行きたい……)
葛原は、そんな菰野の言葉に引っ掛かりを感じた。
玉座に座り直しながら、考えを巡らせる。
(身寄りもなく従者も一人のこいつのどこに、そんな支度の時間がかかる?)
思いながら許可を出す。
「そうか。まあ長旅だ。しっかり準備を整えて行け」
「ありがとうございます」
礼とともに深く頭を下げる菰野の腰で、帯飾りが小さく音を立てる。
「下がっていいぞ」
「はい」
葛原の言葉に立ち上がる菰野の動きで、帯飾りが揺れて煌めくのを、葛原は射抜くような目で捉えた。
あれはおそらく手作りの品だろう。と葛原は判断する。
ボロボロではあったが、間違いなく、葛原が今まで見た事のない品だ。
葛原は加野が亡くなって以降、菰野が紋球以外の装飾品を身につけているところを初めて目にした。
(女か。いつの間に……)
葛原は内心驚いたが、それ以上に湧き上がる暗い悦びに、口端を歪ませる。
(……だが、これは……使えるな……)
ニヤリと、葛原の口元に浮かび上がる異質な笑みは、謁見の間に在って良いような物ではなかった。

それに、久居だけが気付く。

菰野は既に葛原に背を向けており、後ろで控えていた久居も菰野に続いて立ち上がる。
けれど、久居には一瞬目にしてしまった葛原皇の表情が焼き付いて離れない。
(今の表情は……あの時と同じ……)
久居は前にも一度、今と同じ葛原の暗い笑みを見たことがあった。
それは、葛原が菰野に『妖精の呪い』という言葉を教えた時だ。
あれから、全てが変わってしまった。良くない方向へと……。
(かなり……嫌な予感がしますね……)

謁見の間から葛原以外の姿が完全に消えると、葛原は一声、名を呼んだ。
「葵」
途端、天井裏からふわりと床へ、音もなく舞い降りる影。
「お呼びでしょうか」
応えた声は、思うよりずっと若い、女性のそれだった。
「菰野を見張っておけ」
葛原の指示に、床に膝を突く影から、即座に短く返事が戻る。
葵と呼ばれた隠密らしき人物は、全身を黒に近い色で覆っていて、暗がりの中では一瞬でも目を離すと闇に溶け込んでしまいそうだった。
「それと、菰野と親しくしている女がいれば、連れて来い」
新たな主人である葛原皇の、思いも寄らない要求に、隠密は俯いたまま目を見開いた。
しかしその瞳は暗く濁っていて、光を宿していないようにも見える。
肩につかない程度の長さに切り揃えられたサラリと揺れる黒髪と、目を覆い隠すほど伸ばされた長い前髪のせいで、葵と呼ばれた隠密の表情は誰にも見えないようになっていた。
「返事はどうした」
促され、葵は深く頭を下げる。
「御意……」
そんな葵の態度に、葛原は苦笑を噛み殺す。
しかし、これからのことを考えると、後から後から込み上げる感情が、堪えきれず葛原の口元から漏れる。
「ふふふ……これは、面白くなりそうだな……」
眼裏に浮かぶ愛しい父の、喜んでくださる様を思うと、葛原は緩む頬を引き締めきれなかった。
(冷たい瞳が、私を見下ろしている……)






(これは……母上の瞳だ……)








広い広い城の中、中庭へ続く長い廊下の隅にそれはうずくまっていた。

年の頃は四つ五つといったところか。
長く伸びた前髪で表情は見えないが、ぽたぽたと止め処なく床に落ちる雫と小さな水溜りが、
その少年が長く泣いている事を物語っていた。

廊下を通る者は一様に、声を殺して泣く小さな少年を見ないようにして、足早に通り過ぎて行く。


一刻ほど経っただろうか、辺りがほの暗くなってきた頃、きちんとした身なりの、烏帽子を被った青年が少年の背後で足を止めた。

「葛原?」

葛原と呼ばれた少年には、探しに来てくれる人も迎えに来てくれる人もいないはずだったが、その声には心当たりがあった。

「と……父様……?」

おそるおそる振り返る少年を、青年が力強く抱き上げる。

「どうしたんだお前、こんなところで。どこか怪我でもしたのか?」

くるくると葛原の体をまわしてあちこちを確認すると、心配顔だった青年は、笑顔を見せて葛原の顔を覗き込んだ。

「何かあったのか?」

その瞳は、温かかった。

「母様が、邪魔だから、どこかに行きなさいと仰いました……」

少年がありのままを告げると、一瞬、青年の笑顔が凍る。
青年はそっと少年の頭を自身の肩に抱き寄せ、暗く澱んだ自身の表情を見せないようにした。
されるがままの少年の頭を、青年の手がゆっくり撫でる。

