30日後に死ぬ僕が、君に恋なんてしないはずだった

「そうだね、その方がいいね。踏まれちゃいそうだし」
 俺と同じような考えを見せるものだから、すこしだけ驚きを覚えるものの、その直後の行動に、更に驚きを強く覚えさせられた。
「せっかくだからお墓でも作ろうか」
 そう言った彼女は、躊躇いもなくコンクリートの上で転がっている蝉を手に取った。桜貝のような小さな爪と、白く細長い指で、ひょいっとつまんでしまったその光景に一瞬言葉を失ってしまう。それは、引いたとか、信じられないとか、そんなものじゃなくて、俺が出来なかったことをいとも簡単にやってのけてしまったという意味で。
 彼女は「あの辺がいいかな」と、等間隔で並んだ木の下へと歩いて行く。その背中に「あ、うん」と気後れしながらついて行く俺は、なんとも情けない。
 お詫びと言ってはなんだけれど、という意味も込めて土を掘った。彼女の桜色の爪を汚したくなかったという理由もあるけれど。
 浅く、けれども蝉一匹埋まるぐらいの穴を掘ると、彼女はゆっくりとその亡骸を置いた。
「早く生まれ変われるといいね」
 そんな綺麗な願い事を託して、そっと土をかぶせていくその姿に目が離せなかった。
 蝉にそんな言葉を使う人は初めて見たし、生まれ変わりを願ってあげられる人もまた、俺は初めて見た。こんな人が本当にいるんだという、まるで信じられないものを見てしまったという衝撃が、俺の心に強いインパクトを残していく。
「もしかして、蝉を見つける度にああやってお墓作ってるの?」
 埋め終わり、もっこりとした場所を見つめている彼女にそう問いかけると「ううん」と苦笑を滲ませる。
「蝉にお墓を作ったのは初めてかな。さすがに毎回してたら、この時期大変だから」
 そっか、と続けたあと、じゃあどうして今回はお墓を作ったのかということを聞こうとして、やめた。あまり会話を長引かせるのも申し訳ないし、早く帰りたいと思っているかもしれないと考えると、話を終わらせた方がいいと思った。
「でも、呉野くんがあまりにも可哀想な目をしてたから。こうしたら安心するかなって」
 けれど、そう続けた彼女に「え」と驚きが漏れていく。
「形だけだけど、でも、その形だけで救われることはあるでしょ? 大なり小なりあると思うけど、なんかこうした方がいいかなって」
 それはつまり、俺の為にしてくれたということなんだろうか。まさかの回答に、逡巡しては「そっか」と、また同じ言葉を返してしまった。本当はもっと気の利いたことを言えば良かったのに、結局出てくるのはそんな言葉で、自分の語彙力のなさに呆れてしまう。
 確かに可哀想だと思ったし、踏まれないような場所に移動させたいと思った。わざわざお墓を作ろうとは考えなかったけど、たしかに見えないところで踏まれてしまっているよりは、こっちの方がよかったのだと思える。
「なんかさ、知らないままでいたら、別に気にすることもないんだろうけど。でも知っちゃったらさ、気にしちゃうじゃない? いろんなことに言えることだけど、蝉にそう思ってる呉野くんって純粋なんだなと思って」
 彼女の直球過ぎる言葉が、とんでもなく眩しく感じてしまう。――ああ、きっと似ているんだ。苦手なあの子に。だから眩しくて、目を逸らしたくなってしまう。
 俺は別に純粋でもないし、お墓を作ろうと考えた彼女の方がよっぽど純粋だと思うけど、それを言葉にするのは控えた。今でも、どこまで思ったことを言っていいのか、その境界線が分からない。無意識に傷付ける言葉は使いたくないし、出来れば俺なんかの言葉で傷付いてほしくない。
 だからどうしても、喋る内容は頭でまず考えてしまう。そのままタイミングを逃すこともあるし、話すことを躊躇してこうしてやめてしまうこともある。
「――あのさ」
 それでも、躊躇した代わりに、ぽつんと出た言葉がふっと浮かんだ。
「今日、たえちゃんに授業のあと呼ばれたんだ」
 この流れでするような内容ではないと、空気の不一致さを感じ取りながらも、何故だか話したいと思った。
「吉瀬が言ってたことと、同じようなことを言われた」
 ぽつぽつと出てくる言葉に彼女は「あ、やっぱり?」と話を聞いてくれる。
