……やっぱり、やめた方がいいだろうか。
今ならまだ間に合うんじゃないかとは多少なりとも思っている。それでも俺は、その選択肢を浮かべながらも、口にすることはしなかった。
頑張ってみます、と告げた俺に、たえちゃんは嬉しそうに笑っていた。
コンクールに向けて準備はしていくものの、美術部員と同じ教室というのは気が引けて、そのことを相談すると「そういうことなら」と、別の空き教室をたえちゃんがわざわざ用意してくれた。
「ここはね、文化祭とか大きな大会がある時とか、部室では間に合わない時に使う用の教室なんだけどね、今はそういったイベント控えてないから、呉野くんの貸し切りよ」
「いいんですか……? 部員でもないのに、しかも俺だけって」
「いいのいいの、どうせ使ってないんだから。呉野くんも、部室を使うのって気が引けるでしょ? 満足いく絵が描けない環境に置かせちゃうのも問題あるんだから、好きに使って」
「……ありがとうございます」
たえちゃんの好意を素直にありがたく受け取る。
放課後の、橙色に染まる教室が好きだ。そもそも、日が暮れていく時間帯になると、ほっとする。太陽が沈んでいくのを見ていると、自分が生きてることを許されるような気持ちになる。
空が赤く燃え始めると安心する。夜が訪れるから。太陽を気にせず、堂々とこの世界を歩いていける。
たえちゃんがいなくなった教室で、静かに窓の向こうを眺めていると、昨日の出来事がふっと蘇る。
吉瀬と共有した時間は、俺にとって忘れられない時間だった。
今でも鮮明に映像として思い出せるのに、彼女はその時間を覚えてはいない。忘れてしまっているのだ。記憶からごっそり、抜け落ちてしまっている。
申し訳なさそうに眉を下げた彼女の顔が頭から消えない。
彼女の症状を目の当たりにしたのはあれが初めてで、一緒にいた時間がなかったことになってる衝撃を、最初受け止められなかった。いや、今でも正直受け止められてはいない。
けれども、彼女は本当に覚えてはいない。俺と一緒に蝉の墓を作ったことも、コンクールに出るということも、彼女は欠片でさえ覚えてはいないんだ。
それが毎日、繰り返されていく。あったはずのものが消えていくという障害が。
俺とはまた違ったものを抱えている彼女は、いつだって明るい性格のように見えた。俺にだってその態度は変わらない。俺に限らず、他の人間にも同じように接する。それは持って生まれた才能としか思えない。
元々、偏見を持ったりしないのだろう。それが目に見える形でも、見えない形でも、彼女のポテンシャルはきっと変わらない。いつだって、吉瀬は吉瀬のままなんだ。
そんな彼女に、俺はコンクールに出ると打ち明けた。もちろん、彼女は覚えていないけれど、引き下がれないのは、俺の中でなかったことには出来ないから。
たとえ彼女が覚えていなくとも、俺は彼女に話をした。彼女の言葉で、俺は決心したようなものだから。忘れられていても、俺は覚えてる。逃げ腰だった姿勢を、奮い立たせるように追い込む。
描くと決めた。挑戦してきたことのない道に足を踏み入れると決めた、だから逃げない。俺は、俺らしくやっていく。
『すごいなあ、コンクールかあ……あ、描けたらわたしも見せてね』
あの約束も、彼女の中ではもう存在しないのだろう。
一番に見せたかった彼女は、あの約束を覚えていない。覚えられていない約束を胸に抱えながら、俺はイーゼルを準備しては用紙を置いた。
これから挑もうとする高い壁。その先は俺でも見えない。
ここにどんな絵が描かれていくのか分からない。何が完成するのか、それはきっと、未来の俺だけが知っている。ここに向き合った俺だけが見える絵なのだろう。
蝉がひっきりなしに鳴いている。そう言えば、高岡のボイコット運動はどうなっているんだろうか。あれはあれでまた先が見えない。そもそも本当にボイコットするつもりなのだろうか。もししたとすれば、それはそれで大騒動になること間違いないだろう。高岡という男は本当にとんでもない男だ。
