その日大学はお休み。
 けれど、残念ながら玲夜は仕事ということで、朝食を済ませると迎えに来た高道を伴って会社に出かけてしまった。
 屋敷に残された柚子は、玲夜が出かけたのを確認するや、袖をまくり気合いを入れる。
「よし。やるぞ!」
「あーい」
「あいっ!」
 子鬼も拳を突きあげてやる気満々だ。
 柚子は部屋でエプロンを着ると、キッチンへ。
 その後をフリルたくさんのエプロンを身につけた子鬼が、トコトコとついていく。
 子鬼のエプロンはもちろん元部長の作品のひとつである。
 少し前に子鬼の衣装について元部長と電話をした時に、料理教室に通っていることを話すと、翌日屋敷を訪れてお手製のエプロンをプレゼントしてくれたのだ。
 目の下にクマを作った彼女は少しやつれていたが、子鬼がその場で着てみせると狂喜乱舞して写真を撮りまくり、満足して帰っていったのだった。
 それから子鬼は、料理教室や屋敷でキッチンに立つ時は必ずエプロンをするようになった。
 どうやらずいぶんと気に入った様子で、元部長も浮かばれるだろう。
 キッチンに行けば、たくさんの食材が台の上に並べられていた。
「お好きなように使ってください。お手伝いできることがありましたらなんなりとお申しつけを」
 そう、屋敷の料理人に言われ、柚子は深々と頭を下げる。
「ありがとうございます!」 
 すると、料理人は大いに慌てる。
「お、おやめください。あなた様は玲夜様の花嫁でいらっしゃるのですから」
「……はい」
 柚子がすぐに頭をあげると、料理人はほっとした顔をする。
 また失敗したと、柚子は心の中で反省する。
 柚子は玲夜の花嫁。
 玲夜がいない今、柚子がこの屋敷の女主人であり、屋敷のすべての権限を持っていると言っても過言ではない。
 そんな柚子に深く頭を下げられたら、使用人の方としたらたまったものではない。
 それは分かっているのだが、どうも偉そうにするということが慣れない柚子はどうしても下手に出てしまい、ちょくちょく屋敷の者たちを困惑させてしまう。
 玲夜のように威厳を持って接せられたらいいのだろうが、十年経ったところで自分には無理そうだと思う。
 しかし、使用人を困らせたくはないのでできるだけ自重しようとは心がけているのだが、気を抜くとすぐにこうである。
 申し訳なく思いつつも、ここでまた謝ればさらに困らせてしまうという負のスパイラルに突入してしまうので、柚子は何事もなかったように作業を開始することにした。
「まずは定番の玉子焼き!」
「あい!」
「やー」
 出し巻き玉子用のフライパンを用意してもらい、じゅわっと卵液を流して形を整えていく。
「……あっ、やばい。ちょっと焦げたかも」
「あ~い~」 
 横で見ていた子鬼は、それぐらい大丈夫大丈夫と、言わんばかりだ。
 確かに玲夜なら、真っ黒焦げでも柚子の作るものなら美味しそうに食べそうである。
「他にはつくねに野菜も入れて、それから……」
 料理教室で作ったことのあるメニューを中心におかず用意し、お弁当箱に綺麗に詰め込んでいく。
「次はおにぎりね」
「あーい」
「あいあい」
 キッチンは使用人の賄いも作ったりすることから、かなり広々としている。
 柚子がおかずを詰めていた台とは別の台では、冷ましていた焼き鮭を子鬼がふたりがかりでせっせとほぐしてくれている。
 ちゃんと小骨も取る丁寧さだ。
「あい!」
 どうだ!と胸を張り成果を披露する子鬼の頭を撫でて、柚子と子鬼は綺麗にハンドソープで手を洗う。
 焼き鮭の脂でベタベタになった小さな手を洗う様はなんともかわいらしい。
 ここに元部長を呼んだら発狂しかねないなと思いながら、蛇口まで手が届かない子鬼の手にコップで水をかけてやる。
「あーい」
 ほぐした鮭に、昆布とたらこを用意して、早速握っていく。
 お米は料理人にあらかじめ炊いておいてもらったものだ。
 手に塩を振りほどよい大きさに握っていく柚子の横で、子鬼もまた柚子の真似をして握っていた。
 しかし、その手が小さい分、握ったおにぎりの大きさも小さい。
 それをどうするのだろうかと思って見ていたら、「あーいー!」と子鬼が叫んだ。
 すると、うにょうにょと龍が飛んで来るではないか。
