どうにかミハイルとひなたの目を盗んで用を済ました。
トイレから戻ってくると食堂に寝ていた生徒たちがぼちぼち起き出す。
皆、足腰をさすりながら、起き上がる。
まああんな薄いマットで一夜を過ごせばな……。
食堂の時計の針を見れば、まだ朝の6時前だ。
俺が戻ってくるのを待っていたかのように、宗像先生が慌てて駆けてくる。
「新宮、ちょうどいいとこに来たな! こいつら早く食堂から連れ出してくれ!」
必死の形相で言う。
「え、なんですっか? まだゆっくりしても……」
「バカモン! もう少ししたら三ツ橋の校長が出勤してくるんだよ!」
なにを思ったのか、俺の両肩を掴むと力強く揺さぶる。
首がすわってなかったら、折れそう。
「それが何の問題なんですか?」
「怒られるだろ! あの校長、超めんどくさいんだよ! 特に一ツ橋のスクリーング後はタバコの吸い殻がないか、荒さがしするんだよ、アイツ!」
校長をアイツ呼ばわりとか。それに喫煙を公認してんのはあんただろ。
俺はタバコ吸ってないし、昨日のことはお前が招いた失態だ。
「とりあえず、三ツ橋の校長先生に見つかる前に帰れってことですか?」
ゴミを見るかのような目で呆れる俺。
「そ、そうだ! 新宮は新入生の中でリーダー的存在だろ? さ、帰れ帰れ」
こんのクソ教師が。
「わかりましたよ……」
俺は渋々、宗像先生の要請を受領する。
「よ、よし! さすが我が校の生徒だな!」
もう生徒じゃありません。退学したいので。
宗像先生はまだ寝ていた生徒も無慈悲に蹴り起こす。
「こら! お前らさっさと起きろ! そして出ていけ!」
自分で勝手に寝かせておいて、酷い扱いだ。
「えぇ? まだ早いじゃないっすか?」
千鳥 力がスキンヘッドの頭をボリボリかく。
「やかましい! 昨日の出席を欠席扱いにするぞ、コノヤロー!」
恐喝じゃん。
「ひでぇな、先生……」
宗像先生は用なしと見なすと一ツ橋の生徒たちを食堂から文字通り叩きだした。
食堂前の駐車場にみんな集まった。
「いいか、三ツ橋の教師にバレないようにコソコソ帰るんだぞ? 物音を立てず決して声は出すなよ?」
まるで俺たちは不法侵入者のようだ。
「私、三ツ橋の生徒なんですけど?」
イレギュラーが一人いた。
全日制コースの赤坂 ひなただ。
未だに昨日の体操服姿のまま。これはこれで発見されたらまずいのでは?
ひなたを見てうろたえる宗像先生。
「う! お前は『あらやだ、私ったら教室で寝ちゃった♪』ってことにしとけ」
酷い言い訳だ。
「ええ……家に帰っちゃダメなんですか? お風呂にも入ってないし……」
「バカモン! 手洗い場かトイレで洗っちまえ! 石鹸も無料であるし」
ホームレスじゃん。
「そんな! トリートメントとかしないと髪、痛みますよ?」
女子特有の悩みですね。
「トリートメントだぁ? 上品ぶってんじゃねーぞ、ガキのくせして! 来い、私が隅からすみまで洗ってやらぁ!」
導火線に火がついたようで、ひなたの頭をおもちゃのように片手で掴むと校舎へ連れ込む。
「いやぁ! 新宮センパイと一緒に帰りたい~!」
宙で足をバタバタさせる。
「やかましい! 学生は学校の石鹸で充分だ!」
酷い校則だ、この時ばかりは通信制で良かったと思えた。
「センパイ~ 助けて~!」
涙目で俺に助けを呼ぶひなた。だが、俺も早く帰りたい。
「悪いな、ひなた。ブルマのまま授業を受けてくれ」
「センパイのいじわる! 薄情者!」
なんとでも言うがいい。
俺は彼女に背を向けた。
「さ、帰るか。ミハイル」
「そだな、一緒に帰ろうぜ☆」
ミハイルってどんなときも落ち着いて対処できるよな。
感心します。
俺たちは宗像先生から言われたように、三ツ橋の関係者にバレないよう、正門からではなく裏門からコソコソ帰っていった。
なんやかんやで初めてのお泊り。というか未成年拉致事案だと思うのだが。
第一回一ツ橋高校、歓迎会及び合宿は終了した。
※
最寄りの駅、赤井駅にぞろぞろと一ツ橋の生徒たちが集まる。
これはこれでかなり悪目立ちしている。
田舎の駅に朝早くから若者が集合しているからな。
謎の集団と思われているだろう。
駅のホームにミハイルと仲良く並ぶ。
「楽しかったな☆ パーティとお泊り会☆」
「そうか? 宗像先生が一人でパーリィしてただけだろ……」
早くクビになんないかな、あのバカ教師。
「お二人さん♪ 私も混ぜてよ」
振り返ると後ろにはナチュラルボブの眼鏡女子、北神 ほのかが立っていた。
すっかり酒も抜けているようで、血色もよい。
「ほのかか。二日酔いとかないか?」
「うん、あれぐらい徹夜の同人制作に比べたら問題ないっす!」
親指立てて笑顔で答える。
「そうか、よかったな……」
そうこうしているうちに電車が到着。
三人で同じ車両に並んで座った。
朝早いこともあって、車内はガラガラ。
「ところで琢人くん、明日何時に待ち合わせする?」
「え? なんのことだ?」
「何って取材でしょ。コミケだよ」
ファッ!?
忘れてた……変態女先生に取材と言う名の拷問を強要されていたんだ。
それを隣りで聞いて黙っているミハイルくんではない。
「なんだよ、それ! タクトはアンナと取材するんだぞ!」
拳を作って、怒りで震えている。
「ええ? 私が先約だよぉ。ねぇ琢人くん?」
俺に振るなよ。
「そうなのか!? タクト、アンナがいるのにほのかとデートすんのかよ!」
ギロッと俺を睨みつける。
「ま、待てミハイル。ほのかとはデートじゃない。あいつの趣味に付き合ってるだけだよ」
「趣味ってなんだよ!」
朝からBLの説明はしんどいです。
「なんだ、ミハイルくんも私の同人活動に興味あるの?」
目を輝かせる腐女子。
「え? 興味っていうか……そのタクトがやることなら知りたい…かな?」
頬を赤く染めるヤンキー。
だが、お前が知りたいのものは恥じるものではない。
全力で逃げるべきものだ。
興味本位で立ち入るな、死ぬぞ。
「フフッ、ミハイルくんも私の『国境なき同人活動』に参加したいのね!」
眼鏡が怪しく光る。
「ほ、ほのか? なんか怖いよ?」
伝説のヤンキーも腐女子の変態オーラには勝てないようだ。
「なら、3人で行きましょ! コミケに!」
「こ、こみけ? なにそれ?」
ほらぁ、この子はピュアなんだからやめてくれる?
うちの子はまだ汚れてないのよ、どっかほかでやってくれないかしら。
「大丈夫、私に任せて。幼稚園のころからコミケに出入りしてるからね」
ヤバいよ、この人イッちゃってるんですけど。
「ふーん、小さな子でも気軽に遊びにいけるところなんだ……」
ダメだって! それ幼児虐待!
「そうそう、なんだったら妊婦さんにもオススメ!」
酷い胎教だ。
「じゃあ遊園地みたいなところ?」
首をかしげるミハイル。
「いい例えだね。そうだよ、ミハイルくん。君も行けばわかるよ。コミケの素晴らしさが!」
頭痛い。
「タクト、もちろんオレも行っていいよな☆」
テンション高いな。
どうしたものか……。
「止めてもついてくるんだろ? 俺は構わんよ、正しヴィッキーちゃんに許可をもらえ」
あのねーちゃんがコミケの存在を知っているとは思えんが。
「わかった! 帰ったらねーちゃんに頼むよ!」
「フッ、これでまた一人、落ちたか……」
なに格好つけてるんだ。この変態が。
しばらく電車に揺られてその後もほのかとミハイルは雑談で盛り上がっていた。
というか、ほのかが一方的にコミケの知識をひけらかしてるだけだが。
ズボンのポケットに入っていたスマホが振動する。
メールが一件。
宗像先生と学校に残った赤坂 ひなただった。
『センパイ、酷いじゃないですか! トイレで全身洗われましたよ!』
草。マジでやられたんだ。
さらにもう一件。
『罪滅ぼししてください! 明後日、一緒に博多どんたくに行きますよ! 取材です!』
ええ……ゴールデンウィークなのに俺には休みがないんですか?
