俺は博多駅から小倉行きの電車に乗り込む。
疲れていたから、地元の真島駅まで快速列車を利用した。
快速だから客が多く、座ることはできないが、20分ほどで到着できる。
真島駅の改札口は二階にある。
電子マネーを機械にタッチさせて、出口に向かう。
出口は左右に分かれていて、左手の山側が駅に隣接している大学。
数々の有名人、芸能人、トップアスリートの出身校だ。
まあ俺には関係のない場所だから、反対側の右手にあるエスカレーターで一階に降りるのだが。
こちら側は海側、真島商店街がある。
エスカレーターの手すりに肘を置いて顎をのせる。
どうしたものか。あすかの自伝小説をたった1週間で20万文字も使用するとか。
彼女の出生から始まり、両親に捨てられた過去、おばあちゃんが一人に育てて……盛れば、どうにか文字稼ぎできるか。
そんなことを考えていると、手すりから肘が滑ってガクンと体勢を崩してしまう。
エスカレーターの終点だ。
「あいて……」
周りに若い女子高生たちが立っていて、俺のその姿が滑稽に見えたのか、クスクス笑っていた。
ちくしょう。ダサいところ見られちまったな……なんて苛立ちを覚えたが、“その姿”を見て、ドキッとしてしまう。
壁にもたれかかった一人の美少女……。
肩まで伸びた美しいブロンドの髪は首元で結い、纏まらなかった前髪は左右に垂らしている。
強い風が駅舎の中に吹き込んできた。
きっと離れた海岸からの潮風だと思う。
周りにいた女子高生たちがフワッと宙に上がるスカートを急いで抑える。
いつもの俺なら、その光景を目で追ってしまうのだろう。
でも、今はこの子に釘付けだ。
小さな顔に叩きつけられた強い風に対して、無反応。
寂しそうに地面を見つめている。
長い前髪が乱れてしまい、薄紅色の小さな唇にくっついてしまう。
グリーンの瞳はどこか潤んで見える。
大きな星がプリントされたブルーのタンクトップに、ホワイトのショートパンツ。
俺はその美しい光景に、しばらく見とれていた。
「あ、タクト……」
寂しげだった顔が一変し、明るい顔になる。
「ミハイル。お前、なんでここに……」
そうだ。美少女じゃない。
こいつは正真正銘の男の子。
しっかりついている野郎だ。
いかんいかん。
頬をバシバシと叩いて、正気を取り戻す。
「久しぶり! タクト☆」
俺に気がついたミハイルは、一気に距離を縮めた。
手に紙袋を持って嬉しそうに微笑む。
彼が低身長だから、どうしても俺が上から目線になる。
つまりタンクトップの中が見放題。
ガードがゆるゆるだから、ピンクのトップが見えそうだ。
思わず視線を逸らしてしまう。
「……」
くっ! だからミハイルモードは嫌なんだ。
「どしたの? タクト?」
「いや、なんでもない……。ところで、なぜ真島にいるんだ? お盆はヴィッキーちゃんと過ごすんじゃなかったのか?」
「ねーちゃん、ずっとお酒飲んでたから、今酔っぱらって寝てるんだ☆ だからタクトにおちゅーげんを持ってきたんだ☆」
と持っていた紙袋を差し出す。
「お中元ね……悪いな。中はなんだ?」
「オレが作った木の実のケーキ☆ ねーちゃんから新しく習ったレシピなんだ☆ ホールサイズで三段にしたから、みんなで食べてよ☆」
オシャレ過ぎるだろ!
男が作るか? そんなケーキ。
デパートでしか見たことない。
「ミハイル。このためだけに真島で待っていたのか?」
「うん☆ 5時間ぐらい☆」
熱中症で死んぢまうぞ!
「そ、そうか……」
「ホントはタクトん家に行ったんだよ? でもかなでちゃんが『おにーさまなら外出中ですわ』て言われたから、駅で待ってたんだよ」
と唇を尖がらせる。
「ちょっと仕事でな……」
そう答えた瞬間、彼の目つきが鋭くなる。
ギロっと俺を睨みつけ、あんなにキラキラと輝いた瞳が一気に暗くなる。
ブラックホールのようなどこまでも終わりがない闇。
「仕事? お盆だよね? タクト、まさか取材?」
ずいっと身を寄せる。
口調こそ優しいけど脅しに聞こえる。
笑みも絶やすことはないが、目が全然笑ってない。
「あ、あの……その、そうだ。取材だ」
「なんで? オレとかアンナ以外に取材する必要あるの?」
凍えるような冷たい声で喋らないでぇ!