繰り返し撫でられて、やっと安心したのか、目を細めた少年の瞳から、涙の粒がまた零れた。

「そういう時はな、私のところに来ればいいんだよ。私が忙しい時も、加野姉様が遊んでくれる」

そう言って、葛原を覗き込む、優しい茶色を湛えたあたたかい瞳。

それは、母や、母の周囲の女官達から冷たい目でしか見られた事のなかった少年が、その生涯をかけて、手に入れたいと思った唯一のものだった。



(………………昔の夢……か)

寝台の上で、青年はゆっくりと体を起こした。辺りは薄暗く、静まり返っている。
小さな窓から、月の光が差し込んでいた。

(まだ夜中か。まいったな……)

葛原は、もう眠れそうにはなかった。
月明かりの差し込む窓辺に顔を寄せ、彼は懐から大切そうにガラス菅を取り出した。
両手で包み込めるほどの大きさのそれを、そっと月の光にかざす。

そこには、彼が唯一手に入れたかったものが入っていた。

液体の中を漂うそれは、もう優しく微笑みかけてはくれないけれど、
それでも、その温かい茶色は間違いなく、この瞬間、彼だけのものだった。


静かな森の中を、手足まで黒尽くめの小柄な女性がふらつく足取りで進んでいた。
息も上がっているのか、小さな肩が絶えず上下している。
山を登り進むほどに、彼女の体調は悪化していた。
(いけない……。これ以上近付くと、山の気にあてられてしまう……)
葵は、繰り返される目眩にふらつく頭を押さえて、その先へと意識を集中させる。
この山を、自分よりも先に登って行った、自分よりも幼い二人の姿を思う。
(菰野様と久居様はご無事なのでしょうか……)
あからさまに尾行を警戒しつつ山の奥へと進んでいった菰野と、それを気付かれぬよう慎重に追っていた久居。
どう見ても挙動不審な二人ではあったが、その程度の不審では揺るがぬほどに、葵は二人が幼い頃からずっと、二人の日々を見守っていた。

そんな二人が、自分のように体調に異常をきたしているのではと、山の奥へ不安を残しながらも、葵は元来た道を戻ることにして振り返る。
登り始めた頃は何ともなかったはずだ。
どこまでなら体調に異変をきたさずいられるのか、その境界を見極めるべく、葵は慎重に下山する。
どうか、この体調不良を引き起こしている呪いが、死に至るようなものでないように。と祈りながら。
震える手足は呪いによるものなのか、それとも呪いへの恐怖からなのかは、自分にも分からなかった。

----------

「え……?」
リルは、自分の耳に届いた言葉を飲み込みきれず、聞き返す。
「……じゃあ、今日から一年も……、久居に会えないの……?」
自分の声が震えて聞こえて、リルは小さな手で口元を押さえた。
「……すみません……」
久居は、ただ静かに頭を下げる。
そんな仕草に、リルはじわりと罪悪感を感じた。
「う、ううん。お仕事だもん、仕方ないよね……」
風が木々を揺らす。
静かな森に、葉擦れの音だけが波紋のように広がった。
「でも……ちょっと」
リルが、久居から目を逸らす。
俯いた薄茶色の大きな瞳には、涙がじわりと滲んでいた。
「……淋しい……かな……」
溢れた言葉とともに、涙がポロポロと足元に降り注ぐ。
我慢しきれなかった涙を隠すように、リルは久居に背を向ける。
泣きつく事もなく、心配させまいと背を向けて、こしこしと小さな指で涙を拭う少年の様子に、久居は胸が痛んだ。
(リル……貴方にとって私はどのような存在なのですか……?)
少年の後頭部には、前に結ってやった髪が、同じように括られていた。
紐には、久居の譲った古いものがそのまま使っていて、それもまた、久居を苦しくさせた。
「フリーも、しばらくコモノサマとはお別れなんだね……」
背を向けたままのリルが、小さくぽつりと呟く。
「そうですね……」
同じく悲しい思いをしているだろう姉を思う少年の背に、久居は自分が何を見ているのか、自問する。
(では、私にとって、リルは……、どのような存在なのでしょうか……?)
けれど、その答えは、まだ久居には出せなかった。