地獄のようなスクリーングはなんとか終わりを迎えた。
翌日、俺は朝刊配達を終えると家族を起さないように静かーに食事を済ませ、支度を終える。
なぜならば、奴らに気づかれる危険性があるからだ。
階段を足音立てずに玄関までたどり着けた。
スニーカーに足を入れ、紐を結ぼうとしたその時だった。
背後に人影を感じる。
「タクくん? こんな朝からどこへ行くの?」
振り返るとそこには、裸の男たちが絡み合っているBLパジャマを着た母さん、琴音が立っていた。
「え……ちょっと、友達と遊びに」
「タクくんがゴールデンウィークにお友達と? 何か隠してない? そうねぇ、例えば同人とか」
眼鏡をかけなおして、微笑を浮かべる。
こ、こえぇ。
「嫌だな、母さんったら。俺は博多ドームで野球観戦するだけだよ」
「タクくんって野球に興味あったかしら? それに今日は博多ドームは違うイベントがあるみたいねぇ」
スマホを取り出し、何やら検索しだす。
「あらあら、今日はコミケの日じゃない~♪ 母さんも行こうかしら?」
ヤバイ! この人とだけは行きたくない。
「か、母さん。お店があるだろ? 予約ドタキャンしたらダメじゃないか」
「ええ、そんなのお客さんも一緒に連れていけばいいじゃない?」
そうだった、俺の育った真島はこのゴッドマザーによって腐りきってしまったのだった……。
「と、とにかく! 俺は仕事で行くんだよ! だから母さんとは行けないよ」
「なにその天職? ひょっとしてタクくんたらBL作家に転向したの?」
そんな仕事、こっちからごめんだ!
「違うよ……ミハイルとそれから、前に話した変態女先生と取材に行くんだ」
「なんですって! あのBL界隈で期待のエース、変態女様と現地調達するわけね! それなら母さんんは邪魔になるわ……いってきなさい! そして変態女先生のお力になるのよ!」
急に態度が変わりやがった。
「あ、そうそう。今日のコミケに母さんの推しているサークルも出展するのよ。お金あげるから買ってきてちょうだい。保存用、閲覧用、配布用に50部ほど」
と言って、諭吉さんを3人ももらえた。
「わかった……善処するよ」
俺はリュックサックを背負って、家を出た。
50冊持って帰るとかしんどいな。
※
朝早くだというのに、ゴールデンウィークという時期も重なってか、電車の中は人混みでいっぱい。
博多駅に降りてもたくさんの人で溢れかえっていた。
事前に待ち合わせ場所はミハイルとほのかの三人で決めていた。
『黒田節の像』の前。
「おーい、タクト☆」
両手を振って、元気いっぱいなミハイルきゅん。
相も変わらず露出度の高い服装だ。
可愛らしいネッキーがデカデカとプリントされたチビTとショーパン。
珍しくキャップ帽を被っていた。
ネッキーの耳つきね。
今からどこに行くのかわかってんの、こいつ?
「おう、ほのかはまだか?」
「そだな☆ オレが一番乗りだぞ☆ 朝の5時半から待っていたからな」
ない胸をはるな! そして怖いわ!
「またそんな早くから……ヴィッキーちゃんにはなんて言ってきたんだ?」
「え? ねーちゃんには遊園地みたいなところって伝えといたけど」
お前が今から行くところは地獄だよ。
片道きっぷだけのな。
「ミハイル、今から行く場所なんだけどな。ビニール袋を常に携帯しておけ」
「ん、どうして?」
「吐き気を感じることも多々あるだろう」
酒池肉林だからな。
「ふーん。絶叫系てことかな?」
ある意味、スクリームだよ。
「わかった☆ タクトがそう言うなら気を付けるよ」
十二分に気を付けてください。
しばらく、俺とミハイルが雑談していると、北神 ほのかが現れた。
汗だくになって、ドデカいキャリーバッグを二つも転がしていた。
「お、お待たせ! 戦闘準備、完了であります!」
普段通りのJK制服を着ているのだが、なぜか額にはハチマキが。
『BL・百合・エロゲー募集中!』
と書いてある。
力寄らないでください。変態がうつりそう。
「おはよう☆ ほのか、今日の遊園地はどこなの?」
屈託のない笑顔で問いかける少年。
「フフッ、よくぞ聞いてくれました。ミハイルくん! 遊園地は博多ドームよ! 今日だけのね」
あの、もう遊園地って表現するのやめません?
うちのミハイルくん、ピュアなんで、汚さないでください。
「おお! 一日だけの遊園地とかすごいな☆」
ほら見ろよ、勘違いしてテンション爆上げじゃん。
「ええ、年に4回はあるから、ミハイルくんも今日で慣れてね」
慣れるな!
「うん、頑張る☆」
頑張っちゃダメだよ。
「さ、行きましょう! 博多ドームへ!」
「えいえいおー☆」
「おぉ……」
オーノー!
※
博多駅の隣りにあるバスセンターから百道行きのバスに乗る。
車内の中をよく見ると、ほぼというか全員オタク。
痛Tシャツを着る猛者や既にコスプレをしている女子まで。
こいつら、全員コミケ目的か。
地獄へのバスだな……。
バスで揺られること30分ほど。
ドーム近くの百道浜のバス停に到着した瞬間だった。
「おらぁ! ドケやぁ!」
「わしが先じゃボケェ!」
「どかんとぶち殺すぞ、ゴラァ!」
注意:全員女性の方です。
奥から婦女子の皆さんが無理やり前の乗客を押し出す。
俺たちは文字通り、バスから叩きだされた。
料金も払えずに……。
「あっ、ちょっと俺、払ってないんすけど」
そう言いかけたがバス内は怒号で荒れていた。
俺が必死に金と切符を空にかかげる。
それに気がついた運転手がマイクでこういった。
「あんちゃん、今日はもういいよ。帰りのバスの運転手に渡しておいてや。今日はダメや……」
首を横に振る中年のおじさん。
かわいそう。
「で、でも……」
俺が戸惑っているのを静止したのは北神 ほのかの手だった。
肩にポンポンと優しくたたく。
「琢人くん、察してあげなさい。今日はお祭りなんだから……」
無駄に優しい顔で微笑まれたんすけど。
女じゃなかったら、ブン殴りたい。
「わ、わかったよ……じゃあ帰りの運転手さんに事情を伝えて払っておこう」
「そうそう、そんなことより会場までダッシュだぜ!」
親指を立ててウインクする変態女先生。
「遊園地なのにお祭り……?」
未だにイベントの内容を把握されておられないミハイル氏。
「ミハイルくん、私についてきて! 博多ドームまでかけっこよ!」
ほのかはそう言うと重たそうなキャリーバッグをガラガラと音を立てて走り出した。
火事場のクソ力である。
いや、変態パワーか。
「あ、ほのか。ちょっと置いてかないでよ」
ミハイルは何が起こっているのか、わからずにいる。
あたふたして、ほのかのあとを急いで追っかける。
「はぁ…急ぐ必要性あるか?」
二人からはぐれないように俺も走った。
「ほっ、ほっ、ほっ!」
帰ってくる、オタクと腐女子たちが福岡に帰ってくる!
がんばれ同人界!
