カンバスに灰を撒く

 それは衝撃を受けたというより、一目惚れに近い感情だったと思う。

 身体にビビビッと電流が走るような運命的な出会いではなかったけど、魅入ってしまうほど惹かれるものがそこにあった。

 空に高く飛び立つ飛行機、耳を塞ぎたくなるサイレン、モノの灼ける匂い。
 平和を願う少女の訴えに誰一人、見て見ぬふりを繰り返す惨状を許した世界。

 たった一枚のカンバスに描かれたその光景に、私は呑まれ、涙した。
 他の作品に目を向け、ろくに見ようともせず素通りしていった人々には、変わった人間だと思われてたかもしれない。
 共感されなくてもいい。私が絵に感動して涙を流した事実は変わらない。

 だから、存在しない美術部に惹かれたのかもしれない。

 あの日に感じた愛おしさも、寂しさも全部。

 私はきっと、忘れない。 
「ちぃ、どうしてこの学校を選んだの?」

 授業終わりに全校生徒が一斉に掃除を行う習慣にも慣れ、廊下の掃き掃除をする最中、私のことを「ちぃ」と呼んだ中学からの友人、早紀(さき)がじっと見つめて聞いてくる。

「急になに?」
「だって私が文化祭に誘う前まで、近くの高校一本に決めてたのに、突然受験するって言うから。びっくりしちゃった」
「あー……うん、ちょっとね」

 先端が曲がってしまった箒を上手く使ってゴミを集める。廊下の端に溜まった埃が固まって引きずられていく。窓から入ってくる光の反射で、細かい埃が宙を舞っているのが見えた。
 早紀は少し考えて重ねて尋ねてくる。

「もしかして文化祭のときの絵?」
「……まぁ、うん」
「そーなんだ! ちぃが絵に興味持つなんて思わなかった」

 隠す必要もないため頷くと、早紀が茶化すように騒ぎ出した。

「そう?」
「うん。だってこれといった趣味ないし、休みの日は引きこもりだし。私が連れ出してあげないとずっと出てこないでしょー。そんなちぃが絵? 全然想像できないよ」

 ゲラゲラと笑って、せっかく集めた埃をかき回す。

 私は早紀が苦手だ。
 勝手にイメージを押しつけられているようで、私がすることすべてを大げさに捉え、意外だ、珍しいと私に言う反面、周囲には以前から知っていたように鼻を高くして振る舞う。私が誰かに連れ出してもらわないと外に出ないという認識は、早紀が勝手に持っている私のイメージでしかない。

 これが策略的に行われているのならまだ許せたかも入れない。本人に悪気がないからなおさら質が悪い。関わりたくなくても向こうからやってくる。だから教室に親しい人はいない。

 私は散らばった埃をまた集めて、屈んでちりとりに入れる。これでまた早紀がかき回しても少ない手数で片付けられるだろう。

「でもなんで帰宅部なの? 先輩を探してるなら、部活に入ったほうが絶対いいって!」
「そんなんじゃないって。バイトで忙しいの」
「はいはい、そういうことにしとくねー……あ、もう戻ろっ!」

 掃除終了のチャイムが鳴ると、早紀は教室へ翻した。その時に持っていた箒の先が、屈んでいた私の目に当たりそうになって避ける。その拍子にちりとりをひっくり返ってしまった。せっかく集めた埃が床に散らばると、「あーあ」と頭の上から呆れた声が聞こえてきた。

「なにやってんのー。もう……ちぃは何もできないね」

 ニヤついた笑みで言っているのが、顔を上げなくてもわかった。適当に返して、私はまた箒を使って散らばった埃を集める。一緒に早紀も手伝ってくれたけど、早く教室に戻ってほしかった。
 私が志望校を変えてまでこの高校に進学したのは、早紀が文化祭に誘ったのがきっかけだ。