----------

「じゃあそろそろ戻るね」
おもむろに立ち上がる菰野に、フリーは思わず手を伸ばす。
「あ……」
それに気付いて、菰野は柔らかい笑顔で尋ねた。
「うん、何?」
「えー……と」
思わず伸ばした手を、慌てて引っ込めながら、フリーは言葉を探す。
「き、気をつけて行ってきてね」
「うん」
「お土産、期待してていいのかな?」
「何か選んで帰ってくるね、楽しみにしてて」
フリーの直接的な要求にも、菰野は変わらぬ笑顔で答える。
「それじゃ、フリーさんも元気でね」
背を向けた菰野の服の裾を、フリーは思わず掴んでいた。
「うわっ!!」
一歩進むはずだった菰野が、姿勢を崩して転びかける。
「あ……、ごめん……」
フリーは謝りながら、その手を離した。

「ど、どうしたの?」
菰野がまだバクバクしている心臓を押さえつつも、極力変わらぬ表情で尋ねる。
「えー……、えーと……」
フリーは、自身の行動を説明できずに困惑していた。
(何だろう……。何か、菰野をこのまま行かせちゃいけない気がして……。
 けど、これって、ただ私が菰野と離れたくないだけなのかな……?)
困った顔で黙ってしまったフリーに、菰野が気遣わしげに尋ねる。
「……フリーさん?」
そんな声に、フリーは俯いていた顔を少しだけ上げると、どこか必死さのある潤んだ瞳で菰野を見つめて尋ねた。
「し、下まで一緒に行ってもいい?」
(もう少しだけなら平気だよね、結界……)
フリーの脳裏で母の姿がチラつく。
「う、うん。いいけど……」
菰野は、そんな彼女を可愛くと思いながらも、そんなに村から離れて大丈夫なのかと、心配せずにはいられなかった。

----------

「……あ」
久居の膝の上で甘えていたリルの瞳に、悲しみが宿る。
「どうしました?」
「コモノサマ帰っちゃうみたい……」
音を聞き取るために上げていた顔を、リルはもう一度久居に押し付けた。
「そうですか……。では私も戻りますね」
そう答えながらも、久居は優しくその小さな頭を撫でる。
「うん……早く帰ってきてね?」
縋るように囁かれて、久居は答えに詰まった。
(それはーー……)
久居は、もう彼らに会わない。いや、会わせないつもりでいた。
けれどそれを、どうしても、まだ、この少年に告げることができないでいる。
「あれ?」
思い詰める久居の耳に、リルの焦るような声。
「フリーも一緒に山を下りてきてる!?」
「え……」
「うわわ……。ど、どうしようこれ以上近付くとフリーにもボクの声聞こえちゃうよぅ」
あわあわと慌てる少年に、久居は声をかける。
「リル」
「ののの登れないけどぅぅぅ下りるのは怖いよぅぅぅ」
「リル」
ぐるぐると混乱している様子のリルには、久居の言葉が届いていないようだ。
「リル、こちらです」
久居は、小さな少年を片手で小脇に抱えると、そのまま移動を始めた。
登るでも下りるでもなく、山に対して水平に移動する久居に抱えられたまま、リルはぼんやり気付く。
(あ。そっかー。横に移動すればよかったんだ……)
(山を下りそびれてしまいました……。
 こうなってしまっては、菰野様が下りきった後を追うしかありませんね……)
この判断を彼が悔いるのは、そう後ではなかった。
(山を下りてくる気配が二つ……。菰野様と久居様でしょうか)
葵は、城からそう遠くない森の中で、木の上に潜み気配を窺っていた。
葵の指が木の葉を掠める音を、フリーの人間より大きくよく聞こえる耳が拾う。

キョロキョロとあたりを見回すフリーに、菰野が気付いた。
「どうかした?」
「うーん……何か音がした気が……」
(この辺まで来れば、動物もいるのかな……)
不安そうなその様子に、菰野が宥めるように告げる。
「もうこの辺でいいよ」
「う、うん……」
頷くフリーが、それでもまだ何か言いたげで、菰野は静かに次の言葉を待つ。
「……」
「……」
沈黙を破って、意を決したように、フリーがやや叫び気味に言った。
「あ、あのね菰野、握手しよう!!」
「え? うん……」
フリーの勢いにちょっと気圧された菰野が、それでもすぐに手を差し出した。
出された右手に、フリーは自分の右手を重ねて握る。
(わー……。フリーさんの手、柔らかいなー……)
菰野は、その手を傷付けることのないよう、そうっと優しく握り返した。
(菰野の手、あったかい……。ぽかぽかしてる……)
手を繋ぐ二人の頬に、それぞれ赤みが差す。
二人は恥ずかしさから、相手の顔ではなく握り合わされた手を見詰めながら、言葉を交わす。
「え……っと、じゃあ……行ってくるね」
「うん……」