博多ドームの地下駐車場に皆集まっていた。
大きな看板が立っていた。
『第41回 めんたいコミケ』
俺はこのコミケに何度も来たことがある。
嫌って言うほど叩きこまれていた。
まだ右も左もわからないうちに真島のゴッドマザーから英才教育を受けていたのだから。
入場料を払い終えると、長蛇の列が待っていた。
開館するまでまだ2時間もあるというのに、もう何千人という人だかり。
「すっげーな、こんなに人が集まるなんて……どんなアトラクションが待っているの? ほのか」
目をキラキラと輝かせる無垢な少年。
「それはもう血湧き肉躍るパーリーだぜ!」
なぜか両腕組んで仁王立ちするほのか。
「だろ、DO先生よ!?」
俺に振るな。
「まあ界隈の人間からしたら、そんなもんかな」
正直どうでもいい。
「一狩り行こうぜ!」
お前だけ戦場に行って死んで来い。
「ワクワクしてきたよ、タクト☆」
かわいそうなミハイルくん……大丈夫、俺が守ってやっからよ。
「ええ、あと3分後にを開場しまーす」
メガホンを持った若い男性スタッフが、大きな声で叫ぶと歓声がわく。
「ヒャッハー! ショタ狩りじゃあ!」
「ヒョォォォ! 今期の薄い本はたまらねぇぜ」
「てめーら、他の組の奴らに取られるんじゃねーぞ! タマ獲る覚悟で行けや!」
注意:全員女性の方です。
「な、なにが始まるんだ? タクト……」
ヤンキーでもこの狂乱を見れば、後退りしてしまうのだな。
「ふむ、これは彼女たちの戦争だからな」
間違いではない。
「戦うの? 激しいアトラクションなんだな……」
顔面真っ青で辺りの女性陣にドン引きするミハイル。
「フッフフ……ハッハハハハ! 時は来た!」
股を広げて、両手を宙にかかげる北神 ほのか。
「おめぇら、死ぬんじゃねーぞ」
眼鏡をかけなおし、ドヤ顔で拳をつくる。
どうぞ、あなただけで死んできてください。
アナウンスがかかる。
『ただいまより、第41回めんたいコミケを開始します。どうか慌てずに入場してくださ……』
だが、そんな注意を気にするハンターは誰もいない。
「グオオオオオ!」
「ガルルルルル!」
「ワンワンワン!」
注意:人間です。
北神 ほのかも例外ではない。
「キシャアアアア!」
ビーストモードに変身されたようです。
「タクト、怖いよ。周りの女の子たち、病気なの?」
永遠に治らない不治の病なので、そっとしてあげておいてください。
彼女たちには認知療法も有効ではないのです。
今、現在症状を緩和したり、ワクチンなどないに等しいのです。
「まあ俺にしがみついとけ。ここは修羅場と化す」
「え……」
絶句するミハイル。
「辺りをよく見てみろ。彼ら彼女たちは普段は大人しいが、一たび同人界に現れると皆バケモノと化す。そう、ここは戦場なのだよ。オタクにとってな」
俺に言われてミハイルは周りの紳士や淑女を眺める。
皆、目が血走り、息が荒い。
手負いの獣のように。
「なんか怖い……みんな病院行かなくてもいいの?」
俺の左腕にしがみつき、身体をブルブル震わせる。
「もう手遅れさ。ここが奴らにとっての一番の治療方法だ」
前列から奇声と共に、人波がドバァッと流れ出す。
もちろん俺たちが前に進もうとするが、その前に後列の人たちが無理やり押し出す。
「止まってんじゃねーぞ! ゴラァ!」
「早く行けよ、バカヤロー!」
「チンタラしてんじゃねー、ぶち殺すぞ!」
注意:全員女性です。
「ご、ごめんなさい……」
謝る伝説のヤンキー『金色のミハイル』
「ミハイル、謝るぐらい暇があったら早く進め。それがここのマナーだ」
「う、うん」
健気にも俺の指示に従うミハイル。
そうだ、ミハイルは俺が守る。
命に代えても。
「どけどけ! ワシの邪魔する奴は許さんのじゃあ!」
白目をむきながら、口から泡を吹きだす北神 ほのか。
新種の危険ドラッグでも使用されてません?
※
会場内に入るとあっという間にオタクや腐女子たちがドーム内の各ブースに散らばる。
お目当てのサークルや人気アニメコーナーに走り出す。
全員、手には複数の野口英世を手に握りしめている。
北神 ほのかも俺たちを残して、一人で勝手に狩りをはじめだした。
博多ドーム、本来は野球を主に利用される施設だ。
だから球場の中は客とサークルで埋め尽くされているが、観客席は誰もいない。
この混乱の戦場に初心者のミハイルを連れていくのは至難の業だ。
少しほとぼりが冷めるまで待とう。
「なあミハイル、お前買うものか決めているのか?」
「え? 今日は遊園地で遊ぶんでしょ」
まだ騙されていたのか。
「いいか、このアトラクションは健全なものではない。よって幼い子供が気軽に近づいてところじゃないんだ」
言うて俺も赤ん坊の頃からおんぶされて来ていたんだけどね。
「そうなの? 危険なの?」
「当たり前だ、ちゃんと資格を持った人だけが許される。甲乙丙、全ての危険物を取り扱いできる人だけだ」
「そっかぁ……すごいんだな、コミケの人たちって!」
いや感動しちゃダメでしょ。
「まあとりあえず、買うものは決まっているわけでもあるまい。しばらく俺たちは観客席で休もう」
「やったぁ! オレ、博多ドームに来たの初めてなんだ☆」
ヤダ、泣けてきたわ……こんなところに純情な少年を連れてきてしまった自分が愚かであることに。
俺たちはオタクや腐女子たちとは逆行して、観客席の方へ進む。
その際、近くにいたスタッフから今日の参加サークルやイベントが記されたマップやスケジュールをもらった。
今日は野球もライブもない。内野席も取り放題だ。
誰もいない席に二人して仲良く座る。
「なあ、なんであの人たちってあんなに必死なの? なにを買っているの?」
ナニかを買っているんだよ。言わせるなよ、恥ずかしい。
「ミハイルは知らなくていいと思うぞ。ま、しばらくすれば人は減る」
俺はあほらしいとドームの上を見上げた。
博多ドームは開閉式の屋根だ。だが、普段は閉まっている。
天候がいい時や地元の球団『南海ホークス』が勝利したときは青空やたくさんの星が拝めるのだが。
コミケの時はどこか空気がどんよりしている。
というかむさ苦しい。
「タクト、さっきのマップ見せて☆」
「おお、ほれ」
ミハイルは目をキラキラ輝かせて、マップを見る。
「うーん、ギャルパン? 俺ギャイル? キメセク? なんのことだろう……」
作品自体は興味を持っていいが、ここのは二次なんで聞かないであげておいてください。
「あっ、見て見て、タクト!」
「どうした?」
「これ、オレの大好きな『ボリキュア』がある!」
ミハイルが指差したマップの中には確かにその名があった。
「ああ、それな……」
どう説明したもんか。
「抱き枕が売っているんだって☆」
急にテンションあがったな。
だが、お前の知っているボリキュアではないと思う。
「ミハイル、あんまり期待するな……公式が売っているわけではないんだよ」
というかお前、抱き枕で寝たいの? ガチオタじゃん。
「そうなの? ボリキュアストアが出展してるんじゃないの?」
首をかしげるミハイル。
「公式が出展できるわけないだろ。社内問題だし著作権侵害だよ」
「ふーん、じゃあファンの人が好きで作ってんの?」
「そう言うことだ。ここは無法地帯、一歩でも足を踏み外してみろ、作品にトラウマができちゃうぞ」
ソースは俺。
というか、かーちゃん。
「よくわかんないな。でも、ボリキュアなら見てみたい!」
ヤバい、連れてくるんじゃなかった……。
「ま、まあいいんじゃないか? 実際の商品が見本として飾られていると思うからあとで行ってみるか」
「うん、いこいこ☆」
しーらないっと。
ミハイルの熱意に負けてしまい、俺たちはボリキュアのブースに行くことにした。
マップに載っていたサークルを見つけると、既に長蛇の列。
「すごいな! さすがボリキュアだよ、タクト☆」
いや、真のボリキュアファンなら公式で買えよ。
ミハイルは何も知らず、紳士たちの後ろに並ぶ。
俺はしれっと前の方に飾ってあった抱き枕を覗いてみる。
やはり不安が的中した。
ボリキュアのラブリーな戦士たちがぐっしょぐっしょに濡れており、衣装が破れていた。
18禁か……ミハイルにはハードルが高すぎる。
どうしたものか、俺が頭を抱えて悩んでいるその時だった。
「すいませーん。ただいまで売り切れになりました! ありがとうございます! ネットでも販売してますので!」
良かったぁ、なくなって。
「ええ! 売り切れちゃったよぉ、タクトぉ」
唇をとんがらせるミハイル。
「そう落ち込むな、今度ボリキュアストアに連れてってやるから」
「ホント!? なら許す☆」
許されてよかった……。
在庫がなくなったことを知って、ため息や舌打ちをする紳士たち。
皆、肩を落として散らばる。
その中に見慣れた姿が……。
「あ、トマトさん」
そう俺の小説のイラストを担当している絵師、トマトさん(25歳、童貞)
「げっ! DO先生! なんでこんなところに!?」
こういう時なんて答えを返したら良いのでしょうか。
「ボリキュア、好きだったんすね……」
汚物を見るように見下す。
「こ、これはイラストの勉強のためにですね…」
抱き枕で?
「トマトさん……ボリキュア、残念でしたね」
俺は言葉に詰まっていた。
普段、トマトさんが描くイラストは硬派な男キャラが多く、女の子キャラや女性キャラを不得意とする絵師さんだ。
勝手なイメージだが、彼はアクションものの作品とか好きそうと思っていたのに。
まさかゴリゴリのロリコンだったとは。
別に差別しているわけではないが、見ちゃいけないものを見た気がした。
「あ、いや違うんだよ? DO先生、抱き枕は…そう! 今度の先生のイラストのために」
おいおい、裸体を描く気だったの?