 当時の私はすでに志望校は決めていて、受験勉強に励んでいた。息抜きにと言われて渋々ついていったが、早紀の目当ては校風やカリキュラムでもなく、入学したら先輩になる生徒との交流だった。

 確かにコミュニケーションは大切だとは思うが、何も忙しい文化祭じゃなくてもいいと思った。体験入学なら交流する時間なんていくらでも取れる。在校生だって思い出作りに楽しんでいるのに。

 しかし、実際に行ってみれば、来場者との関わりも大切であることもわかるような気がした。早紀は顔ばかりに目がいっていたけど、在校生は皆親切に校内を教えてくれて、屋台のクレープではホイップを多めにしてくれることもあった。気さくな人が多い、居心地の良い学校かもしれないと思った。

 この学校は普通科の中にコースが複数あって、進学を目指すコースの他に、芸術コースが設けられていた。すでに在籍中にコンクールで最優秀賞をいくつも取る生徒が出てくるほど、毎年応募が絶えないという。

 そんな芸術コースの生徒が有終の美を飾る作品展示が文化祭だ。
 展示ホールに行くと、いくつもの作品が壁やパーテーションに飾られ、中央の台には彫刻や陶芸が並べられている。すでにホールには多くの来場者が集まっており、中には吟味しながら見ている人がいた。かっちりとしたスーツを着ていたから、採点でもしているのかもしれない。

 さらっと流して見ていく早紀を放って、一つずつの作品に目を向けていく。

 特別絵が好きなわけではない。ただたまに見てぼーっとするのが楽しい。絵に込められた意味を汲み取ることはできないし、そこまで深く考えるのは向いていない。
 順に見ていくと、ホールの隅にひっそりと佇むイーゼルにかけられた一枚のカンバスが目に入った。
 他の作品は壁に掛けられているのに、そのカンバスだけが異様な空気をまとっているように思えた。列を乱した子供のように、どこか放っておけない気がして、興味本位で近づいてみる。

 『明日へ』と題されたそれは一見、明るい未来を思い描いた世界だった。

 澄んだ青空に、ブルーインパルスを彷彿とさせるスタイリッシュな機体が、雲を突き抜ける瞬間を白と灰色で描かれた風が力強く表現している。地上では、色とりどりの花束を抱えた少女が見上げていた。少女の姿は黒く塗りつぶされていて、どんな表情をしているかはわからない。風で揺れた長い髪が、大きく羽ばたいているようにも見えた。絵画、というより、イラストと言った方がわかりやすいかもしれない。

「なんて希望に満ち溢れた素敵な世界だろう。どの生徒さんも、表現が豊かで良いね」

 来場者の一人が鼻で嗤い、よく見ようともせず通り過ぎていく。

 ――はたして、本当に希望に満ち溢れているのだろうか。

 存じ上げない来場者の何気ない一言に、私は眉をひそめる。
 確かに素敵な絵だと思うが、私には、どうしても希望に満ち溢れた世界ではなく、嘆きに見えたのだ。

 ふと、アクリル絵の具を使った繊細な絵のなかで、ふと鉛筆でうっすらと何かが描かれているのに気付く。それにテレビの特集で見たことのあるブルーインパルスの機体にしては、煤で汚れ過ぎているようにも思える。

 私はカンバスにさらに近付いて目を凝らした。
 灰色の機体の側面には国旗と機体の番号が書かれており、それに縋るように雲に紛れて無数の手が伸びている。表情のわからない真っ黒で描かれた少女の中を覗き込めば、うっすらと泣き叫び、手を空へ掲げる姿が残されている。少女が抱えている花にも目を向ける。特徴からデイジー、コスモス、オリーブ、タンジーと推察すれば、どれも「平和」の花言葉を持つものばかりであることに気付いた。

 近付いてようやくタイトルの意味を知る――だから誰でも近づくことができるイーゼルに飾られているのだ。

 機体に伸ばす手は引き留めたい人々によるもの。
 色とりどりでもまとまりのない花ばかりをまとめたのは、「平和」の花言葉をもつ花を少女が懸命にかき集めたのかもしれない。
 それを踏まえて見ても、作品名だけで希望に溢れたきれいな絵だとは到底思えなかった。

