一章
まだまだ肌寒い三月。
来月には大学も四年生になる柚子は、少し前から料理教室に通っていた。
時々玲夜のために料理を作っているうちに、レパートリーを増やしたいと思ったのがきっかけだ。
まあ、通っているといっても二週間に一度のペースなのだが。
本当はもっと回数を増やしたいと思いつつも二週間に一度の頻度なのは、玲夜の最大限の譲歩だったからである。
なにせ料理教室へ入会することに、最初はかなり渋られた。
料理を習いたいなら、屋敷の料理人に教えてもらえばいいだろうと。
けれど、自分の我が儘で、仕事をしている料理人の時間を割いてもらうのは非常に申し訳なかった。
なにせ、柚子と玲夜の食事に加え、使用人たちの三食の食事も手がける料理人は思いのほか忙しい。
食事の時間が迫ると戦場さながらの大忙しさで、それが終わればやっとひと息つける。
そして、買い出しに出かけて戻ってきたら次の食事の準備にとまた忙しくなる。
昼間は柚子も大学がありそんな暇はなく、お互いのことを考えると料理教室に通うのが一番迷惑をかけずにすむ方法だった。
最終的には「玲夜のために美味しいものを作ってあげたいの」と、子鬼とともにお願いしてなんとか許可をもぎ取った。
けれど、通う料理教室は、先生、生徒、ともに男性がいない所を玲夜が探してきた。
実際に探したのは玲夜の有能な秘書である荒鬼高道だろうが、玲夜はいったいなんの心配をしているのか。
柚子にはすでに目を付けていた料理教室があったのだが、そこには男性も通っていた。
玲夜は料理教室で男と一緒に料理を作るのが許せないらしい。
万が一その男が柚子に好意を寄せたらどうするんだと懇々と諭されるが、そんな簡単にラブストーリーは始まらない。
柚子は呆れて果てて、自分が望む料理教室を推したが、玲夜は頑なに譲らず、結局柚子が折れることとなった。
通えるだけありがたいと思うしかない。
通っているのは若い女性が多く、作るメニューも若い子が好きそうなお洒落なものが多かったのも文句を言えない理由でもあった。
まさに柚子の好みを的確に突いていたのでなんだか悔しい。
そういう経緯で通い始めた女性だけの料理教室で、その日は無花果のドライフルーツを使ったマフィンを作った。
作った後は自分で作ったものを食すのだが、先生の言う通りしているだけあって上手にできた。
『我も我も』
そう言って大きく口を開ける龍に、ひと口大に千切ったマフィンを口に放り込んでやる。
『美味ぃ』
ゆるゆるに表情を崩す龍は、とてもじゃないが霊獣などという崇高な存在には見えないが、見た目に反してすごいのであるというのは本人が強く主張している。
残りは持ち帰るために残し、袋に入れて、帰る準備をしていくと、他の生徒である女性たちも同じようにエプロンを脱いでいくのだが、その後になぜか念入りなメイク直しが始まる。
もはや恒例となったその儀式に、柚子は苦笑をこらえるしかない。
通い始めた初日はそんなこと一切なかった。
けれど、授業が終わると玲夜が柚子を迎えに来てくれたことで一変する。
あらかじめ、教室に通うのは土日のどちらかと指定されたのだが、それは柚子の大学と重ならないように配慮してのことだと思った。
けれど、ただただ玲夜が柚子を迎えに行くためには、土日の方が平日より時間を取りやすいからという、あくまで自己都合な理由だったのである。
玲夜らしいと柚子はいろいろと諦めた。
それに、その後は決まってデートに連れていってくれるというので柚子としても否やはない。
そんなことがあった次の回、柚子は女性たちに質問攻めに遭う。
あれはだれなのか、彼氏なのか、今日も迎えに来るのか。
それはもう鬼気迫るものを感じた。
まあ、玲夜のあの美貌を目の当たりにしてしまえばそれも仕方ない。
なにせ、あやかしの中で最も美しいとされる鬼なのだから。
料理教室に通う女性たちの心も一度で鷲づかんだよう。
罪な男である。
そして、玲夜が毎回迎えに来ると知った女性たちは、自分の彼氏というわけでもないのに、身だしなみに力を入れ始めたのだ。