「へぇ……」
苦笑いで答える。
「ところで、DO先生は何しにきたの?」
こいつ、絶対矛先を変えるために話題を変えているな。
「俺は……なんと言ったらいいか、ま、取材ですよ」
奇しくもトマトさんと同じ理由じゃん。
「コミケに取材!? それ必要あります?」
至極当然なリアクションであった。
「ま、まあ今は他のサークル漁っていると思うんですけど、腐女子のJKに強引に連れてこられたのが本音ですよ」
「じぇ、じぇ、じぇ……JK!?」
そこだけ食いつきすごいな。
はい、お巡りさんここです。
「おい、タクト! オレを忘れるなよ!」
隣りを見下ろすと腰に両手をやって、頬を膨らますミハイル。
「ああ、そうだったな。こいつ、ミハイルっていうんです。高校の同級生で」
俺が紹介するとミハイルは絶壁の胸を張る。
「ふふん、オレがタクトのダチだぞ! この世で一人だけのな☆」
なにを勝手にアピールしてやがるんだ、こいつ。
それに俺のダチはまだ一人と決まってないんだからね!
「なるほど、ミハイルくんですね。僕はフリーのイラストレーターのトマトです。DO先生の表紙や挿絵を担当してます」
笑顔がとても眩しい。
しかし、それよりも額に巻いているバンダナの方が気になる。
2頭身の萌えキャラがパンチラ全開なんだもの。
「DO先生のお友達とは珍しい」
「だろ☆」
あの、トマトさんも俺のことそんな可哀そうな人間だって思ってたんですか?
それからミハイル、お前は敬語を使え。
彼は豚だが年上だ!
「ところでミハイルくんは今期アニメで何が推しですか?」
「え? こんき? 結婚のこと?」
それ婚期だから。
俺がすかさず説明を入れてあげる。
「今放送しているアニメで好きなものはないか? とトマトさんは言いたいんだよ」
「うーん、オレはデブリとネッキーが一番好き☆」
そこの企業、二次創作したら訴えられません?
「ほほう、ミハイルくんはいいセンスしてますねぇ。僕ので良かったら今度薄い本お貸しましょうか?」
え!? マジであるの?
「うすい本? なんのこと…」
首をかしげるミハイル。
その辺で勘弁してあげてください、この子まだコミケ処女なんで。
「同人誌のことですよ。ミハイルくんはコミケ初めてですか?」
「うん、なんか楽しいってほのかが言ってたからついてきた☆」
満面の笑みで答えるミハイル。
何も知らないっていいですねぇ。彼の笑顔が太陽に見えます。
このむせ返るような18禁コーナーでは。
「ほほう、ならば僕で良ければ、コミケを紹介しましょうか?」
トマトさんの眼鏡が怪しく光る。
こ、こいつ、布教する気だな。
危険を察知した俺はすかさず止めに入る。
ミハイルの操はこの琢人くんしか守れないのだから!
「い、いえ、ミハイルは俺が案内するので、でーじょぶです!」
「そうですか……それは残念。ミハイルくんとは同志になれそうな気がするのですが……」
うちの子はあんたとは違うのよ、この萌え豚が!
「では、僕はそろそろ他のサークルに向かいますね」
そう言って背を向ける汗だくのおデブ紳士。
既にTシャツはびっちょびっちょでピンクの乳首が丸見え。
相変わらずの破壊力だ。
その場を去ろうとしたその時だった。
何かを思い出したかのように振り返る。
「あ、そうそう。ミハイルくん、今度会える時があったら、ネッキーとネニーのNTR本貸してあげますよ♪」
親指を立てる変態絵師。
一生家から持ち出すんなよ、そんな危険な本。
「ネトラレ? なんかわかんないけど、ありがとう☆」
お礼しなくていいのよ、ミハイルちゃん。
トマトさんは背を向けたまま、「同人界に幸あれ」と手を振って去る。
「おもしろいヤツだな、トマトって」
だから、あれでも年上だからね? 見たらわかるじゃん。おっさんだもん。
一応、敬ってあげてね……。
「ま、まあな。ところでボリキュア以外で好きな作品はないのか? もちろん、デブリとネッキー系以外でだ」
彼の夢を壊してはいけないので。
「うーん、そうだなぁ。たまにレンタルで『セーラ美少女戦士』とか観るぐらいかな」
それ、めっちゃありそう。1990年代ぐらいから。
ていうか、ボリキュアとあんま変わらないジャンルでしょ?
18禁の臭いがプンプンするので、却下で。
「それはやめておこう。1次創作もあるかもしれん。ちょっとブラブラしてみるか?」
「うん☆」
俺はなるだけミハイルを18禁コーナーから遠ざけるようにコミケを案内した。
アクセサリーコーナーや手作りのぬいぐるみなどを見てまわった。
「うわぁ、カワイイ☆ このネコちゃん!」
ミハイルが手に取ったのは大きなぬいぐるみ。
「ほう、コミケにもこんな健全な商品があったんだな……」
いつも母さんと妹のかなでに淫らなコーナーにばかり連れていかれたからな。
「可愛いでしょ? それ大きくて中々売れないのよね」
売り子のお姉さんが苦笑いする。
「ええ? こんなにカワイイのに!?」
いや、そんなもんでしょ。
言うて素人が作ったもんだし。
「小さいのはキーホルダーとして売れたけど、大きすぎたみたい。もし引き取ってもらえるなら安くしておくよ?」
出たよ、そう言って在庫処分する気だな。
「いくらっすか?」
「1万円するところを半額の5千円にしてあげるよ♪」
元値が高すぎだろ。
「ええ、そんなに安くしてくれるの!? 買う、買います!」
慌てて財布を取り出すミハイル。
別に今更なのだが、財布も可愛らしいもので、スタジオデブリの『ドドロ』のがま口財布。
というか、騙されているのに気がついてない。
売り子のお姉さんは「占めた!」という感じで拳を小さく作って勝利を確信する。
笑いをこらえているようだ。
あくどいやっちゃ。
そして、ミハイルは野口英世さんを5人差し出すと、バカでかい猫のぬいぐるみを抱きかかえる。
「カワイイ~ 今日からオレの家族だぞ~」
モフモフを楽しんでらっしゃる。
まあ健全なものだし、これで良かったのかもな。
「ところでタクトはなんか買わないの?」
あ、忘れてた。母さんに頼まれてたな。
「母さんに同人誌を頼まれてたな……」
肝心のタイトルとサークル名を聞きそびれた。
その時だった。
アイドル声優のYUIKAちゃんの曲が流れる。
俺の着信音だ。
着信名は母さん。
「もしもし?」
『あ、よかったわ。タッくん、言い忘れたけど、サークル名は“ヤりたいならヤれば”で作品名は“今宵は多目的トイレで……”っていうのよ』
相変わらず、母さんのチョイスは酷いものばかりだ。
「わかった……買ってくる」
『あ、そうそう。サークルの人に言っておいて。いつも“ツボッター”でリプしまくっている“ケツ穴裂子”ですって』
誰だよ、そのふざけたアカウント名。
「りょ、了解」
まったく、あの母親ときたら自分の性癖を息子におしつけるんだから、たちが悪い。
俺はミハイルを連れて、ついに禁忌の地へとたどり着いた。
そう、18歳未満立ち入り禁止のBLコーナーだ。
昔からこのブースは地獄門と呼んでいる。
赤子の頃からくぐってきた修羅の道だ。この先は死ぬ覚悟をした者だけがくぐれる門だ。
「ミハイル、いいか。うかつに知らないサークルに近寄るなよ?」
俺は左右に出店しているサークルのご婦人たちを指差す。
「え、なんで?」
見てわからんのか……各ブースには裸体の男たちが絡み合っているポスターがデカデカと貼っているというのに。
「まあ俺から離れるな。絶対だぞ?」
「タクト……そんなにオレが心配なのか☆」
笑顔で喜ぶミハイル。
けど違うからね。
俺はあくまでもあなたを守っているだけなの。
「よし、行くぞ!」
生唾をゴックン。
ここはいつ来てもピリッとした空気が流れる。
だって、俺が男子だからね。
100パーセント女子の中に男が二人。
完全にアウェイ。
目的のサークルまで何人もの腐女子に睨まれたり、クスクス笑われたりする。
「なんやあいつ……なめんとかぁ!」
「ワシらのシマに入っといて、ただじゃすまさんぞ、ゴラァ!」
「うふふ……隣りのハーフの子、使えそうじゃね? 写メっとこ♪」
だから嫌だったんだ。
鬼のような目をしたご婦人たちをかいくぐり、どうにか母さんの言っていたサークル“ヤりたいならヤれば”に着いた。
「こ、これは……」
今まで見たブースの中で一番酷い。
デカデカと看板が立てられており、『ようこそ! 抜いていってください!』とメッセージ。
それに左右には等身大のフィギュアが飾られている。
もちろん、裸体の美青年だ。
しかもスピーカー装備で常に「あぁぁぁぁ!」「兄ぃさん!」「ぼく、もう我慢できないよぉ!」などというセリフが爆音で流されている。
「いらっしゃいませ! ゲイの方ですか?」
30代ぐらいの大人の女性で、地味な格好だが、言葉は桁違いだ。
「違います、ノンケです」
「あらぁ、残念ですね♪ お似合いのお二人なのに」
ニッコリ笑うが底知れぬ闇を感じる。
ヤベェよ、サイコパスじゃん。
「え? オレとタクトがお似合い……」
頬を赤く染めるミハイル。
真に受けちゃダメですよ。
「ええ、とってもお似合いですわ。絡み合っている姿を想像すると久々に生モノへとまた手を出したくなりますわ」
「生モノ……?」
危険、危険! それ以上はダメ!