「そりゃあそうだよね、だって呉野くんのりんごは特別だったもん。まあ、友達の受け売りだったりするんだけどね」
 肩をすくめて笑う彼女に思わず見惚れてしまう。
 特別だと、そう思ってくれるのはきっと、吉瀬ぐらいなのだろう。なんてことはないりんごを、そうやって褒めてくれるのは吉瀬と、ああ、あとはたえちゃんぐらいだ。
「……それで、絵を本気で描いてみないかって言われて」
「絵? あ、もしかして呉野くん、美術部に入るの?」
「あ、いや、さすがに……もう高三だし、部活入るようなタイミングでもないんだけど」
 そこまで言って、用意していた言葉に迷いが生じる。
 話していいのだろうか。このまま続けてしまっても。
 ぷつりと切れた会話に、彼女が不思議そうな顔で首を傾げる。その顔は、俺の話す内容を待ってくれているような顔で、生じた迷いをざっと拭う。
「……秋にあるコンクールに、出品しないかって」
「え、コンクール?」
「うん……」
 たえちゃんから告げられたその言葉が、今でも頭の中をぐるぐると再生される。柔らかい表情は、とても冗談を言っているようには見えなかった。
 美術部員でもない俺が、そもそもコンクールになんてと思ったし、もちろん断るつもりでいた。
『呉野くんはね、絵を描くのに向いてると思うの。無理強いをするわけじゃないんだけどね、でも、呉野くんには描いてほしいなって。もしすることがなかったら、もしすこしでも興味があるなら、絵の道に触れていてほしいな』
 思い出づくりとしても最適よ、と締めたその提案に、断るはずだった選択肢が、ふわりと消えてしまった。
『それにね、こうして呉野くんの絵を見せてもらえたことも、なにかの縁だと思うの。ごめんなさいね、おばさんの縁に付き合わせちゃって』
 たえちゃんはなにかと縁を強調する。けれど、その縁が、嫌だと思わなかったのは不思議だ。
 することはない。部活に入るわけでもなく、帰宅部を貫いてきたこの三年間。中学は部活に入ることを強制されたが、幽霊部員でもいいとの誘いで卓球部に在籍した。もちろん、絵とは無縁の生活。
 ただ、このままでいいのだろうかとは思っていた。いい加減、進路を決めなければいけないのに、俺はまだぼんやりとしている。もう夏なのに。もう卒業という文字が迫ろうとしてきているのに。俺は未だに、この先の人生をどう生きていきたいのか決められないでいる。
 ――いや、決める必要があるのだろうかと、思っているんだ。それに触れないように、今を生きているだけで。
「コンクール……出ようと思って」
 弱々しく出ていく決意は、なんとも頼りないもの。まだ半日も経っていないというのに、それでも俺はもう、コンクールに出てみようかという気になっていた。
 何かが変わるような気がして、変わってほしいと願って、それを、彼女に伝えたかった。
「すごいね!」
 そんな俺の選択肢を、彼女は笑わないで聞き、それから本日二度目のすごいをもらった。
「えー呉野くんがコンクールかあ! うん、いいと思う! うん、いいよ!」
 その顔は、どこか嬉しそうな表情に見えて、思わず口元が緩んでしまう。――ああ、そうか、いいんだ、これで。
 不安だった気持ちが、彼女の笑みで和らいでいく。たえちゃんとはまた違う、優しさの滲んだ笑い方。
「すごいなあ、コンクールかあ……あ、描けたらわたしも見せてね」
 彼女の頬が夕日色に染まり、きらきらと輝く。その美しさに目を奪われながら「もちろん」と、自然と口角が上がっていた。
 朝起きてからのルーティンは、朝食と身支度と、それからクリームを体に塗るということ。紫外線防護クリームを塗ることで皮膚が保護され、皮膚がんになるリスクを軽減する。はっきり言って効果があるのか知らないし、基本的に紫外線を極力浴びないように長袖だったり、マスクをしたりするものだから、このクリーム自体は気休め程度しかない。それでも塗らなかった日は落ち着かないし、太陽の光はなおさら脅威に思えてしまう。
 これだけはどうしても欠かせない。日光を浴びると、死に近付いていくような気がする。ヒリヒリ、ジリジリ、焦がされ、次第に灰になっていくような感じがたまらなく怖い。