真夏なのに北極みたい……。
「な、ないけど……」
「どこに行ったの?」
「博多です」
その言葉を聞いた瞬間、ミハイルのこめかみに太い血管が浮き出る。
「相手は誰? ひなた? ほのかなら許すけど?」
ひえぇ!
ここは噓をつくと絶対あとが怖いぞ。
真面目に答えよう。
「あ、あすかだ! 自伝小説を書いて欲しいって、正式に頼まれたんだ。あくまでも作家としての仕事だ。やましいことなんてなにもないぞ! 実際に報酬として10万円を約束されたんだ!」
「へぇ……あの売れないアイドルの名前。もう下の名前で呼ぶぐらい仲良くなっちゃったんだ。やっぱり特別な取材なんだな。タクト、前にあいつのことをカワイイって言ってたし」
ヤベッ! 墓穴を掘っちゃったよ!
考えろ。どうにかして、この窮地を脱するんだ!
俺の作家人生、まだまだ終わるわけにはいかない。
はっ……アンナ。そうアンナだ。
「ま、待て待て! この依頼と取材は確かに特別だ! 実はハイスペックのパソコンが欲しくてな! アンナと取材したときの写真や動画を高画質で保存したり、楽しむにはどうしても金が欲しくて、仕方なくやっているに過ぎない! 信じてくれ!」
「え……アンナのため?」
彼のグリーンアイズに輝きを取り戻すことに成功した。
「そうだ! 俺だってアンナのためじゃなかったら、こんな仕事やってないぞ!」
「……そっかぁ☆ お仕事おつかれさま、タクト☆」
ふぅ、どうにか危機は去ったな。
「だよな。タクトがアンナ以外の女の子と取材を楽しむわけないもん☆」
「そうそう」
笑ってごまかす。
「ふふ……アンナのやつ、タクトが写真と動画を大切にしているって聞いたら喜ぶだろな」
なんて身体をくねくねさせるご本人。
「まあこのことは、あんまりアンナに言わないでくれよな。あいつも自分のために仕事するとか聞いたら気にするだろうし」
「うん☆ 約束な☆」
なんて指きりする。
平穏を取り戻した俺は安堵する。
ミハイルから大きなケーキをもらったので、「せっかくだから自宅で一緒に食べて行かないか?」と誘ったが、「ねーちゃんが起きるころだから今日は帰るよ☆」と断られた。
「じゃあまたな」
そう言って背を向ける。
名残惜しいが、また新学期に会えるさ。
駅舎から出ようとしたその瞬間だった。
ミハイルが俺のジーパンを引っ張る。
「なにこれ」
「え?」
振り返ると、尻ポケットに一枚のカードが入り込んでいた。
ファッ!?
あすかのおパンツカードをもらってたの忘れてた。
ポケットから取り出すミハイル。
しばらく見つめたあと、眉間に皺をよせる。
「これってさ。仕事のためにいるの?」
「いや、いらないです。絶対に……」
「だよね☆ タクトはちょっと待ってて」
そう言うと笑顔で近くのコンビニに入っていった。
数分後、ニコニコ笑いながら、店内からなにかを手に持って戻ってくる。
小さなライターだ。
「ミハイル。タバコはやめたんじゃないのか?」
「もうそんなの吸うわけないじゃん。タクトが嫌いなものは、オレもだっい嫌いだもん☆」
左手にあすかのカード。右手にはライター。
「そうか……嫌いになったのか」
「うん☆ タクトもオレが嫌いなものは、絶っ対、ぜっ~たい、大嫌いだよね?」
「はい。マブダチですもん」
もう敬語でしか話せません。
「じゃ、有害図書は燃やさないとね☆ ねーちゃんがいつもそう言ってるし☆」
次の瞬間、真っ赤に燃え上がるミハイルの左手。
小さなライターだというのに火力がかなりあるようだ。
数秒で黒いゴミカスと化した。
「これでよし☆ ちゃんとゴミ箱に入れておくから大丈夫☆ それじゃタクト。お仕事頑張ってねぇ~☆」
「死ぬ気で頑張ります……」
ミハイルからもらったお中元。木の実のケーキをフォークで食べながら、もう片方の手でマウスを動かす。
アイドルのあすかに依頼された大巨編、自伝小説。
『おばあちゃんのアイドル』(ハードカバーの予定)
の執筆に取り掛かる。
タイトルは俺が勝手に決めた。ていうか、これで同情してもらうしか、ないだろう。
一週間で20万文字というダーティワーク。
納期に間に合わせるためには、一日に3万文字も書かないといけない。
だが、絶対にやらなければ、ならない時があるのだ。
アンナのパンティ。胸チラ動画のためなら、問題ない!