気になることが多い中で、何を描いていこうか、沈んでいく夕日を見つめながら考えた。
記憶がなくなるというのは、自分でもどう表現したらいいのか分からない。でもきっと、夜眠って、朝起きるまでに記憶がないように、わたしの記憶を司る機能が眠ってしまっているのかもしれない。起きてるけど、きっと覚えていられないのだと思う。
「え、弥宵ってバイト経験ないの?」
友人の慧子(けいこ)が目を丸く見開き、スマホから顔を勢いよく顔を上げた。
それからすぐに「あ、そっか」と、きっとわたしの事情を察知して納得のいったような顔をする。
「覚えてられないもんね」
夕方にあったことを忘れてしまうというのは日常生活になかなかの支障をきたす。自分の脳なのに、その働きがどんな動きをしているのか分からないし、なくなっている記憶をどう呼び起したらいいのかも分からない。
普段の生活でも人に迷惑をかけていることが多いのに、どこかで働くというのは、それこそ迷惑だけでは済まないこともある。会社に損害をもたらしてしまうかもしれないし、賠償金なんてものまで絡んでくることになったら、わたしは責任を取れない。わたし個人の話でお金がほしいでは、さすがに通用しないだろう。
「憧れるけどね、慧子みたいにバイト掛け持ちしてみたいし」
「えーしなくていいならしないよ。でも弥宵って、夕方に日記つけてなかった?」
忘れかけていた存在に目をつけられ、思わず視線が泳ぐ。
「あー……うん、でもやめちゃった」
家の引き出しにしまった記憶がふと蘇る。あの日記に触れなくなって、かれこれ二か月が経とうとしている。
「書いてないの? でも病院に……」
「ね、だから次行った時、絶対怒られるんだよね」
書いてませんと白状するのは怖いから、どうにかこうにか誤魔化せないかと企んでいたりもする。
なるべく笑い話になるようにと務めるけれど、慧子にはそれが通用しない。わたしの事情にある程度理解を示してくれている彼女は、深刻そうな声色で口を開く。
「書かなくて大丈夫なの?」
「今のところ問題なし。ちょいちょい忘れてるけど、命に関わるようなことじゃないし」
小学生の時、病院の先生に「日記を書く習慣をつけていこう」と提案された。
『夕方、どう過ごしていたか書くことで、翌日になっても把握出来るし、その日の夜に思い返すことで記憶が保てるようになっていくかもしれないからね』
そう言われて続けた日記も、今でもやめてしまった。
毎日、毎日、同じようなことが書かれている。学校から家に帰るまでの、つまらない日常が。
極力、寄り道をしないようにと両親から言いつけられ、それを高校生になった今でも律儀に守っている。日記に書いてある文章は、〝学校を出て、夕日を見て、家に帰ってドラマを見る〟という一文。時々、家に帰ってからお母さんと買い物に行った、なんて出来事も入っていたりするけれど、テンプレートはいつも決まっている。書くことが面倒で、短くおさめているのではなく、純粋にこれだけしかないのだろう。
この時間になにか問題が起こっても困るから、わたしはそのつまらない生活を送ることだけを守っている。
そんな日記を続けていると、どうせ同じような生活を送っているんだからと、書くことの意味を見いだせなくなってしまった。
夕方の記憶がないなら、何もしてない方がずっといい。覚えていられる記憶だけでいいんだから。
「……暑そうだな」
不意に慧子から落ちた視線に首を傾げる。慧子の視線が、廊下側の席へと向けられているので辿れば、長袖の白いシャツを着た呉野くんが、ぐったりと机に伏せて眠っている。
半袖でも暑いこの真夏の時期に、呉野くんは季節関係なく長袖を着用している。それは彼にだけ許されている特権で、それでいて義務のようなものでもあった。