俺が助け舟を出す。
「すいません、“今宵は多目的トイレで……”っていう作品を50部ほどください」
その発言に今までクールだったサークルの女性が慌てだす。
「ご、50部っ!? な、なぜそんなに……」
気がつけば、他のサークルの女性陣も身を乗り出してざわつく。
「なんなの、あのガキ。まさかガチホモ?」
「ガチよ、絶対。教本として買う気ね!」
「この後二人でめちゃくちゃ……」
やらねーよ、バカヤロー!
「いえ、俺は母さんに頼まれて買いに来たにすぎないんすよ」
一応、言い訳しとかないと汚名を被ったままは嫌だからな。
「お母さん…? ひょっとして私のサークルのファンの方ですか?」
「そう言えば、ツボッターでいつもお世話になっているケツ穴裂子っていうバカです」
言っていて自分で顔から火が出そうだ。
クソみたいなアカウント名にしやがって。
「なんですって!? あの伝説の……ケツ穴さんが私なんかの同人誌をっ!?」
驚きを隠せない腐女子。
周りの女性たちも群がりだす。
「ウッソ! 界隈でケツ穴さんに目をつけられるとバズるっていう伝説の!」
「マジ? 裂子さんに宣伝されると書籍化率、100パーセントらしいね」
「つまり、あの子はサラブレッドね。BL界の王子よ」
いらない、そんな称号。
「ちょ、ちょっとお待ちください! ただちにBL本を揃えますので!」
席から立ち上がると、後ろにあるダンボールをガサゴソ探し出す。
「あの、急いでないんで。慌てなくても大丈夫ですよ?」
一応声をかけたのだが、耳に入っていないようだ。
「ヤ、ヤバッ! ケツ穴さんに認められちゃったよ! あのBL四天王の一人に!」
あんな気持ち悪い女性がまだ3人もいるんですか?
しんどいです。
「タクト……これって」
気がつくとミハイルはテーブルに置いてあったサンプル本を手に取っていた。
いかん! 見てしまったのか!?
「ミハイル、すぐに元に戻せ。今なら引き返せる」
思わず、声が震える。
18禁のBL本をまじまじと見つめるミハイル。
顔は赤いが真剣そのものだ。
「男同士なのに、なんで裸で抱き合っているの……」
くっ! 守れなかった、ミハイルの操をっ!
「それはだな、あくまでもフィクションだからな? だから、もう読むのはやめておけ、なっ」
俺が彼の肩をポンッと軽く叩いたが、ミハイルは気にも触れない。
BL本に熱中しているヤンキー少年。
「なんか胸が…ドキドキしてきた……」
ダメダメ、したらアカンて!
「あらぁ、そっちの彼は私の作品に興味がありますか?」
ニヤニヤ笑う腐女子。
両手には大量の薄い本。全部、俺が持って帰ることになるんだよね。
「え? 興味があるっていうか。なんか男同士なのになんでその…キ、キスとかしてんのかなって……」
言いながら途中で恥ずかしくなったようで、サンプル本をテーブルに戻す。
「それは至極当たり前のことです。好きになった人がタマタマ同性だったのです。男だけにですね♪」
うまくないから、ただの下ネタだから。
「そんなのおかしいよ! だって男は女しか好きにならないじゃん……」
その話し方にはどこか悔し気に感じる。
時折、俺をチラチラ見て。
「あらあら、見たところ、金髪のあなたは未成年ですよね? まだ本当の愛を知らないんですね」
さっきまで生モノ発言していた人に言われたくない。
「じゃ、じゃあ……男同士がキスしたり…好きになってもいいの?」
ミハイルは悲痛な叫びをあげる。
やはり以前俺が彼に「男のお前とは恋愛関係にはなれない」と言ったことを気にしているのだろうか。
「いい、ボク。この世はすべてにおいて愛で包まれた世界なんですよ。そこに性別や人種、年齢。全て関係ありません。あなたが『スキ』になった気持ちがあるのなら、それは本物の愛です」
おいおい、ここは同人誌の売り場だよね?
痛々しいBLのポスターやフィギュアの前でなに語っているの? コイツ。
怪しい宗教の勧誘みたい。
ま、教祖っぽいよね。
「スキ…ホンモノ?」
言葉を失って、腐女子のお姉さんの洗礼を受ける信者。
「そうです、BLの神は言っています。あなたが自然体であられることを……」
どこどこ? その腐って生臭い神様、おっさん? おばさん?
「そっか……オレの知らない神様はそんなことを言っているんだ」
鵜呑みにしちゃダメ。でたらめだよ。
「きっと、あなたも真実の愛に気がついたのでしょう。ならばこそ、この本をあなたに」
と言って、目を覆いたくなるような薄い聖書が。
「いや、オレは……そんなつもりじゃなくて」
腐女子のお姉さん、いや教祖は優しく微笑んでこういった。
「これも何かの縁です。ケツ穴裂子さんに在庫全部買ってもらえたので、そのサンプルはあなたに差し上げます」
いや、俺の母さんのせいなの?
「あ、ありがとう……大事に勉強します」
顔を赤くして薄い本を受け取るミハイル。
勉強しなくていいから、君は早く一ツ橋のレポートをやりなさい。
「はい、良い心掛けですね。私の作品はネット上にもあるので是非チェックされてください。きっとあなたの愛に対する考えが変わるでしょう」
「うん。スマホで見てみるよ☆」
知らね、もう俺は知らん。
「あ、ケツ穴さんによろしく言っておいてください。袋はサービスしておきますね♪」
ドシンッとテーブルに出されたのは痛々しいBL紙袋が4つ。
これ持って帰るの? しんどい。
「良かったな、タクト☆」
「うん……」
俺の頭は真っ白になっちまった。
燃え尽きた、殺されたのさ。腐女子の皆さんに。
ミハイルはBL神によって洗礼されてしまい、神の子として生まれ変わったのである……。
「こ、これ帰ってねーちゃんにも見せていいかな?」
なにやら嬉しそうに語る15歳。
それ、言っとくけど成人指定食らってるから。
見せたら捨てられるんじゃない?
「やめとけ。そう言うものはコソコソ見るもんだ」
古来からベッドの下、机の引き出しの隙間、押し入れ、本棚にまぎらせる。
などのテクニックがあるが、お母さんというバケモノにかかると掃除ついでに整理整頓されてしまう。
「そうなの? でもさっきの女の人は堂々と売っていたよ?」
「アレはもうこの世の理から外れた人外のものだ……俺らと一緒の目線で生きてない」
人として終わっているんだ。
「ふーん。じゃあさ、ここで店を出している人ってお父さんとお母さんには伝えてないの?」
ファッ!?
それ、一番ダメなやつじゃん。
「あ、あのな……全部が“オトナの商品”ってわけじゃないが、両親に作品を見られるほど屈辱はないと思うぞ。特にコミケなんてもんは」
ウェブ小説時代に母さんが必死にググって俺の作品にたどり着いた時は恐怖すら覚えた。
「でも、いいものは自慢して良いと思うけどな……」
ミハイルは納得していないようで、不満げだ。
「その“良い”っていう表現が限定的すぎるんだよ。いくら素晴らしい作品でも人によっては楽しめないものだ。ミハイルにも好みってのがあるだろ?」
俺がそう言うとミハイルは手のひらをポンと叩いた。
「そっか! タクトがブラックコーヒー好きだけど、オレは飲めないもんな。イチゴミルクとブラックコーヒーの違いみたいなもんか☆」
レベルが段違いですよ。
そんな健全なもので比較しないでください。
ブラックコーヒーに謝って。
BLコーナーを抜けて、俺とミハイルは「次どこに行こうか?」と相談していた。
すると、背後から何やら「ハァハァ……」と荒い息遣いが聞こえた。
振り返ると、すっかり忘れ去っていた腐女子の北神 ほのかが立っていた。
大きな紙袋を6つも両肩にかけ、重そうなキャリーバッグを二つも握っていた。
ちなみにキャリーバッグからポスターやらタペストリーがはみ出ている。
顔色が悪く、真っ青だ。
「ビックリした……ほのかか。お前、大丈夫か?」
「ええ……狩りは終了したわ」
その前にあなた死にそうだよ。
「だ、大丈夫? ほのか。またいつものビョーキ?」
心配して優しく声をかけるミハイル。
というか、BLが病気になってて草。
「だいじょうぶよ……ミハイルくん。いつものことだから…」
毎回そこまで自分を追い詰めてまで、買ってるんですか?
