ミハイルの秘密を知った花鶴は、なんだか嬉しそうだった。
「そっかぁ~ ミーシャってそういう趣味があるんだぁ~」
ちょっと誤解している気はするが、ちゃんと女装のことは黙っておくと約束してくれた。一応、その場をしのげたことで、ホッとする。
「理解してくれて礼を言うよ。花鶴」
俺がそう言うと、なぜか彼女の顔から笑みが消える。
「あんさ~ 前々から思ってたんだけど。なんであーしのことだけ、上の名前なん?」
「いや……別に意味はないが」
「なら、ここあって呼んでよ! ミーシャもリキも下の名前で呼ぶくせに、ダチじゃないの? あーしとオタッキーって!」
そういう事か……。花鶴という人間は友情を大事にするんだな。
ならば仕方ない。ミハイルの秘密も共有する仲だ。
彼女とも親しくしておくべきか。
「わかった。今度からお前のことも、下の名前で呼ぶ。それで良いか? ここあ」
「うん♪ マブダチぽい。ね、オタッキー」
そう言って満面の笑みで俺を見つめる。
てか、マブダチならこっちも下の名前で呼べよ!
※
その後、三人で仲良く昼食を取って、チャイナタウンをぶらぶらする。
服屋とか雑貨屋が多いから、俺たちが遊べる店は少なかった。
ミハイルが言っていたパンパンマンの乗り物もここのゲーセンにはなく、ガッカリしていた。
仕方ないので、駅に向かって帰ることに。
彼らの地元である席内駅に列車が着くと、ミハイルとここあは「バイバ~イ」と手を振って降りていった。
列車が動き出しても、ホームに立ったまま笑顔で俺を見送る。
なんだかガキぽい奴らだと苦笑するが、悪い気分じゃない。
ジーパンのポケットからスマホを取り出し、アドレス帳を開く。
この半年で登録数の桁が1つ増えた。
両親と妹、それに仕事関係ぐらいの人間しか、存在しない希薄な人間関係のアドレス帳がどんどん変化していく。
ミハイルに始まって、女装したアンナ。
それから、現役JKのひなた。あとは腐女子のほのか。
自称芸能人のあすか。
10年ぶりに再会したマリア。
ダチのリキ。
そして、今日新たに追加されたのは、ギャルのここあ。
チャイナタウンで、今後、ミハイルの秘密を守るためにと、連絡先を交換したのだ。
あくまでも、ダチのために。
別に電話をかけるわけでもないのに、眺めているだけで自然と口角が上がる。
俺もぼっちから卒業できそうなのかな……。
と思っていると、目的地の真島駅にたどり着く。
自動ドアが閉まりそうだったので、急いでホームへと走り抜ける。
乗り過ごしするところだった……と冷や汗をかく。
すると、手に持っていたスマホがブーッと震える。
長い振動だったので、電話だとすぐに分かった。
着信名は、アンナ。
「もしもし」
『あっ、タッくん☆ 今、真島だよね?』
当たり前だろ、とツッコミを入れたかった。
だってついさっきまで一緒にいたし、時刻表を見れば、俺が今真島駅に降りることは、容易だからな。
ストーカー並みで怖い。
「ああ……どうした?」
『あのね、この前のマンガをお家で読んでたら、タッくんとの最初のデートを思い出しちゃって……会いたくなってきたの』
噓つけ! 数分前まで一緒にいたろ!
「そ、そうか。じゃあ取材するか?」
『うん☆ 一番最初にデートしたカナルシティに行こうよ☆』
「良いな。で、なにをするんだ?」
『映画にしよ☆ あの時みたいに』
珍しいな、アンナにしては……。
「そうか。映画は大好きだからな、どんとこいだ。なにを観る?」
俺が尋ねると、彼女は大きな声でこう言った。
『ボリキュア!』
「……」
そうだった。今年は15周年で何かとイベントが盛りだくさんだと、アンナから話を聞いていた。
ところで、これってラブコメの取材になるんでしょうか。
僕には理解できません……。
翌週の日曜日にカナルシティで映画を観ることになった。
思えば、アンナと初めてデートした場所だ。感慨深い。
しかし……観る作品が『ロケッとボリキュア☆ふたりはボリキュア オールスターズ』
博多行きの列車をホームで待ちながら、スマホで作品情報を確認しているが、マジでこれを大の男同士で観るのか……。
あくまでも取材として行くのだけど、経費として落ちるのか不安だ。
そうこうしているうちに、列車がホームへと到着。
自動ドアがプシューッと音を立てて、開く。
スマホをポケットになおして、車内に入る。
スニーカーを車内に踏み入れた瞬間、そこは別世界。
甘い香りが漂い、空気が優しく感じる。
ただの電車だというのに。
それを変えてしまったのは、一人の少女。
金色の長い髪を耳上で左右に分け、ツインテール。
ふんわりとしたピンクのブラウスには、胸元に大きなリボンがついている。
ハイウエストのフレアスカートを履いているが、細い体型のため、少し裾が下に落ちている。
足もとはピンクのローファー。
天使だ……。
余りの可愛さに俺は言葉を失う。
すると、それを見兼ねた彼女が苦笑いする。
「も~う。タッくんったら、無視しないでよ」
「あぁ……すまん。久しぶりにアンナを見たせいかな……似合っているよ、それ」
つい本音が漏れてしまう。
「え? この服のこと? 嬉しい☆」
なんて、はにかんで見せる彼女を、俺はどうしても男して認識できない。
女の子として対応してしまう。
※
博多駅について、辺りを見回すが、いつもより人が少ないことに気がつく。
今日が日曜日だから、サラリーマンとかOLがいないのは、分かっていたつもりだが。
若者やカップルが遊びに来るから、いつもならごった返しているはずなのに……。
ふと、近くにあった壁時計に目をやる。
『8:12』
そうだった。アホみたいに早く博多へ来たんだった。
だから、若者もまだ自宅にいるのだろう。
アンナが昨晩、L●NEで一通のメッセージを送ってきたのだ。
『明日は朝一番のボリキュア見ようね! だから、朝ご飯も食べないで行こ☆』
と勝手に決めつけられた。
だから、彼女の指示通り、俺は朝飯抜きで、列車に乗り込んだ。
「お腹空いたねぇ~ タッくん」
「ああ……さすがにな」
ていうか、お前がボリキュアのために抜かせたんだろ!