「幸人、クリーム塗ったの?」

 朝から不機嫌そうな声がリビングから飛んでくる。仕事で疲れていると言わんばかりの疲労をその声に感じながら「うん」と手短に答え、玄関へと廊下を突き進む。

「もう、朝ぐらいちゃんと食べなさいって」

 振り切ろうとしたその声は、いよいよ扉という壁を突き破るように出てきた。
 眉間にしわを寄せた母親の顔など、朝から見たくなどない。

「朝は食べる気にならないから」
「だからって、昨日の夜だってあんま食べてないでしょ」

 作り置きされていた夕食を、すこしつまんでは流しに放り込んだ。
 食欲はここ最近ない。食べようと思うと、なんだか全身が重たくてしょうがない。

「あんたのこと心配して言ってるんだからね」
「うん……」

 そんなありがた迷惑な善意などいらない。
 さっさと出てしまおうと、ずんずんと歩みを進めた。

『太陽と相性合わないって、そんなもん生まれてから言われたって遅くね?』

 靴に足を突っ込んだタイミングで、どうしてだか高岡の言葉が頭に過った。あの日、ほぼほぼ初めて会話をしたような奴の台詞が、どうも耳に残ってしまったらしい。
 生まれてから言われても、確かに遅いな。
 自嘲にも似た笑みが自然と抜けていった。
 この地球上に、太陽は切っても切り離せないもので、なくてはならないものだというのに、どうして俺は、その太陽と相性が悪いのだろうか。なんでこんな厄介な病が存在するというのか。よりによってそんな病を患わなければいけないのか。
 治療法がないとされてるこの病を、俺は死ぬまで付き合っていかなければならない。
 だからきっと、人生でいろいろなものを諦めてきていたのだと思う。やりたいことが出来ないから、それなら最初からやりたいなんて思わなければいいと。ばらばらと、生えてくる木の幹を削ぎ落して、無理矢理一本にそびえたつ木にしていく。わき見しないように、それてしまわないように、ただただ真っ直ぐ。