 それでも大抵の人が素通りをしていく。意味など考える間もなく、隣の作品に目を向け、ホールを出ていく。

 その流れを遮るように、私はカンバスの前で立ち尽くした。
 動けなかったのだ。
 繊細で大胆なカンバスに飲み込まれ、悲鳴と警報が頭の中でぐちゃぐちゃに響き続けた。
 きれいなもので彩られたこの世界は、どろどろと醜いものが積み重なってできている。
 遠くで警報が聞こえた気がした。

 *

 それから早紀が呼びに来るまで、私はずっとそこにいた。経った数分にも思えたその時間が、早紀曰く一時間は経っていたという。
 他のブースを見に行く前に、出入り口で配っていた展示一覧表をもらってカンバスの絵を描いた人物を探す。しかし、どこにも記載はされていない。
 不思議に思って受付の生徒に尋ねると、困ったような顔をして答えてくれた。

「あれは芸術コースの作品じゃないんです。美術部が描いたものを、芸術コースで美術部の顧問である先生が置きました。だからこの一覧表には載っていないんです。作者の名前は……わからないんです。あんな絵が気に入ったんですか?」

 私は絵のことなんてなに一つわからないけど、仮にも芸術コースに在籍している人には「あんな絵」なんて言ってほしくなかった。一気に学校のイメージが崩れた瞬間だった。


 それから家に帰って数日経っても、頭にはいつもあのカンバスがあった。
 気になってしかたがない。
 どうしてあの絵を描いたのか。何が正解だったのか。あの引き込まれる世界はなんだったのか。

 気付けば最後の進路希望で、第一志望の高校を変えていた。両親にも先生にも驚かれたが、特に何も言われなかった。私の成績で問題ない範囲内、さらに元々志望していた高校の偏差値より、こちらのほうが高かったからだ。

 選んだのは普通科の進学コース。元々絵は授業で習う程度で詳しくもなければ描くのも苦手だ。それに芸術コースにイメージを一瞬でも崩した生徒を思い出すと、選ぶ気にもならなかった。

 ただもう一度あの絵が見たい。あの絵を描いた作者を知りたい。――その一心だけで入学した。

 中学最後に、名も知らない誰かに想い焦がれたのだ。
 バイトが忙しいから部活には入らない。

 ――という表向きな理由を早紀に伝えたその日から、ハンドボール同好会に勧誘してくる。中学の頃から運動部に入っていた早紀にはもってこいのスポーツだ。運動が苦手な私には苦痛でしかない。

 私だって部活はしたい。
 しかし、入ろうとしていた美術部は呆気なく門前払いされてしまった。

 放課後、美術部に入部届けを出したい旨を担任の先生に伝えると、途端に眉をひそめ「芸術コースがあるのになぜ選ばなかった?」「学科で用意されているのに、部活の一環で同じものがあるのはおかしい」と私に問い詰めるように説明した。

 職員室で尋ねたせいか、周りの先生も嫌そうな顔をしている。気まずい空気の中、担任の先生は美術部に入りたいなら、最初から芸術コースに入っていればいいと、繰り返し力説してくる。言い方が違うだけで、言っていることが同じだった。耳にタコができるかと思った。

「――だから、美術部は存在しない。わかったら他の部活に行きなさい」
「部活は強制ですか?」
「いや、浅野の場合はアルバイトもあるから強制とは言えないが、大学進学や就職の時に繋がるだろうし、同好会に入るのも良いんじゃないか?」
「……強制でなければ、入るつもりはありません。失礼します」

