「お父さん、今仕事はしてるの?」
「今はしていないさ。神谷様が、これまでずっと大変な思いをしたのだから、いつまでもゆっくりしてくれていいとおっしゃってくれているんだ」
 本当に親切な方だとつぶやく父親への不信感と、神谷という人物への警戒心が膨らむ。
 そんなうまい話が簡単に転がっているはずがない。
 そんなこと柚子でも分かるというのに、父親はよほどその神谷という人を信頼しているのか、疑う様子はない。
 しかも、なぜ柚子が来たことをその神谷とやらに報告しなければならないのか。
『柚子、あまり長居はせぬ方がよいと思うぞ』
 耳元で龍が柚子にしか聞こえない大きさでつぶやく。
 確かにあまりいい空気を感じない。
 電話を終えたらしい母親も加わり、これまで柚子には向けられることのなかった満面の笑顔を向けてくる。
 それが非常に気持ちが悪くて仕方なかった。
 昔は心の底から願うほどに欲したというのに、おかしなものだ。
 それはきっと柚子は現状で十分に満足しているからなのかもしれない。
 もう両親の愛を乞わねばならないほど飢えてはいないのだ。
 もうすでに柚子の中は玲夜から有り余るほどの与え続けてくれた愛情でいっぱいだから。
 なので、どことなく柚子に媚びるような両親への嫌悪感が募る。
 龍の言うように早く帰りたくなってきたが、柚子にはひとつ気になることがあった。
「花梨はどうしたの? 一緒にはいないの?」
 そう、花梨の姿がどこにも見当たらないのだ。そして、両親もこれまで一切花梨の名前を出すことがなかったことが気にかかった。
 花梨の名前を出した途端、両親の顔に怒りが宿る。
「あの子ならどこかに行った」
 素っ気なく答える父親を、柚子は問い詰める。
「どこかってどこに?」
「知るわけないだろう! あの子さえしっかりしていれば狐月家からの援助は今も続いていたはずなのに。役に立たないどころか私たちを置いて姿を消してしまった!」
「まったくですよ。あれだけお金も時間もかけて育ててあげたというのに、親不孝な子だわ」
 吐き捨てるように口から出た言葉は、花梨に対する怨嗟の念にあふれていた。
 柚子を虐げていたことを気にしないほどに花梨をかわいがっていた両親から出てきた言葉とは思えなかった。
 いったい柚子が消えた後のこの家族になにがあったのか……。
 玲夜ならばきっと知っているのだろう。
 あの玲夜が柚子に害となる存在を放置しているはずがない。
 花梨のことは気になるけれど、今は目の前にいる両親のことが優先だ。
「けど、柚子はあんな薄情な子とは違うわ。やっぱり私たちの本当の娘は柚子だけよ」
「その通りだ。柚子は昔から優しい子だった。きっとお父さんたちのことも助けてくれるだろう?」
 気持ちの悪い欲望に満ちた眼差し。
 あんなにも花梨を優先していた人たちからこんな言葉が出てくるとは、優先されぬことを仕方ないとあきらめていたあの頃では到底信じられなかっただろう。
「助けるってどういうこと? お父さんたちはもう十分に神谷様って人に助けられてるじゃない」
 これ以上なにを望むのか。
「あなたが必要なのよ、柚子」
「そうだ。お前だけが頼りなんだ」
 必死な様子で、必要だと言う両親。
 その言葉を玲夜と出会う前に言ってくれていたら、柚子はどんな頼みでも聞いていたかもしれないのに。
 柚子は静かに瞼を閉じ、深呼吸してからゆっくりと目を開けた。
 そして、口を開こうとしたその時、部屋の扉が開かれ、ひとりの男性が入ってきた。
 ノックのひとつもなく我が物顔で入ってきたその男性に、柚子はいぶかしげに視線を送る。
 年齢は父親よりもずいぶんと年上に見え、でっぷりとしたお腹を蓄えた大柄な男性。
 ニヤニヤとした笑みを浮かべながら近付いてきて、柚子は思わず後ずさりした。
「神谷様!」
 両親が歓喜に満ちた声で名を呼んだことで、目の前の男性が両親の言っていた援助をしてくれている神谷という人物だと知る。
「連絡をありがとうございます。こちらがあなた方の娘さんですかな?」
「ええ、そうです。娘の柚子です」
 父親が媚びるように勝手に柚子を紹介する。
 人を見た目で判断するのはよくないが、とてもそんな親切な人のようには見えなかった。
 柚子をなめ回すように見るその眼差しには嫌悪感しか湧いてこない。
「なるほどなるほど」
