グルンガの街を出て辿り着いた隣町で、ふと思い立ってセリシアに尋ねる。
「乗馬はできるか?」
 人の口に戸は立てられない。彼女の能力が吹聴されて広まる前に、できるだけグルンガから離れたかった。チナと二人なら乗合馬車の移動でもよかったが、三人での移動はなにかと目立つ。
 馬車でも悪くはないが、乗馬の方が小回りが利く。セリシアが馬に乗れれば、ここからは馬で移動するのがいいかもしれん。
「はい。教会に引き取られる前、両親と暮らしていた頃は家で馬を飼っていましたから」
 俺の問いかけにセリシアが即答する。
「そうか。では、ここからは馬で……ん?」
 袖を引かれて見れば、チナが所在なさげに見上げていた。
 その目には薄く涙の膜が滲んでいた。
「どうした、チナ?」
 驚いて尋ねると、チナは顔をクシャクシャにして口を開いた。
「私、馬に乗ったことがないの。だけど、これから頑張って覚えるから……! だから、置いていかないで!」
 チナがしゃくりあげながら告げる。彼女の不安や心細さが痛いくらい伝わってきて、胸が苦しくなった。俺はしゃがみ込むと、チナと目線を合わせて告げる。
「馬鹿なことを。俺がお前を置いていくはずないだろう?」
「本当!?」
「ああ、本当だ。もとよりチナをひとりで乗せる気などない、相乗りするつもりだった」
「よかったぁ!!」
 チナは、まだ五歳というのを忘れそうになるくらい賢く、言動もしっかりしている。しかし今、俺の肩にしがみ付いて安堵の表情を浮かべる彼女は年相応に幼げで、守るべき存在なのだと再認識させられる。
 チナを抱き上げるのと逆の左手で、細い背中をあやすようにトントンと撫でた。
 俺たちはその足で厩舎を抱える町人を訪ね、さっそく馬を二頭譲り受けた。
 セリシアの旅装も全て買い揃え、この晩の宿を取った。
 客室はふた部屋取って、ひと部屋をセリシアが、もうひと部屋をこれまで通り俺とチナが二人で使うことになった。
「次の行き先はもう決まっているのですか?」
 食堂で夕食を取りながら、セリシアが尋ねてきた。
「とりあえず、ギルドのある街に行きたい」
 グルンガの街にギルドはなかった。ギルドは、次元獣の出現情報の提供、就労斡旋から次元獣の素材の買取、装具の販売まで一挙にこなす冒険者や守備隊員の活動拠点だ。
 当然、次元獣が現れない場所にギルドはない。
「なるほど。グルンガとその隣接領にギルドはありませんから、少し足を伸ばさなければなりませんね」
「なぁセリシア、君はどうしてグルンガにギルドがないか分かるか?」
「ええっと、ギルドの利用者は冒険者や守備隊員です。次元獣が出ない場所に冒険者や守備隊といった方たちは来ませんから、ギルドを置く必要性がないのだと思います」
「では、なぜグルンガに次元獣が現れないと言い切れる? 次元獣はその名の通り、次元を割ってどこからだって現れるはずだろう?」
 この質問に、セリシアは目を見開いた。
「たしかにそう言われると……」
 セリシアは俯き加減になって考え込んでいたが、ふいになにかを思い出したように目線を上げた。
「おそらく、私は魔導士たちの会話を聞いて、無意識のうちに知っていたんだと思います。教会がこの街の守りとなっていることを……。もちろん、当時は次元獣から守られているとは思ってもみませんでしたが」
「魔導士らは、なんと言っていた?」
「彼らはよく『この地は我らのおかげで脅かされることなく平穏な日々を過ごせている』とこんなことを話していました。そして、ふたつ隣の町が寄付金の打ち切りを伝えてきた時には『我らを蔑ろにするから加護を失くすのだ。これからあの地は苦しむことになる』とこんなふうに。……思い返すと、その町は翌年、次元獣が現れて甚大な被害を被っています」
「……『加護』か。俺はここまで要所要所で幾度かこの単語を耳にしてきた。教会はこの『加護』というのを用い、次元獣の襲来場所のコントロールが可能なのだろう」