「あいあい」
『ふむふむ、よく握れておる』
「あーい」
『うむ。馳走になろうではないか』
 そう言って大きく口を開けた龍の口に子鬼たちが握ったばかりのおにぎりを放り込む。
 もぐもぐと口を動かした後、ゴックンと飲み込んだ龍は口を開くやひと言。
『まあまあだな』
「あーい!」
「あいっ、あい!」
 どうやら龍が美味しいと言わなかったことがお気に召さなかったのか、地団駄を踏んで怒りをあらわにする子鬼に、龍もたじろぐ。
『そ、そう怒るでない、童子どもよ。初めてにしてはよくできておるよ』
「あーい?」
『そうだ。もう少し包み込むようにふんわりと握るのだ。そうすれば完璧であるぞ。そなたたちのは力を入れて握りすぎておる。それではおにぎりマスターにはなれぬぞ』
 おにぎりマスターってなに?という言葉はなんとか寸前で飲み込むことに成功した。
 なにせ子鬼たちが真剣に龍の言葉に耳を傾け、言われたことを実践するべくお米に手を伸ばしたからだ。
『ほれ、もっと優しくだ。米を潰してはならぬぞ』
「あい」
「あーい?」
『そうそう。筋がよいぞ、童子ども』
 なにゆえそんなにおにぎりへの熱意があるのか不明だが、料理などしたことなどないだろう龍からレクチャー受ける子鬼は真剣そのもの。
 柚子も料理人も口を挟むことができず、おかげで小指の先ぐらいの大きさのおにぎりが大量に皿に並ぶこととなった。
 それはどうするのだろうかと疑問に思っていたら、片っ端から龍が消費していく。
『ふむふむ、悪くないぞ。我の舌を唸らすのももうすぐだな』
「あいっ」
「あいあい!」
 褒められて嬉しそうに飛び跳ねる子鬼を温かく、そして偉そうに抗弁を垂れる龍を呆れたように見てから、柚子も自分が作ったおにぎりを弁当箱へと詰めた。
「よし、完成! どう?」
『うむ。なかなかよいできではないか』
「渾身の作だもの。記念に一枚。子鬼ちゃんも入る?」
「あーい」
 エプロン姿の子鬼も一緒に、できあがったばかりのお弁当の写真を撮った。
 我ながら見た目も含めてよくできたお弁当を収めた写真を見て、頬が緩む。
 どうせならと写真をSNSへと投稿してみた。
 特に反応が欲しかったわけではない。
 どうせ自分のSNSなど、友人たちぐらいしか見ないのだから。
 布でしっかりと包んでから、お弁当箱サイズの小さな袋に入れた。
 時計を見ればちょうどいい時間。
 部屋へ戻るとスマホを手にして電話をかける。
 相手は玲夜ではなく、秘書の高道である。
「もしもし、高道さんですか? 準備ができたので今から向かいます」
 高道からお気をつけてと返事をもらってから電話を切ると、出かけるために服を着替える。
 鼻歌交じりで着替える柚子に、まろとみるくがすり寄ってくる。
「ごめんね。これから玲夜の会社に行ってくるから、お留守番よろしくね」
「アオーン」
「ニャーン」
 言葉が分かっているかのように返事をするのはいつものこと。
 実際に普通の猫ではなく、龍と同じ霊獣である二匹は、実際に柚子の言葉を理解して返事をしているのだ。
 軽くメイクをして部屋を出ると、子鬼が柚子の肩に飛び乗り、龍が腕に巻き付いてくる。
「お待たせ」
「あーい」
「あい」
『今日、柚子が来ることをあやつは知らぬのだろう?』
 キッチンに戻ってお弁当の入った袋を手にし、玄関へと向かう最中に龍がそう問う。
「うん。サプライズだもの。でも、ちゃんと高道さんには伝えてるよ」
 柚子との結婚の準備の時間を取るために忙しくしていてなかなか一緒にいられない玲夜へ、柚子がしてあげられること。
 散々頭を悩ませた結果行き着いたのは、料理教室で培ったスキルを披露することだった。
 しかし、ただ渡しただけでは芸がない。
 どうせなら突然訪問して驚かせようと。
 しかし、それには秘書の協力は必要不可欠である。
 そのため、高道にはあらかじめ話をしておいた。
 最近柚子との時間が減って機嫌が悪いので、そういうことなら大歓迎だと快く協力してくれることになった。
「柚子様、お車のご用意もできておりますよ」
「ありがとうございます、雪乃さん」