「もうちょっと、我慢しようね。映画があと30分ぐらいで始まっちゃうから。ボリキュアの」
なんて俺の肩に優しく触れる。
ふざけるな。
その話しぶりだと、他人に俺がボリキュアを観たいから、飯抜きで早く行こうってせがんでいるみたいじゃないか!
結局、アンナが早く映画を観たいからと、そのまま、はかた駅前通りへと向かう。
早歩きで。
空腹なのに、走らせるこの状況。苦行でしかない。
カナルシティに着いても、アンナは慌ててエスカレーターを登っていく始末。
速すぎて追いついていけないほどだ。
まあ、エスカレーターの下から、彼女のスカートを覗けるから嬉しいけど。
やっとのことで4階の映画館にたどり着くと、アンナはチケット売り場のお姉さんに声をかける。
「ボリキュア、大人二枚ください☆」
なんか幼女向けの作品名に対して、大人ってのが辛い。
俺は恥ずかしくて、少し離れた場所で彼女の背中を見守る。
チケットを受け取ったアンナは、なぜかその場で立ち止まっていた。
不思議に思った俺は、彼女に声をかける。
「どうした? アンナ。もうチケットは買えたんだろ?」
「あのね。おかしいの……」
そう言って唇を尖がらせる。
「おかしい? なんのことだ?」
「ボリキュアのスターペンライトがついてないの」
ファッ!?
あれが欲しいのか……。
ていうか、お子様しかもらえないのでは。
近くにいた売り場のお姉さんが、苦笑いでアンナに説明する。
「あのぅ、お客様。大人の方には特典のペンライトを配布できないんです。申し訳ございません」
と頭を下げる。
だが、アンナはそれに屈することはない。
「えぇ……お金払ったのに、おかしいよぉ~」
おかしいのは、あなたの感覚!
「アンナ。あくまでも子供用のおもちゃだからな。ここはちょっと我慢してくれないか?」
そう言うと、ギロッと俺を睨みつける。
「イヤッ! あれがないと映画が楽しくないの!」
「……」
このままでは埒が明かない。
後ろにもたくさんの家族連れが待っている。
仕方ない。俺が一役買ってやるか。
ゆっくりとチケット売り場のお姉さんに近くと、俺は大きな声で叫び出した。
床に寝転がり、手足をバタバタさせて。
「イヤだっ、イヤだぁ~! ペンライトないとイヤだぁ~! アンナお姉ちゃんと遊べない~! タッくん、あれがないと眠れないの~! くれないとイヤだぁ!」
ついでに泣き真似も一緒に。
「うえ~ん!」
当然、お姉さんはそれを見て困る。
「ちょっと、お客様……」
だが俺はそれでも押し通す。
「タッくんはアンナお姉ちゃんとボリキュア見るために、朝ご飯も食べてないのにひどいよぉ~! うわああん! ペンライトぉ~!」
「……」
絶句するお姉さん。
一連の流れを見ていた家族連れがざわつき始める。
「あの子ってそういう男の子よね? ペンライトぐらいあげればいいのに」
「優しくない映画館だな。ちょっと俺クレーム入れようかな」
「パパ、ママ。わたぢのライト、あのお兄ちゃんにあげてもいいよ」
最後の女の子、要らないです。
結局、俺の三文芝居によって、受付のお姉さんが負けてしまい、ライトは無事に2つゲットできた。
「ありがと、タッくん☆」
「ああ……構わんさ。アンナのためだからな」
こうやって、取材をするたびに、俺はなにかを失っていくのさ。
無事にペンライトをゲットできたアンナは、終始ご機嫌だった。
その代償として、俺は人間として大事なものを失ったが……。
チケット売り場の左からエスカレーターに乗る。
相変わらず、スクリーンまでが長い。
でも、それがこの映画館の楽しみ方でもある。
左側には一面ガラス張りの窓で、上に昇るに連れて、カナルシティを一望できる。
ついでと言っちゃなんだが、隣接している高級ホテルの屋上も見られる。
俺みたいな貧乏人には、無縁の建物だが。
立派な和風の庭園があり、一つ小さな古風の家らしき建物がポツンと立っている。
きっとあれだ。
上流階級の奴らがお見合い的な事をするんだろう……。
なんて、勝手な妄想を膨らませていると。
隣りにいたアンナが手を叩いて見せる。
「そうだ。まだ朝ご飯食べてないよね?」
「ああ、アンナがそう指示したからな」
おかげで、眩暈が起きそう。
「じゃあさ。ボリキュアを観ながら、二人で朝ご飯を食べようよ☆」
「暗い中でか?」
「うん☆ タッくんは先にスクリーンの中で待っててよ☆ アンナが用意してくるから」
と嬉しそうに笑う。
「?」
映画館で飯を食うなんて……。
まあ別に音を立てずに食わなければ、マナー違反ではないかな。
しかし、この売店にご飯なんて売っていたか?
精々がポップコーンぐらいだったような。
※
俺は彼女に言われた通り、ひとりスクリーンの中で待つことにした。
入ってみると、いつもと違った客層に飲み込まれそうになる。
辺りを見回せば……。
「きゃははは」
「ママ、ボリキュアだぁ~」
「ライト。ライトぉ~!」
なんて鼻水を垂らしている幼女ばかり。
場違い過ぎる。
ほとんどが家族連れって感じで、大人もいるけど、あくまでも付き添い。
近くにいたお母さんと目が合えば、「うわっ」とドン引きされる始末。
俺だって彼女の付き添いだもん! 大友、扱いしないで!