 セリシアとチナは困惑した様子で顔を見合わせた。
「けれど、どうして教会が……? 決して庶民の味方とは言えませんが、グルンガ地方教会でいえば聖女の派遣をしていますし、他の教会も災害などの有事には魔導士を派遣して早期収束に務めています。人々の暮らしを守る立場の教会が、なぜ次元獣の襲来場所に関与など……」
「セリシア、これはまだ俺の想像の域を出ない。だが、教会は次元獣の襲来場所に関与しているのではなく、次元獣の襲来そのものに関与しているのではないかと考えている。もっと言うと、教会は何某かの意図を持って次元獣に人を襲わせている」
「そんな!?」
「……いや、教会と一括りにするのは正しくない。セリシアの言うように、日々魔力の研究と研鑽に励み、災害時の救済や支援を率先して行う魔導士がいるのも事実だ。教会に所属していた俺の両親も、そんな善良な魔導士だった。……だが、ふたりは教会が秘しておきたい重大な秘密に気づき、葬られてしまった」
 俺の告白を受けて、セリシアとチナの顔つきが引きしまる。
 眉間にクッキリと皺を寄せ、チナが震える唇を開く。
「お兄ちゃんの両親にそんなひどいことをしたのは、教会の悪い人なの?」
 俺が生前の両親について知る唯一の手掛かりは、ふたりが残した日記。
 この日記には、ふたりが赤ん坊の俺を連れて父の故郷に移った日から亡くなる前の日まで、一日も空くことなくその日行った魔力実験の内容や俺の様子などが事細かに綴られている。
「間違いなく、実行したのは教会内部の人間だ。俺の両親は実験中に魔力を暴走させ、次元の狭間に落ちて死んだ。要は魔力実験の失敗による事故死だ。……だが、これは事実ではない」
 二人が残した日記を見れば、生前の両親の慎重で思慮深い人柄がよく分かる。実際、二人は小規模な魔力暴走を端から想定していた。周囲への被害を考えてわざわざ実験用の小屋まで建てる念の入れようで、実験はその小屋でのみ慎重に順を踏みながら行われた。
 そうして実験中に幾度か小規模な魔力暴走を起こしているが、その都度、二人は適正に対処していた。
 そんな二人が、手に余るほどの魔力実験をそもそも行うはずがないと、俺は確信していた。
「魔力暴走を装って、両親は口封じをされたのだ」
 同時に、祖父母が俺に両親の死について「次元獣に殺された」と伝えていた理由について、今は一定の理解をしていた。
 日記の存在を知り、二人の死の真相を追及する俺に、祖父は「こうなることが怖かった。お前まで失いたくなかったのだ」と、こう口にした。
 祖父母はおぼろながら両親の死に教会が関わっていることに気付いていたのだろう。そうして最弱のセイスの俺が復讐に走ることを危惧し、真実を秘したのだ。
 だが、今となってはその心配こそが杞憂だ。新魔創生を手にした俺が、教会の悪しき勢力なんぞに負けるものか――。
「魔力暴走を装って二人の魔導士を次元の狭間に……。そんなことができるのは、教会でも相当な実力者だけ。大魔導士、もしくは上級魔導士か。かなり、限られてくるのではありませんか?」
「その通りだ。おそらく、これを命じたのは聖魔法教会の長である教祖だ」
「教祖様が直々に動くというのはただごとではありません。セイさんのご両親が知った教会の秘密とは、いったいなんだったのですか?」
 一拍の間を置いて、俺はゆっくりと口を開いた。
「両親は"新魔創生"と呼んでいた」
「新魔創生?」
 耳慣れない単語に、セリシアとチナが首を捻りながらたどたどしく反復する。
「複数の魔力を掛け合わせ、既存の六属性とは別の新たな魔力を生み出すことだ。俺の次元操作、チナの錬金術、そしてセリシアの再生快癒は全てこれに相当する。この新魔力の存在こそ、聖魔法教会が世に伏せておきたいタブーなのだ」