 なにが『なるほど』なのか柚子には理解できない。
「いかがです?」
「ええ、まあ、少し肉付きに欠けるところがありますが結構でしょう。どうにかしてほしいとある方からも言われておりますし、彼女で手を打つとしましょうか」
「ありがとうございます!」
「よかったわね、柚子」
 喜びにあふれた表情で神谷に頭を下げる父親と、柚子の肩を叩く母親。
 柚子にはなにがなんだか頭が追いつかない。
「ちょっと待って。お父さんもお母さんもどういうこと!?」
 なにやら柚子を置いて話を進める三人に不安を感じ声を荒げる。
「おや、娘さんには説明をしていなかったのですかな?」
「ええ。ちょうどこれから話をしようと思っていたところでして」
「では早くしてあげるとよろしいでしょう」
「はい」
 神谷と話し終えた父親は柚子に向かい合う。
 機嫌がよさそうにニコニコとした笑みを浮かべながら。
 そして話されたのは驚愕の内容だった。
「こちらの神谷様が私たちに援助してくださっていることは話しただろう? 神谷様は今後も援助を続けてもいいとおっしゃってくれてるんだ」
 柚子は一度だけ神谷へ視線を向けてから父親へ戻す。
「その代わり、柚子、お前が神谷様と一緒になったらという条件なんだ」
「は?」
 柚子は一瞬言われている意味が分からなかった。
「どういうこと?」
「つまりだな、お前が神谷様と結婚し妻となれば、私たちは神谷様の親戚ということになって皆一緒に幸せになれるということだ。素晴らしいお申し出だろう?」
 まさに絶句。すぐに言葉が出てこない。
 けれど、ドンドン話を進めていきそうな父親に、柚子は声を絞り出す。
「私には玲夜がいるのよ!? もうすぐ結婚するの。玲夜以外の人となんて結婚なんかしないわ!」
 すると、まるで駄々っ子をあやすような声色で説得が始まる。
「柚子、これはとても光栄なことなんだよ。神谷様は大富豪でいらっしゃって、両親である私たちのこともまとめて面倒を見てくださるというんだ」
「そうよ。あのあやかしなんてやめなさい。顔はいいかもしれないけれど、花嫁である親を蔑ろにするような人となんて幸せにはなれないわ。柚子もそう思うでしょう?」
 ああ、駄目だ……。やはりこの人たちに反省を期待したのが馬鹿だったのだ。
 玲夜があんなにも柚子を両親と会わせようとしたくなかった理由をようやく察する。
 この状況を予想していたのではないだろうか。
 柚子の心が両親への失望に染まり、気持ちが沈んでいく。
 なにが幸せになれない、だ。それは柚子ではなく自分たちのことではないか。
 この人たちは柚子の幸せなどなにひとつ考えてはいない。考えているのは自分たちのことだけ。
 柚子の幸せを願っていたら父親よりも年上の初めて会う男性と結婚させようとはしない。ごく普通の、娘の幸せを願う親ならば……。
 これではまるで人身売買のようではないか。
 娘を売ってでも自分たちだけは幸せになりたいと、そういうことなのだろうか。
 なんて醜悪なのだろう。なんて憐れなのだろう。なんて、なんて……。
 柚子の中に言葉にならない悲しみが渦巻く。
 それと同時に、両親へ最後に残っていた情も消え去った。
 柚子は必死な形相で柚子にすがりつく母親の手を払い落とす。
 そして、三人から距離を取った。
「柚子?」
 どうしてここに来てしまったのかと後悔が襲う。
 いや、来なければ真実をいつまでも知ることができなかったのだから、これはこれでよかったのかもしれない。
 以前の柚子は玲夜の言われる通りに行動して、両親と縁を切った。
 それは玲夜主導で行われたことで、柚子はその波に流されていったにすぎなかった。
 これが正しいのだと自分を言い聞かせて、すべてを玲夜に委ね、責任すらも玲夜に押しつけた。
 けれど、今度は自分の意思で。
 誰かに流されたからでもなく、自分がそう強く願ったから、今度こそ両親との縁を切ろうと決心した。
 もう二度と心が揺れぬように、惑わされぬように、心から両親を閉め出す。
 両親が自分たちのことしか考えないのなら。そのために子供の犠牲も厭わないというのであれば。柚子だって幸せになるための行動を起こす。
 こんな簡単に親を捨てる柚子を、薄情だとそしる者もいるかもしれない。
 けれど、それでも構わない。玲夜との未来を自分の足でつかみに行きたいのだ。