アンナが購入した指定席は、劇場の真ん中あたりで一番観やすいシート。
ただ、普通の座席と違い、ひじ掛けがない。
ソファーのようなシートだ。
どうやら、ファミリー向けの座席らしい。
「最近はこんなサービスがあるんだな」
ポンポンと誰もいないシートを叩いてみる。
すると、色白の長い脚が2つ現れた。
見上げれば、ニッコリと笑う金髪のハーフ美少女が。
「お待たせ☆ 朝ご飯買ってきたよ☆」
大きなトレーを持っている。
「おお……」
慌てて手をどけ、隣りに彼女を座らせる。
※
「やっぱりボリキュアの15周年だから、アンナ達もお祝いしないと、って思ったんだ☆」
「……」
俺はトレーの上に並ぶ朝食を見て、絶句する。
「じゃあ映画始まる前に食べよっか☆」
「あ、ああ……」
アンナが用意してくれた朝ご飯は。
プラスチック製のオリジナルドリンクカップホルダー。
もちろん、カップにはボリキュアシリーズの歴代キャラクターが総勢55人もプリントされている。
ストローの部分はピンクのハートの飾りつき♪
とってもカワイイよ!
お次は、メインの料理だが。
大手ドーナツ専門店の『ミス・ドーナツ』の袋が置かれていた。
中を開けると、3つドーナツが入っていることを確認できる。
1つ取り出してみると。
これまた可愛らしいオリジナルスリーブに入ったボリキュアのドーナツが……。
ハートの形をしたドーナツで、女の子が喜ぶようなピンク色。
つまり、ストロベリーチョコだ。
あとの味も確認してみたが、全部同じものだった。
「女の子ってこういうの、いつまでも大好きだもんね☆ タッくん。ここ大事な所だからしっかり覚えておいてね。ちゃんと取材して☆」
「はい……」
朝から甘いストロベリーチョコを三個も食わせられる苦行。
だが、唯一の救いはアンナが買ってきたドリンクの中身が、無糖のブラックコーヒーだったことだ。
胃もたれしないですみそう……。
館内からブーッ! と音が鳴り、上映開始のお知らせが流れる。
周りに座っていた幼女達は、今か今かとざわつき始めていた。
本来なら、上映中は私語厳禁というのがマナーだというものだが……。
相手が幼い子供だから、そのルールは通用しない。
だって下手したら、オムツが取れない妹……というか、赤ちゃんも一緒だからだ。
暗くなって怖がる子までいる。
「うわーん、ママぁ~」
「はいはい。ボリキュア、始まるからねぇ~」
とお母さんも育児で大変。
休日だってのに、お疲れ様です……。
何なんだ……。この映画館らしくない雰囲気は?
全然、集中できんぞ。
まあ俺はしなくてもいいか。
ふと、隣りのアンナを見れば。
「ボリッキュア♪ ボリッキュア♪」
興奮しているようで、自然と身体が前のめりになっていた。
うわっ。この劇場の精神年齢。みんな、変わらないね……。
※
本編が始まる前に、公開予定の予告が流れ始めた。
俺はいつものことだと、黙って観ていたが、周囲からブーイングが聞こえてきた。
「なにこれぇ~ ボリキュアは?」
「いやだぁ、なにこれぇ! おとなのえいが、ぎらい~!」
「おかしいわね……いつもなら、すぐボリキュア始まるのに」
なんて、辺りから不満の声が漏れてくる。
一体何がおかしいんだ?
映画本編の前に流れる予告ってのは普通のことだろ。
俺は首を傾げながら、スクリーンに映し出された作品をボーっと眺める。
どうやら、邦画のようだ。
繫華街には似合わない少年と少女がベンチに座っていた。
オレンジ色の夕陽をバックにして、大きな川の前でお互い見つめあう。
『私……怖いの。心臓の手術がっ!』
金髪のハーフ美少女が涙を流して、少年に訴えかける。
『そうか。ならば、約束をしよう。手術の成功率が半々なら……俺の人生を半分くれてやる!』
『嬉しい……』
あれ? なに、このデジャブ。
どっかで見たような光景だな……。
そこから映像は変わり、ナレーションが入る。
『命を掛けて渡米した少女。大好きだった幼馴染のために結婚を約束した少年。時だけが残酷に過ぎていく……』
次に映し出されたのは、どうやら成長した主人公とヒロインだ。
『お前、誰だ?』
『はぁ……あなたの記憶力。本当に悪いわね』
更に次のシーンへと映像は変わり……。
『ねぇ、そんなに記憶が戻らないのなら、これでどう?』
何を思ったのか、ヒロインの女優は主人公役の男の右手を掴む。
そして、自身の胸を半ば強制的に揉ませる。
『マ……マリ子。お前、マリ子なのか?』
『タクヤ! 思い出してくれたのね! ああ、良かった!』
その後、抱きしめ合う二人。
記憶を取り戻した主人公はヒロインと唇を重ねて、こう呟く。
『結婚しよう』
『うん』
そして、再度ナレーションが入る。
『10年ぶりに再会した少年少女……幼き日の約束を叶えるため、大人になった少年は少女のために、全てを差し出すのであった。いや、結婚しないと人間としてクズ野郎だった……』
俺は飲んでいたコーヒーを思わず吹き出す。
「ブフーッ!」
なんだこの作品は……ついこの前の俺とマリアの出来事じゃないか。
一体誰が撮った映画だよ。
『この冬。福岡を舞台にしたラブストーリーがあなたの胸を暖かくする……クリスマスイブに是非パートナーと一緒にご覧ください。映画、“10年越しの恋”12月11日公開!』
「……」
俺は生きた心地がしなかった。
だって、あまりにも似ていたから……。
隣りにいたアンナに目をやると。
「なにこれ……ボリキュアの世界が壊れちゃうんだけど」
と眉間に皺を寄せて、スクリーンを睨みつける。
辺りの親御さんも純愛ものとはいえ、幼い子供にパイ揉みの映像を見せつけられて、大ブーイング。
「なによ、これ!?」
「責任者を呼びたまえ!」
騒ぎに気がついたのか、館内に慌てて一人のスタッフが入ってくる。
「大変申し訳ございません! フィルムを間違えて放映してしまいました!」
それでも親御さんの怒りはおさまらなかった。
だから、救済措置として、スタッフがこう提案した。
「お詫びに今日のチケット代はご返金させていただきます」
スタッフの計らいにより、ようやく大人たちは納得する。
