午前中で終わるはずの会議が、空気の読めない上司の無神経発言で異様に長引き、そのせいで午後からの仕事も芋づる式に遅れてしまった。
おかげで終電ぎりぎりの残業になり、楽しいはずの金曜日の夜が今むなしく終わろうとしている。
まだ駅まで必死に走れば終電に間に合う時間だったけれど、それも何だか癪な気がして、ちょうど会社を出たところで通りがかったタクシーを拾い乗り込んだ。
「お疲れですね」
行き先を告げた後、盛大な溜息と共に座席に沈み込む俺をミラー越しに見て、愛想のいい運転手は微笑みかけてきた。
人懐っこく話しかけてくる感じに、正直、ちょっとうざいな、と思いつつも営業職の悲しさで、俺はにこりと微笑みを返しながら頷いた。
「会議が長引いて、おかげで残業。今日中の仕事もあったから大変だったよ」
「折角の金曜日なのにね」
「本当だよ。また文句、言われそう」
「彼女さん?」
「残念ながら奥さん。うちの、怖いんだよ」
「またまた」
控えめに笑った後、運転手は思いついたように言った。
「ラジオでも付けましょうか? 音楽でも聴けば心身ともにリラックスできますよ」
それなら色々話しかけられることもないだろう。願ってもないと内心喜びながら頷くと、運転手はすぐにラジオのスイッチを入れた。
そして。
「……これ、懐かしいなあ」
ラジオから出会い頭に流れてきた曲に運転手は優しい声で言う。
「私が高校生の頃に流行っていた曲ですよ。お客さんも見たところ私と同年代だから知っていますよね?」
「……え? あ、うん」
戸惑って思わず口ごもる。そんな俺の様子に気が付かないらしく、運転手は言葉を続けた。
「何ていう曲だったかな。ええっと、アップルなんとか……」
「『サマーアップル サイダーガール』」
「ああ、そうそう、それ。あと、丁度、その曲が流行っていた時に『サマーアップルパイ』っていうスイーツが女子の間でもてはやされていたでしょう? 彼女と一緒にカフェの前に二時間くらい並んだことを思い出しますよ。夏の暑い日で、たまらなくて。たかがアップルパイ食うために何やってんだかって……」
最後の方はもう聞いていなかった。
ラジオから流れる透明感あふれるヴォーカルの声に、俺の心はゆらゆらと頼りなく揺らいでしまう。
そして、夏の黄色い日差しの中に佇む白いワンピースの彼女の姿が、ゆっくりと脳裏に浮かび上がった。
「輝子」
その名前を呟いた途端、甘酸っぱいリンゴの匂いが俺の鼻孔をくすぐった気がした。
別に誰かを恨むつもりはなかった。
交通事故ったって、自分が悪い。下り坂の道路の端を自転車でブレーキを掛けずに思い切り走らせていた。結構なスピードになっていたと思う。その時、脇をぎりぎりに市営バスが通って、その風圧で俺は転んだのだ。接触はしていなかったと思う。それでも派手な転び方をして、とっさに右手で受け身を取ったせいで複雑骨折をやらかした。
「バスに轢かれなかっただけ幸せよ。馬鹿」
と手術が終わって病院のベッドに固定された俺に、開口一番、母親が泣きながらそう言った。
そっか、幸せか。
ぼんやりする頭でその言葉を繰り返す。
包帯にまかれた自分の腕にちらと目をやって、俺は母親に聞いていた。
「……俺の右手、完治するの? 動くの?」
「動くわよ」
母親は弱々しい笑顔で言った。
「リハビリ頑張れば、日常生活には支障はないだろうってお医者さんが言ってたわ」
「ギターは? 今まで通りに弾けるの?」
ぐっと母親が息を呑むのが判った。何か言おうと口を開きかけた彼女を制して俺は言った。
「いいよ。どうせ趣味だし。プロになろうなんて思ってたわけじゃないし」
嘘だった。
夢はシンガーソングライターという奴。
ギター片手に新進気鋭のミュージシャン。音楽好きの高校生が考えそうなありがちな夢だ。
「何か音楽、聴きたいな」
俺がぼんやりと呟くと、慌てたように母親がベッドサイドのラジオに手を伸ばす。ここは個室だから他の入院患者を気にする必要はなくて、少しヴォリュームを上げてもらった。
聞き覚えのある陽気なDJの声が、ようやく梅雨が明けたね、もうすぐ夏休みだと楽しげに語り、夏にぴったりなこの曲を、とやはり陽気にタイトルコールした。