ちょっとバカじゃないですか。
「なんか、キツそうじゃん。オレ、水買ってくるよ!」
そう言って、ミハイルは先ほど買った大きな猫のぬいぐるみを抱えて、去っていった。
放っておけばいいのに、こんなアホ。
~10分後~
「プッハーーー! 生き返ったぁ!」
ミハイルが持ってきたペットボトルを飲み干すとベコベコと握りつぶす。
「良かったぁ、ほのか。病気治った?」
いや一生完治しないから。
「ええ、これで持ち直せたわ。さあ、今度は私のターンよ!」
拳を作って立ち上がるほのか。
「おい、お前もコミケで出店するつもりなのか?」
「ううん、私は商業狙っているから!」
無理だろ。
「しょーぎょう? 学校でも変えるの?」
首をかしげるミハイル。
それ高校ね。
「ミハイル、ほのかが狙っているのはプロ。つまり書籍化だな」
俺が説明に入る。
「タクトみたいな作家さんになりたいってこと?」
「そうだな、俺はこう見えて既にプロ作家だからな」
フッ、コミケに参加している奴らとは格が違うんだよ。
俺が自慢げに語っていると、誰かがこう言った。
「明日は我が身ですよ……」
な、なんだ!? この薄気味悪い声は……。
幽霊か? コミケの落武者? 生霊?
恐る恐るその声の主へと目を向ける。
そこにはコミケにふさわしくない一人の幼女が立っていた。
どうやらコスプレイヤーのようで、日本が誇る国営放送で絶大な人気を誇ったアニメ。
『手札キャプター、うめこ』のコスチュームを身に纏っていた。
左手には大きなピンクのステッキを握っている。
だが、一つだけ訂正がある。
その生き物は幼女ではない、ロリババアが正確な表現だ。
「おい、アラサーがなにコス楽しんでだよ?」
俺は笑いをこらえるのに必死だ。
「誰も好きでやっていませんよ!」
「怒った怒った。うめこのくせして、怒ってやんの」
すかさず、スマホで写真撮っておいた。
「なに勝手に撮ってんすか!? ちゃんと許可とってくださいよ!」
ブチギレる白金 日葵(アラサー)
そこへ通りがかったオタクが白金に声をかける。
「あの、一枚いいですか?」
さっきまでの怒りはどこに行ったのやら。
白金はオタクに顔を向けると笑顔で答える。
「いいですよ~♪ ネットにあげるときは一番カワイイ写真にしてね♪」
そして数枚撮り終えるとオタクは「あざーす」と去っていった。
「大変だな、コスプレイヤーも……」
俺は汚物を見るかのような目でうめこちゃんを見つめる。
「だから違いますって! 仕事です!」
「わかってるよ、博多社の人間には黙っておいてやる」
「このクソウンコ小説家!」
キンキン声が博多ドーム内に響き渡る。
「どうしたの、タクト? この子、迷子なの?」
出た、お母さんモードのミハイルきゅん。
「誰が子供ですか!? ていうか、そんなに若く見えますぅ?」
キレたくせに後半、嬉しそうじゃん。
「若いていうか、低身長で胸がぺちゃんこだから……かな」
それただの悪口だよ、ミハイルママ。
「キーーーッ!」
ほら、怒っちゃったよ。本当のことを言っちゃダメだぜ。
「ところで仕事ってなんだよ? もっとマシな言い訳しろよ」
「いや、本当に今日は仕事で来たんですよ!」
と言って一枚のチラシを手渡す。
俺とミハイルはそれに目を通す。
『急募! 望む、卑猥なBL! その煩悩を書籍化しないか?』
とキャッチコピーと共に裸体の男たちが「アーーーッ!」している。
それを見て俺は吐き気を感じた。
「なんだ……このヤバい代物は?」
「我が博多社にも創設されたんですよ、BL編集部がね」
「ウソ……だろ?」
あの硬派な出版社がついに腐りだしたのか。
「本当ですよ。と言ってもまだ作家さんたちが少なくて、コミケでアマチュアの作家さんたちに声をかけているんです」
「なるほど……ヘッドハンティングか?」
というか下層ハント?
「ま、波に乗るしかないでしょ。このBLウェーブに」
そんな荒れきった津波知りません。
そこへ不気味な笑い声が聞こえてくる。
「フッフフフ……待っていたこの時を」
振り返ると、うつむいて笑みをうかべる北神 ほのかが。
大きな茶封筒を手に。
「この、ビィーーーエル作家の変態女にお任せあれ!」
なぜかジョ●ョ立ち。
マジか、ついにコイツの作品がプロ編集に持ち込みするときがきたのか。
あー、良かった。これで俺はもう変態女先生のネームチェックしなくていいんだよな。
合格しろ、絶対にだ。
「ん? 持ち込みの方ですか?」
「ハイッ! ぜひ、わ、わ、私の作品みでぐだざぁいぃぃぃ」
ゾンビみたい。
「ハイハイ、じゃあ奥のブースにお通ししますね」
白金に案内されて、変態女先生は「ウヒウヒ」言いながら背を向ける。
「これで良かったんだ……。ミハイル、そろそろ帰るか?」
「え? でもほのかも一緒じゃないとかわいそうじゃん」
クッ! 忘れていた。ミハイルが聖母だったことを。
「かわいそうじゃないぞ? ほのかは天国にいけるのだから」
いろんな意味で。
俺が悪だくみを企てようとしていたのが、ダダ洩れだったのか。
白金が声をかけてきた。
「なにやっているんですか? DOセンセイもこの際ですから見学していってください」
「ハア!? お、俺はもうプロデビューしてるしっ!」
言いながらも声が震える。
「今度のラブコメが売れなかったら、BL作家に転身しなくちゃいけないかもですよ? 勉強していってください。これは業務命令ですよ!」
なにそれ、パワハラで訴えてもいいですか?
「よくわかんないけど、これも取材ってやつだろ☆」
隣りを見るとそこには天使の笑顔が……。
俺は無理やり、博多社のブースに連れていかれた。
小規模だが企業として出展しているようだ。
ラノベのポスターやアニメ化決定などの告知。
宣伝も兼ねてのマンガ持ち込み企画らしい。
パイプイスが並べられて、奥に一人の女性スタッフが机の前に座っていた。
どうやらあの女性が原稿をチェックするらしい。
俺とミハイル、それに変態女先生こと北神 ほのかの3人は白金 日葵に誘導されてイスに座る。
博多社創設以来のBLマンガ雑誌が創刊されることもあって、かなりの人だかりだ。
というか、全員女性の作家さん。
「なんで俺までここにいなきゃならないんだよ……」
そう愚痴をこぼすと、そばで立っていた白金が言う。
「だってDOセンセイは取材しないとダメなタイプでしょ? 今後、マンガ家のキャラとか書くのに勉強しておいたほうがいいですよ。小説は持ち込みとかないですしね~」
すいません、マンガ家だけ優遇するのやめてもらえます?
同じ作家なんだから、小説も持ち込みOKにしてつかーさい。
「でも俺は原稿なんて持ってきてないぞ? そもそも絵心ないし、マンガ家目指してないし」
「DOセンセイは黙ってこの風景を目に焼き付けてください。それが小説家としての仕事でしょ!」
ええ……そんなお仕事はじめて聞いたんすけど。
だが、白金の言うとおり、俺はマンガ家さんが持ち込みする光景はテレビでしか見たことがない。
まあいい機会だ。見せてもらおうか、新人マンガ家の性能とやらを!