だが、一人の大人……いや彼女だけは納得していなかった。
俺の隣りにいる金髪ハーフ美少女だ。
「許せない……ボリキュアが汚れちゃったじゃない!」
その瞳は、キラキラと輝くグリーンアイズというよりは、真っ赤に燃える地獄の業火に見える。怒りを堪えるのに苦しんでいるようで、膝の上で拳を作って、プルプルと肩を震わせていた。
「……」
とりあえず、俺は黙ってボリキュアが始まるのを待つことにした。
俺とマリアの半生を映像化したような謎の予告を鑑賞したおかげで、隣りに座るアンナはブチギレていた。
「今日はボリキュア15周年なのに……タッくんとの初めてが汚された!」
「……」
その剣幕と言ったら、鬼そのものだ。
俺は、恐怖から縮こまってしまう。
だが、本編が開始されると同時に、その重たい空気は一変する。
可愛らしいボリキュアのキャラクター達が登場し、チケットを購入した際に特典としてもらったペンライトの説明を始める。
『良い子のみんなぁ~ このペンライトは人に向かって点けたら絶対にダメクポ!』
ほう、初代ボリキュアの『クップル』か。懐かしいな。
クップルとは、シリーズに登場する妖精の一人だ。
『わかったら、みんな。お返事するクポよ!』
すると、周りにいた幼女達が元気よく叫び始めた。
「「「は~い」」」
幼稚園かよ……。
もちろん、お父さんお母さんは終始、我が子が喜んで叫んでいる姿を黙って見守っているが。
一人、例外がいた。
うちのお友達。アンナちゃんだ。
「はーーーい!」
一番デカい声で叫びやがるから、隣りにいた俺は思わず、両手で耳を塞ぐ。
まあ、本人は楽しんでいるし、いいか……。
※
ペンライトの説明とショートアニメが終わると、いよいよ本編の開始だ。
映画館でアニメを見るなんて、いつ以来だろう……。
確かに15周年と言うだけあって、制作陣の気合を感じる。
CGも使われてるし、ぬるぬるとキャラ達が動く。
ボーッと幼女向けアニメを大画面で眺める。
俺は正直、興味がないから、アンナとの間に温度差を感じていた。
精々が出演している声優さんをチェックするぐらいだ。
「あ、“マゴ”だ。YUIKAちゃんも出てたのか……」
なんて声優さんたちの演技に感心していると。
隣りに座っているアンナの様子がおかしい。
両手で肩を抱え、ガタガタと震えていた。
別に怖いシーンでもないのに。
「アンナ。どうした? ボリキュアがつまらないのか?」
「ううん……楽しいんだけど。映画館の冷房が効き過ぎて、身体が冷えちゃった」
「寒いのか?」
「うん……」
そう言えば、ミハイルの時にも冷房が苦手だと言っていたな。
俺からしたら、心地よいぐらいなのだが。
しかし、あんなに楽しみにしていたのに、このまま震えて映画を観るのはかわいそうだ。
どうしたものか。
俺はTシャツだから、脱いで着せてやることは不可能だし……。
一人、悩んでいると何を思ったのか、彼女が俺の左肩にこつんと頭を乗せてきた。
そして、腕を組む……というよりは自身の胸に引き寄せる感じで、密着する。
一瞬ドキッとしたが、寒いから仕方ないのだろう。
「ごめんね。寒いから……」
と上目遣いで訴えかける。
「……いや、構わん。アンナが望むなら俺が助力しよう」
「え?」
「肩が冷えるんだろ? 俺は寒くないから、暖めてやろうか?」
俺の提案にアンナは、一瞬目を丸くしたが嬉しそうに微笑む。
「じゃあ……お願い」
「了解した」
彼女からの合意を得たことで、俺は自身の片腕でアンナの身体を包んであげる。
「あったかぁい」
この間も、アンナは俺の肩に頭を乗せたままだ。
俺は、彼女の華奢な身体をギュッと引き寄せて、更に密着させる。
あれ……今の俺たちがやっていることって、マジのカップルじゃね?
よく一人で映画館へ行った時に後ろから見かける光景。
イチャイチャするクソカップルのせいで、映画を純粋に楽しめなかった、アレだ。
「タッくん、優しい☆」
「いや、女の子が寒がってるなら、当然の行為だ」
またアンナを女子扱いしてる自分に気がつく。
もう嫌だ……。
でも、正直憧れていた光景だったんだよな。
相手が女装男子だし、観ている映画が超お子様向けだけど。
映画はクライマックスを迎えようとしていた。
声優界の王子様こと、マゴが演じるラスボスの巨大な力に屈するボリキュア達。
『もう負けを認めるんだぁ~ そして私とこのダークランドで共に闇に染まろうではないかぁ~』
次々と倒れていくレジェンドヒーロー達。
だが、今シリーズの主人公、ボリエール。そして初代ピンク担当であるボリブラックだけは諦めなかった。
ボロボロになりながらも、かつてないヴィランに立ち向かう。
『私たちは……』
『絶対に……負けないんだから!』
と二人して叫んだ所で、いきなり妖精のクップルが大画面に登場する。
そして、観客に向かって何やら必死に訴えかけるのであった。
『映画館に来てくれたみんな! 大変クポ! ボリキュアがピンチクポ!』
なんだ? 劇中だというのに、こっちに話しかけてきたぞ。
俺が首を傾げていると、隣りにいたアンナが何やらゴソゴソとショルダーバックの中を探し出す。
『魔法の力が詰まったスターペンライトを出して欲しいクポ! それでボリキュア達を応援して欲しいクポ!』
一体なにを言っているのか、さっぱり分からない。
だが、辺りを見回せば、幼女達が特典でもらったペンライトを取り出し、小さな灯りを点ける。
そして、スクリーンに向かってブンブン振り回す。
「ボリキュア、がんばえ~!」
「かって~! まけないで~!」
なるほど……この時のためのペンライトなのか。
だから、アンナがこだわっていたんだな。
しんどっ。
と納得したところで、隣りを見れば、大きなお友達のアンナちゃんがニコニコ笑いながら、ペンライトを二本持ってスタンバッていた。
「……」
あんたもやるんかい。
ちょっと、他人のふりをしておこう。
たくさんの幼女達の声をかき消すほどの大声で叫ぶ。
「ボリキュア、頑張れぇーーー! 勝って、絶対に勝ってぇーーー!」
うるせぇ!