『サマーアップル サイダーガール!』
ああ、と溜息が自然にこぼれた。
軽いギターソロから始まる初恋をテーマにしたこの曲は、今、俺の一番のお気に入りだった。
「ギター、コピーしてたんだけどな」
なにげに窓に目をやると、梅雨明けのさわやかな夏空がずっと向こうまで続いていた。
あの空の下には何があるんだろう。
珍しくセンチになって俺は思う。
病室の中でくすぶっているこんな俺の世界より、ずっと明るいものがあの空の下にはあるような気がした。
ぷしゅっと空気の抜けるような音がして、俺は思わず振り返った。
人がまばらだったこともあって、俺とその人はまっすぐに目が合う。何か用があって振り返ったわけじゃないから、そのまま固まってしまった。
何せ相手は女の子だったから。
白いワンピースを着た女の子。多分、同い年くらい? いや、もっと上かな。
その彼女が片手に透明な瓶を持ち、不思議そうに俺を見返していた。
あ、そうか。さっきの音。
俺はまじまじと瓶を見る。
水色の瓶には見覚えがあった。サイダーだ。そうか、さっきの『ぷしゅっ』は、サイダーの栓を抜いた時の音か。結構、大きな音が出るんだな、ペットボトルじゃなくて瓶か、珍しいな、なんてどうでもいいことをいろいろ考えていると、不意に彼女が笑った。
「サマーアップルパイだね」
気が付くと、今度は彼女が俺の持っている包装紙につつまれたアップルパイをみつめていた。
「いいな、買えたんだ。私が来た時はもう完売だった」
「あ、うん。これがラスイチ」
「そっか。一歩、遅かったか」
名残惜しそうな彼女に、少し迷った後、俺は言った。
「良かったら……半分、食べる?」
「食べる!」
一瞬の迷いもなく彼女は返事をし、駆け寄ってきた。その時、風に乗ってふわりと、どこか懐かしいような匂いがした。
俺が半分渡した『サマーアップルパイ』を少しの遠慮もなくぺろりと平らげると、彼女は満足そうな表情で持っていたサイダーをぐいとひとくち飲んだ。短くカットした癖のない髪がさらりとゆれる。
「はーっ、おいしかった。話題になるだけのことはあるわね、サマーアップルパイ」
「ふうん。そう」
店の前に置かれているベンチに結構な至近距離で俺たちは座っている。
初対面の知らない女の子とこうして肩を並べて座って、サマーアップルパイなる流行りもののスイーツをほおばっているこの状況って、我ながらかなりぶっ飛んでいるシチュエーションだと思う。
俺は複雑な気持ちのまま、パイの最後のひとかけを口に入れると隣の彼女をそっと観察した。
小麦色に焼けた腕と清楚なワンピースの白が本来ミスマッチなはずなのにそのコントラストが意外と調和している。小柄で細身。顔もすっごく可愛いってわけじゃないけど、何だか愛嬌がある。いわゆる人好きのする顔。目はその反面、細くて凛としている。眩しそうに空を見上げるその感じがとても魅力的で、実際よりもずっと美人に見えた。
「君は気に入らなかった? サマーアップルパイ、美味しくなかった?」
不意に彼女がこちらを向いたので、おれは慌てて目を背ける。じろじろ見ていた罪悪感からぶっきらぼうに答えた。
「別に。普通に美味しかっただけだよ」
「はあ?」
細い目が見開かれる。本気で驚いているようだ。その驚きにこっちも驚く。
「え? 何だよ」
「だって、このアップルパイを食べたくてこのお店に来たんでしょ? 並んでまで買ったんじゃないの?」
「まあ、そうだけど」
確かに、今話題の『サマーアップルパイ』を食べるためにここに来た。
平日の午前中だからと侮っていたら、店の前には既に結構な人数が並んでいて、俺が買えたのは並び始めて一時間後。それも最後のひとつだった。
「だったらなんでそんなに薄い感想なの? そもそもサマーアップルパイがどんなパイか知ってる?」
「サマーアップルっていう品種のリンゴで作ったアップルパイってことじゃないの? 味は普通のリンゴだったけど」
「ないわ」
低い声で否定すると彼女は信じられないという顔をして頭を横に振った。
