「おはようございます。」
 「おう、おはよう。机に資料置いといたから、午前中にまとめて持ってきて。」
 「かしこまりました。」

 朝から、パワハラ上司につかまった。
 今日は絶対、良くない日だ。
 大神留美(おおかみるみ)。二十六歳。独身の彼氏なし。頭がとてもいいわけでもないし、周りに気が利くわけでもない。趣味も特技も特になし。毎日を仕事で埋め尽くされている普通の会社員だ。

 「留美、おはよう。朝から仕事に埋もれてるってどうゆうことよ。」
 
 同期である市橋奈緒(いちはしなお)は、私とは正反対の人だ。頭脳明晰で周りとの関係も良好。どうして私のことをかまってくれているのか不思議なくらいだ。

 「それが聞いてよ。朝からあのくそ上司につかまって、この仕事押し付けられたの。」
 「あちゃー。それで今日も朝から頑張っているわけだ。」
 「私いつになったら定時に上がれるのかなあ。」
 「朝から残業の話…。それはそうと、今日のお昼どこかに食べに行こうよ。リフレッシュして頑張って定時に上がろう。そして、パワハラ上司のパワハラについて、しかるべきところに言おう。んじゃまたお昼迎えに来るから。」

 まったく頼もしい友人だと私は思う。
 一回仕事を手伝ってくれたのだが、それが上司にばれてしこたま怒られたのだ。それからというもの、すきを見ては私を外に連れ出してくれる。パワハラ上司のことも、上層部に言ってはくれるのだが、頭が固いお偉いさん方は聞いてもくれない。

 まあでも、誰かが助けてくれようとしていることはうれしいことだ。

 お昼のリフレッシュに向けて、午前中のやる気スイッチがオンになった。



 結論から言えば、定時に帰れなかった。
 朝上司に押し付けられた仕事は、一応午前中のうちに終わった。ここまでは良かった。午前中の仕事を終えて、奈緒とご飯に出かけようとしたとき

 「大神さん、昨日俺が渡した資料、あれ今日の午後からの会議に使うからお昼のうちに印刷しておいて。あと、夜急に接待は行っちゃったから、それもよろしく。」

 昼のリフレッシュ時間は一瞬で消え去った。
 お昼は印刷、午後は接待の準備と上司に押し付けられた仕事。夜は、接待で好きでもないお酒を飲まされた。
 家に着くころにはもう、日ごろの疲れと、ストレスで思考があまり回っていなかった。視界がぼやけている中に黒い影が突然現れた。

 「すみません。」

 ぼやけた視界のなかに突如入ってきた男に悲鳴も上げずに返事ができたのは、あまり動いていなかった思考のおかげだと思う。

 「鍵を忘れてしまって、家の中に入れないんです。ベランダから中にはいれるので家の中を通していただけませんか?」
 「ああ、どうぞどうぞ。」
 「…ありがとうございます。」

 ―他人を家にいれたのは、これが最初で最後―

 「どうも、これでようやく家に帰れます。」
 「いったいいつからあそこにいたんですか?」

 疲れていて、思考回路もふさがりつつあるのに
 話したこともない隣人と話したのは
 何か日常が変わる気がしたから。

 「何時でしょうね。七時には横浜にある会社を出ていたので、三時間くらいなんでしょうかね。」
 「え、そんなに!今日はもう早く寝てくださいね。」
 「はい。あなたも。お疲れのところ申し訳ありませんでした。今度お礼ちゃんとします。」

 ベランダでお辞儀をしながら言ってくれたその言葉は、カラカラに干からびた私の心に潤いをもたらしてくれた。

 「お礼なんていいですよ。家にはいれない人ほっとく人なんて絶対いないですよ。」
 「…優しいですね。」
 「当たり前のことをやっただけですよ。」

 彼は夜に不釣り合いなさわやかな笑顔を浮かべながら

 「ありがとうございます。では、おやすみなさい。」
 「はい。おやすみなさい。ゆっくり休んでくださいね。」

 あったことも話したこともなかったけれど、確かに私の心に潤いをくれた。
 一日の時間としてはほんのちょっとの時間だったけど、間違いなくいい日にしてくれた。
 久しぶりにぐっすり眠ることができたのは、きっといつもと何かが違ったから。
 彩のなかった世界に、少しだけ色が付いた瞬間だった。

 【これが、彼と初めて出会ったときのことです。彩のなかった私の世界に、少し色が付いた瞬間でした。】