 逃げるようにして職員室から出ていく。どの先生も私を睨んだ。蔑むような、汚いものを見るような、冷たい視線だった。

 なぜそれほどまでに美術部の存在を毛嫌いしているのか、疑問に思った。芸術コースがあるくらいなのだから、部活としてあってもいいだろうに。
 活動内容が被っているというだけなら、校内のニュースや話題を取り上げる新聞部と、生徒会で校内新聞を月に一回のペースで発行している編集委員会だって、同じ活動をしているのだからどちらか一つに絞るべきだ。生徒会の管轄が優先されるのであれば、廃止されるのは新聞部の方だろうけど。

 それに先生たちの態度がどうしても気になる。あの反応だと美術部は存在しているけど、生徒を近付かせないようにしている。何か不祥事でもあったのだろうか。

 職員室を出てから教室に向かう中、それだけをずっと考えていると、突然トントン、と肩を軽く叩かれた。

「――ねぇ、美術部に興味あるの?」
「……え?」

 振り向くと、すぐそこに男子生徒の顔があった。慌てて後ろに下がると、その人は「ごめんごめん」とへらっと笑った。

 上級生だろうか、着崩した制服に三年生の学年カラーである紺色の上履き。やけに色白で、屈託のない笑顔が印象的だった。

「驚かせて悪かった。俺、三年一組の高嶺(たかみね)千暁(ちあき)。怪しいモンじゃないよ。一年生だよね?」
「は、はい……」
「さっきの職員室で美術部の話していただろ? ちょっと気になって声かけちゃった」
「はぁ……でも先生に美術部は存在しないって言われて」
「うーん……ウチの学校、芸術コースがあるからね。毎度コンクールで入賞しているから、先生たちもそっちにつきっきりなんだ」
「そうですよね……教えてくださってありがとうございます」

 やっぱりそうだったんだ。やはり芸術コースがあるから、似た部活はいらないという先生の考えで睨まれたのだ。

 もしかしたら、私が去年見たカンバスの絵の作者はもう卒業してしまったのかもしれない。あれが最後だったから展示してもらえた可能性だってある。受付で資料を受け取ったとき、作者についてもっと詳しく聞いておくべきだった。
 私が大きく肩を落としたからか、高嶺先輩は更に尋ねてきた。

「どこで美術部があるって知ったの? 学校案内のパンフレットにも、ホームページにも載ってないはずだけど」
「……そうなんですか?」

 受験を決めたくらいのタイミングでパンフレットは見たけど、カリキュラムについての記載が全体の三分の二を占めていたし、部活紹介の欄にも目を通したものの、文化部の代表的な部活が三つほど並べられ、最後に「…他」と締めくくられていた。すべての部活動を把握したのは、入学して直後のオリエンテーションの時だ。

 高嶺先輩は苦笑いをしながら、不思議そうに重ねて聞いてきた。

「そうなんだけど……本当にどうやって知ったの?」
「文化祭で、作品展示を見てまわってたときに……」
「待って。……詳しく聞きたいんだけど、場所移していい?」

 周囲を気にしながら高嶺先輩は小声で言った。先輩越しに見れば、さっき職員室で睨んでいた先生がすぐそこまで迫ってきていた。

「高嶺、一年生にちょっかい出すなよ」
「なんにもしてないですよ。それより先生、俺に話しかけてくれるなんて久々ですね」
「っ……お、お前らが他の生徒に迷惑をかけていたら注意するに決まって――」
「あ、先生! 今廊下の手すりに乗って滑って降りてく奴らがいましたよ。三年の川島と野村です!」
「はぁ!? ったく、アイツらは……!」

 今度は少し離れた階段で遊ぶ生徒に、先生が鬼の形相で向かっていく。あっちこっちで怒ってばかりで先生は大変だ。そう仕向けた張本人は、私の隣でしめしめと笑っている。

「あの二人、三年になってもああいうことするんだよなー。俺には好都合だけど。それじゃあ行こっか。時間は何時くらいまで大丈夫?」
「特には……あ、でも終電は逃したくないです」
「そこまで引っ張らないから大丈夫!」