 いつでも出かけられるようにと、雪乃に車の手配をお願いしていた。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃいませ」
 深々とお辞儀をする雪乃や他の使用人に見送られながら、柚子は玲夜の会社へと車を走らせた。
 自社ビルを持つ玲夜の会社は相も変わらず巨大である。
 今はもう辞めてしまったが、バイトをしていた時は地下の役員用の駐車場からそのまま最上階の玲夜のいる社長室に行っていたので、正直言うと正面から堂々と入ったことはなかった。
 なので、初めて正面玄関から入った柚子は、大きな玄関ホールに入ってすぐにある受付へ。
「いらっしゃいませ。ご用件をお伺いいたします」
「社長秘書の荒鬼高道さんに繋いでください」
 そう柚子と年の変わらない若い受付の女性へ告げれば、途端に女性の笑顔が消える。
「どういったご用件でしょうか? アポイントはお取りですか?」
 ちょっと威嚇されているような気がして、なぜだろうと柚子は首をひねる。
 自分にどこか不審な点でもあっただろうか。
 会社に行くということで、身なりもオフィスカジュアルな服装を選んできたのでおかしなことはないはずだ。
 おかしいとするなら肩に乗ってる子鬼と、腕に巻きついている龍だが、それで警戒されているのかもしれない。
「アポイントというか、会社に来たら連絡をくれと言われてます。受付に言えば話を通してくられるからと」
「失礼ですが、どういったご身分のお方でしょうか?」
 そう言えば名乗ることを忘れていたことを失念していた。
「私は玲夜……えと、社長の婚約者です」
 自分で婚約者などというのは気恥ずかしのだが、こう告げるのが最も分かりやすいだろう。
 そう思って言った言葉は、なぜか彼女の怒りに触れたのか、怖い顔をする。
「お引き取りください」
「へっ?」
「我が社の社長は鬼でいらっしゃいます。見たところあなたは人間でいらっしゃいますね?」
「はい……」
 柚子が頷くと、それみたことかと言わんばかりに女性は鼻で笑うような表情をする。
「ご存知ないのかもしれませんが、あやかしはあやかしとしか結婚しないのですよ。人間のあなたがどんなに頑張ったって不可能なことです。そんな見え透いた嘘をつくような不審な方を社長秘書と会わせるわけには参りません。お帰りください」
「…………」
 柚子は思わず言葉をなくす。
 確かに彼女が言っていることは正しく、あやかしはあやかしとしか婚姻関係にならない。
 けれど、その例外である花嫁という存在がいることを知らないのだろうか。
 というか、玲夜に柚子という人間の花嫁がいることはかなり周知されていると思ったのだが、そうではなかったのか。
 隣にいた別の受付の女性も、一瞬柚子の方を見たが、素知らぬ顔で他の来客の対応を続けている。
 これは困った。
 せっかく作ったお弁当が渡せないではないか。
「うーん……」
『どうするのだ、柚子?』
「どうしよう?」
 柚子も途方に暮れていると、奥から別の女性が出てきた。
 見ただけで分かる美しい容姿はあやかしのもの。
 彼女は柚子の姿を見ると瞠目し、慌てて近付いてきた。
「まあ、花嫁様でいらっしゃいますね。今日はどうされましたか? いつもは裏からお入りになられますのに」
 どうやら女性は柚子のことを知っているようで、柚子は安堵した。
「高道さんに取り次いでもらいたいんです。けど……」
 柚子は困った顔で、ずっと対応していた女性を見る。
「あの、彼女がなにか?」
「いえ、玲夜の婚約者だと名乗ったのですが、あやかしはあやかしとしか結婚しないので、人間である私は嘘をついているから取り次げないと言われてしまって……」
 告げ口をしているようで嫌だったが、今後また同じようなことが繰り返されては困るので仕方ない。
「ちょっとあなた、どういうつもりなの!?」
 鬼のように目をつり上げて、若い女性を叱りつける。
 若い女性の方はなぜ怒られているのか分からない様子。
「えっ、ですが不審な方をお通しするわけには……」
「社長の婚約者と名乗られているでしょう!」
「でも、人間ですよ?」
「人間でも、花嫁という特殊な方はあやかしの伴侶となれるのよ!」
「じゃあ、この方は本当に……?」