俺はこの日以来、四六時中パソコンと向き合うことになった。
朝夕の新聞配達と食事、トイレ以外はずーっとタイピング。
だから自ずと睡眠時間も削られる。
途中、何度も寝不足による偏頭痛。タイピングのやり過ぎで肩こり、腰痛などに悩まされたが、冷えピタや湿布を使い、身体がボロボロになっても、執念でどうにかやり過ごした。
~一週間後~
無事に作品は完成。
あすかの事務所へとデータをメールにて送信。
数日後、彼女から連絡があり、
「タクヒト! 最高の仕上がりよ!」
とお褒めの言葉を頂けた。
もうこの頃の俺は、死に体と化していたが。
また、事務所の社長も偉く気に入ったらしく、追加報酬として、更に10万円を頂けることに。
何でも当初は10万文字を想定していたけど、社長の気まぐれで20万文字を俺に要求したら、本当に書いてくれると思わなかったらしい。
なんて太っ腹な社長だ。
俺がアイドルになりたいわ。
総額にして20万円もお小遣いを手にした俺。
ハイスペックパソコンだけじゃ、物足りないってもんだぜ。
追加でモニターを二台注文しておいた。
デュアルディスプレイになれば、一体ナニができると思いますか?
アンナちゃんをたくさんのウィンドウで写真や動画を同時に楽しめるんですよ、奥さん。
なんだったら、右のモニターで執筆活動しながら、左のモニターでアンナちゃんをぬるぬる動かすことも余裕なんですねぇ……ごくり。
よくぞ、ここまで頑張ったな琢人。
そんなことで時間を費やしていると、8月も終わりに入った。
夏休みなんて言うけど、身体を休める日はほぼ少なかったな。
去年まで、新聞配達と自宅でこもって執筆活動するぐらいの日常。
たまに映画館巡りするぐらいだった。
女子と触れ合うな機会なんて皆無だったのに……。
※
9月に入り、注文した大型のデスクトップパソコンとモニターが二台届いた。
巨大なダンボールをウキウキしながら開封する。
設置したあと、ノートパソコンから新しいパソコンに秘蔵動画や高画質の写真を移動。
これで素晴らしい執筆活動とナニかが、サクサク楽しめるPCライフが送れるというものだ。
妹のかなでは相変わらず、母さんにきつく注意され、リビングで監視付きの受験勉強中。
俺は二台のモニターにて色んな姿のアンナちゃんにウットリ。
20人ぐらいにアンナを多重影分身させている。
もちろん、お色気な忍法でだ。
「ふぅ……」
余韻に浸っていると、机の上に置いていたスマホが鳴り響く。
着信名は、ロリババア。
「もしもし」
『あ、DOセンセイ! 今暇ですよね?』
ふざけんな! どいつこいつも俺が毎日予定なしだと思い込みやがって!
この前まで過労死するぐらい忙しかったわ!
「で、今回はどんな要件だ?」
『それなんですけね。大ニュースですよ! “気にヤン”の第一巻の予約注文がすごくて発売前なのに重版決定しました! もちろん、コミックもすごい人気ですよ!』
「え……嘘だろ?」
『ホントですよ! 特にオンラインショップでは売り切れが多くて、泣く泣く電子書籍版を購入するユーザーが多いほどの大人気!』
「……」
正直言って、あんまり嬉しくなかった。
だって俺が過去に本気で書いた“ヤクザの華”の方が、絶対に面白いもん。
何が楽しくて、男同士がイチャこいたブログみたいなラブコメをわざわざ新刊で買うのだ?