((手……離したくないな……))


一方、木の上では、葵がフリーの声を聞き取っていた。
葛原皇の指示を胸中で繰り返す。
『菰野と親しくしている女がいれば、連れて来い』
葛原皇の仰っていた『女』とはこの子の事だと、葵は確信する。
しかし、この子を攫って、葛原皇はどうなさるおつもりなのか。
良いことであるとは思えなかったが、葵にはそういったことを考える権利はなかった。


「か、体に気をつけてね」
二人はようやく手を離したらしく、立ち去る菰野の背に、フリーが声をかけている。
「うん、ありがとう」
そんな何度目かの別れの言葉にも、菰野は振り返り、笑顔を添えて答えた。

(本当に……、無事に帰ってきてね……。ずっとずっと、待ってるから……)
遠ざかってゆく菰野の背中を、フリーはいつまでも見送っていた。
「……見えなくなっちゃった……」
木々の奥へ、完全にその姿が消えてしまうと、フリーはようやく振り返る。
「一年って長いよね……」
重い足取りで、一歩踏み出しつつも、フリーはその別れに涙を滲ませていた。
「これからもっと暑くなって、それから秋が来て……、寒い冬が終わったら、やっと春なんだよね……」
菰野に再び会えるまでの時間を思うフリーの元へ、葵は音もなく近付いた。
はずだった。

「何、この音……?」
フリーが聞き慣れない小さな音に振り返る。
その時には、葵はもうフリーの目の前まで迫っていた。

(人間!? こんな近くに!?)
「ーーい」
声をあげようとするフリーに、葵は強硬手段を取った。
「いやぁっ……!」
ほんの少しの悲鳴だけを残して、フリーは昏倒する。
葵はフリーの体を手早く縛ると、麻袋へと詰め込んだ。


リルが凄い勢いで山裾を振り返り、久居は異常を察する。
「どうしました!?」
「今の……フリーの……悲鳴……?」
真っ青な顔で呟くと、リルは駆け出した。
「フリーっ!!」
久居もすぐに、後を追って走り出す。
ここまでの自身の甘さを酷く悔いながら。
この少年の姉である、フリーが手遅れでない事を、切に祈りながら……。


一方で、菰野はようやく加野の墓前まで戻っていた。
少し離れたところに、まるで隠すようにして、馬が繋がれていることに気付く。
(こんな所に城の馬が? 久居か……?)
馬の顔を覗いてみるも、馬は菰野の知っている久居の馬ではなかった。
(城で何かあったんだろうか。この辺で俺を探してるとか?)
菰野が焦りとともに城へ向かって足を早める。

そんな菰野の耳に、馬を繰る者の掛け声が聞こえた。
振り返ろうとした菰野とすれ違うようにして、馬は菰野の背後を駆け抜ける。
馬の後ろ姿から分かったことは、乗っていたのが城の隠密だったらしいことと、何か大きな袋を抱えていたことくらいだった。
「城の隠密……? の割には行動が派手だが……。今、山から出てこなかったか?」
そこまで呟いてから、菰野は気付く。
(……山から!?)
途端、血の気が引いてゆく。

「菰野様!!」
そんな菰野を引き戻すように、久居が力強く叫んで茂みから飛び出す。
「久居!?」
驚く主人に、全力で走ってきたらしい従者は荒い息を整えながらも、必死に告げた。
「フ、フリーさんが……、攫われました……」
「……え……? 何……だって……?」
突然のことに、菰野は思わず聞き返したが、先ほど隠密の抱えていた大きな麻袋がハッと脳裏に浮かぶ。
(あの袋か!!)