 どんどん女性の顔がこわばっていく。
「社長のご婚約者で間違いありません」
「し、失礼いたしました!」
 女性は慌てて柚子に頭を下げる。
「知らなかったにしても、一度確認を取らないで追い返すなどもっての外です!」
 若い女性を叱り付けてから、あやかしの女性も柚子に深く頭を下げる。
「このたびは受付の者が大変失礼をいたしました。あいにくとあやかしの世界のことを知らぬ、今年入ったばかりの新人でございますので、この不始末は私が責任を取らせていただきます」
「い、いえ、高道さんに取り次いでいただければそれでまったく問題ないです!」
 柚子とてちょっと取り次いでもらえなかったぐらいのことで大事にするつもりなどさらさらない。
「謝っていただけましたから、それでじゅうぶんです。玲夜にも、高道さんにも話すつもりはありませんから」
 まるでクビを宣告されたかのような悲壮感漂う空気に柚子が耐えられなくなった。
 この程度で責任うんぬんと言い出したら会社から人がいなくなる。
 若い女性の方など半泣き状態で、こちらが虐めているみたいではないか。
「ありがとうございます!」
 なかったことにするという柚子に、感極まったようにお礼を言うふたりの女性。
 この会社、実はブラックではなかろなと、柚子はちょっと不安になってきた。
 その後すぐさま高道に連絡してもらい、少しして高道がロビーまで迎えに来た。
「お待たせいたしました。例の物はお持ちですか?」
「はい! 朝から張り切りました」
 柚子がお弁当の入った小さな鞄を見せると、高道は満足そうな笑みを浮かべた。
「玲夜様が喜ばれます。さあ、こちらへ」
 エレベーターの中で、柚子は高道に聞いてみた。
「高道さん、つかぬことをおうかがいしますが、この会社ってブラックじゃないですよね? 社員に異様に厳しかったりとか」
「いえ、そんなことはないと思いますよ。むしろ他に比べても働きやすいと評判で、今年の入社希望者もそれはもう大量でしたから。裁ききれないと、人事部が頭抱えてましたね。人事部にとったらその時期はブラック会社に変貌するかもしれませんが、いたってホワイトですよ。それがなにか?」
「いえ、ちょっと気になっただけなので気にしないでください」
 のちに桜子から聞いたところによると、会社で玲夜と高道はかなり恐れられているのだという。
 なんでも、ずいぶん昔にふたりの主導で社内の大粛正が行われたとかで、今でもふたりには逆らうなと先輩から新人に通達がなされるとか。
 そんな玲夜の婚約者に不備を働いたということで、あんなにも怯えられたのかと柚子は納得した。

 社長室のあるフロアに来ると、久しぶりの風景になんだか懐かしくなった。
「玲夜にまたバイトできないか頼んでみようかな。せっかく秘書検定取ったんだから、玲夜の秘書になれたらもっと一緒にいられるんだけど」
 そんなことをぽつりと呟いた柚子に、高道が……。
「柚子様」
「はい?」
「たとえ柚子様だろうと、玲夜様の秘書の座は明け渡しませんよ」
 にっこりと微笑んでいるのに、その目は全然笑っていない。
 これはマズいと柚子は慌てて「冗談ですよ~」と、笑ってみせた。
「そうですか、冗談でしたか」
 高道がいつもの笑顔に戻ったことで、柚子はこっそり息をつく。
 柚子は冗談でも、高道はまったく冗談ではなかった。
 玲夜至上主義なことは分かっていたが、下手な冗談は命取りになる。
 どこに地雷が埋まっているか分かったものではない。
 高道の前で玲夜の話は慎重を期するべきだと心に留め置いた。
 そして、久しぶりの社長室の前へ。
 玲夜の驚いた顔を想像して自然と柚子の顔に笑みが浮かぶ。
「実は今来客がいましてね」
「えっ、それならお邪魔じゃないですか?」
「問題ありませんよ。鬼の一族の者で、気を使うような相手ではありませんから」
 高道は扉をノックして扉を開けた。
 柚子は喜び勇んで部屋の中へ。
 しかし、そこにあった光景に足が止まる。
「玲、夜……」
 なんと、玲夜が見知らぬ女性と抱き合っていた。
 一瞬なにかの見間違いかと思いたかったが、それは幻覚のように消えてなくなってくれることはなく、柚子は呆然とたたずむことしかできなかった。