 そんな俺が、絵を描こうとしている。描いたこともない絵を、誘われたからという理由だけで受けようとしている。それもこれも、全ては吉瀬という存在が関係しているのだろう。
 向いてる、なんて言われて、戸惑った。そんなわけがない。そんなお世辞を言われたってどう返したらいいか分からない。それでも、彼女の言った通り、絵の道を極めたたえちゃんが、同じように向いてると俺に言った。
 正直、自分では向いてるのかどうか分からない。分からないけど、もし仮に向いていることが俺に一つでもあるのなら、真っ直ぐだった木から――道からそれてしまってもいいだろうかと思えた。そんなことを思うことは一度だってなかったのに。諦めることは得意だったのに。
 朝の学校へと向かう時間帯は、まだ太陽がのぼりきってなくて、涼しいとは言い難いが、それなりに過ごしやすい空気が漂っている。眠気をしっかりと背負いながら、各々で向かうべき道へと進んでいく。
 スーツを身にまとったサラリーマンも、制服に袖を通す学生も、子供を自分の後ろに乗せて自転車を漕ぐ母親も、皆、それぞれの戦闘服を来て、今日一日を頑張ろうとしている。
 なにかを頑張りたいと思えたのは、人生で初めてだったのかもしれないと、道行く人を見てぼんやりと思っていた。
 校舎へと近付くにつれて、声が賑わい始めた。朝から葬式に参列するような顔をしている人もいれば、朝からよくそんな声を出せるなと思えるような人もいた。思わずその声の主へと辿っていけばあの高岡で、なんだかむっとした。やたらとあいつの存在が朝からちらつく。迷惑だ。
 その存在を視界から消すように視線を戻すと、少し前を歩く後ろ姿にはっとする。白いシャツの上で躍るような漆黒色の髪がつやつやと光っている。一本一本がしっかりとした健康そうな髪質は、今日も今日とてさらりと軽やかな動きをつけていた。
 吉瀬だ、と気付くものの、追いかけて声をかけるようなことはしなかった。昨日の今日で、少しは距離が縮まったように思うのは、きっと俺だけかもしれないし、そもそもかけたところで、朝から迷惑じゃないだろうか、なんて考えると、歩くスピードが変わることはなかった。
 きっと吉瀬のことだから、なんてことはないような顔で受け入れてくれるのだろうし、迷惑そうな顔だってしないのだろうけど、それでもやっぱり人に話すというのは怖気づいてしまうところがある。それを振り払おうと思っても、振り払えるようなものじゃない。そんな簡単なシミなら、とっくの昔に拭ってるし洗い流してる。
 結局、彼女の背中を見ながら登校することになった。昇降口でも彼女が俺に気付かないように、ゆっくりと時間をかけ歩き、彼女が上履きに履き替え階段へと向かうタイミングでようやく校舎へと入った。
 コミュニケーション能力が低いとか、まあそれも関係してるのかもしれないが、一番はやはり、嫌われるということを恐れているのが大きな要因なのだろう。
 嫌われてきたから、自分から嫌われる行動を取りたくない。だからクラスメイトも見かけたって挨拶の一つも出来ないんだ。情けない。
「やっぱり照れくさいね」
 一限目は幸か不幸か、美術の時間だった。イーゼル越しに彼女とこうして対面するのは二回目で、やっぱり慣れないものがある。「そうだね」と返した俺に「ね」と苦笑する彼女。
 俺と話すことに抵抗はないんだろうか、とか、病気のことは知ってるよな、とか、様々な疑問が浮かぶけれど、何一つとして声として出ていかない。そんなナイーブな話をされたところで困らせるんだろうけど、と思いながらケント紙に世界を落とした。
 彼女の輪郭を切り取っていこうとすれば、不意に夕焼けに照れされた頬を思い出す。きらきらと輝いて見えたあの笑みが頭から離れない。
 彼女と一緒に作った蝉の墓が映像として流れた。それからコンクールのことも、あんなことを誰かと共有するのは初めてで、まだ色濃く残ってるうちに余韻に浸りたいと思った。
「昨日のさ、コンクールの話なんだけど」
 ――あれは、吉瀬に言われたのもあって、受けてみようと思ったんだ、と。そう続けるつもりだった。そう言えば、彼女のおかげだったというのは伝えていなかったと気付いたから。
「コンクール?」
 こてん、と首を傾げた彼女が不思議そうな顔を見せる。まるで初めて聞いたような反応に「あ、えっと」と言葉が詰まる。
「あの、昨日さ、蝉の墓を作った時に――」
「蝉……」
 昨日に繋がるキーワードを懸命に繋ぐのに、ことごとく彼女には届かないような感覚に違和感を覚える。
 なんで……確かに昨日は一緒に……
 あれは夢だったのだろうか。俺が作りだした幻想だったのだろうか。でもあれは確かに……