思わず、両手で耳を塞ぐ。
まあ、本人が喜んでいるならいいか……。
あと10分ぐらいしたら、終わるんだろう。
もうちょっとの辛抱だ。我慢しよう。
ボーッとスクリーンを眺めていると、ちょんちょんと膝を突かれる。
隣りに目をやると、エメラルドグリーンの瞳をキラキラと輝かせるアンナが1つのペンライトを俺に差し出す。
「さ、タッくんも一緒にやろ☆」
「え……」
「これ、やらないと小説の取材に活かせないよ? ラブコメを書いてるんだから、重要なポイントだよ☆」
「……」
どこが重要なんだ!
ラブ要素もコメディ要素も皆無だ。
だが、彼女の誘いを断れば、後が怖い。
仕方ない。恥でしかないが……やるか。
俺はペンライトを受け取ると、スクリーンに向かって高々と掲げる。
「ぼ、ボリキュア、頑張れぇ……」
声はかなり抑えて。
「タッくん! そんなんじゃ、ボリキュアが勝てないよ!」
なんで怒られるんだよ……。
「うう……ボリキュア、頑張れぇ!」
だが、まだアンナは納得してくれない。
「全然ダメっ! タッくん、恥ずかしがってるでしょ! 小説のためだよ!」
もう泣きそう。
覚悟を決めた俺は、腹から大きな声を出す。
多分、生まれて初めてってぐらいの叫び声。
「ボリッ! キュア~! 頑張れぇ~! 勝ってくれぇ! 頼むぅ!」
恥ずかしくて、頬が熱くなり、脇から大量の汗が滲み出るのを感じた。
結果的に、1番目立ったのは俺だった。
辺りにいたお父さんお母さんが吹き出す始末。
生き恥をかいた俺に対して、アンナは満足そうに肩をポンと叩く。
「タッくん。カッコ良かったよ☆」
「そ、そうか……」
※
やっとのことで映画が終わり、他の客に顔を見られたくなかったから、俺はさっさと劇場を出ようと焦る。
トレーを持って、出口に立っていたスタッフにトレーを渡して、ゴミを捨てようしたその瞬間だった。
アンナが俺の腕を強く掴んで、止めに入る。
「タッくん! 捨てちゃダメ!」
「へ?」
「そのドリンクホルダーは記念に持って帰るんだよ? 中をキレイに洗ったら、お家で飾ったり、コップとして楽しめるんだから」
と頬を膨らませる。
「すまん……」
別に俺はいらないのだが、アンナによって、強制的にボリキュアのドリンクホルダーをお土産として、持たされた。
これでやっと映画館から、離れられると思ったが、またアンナに止められる。
ボリキュアを観に来た時は、ある儀式を行うそうだ。
売店近くに1つのミニテーブルがあり、大きな朱肉と円形のスタンプが置いてあった。
何人かの親子連れがそこに列を作って並んでいる。
アンナに引っ張られて、俺もその列に加わった。
待つこと数分で、テーブルの前に来たのだが、一体今から何をするのかが分からない。
要領を得ない俺を無視して、アンナはショルダーバッグから、小さなノートを取り出した。
表紙にはたくさんのボリキュアのシールが貼ってある。
テーブルの上にノートを置くと、スタンプを手に取り、朱肉にゴリゴリと押し込む。
そして、白紙だったノートへ力強く叩きつける。
スタンプを離すとそこには、ボリキュアのイラストが残っていた。
なるほど。映画の記念か……。
大きなお友達の御朱印帳か、しんどっ。
「アンナ。そろそろ映画館を出ようか?」
俺がそう言うと、彼女は不服そうにギロッと睨む。
「ちょっと、タッくんもしてよ! スタンプ! 思い出にならないでしょ!」
「いや……俺はアンナみたいにノートを持って来てないし」
それにいらないし。
「えぇ~ それじゃ取材の意味ないよ~」
もう、この取材はお腹いっぱいです。
「う~ん……」
しばらくその場で考えこむアンナ。
そして、何かを思いついたようで、手のひらを叩いて見せる。
「あ、これならいいよ☆」
「ん?」
「タッくん。手を出して☆」
「はぁ」
彼女のやりたいことがよく分からないが、とりあえず、左手を出して見る。
すると、何を思ったのか、手の甲に向かってスタンプをグリグリとねじ込む。
「いっつ!」
スタンプを離すと、あら不思議。
可愛いボリキュア達が僕の身体に刻まれたよ♪
「これで良い思い出になったね☆」
「あ、ああ……」
どうせ、帰るまで手を洗えないんだろうな。
映画を見終えた俺とアンナは、カナルシティでしばらく買い物して過ごすことにした。
と言っても、別にカップルらしい遊び方はしないし、できない。
知らないからだ。
地下一階に期間限定のボリキュアショップがあると、アンナが言うので渋々付き合うことに。
3万もする高級フィギュアを平気で買ったり、15周年記念のマグカップやプレートを一種類につき、三個も買う……。
本人曰く。鑑賞用と保存用。それから実際に使うために分けて買うのだとか。
総額で10万円ぐらい購入したと思う。
ホント、金持ちだよな……。姉のヴィッキーちゃんて。