ちらりと視線を向ければ、料理を教えてくれる先生までもが手鏡で身だしなみを確認していて、柚子はなんも複雑な気持ちになった。
そして、帰る準備を終えた柚子が外に出れば、いつものように車から外に出て待ってくれていた玲夜が柚子を見て微笑む。
「ああ、眼福……」
「あの微笑みだけでご飯三杯はいける」
「鼻血出そう……」
「隠し撮りしてポスターを教室前に貼ったら、生徒さん増えるかしら?」
背後から黄色い悲鳴とともにいろいろ聞こえたが、聞かなかったことにして玲夜の元へ。
「待っててくれてありがとう」
「気にするな」
車に乗り、料理教室を後にする。
すかさず柚子にくっつき、髪に触れる玲夜。
「今日はなにを作ったんだ?」
「今回はスイーツ。玲夜は無花果好き?」
「柚子の作るものならなんでも好きだ」
とろけるような微笑みは柚子だけに向けられる。
それひとつで女性を腰砕けにしそうな微笑みに、さすがの柚子も慣れてきた。
それでも、そんな笑みは自分ひとりだけしか向けられないのだと思うと、動悸が激しくなってしまう。
「悪いが今日はこのまま屋敷に帰ることになる」
そう言われて柚子は玲夜がスーツを着ていることに今さら気が付いた。
玲夜がスーツを着るのは仕事の時だ。
「お仕事?」
「ああ。柚子を屋敷に送ったら、俺は会社に出勤だ」
「そっか……」
残念に思いながらも、こればかりは仕方がない。
玲夜は鬼のあやかしのトップに立つ鬼龍院の次期当主であるとともに、日本経済に絶大な影響力を持つ会社の社長でもある。
その仕事量はとても多く、これまで毎回迎えに来てくれてデートしていたこと自体、かなり無理をして時間を作ってくれているだろうことは分かっていた。
「じゃあ、これ。後でいいから食べて?」
柚子は今日作ったマフィンを玲夜に差し出す。
すると、玲夜はすぐに袋から取り出して、柚子の前でかぶりついた。
「どう?」
「ああ、美味しい」
柚子の作ったものなら、嘘でも美味しいというのは分かりきった答えだったが、それでも嬉しい言葉だった。
「また作ってくれ」
「うん!」
そっと触れるようにされたキスは、いろんな意味で甘かった。
ゆっくりと離れた玲夜は、柚子の頬をひと撫でしてから足下に置いていた紙袋を柚子に渡す。
中にはたくさんのパンフレットが入っていた。
それもすべてウェディングドレスや白無垢の。
「玲夜、これ……」
「柚子ももうすぐ大学四年。そろそろ結婚式の準備を始めてもいい頃合だ」
「結婚……」
大学を卒業したらと前々から話をしていた。
けれどこうして準備を始めると言われると急に実感してくる。
「嫌か?」
柚子が戸惑っているのをどう判断したのか、そう聞いてくる玲夜に、柚子は勢いよく首を横に振った。
「ううん。その逆。嬉しい」
心からの喜びを噛みしめるようにふわりと微笑んだ柚子に、玲夜も安堵したように頬を緩める。
「今度一緒に衣装を見に行こう。オーダーメイドで作っている店だから、そのパンフレットを見てどんなものがいいか考えていてくれ」
柚子はパンフレットをパラパラとめくる。
そこにはいろんな色や形のドレスや着物が載っていて目移りしてしまう。
「どうしよう。決めきれないかもしれない」
「ゆっくりでいい。とりあえず実物を見に行ってみよう」
玲夜も嬉しいのだろうか。
いつになく明るい声色の玲夜に、柚子もじわじわと歓喜が沸き上がってくる。
喜びが限界を超えた柚子は、玲夜に抱き付き、珍しく柚子の方から頬へキスを贈る。
「楽しみ!」
玲夜は突然のキスに目を見張ったがすぐにふっと小さく笑った。
「柚子がここまで喜ぶとは思わなかったな。できるだけ早く時間を取れるようにする。それまで忙しくて柚子との時間が取れないかもしれないが我慢してくれ」
「うん。待ってる」
『そんなこと言いおってからに。我慢できないのはそなたの方ではないのか?』
ニマニマとした顔で龍は玲夜に告げる。
それはきっと核心を突いていた。
柚子との時間が減って我慢ならなくなるのは、柚子より玲夜の方が先であろう。
「確かにな」
玲夜は否定しなかった。