「久居……フリーは……?」
ガサガサと茂みを割って、小さな少年が顔を出す。
「リル!!」
少年に、久居が慌てて駆け寄った。
「出てきてはいけません! この辺には人が……」
「で、でも……。フリーが……、フリーが……」
ぼろぼろと大粒の涙を零す少年の頭には、見た事もない黒っぽい何かが生えている。
耳も、フリーのものとは違ったが、やはり人とは似つかない形をしていた。
そんな少年を、久居が迷いなく胸元に抱き寄せるのを見て、菰野は内心驚いた。
「大丈夫です。フリーさんは私達が連れ戻します。ですから、リルは山の中で待っていてください」
久居は少年を抱き締めると、大事そうに撫でながら諭し、言い含める。
「久居、その子は……」
菰野の言葉に、久居はまだ泣いている少年を主人に示すと紹介した。
「フリーさんの双子の弟、リルです」
菰野は(双子にしては、随分小さいようだが……)と思いながらも、それを表に出すことなく、その少年の両肩を自身の両手で優しく支える。
リルは、突然触れてきた菰野へ、驚いたような顔を向けた。
「リル君、君のお姉さんを、その……巻き込んでしまってすまない」
自責の念からか、菰野のあたたかな栗色をした瞳が陰る。
「必ず無事に助け出すから、待っていてもらえるかい?」
菰野は真っ直ぐ、誓うように、真剣な目でリルを見つめた。
「う、うん……」
(この人……ボクと同じくらいの歳なんだよね……?)
リルは、目の前の少年の落ち着いた様子と、その強い意志に、思わず彼の年齢を疑ってしまう。
「ありがとう」
リルの返事に、菰野がふわりと花を散らして微笑んだ。
その顔は、確かに、同じくらいの歳の少年の笑顔に見えた。

「久居、行くぞ!」
「はいっ」
城へと駆け出す菰野に応えて久居も駆け出そうとしたが、ぼんやりしているリルを見て、足を止める。
リルは(コモノサマって何だかすごいなぁ……)とまだ惚けていた。
「リル!」
「な、何!?」
ハッと我に返ったリルの手に、久居は素早く自身の首に巻かれていた布を解くと、押し付ける。
「どうしても山に戻らないなら、せめてこれで頭を覆っていてください。この辺りは人がいますので」
「う、うん」
久居はそう伝えると、先へ走る主人の元へ急ぐ。
走りながらも、久居はチラと振り返り「出来る限り、山に入っていてくださいね!!」と、まだこちらを見送っている少年に伝えた。

菰野は、背後に従者が追いついた気配を感じると、足を緩めぬままに口を開く。
「久居……、お前、首元気をつけるんだぞ」
「はい」
久居は、主人の忠告に一瞬沈鬱な面持ちを浮かべ、支給服の僅かな襟をできる限り引き上げた。


リルは、久居に渡された長い布に顔を埋めていた。
(久居の首巻き、ふかふかだ……。けど、今、初夏だよね……?)
僅かな疑問は置いて、リルはもう一度二人の向かった城を……、姉が捕らえられているであろう城を、見上げる。
(フリー、無事でいて……)
まだこの時、祈る他に、リルに出来ることはなかった。

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そこは、城の敷地の端にある、以前太鼓櫓として使われていた小さな櫓だった。
葛原は自身が改造させた重い鉄製の扉を閉めると、内から打掛錠を下ろした。
重い金属のぶつかり合う音が、狭い櫓に響く。
床には大きな麻袋が一つ転がされている。
そばには葵が控えていた。
葛原は麻袋へと歩を進めながら確認する。
「これが菰野の女だな?」
「はい」
と答えて、葵が続ける。
「薬を嗅がせていますので、しばらくは目覚めないものと思われます」
「そうか」
葛原はその答えに、ほんの少しだけ満足げに目を細めた。
袋を開くと、見た事もないような明るい黄色が目に入る。
(ん?黄色い……これは、髪か……?)
見たことはなくとも、異国の人々は髪色が様々なのだと、葛原は知っていた。
まさか、菰野が隠れ逢っていたのは異国の女なのだろうか、と疑問に思いながらも、葛原は麻袋を完全に取り払う。
(こ、これは……!!)
想像をこえた異質なその姿に、葛原は目を見開いた。

葛原は息を呑むと、側に黙って控えている小柄な隠密を見る。
「……葵。お前、目は全く見えないのか?」
全く動じる様子もなく、葵は答えた。
「はい、城仕えの隠密は皆目を潰しておりますゆえ……」
「不相応なものを見ない事も仕事のうち……か」
「はい」
変わらぬ調子の答えに、葛原は口端を弛ませる。
「くだらん風習だと思っていたが……、意外と役に立つものだな」
その言葉に、ようやく葵が動揺する。
「お前が連れてきたものが何なのか教えてやろう」
葛原は、横たわる黄色の髪の少女を見下ろしながら、どこか楽しそうに告げた。
「こいつは紛れもない本物の妖精だよ」
葵の伏せたままの顔が、驚愕に歪む。