逆に恥ずかしくなってきたわ。
だんまりを決め込む俺に対し、受話器の向こう側から白金が不思議そうに喋り出す。
『あの、DOセンセイ? 嬉しくないんですか? “気にヤン”が売れれば、同時に作家として復活できるチャンスなんですよ!』
「う、うん……まあ嬉しいよ。取材した甲斐があったってもんだ」(棒読み)
『そうですか。じゃあ話は早いですね! 発売日が今月の13日なんですけど、DOセンセイにはカナルシティ博多でサイン会をやって頂きたいんです!』
「サイン会?」
『ええ。初版をゲットできなった方たちに、少しでも購入できる機会を与えたいので、出版社に少し残っている書籍を販売したいんです。DOセンセイのサインも添えて♪』
「そういうことか。了解した。読者には優しくするのがモットーだからな。いくらでもサインしてやる」
『じゃあ、13日にカナルシティでお会いしましょう!』
通話を終えると、俺は確かな手ごたえを感じた。
サイン会だなんて、オワコン作家の俺には、無縁のイベントだからな。
気合入れてサインの練習でもしよっと。
だってさ、カワイイJKがいっぱいくるかもしれないじゃん!
※
13日当日。俺はいつもより、身なりを綺麗に整えて、博多に向かった。
女子高生が『先生、抱いてください!』なんて、迫ってくることも考慮しておかねば。
だから、朝風呂に入ってボディシャンプーで入念に身体を洗った。特に股間を。
普段のラフなファッションではない。
この日のために、高級ジャケットを購入。
ジーパンではなく、大人っぽいゴルフパンツ。
インナーはオックスフォードシャツ。
頭にはハット帽子なんて被っちゃって。
我ながら、カッコイイではないか。
トイレにある大きな鏡でポーズを決める。
「フッ。これが作家というものだ」
ハット帽子を被りなおして、トイレから出る。
目の前は、カナルシティの象徴的な場所でもあるサンプラザステージ。
背後に小さな河川が流れている。
決められた時間に噴水ショーが行われる広場だ。
それ以外にも有名な俳優や歌手が訪れた際には、ライブや握手会が開催される。
つまり、この俺。新宮 琢人もその著名人に仲間入りということか……。
「人気者は辛いな……」
再度ハット帽子を被りなおして、苦笑する。
「まだまだ人気者じゃ、ありませんよ。DOセンセイは」
その声は、かなり下から聞こえてくる。
見下ろせば、イチゴがふんだんにプリントされたワンピースを着た子供……みたいなおばちゃん。
俺の担当編集。白金 日葵だ。
「なんだ? ひがみか、白金?」
「違いますよ。今日のサイン会はDOセンセイの力だけじゃないでしょ? 取材に協力してくれたアンナちゃんが、一番の功労者だって言いたいんです」
「うっ……」
確かに俺一人の想像だけでは、あんなリアルに書けなかった。
「あと、今日のファッション。いつも以上にダサいですよ」
そう言って顔をしかめる白金。
「はぁ!? これはタケノブルーで新調した大人のファッションだぞ! 全身タケノブルーを着ている高校生作家とか、カッコイイに決まっているだろ! 女子高生が一目惚れしてしまいそうな……」
とまだ話の途中だと言うのに。
白金は大きなため息を吐きだすと、一言呟く。
「申し訳ないですけど、それ超ジジくさいです」
「……」
タケノブルーはめっちゃ、“なう”なファッションなの!(涙目)
背後から聞こえてくる川のせせらぎ。
その音はとても心地よい。
感じる、感じるぞ。マイナスイオンを……。
だが、今日はいらん!
「……おい、白金。もう始まって1時間は経ってないか?」
「え、そうでしたったけ? おっかしーなぁ。ツボッターでちゃんと告知したんですけどねぇ……ははは」
と笑ってごまかす。
俺は今カナルシティのど真ん中、サンプラザステージにいる。
長テーブルの上に大量のラノベとコミックを載せて、ポツンと一人座っている。
左手には大きな立て看板が設置されて。
『DO・助兵衛先生。サイン会はこちら!』
と、ド派手な案内まで用意してあるが……。
肝心の客。いや、俺のファンが誰一人として現れない。
おかしい。予約段階で売れに売れたのではなかったのか?
カワイイ博多っ子の現役女子高生が押し寄せてくるはずなのに。
時折、ステージを通り過ぎるカップルが「なにあれ?」「知らね」と指をさしてくる。
どんな放置プレイなんだよ!
クソがっ!