ちょっとしたセレブだよ。
※
気がつけば、辺りはオレンジ色に染め上がり。
夕暮れ時だと知る。
アンナの中身は、男とはいえ、設定上は女の子だ。
ぼちぼち、帰してやらないとな……。
「なあ、そろそろ帰らないか?」
「え? もう帰るの?」
そう言う彼女の両手には、大きな紙袋で埋め尽くされている。
重たい袋を6つも軽々と抱えるその姿は、女子には見えない。
こんなカノジョがいたら、怖いわ。
「ああ……夜も近い。帰ろう」
俺がそう言うが、アンナは不服そうに頬を膨らませる。
「えぇ~ なんか今日はもうちょっとタッくんと遊びたい~」
「別に取材は今日だけじゃないだろ? またいつでも遊べるじゃないか?」
彼女を説得しながら、思った。
なんか、ダダをこねる子供みたい。そして、俺がお父さん。
「う~ん……じゃあ、最後にもう1つだけ。行ってみたい場所があるの☆ すぐ終わるからいいでしょ?」
と緑の瞳を輝かせる。
「すぐ終わるなら構わんが……どこだ?」
「一番最初にデートした時、タッくんとアンナが約束した場所☆ あの川だよ☆」
そう言って、カナルシティの裏口を指差す。
小さな階段を昇って、横断歩道を越えた先にあるのは……博多川。
「……」
嫌な予感しかしない。
というか、罪悪感か。
確かに半年前、アンナと初めてデートをして、“契約”を交わした思い出の場所だ。
しかし、10年前にもマリアと約束をした因縁の場所でもある。
ついこの前、故意ではないが正真正銘の女子、マリアの生乳を揉み揉みしてしまった。
そのせいか……俺は気軽に首を縦に振ることはできない。
※
結局、断ることができなかった俺は、アンナと二人で博多川に向かうことにした。
別に何があるってわけじゃないが。
脇から汗が滲み出る。
身体の動きもどこかぎこちない。
関節が曲がらず、ロボットのように歩く。
対して、アンナと言えば。夕陽に照らされた博多川を眺めて、喜んでいた。
「懐かしいねぇ~ あれからもう半年も経つんだぁ☆ なんか一瞬だったね☆」
「う、うん……」
彼女が近くのベンチに座りたいと言うので、黙って従う。
博多川と言えば、対岸にラブホテルがズラーッと横並びしているのでお馴染だ。
「タッくん。今までいっぱい取材してきたよね。アンナ、嬉しいんだ」
そう言って、優しく微笑む。
「な、なにがだ?」
「何って取材の効果があったってことでしょ? 小説もちゃんと発売できて、コミックも同時に売れて……。大好きなタッくんのためにいっぱい頑張って良かったぁ☆ 夢に近づいたなって☆」
屈託のない笑顔を浮かべる彼女を見て、胸が痛む。
だって、今座っているベンチで、本物の女子をパイ揉みしちゃったんだよ!
罪悪感から、俺は視線を逸らしてしまう。
「タッくん? なんかさっきからおかしくない?」
「え……?」
額から大量の汗が吹き出る。
「なんか、顔が真っ青だし。今日の取材が嫌だったの?」
「ぜ、全然! めっちゃ楽しかったぞ! ぼ、ボリキュア。マジ神アニメだった!」
つい口調が荒くなってしまう。
それに驚くアンナ。
「そうなの? ならいいけど……でもさ、今日のボリキュアが上映される前に。変な映画の予告流れてたよね。あれ、すごく嫌だった」
ギクッ!
「ああ……確かに変な邦画だったよな」
限りなく俺の半生に近い予告編だったよね。
あれ、撮った監督。ぶっ飛ばしてやりたい。
アンナは嫌悪感を露わにして、愚痴を吐き出す。
「いくら映画館でも、ボリキュアの世界観を壊して良いわけない! それにさ、なんかあのハーフの子。アンナ嫌い! 手術とか、約束とか……主人公の男の子に押し付けて、最後は胸を触らせるとか」
「う、うん……おかしいよね……」
張本人がここにいるんだけど。
「それで結婚させるとか。恩着せがましいよ! 男の子が可哀そう!」
「……」
早くこの話題が変わらないかなぁ。あと、博多川から逃げたい。
「タッくんはどう思う? 心臓の手術の為に結婚を約束できる? それに胸を触らせるヒロインって存在して良いと思う?」
ギロッと鋭い目つきで俺を睨む。
「あ、ああ……え、えっと」
俺は脳内が大パニックを起こしていた。思考回路が上手く働かない。
言葉につまる。
正直、挙動不審になっていると思う。
緊張から喉が渇くし、唇をパクパクと動かせるだけで、何も言えない。
嘘をつけば、きっとボロが出る。
それに俺という人間は、曲がったことが大嫌いだ。
性格上、正直に話さないと気がすまない。
沈黙が続く。
怪訝そうに俺をじっと見つめるアンナ。
しばらくした後、何かを察した彼女は、「あぁ!」と叫んだ。
少し身を引いて。
「まさか……タッくん。女の子の胸を触ったの!?」
「……はい」
つい、バカ正直に答えてしまった。
俺って、このあと殺されるんでしょうか?