俺はイスで待機している女性陣を一望した。
見渡す限りに真っ黒! ウーメン・イン・ブラック。
何がって? 髪の色も然り、服装も然り、全てが黒づくめ。
悪の組織かってぐらいに全員、闇落ち。
皆、大人しそうな人ばかりで、とてもBLマンガを描いているような人たちには見えない。
だが、微かに声が聞こえてくる。
「シュルルル……殺す、この原稿で他の作家を殺す!」
「フッ、どんな手を使ってもこいつらを蹴落としてやる」
「お父さんごめんなさい……勝手に親戚のおじさんと絡めちゃった」
え? 最後だけノンフィクション作家がいたけど。
肖像権、大丈夫ですか。
しばらく待っていると、俺たち……じゃなくて、変態女先生の番が回ってきた。
「では、次の方どうぞ!」
ハキハキとした物言い。
スーツ姿に眼鏡の女性が言った。
どこかで見た顔だな。
まあ博多社の社員だから会ったことかあるかもな。
「は、はいぃぃぃ!」
原稿を抱えてピンコ立ちするほのか。
さすがの変態女先生も緊張されているようだ。
「大丈夫、ほのか?」
心配そうに見上げるミハイル。
「だ、だ、だ、大丈夫だってばよ!」
全然、だいじょばない。
岸影先生に謝ってください。
「ほれ、行くぞ。ほのか、緊張するのはわかるが見せないことには評価はつけられんぞ?」
「う、うん……」
いつになく元気ないな。
「ファイト! ほのか☆」
そして、小学校の親子受験みたいに、左から俺、ほのか、ミハイルが同伴者として並んで座った。
長い机を隔てて、編集部の女性が眼鏡を光らせている。
ほのかはぎこちなく茶封筒から原稿を机の上に置くと「お願いします」と呟いた。
女性が原稿を受け取った際、ほのかを囲んでいる俺とミハイルに気がついたのか、いぶかし気に交互に睨む。
そして、俺を見つめてこう言った。
「あら? 琢人くんじゃない」
「え? なんで俺のことを……」
「私よ、倉石」
そう言うと眼鏡を取って、笑顔を見せる。
「あ、倉石さん!? なんであなたがこんなことを?」
倉石さんは博多社の受付嬢である。
俺の担当編集の白金とは同期らしいので、アラサーだ。
普段、眼鏡をかけてないので気がつかなかった。
「私、来月付けで転属することになったのよ。しかも編集長よ!」
なにやら嬉し気だ。
「へぇ……」
けど、BLマンガ雑誌の編集ですよね? すぐに廃刊しませんか?
そこへ白金が入ってくる。
「そうなんですよ、この白金を差し置いて、イッシーが編集長とかムカつきますよ」
「あらあら、ガッネーたら、嫉妬なんてみっともないわよ。そんなんだから独身なんじゃない?」
睨みあうアラサー女子たち。醜い光景だ。
イッシーとかガッネーとかあだ名がダサすぎる。
「DOセンセイ、イッシーが今回創設された"ハッテン都市 FUKUOKA”の編集長に抜擢された理由知ってます?」
いや、その前に雑誌名酷くない? 売る気ある?
「知らないよ」
超どうでもいい。
「イッシーって万年受付嬢じゃないですか。電話とお茶くみと案内ぐらいしかできない無能のくせに」
おいおい、そりゃ女性蔑視ってもんだろう。
昭和か。
「ガッネーだっていつまでも”ゲゲゲ文庫”売れっ子作者出せてないじゃない!」
倉石さん、それって俺のことですか?
「フン、DOセンセイの次回作でぼろ儲けしてやんよ!」
責任重大、こんなアラサーの出世に力を貸したくない。
ていうかさっさと原稿読んでやれよ。
「白金、それで倉石さんが編集長に抜擢された理由とは?」
「あっそうそう、ガッネーっていつも一階のカウンターで暇じゃないですか。だから受付でずっとBLマンガばっか読んでたんですよ」
職務怠慢、解雇しては?
「それに社長が目をつけて編集長になったわけです」
おたくの会社、もう終わってんだろ。
「それもスキルのうちよ。さ、ガッネーはチラシ配りを再開してね♪」
「チッ、あとでハイボール奢れよ、クソが!」
と唾を吐きながら去っていく幼児体形。
なんとも大人げない二人だ。
「部下がごめんなさいね、あとできつく叱っとくわ♪」
ええ、もう下剋上始まってんすか?
「は、はぁ……」
倉石さんは笑顔だが、怖い。
「じゃ、原稿読ませていただきますね」
「お、おなーしゃす!」
テンパりすぎだろ、ほのかのやつ。
「あの、ほのかはいいヤツなんでよろしくっす!」
お母さんじゃん、ミハイル。
じゃあ俺がお父さん?
嫌だよ、こんな腐った娘。
倉石さんは眼鏡をかけなおすとじっくり原稿を一枚一枚読む。
その目は真剣そのものだ。
時折、「ん?」と言って手が止まったりしている。
それが是か非かはわからないが。
なんだか俺までドキドキしてきたな。
小説家としての『DO・助兵衛』は白金によってウェブからスカウトされたから、俺はこういうピリッとした空気に慣れてない。
倉石さんは原稿を最後まで読み終えると、深い息を吐きだした。
「これ……本当にあなたが描いたんですか?」
ギロッとほのかを睨みつける。
「あ、はい!」
声をあげたと同時にふくよかな胸がブルンと震えた。
「評価から言いますと中の下です」
普段、受付でニコニコ笑っている倉石さんとは思えないぐらい冷たい顔で言った。
「そう……ですか」
肩を落とすほのか。
「ほのか、元気だせよ。次があるって、お前ならやれるよ」
背中をさするミハイルママ。
過保護は良くない。
「わ、私なんかどうせ読み専腐女子よ……」
それもいいんじゃない?
「ヨミセン? なんのこと? とにかくあきめらちゃダメだぞ、ほのか」
ほらぁ、ママを困らせちゃダメでしょ、腐女子のくせして。
「ゴホン」
わざとらしく咳払いでほのかとミハイルの会話を静止させる倉石編集長。
「あくまでも全体的な評価です。勘違いしないでください」
「どういうことです、倉石さん?」
俺がたずねると彼女はニッコリ笑った。
「結論から言いますとスッゲー抜けそうなマンガです♪」
「あぁ!?」
年上なのに思わずキレてしまった。
「絵の方はお世辞にも上手いほうではありません。ですが、ストーリーが実に素晴らしい。特にメインヒロインのキモいおっさんが最高ですね♪」
え? おっさんがヒロインってよくわかったね。
「じゃ、じゃあ……」
ほのかは生唾をゴクンと飲み込んで次の言葉を待った。
「残念ながら今回は見送りです」
「やっぱり……」
涙目になるほのか。この時ばかりは少し同情した作家として。
「ですが、この才能をよその編集部に獲られるのは癪です。ぜひこれからもうちの編集部に持ち込みしませんか? あなたはきっと磨けばダイヤモンドより輝くでしょう♪」
なんかその宝石、臭そう。
「やったな、ほのか!」
「うん、私これからも抜けるBL本書き続ける! ありがとう、ミハイルくん、琢人くん!」
大粒の涙を流しながら、彼女は俺とミハイルを抱きしめた。
ちょっといいですか?
おたくのデカい乳がボインボイン当たってキモいんでやめてください。
変態女こと北神 ほのかの初原稿は却下されたものの、倉石編集長の薦めでこれからも編集部に出入りすることになった。
帰り際、倉石さんは「変態女先生は原作向きかも?」とアドバイスをもらった。
要はもっと画力の高い人に描いてもらうということだ。
なんかマンガ家さんの方が書籍化のチャンス高くね? と思うのは俺だけだろうか。
そんなことはさておき、ほのかは嬉しそうに笑っている。
「よかったぁ。琢人くんとミハイルくんのおかげだよぉ」
いや、俺たち何もしてないからね?
実力じゃん、良かったね。
「まあとりあえず、一歩前進といったところだろ。商業デビューしてからが地獄だぞ?」
ソースは俺。
デビューして3年も経ったのに売れない作家ですもん。
「オレ、ほのかがデビューできたら絶対に買うよ☆」
目をキラキラ輝かせるミハイル。
やめておけ、目が腐る。
「ありがとう! ミハイルくん」
あほらし、今日って俺のラブコメの取材じゃなかったけ?
「じゃあボチボチ帰るか?」
「そうだね、今晩のおかずは全部買えたし♪」
と言って大量の薄い本を見せつける。
大半がモザイク必須である。
「オレも楽しかったぁ☆ コミケまたきたいな☆」
そう言って可愛らしいネコのぬいぐるみを大事そうに抱えるミハイル。
もう来ない方がいいよ、君は無垢なままが素敵だから。
そんなこんなでなんとか、ミハイルちゃんの初めてのコミケデビューは幕を閉じた。
バスに乗って博多駅に着くと、ほのかは「私、反対方向だから」と別れを告げた。
「またな、ほのか☆」
「うん、ミハイルくんもBL漁るの頑張ってね!」
去り際にさらっと洗脳すんな!