「サマーアップルってリンゴの品種じゃないわよ」
「え。じゃあ、何?」
「食べて気が付かなかった? 普通のアップルパイより甘さ控えめでスパイスをきかせているの。夏に食べるにふさわしいさっぱりしたアップルパイってこと。だから『サマーアップルパイ』って名前なのよ」
「あー、そういうことか」
言われて納得する。
確かにあまり甘い物が得意でない俺も、半分だけだったとはいえさらりと最後までおいしく食べることができた。
なるほどと頷いている俺を不思議そうに眺めて、彼女は言葉を継ぐ。
「どういうスイーツか、知らなくて買いに来たんだ?」
「あ、うん。俺がここのパイを食べたかった理由は音楽だから」
「音楽?」
「うん。知らないかな、この曲」
俺が『サマーアップル サイダーガール』のメロディを軽く口ずさむと、彼女はますます奇妙な顔をする。
「うーん、知っているような知らないような」
「音楽に興味ないんだ? 大ヒットってわけじゃないけど、そこそこ流行っているよ、『サマーアップル サイダーガール』っていう曲なんだけど」
「うん? サマーアップル? パイじゃないのね?」
「そうだけど、あくまでイメージ」
俺が笑うと、彼女もつられるように笑って言った。
「さわやかなタイトルだけど、歌詞はどんなの? 恋愛もの?」
「うん、初恋ソング。夏の日に、海で見かけたサイダーのようなさわやかな女の子に恋をして、その子からリンゴの匂いがしたっていう。結局、恋は実らないんだけど、大人になってもリンゴの匂いを嗅ぐと、サイダーのような彼女のことを思い出すって感じの曲」
「へえ、未練だね」
「そういう感想? もっと言い方あるだろ」
憮然とすると、彼女は慌ててごめんごめんと繰り返した。
「そういうとこズレてるってよく言われるよ。女の子らしくないって」
「なのに、流行りのサマーアップルパイは食べたかったんだ。そこは女の子だね」
「というか、たまたまここのお店のこと……知り合いから聞いて『サマーアップルパイ』を食べようって感じになったの。その子は来られなかったから、私ひとりで自転車とばしてここまで来ちゃった。甘いだけのスイーツじゃなくて甘さ控えめでスパイスをきかせたアップルパイなんて魅力的だよ。最後の晩餐にふさわしい」
「……は?」
俺は少し考える。それから青い空を見上げた。
「最後の晩餐って……晩餐っていうのはたしか晩ごはんのことだろ? まだ午前中だけど」
「え? 引っかかるのそこ?」
途端に彼女は笑い出した。もうたまらない、そんな感じの大笑いだ。
「ちょ、ちょっと、笑いすぎだよ。だいたいそんなに笑うこと、俺、言った?」
「いや、君ってピュアだなあって思って」
「ピュアって……馬鹿にしてる?」
「違うよ」
ちょっと黙ってから彼女は言った。
「最後の晩餐は人生最後に食する食べ物っていう意味」
「何か、重たい話になってきてる?」
「そうでもない。ただの例え。で、ここにサマーアップルパイを張り切って買いに来たわけだけど、なんと完売でがっかり。そうしたら君と目が合った。で、念願のサマーアップルパイを半分くれるって言うじゃない。神さまかと思ったよ。だから決して君のことは馬鹿にしていません」
「神さまって大げさだな。そういう言い方がもう馬鹿にしてるよ。だいたい人生最後に食する食べ物ってやっぱり重たいよ。意味わからん」
「そうかな、そのままの意味だよ。とにかく君に会えて良かったよ。このサイダーだけじゃちょっとしょぼいでしょ?」
言われて彼女の持つサイダーの瓶に目をやる。
「そんなのどこで売っているんだよ。コンビニにはないよな?」
「ここに来る途中に小さな駄菓子屋さんがあってね、そこに売ってたの。なんかレトロでいいでしょ。でもね、ちょっと残念なのは栓なの。ほら、手で開けられるようになってんの。栓抜きいらずよ」
見てみると瓶にはプラスチックのキャップが付いていた。
「手軽でいいじゃん」
「そうだけど、簡単すぎて拍子抜けする」
そう言って彼女は空を見上げた。つと瞳を細めて眩しそうな表情になる。
