三章

「はぁぁ」
 思わず深いため息をついてしまう柚子。
 あれからも芹は変わらず屋敷に住み、昼間は玲夜とともに会社へ向かい、一緒に帰ってきて夕食を食べる。
 柚子以上に玲夜にべったりな芹に、気分がいいわけがない。
 しかも、隙があれば柚子に毒を吐くのだ。
 そのたびに龍と子鬼の顔が凶悪になっているのだが、柚子が必死で止めている。
 攻撃しようものなら、鬼の首を取ったように、大騒ぎしそうだからだ。
 そういうところも玲夜としっかり話し合いたいものの、玲夜の仕事が忙しい上に芹が邪魔をして、なかなかふたりきりでゆっくりと会話する時間も取れない。
 なぜ玲夜はこんなはた迷惑な芹をそばに置いておくのか。
 柚子が嫌がっていることはちゃんと伝えたというのに、芹が屋敷から出ていく様子はない。
 芹と口論になる時は柚子の肩を持ってくれるものの、それ以上動いてくれない玲夜に対する不信感が募る。
 モヤモヤとしたものが心の内に溜まり、こんな状態で結婚などできるのだろうかと、日を追うごとに不安が積み重なっていく。
 まさか結婚した後も芹が居着いてはいないだろうなと、最悪な予想が頭をよぎり怖くなる。
「マリッジブルー?」
 そう問うように口にしたのは蛇塚だ。
 つわりでしんどい透子には相談がしづらく、最近の相談相手はもっぱら蛇塚となっていた。
 そんな蛇塚に芹のことを話しつつ、玲夜とやっていけるか心配になってきたと告げたところ、先ほどの言葉が返ってきたのだ。
「マリッジブルー……。そうなのかなぁ?」
 聞かれても経験のない蛇塚には分からないだろう。
 困ったようにこてんと首をかしげる。
「透子に相談したみたら?」
「透子もつわりで辛そうだしなぁ。私のことで煩わせるのも申し訳ないし。なにより、透子がマリッジブルーなんて繊細な気持ちが理解できると思う?」
「……思わない」
 透子ならマリッジブルーなんてもの、感じた瞬間に丸めてゴミ箱に捨ててしまうだろう。
 頼もしいが、相談相手には向かなそうだ。
「むしろにゃん吉君の方がマリッジブルーになりそう」
 蛇塚は苦笑を浮かべ頷いた。
 繊細さで言えば確実に東吉に軍配があがるだろう。
 まあ、その東吉は透子と籍を入れられて浮かれまくっているので、無駄な心配だろう。
「……私って性格悪いかな? どうしても彼女のこと好きになれなくて、早く出ていってって思っちゃう」
 嫉妬などとかわいらしいものではない。
 嫌いで嫌いで仕方ない。おそらく向こうも同じ気持ちだろうと思っている。
 芹の顔も見たくない。玲夜に早く追い出されることを願う自分の性格の悪さに自己嫌悪してしまう。
『柚子は悪くない。我もあの女は好かぬ』
「あーいあい」
「あいあい!」
 龍の言葉に子鬼も激しく頷く。
『それにしても大事な花嫁が困っているというのになぜあの男は放置しておるのだ? 我には理解できぬ。やつができぬと言うならいっそ我らで追い出すか』
 不穏な空気を漂わせる龍からは冗談は感じない。
「駄目だって。玲夜がいることを許してるんだから、勝手に追い出す権利なんてないもの。私だって置いてもらってる立場なわけだし」
『柚子は花嫁であろうが! あの女とは立場がまったく違う!』
 確かに柚子は女主人として屋敷の使用人たちからも認められているし、玲夜は結婚していなくともそのように扱うよう使用人たちに厳命している。
 だが、やはりあの屋敷の絶対君主は玲夜なのだ。
 いかに芹が使用人たちからも不満を持たれていようと、龍や子鬼が怒り爆発寸前だとしても、さらにはすでにまろとみるくが芹を追い出すべくいたずらを開始していようとも、玲夜が許している以上追い出せない。