葛原は、自分と全く違った形をしたその耳に触れてみる。
それは思ったよりもずっと柔らかく、ひやりとして心地良かった。
「加野叔母様の話は、真実だったと言うことか……」
小さく呟かれた声には、どこか懐かしげな響きが混ざっていたが、それに気付く者はここには居ない。

「よ……、妖精というのは……その……死の呪いをもたらすと言う……」
葵の戸惑いと怯えの混じった声に、葛原は思わず嘲笑を漏らす。
「お前まで、その話を信じているとはな」
(え……?)
驚きに言葉を失っている葵を余所に、葛原はあの頃の菰野を思い出す。
今よりも柔らかくもちもちとした頬に、明るくあたたかい、父上と同じ栗色の髪と瞳。
人懐こい笑顔を振りまいて、私の後ろをどこまでもついてくる、可愛い可愛い義弟……。
(菰野はすっかり信じていたようだったが……)
葛原は、懐かしさと愛しさに弛んでしまった眼差しを引き締め直すと、床に横たわる菰野と同じ歳頃の少女をじっくりと眺める。

ふと、その大きく開いた服の背を隠すように挟まれた布に気が付いた。
気を失ったままの腕を掴み、ぐいと引くと、流れるような髪の合間から、隠されていた背が露わになる。
……翅を隠しているのか?
もしかして、この妖精は、正体を隠して菰野に会っていたのだろうか。
姿を偽って……?
耳はどう隠していたのか分からなかったが、よく見れば触角のような物も、同じく隠されているようだった。

葛原の胸が躍る。
菰野は騙されていたのだ。
あの、人の良い義弟は、この妖精に欺かれていた……。
それを知った時、菰野はどんな顔をするだろうか。

「目覚める前に、頑丈な鎖でしっかり繋いでおけ」
言われ、葵は慌てて答える。
「はい」
「くれぐれも目を離すなよ」
「はっ」

葛原は、サラサラと床に広がる長い金髪を指で掬う。
張りのある生き生きとした髪は、手の中で光を返し元気に跳ねた。

(この妖精がいれば、たとえ城内で菰野を片付けようと、十分話が通る……)

期待に、葛原は知らず笑みを浮かべていた。
敬愛する父の為、父に喜んでもらえるその日を待ち望むその顔は、普段の彼の険しい表情しか知らぬ者が見れば驚くほどの、純粋な笑顔だった。

(父上……、もうまもなくです……)
白い……

……真っ白な光。



強烈な痛みと共に降り注いでくるそれに、私の視界は焼き尽くされる。











まばゆく溢れる光のあとには、ひたすらに、深い闇だけが残った。


----------


「葵さん」
囁くような声に呼ばれ、彼の許に降り立つと、彼を取り巻く空気がかすかにふわりと揺らいだ。
微笑んだのだろうか。私を見て……?

声変わり前のあどけない声が、もう一度私を呼ぶ。
「葵さん? どうかなさいましたか?」
「……いえ、なんでもありません」
僅かな動揺も見透かされてしまいそうで、跪いた姿勢から、さらに頭を下げる。
光を宿さない目を隠す為に伸ばした前髪のおかげで、こうしていれば、彼……久居様に私の表情は見えないはずだった。
「お忙しいところ申し訳ないのですが、この書簡を譲原皇まで届けていただけますか?」
両手で大事そうに差し出されたそれを受け取ると、確かな重さを感じる。
ちらと覗いた彼の輪郭は、やはりまだ青年と呼ぶには早すぎる、少年のそれだった。

六年前、加野様にどこからともなく拾われてきたこの少年は、一年前まで菰野様の遊び相手を仕事として、加野様に養われていた。
それが、今では菰野様の側近として、大人達に交じって城に勤めている。
朝は、菰野様が目を覚ます直前まで、周辺の見回りや本日出勤の人員を下働きに至るまで確認したりと忙しく動き回り、夜も、菰野様が寝付かれてからやっと自分の事に取り掛かるこの少年が、一体いつこれだけの量を書くというのだろうか。
私も同じく、人より早く起き遅く寝る生活をしているわけだが、今年で二十歳の私でも朝の辛い日がある。
里でそのための訓練を受けてきても、なお……だ。
それなのに、この少年は、今年でやっと十四になろうかという歳だった。