「君の方は音楽のためにここのアップルパイを食べに来たって言ってたけど、そんなにその曲が好きなの?」
「というより、そうだな、俺もある意味、最後の晩餐かもしれない」
「はい?」
彼女がきょとんと俺を見る。本当は話す気はなかったけど、仕方ない。
「右手をね、怪我したんだ。一か月くらい入院していて、ほら、この近くのY病院。退院した今もリハビリに通っているんだ。実は今日もこれから行くんだけど……でも、リハビリをいくら頑張っても、残念ながら指はうまく動かなくて。日常生活にはあまり不便はないんだけど、例えば楽器を弾くとか、そういう繊細な動きは難しいんだ」
「楽器を弾く人なの?」
「そういう人に、プロになりたくて目指してた。でも、もうダメなんだ。それで、好きなミュージシャンの曲に使われているサマーアップルのパイを食べることで吹っ切ろうと思ってね」
「それって、いわゆる厄落としみたいな感じ?」
「自分でもよく判らんけど、けじめをつけたかったんだよ。例えばバンドが解散する時にラストライブみたいなことするだろ? 俺はそんなのないから、好きな曲にまつわるパイを食べることで、自分の中でけじめをつける、というかきっかけ、かな。これで俺の音楽の夢は終わり。さあ、次行こうぜ、みたいな。他人が聞いたら馬鹿みたいなことだろうけど」
「うん、馬鹿みたい」
「あっさり言うなよ」
苦笑していると、彼女が言った。
「そうか、それも最後の晩餐だね」
「今、朝だけどな」
「まだ言うか」
そうしてふたりして笑い合った後、彼女は不意にベンチから立ち上がった。
「じゃ、そろそろ行くね。自転車、その辺に放置してきたからやばい」
「あ、そう」
慌てて俺も立ち上がると、彼女は三分の一ほどサイダーが残っている瓶を俺に突き出した。
「パイを半分くれたお礼にこれをあげよう」
「は? 飲みかけなんていらんし」
「中身は捨ててよし。瓶をね、この先の坂を下ったところに小さな駄菓子屋さんがあるから、そこに返しておいて」
「……自分で返せよ」
「だから、自転車がやばいんだって。早く取りに行きたいの。それに瓶を返せば、瓶代が戻ってくるよ」
「いらんし」
「遠慮するな」
かかと笑う彼女にこれ以上、抗えなくて、俺は渋々サイダーの瓶を受け取った。
「じゃあね」
手を振って、あっさり背を向けた彼女に、俺は慌てて言った。
「おい、あんた、自殺なんか考えてないだろうな?」
「え? 何で?」
肩越しに振り返った彼女はもう笑っていなくて、その表情に俺はどきりとする。
「い、いや、だって、最後の晩餐とか言うから……」
「いつかは死ぬよ。誰だってね。だから慌てなくていいんだよ」
「え? どういう意味?」
「なんでもない。リハビリ、頑張って。これからは車に気を付けるんだよ」
「あ、待って」
「はい?」
「ええっと……な、名前ぐらい……教えろよ」
一瞬の沈黙の後、彼女は真顔で言った。
「個人情報ですので安易には教えられません」
「おい……」
「はいはい、冗談です」
表情を柔らかく崩すと彼女は答えた。
「きこ」
「え? きこ?」
「うん。輝く子と書いてきこと読む。てるこじゃないからね」
にっと笑いかけると、もう一度、彼女は手を振った。そしてそのまま、振り返ることなく歩いて行った。
俺はぬるくなったサイダーの瓶をぶら下げて、その白い背中が見えなくなるまでぼんやりと見送っていた。
その後、彼女、輝子に言われた通り、俺は律儀に坂の下の駄菓子屋にサイダーの瓶を返しに行った。彼女の言う通り、五円の瓶代が返ってきた。
それはサイダーを買った時に瓶の保証金として上乗せされていた金が返却されただけのことだから、彼女に会った時に返すべく、他の硬貨と混ざらないよう紙に包んで財布の中に入れておいた。
けれど、当ては外れてその後、輝子とはなかなか会えず、財布の中で紙はくしゃくしゃになって破れ、分けてあった瓶代は他の金とまぎれて判らなくなってしまった。
そのうち瓶代のことも、サマーアップルパイのことも、日常の中で記憶はどんどん薄れていき、そうして二か月が過ぎたころ、ようやく俺のリハビリも最終日を迎えることになった。