「やっぱ、太陽に当たるとやばいんかな」
慧子の呟きに「どうなんだろうね」と小さく返す。
黒い髪が一瞬揺れる。壁を見ている頭の下に腕を置き、本格的に寝る体勢を取っているらしい。その後ろ姿は、他の男子生徒よりも線が細いように見えて、実際、彼は細いのだと思う。あまり食べてるシーンを見ないし、動いてるようなところもあまり見ない。
休み時間はああやって机に頭をつけてしまって、周囲と距離を遮断する。それは入学からあまり変わっていないスタイルだと思う。三年連続同じクラスなのに、話したことは最低限の会話ぐらい。
だから彼の病気の詳細は知らないし、噂ぐらいにしか把握はしてない。
太陽に当たると皮膚に悪いとかそんな程度の知識ぐらいしかないものだから、彼との距離の詰め方は皆分からないと思う。
「呉野くんってさ、顔はいいのにもったいないよね」
「もったいないって?」
「ほら、あんま人と喋ったりしないじゃん? あれである程度喋って、なおかつ普通だったら絶対モテてたよ」
「普通……」
どうしても、彼には病気がつきまとう。見えない何かを恐れるように、彼との間に壁を作ってしまう。その中には当然わたしも含まれているのだけど。
けれど、こうして彼の話題があがる度に、自分と重ねてしまう。
〝わたしも普通には見えていなんだろうな〟と。
夕方だけ記憶がなくなるなんて、そんな面倒な人間に関わりたくないだろうし、わたしの事情を話すと、その人の笑顔はみるみるうちに強張っていく。引きつるような愛想笑いを何度も見てきたし、実際、どう反応していいのかも分からないと思う。
唯一、高校で知り合った慧子だけは、そんな事情も理解したうえで付き合ってくれている数少ない友達。
「あ、でもさ、結構美術の時間で呉野くんと話したりしてない?」
思い出したかのような顔をする彼女に、ああ、と小さく頷く。
「もしかしてうるさい? 場所隣だもんね」
美術部に所属する慧子にとって、あの時間は勝負と言っても過言ではなく、絵にとことんパワーを注ぐ。邪魔されるのは嫌いだから、場所は隣でも話しかけたことは一度もない。
「いや、全然。集中しちゃうから会話聞こえてないけど、たまに集中切れたときとかにぼそっと聞こえたりするから」
耳下で揃えられた髪。ベリーショートが似合う彼女の耳には校則違反のピアスが、控え目に耳たぶで光っている。シルバー色のそれは、見つかったらすぐ没収されてしまうというのに「バレないバレない」と謎の自信でなんとか生活指導の先生の目をくぐり抜けている。
「でも呉野くんと話すことある?」
「あるよ。ほら、先週まで描いてたりんごの絵とか。慧子が最初に目をつけてたでしょ?」
彼のりんごがすごいと知ったのは、隣で慧子が「すご」と珍しく人の絵を褒めたことがきっかけだった。
「ああ、あれはすごいけど……え、でも本人に話したの?」
「……? 話したよ?」
「えー勇者じゃん」
信じられないとでも言うような顔で驚きを露骨に出してくる。
慧子が「りんごは本当は描くの難しいんだよ」とか「呉野くんの目は逸材」とか、そんなことを言うものだから、目の前にいる彼の絵が気になって、こそこそと後ろからのぞいていた。慧子が指摘していたところを見ていくと、確かに自分の絵とは全然違っていて、絵の基礎なんて分からないけど、彼が上手いということだけは分かるようになった。
「それ聞いて呉野くんなんて言ってたの?」
「んー……信じてないような感じ?」
あの時、彼に言った褒め言葉は全て、慧子からの受け売りみたいなものだったけど、でも本当にその通りだったんだ。光の当たり方とか、線の捉え方とか、意識すればするほど彼のように上手くは描けなくて、いつしか実物のりんごではなく、彼の描くりんごを見てる時間の方が長くなってしまっていた。