「なにか考えがあるんじゃないかな?」
 蛇塚は冷静にそんなことを口にした。
「考えって?」
「それは分からないけど、あやかしにとって花嫁は絶対だ。小さな害悪にだってさらしたくない。真綿で包むように大切にしたいのに、あえてそんな女を見すごしているということは、それなりの理由があるはずだと俺は思う」
 花嫁を持ったことのある蛇塚の言葉には説得力があり、柚子はなにも言えなくなる。
「もう少し信じて待ってみたら? あやかしが花嫁を裏切ることは絶対にないから」
 蛇塚の言葉はとても静かに柚子の中に落ち着いた。
「……そうだね。蛇塚君の言うようにもう少し様子を見てみる」
「うん。柚子はいい子。頑張れ」
 柚子の出した答えに、蛇塚は優しく微笑んで、頭をぽんぽんと撫でる。
 と、その時、冷気が柚子を襲った。
「寒っ」
 ぶるりと肩を抱いた柚子は辺りを見回して、「あっ」と声を上げる。
 柚子の視線の先には、以前にも見た白髪の女の子。
 今日もじっとにらみつけている。
 四年生になってからたびたび目撃するようになっていた彼女は、柚子が視線や冷気を感じた時に必ず近くで柚子を見ていた。
 何度か柚子の方から声をかけようとしたが、近付くとすたこら逃げていってしまう。
 そしてまた離れたところから柚子をにらむのだ。
 まるで野生の小動物に遭遇してしまったような気持ちになる。
 蛇塚と面識があるようなので彼女のことを聞くと、彼女の名前は白雪杏那。
 雪女の一族の子で、大学一年生らしい。
 どんな関係なのかと問うたら、蛇塚からはなんとも曖昧な回答が返ってきた。
 なぜ柚子をにらんでいるのかも不明のまま、特に害はないからという蛇塚の言う通り、一定距離以上近付いてくることはないので放置することにしている。

 それからしばらく経ったある日。
 カフェで東吉と蛇塚を待っていると、蛇塚が白雪を連れて姿を見せた。
 ようやく近寄ってくる気になったのかという思いより、そのふたりの手がつながれていることに目がいった。
 それは東吉も同じようで、ふたりの手に目が釘付けとなっている。
「杏那も一緒にいい?」
「う、うん」
「どうぞ……」
 唖然としたまま頷いた柚子と東吉はひそひそと話し始める。
「えっ、にゃん吉君、このふたりどういう関係?」
「俺が知るか」
「これってそういうこと? だよね、だよねっ?」
 ちょっと興奮してきた柚子と驚きを隠せない東吉に、蛇塚が「あのさ」と、話し始めたことでふたりも姿勢を正す。
「彼女、白雪杏那。前にも話したと思うけど」
「はじめまして、白雪杏那です!」
 少しおどおどしながら必死に挨拶をする白雪は小動物を連想させ、なんともかわいらしい。
「それで、ふたりが柚子と東吉」
「はじめまして」
「おう。よろしく」
 蛇塚に紹介され、柚子と東吉も頭を下げて挨拶する。
「それで、まずは杏那が柚子に謝りたいって」
「えっ、私?」
 名指しされた柚子は首をかしげる。
 そんな柚子に白雪は深々と頭を下げた。
「これまで大変失礼をいたしました。最近柊斗さんが柚子さんとばかりいるのが嫉ましかったんです。しかも貴重な笑顔まで向けられているのを見てしまったら我慢ができなくて、思わず柚子さんを凍らせそうに……。くっ、柊斗さんの笑顔っ。私だって滅多に見せてくれないのに、なんて羨ましい!」
 思い出して再び怒りがぶり返したのか、杏那から冷蔵庫に閉じ込められたかのような冷気が溢れる。
 東吉が寒さのあまりくしゃみをした。