右腕はほとんど良くなって、もう普通に動く。心配されていた後遺症もなく、無理さえしなければ今までと同じ日常生活を送れるとのことだった。
この病院に来るのもこれが最後か。
そう思うと名残り惜しくて、リハビリが終わった後、いつもより大回りして病院の廊下を出口に向かって歩いていた。
その時だった。聞き覚えのあるメロディが俺の耳をかすめたのは。下手くそな鼻歌だったけれど、その曲名はすぐに判った。
『サマーアップル サイダーガール』
思わず足を止めて、通り過ぎようとしていた病室を覗きこむ。扉は開いていたので中を見渡せた。個室らしいその病室のベッドの端に、こちらに背中を向けて座っている白いワンピースの背中が見えた。初めて会った時とは違うデザインのワンピースだったけれど、それが誰かはすぐに判った。思わずあっと声を上げそうになる。
……やっぱりそうか。やっとみつけた。
病室に勝手に入ることに少し躊躇したが、気持ちが勝った。俺は中に入ると、驚かさないように出来るだけ優しく声を掛けた。
「あの、輝子(きこ)、さん?」
びくと肩が震えて、鼻歌が止んだ。慌てて立ち上がると彼女、輝子は振り返った。
「あ、君は……」
「久しぶり」
俺が間抜けな挨拶をすると、ふっと彼女の表情が緩んだ。そして、いたずらな笑顔になる。
「みつかったか」
「みつけたよ」
「そうか、そうだよね。君はY病院を退院してもしばらくリハビリに通ってるって言ってたものね」
「時間がかかったけど。もっと早く会えると思ってた」
「そういうことを言うってことは、気付いてたんだ、私がこの病院にいること」
「多分、いると思った」
「どうして? 私、何も言わなかったよね」
「言ったよ。最後に俺に車に気をつけろって」
「……それが何?」
「俺は腕を怪我したとは言ったけど、交通事故に遭ったとは言ってない。俺のこと知っていたんだよね、交通事故でこの病院に入院していたって。だから車に気を付けろって言葉が出てきたんだ」
「あら、それはうっかり」
「それに最初に会った時、風に乗ってある匂いがしたんだ」
「何、それ」
ふふと楽しそうに笑うと輝子は言った。
「リンゴの匂いでもした?」
「違う。病院独特の匂い。あれは、消毒液の匂いだ。ずっと入院していた俺からすると、ちょっと懐かしいくらいの匂いだった」
「……消毒液の匂いか。知らないうちに沁みついてるのかな、身体に」
彼女はそう言うと腕を顔に近づけて大げさに鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。
「うーん、判らん」
「何やってんだよ」
俺は笑って、それからすぐに瓶代のことを思い出した。
「あ、そうだ。返さなきゃいけないものがある」
慌ててポケットから財布を取り出すと、小銭をひっかきまわしてなんとか五円玉を一枚みつけてつまみ上げた。
「これ、サイダーの瓶代な」
「え?」
五円玉をなんとなく受け取った後、彼女はぽかんと俺を見返す。
「本当にあの後、駄菓子屋さんに瓶を返しに行ってくれたんだ? で、その瓶代をわざわざ私に返してくれるの?」
「うん。そのまま渡して申し訳ない。本当は紙に包んで渡そうと……え? 何か変かな?」
微妙な表情の彼女に気が付いてそう言ってみると、輝子はあっさりと頷いた。
「……うん、変」
「相変わらず、可愛くない言い方だな」
やれやれと肩を竦めた後、俺はずっと気になっていたことを思い切って聞いてみた。
「あのさ、今更だけど、ちゃんと聞いておきたい。あの時、最後の晩餐って言ってただろ。あれってつまり、どういう意味だったんだ?」
「ああ、そのこと」
彼女はいままで座っていたベッドのマットレスに手を当てて、愛おしそうにゆっくりと撫でた。
「例えば、この病室に重い病を抱えた子が入院していたとしましょう」
例え? と聞き返しそうになったけど、真剣な輝子の様子に俺は言葉を呑み込む。
「その子は病気のせいで、食べ物の制限が厳しくて甘いお菓子も炭酸の飲み物も生まれてこの方、食べたことも、飲んだこともありません。だからずっとそんなお菓子や飲み物に憧れていました。そんな時、偶然、手にした雑誌に今はやりのスイーツ『サマーアップルパイ』が載っているのを見たのです。