 そこまで到達して、彼女が抱えてるものを思い出し、呼吸が止まった。
 〝覚えてないんだ、――昨日の夕方のことは〟
 空が真っ赤に燃えていた時間帯。夕日が世界を照らしている時間、彼女はその時の記憶が保てない。そもそも覚えていないのだから、自分がどう過ごしていたかなんて知らない。
 昨日のことは、彼女の中でなかったことになっているんだ。たとえその時間が俺にとって忘れられない記憶になっていたとしても、彼女は違う。今の彼女にとって、あの時の時間はぽっかり穴が空いたように存在していない。
 自分との時間が忘れられているという事実が、すぐに受け止められなかった。
 泳ぐ視線に、増える瞬き。覚えてない。それが分かってしまうと、どう対処すればいいのか分からない。散々迷って、結局出てきたのは「あ……ごめん、なんでもない」という情けない一言だった。
 下手に作った笑みがすぐに崩れていくのを隠すように、上履きに視線を向けた。
 引きつる頬は、上手く笑えていただろうか。違和感に、気付いていないだろうか。
 彼女の顔が見れなくて、確認出来なくて、残りの時間をどうするべきかと考えていれば、
「……もしかして、わたし……何か大事なこと、呉野くんと話してたかな」
 か細く、消え入りそうな音が鼓膜に届く。視線を上げれば、ひどく申し訳なさそうな表情を見せる顔を目が合う。
「ごめんね、あの、知ってるかもしれないんだけど」
 そう切り出した彼女の声は、どこか震えているようにも聞こえる。
「わたしね……なんでか分からないんだけど、夕方の記憶だけが翌日にはなくなっちゃって。なんていうのかな、思い出そうとするんだけど、どうしてもその時間だけがごっそり抜けちゃうの」
 知ってる、と言ってしまいそうになるのを喉の奥で留めた。彼女の噂はきっとクラスメイトのみならず、他クラスの生徒も知ってる事実だ。
「変だよね、わたしの頭」
 無理に笑った笑みを微かに口元に残すその顔は、とても痛々しい
「昔からなの?」
 ぼそりと出た俺の問いかけに、彼女は「うん……」と小さく頷く。
「物心ついたときからかな。気付いたら、夕方だけ記憶がないの。おかしいよね、他の時間は覚えてるのに」
 おかしいと、彼女は自分を受け入れらないような言葉で紡いだ。そんなことはないと、俺が言ってしまうのはおかしい気がして、ただ静かに首を振った。
 その言葉に対して、俺は意見を出せる立場ではない。
「……忘れてるって、どんな感じ?」
 そのかわり、間を繋ぐために出て来た言葉はそんな陳腐なものだった。我ながら恥ずかしくて、すぐに取り消そうとしたけれど、彼女は「んー」と悩むような素振りを見せた。
「なんだろう……わたし的にはね、そんな不思議でもないんだ。ほら、人間って昨日のことを思い出すのに、全部細かく覚えてるわけじゃないでしょ? わたしの場合、二時間ぐらいの記憶がなくなってるだけで、あとはある程度覚えてるからそこまで支障がないっていう感じかな。覚えてるはずの時間帯でも忘れてることあるし。あ、昨日の晩御飯何食べたっけ、とか、そんな感覚かな」
 俺のどうしようもない問いかけにも、彼女は生真面目に返してくれる。愛想をしっかりと添えて。俺と違って、彼女は誰とでも仲良くなれてしまう。大きなハンデを背負っていながら、それでも彼女は気さくに人との壁を乗り越えていく。
「……そっか」
 ぼそり、彼女の答えに出たのは、どこまでも情けない一言だった。
 似たような経験を持つのに、彼女の場合は次元が違う。ごっそり抜けてしまう記憶があるというのは、やっぱり俺では想像も出来ない。
「だから、もし昨日の夕方、呉野くんと話してたことがあるなら、その……」
「あ、いや……たいした話じゃないから」
 そう、たいしたことではなかった。彼女の記憶からごっそり抜け落ちても、なんの問題もない、そんな時間だったんだ。それを俺が、勝手に特別視してしまっただけの話で。
 彼女が覚えていなかったら、話を振ったりしなかった。蝉の墓も、コンクールの話も、わざわざぶり返したりなんかしない。俺だけの心に留めておいたのに。
 彼女は困ったような顔で「ごめんね」と謝った。きっと今までにも、こんなことがごまんとあって、その度に彼女は謝ってきたのだろうか。故意で忘れてしまったわけじゃない記憶の罪を、彼女はこうして謝り続けてきたのだろうか。
 それはやっぱり、とても辛いことなんだろうな。中には覚えておきたいと思う記憶だってあったはずなのに、翌日には忘れてしまうのは、辛くないのだろうか。その真意に踏み込むことは出来なかった。紙には、ぼんやりと輪郭どった彼女の線だけが静かに浮かんでいた。