言ってしまった……。
マリアのパイ揉み事件に関しては、墓まで持って行くつもりだったのに。
ああ見えて、アンナは鋭いからな。
下手な嘘をつけば、きっといつかバレてしまう。
ならばと、本当のことを話したが……これから、一体どんなお叱りと暴力を食らうのだろうか。
「タッくん……誰?」
「え?」
「一体どの子を触ったの? ひなたちゃん? あすかちゃん?」
見たこともないぐらいの鋭い目つきで、俺を睨んでいる。
怒っているのはわかるが、その矛先は俺自身ではなく、相手のようだ。
「いや……アンナは知らない子だ」
絶対にマリアのことは隠しておかないと。
「アンナにも話してくれない……タッくんには大事な子だね……」
「そ、そういうわけじゃない! い、今は話せないだけだ。時が来たらちゃんと話すから!」
重たい空気が流れる。
しばらく、沈黙が続いてアンナはこう言った。
「タッくん……もしかして、触ったんじゃなくて。女の子に無理やり、触らせられたんじゃないの?」
「えっ!?」
見抜かれてしまったと、アホな声が出る。
「その反応。やっぱり……。タッくんって優しいから」
「あ、その……ちょっと色々と理由があってだな。決して故意に触ったわけじゃないぞ?」
俺がそう弁解すると、彼女は更に鋭い目つきで睨む。
「でも、触ったじゃん!」
見たこともない剣幕に、俺は思わず身を引く。
殴られる……そう思った。
恐怖から、瞼を閉じて歯を食いしばる。
しかし、何も起こらない。
微かに聞こえてきたのは、すすり泣く声。
ゆっくり瞼を開いてみると、そこには……。
「ひっく……ひぐっ……」
俯いて縮こまっている一人の少女いた。
俺に顔を見せまいと、両手で隠している。
だが、指と指の間からは、ポタポタと大きな涙がこぼれ落ちていた。
「あ、アンナ? 泣いているのか?」
心配になって声をかけると。
我慢していたようで、空に向かって泣き叫ぶ。
「うわああん! タッくんが汚されたぁああ! イヤッ! 絶っ対にイヤっ!」
ファッ!?
そんなに大声で泣かなくても……。
おかげで辺りにギャラリーが出来てしまう。
「なんだ、痴話ゲンカか?」
「女の子泣かすとか最低!」
「『汚された』ってぐらいだから。きっと妊娠させたんじゃね、あの男」
違うわ! こいつも男だから、妊娠できないの!
※
アンナは目を真っ赤にするまで、泣き続けた。
多分、1時間ぐらい。
俺はどうしていいかわからず、とにかく優しく話しかけていたが、泣き声でかき消され、彼女の悲しみを和らげることは出来なかった。
「……ひっぐ……タッくん、アンナのタッくんが」
なんて、1時間も人の名前を連呼している。
というか、あなたの俺じゃないからね。
「アンナ。何度も言うが故意に触ったわけじゃない。別に恋愛感情とか、やましい気持ちも一切ない。事故みないもんだ」
言いながら、一体どこでそんなラッキースケベがあるんだ? と首を傾げる。
「……でも、触ったことには変わらないよ」
「ま、まあ。そうだが……」
「どっちの手で触ったの?」
「え? み、右手だが」
俺がそう言うと、何を思ったのか彼女は右手を両手で掴み、自身の額にあてる。
まるで祈るかのように。
「この手が汚れたんだね」
なんか、マリアが汚物扱いだな。
「まあ、そうだな」
「タッくん、覚えてる? 初めてのデートの時のこと」
「え? もちろんだが……」
「ほら、映画館でアンナが知らないおじさんに痴漢された時。タッくんが『汚れたのなら、洗えばいい』って汚れた太ももを触ってくれたでしょ」
彼女の顔をよく見れば、涙は枯れ、どこか優しい顔つき。いや、甘えているようだ。
なんか色っぽく見える。
「ああ。そういえば、あったな。そんなこと」
「なら、タッくんの汚れた手も、キレイにしよ☆」
「は?」
「あ、アンナの胸を触って☆」
「えええ!?」
そんなこと言われたら、誰だって絶叫しますよ。
※
「無理、無理。それだけは絶対にダメだ、アンナ」
「どうして? 他の子を触ったんでしょ? なら汚い手をキレイしないと☆」
今の彼女は、きっと傷心から我を忘れているに違いない。
いわば、興奮状態なのだろう。
その境界線だけは越えてはいかん。
俺たちはあくまで、小説のために契約した関係なんだ。
マリアの時は、あっちがやってきたら、揉んじゃっただけだ。多分。
「アンナ。悪いができない」
「なんで!? 他の子は触れて、アンナは触れないの? 胸が小さいから?」
「そういうことじゃないだろ。俺とお前はあくまで、取材のために契約した関係だ。付き合ってないだろ。そんなことで、アンナの身体に軽々しく触れるなんて真似はできない」
「タッくんって……やっぱり、優しいね。だから無理やりされたんだよね……うう、うええん!」
また泣き出しちゃったよ。
病んでない、この子。
どうしたものか……。
俺は泣き叫ぶ彼女の隣りで一人考え込む。
ものすごくカオスな状況。
「うわあああん! タッくん! おっぱい!」
変な言葉を使って叫ばないで……。
「アンナ……」
俺の予想以上に傷つけてしまったことを悔やむ。
しかし、時を戻すこともできないしな。
「タッくん~! イヤぁ~ アンナのタッくんを返してぇ!」
そう叫ぶと、何を思ったのか俺の膝に飛び乗ってきた。
「え? アンナ?」
俺のことなんて、お構いなしで泣き続ける。
「タッくんの初めてを盗られたぁ!」
「いや、初めてじゃないだろ。アンナとは、ほら。プールで1回触ったことあるし……」
「あれは事故だも~ん!」
そうだった。アンナという女は初めてにこだわる性格だった。
墓穴を掘ってしまったよ。
しかし、今のこの状況。
周りから見れば、かなり誤解されるのでは?