直感でその子は「あ、これだ!」と思いました。そう、自分が最後に食べる、いわゆる『最後の晩餐』です」
ぽかんとしている俺を一瞥してから、輝子は話を続ける。
「もう自分は長くないと気が付いていたのです。だから」
「え! 長くないって……!」
「話、聞く気ないならやめるけど」
「あ、すみません」
俺は感情を抑えて、渋々口を閉じた。それを確認すると、輝子は何もなかったように言葉を続けた。
「だから、その子は、病院を抜けだせない自分の代わりに、担当の新人看護師に頼んだのです。『サマーアップルパイとサイダーを買ってきて。一緒に『最後の晩餐』を食べようよ』と」
彼女はすっと俺の目の前に立った。少し泣きそうな顔をして。
「その新人看護師はアホなので、いいよ、と言ってしまいました。明日非番だから、内緒で買ってきてあげる、『最後の晩餐』も付き合うよ、一緒に食べよう、と。
でもその子に『明日』は訪れなかったのです。
約束した日の夜、病状が急変して亡くなってしまったのです。
だけど、その新人看護師はアホなので、その子との約束を守りたくて、サマーアップルパイとサイダーを買いに行きました。だけど、サマーアップルパイは売り切れで、どうしようかと途方に暮れていると、神さまのように優しい男の子が現れて、サマーアップルパイを半分、分けてくれました。おかげでアホな新人看護師は、亡くなったその子を想いながら『最後の晩餐』を食することができたのです」
そこまで一気に話すと、輝子は小さく息を吐いた。
「……もう。遅い。意味のないことだと判っているけど、約束を守りたかったのよ」
俺は深く頷いた。
意味のないこと。
それが最も大切に感じる時はある。
「悪かったな」
俺は少しだけ微笑んで言った。
「『最後の晩餐』がその子とじゃなくて、俺とだったなんて残念だったろ」
「かもね」
「あんたって本当に可愛くないな」
「可愛いだけじゃね、やってられないこともあるよ。白衣の天使としては」
と、白いワンピース……看護師の制服を着た輝子はからりと笑う。
「この病室、その子が使っていたんだけど、亡くなってから空いたままだったの。でも明日から患者さんが入ることになってね、それでベッドの用意をしていたの。……久しぶりにこの病室に入ったものだから、ちょっとね……」
少し恥じらうような表情をした後、彼女は初めて俺に気が付いたというように、唐突に態度を変えて邪険に言った。
「あ、君。部外者が勝手に病室に入ってきてもらっちゃ困るよ。邪魔だからとっとと帰りなさい」
「ひでえなあ。判ったよ」
俺はひとつ肩を竦めると、彼女に背中を向けた。出て行こうとする俺に、輝子の言葉が追いかけてきた。
「ご縁がありますように。五円だけに」
振り返ると例の五円玉をつまんで、笑っている彼女がいる。
「何のご縁だか」
俺は手を振ると、今度こそ病室を出て行った。
「ご縁、か」
思い出し笑いをする俺に、タクシーの運転手は不思議そうな顔をして質問したげな様子だったが、口から出てきた言葉は別のものだった。
「着きましたよ、お客さん」
「ありがとう」
「奥さまによろしく」
いたずらっぽく笑う運転手に料金を払って、タクシーを降りる。走り去る車を少し見送ってから俺は歩き出す。
車のラジオの曲はとっくに違うものに変わっていたけれど、俺の頭の中には相変わらず、懐かしい『サマーアップル サイダーガール』が流れていた。
後から思えば、レトロなサイダーの瓶をぶら下げて可愛くないことをはっきりきっぱり言う輝子こそ、炭酸はじける『サイダーガール』だったな、と。
俺は思いついて、自宅のマンションを通り過ぎ、近くの深夜営業のスーパーに足を向ける。確かあの店には売っていたはずだ。
甘いものは得意じゃないけど、アップルパイとサイダーを買って帰ろう。今度は半分じゃなくて二人分。
『スーパーのアップルパイなんて邪道よ』とまた可愛くないことをうちのサイダーガールは言うだろうけど。