「なあ、また忘れたんだよ。やばくね? なんで忘れると思う? 教えてくれよ」
「知らないよ」
 昼前の四限目。二日続けて美術の時間があれば、体育の時間だって待ち構えていた。よりにもよってまたグラウンドだ。今日はハンドボールをするらしい。そんな中、長袖のカッターシャツを着てる俺は、恒例となった木の下の影に逃げ込み、その隣には、あのうるさい高岡が並んだ。どうやら今日もジャージを忘れたらしい。馬鹿なんだろうか。
「見学って暇じゃね?」
「まあ……暇だとは思うけど」
 外に出る以外の種目なら参加出来るが、俺の都合で授業を進めていくわけにもいかない。結果的に出来ない授業もあれば、参加出来るものもある。それはジャージを忘れたとか、そんな理由とはかけ離れたものだ。
「いつも何してんの?」
「別に……ぼーっとしてる」
「うわ、暇。暇の極みじぇねえか。俺、暇は嫌いなんだよなあ」
 いちいちオーバーなリアクションを見せる男に「あっそ」と短く返す。それは、俺が暇好きみたいな発言に聞こえなくもないけれど、わざわざ突っ込んだりはしない。高岡とは別にそこまので仲じゃない。
「あ、呉野って選択授業、美術だろ? どう? 楽?」
「楽とは思わないけど」
「え? そうなん? でも音楽よりマシじゃね? 再来週の課題テスト、ソロで歌わされるんだぜ? まじで地獄じゃね?」
「ご愁傷様」
 そんなこともあるだろうから、音楽を回避をした。一人で歌うなんてどんな拷問だ。
「恥ずいわあ。そういうのってせめて小学生で終わりだよな? 高校生で歌えって……せめて得意なやつ歌わせろって話だろ? 卒業式で歌うような学校指定のもの出してくんじゃねえよって話なんだよ。なあ、呉野だってそう思うだろ?」
 さすがに同情を覚えざるを得ない。もしこれが自分だったらと考えると、いくら得意な歌だったとしても、クラスメイトの前では歌いたくはない。その点、クラスメイトを描けと言われた方が随分とまだ良い方だ。心から美術を選んでおいて良かったと救われるような気分。
「んでさ、嫌すぎてボイコットしようかと思ってんだよ」
 可哀想にと思っているところで、なんとも物騒な言葉が聞こえてきたことに耳を疑った。
「え……なに? ボイコット?」
「そ。他の奴らも全員嫌だって言っててさ。じゃあボイコットするっきゃねえなって」
「いやいやいや……」
 何それ。何考えてんだよ。さすがにそれは意味分からない。
「あ、しかも署名活動までしてんだよ。えらくね? 反対でーすって活動すんの」
 しかも変に本格的に動いてるし。何してんだよ、それはいくらなんでもやりすぎだ。
 高岡の話に思わず頭を抱えそうになる。さすがにこれは理解出来ない。頑張れよ。プライド捨てて歌ってこいよ……いや、まあ歌いたくない気持ちは嫌というほど分かるけど。
「ってことでさ、呉野も署名してよ」
 ポケットに忍ばせていたのか、すっと差し出されたその紙に目を見張る。
「本気の署名書じゃん……」
「おう、本気本気。ガチ中のガチ」
 どうやらお遊び半分でボイコットするわけではないらしい。つまるところ、高岡は俺にからからい目的で署名しろと言っているのではなく、理解者を募って授業に参加しないという真っ向からの戦い方で挑むらしい。……真っ向ではないかもしれないが。
 たった紙切れ一枚でどうにかしようとするところがすごいし、大人から見ればこれはやはりお遊びになってしまうのだろう。
 ペンならあるから、と準備万端の高岡に、俺は迷った挙句にその紙を受け取った。ペン先を用紙にくっつける前に、また再度躊躇いが生じ、それを振り払うように自分の名前を記入した。
 もしこれが自分に降りかかってる問題だとしたら、と考えると、名前を書かないという選択肢は取れなかった。いやそれはどうかと思う、とも思ったけれど、それは俺がすると偽善者のような気がしてしまって、向こうからすれば〝いや、他人事だからそんな事が言えんだよ〟と言われてもぐうの音も出ない。
「呉野なら分かってくれると思った」
 満足そうに微笑む高岡に、「そう」と素っ気ないものが出てくる。