その後、彼女、輝子(きこ)に言われた通り、俺は律儀に坂の下の駄菓子屋にサイダーの瓶を返しに行った。彼女の言う通り、五円の瓶代が返ってきた。
 それはサイダーを買った時に瓶の保証金として上乗せされていた金が返却されただけのことだから、彼女に会った時に返すべく、他の硬貨と混ざらないよう紙に包んで財布の中に入れておいた。
 けれど、当ては外れてその後、輝子とはなかなか会えず、財布の中で紙はくしゃくしゃになって破れ、分けてあった瓶代は他の金とまぎれて判らなくなってしまった。
 そのうち瓶代のことも、サマーアップルパイのことも、日常の中で記憶はどんどん薄れていき、そうして二か月が過ぎたころ、ようやく俺のリハビリも最終日を迎えることになった。
 右腕はほとんど良くなって、もう普通に動く。心配されていた後遺症もなく、無理さえしなければ今までと同じ日常生活を送れるとのことだった。
 この病院に来るのもこれが最後か。
 そう思うと名残り惜しくて、リハビリが終わった後、いつもより大回りして病院の廊下を出口に向かって歩いていた。
 その時だった。聞き覚えのあるメロディが俺の耳をかすめたのは。下手くそな鼻歌だったけれど、その曲名はすぐに判った。
『サマーアップル サイダーガール』
 思わず足を止めて、通り過ぎようとしていた病室を覗きこむ。扉は開いていたので中を見渡せた。個室らしいその病室のベッドの端に、こちらに背中を向けて座っている白いワンピースの背中が見えた。初めて会った時とは違うデザインのワンピースだったけれど、それが誰かはすぐに判った。思わずあっと声を上げそうになる。
 ……やっぱりそうか。やっとみつけた。
 病室に勝手に入ることに少し躊躇したが、気持ちが勝った。俺は中に入ると、驚かさないように出来るだけ優しく声を掛けた。
「あの、輝子(きこ)、さん?」
 びくと肩が震えて、鼻歌が止んだ。慌てて立ち上がると彼女、輝子は振り返った。
「あ、君は……」
「久しぶり」
 俺が間抜けな挨拶をすると、ふっと彼女の表情が緩んだ。そして、いたずらな笑顔になる。
「みつかったか」
「みつけたよ」
「そうか、そうだよね。君はY病院を退院してもしばらくリハビリに通ってるって言ってたものね」
「時間がかかったけど。もっと早く会えると思ってた」
「そういうことを言うってことは、気付いてたんだ、私がこの病院にいること」
「多分、いると思った」
「どうして? 私、何も言わなかったよね」
「言ったよ。最後に俺に車に気をつけろって」
「……それが何?」
「俺は腕を怪我したとは言ったけど、交通事故に遭ったとは言ってない。俺のこと知っていたんだよね、交通事故でこの病院に入院していたって。だから車に気を付けろって言葉が出てきたんだ」
「あら、それはうっかり」
「それに最初に会った時、風に乗ってある匂いがしたんだ」
「何、それ」
 ふふと楽しそうに笑うと輝子は言った。
「リンゴの匂いでもした?」
「違う。病院独特の匂い。あれは、消毒液の匂いだ。ずっと入院していた俺からすると、ちょっと懐かしいくらいの匂いだった」
「……消毒液の匂いか。知らないうちに沁みついてるのかな、身体に」
 彼女はそう言うと腕を顔に近づけて大げさに鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。
「うーん、判らん」
「何やってんだよ」
 俺は笑って、それからすぐに瓶代のことを思い出した。
「あ、そうだ。返さなきゃいけないものがある」
 慌ててポケットから財布を取り出すと、小銭をひっかきまわしてなんとか五円玉を一枚みつけてつまみ上げた。
「これ、サイダーの瓶代な」
「え?」
 五円玉をなんとなく受け取った後、彼女はぽかんと俺を見返す。
「本当にあの後、駄菓子屋さんに瓶を返しに行ってくれたんだ? で、その瓶代をわざわざ私に返してくれるの?」
「うん。そのまま渡して申し訳ない。本当は紙に包んで渡そうと……え? 何か変かな?」