「けれど、より大きな魔力を得ることは、次元獣などの被害抑制にも繋がる慶事ではありませんか? どうしてこれが、秘しておきたいタブーなのでしょう」
「うん! わたしもお兄ちゃんの次元操作で次元獣から助けてもらったもの! みんなのためになる力だわ!」
「社会全体でみれば、たしかに有益となろう。だが、国内外に最強の魔力保有を謳い、階級ピラミッドの頂点で胡坐をかくウノの教会幹部たちはそうとは捉えなかった」
 俺の言葉で二人はピンときたようだった。
「これが明るみなれば、単一属性のウノをピラミッドの頂点とする階級社会が覆る。しかも、教会の有する特権が脆くも崩れるだけでなく、最下層と蔑んできたセイスが最強の力を有するのだ。教会としては、この秘密を知った両親をなんとしても葬り去る必要があったのだろう」
「……そんなの、ひどすぎる」
 目に涙を溜め、唇を噛みしめるチナの頭をポンポンッと撫でて慰める。
「セイさんは、どのようにこの事実を知ったのですか?」
「両親が残した日記からだ。両親は共にトレスだったが、たまたまふたりで六属性が揃う組み合わせだった。死亡の前夜に父の筆で綴られた【明日、再び六属性の新魔創生に挑む。大分感覚は掴めてきている。きっと明日こそ成功する――】という一文が、日記の最後だった。新魔創生の実証実験の成功を確信しながらも、両親は万が一の事態もまた想定していたのかもしれない。彼らの日記は、単なる日常の記録というには不可解なほど詳細だった」
「下働きとして長く教会にいましたから、私も魔導士たちのある種異様なほどの特権意識はよく知っています。彼らの特権意識は凄まじく、そして、それを侵されることにはひどく敏感です。彼らなら、やりかねない。……いえ、彼らは間違いなくやったのでしょう。けれど、魔力によって民草の生活をよりよく導くのが、本来の教会の在り様です。これでは教会の存在意義とはなんなのでしょう」
 セリシアは膝上で拳を握りしめて、やるせなさを滲ませる。
「……ねぇお兄ちゃん、わたし、なんだがスッキリした」
 俯いていたチナが、顔をあげてこんな台詞を口にした。
「孤児院ではずっと、先生たちから『教会のおかげで私たちの生活が成り立っている。教会への感謝を忘れるな』って言われてきたの。だけど、たまに視察にやって来る教会の人たちは態度も横柄で怖かった。孤児院がいっとう大切に預かっていたウノの子も、シンコのわたしを特にバカにしていじわるばかりしてきた」
 チナは真っ直ぐに俺を見つめ、更に言葉を続ける。
「そんな教会っていらないよね!? 偉ぶって、肝心の魔力だって貧しい人たちには出し渋って。その上、ずっと見下してきた属性数を多く持つ人たちがもっと強い魔力を使えるとなったらそれを隠して。……そんな教会、わたしはいらない!」
 チナの率直な物言いに、思わず目を瞠る。
 ……なるほど。教会がいらない、か。
 俺はこれまで両親の仇を取ることを目標にしており、その達成後について具体的に考えたことはなかったが……。
 たしかに、腐敗しきった今の教会組織はチナの言うように失くしてしまってもいいのかもしれん。そうして、真に社会のためを思い、魔力の研鑽と研究に励む魔導士らによる新しい組織として作り直す――。
「チナ、やはりお前は賢い」
「え?」
「未来の展望は明るいぞ」
「わわわっ!?」
 水色の髪をワシャワシャとかき混ぜながら白い歯をこぼす俺を、チナはもちろんセリシアも不思議そうに見つめていた。
 ここで一旦会話は途切れ、俺たちは少し冷めてしまった夕食を口に運んだ。
「あの、ひとつお伝えしておきたいことが」
 粗方食べ終えたタイミングで、思い出したようにセリシアが声をあげた。
「教会の中にもまた、階級のピラミッドは存在します。教会の頂点にいるのは、ご存知の通り教祖様です。しかし、教祖様の上にもっと強力な権力者が存在するのかもしれません」
「もしかして、それは『デラ様』か?」