正直、慧子が描くりんごと、彼の描くりんごのクオリティはほとんど同じようなもの見えた。あれを本当に初心者が描いているのかと思うと信じられないし、本当に彼のことは天才じゃないかとも思ってる。
「でも呉野くん話しやすかったよ」
実際に話してみると、彼は普通に話してくれたし、会話も成立していた。
わたしの言葉をちゃんと受け取ってくれて、変に相槌を打つこともしない。話していて何故だか居心地がいいと思える。そんな風に思うのは不思議だ。
「へえ……なんか呉野くんが喋ってるとこってイメージつかないや」
「慧子も話してみたらいいよ。ってか、慧子が呉野くんの絵を褒めた方が説得力あると思うし」
「わたしに褒められたって嬉しくないでしょ」
「嬉しいよ、美術部員から言われた方が。呉野くんも美術部入ったら良かったのにね」
「まあ、あれだけの才能があるなら、入ってればとは思うけど……いやあ、でも入ってほしくなかったかも」
「どうして?」
「自分の才能のなさに毎日ぶち当たりそうだから」
むりむり、と首を振った彼女に、そういうものなのか、と知る。
でもきっとそれは、頑張ってるからこそ他人に抱く劣等感なんだろうかなとも思う。
がむしゃらに、真剣に、何かに取り組んでいるから、敵わない相手を見て悔しいと思うのだろうし、挫折を味わうのだろう。その世界で戦っているからこそ知れる痛み。
だとしたら、わたしは、わたしの人生で一度もその痛みを経験したことはない。
頑張るということを、どこかで諦めてしまった。自分の抱えているやっかいなものに責任を押し付けてしまった。忘れてしまうから、極力代わり映えのない生活を送ろうと、いつの間にかそれで落ち着いてしまった。
「あーコンクールも近いし、頑張らないといけないのに、呉野くんのりんご思い出したからなんか無理だあ、頑張れない」
「慧子ならいけるよ。めちゃくちゃ上手だもん。わたし、慧子の絵、好きだよ」
独特な色使いの慧子の絵は、見ていて心が明るくなる。海が青ではなく、紫と白で塗られている絵を見た時に、慧子は「絵に決まりなんてないから好きに描いてる」と言っていて、それがとんでもなくかっこよく見えた。
好きに自分を表現出来るって、それってすごく素敵なことで、その世界を見つけられてるのってすごいなと思う。
「弥宵がそう言ってくれるから嬉しいけどさあ……はあ、それでも呉野くんの絵は断然上手いんだよ」
経験者を落ち込ませるだけの才能を持つ彼は、一体どんな人なんだろう。どうして絵があんなにも上手く描けるのだろう。どんな目をして、どんな世界を映し出しているんだろう。
「はあ……呉野くんもコンクールとか出ればすーぐ優秀作品とか選ばれるんだろうなあ。呉野くんの絵も見てみたいけど、あー……見たらより一層自信なくす」
「なんか矛盾してるね」
「矛盾してる、分かってる、わたしの情緒、今とんでもなく散らかってるから」
ぐわんぐわんと悩む慧子は、本当に絵が好きなんだろうなと思う。描くことも見るのも好きだからこそ、呉野くんの本気の絵を見てみたいと心が掻き立てられるのだろうし、それを見たいようで見たくないという葛藤に襲われるのだろう。
「コンクールって、一般の人も出れるの?」
もし出れるなら、呉野くんも出てみたらいいのに。あんなに上手いんだから、一度本気の絵でも描いてみたらいいんじゃないかと思う。
「出れるよ。出れるけど、出てほしくないよ。もうわたし負け確定だもん」
「慧子がそこまで自信なくすの珍しいね」
「そんだけ上手いんだよ」
それだけ上手いのか。本当に呉野くんは初心者なのだろうか。本当に描いたことがないんだろうか。実は昔絵画教室に行ってたりしてんじゃないのかな。それか上手い人に教えてもらってたとか。わたしだって初心者だけど、初心者の絵には見えなかった。もし本当に初心者ならそれは本物の天才だ。でもそんな人いるんだろうか。本物の天才なんて人が、この世界にいるんだろうか。