隣りに立っている白金が、スマホを取り出して何やら確認している。
「あれぇ? 確かに編集部の公式ツボッターで今日のこと宣伝……あ」
「どうした? 何か問題でもあったか?」
俺がそう尋ねると、白金の額から大量の汗を吹き出す。
「あ、あのぉ……すいません。DOセンセイ、日にち間違って告知してました。てへっ♪」
なんて自身で軽く頭をポカンと叩き、舌を出して見せる白金。
「……おい」
「だ、大丈夫ですよぉ~ 13日を23日に間違えたぐらいですからぁ! い、今からツボッターで宣伝しますんでぇ。すぐにファンが買いに来ますってば!」
こんのクソポンコツ編集がっ!
※
白金のバカっぷりは今に始まったわけではない。
仕方ない……と俺もスマホを取り出し、YUIKAちゃんの公式ツボッターを見る。
「おお。更新してるな。今日もカワイイではないか。YUIKAちゃんしか、勝たんな」
俺がその可愛さに見とれていたら、白金が「トイレに行って来る」と小走りで去っていった。
サイン会は始まって既に3時間が経とうとしていた。
そりゃ、行きたくもなるわな。
いい加減、座り疲れた。
さっさと終わらないかな。この放置プレイ。
ツボッターでYUIKAちゃんの可愛すぎるライブ写真をリツイートしまくり、愛情たっぷりのリプを大量に送信っと。
『YUIKAちゃんの犬になりたいです』
『転生するなら、あなたの衣装になりたいです』
『僕が作家として売れたら、直ぐに結婚しましょう』
と、ラブメッセージを高速で打ち込む。
そんなリプを1分間に30回は送ったか。
「ふぅ……」
本日の推し仕事終業っと。
スマホをテーブルに置いて、背伸びをする。
「ふあ~あ!」
バカみたいな声であくびも出てしまう。
その時だった。
YUIKAちゃんみたいな可愛らしい声が聞こえてきた。
「あの、サイン会ってここでいいですか?」
「へ?」
視線を上にあげると、そこには一人の天使が立っていた。
チェック柄のミニのワンピースを着た美少女。色は秋を先取りしたベージュ。
胸元には、ビジュー付きの大きなリボン。
エナメル製のローファーを履いて、ニコニコ笑っている。
金色の長い髪を輝かせて。
「タッくん……あ、違うね。先生、サイン下さい☆」
「アンナ」
その姿に俺は驚いていた。
つい先ほど、白金がツボッターで日付を修正したばかりだというのに。
「スマホ見てたら、サイン会が今日だって知ったから。来ちゃった☆」
早すぎて怖っ。
「アンナ……ここまで来てもらって悪かったな」
「ううん。タッくんとの取材がいっぱい詰まった初めての小説だもん。これぐらいなんてことないよ☆ それに……タッくんの初めてのサインを誰にも盗られたくないもん」
なんか最後のセリフだけ狂気を感じる。
誰かに初めてを盗られたら、殺しかねないな。アンナちゃんってば。
「ははは……初めてのサイン本はアンナに渡すに決まっているだろ」
そんなこと思ってもないんだけど。
「だよね☆」
※
「ところで、どっちがタッくんの書いた小説?」
テーブルに並べられた大量の書籍を眺めるアンナ。
左側がラノベ版で、右側がコミカライズ版だ。
「ああ。それならこっちが俺の書いた小説だ」
俺が指差してみると、アンナの顔が凍りつく。
「え……これが?」
「そうだが、なにか問題……あ」
今、思い出した。
表紙がモデルのアンナではなく、イラストレーターのトマトさんが描いたヒロインに差し替えられたんだった。
どビッチの花鶴 ここあに。
まだ彼女に、このことを知らせていなかった……ヤベッ。
「これ、アンナがモデルなんだよね?」
「あ、ああ……表紙や挿絵は俺の知り合いになっているが、文章ではしっかりアンナを詳細に描いているぞ?」
「ふーん。タッくんもやっぱり胸が大きい子が好きなんだね……」
緑の瞳から輝きが失せていく。
このままではまずい。
「いやいや。前にも言っただろ? 俺は巨乳が苦手なんだ。これは絵師の人と編集部が勝手に決めただけで……お、そうだ! こっちの方はアンナにそっくりだぞ!」
そう言って、右側のコミカライズ版を差し出す。
すると、アンナの顔に笑みが戻る。