「ご存知なのですか!?」
「いや、分かっているのは名前だけだ。それが何者かは分らん。もし、君がデラについて知っているなら教えてほしい」
 加護と同様に、デラについても、両親の日記に記載はなかった。
 教会所属とはいえ、両親は下級魔導士だ。それらについて知る立場になかったのか。あるいは、当時はまだ加護もデラも存在しなかったのか。幾度となく考えを巡らせてきたが、いまだ答えには行き着けていない。
「いえ、私も子細については分からないのです。ただ、イライザ様のことを聖女様とお呼びするようになったのは、イライザ様が治癒の力を備えてからのことで、比較的最近のことなんです」
「それについては夕食に招かれた時に、イライザ本人から治癒の力は生まれつきのものではないと聞いている」
「そうでしたか。シンコの私は下働き、イライザ様は魔導士候補と立場は違いましたが、共に両親を亡くし同時期にグルンガ地方教会に引き取られました。当時のイライザ様は私にも親切で、身の回りの品を何も持たない私に自身のリボンを譲ってくれたこともあったんです……。ただ、治癒に関しては今のような力はなく光属性の魔力を注ぎ回復力の促進を図るのがせいぜいでした。ところが十五歳になったばかりのある日、教会長と共にオルベルの聖魔法教会を訪問したイライザ様は、現在の治癒の力を備えて帰ってきました。この時からイライザ様は、別人のように変わりました」
 俺は、イライザがセリシアに暴力を揮っているのを実際に目にしている。そのイライザが『親切だった』というのは、にわかには信じられなかった。
「意外ですよね。ですが実際に、それまでイライザ様はウノである事実を誇りにはしていましたが、特権意識はさほどお強くなかったのです。少なくとも、シンコを理由に私を蔑むようなことはありませんでした。それが、オルベルの聖魔法教会から戻って以降は事ある毎に私がシンコという事実を嘲笑するようになりました」
「イライザがオルベルの聖魔法教会で『デラ』から祝福を受け、治癒の力を授かったことで特権意識に目覚めたのは間違いないな。……だが、見方を変えればデラ一味としても強大な力を授けることはリスクだ。だから、勝手な使い方をされぬよう、徹底した意識改革を施したと考えるのが妥当だろう」
「ふーん。でも、あの聖女様、高笑いでセリシアお姉ちゃんを叩いていたよ?」
「……まぁ、そうだな。教会の意識改革に加え、彼女がもともと苛烈な性質を持ち合わせていたのは否定できんな」
 チナの率直かつ的確な指摘に、反論の余地なく頷く。
「よし、明日も早い。そろそろ休むとするか」
 こうして、この日は夕食を終えるとそれぞれ客間に戻り、明日に備えて早々に床についた。

 宿を発って一週間が経った。
 移動手段に馬を用いたことで、俺たちの進行スピードは各段に速まっていた。
 しかし、噂話というのもまた馬脚にも劣らぬ速度で広まっていくことを、俺は驚きを持って体感していた。
「どこもセリシアお姉ちゃんの話題で持ちきりね」
 チナも、道行く先々から聞こえてくる真の聖女に関する話題に驚きを隠せない様子で、手綱を握る俺の両腕の間から呟く。
「ええ、まさか私の姿絵まで出回っているなんて。……正直、少し恐ろしさも感じてしまいます」
 並走するセリシアは戸惑い混じりに答えた。
「富権力に関わらず、民草を無償で癒した。このインパクトは、どうやら俺たちが考える以上に大きかったようだ」
 ひとまずギルドのある大きな町を目指していた俺たちだったが、予想外に知れ渡った真の聖女の噂によって迂回を余儀なくされていた。セリシアの再生快癒の奇跡を求め、多くの人がやって来たためだ。
 実は、宿を出発した直後に、セリシアはひとりの赤ん坊に再生快癒を施している。俺たちの足取りを追い、真っ先に助けを求めてきただけあって症状が重篤だったこともあり、その場で母親の腕に抱かれた赤ん坊を治療した。