 微妙な表情の彼女に気が付いてそう言ってみると、輝子はあっさりと頷いた。
「……うん、変」
「相変わらず、可愛くない言い方だな」
 やれやれと肩を竦めた後、俺はずっと気になっていたことを思い切って聞いてみた。
「あのさ、今更だけど、ちゃんと聞いておきたい。あの時、最後の晩餐って言ってただろ。あれってつまり、どういう意味だったんだ?」
「ああ、そのこと」
 彼女はいままで座っていたベッドのマットレスに手を当てて、愛おしそうにゆっくりと撫でた。
「例えば、この病室に重い病を抱えた子が入院していたとしましょう」
 例え? と聞き返しそうになったけど、真剣な輝子の様子に俺は言葉を呑み込む。
「その子は病気のせいで、食べ物の制限が厳しくて甘いお菓子も炭酸の飲み物も生まれてこの方、食べたことも、飲んだこともありません。だからずっとそんなお菓子や飲み物に憧れていました。そんな時、偶然、手にした雑誌に今はやりのスイーツ『サマーアップルパイ』が載っているのを見たのです。
 直感でその子は「あ、これだ!」と思いました。そう、自分が最後に食べる、いわゆる『最後の晩餐』です」
 ぽかんとしている俺を一瞥してから、輝子は話を続ける。
「もう自分は長くないと気が付いていたのです。だから」
「え! 長くないって……!」
「話、聞く気ないならやめるけど」
「あ、すみません」
 俺は感情を抑えて、渋々口を閉じた。それを確認すると、輝子は何もなかったように言葉を続けた。
「だから、その子は、病院を抜けだせない自分の代わりに、担当の新人看護師に頼んだのです。『サマーアップルパイとサイダーを買ってきて。一緒に『最後の晩餐』を食べようよ』と」
 彼女はすっと俺の目の前に立った。少し泣きそうな顔をして。
「その新人看護師はアホなので、いいよ、と言ってしまいました。明日非番だから、内緒で買ってきてあげる、『最後の晩餐』も付き合うよ、一緒に食べよう、と。
 でもその子に『明日』は訪れなかったのです。
 約束した日の夜、病状が急変して亡くなってしまったのです。
 だけど、その新人看護師はアホなので、その子との約束を守りたくて、サマーアップルパイとサイダーを買いに行きました。だけど、サマーアップルパイは売り切れで、どうしようかと途方に暮れていると、神さまのように優しい男の子が現れて、サマーアップルパイを半分、分けてくれました。おかげでアホな新人看護師は、亡くなったその子を想いながら『最後の晩餐』を食することができたのです」
 そこまで一気に話すと、輝子は小さく息を吐いた。
「……もう。遅い。意味のないことだと判っているけど、約束を守りたかったのよ」
 俺は深く頷いた。
 意味のないこと。
 それが最も大切に感じる時はある。
「悪かったな」
 俺は少しだけ微笑んで言った。
「『最後の晩餐』がその子とじゃなくて、俺とだったなんて残念だったろ」
「かもね」
「あんたって本当に可愛くないな」
「可愛いだけじゃね、やってられないこともあるよ。白衣の天使としては」
 と、白いワンピース……看護師の制服を着た輝子はからりと笑う。
「この病室、その子が使っていたんだけど、亡くなってから空いたままだったの。でも明日から患者さんが入ることになってね、それでベッドの用意をしていたの。……久しぶりにこの病室に入ったものだから、ちょっとね……」
 少し恥じらうような表情をした後、彼女は初めて俺に気が付いたというように、唐突に態度を変えて邪険に言った。
「あ、君。部外者が勝手に病室に入ってきてもらっちゃ困るよ。邪魔だからとっとと帰りなさい」
「ひでえなあ。判ったよ」
 俺はひとつ肩を竦めると、彼女に背中を向けた。出て行こうとする俺に、輝子の言葉が追いかけてきた。
「ご縁がありますように。五円だけに」
 振り返ると例の五円玉をつまんで、笑っている彼女がいる。
「何のご縁だか」
 俺は手を振ると、今度こそ病室を出て行った。