 すると、柚子の腕にいた龍が目をつり上げた。
『浮気かぁ、この小童!』
 室内どころか廊下まで響き渡らん絶叫に、玲夜も振り返る。
 そして、柚子の存在を確認して目を見張る。
「柚子」
『柚子というものがありながら浮気するなど天が許そうとも我が許さぬ。成敗じゃあぁぁ!』
 龍は柚子の腕からするりと離れ、鬼の形相で玲夜に噛みつくべく大きく口を開いた。
 玲夜はくっついていた女性を突き飛ばすように引き剥がし、龍の尻尾を掴んでいなす。
『ぬおぉぉ、離せぇぇ! この浮気者めがっ』
「なにを勘違いしている」
 玲夜は呆れたように龍の尻尾を掴んだまま柚子に視線を向ける。
 見てはいけないものを見てしまったと思っている柚子は、玲夜になにを言われるのか怖かった。
 しかし、玲夜はいつもと変わらぬ調子で、柚子がいることを不思議そうにした。
「どうしてここに柚子がいる?」
 まったく悪びれる様子のない玲夜に、柚子の方が困惑する。
 変わりに龍は怒り爆発であった。
『話をそらそうとするな。そんなことで浮気を煙に巻けると思うでないぞ!』
「さっきからなにを言ってるんだ、こいつは」
「玲夜様、見知らぬ女性と抱き合っている現場を見られたら普通は浮気者と罵られても仕方がありませんよ」
 実に冷静な高道の助言に、玲夜は先程まで抱きついていた女性を見てから柚子に視線を向け、やうやく思い至ったように頷く。
「そうか。言っておくが、浮気じゃないぞ」
 柚子の目をしっかりと見つめ、動揺の欠片もない姿は信用させられる。
 しかし、普段から堂々としている玲夜である。それだけで判断はつかないが、きちんと否定してくれたことで少し柚子は冷静になれた。
 だが、龍はまだ納得していない。
『痴れ者が。そんな言葉で我を納得させられるとでも思うたか!』
 うにょうにょとのたうち回る龍を、玲夜は面倒くさそうに見てから、誰もいない方向へぽいっと投げ捨てた。
『にょおぉぉぉ』
「あーい」
「あいあい」
 慌てて子鬼が回収に向かった。
 それを一瞥することなく、玲夜は柚子に近付き、腕の中に迎え入れる。
 ぎゅっと力強く包み込まれる抱擁はいつもと変わらぬ温もりを柚子に与え、さらに低く甘い声が降ってくる。
「俺にはお前だけだ、柚子」
「……うん」
 そう納得はしたものの、先程の事実がなくなったわけではない。
「じゃあ、なんで抱き合ってたの?」
「抱き合ってたんじゃない、芹が抱きついてきたから引き剥がそうとしてたところに柚子が入ってきただけだ」
 玲夜の顔を見あげると、嫌そうに眉をひそめており、玲夜の望んだことでないことが分かった。
「芹?」
 柚子はそこで初めて、玲夜に抱きついていた女性をしっかりと見る。
 ふて腐れたような顔をした女性は、桜子にも負けず劣らずの綺麗な容姿をしていた。
 年齢は玲夜と同じぐらいだろうか。
 ストレートのボブカットで、スーツに高いヒールがよく似合う、キリッとした大人の女性だった。
 すると、高道が彼女のことを教えてくれる。
「柚子様、彼女は鬼沢芹。鬼の一族の者で、玲夜様とは幼馴染の間柄になります。芹、柚子様にご挨拶をなさい」
「鬼沢芹です。……そう、あなたが花嫁なの。桜子が玲夜の伴侶になると思っていたのに、こんな女に取られるなんてね」
 まるでなめ回すように柚子を見るその目は、あまり好意的とは言えず、なんだか見下されているような気分になった。
 なにより、玲夜を呼び捨てにすることに、幼馴染と聞いたとは言え、少し引っかかりを覚えた。
「芹、言葉遣いに気をつけなさい。このお方は玲夜様の花嫁。いずれ当主の妻となられる方です」
「はいはい。高道は相変わらず小姑みたいね。口うるさいったらないわ」
「ならば口出しされないようにしなさい。そもそも玲夜様に抱きつくとはなにを考えているのです! 馴れ馴れしい!」
「ちょっとした挨拶じゃない。久しぶりなんだし、ハグするぐらい向こうじゃ普通よ」
 ぎゃあぎゃあと、言い合いをしているふたりに困惑する柚子に玲夜が教える。
「芹はしばらく海外に住んでいたんだ。そのため向こうの癖が抜けないらしい。俺に抱きついたのも深い意味はない。さっき来ていた桜河にも同じようにしていたからな」