「はい。必ず、譲原皇にお届けします」
受け取った書簡を丁寧に懐へ仕舞い、顔を上げて答える。
「ええ、お願いします。葵さん」
私の名前を口にし終えて、彼をいつも包んでいる張り詰めた空気が、ほんの少し和らいだように感じた。
大事な書簡を私に預けたことで、目の前の少年が安心した……。
これだけの事が、私にとってどれだけ重大なのか、きっとこの少年は気付いてはいないだろう。
そしてきっと、これから先も気付くことは無いだろうと、私は確信していた。

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久居様の部屋を後にして、西の丸から本丸へと向かう。この時間ならまだ譲原皇は自室で公務をなさっているはずだ。
本丸は昼夜を問わず周囲を警備兵が見回っているが、今夜は有難いことに、星ひとつ見えない暗い夜だった。
兵の薄い部分を抜けるだけで十分だろう。
気配を消すことや、闇に紛れることに関しては、相当自信があった。
武や術では里で人並みの成績だった私がそれにもかかわらず城勤めの推薦を受けることができたのは、沢山の人の中で諜報活動をする際に、この能力がもっとも重要であるからだ。
そんな私にも、ただ一度だけの失敗があった。
そう。ちょうど今夜のような、月も星もない真っ暗な夜……。

城に勤めるようになって半年。
同じ里からの先輩が四人勤めている中、血生臭い仕事はそちらを得意とする先輩に振られるため、私の仕事は主にちょっとした伝言や届け物などのお使いばかりだった。
おそらく、譲原皇のご配慮だったのだろう。

城にも仕事にも慣れてきて、確かに少し気配の消し方が甘かったのかもしれない。
それでも、真っ暗い夜に、明かりも無い場所で、たった十歳の少年に姿を見咎められるとは思いもしなかったのだ。
それも、三百尺(約百メートル)以上も離れた場所から……。

「そこで、何をしているのですか!」
遠くからでもよく通る子供の声に思わず振り返ると、全身に警戒を纏い、こちらを睨みつけているであろう少年がいた。
それが、久居様に初めて姿を見られた時だ。
それから、私の仕事は菰野様の身辺警護となった。
始めの三年間は、他の仕事もしつつ、手が空けば菰野様の様子を見に行って……という程度だったが、一年前からは基本的に四六時中、菰野様に張り付く事となった。

理由は分からないものの、菰野様が何者かにお命を狙われていることは明白で、現に久居様は度々その危機に瀕していた。
譲原皇も、とても仲の良かったお姉様である加野様を妖精の呪いにより急に失い、そうとう堪えていたご様子……。
この上、お姉様の忘れ形見である、可愛い甥までも失いたくないと思うのは当然の事で、菰野様付きの護衛も、一年前には城勤めの隠密のうち、一番腕の立つ先輩に立場を譲る事になりかけたのだが、久居様の希望により、今までどおりの私で任務に当たる事となった。
久居様の仰るには、菰野様のお命が狙われている事実を、菰野様自身には出来る限り知られないように事を運びたいのだそうで、連絡係ともなる隠密には、気配を消すのが得意で繊細な気遣いができる者を、という事だったらしい。

それを聞いた上でも、心のどこかでそれ以上の何かを期待してしまうのは、やはり、私が間違っているのだろう……。

ちなみに、十歳の少年に姿を見られた話が先輩達に伝わった時には、私は、それはもう叱られたりからかわれたりと忙しいものだと思っていたのだが、驚いたことに先輩達は口を揃えて「彼の前で見つからなかったことが無い」と言った。
報告の際、譲原皇よりお咎めが一切なかった事も、この前例が数あった故だったのだ。

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考え事をしながらも、譲原皇の自室、その天井裏に到着する。
譲原皇は、やはり、小さな明かりをひとつ机の上に置き、一人で書類と向き合っていた。

加野様がいらっしゃる頃は、いつもお二人はご一緒で、このような時にも机にはちょっとしたつまめるものと良い香りのお茶が添えられて、加野様は縫い物などをしつつ、譲原皇の仕事が終わるまでお傍にいらっしゃった。
時々、思い出したように今日の菰野様のお話などをされながら過ごすお二人の間には、残務処理中であったとしても、いつも温かい時間が流れていた。

声ひとつ無い部屋にそっと降り立つと、譲原様を驚かせてしまうことの無いよう慎重に声をかけ、書簡を手渡した。
ちょっとした使いにも、律儀に労いの言葉をかける譲原様のお声が、どことなく疲れている。
お早めにお休み下さいなどと言うわけにもいかず、せめて素早く立ち去ることにする。
久居様は、もうお休みになっただろうか。