 すると、目にした人々がほんの小さな切り傷や風邪症状の治療を求めて列成してしまったのだ。
 それ以降、俺たちはできる限り人の往来を避けて進み、夜も宿への宿泊をせずに野宿で過ごしていた。道中にふたつあったギルドを有する町にも立ち寄らず、今に至る。
 蛇足だが一週間の移動中、二回ほど次元獣と遭遇したが、どちらも小型だったため難無く討伐を果たしている。別次元に収納しているため急ぎではないが、こちらもギルドに行き次第換金しておきたかった。
「……そのようです。この調子だと隣町のギルドにも立ち寄るのは難しそうですね。……すみません」
 先ほども、街外れで農夫らが畑仕事をしながら真の聖女についてああでもない、こうでもないと話しているのを耳にしたばかり。
 セリシアの言うように、次のギルドも避けるのが無難だろう。
 ちなみに、現在、俺たちがいるのは地方有数の大都市・ウェールの街の外れ。ウェール領主の直轄地でもあるこの街は、王都オルベルに肩を並べるほど栄えている。そうしてウェール家といえば数代前には王家の姫も降嫁し、オルベルにも名を馳せる名門中の名門でもある。
 ただし、この街が近隣の町村と比べて突出して豊かなのは、次元獣の襲来がないことも理由のひとつなのだと、今の俺は認識していた。事実、ウェールの街から西に進んだ先にある隣町は、町民一丸となって綿栽培から機織りまでを行う織物の町として有名な町だが、度重なる次元獣出現への対策・守備隊の雇用などで財政は破綻寸前なのだという。
「なに、セリシアが謝ることはない。織物の町でなくとも、全土にギルドはある。また次に進めばいいだけのことだ。むしろ、君の力がそれだけ得難い力だということだ、誇っていい」
「セイさん……」
 セリシアは感じ入ったように目を細め、馬上の俺を横から見つめていた。
「さて、そうと決まれば進路を少し南に変えるぞ。たしか、西南に進んだ先にもギルドを有する町があったはずだ」
 緩めていた馬脚を上げようと、手綱を引こうとしたその時――。
「もし! お待ちくださいませ!!」
 背ろから制止の声をかけられた。
 振り返ると、揃いの隊服に身を包んだ騎馬の一個隊が列を成していた。
「何用だ?」
 俺の誰何に隊列の中央でリーダーと思しき男が無駄のない所作で馬から下り、俺の……いや、俺の隣のセリシアの前まで進み出た。
「突然のご無礼をお許しください。私はウェール領主付きの護衛部隊長・カエサルと申します。この度は、我が主の願いを聞き入れていただきたく、参った次第です。そちらにおわすのは、奇跡の治癒能力を持ち、真の聖女と謳われるセリシア様とお見受けいたします。どうか不治の病に苦しむ領主様の末のご子息をお助けくださいませ! 薬師らに匙を投げられ、この上は聖女様だけが頼りでございます! なにとぞ、お願いいたします!」
 カエサルはセリシアに向かい、頭を下げて懇願した。
「……不治の病?」
「左様でございます! 七歳の末のご子息・マーリン様は生まれつき心臓の機能が弱く、成長と共に症状は悪化の一途を辿っております。薬師にはもういくらも生きられないだろうと言われております。しかし、マーリン様はこの瞬間も生きようと必死なのです。ご自身が切れ切れの苦しい呼吸を繰り返しているというのに、枕辺で泣き明かす両親を、逆に『大丈夫だ』と力づけておられます」
 セリシアがカエサルの語った一語に反応し反復すれば、彼はさらに言葉を重ねた。
 馬上のセリシアが、手綱を握る拳をギュッと握り締める。そうしてセリシアは、ゆっくりと隣の俺に首を巡らせた。
 セリシアと俺の目線がぶつかる。
「セイさん……」
 その眼差しの強さに、俺は彼女がみなまで言う前に大きく頷いた。
「領主の屋敷に立ち寄っていこう」
「ありがとうございます! ……カエサルさん、領主様のお屋敷に案内してください」
