そんな思いをよそに、ヒロシは明かりのついている病棟へと足を踏み入れていた。


仕方がない。


伸びている警備員の頭から帽子をいただき、俺は歩き出した――。
病棟内に足を踏み入れた俺たちは、周囲を警戒しながら恐る恐るリナの部屋へと近づいていた。


普通の病院のようなつくりでないことはすぐにわかる。


入ってすぐにある待合室はなく、変わりに真っ白な壁と悪臭と呼べるものが俺たちを待ち受けていた。


これが薬品の匂いで、リナが毎日これを飲んでいるのかと思うとひどく胸が痛んだ。


「マスクでも付けてくりゃよかった」


ヒロシがそう呟くほど、ヒドイにおいだ。


壁と一緒で白いドアには《実験室》とかかれたプレートが掛かっていて、リナの部屋に行くまでにA~Jまでの10の部屋があった。


しかし、どの部屋にも廊下へ面した窓がなく、中を確認する事はできなかった。


「誰もいねぇじゃん」


簡単に部屋まで行き着くと、ヒロシはホッとしたようにそう言った。
「そうだな」


俺はそう返事をしながらも、安心する事ができずにいた。


さっきから嫌な予感がするんだ……。


「ほら」


俺はここで見張っててやるから、早く行けよ。


と、ヒロシが背中を押してくれる。


リナの部屋のドアは目の前だ。


後はこの扉を開けて、連れ出せばいい。


それだけだ。


けど……。


どうしても不安を拭い取ることができない。


「早くしろよ。本当に人がきちまうぞ」


「あ……あぁ」


わかってる、わかってるよ……。


ゴクンッと生唾を飲み込み、回すタイプのドアノブに手をかける。


そっとノブを回し、ほんの数ミリ開いた――その、瞬間。
けたたましい警報が鳴り始めたのだ。


一瞬頭の中が真っ白になり動きが止まる。


「ナオキ!!」


ヒロシの叫び声で我に返り、俺はドアを大きく開けた。


そこには――。


真っ白な部屋、真っ白なベッド、そしてそこに横たわる彼女の姿。


「リナ!!」


俺が大声で呼ぶと、閉じていたリナの目が大きく開いた。


「ナオキさん……?」


「早く、ここから出るんだ!」


リナの手を掴み、強引にベッドから出す。


「警報が鳴ってるわ……」


「あぁ、このドアを開けたら鳴り始めた」


「ダメよ。警報がなったらすぐに人が来る。ナオキが掴まっちゃうわ」


困ったように言うリナ。


確かにリナの言うとおりだ。


さっきから廊下でヒロシの罵声が響いている。
俺は部屋の中を見回す。


「この部屋他に出口は?」


聞くと、リナは小さく首を振った。


廊下を突っ切っていくしかないのか……。


汗の滲む手で、ギュッとリナの手を握り締める。


フェンス越しじゃない、彼女の手を。


「リナ、行けるか?」


「……はい」


少しとまどった表情を見せた後、リナは強く頷いた。


それと同時に、「ナオキィ!!!」と、叫ぶヒロシの声。


よし、行ける。


行くぞ。
俺は大きく扉を開けて、走りだした。


数人の男がヒロシに殴られて廊下で気絶しているのが見える。


ヒロシが3人の男に囲まれ、その中で必死に抵抗しているのが見える。


……一瞬、足が緩んだ。


顔に血が滲んでいる。


3人が同時にかかってきたら、ヒロシだってかなわない。


「ヒロ――」


「行けぇぇぇ!!」


俺の言葉を遮って、ヒロシが叫んだ。


「行けぇぇ! ナオキィ!!」


もみくちゃにされながらの必死の叫びだ。


俺は止まりかけた足を無理矢理前へ押し出した。



「うあぁぁぁぁ!!」


自分でもよくわからない雄たけびを上げながら、俺はリナの手を強く強く、握り締めた――。
☆☆☆

警報音は建物を出てもしつこく鳴り響いていて、俺は振り返らずに全速力で走った。


道路に出てがむしゃらに走り、警報音と建物が後方の豆粒になっても足を止めなかった。


誰かが追ってきているかもしれない。


掴まってしまえばそこで終わりだ。


「ナオキ……!」


リナの苦しそうな声で、俺はようやく我に返り振り向いた。


そんなに走っていないと思っていたハズなのに、気づけばアパートの近くまで来ていた。


「ごめん……大丈夫?」


立ち止まると急に呼吸が苦しくなる。


どっと汗がふきだして、足がガクガクと震える。
「へい……き」


リナは頷き、肩で呼吸を繰り返す。


俺は警戒しながら周囲を見回し、「ここにいたら危ないかもしれない」と、言った。


もしヒロシがあのまま拘束されて俺の事を話してしまっていたら、アパートに押しかけてくる可能性が高い。


「電車で移動しよう」


行き場所なんてない。


どこへ行くのかを決める時間もない。


だけど、ここからどこか遠くへリナを連れて行かなきゃいけない。


「行こう」


俺は再びリナの手をしっかりと握り締めて、歩き出した――。
☆☆☆

最寄の駅でちょうど到着した電車に乗り、客の少ない車内で身を寄せ合うようにして座る。


「平気?」


「大丈夫」


意外な事に、俺よりもリナの方がしっかりと前を見据えていて、体も震えていなかった。


フェンス越しでは見えなかったリナの強さだと、俺は思った。


「ねぇ、ナオキ君」


そっとリナが俺の肩に頭をもたげて言う。


俺は、その肩を抱いた。


「あと2時間なの」


「……2時間?」