事後報告をするようにとは言われていなかったが、書簡を無事に届けたことを告げれば、あの少年はもっと安心するかも知れない。
そう思ってしまったが最後、居ても立ってもいられなくなり、結局また西の丸まで引き返してしまった。
そっと天井裏から久居様の様子を窺ってみる。
いつもと変わらない緊張を纏って、彼は布団の中にいた。
身じろぎも無いその姿、おそらく眠ってしまっているのだろう。
残念ながら、私はこの一年ほど、久居様が完全に緊張を解いている姿を見たことがなかった。

いつの頃からか、寝ているときですら、起きているかどうかの判別が付かないほどの緊張感を、この少年は纏い続けるようになってしまっていた。
それが、私にはどうしようもなく悲しかった。
思わず片手をあげ、目頭を押さえると、ほんの少しだけ、音もたたない程度に天井裏が軋んだ。

「……葵さん?」

小さな声にハッとする。
起きていたのだろうか。それとも、私が起こしてしまったのだろうか……。
「どう、なさったのですか……?」
久居様が、少し眠そうな声で、それでも慎重に言葉をかけてくる。
「いえ、その、書簡をお届けしたことの報告にと思ったのですが、お休みでしたので、引き返そうかと……」
慌てて答えるも、なんだか言い訳がましくなってしまった。
「お休みのところを申し訳ありません……」
久居様がゆっくりと身体を起す気配がする。
「そうですか、ありがとうございます。お蔭様で安心して眠れそうです」
少し和らいだ空気にあてられて、胸がジンとなってしまう。
本当に……私には、本当にこんなことしか出来ないのだろうか。
何か他に、彼の力になれることはないのだろうか……。
ほんの少し、黙ってしまった私を見て、久居様が言葉を加える。
「気になさらないで下さい。私は、その、人より少し夜目が利くのです」
どうやら、私が彼を起こしてしまったことを気にしているのだと思われているようだ。
それにしても、真っ暗闇の中、三百尺以上離れたところから黒装束を認識できることのどこが「少し」なのだろうか。
「暗闇の中では、私の目は赤い色になるのだそうです。
 実際、暗闇の中で物を見ているときは黒と赤で見えるのです……が……」
ふいに、久居様の声が力を無くす。
「久居様?」
「すみません、色というのは、葵さんには……その……」
申し訳なさそうに気配ごと小さくなってしまった少年の態度に、やっとその言葉の意味に気付く。
「大丈夫です、分かりますよ。私も、城勤めが決まるまでは皆さんと同じく見えていたのですから」
極力、優しく届くように声をかける。
この少年の心を、微塵も痛めたくなかった。
「そうなのですか?」
どうやら、彼は私が生まれつき盲目なのだと思っていたようだ。
「空の青、眩しい緑、茜色の夕日もまだはっきり覚えています。きっと、一生忘れません」
私の言葉に、彼の空気が弛む。
「最後に見たのは太陽です。真っ白い、すべてを包む光の色」
ハッとなった少年に、私も我に返る。
彼の弛みが嬉しくて、つい要らない事まで口にしてしまったようだ。
「そ、それにしても、暗闇で赤く見える目というのは珍しいお話ですね。はじめて聞きました」
全力で、話を元に戻す。少々強引ではあったが、この際だ。
「ええ、私も他に聞いた事はありませんし、譲原皇より口外を禁じられているので、相当珍しいのだと思います。
 そういうわけですから、私が葵さんに気付いてしまうのは、私の体質であって、葵さんが責任を感じるところではないのですよ」
久居様が、それを受けて、しっかり出発地点まで話を戻してくる。
譲原皇に口止めされている……?
そのようなことを、私を励ます為だけに口にしていいのだろうか。
この、歳のわりに驚くほど慎重で冷静な久居様が……??
彼に信頼されているという事が、私には何にも変えがたいほどに嬉しかった。
きっと、私がこんな気持ちになっている事など、彼には思いもよらないのだろう。
けれど、それでいいと思う。
今はとにかく、度々危機に陥る彼を、失わないように生きる事で精一杯だった。

この少年が、出会った頃のように安心して、心弛めて過ごせる時が来るまで。
できればその先も。

この世が泰平であってくれれば……
私が、この城に居られれば……と心から願いつつ、その日は眠りについた。








……後になって疑問に思う事がひとつ。

少しでも光が差す場所では黒いままのその目が、真っ暗闇で赤くなるという事を、彼に教えたのは誰だったのだろうか……と。