「……ねえ」
 不意に落とされたその声にハッとする。どれくらいそうしてただろうか。顔を上げれば、いつになく冷たい理子の顔があった。
「拓哉が……あなたに会いたいって、……言ってます」
 か細く、そう絞り出すのがやっとのような、そんな音。
 顔のラインで切りそろえられた黒い髪が闇に溶け込んでいくに見える。
 俺になんて一番会わせたくないと思っているくせに、理子は拓哉に甘い。――いや、甘やかすことが、理子に出来たことだったのかもしれない。
 あまりにも脆く、儚い、姉と弟の関係。
 会いたいと、拓哉が望んでくれたことは嬉しかった――けれど、罪悪感の方が大きかった。あんな小さな体で、あんな純粋な子が、もう山場かもしれないと告げられた。
 俺たちがいる世界は、そういう世界だということを、俺はどこかで忘れてしまっていたのかもしれない。
 理子はロビーで待っていると言った。月の光に照らされた彼女の頬は、涙のあとが残っていて、弟の死を覚悟出来ていないその横顔に心が痛んだ。
 拓哉の病室の前まで行く、すすり泣く声が聞こえる。ぼそぼそと、男女の会話は、きっと拓哉の両親なのだろう。
 家族の時間を邪魔していいものだろうかとノックを躊躇ったが、拓哉が俺に会いたいと願ってくれたことを思い出し、扉をノックした。
 ガラガラと、レールを滑っていく扉の先には、拓哉の両親がベッド脇に座って泣いていた。
 足が竦んでしまいそうになり、声がひゅっと止まってしまいそうになる。
「……あ、あの、すみません。拓哉に、会いたくて」
 ――違う。会いたいは、うそだ。本当は、ここから逃げ出したい。
「もしかして、ゆき……さん?」
 拓哉の母親が俺を見て尋ねる。その目は赤く染まっていた。
「あ……呉野幸人です。拓哉と……よく話をしていて」
 どう説明したらいいのか分からない。よく、なんて関係でもなかったけれど、上手い言葉が見つからない。