 セリシアは俺に感謝を告げ、カエサルに向き直った。
「おお!! 領主様もお喜びになります! 聖女様、ありがとう存じます」
「あの、私のことはセリシアとお呼びください。それから、注目を集めるのは避けたく、お屋敷までできるだけ人目に付かずに移動をしたいのですが」
「承知いたしました、セリシア様。屋敷は敷地南にある果樹園と庭で繋がっております、そちらからまいりましょう。こちらでございます」
 カエサルは素早く馬に跨り、俺たちの一歩前へと進み出る。
「ねぇねぇ隊長さん、領主様のお屋敷には大きなお風呂、ある?」
「はい! ここウェール領には源泉が湧いており、屋敷には専用の温泉と温水プールがございます。皆さまで使っていただけるよう、主に伝えましょう」
 チナが馬上から聞けば、カエサルが答えた。
「本当!? やったぁ!」
 俺たちは行き先を領主の屋敷に変更し、先導するカエサルに続いた。
 ……ほう、古い時代の監視塔か。
 前方に仰ぎ見る領主の屋敷は重厚な石造りで、ひと目でかなりの年代物としれた。しかも屋敷の裏手には、これまたかなり年季が入った監視塔まで残っていた。
「今の時代に監視塔を残したままにしているとは珍しい」
 十五年前に国家主導で領境を明確に定め、登記を行って領地とそこからの税収管理をするようになってから、近隣領との小競り合いは劇的に減った。それに伴い、近隣領の監視を目的にした通称監視塔は不要となり、取り壊す領がほとんどだった。
「……あ、いや。そうですね、たしかに少し珍しいかもしれませんね……」
 なぜかカエサルは、物凄く歯切れ悪く答えた。
「さ、さぁ! こちらからお入りくださいませ!」
 そうして柵で囲われた果樹園の入り口に差し掛かったのをこれ幸いというように、俺たちを中へ招き入れた。
 カエサルの挙動を若干訝しみながらも、この時はさほど気にせず案内されるまま果樹園を進んでいった。
 果樹の間を突っ切って屋敷の庭に出れば、玄関は目前だった。
 先導していたカエサルは玄関に立つふたつの人影を認めるや、驚きの声をあげた。
「あ、あちらにおられるのが領主ご夫妻でございます」
 通常、領主夫妻が自ら玄関先に立って客人を出迎えることは稀だ。そのことからも、セリシアに対する期待の大きさが窺えた。
「おお、あなたが聖女様ですな! 姿絵で拝見したとおり、なんとも神秘的な佇まいでいらっしゃる!」
 姿絵などで事前に情報を得ていた領主は、手放しでセリシアを誉めそやした。
「本当に、シンコというのが信じられないほどお美しくて……いえ。聖女様は本来、ウノとして生まれるべきところ、神様の手違いでシンコとして生まれついてしまったというだけね。天はちゃんと見ていて、本来のあなたに相応しい力を開花させたのだわ!」
「そうだな! 儂も聖女様がシンコと聞いた時は大層驚きましたが、聖女様だけは既存の物差しでは測ってはならんのだ。属性すら凌駕した稀有な存在であられる!」
「え……」
 興奮気味にまくし立てる夫妻の勢いに、セリシアはすっかり押されてしまっていた。
「あら、あなた。いつまでも聖女様を玄関に立たせていては失礼ですわ。まずは応接間にてウェルカムティーでひと息ついていただきませんと」
「おぉおぉ、そうじゃったな! ささっ、聖女様。どうぞお入りくださいませ。詳しい話は、そちらで」
 ……治療を乞う立場でありながら姦しくまくし立て、人の話をまったく聞かぬ唯我独尊の様は、まさに高位貴族といったところか。俺はやれやれと若干の呆れを滲ませて夫婦を見つめていた。
 その時、セリシアの後ろに続く俺とチナに、はじめて領主が目を向けた。どうやら領主は、興奮のあまりここまで俺たちの存在に気づいていなかったらしい。
「ん? その者らは……」
 胡乱気に俺の頭から舐めるように見下ろしていき、左手の甲に目を留めた瞬間、領主はビクリと肩を跳ねさせて叫んだ。