 桜河とは、桜子の兄で、副社長でもある。
 ただの挨拶か。そう安心することはできなかった。
 玲夜を疑ったわけではない。だが、女の勘がビシバシと反応するのである。
 知らず知らずの内に眉間にしわが寄っていたらしい。
 玲夜がくすりと笑い、柚子の眉間に指を置いてもみほぐす。
「それにしても、どうして来たんだ?」
 言われて、すっかり忘れていたことを思い出した柚子は、持っていた小さなバッグを玲夜に見せる。
「これは?」
「玲夜に食べてほしくて、お弁当作ってきたの。食べてくれる?」
 おずおずと差し出されたそれを手にした玲夜は、とろけるような笑みを浮かべて柚子の額にキスを落とした。
「柚子の作ったものを食べない選択肢などない。ありがとう」
 見るからに喜んでくれたことが分かる笑顔で、柚子も嬉しくなりながらはにかんだ。
 ふと、芹に視線が向けると、彼女はなにかとんでもないものを見てしまったと言わんばかりの驚愕した顔をしていた。
「玲夜が笑ってる……。しかもなに、あの甘々さは!?」
「通常運転です。今日はましな方ですよ。ひどい時は周りが砂糖を吐きすぎて窒息死しそうになりますから」
 と、高道が冷静にそんなことを口にしてから時計に目を向ける。
「ちょうどいい時間ですね。玲夜様、お茶のご用意をいたしますので、隣室でお待ちください」
「ああ」
 柚子の腰に手を置き、仕事部屋の隣にある休憩室へと向かう。
 そこにいる芹などまるで目に入っていないかのように無視だ。
 いいのかなと思いながら少しだけ振り返ると、冷たくにらみつける芹を見てしまい、慌てて前を向く。
 やはり女の勘は正しかったと、柚子は不安に駆られる。
 けれど、隣室へ入ってしまえば、それもすぐに吹き飛んでしまう。
 玲夜がそれは甘く微笑みかけ、柚子の顔にキスの雨を降らせるからだ。
「柚子が来るとは思わなかった。途中で危ないことはなかったか?」
「子鬼ちゃんたちと龍がいるから大丈夫」
 受付でひと問題あったことは伏せておく。
「それより、お弁当開けてみて」
「そうだな」
 ソファーに座り、持ってきたお弁当を取り出して蓋を開ける。
 柚子は、ドキドキしながら玲夜の反応を見ていると、玲夜は中身を見て穏やかな笑みを浮かべた。
「うまそうだ」
 早速玲夜がひと口食べる。
「どう?」
「ああ、うまい」
 玲夜は柚子の作ったものならなんでも美味しいと評してしまうので、真実そう思っているのか判断がつかない時が多いが、今回は柚子も自信のあるものだ。
 玲夜の頬が緩んでいるのが分かり、柚子も心の中でガッツポーズをする。
「これ全部料理教室で習ったものなの」
「そうか。ずいぶん楽しんでいるようだな」
「うん! 自分の知らない料理とか作れて楽しい。だから、もう少し通う頻度を多く……」
「駄目だ」
 言い終わる前に却下されてしまい、柚子は、ぐうっと唸る。
「でも、美味しいでしょう? もっとたくさん料理を覚えたら、玲夜に食べさせてあげられるんだよ?」
 そう言われて玲夜は少し悩んだようだが、ほんの一瞬だけ。
 結果は変わらず……。
「やっぱり駄目だ」
「どうして?」
「一緒にいる時間が減る。柚子は、熱中するとそのことばかりに気が向いて俺を放置しだすからな」
 それは否定できない。
 生真面目な柚子は、ひとつのことにはまり出すと、とことんやってしまうところがある。
 その結果、玲夜を置いてけぼりにしてしまい、やきもちを焼かせてしまうということを過去何度か繰り返している前科持ちであった。
 そんなことしないと言ったところで信用されないだろう。
「でもね、料理するの結構楽しいの。昔は家族の分を嫌々作ってた感じだったけど、玲夜が美味しいって言ってくれるからすごく嬉しくてね」
「なら、また今度作ってくれ。それで十分だ」
 玲夜は十分でも、柚子はそれではもの足りない。
 玲夜だけではない。
 龍や、屋敷の人たちが食べてくれた時の反応が嬉しくて、もっといろんなものを作ってみたいという欲求が日増しに強くなってくるのだ。
 しかし正面から言ったところで玲夜は了承しない。
 なにか手を打つべきかと、柚子は密かに考えを巡らせた。