というのも、気がついてないようだが、彼女はベンチに座っている俺に跨っている。
所謂、騎乗位というやつだな。
アンナは今フレアのミニスカートを履いている。
つまり、ジーパン越しとはいえ、お股とお股がペッテイング。
興奮している彼女は、泣き叫ぶから。振動でゴリゴリされるんだよね。
おまけに俺が逃げられないように、両肩を手で抑えている。
「アンナだけを見てぇ! タッくん!」
と、博多川の空に向かって叫ぶアンナ。
ていうか、俺はめっちゃ見ているよ、あなただけを。
だって、もうヤバいんだって。理性が。
目の前は、ラブホだし、狙ってやってないと思うけど、さっきからずっと騎乗位スタイルで、ゴリゴリされるし……。
マリアの時は、無反応だった俺のお馬さんが、元気に走り出したよ。
「タッくん~ 行かないでぇ!」
追い打ちをかけるように、自身の小さな胸を俺の顔に押し付ける。
「ふぼっ」
うむ、ほのかに甘い香りが漂う。
良い洗剤を使っているのかしら? いや香水か。
ちょっと待て。
パイ揉み事件より、酷くなってないか。
顔面に胸を押し付けられて、騎乗位スタイル……。
ヤバい! もう誰が男で女か分からなくなってきた。
このまま、この子を目の前のホテルに連れ込みたい!
「いつつ……」
激しい腰の痛みで目が覚めた。
ゆっくりと瞼を開けば、見知らぬ白い天井が。
どこからか、小鳥のさえずりが聞こえてきた。
部屋の中は薄暗く、辺りを確認することは難しい。
ふと、左手に目をやると、一筋の光りが差し込んでいた。
きっとカーテンだ。陽の光がもれているのだろう。
腰をさすりながら、ゆっくりと起き上がる。
起き上がる際に、バランスを取るため、床に手をやって支えると……。
プニッ。
偉く柔らかい。
布団か?
いや、違うな。
布団にしては、ふわっとしてない。
そして……柔らかいというか、硬い。
あれだ。人間の素肌。そして骨のような感触。
しばらく、その感触を確かめていると。
「う、うぅん……」
可愛らしい声が聞こえてきた。
誰か、隣りにいるぞ。
俺は確かめるために、ベッドから立ち上がって、カーテンをジャッと勢いよく開く。
急に部屋が明るくなったため、眩しい。
これまた、見慣れない風景だ。
一面ガラス製の大きな窓。
そして、目の前には1つの川が流れている。
対岸には、大きな建物が。
『カナルシティ博多』
「え……えええ!?」
つい、アホな声がもれてしまう。
「ま、まさか……」
そう言って、振り返るとベッドには、金髪の少女が一人シーツに包まれている。
寝顔さえ、可愛い。
アンナだ。
陽の光によって、目が覚めたようだ。
瞼を擦りながら小さな口を開けてあくびをする。
「ふわぁ」
のんきに背伸びをしている。
「あ、アンナ……俺たちって、まさか」
そう言って、お互いの姿を確認すると。
生まれたばかりの赤ちゃんだぁ♪
なんてこった!
女のアンナはさすがに、シーツで身体を隠してはいるが。
白い素肌が確認できるので、裸体であることは間違いない。
「おはよ☆ タッくん」
優しく微笑むアンナ。
「俺たちって……」
その問いに、少し頬を赤くして恥じらうアンナ。
「うん……タッくんから誘ってくれるとは思わなかったな☆」
ぎゃあああ!
「そ、そんな。一線を越えてしまったのか!?」
博多川を!
「タッくんがアンナを抱きかかえて、連れて来たんじゃん☆ 責任、取ってね……」
「え……なんの?」
俺がそう言うと、彼女は頬を膨らませる
「も~う! 言わせないでよ~ お、お尻……」
「うわあああああ!」
また、あの夢を見ていたのか。
一週間前、アンナとデートして以来、毎日この夢を見る。
きっと彼女が泣きながら、俺に跨ったせいだろう。
童貞の俺には刺激が強すぎたんだ……。
結局アンナは落ち込んだまま、あの日の取材は終わってしまった。
正直、罪悪感でいっぱいなのだが、それよりも泣いている彼女に、興奮している自分を抑えるのに精一杯だった。
なんでか、色っぽく感じちゃったんだもん。
二段ベッドから降りて、学習デスクの上に置いてあったスマホを手に取る。
時刻は、『6:50』
今日、スクリーングの日か。
ちょっと、早いが家を出よう。
真島駅に向かい、近くのコンビニで菓子パンとブラックコーヒーを買う。
駅のホームに入り、電車を待ちながら、朝食を済ませる。
今日は……あんまりミハイルに会いたくないな。
あれだけ、アンナを泣かせたあとだ。
胸が痛む。
きっと、ミハイルも落ち込んでいるに違いない。
いつもなら、取材のあとは決まって、鬼のようなL●NEメッセージを送ってくるのに。
あれ以来、一通も届かない。
ミハイルからもだ。
下らないことでも、なにかと俺に連絡を取ってくる二人が、この一週間なにもない。
自殺でもしてないか、すごく不安だった。
だからといって、俺から連絡するのも怖くて……。
そんなことを思っていると、列車が到着する。
車内に入ると、いつもより早い時刻のせいか、がらーんとしていた。
リア充の制服組も少ない。
こりゃいいなと、ゆったり座席に座る。
「はぁ……今日、学校行きたくねーな」
※
ボーッと窓から景色を眺めていると、ミハイルが住んでいる席内駅に着いた。
自動ドアが開く。
まさか、いるわけないよなって、確認してみる。
いつもなら……「おっはよ~ タクト~☆」なんて元気な笑顔が見られるのだが。
プシュー! と音を立ててドアが閉まる。
その時だった。
ガタン! と鈍い音が車内に鳴り響く。
「ちょっと待って! オレも入る!」
見れば、華奢な体つきの少女だ。
肩だしのロンTに、デニムのショートパンツ。
長い金色の髪は首元で1つに結っており、纏まりきらなかった前髪は左右に分けている。
あ、女の子じゃない。ミハイルだった。
車内に入ってきた彼と目が合う。
「あ」
「あぁ……」
どうやら、お互いに気まずかったようで、列車の時間をずらしていたようだ。
こんなところは似ているんだよなぁ。