「すごぉ~い! これ、写真みたい! タッくんが絵師さんに頼んでくれたの?」
「う……」
俺は噓をつくのは大嫌いだが、この場では仕方ない。
胸を叩いて「そうだとも!」と苦笑いで豪語する。
「うれしい☆ じゃあ、そっちの方を全部ちょうだい! サイン入りで☆」
ヒロインが全部買っちゃったよ……。
コミカライズ版のみ30冊も。
※
クソ重たい紙袋を4袋も両手に持ち、笑顔でアンナは「じゃあまたね~☆」と去っていく。
男の俺が持っても、しんどかったのに、軽々と持ち上げて、スキップまで見せる余裕ぶり。
あ、アンナちゃんの中身は男じゃん。
結局、売れ残ったのは、肝心のラノベ版『気にヤン』だ。
いやぁ。こっち売れた方が印税とか俺に入るんだけどなぁ。
でも、まあアンナが喜んでくれたから、良しとしよう。
憶測だが、中身がおバカなミハイルだから、小説より漫画の方が読みやすいだろう。
一人黙って頷いてると、白金がトイレから戻ってきた。
「あ~ 腹いてぇ~ 昨日、イッシーとハイボール飲み過ぎたせいかなぁ……キムチと餃子が美味かったから……」
ハンカチで手を拭きながら、ごっそり無くなったテーブルの本に気がつく。
「あ、DOセンセイ! どうしたんですか? コミカライズ版、ないじゃないですか!?」
「え。さっき売り切れたぞ? 1人の客が全部買ってくれた」
「ひょえ~! 私のツボッターのおかげですかねぇ」
間違ってはないけど、それはアンナのストーキングのおかげだ。
「じゃあ、これで帰ってもいいか? ラノベ版は……もう売れないだろ」
「いいえ! コミカライズ版が人気なら原作はもっと売らないと! 売り切れるまで、DOセンセイはここに残ってください!」
えぇ……。
「うっ! DOセンセイ!」
顔を真っ青にさせる白金。
「どうした?」
「すいません……今、めっちゃ太くて長いのが出そうなんで、またお手洗いに行ってきていいですか?」
こいつは、いちいち汚い情報を追加しやがる。
「行けばいいだろ」
「30分以上はかかると思うんで! あ、ヤベッ。漏れそう……じゃあ行ってきます!」
そう言って白金は、走り去る。
本当にガキじゃねーか。あのバカ。
※
俺はまたしばらく暇を持て余すことに。
ボーッとしていたら、アンナからL●NEが届く。
『タッくん。このマンガ、すごく良く描けてるね☆ アンナが写真みたい☆ これ大好き!』
それ、俺が描いたんじゃないんだよなぁ。
しかし、モデル本人が喜んでくれたんだ。
嫌な気分ではない。
とりあえず返信しておく。
『それは良かったな。これもアンナの取材のおかげだ。ありがとう』
『ううん☆ 二人で頑張ったからだよ☆ これからもいっぱい取材しようね☆』
その一言で、自然と口角が緩む。
また、あいつとデートできるってことか……。
スマホを見ながら、アンナとのL●NEを楽しんでいると。
画面が急に暗くなった。
雲で太陽が隠れてしまったのかと、空を見上げる。
だが、今日は雲1つない日本晴れだ。
「ん?」
それは人の影だった。
目の前に視線をやると、1人の少女が立っていた。
「あの、サイン会はここであっているのかしら?」
随分と上品な喋り方だなと思った。
「そうですが」
俺がそう言うと、少女はニコリと笑う。
「フフッ。タクト……遂に約束を果たしてくれたのね。嬉しいわ」
「へ?」
どうやら、顔見知りらしい。
俺は、その声の持ち主をじっと見つめてみた。
黒を基調としたシンプルなデザインのミニワンピース。
胸元には白い大きなリボン。
細くて長い脚はタイツで覆われている。
陽の光に当てられ、輝くのは金色の長い髪。
「あ、アンナじゃないか……」
思わず声に出してしまう。
「何を言っているの? タクト。相変わらず、あなたって記憶力が悪いわね」
なんて頭を抱える。
「お前こそ、何言っているんだ? さっき会ったばかりだろ?」
「冗談もそこまでくると、不快よ。とりあえず、私は約束を果たしに来たのだけど。小説はどこにあるのかしら。ネットで売り切ればかりで、買えなかったわ」
なんだ、アンナのやつ。
妙にお高く留まっちゃって。
調子狂うな。
もしかして……また新しい人格でも作ったのか?