「っ!! そなた、下賤なセイスか!! 連れの小娘もシンコではないか……! なぜセイスがここにいる!? セイスの分際で儂の敷居を跨ごうなど――」
「お待ちください! こちらのセイさんとチナツちゃんは私の連れで、恩人でもあります! このふたりが屋敷に上がることを許されないのなら、私もお屋敷に上がることはできません」
「な、なんと……セイスのこの者が恩人と? それは、正気でおっしゃっているのですか……」
「もちろん正気です! 重ねてになりますが、ふたりに退去を求めるのなら、私もこの場を去らせていただきます」
 凛と背筋を伸ばし、一歩も譲らずに言い放つセリシアに、領主は引き結んだ口の端をヒクヒクと震わせながらも即座に頭を下げた。
「と、とんでもない。聖女様の恩人とは露知らず、ご無礼をお許しください。もちろん、皆様ご一緒にお入りいただいてかまいません。ですので、なにとぞ聖女様には息子の治療をお願いしたく」
 ……ほう。頭でっかちのウノの高位貴族が、息子の治療のためとはいえ俺たちに頭を下げたか。
 領主の頭頂部を見るともなしに眺めながら、ふと横に立ったカエサルがひどく落ち着かない様子で俺たちを交互に見ているのに気づき、少し不思議に思った。
 ……領主の行動に罪悪感でも覚えているのだろうか。護衛部隊の隊長というだけでこの家の者でもないのに、随分と義理堅いことだ。
「領主様、頭を上げてください。もちろん、息子さんの治療もさせていただきます」
「ありがとうございます!」
「それから、どうか私のことはセリシアとお呼びください」
「承知いたしました、セリシア様。で、ではどうぞ皆様、お入りくださいませ」
 ひと悶着あったものの、俺とチナもセリシアに続いて屋敷に上がる。
 その際、カエサルが俺の耳もとで「父が大変失礼を申しました」と低く謝罪を口にした。
 ……父? なにかの聞き間違えか?
 先ほどの失態を取り戻そうとでもするようにセリシアの左右を固め、歓待するのに必死の領主夫妻は、後ろの俺たちなど気にも留めていなかった。
 そんな領主夫妻を余所に、カエサルは聞き間違いかと訝しむ俺に苦笑して、ウェール領主一家の秘密をそっと打ち明けた。


 セリシアは領主夫妻が勧めるウェルカムティーを断り、真っ直ぐに子息の元へと向かった。
 そうして明るい陽光が注ぐ広い子供部屋で、セリシアは子息の枕辺に立ってスッと手のひらを翳す。
 ――フワァアアアアッッ!
 眩いほどの光の渦が、寝台の上で苦しげな呼吸を繰り返す少年をふうわりと包み込む。
 すると、見る間に少年の呼吸が落ち着き、青褪めた頬にも血色が戻る。
「おお……! ずっと寝台に伏したままであったマーリンが起き上がったぞ!! ……これは、まさに奇跡だ!!」
 セリシアの再生快癒に、歓声が沸き上がった。
「……あれ、僕、どうしたんだっけ。……え、お父様? 泣いているの?」
 自ら身を起こしたマーリン本人は、状況に理解が追いつかない様子できょとんと首を傾げる。子供らしい声には張りが戻り、その表情にも苦痛の色は見あたらない。
 大きな出窓から差し込む陽光に消えかかった光の粒子がキラキラと反射して、まるで室内は夢の中にでもいるかのように幻想的だった。
「マーリン!!」
 父である領主はマーリンを胸に抱き、男泣きしていた。
 母親の領主夫人も目に涙を滲ませて、夫の腕の中から困惑気味に周囲を見渡すマーリンに愛おしそうに頬を寄せる。さらに寝台から一歩分距離を置いた俺の脇では、カエサルが感じ入った様子でその様子を見つめていた。
「え? 母様に兄様まで、どうしちゃったの?」
 マーリンは母親とカエサルを順に眺め、戸惑いの滲む声をあげた。
 ちなみに、なぜマーリンがカエサルに対し『兄様』と呼び掛けたのか――。それはカエサルが領主の長男で、マーリンの実の兄だからだ。