 周りのテーブルの人たちも、寒さに震えている。
「杏那、漏れてる」
 蛇塚に肩を叩かれてはっと我に返った杏那が「ああ! すみません!」と言って冷気を収める。
 さすが雪女。
 鬼である玲夜は青い炎を使うが、雪女は冷気を扱うらしい。
 どうやら知らぬうちに柚子は凍らされそうになっていたようだ。
 そう考えると背筋がひやりとする。
「杏那は柚子にやきもち焼いてたんだ」
「なるほど」
 柚子も合点がいった。
 やはり他の誰でもなく自分がにらまれていたようである。
 だが、今はそれよりなにより気になったのは別のこと。
「えっと、やきもちって、それってつまりはその……。ふたりの関係は……」
「うん。付き合い始めた」
 蛇塚が決定的な言葉を口にする。
「実は以前から柊斗さんのことが好きだったんです。でも、その時は柊斗さんには花嫁がいて、あきらめようって……。だけど今はフリーだって話を聞いて告白しようと決めて。最初はいい返事はもらえなかったんですけど、あきらめきれなくて何度も何度もアタックしてたら、先日やっとオッケーをいただきました」
 恥じらいながらはにかむ白雪はまさに恋する乙女だった。
「ふあぁぁ!」
 柚子は驚きと興奮と喜びがごちゃ混ぜになった声をあげる。
 梓という花嫁を失ってから数年。
 ずっと色恋には無関心だった蛇塚。
 そもそも花嫁を得られなかったあやかしが次の相手を見つけるのは難しいとされている。
 それだけあやかしにとって花嫁の存在は大きいのだ。
 けれど友人である柚子たちはずっと願っていた。
 どうか蛇塚にも新しい縁がありますようにと。
 そんな蛇塚にとうとう彼女ができたのだ。興奮するなという方が無理がある。
「にゃん吉君! にゃん吉君!」
 柚子はバシバシと東吉を叩いた。
 興奮が抑えきれない。
「落ち着け、柚子!」
「落ち着いてなんていられないよ。はっ、透子に報告しないと!」
 素早くスマホを取り出して透子に電話する。
 すぐに出た透子に感情を抑えられぬまま報告すると、電話の向こうでも騒ぎ出した声が漏れて蛇塚に届いた。
 ひと通り透子と一緒に騒いだ柚子は落ち着きを取り戻し、電話を切ると、透子からの伝言を伝える。
「蛇塚君。透子が今度彼女連れてこいって。盛大にパーティーしようって言ってた」
「うん」
 蛇塚は嬉しそうに小さく微笑んだ。
 その表情はとても幸せそうで、柚子まで嬉しくなる。
「透子から根掘り葉掘り聞かれると思うから覚悟しといた方がいいよ」
「透子は容赦ないからな」
 東吉が苦笑しながら蛇塚を見るその眼差しも、やはり優しいものだった。
 東吉も蛇塚のことはずっと気にしていたのだろう。
「そうだ。言い忘れてたけど、おめでとう、蛇塚君」
「ありがとう」
 今度は満面の笑顔で応える蛇塚に、柚子も笑い返すと、ひゅうぅぅと冷気が襲う。
「柊斗さんの笑顔を独り占めするなんてずるい……」
「えっ、えっ」
 戸惑う柚子になおも冷気はとどまることをしらない。
「杏那、柚子は友達」
「そ、そうですよね。私ったらつい」
 柚子に向かって「ごめんなさい」と謝る白雪は、先ほど嫉妬に怒り狂った怖い顔とは似ても似つかぬしょんぼりとした庇護欲を誘う顔をしている。
「雪女は嫉妬深いあやかしで有名だからな。気をつけろよ、柚子。へたすると凍死するぞ」
 ぽそりと東吉が忠告する。
「ははは……。クーラーいらずだね……」
 柚子からは乾いた笑いが出てくる。
 これからは夏でも毛布が必需品になるかもしれない。
 彼女の前で不用意な発言は気をつけようと柚子は心に誓った。