これも取材ってやつか。
仕方ない。合わせるとしよう。
とりあえず、俺は第三の人格ちゃんに付き合ってあげることにした。
テーブルに並んでいる大量のラノベを指差して、「これだ」と説明する。
先ほどと同じ反応で、彼女の顔は凍りつく。
「な、なによこれ……」
「え?」
「私がモデルなんでしょ、これ」
「ああ。表紙と挿絵は違うけど。小説の中身は間違いなく、お前だ」
深いため息をつくと、財布を取り出す。
「ハァ……なら、それでいいわ。全部ちょうだい。サイン入りでお願い」
「いいのか? さっきも買ってくれたのに?」
「えぇ、そのために日本へ帰国したんだもの。タクトとの約束じゃない」
なんか話が全然嚙み合わないな。
一体、今度の人格はどんな設定なんだ?
つい先ほどコミカライズ版を全てお買い上げしたくせに、また戻って来てラノベ版を全部買ってしまったアンナ。
一体、何がしたいんだ?
そんなにまで、俺のサインを独占したいのだろうか。
わからん。
「タクト。もう小説は全部売れたのよね?」
不服そうに財布をしまう彼女。
「ああ、お前のおかげで完売だ。今日の仕事はこれで終わりだな」
「そう……なら、この後付き合ってもらえないかしら? 話したいことがあるのだけど」
と頬を赤らめる。
「構わんが」
「じゃあ、カナルシティの裏にある“はかた川”で待ってるから……」
そう言って足早に去っていく。
もちろん、大量の小説が入った紙袋を両手に持って。
なんか、様子がおかしいな。アンナのやつ。
まるで人が変わったようだ。
喋り方もえらく上品だし、いつものように積極的なアピールもない。
どちらかと言うと、ツンツン系な女の子の設定だ。
うーん……これも小説のためにと考えたヒロインの一人か?
※
「あぁ~ すっげぇのが出ましたよ~ DOセンセイ……尻から火が吹いちゃうぐらいのが♪ おかげでスッキリしたんですけどねぇ」
びしょ濡れになったハンカチを持って、ステージに戻ってきた白金。
誰がそんな汚い表現をしろと言った。
仮にもお前は女だろ。
「白金……いちいち、お手洗いで何が起きたか言わなくていい」
「え? 男の子ってこういうの好きなんでしょ? スカ●ロでしたっけ」
俺はあいにく、そんな性癖はないし、あったとしても、お前のは聞きたくない。
「もうこの話はやめてくれ……」
「そうですか。ていうか、私がいない間に全部売り切れじゃないですか!? すごい! 大勢のファンの人が買いに来たんですか!?」
「いや……たった一人の客だけだ」
正確には、二人か? 多重人格ヒロインだからな。
「ひょえ~! DOセンセイにはやはりコアなファンの方がいるんですね! この調子で“気にヤン”を流行らせましょう!」
流行らないだろう……だって、60冊を一人が独占しただけじゃん。
その後、俺はようやくサイン会から解放された。
白金は後片付けがあるから、カナルシティに残るらしい。
「DOセンセイ、今日はお疲れ様でした! また編集部でお会いしましょうね~」
「ああ。じゃあな」
そう言って背を向けたら、後ろから声をかけられる。
「しっかり休養取ってくださいねぇ~ 私もこのあとイッシーとチゲ鍋食べに行くんですよ。ハイボール飲み放題付きで♪」
こいつ。そんな不摂生ばかりしてるから、腹を壊すんだろ。
俺はとりあえず、カナルシティを裏口から出て、はかた川を目指した。
もう既に空は、オレンジ色に染まりつつある。
そう言えば……アンナと例の“契約”を交わしたのもこんな時だったな。
あれから、もう半年近く経ったか。
色々なことがあったな。
良いことも悪いことも……。
数々の取材を思い出しながら、交差点を渡り、階段を昇る。
河辺には何人かのカップルが肩を並べて座っていた。
目の前がラブホ街だから、このあとイッちゃうのだろうか。
「タクト……懐かしいわね。約束の場所だもの」
ベンチに座る一人の少女が俺に気がついたようで、声をかけてきた。
背はこちらに向けたまま、顔だけ振り向く。
「ああ、覚えているさ。お前とここで契約したんだものな」
俺も彼女の隣りに座り込む。
「ええ。早いものね。10年前の出来事だと言うのに……昨日のように思い出すわ。あなたとの契りを」
「そうそう。お前が急に取材のために……って、10年前ぇ!?」
俺って今、異世界とかに転移してないよね。
「10年前……一体、なにを言っているんだ? アンナ」
あれぇ? 俺ってこいつとそんな長い間柄だったけ。
首を傾げていると、彼女は肩をすくめて、ため息をつく。
「やっぱり忘れているんじゃない。あれだけ、格好つけておいて……もう、私あなたの口癖は信用しないわ。『認識した』っていうセリフ」
俺は酷く動揺していた。
目の前にいるこの金髪の美少女がアンナじゃなければ、誰だというんだ?