 いくら隊長とはいえ家臣でありながら俺たちと共に子供部屋に入室しようとするカエサルの行動を訝しむ俺に、彼自身が明かした。
 彼は家臣に甘んじるこの状況について子細こそ語らなかったが、たったひと言「自分はドスですから」と寂しげに補足したのが印象的だった。
 重ねてになるが、ウェールは地方領ではあるものの王家からの覚えも目出度く、広大な領は土地が豊かで、古くからヴィルファイド王国の穀倉庫との異名でも呼ばれている。そんな名門ゆえ、代々の領主は皆ウノの者が務めている。
 カエサルがドスであることを理由に後継者を辞退して、護衛部隊員を志願したであろうことは瞭然だった。
 個々の家庭の事情に口を出すつもりなど更々ない。しかしウノ至上主義の階級社会に対し、無意識のうちに喉元に苦いものが込み上がってしまうのは、俺自身セイスを理由にこれまで辛酸をなめ尽くしてきたからに違いない。
「あぁ、よかったわマーリン。あなたったら、見違えたように元気になって」
「本当だ! 僕、もう胸が苦しくないよ!」
 マーリンは母親に告げられて初めて気付いたように、目を丸くして心臓に手をあてた。
「よかったなマーリン、ここにいるセリシア様がお前を治してくださったんだ」
 カエサルがセリシアを示せば、マーリンは枕辺に立つ彼女を見上げてパチパチと目を瞬いた。
「あなたが僕を治してくれたの?」
「ええ。マーリン様が元気になってよかったわ」
「そっか、どうもありがとう!」
「どういたしまして」
 ここで領主は抱擁を解くと、セリシアに向き直って深々と頭を下げた。
「セリシア殿、本当になんとお礼を申し上げたらよいか。息子共々、心より感謝申し上げます。また此度の謝礼につきましては侍従に申し伝え、客間の方に運ばせて――」
「い、いえ。治療に対して金品の一切は不要です。領主様のお気持ちだけ、頂戴させていただきます」
「そんな。どの薬師にも匙を投げられ、儚くなるのを待つしかなかったマーリンを治していただいたのです。なんの礼もせずにお返しするなど、それこそ私どもの気が済みません!」
「……でしたら、今宵ひと晩の宿泊をお願いしてもよろしいですか? それから、領主様が屋敷内に造らせたという温泉を使わせていただけたら嬉しいです」
 セリシアは領主の勢いにたじたじになりながらも、ふと思い出したように先ほどチナが口にしていた要望を伝えた。
「そんなのはお安い御用です! 客間を用意しますので、温泉も皆様方で自由にお使いください」
「えー、いいなぁ。僕も一緒に入りたいたいよ」
 すっかり回復したマーリンは、無邪気に訴えた。
「これマーリン! 恩人のセリシア殿に無礼を言うんじゃない!」
 領主が息子を窘めるのを、セリシアがそっと制す。
「いえ。よかったらマーリン様も一緒に入りましょう。みんなで入った方が絶対に楽しいわ」
「やったぁ! ありがとう、……ええっと、セリシアお姉ちゃん!」
「まぁっ、ふふっ。マーリン様に『お姉ちゃん』と呼んでいただけるなんて光栄です」
 マーリンはセリシアに満面の笑みを向ける。
「ちょっとちょっと! セリシアお姉ちゃんのことは『お姉ちゃん』って呼んでもいいけど、お兄ちゃんのことは『お兄ちゃん』って呼んじゃダメなんだからね!」
「え?」
 突然のチナの言葉にマーリンは、ポカンとした顔をしていた。
「こら、チナ」
 俺が苦笑してチナの頭をクシャクシャと撫でれば、チナは見せ付けるようにその腕にキュッと抱きつく。子供らしい独占欲を前面にするチナに対し、同席していた領主夫妻が不服の声をあげることはなかった。
 ふたりの関心はチナの小さな無礼よりなにより、病床に伏していたのが嘘のように精気溢れるマーリンただひとりに注がれているようだった。ただし、それは領主夫妻に限ったことではなく、子供部屋に集った皆の顔に微笑みが浮かんでいた。マーリンだけは、いまだ「よく分からない」という顔をしていたが。