色んなカワイイ女の子を見てきた俺だが、彼女……いや、ミハイルほどのルックスの持ち主はいないはず。
沈黙が続く。
どう会話を切り出したらいいのか、分からない。
脳内の記憶を検索しまくる……だが、10年前なんて昔の映像は蘇らない。
しばらく考えこんでいると、痺れを切らした彼女が俺の手を握りしめる。
「タクト。ここを触って。それで思い出すはずよ」
そう言って、俺の右手を自身の胸元に当てる。
「なっ!?」
その行動に驚いた俺は手を離そうとするが、彼女が許してくれない。
華奢な体つきの割にかなり強い力だ。
「ほら……聞こえるでしょ。私の鼓動が」
視線を彼女に合わせると、薄っすら涙を浮かべていた。
確かに心臓の音は手を通じて、伝わってくる。
だからといって、なにがわかるんだ。
そりゃ生きているんだから、当然だろうに。
「すまんが、手を離してもいいか? お前の言いたいことがさっぱりわからん」
俺がそう言うと、彼女は頬を膨らませて、不機嫌そうにする。
「これでも思い出せないの? いいわ……じゃあ、これならどう?」
ススッと、心臓から少し下に手をおろす。
そして何を思ったのか、俺の右手を介して、自身の胸を揉み始める。
「お、おい! なにをする!?」
慌てる俺を見ても、彼女は特に驚くことはない。
人目も気にせず、自身の片乳を揉ませる。
「ほら……あの時の約束でしょ? 私の胸が貧乳だったら、結婚するって」
それを聞いた俺は、バカみたいに大きな声で叫ぶ。
「け、け、結婚だと!? お、お前は何を言って……」
だが、そんなリアクションとはお構いなしに、胸を揉ませられること、数分間。
確かに俺好みの貧乳だ。
瞼を閉じてみる。
どうやら、過去の俺はこの子の胸を揉んだことがあるらしい。
しばらく感触を味わっていたら、思い出すかもしれん。
自由に触って良い機会なんて、中々ないしな。
プニプニしている……柔らかい。
小ぶりでちょうど良いサイズ。
素晴らしい。
しかし、服の上からとはいえ、あまりにも柔らかすぎる。
なぜだ?
この感触は……そうか。ブラジャーをしていないんだ。
だからか。
ってあれ? 以前、アンナとプールでおっぱいを触ってしまった時は、もっとこうなんというか、人工的な柔らかさ。シリコンみたいな感じだったよな。
それにアンナはカチカチってぐらいの絶壁……。
その瞬間、目を見開く。
確信したからだ。
「お前! 女だろ!」
言った後で、自分でもアホな発言だと思った。
「え? 当たり前でしょ?」
すごくバカにした目で睨まれてしまう。
「違う! 俺が言いたいのは……」
待てよ。こいつの目。おかしい。
夕陽に照らされて輝く2つのブルーアイズ。
グリーンじゃない!?
激しい頭痛が俺を襲う。
頭の中がバチバチと激しい閃光が走る。
けたたましい雷が鳴り響くような。
体感にして、1時間ぐらい起こった気がする。
それらが治まった後……1つの言葉が、自然と口から出てきた。
「マ……リア。お前、マリアか?」
「やっと思い出せたのね。タクト、ただいま」
彼女は優しく微笑む。
まあ、この間もおっぱいは揉みしだいているのだが……。