「よくわかんないけど、頑張るよ☆」
頑張らなくていいから。
ほのかの後ろ姿を見送ると、俺とミハイルは二人っきりになった。
なんだかこっぱずかしい気持ちになった。
最近はミハイルと一緒にいることが少なかった。
どちらかというと女装したアンナといることが多い気がする。
「なあミハイル、小腹でも空かないか?」
何となく、会話が途切れそうで怖かった。
話題なんてどうでもよく、腹も別に空いてないのだが。
「オレ? そうだなぁ、じゃあどっかでお菓子でも買う?」
首をかしげるミハイル。
あの、お菓子って遠足じゃないんだから……。
「お菓子……。そうだな、この辺でアイスでも買って電車で食うか」
「それいい☆」
えらくご機嫌だな。
まあ俺もミハイルの笑顔が見れて嬉しかった。
博多駅前広場には季節限定の屋台がたくさん並んでいた。
ゴールデンウィークということもあって、北海道の物産展が開かれていた。
「あ、白いミルクをたくさん使ったソフトクリームだってよ☆ タクト!」
のぼりを指差してテンション爆上げミハイルさん。
「なるほど、限定ものか。あれにしよう」
「うん☆」
お目当ての店についたが、若い女性やカップルで長蛇の列だ。
かなり待たないといけないな。
~10分後~
ようやく、俺たちの番だ。
そう思ったその時、若い女性店員が申し訳なさそうな顔でこういった。
「お客様、申し訳ございません。もう在庫がなくて、あとお一人様分しか販売できません。どうされます?」
「え、マジか……」
さすがに男同士でアイスを共有するのはしんどい。
ミハイルには悪いが断っておこう。
俺が店員に返答しようとしたその時だった。
「全然OKっすよ☆ オレらダチなんで☆」
隣りを見れば満面の笑顔で答えるミハイルの姿が。
「ああ、助かります。では、380円になります」
俺が呆気に取られているとミハイルが財布から小銭を取り出し、支払いを済ませる。
気がつけば、彼の手には真っ白な北海道産ミルクで作られたソフトクリームが。
「さ、食いながら帰ろうぜ☆」
「え……」
さすがにその発想はなく、俺の頭がフリーズしていた。
「一つしかないんだから、一緒に食べるしかないじゃん☆」
「ま、まあそうだが……いいのか? 俺とその…食べることに抵抗はないのか?」
俺の疑問を吹っ飛ばすかのように、ミハイルは高笑いした。
「アハハハ! ダチなんだからこんなことフツーじゃん☆」
「そうなのか…」
俺は依然と彼の行動に驚きを隠せずにいた。
女装時のアンナならここまで積極的なこともできそうだが、男装時のミハイルがこんなに優しいなんてな。
意外だ。
「はい、タクトから舐めていいよ☆」
小さくて細い指で大事そうにソフトクリームを俺の口の前に差し出す。
「お、おう」
俺は遠慮がちに一口パクッと食べた。
「おいしい?」
「そうだな、濃厚なミルクの味がなんとも……」
と俺がグルメインタビューに答えようとしていたら、ミハイルはソフトクリームをペロリンと舌でひとなめ。
「ペロ…ペロペロ……んぐっ、んぐっ。ふぅ大きくて太いから顎が疲れちゃいそう☆」
あの、そういう表現やめてもらえません?
「じゃあ電車に向かうか?」
「うん、タクトも遠慮しないでちゃんと食えよ☆」
そう言って、彼がなめまわした部分を口に寄せられる。
思わず、生唾を飲んでしまった。
間接キスになるまいか?
「ほら、早く食えよ? 溶けちゃうぞ?」
ええい、ままよ!
俺はあむっと一口でいっぱい食べてしまう。
恥ずかしさもあってかだろう。
「ああ、タクト。ずっこいぞ! オレは口が小さいからゆっくりなめるのが好きなのに!」
頬をふくらますミハイルも可愛い。
「わ、悪い」
俺とミハイルはそのまま電車に乗ると、車内で立ったまま、交互にソフトクリームを舐めあう。
「ペロペロ……チュパッ。はい、タクトの番☆」
おちつけ、落ち着くんだ琢人。
こいつはミハイル。俺の男友達。アンナちゃんじゃないのよ!
「ああ……」
俺も恥ずかしながら、レロレロなめる。
「ハハハ、タクト。唇にクリームがいっぱいついちゃったな☆」
ミハイルはそう言うとピンク色のレースのハンカチで俺の口を拭う。
「あ、ありがとう」
「いいって。それより早く食べちゃおうよ☆」
そして、また俺がレロレロ、ミハイルがペロペロ……が延々と続いた。
辺りに立っていた若い女性たちがこちらを見て何やら囁いていた。
「ちょっ、あの二人やばくね? 車内でなめあうとかホテル帰りじゃね?」
「絶対、抜きあったあとだよ。そのあと、栄養補給にミルク摂取とか、どんだけ元気なんだか」
「どっちがタチでネコかな?」
貴様ら! 勝手に想像すな!
俺が腐り疑惑のある女性陣に目を取られたその時。
電車が急ブレーキで激しく揺れた。
「うぉっ」
「キャッ!」
咄嗟にミハイルの身体を抱きしめた。
身体の軽いでは倒れそうだと不安だったからだ。
時間としてはたった数秒だったのだが、何時間にも感じた。
俺の首元に伝わる彼の唇はほのかに冷たい。
だが、とても心地よかった。
小さくて少しこそばゆいミハイルのやわらかくて小さな唇。
そして微かに感じる体温。
このまま抱きしめていたい……そう思っている俺は頭がおかしくなってしまったのではないか?
そう思っていると車内にアナウンスが流れる。
『大変申し訳ございません。踏切の前に猫が入ってきまして、なんとか事故は防げました。お客様にはご迷惑をおかけしております』
車掌の声で俺は我を取り戻す。
ミハイルから身を離すと、彼は顔を真っ赤にしていた。
「あ、あの……守ってくれたの?」
上目遣いでどこか恥ずかしそうに俺を見つめる。
「いや、その咄嗟で悪かった…」
俺もどこか歯切れが悪い。
「いいよ……タクトがオレのこと大事に思ってくれたんだよな? ダチとして」
「まあ…な」
先ほどまで仲良くソフトクリームをシェアしていたというのに、ぎこちなくなってしまう。
しばらくの沈黙のあと、彼はこう言った。
「なあタクト……一つだけ言っていいか?」
「お、おう。なんだ? 何でも言ってみろ」
彼の答えに俺は密かに期待と不安を覚えた。
「言いにくいんだけど……」
顔を赤くしちゃって、可愛いやつだ。
「ダチだろ? 何でも言え」
ミハイルのことだ。「もう一回抱きしめて」なんて言うんじゃないのか?
「あのな……タクトのTシャツにソフトクリームぶつけちゃった……」
「え?」
俺は自身の胸元を見ると、べったりと白く染まったTシャツに気がつく。
その後、肌にぬるくて気持ち悪いの感触が伝わってきた。
列車が真島駅に着く。
「じゃ、俺帰るわ」
ちなみにTシャツが白濁液でびちゃびちゃなんだけどね。
ミハイルが申し訳なさそうに言う。
「あ、あの、タクト。ご、ごめんな」
「気にするな。それより、気を付けて帰れよ」
「う、うん……またな☆」
俺が列車から降りると、ドアがプシューと音を立てて閉まる。
振り返るとミハイルが胸元で手を組み、今生の別れを惜しむように俺を見つめていた。
俺は大量のBL本をえっさほいさと自宅に持って帰る。
自宅兼美容室である『貴腐人』のドアノブに手を掛けると例のイケボ声優の甘ったるい声が流れる。
「ここが……いいの?」
セリフ変わってやがる。
店に入ると珍しくたくさんのお客さんでごった返していた。
狭い店内に10人ぐらいは集まっていた。
全員マダム。
母さんの美容室は基本一人ひとり丁寧に対応することを売りにしているため、客は完全予約制、こんなに人がいるのはおかしい。
「あら、おかえり♪ で……例のブツは?」
眼鏡を鋭く光らせる真島のゴッドマザー。
なるほど、そういうことか。
「ただいま……これだろ」
やっとのことでクソ重いBL本を手から離すことができた。
俺が床に紙袋を置いた瞬間だった。
近くに立っていたマダムだちが豹変する。
さっきまでニコニコ笑っていたのに、奇声をあげる。
「きしぇぇぇ!」
「グルァァァ!」
「あは……アハハハ!」
ヤクでもキメてます?
それからは餌にむらがる獣のようにBL本を漁りまくる。
もちろん、俺の母親も例外ではない。
その醜態を確認すると、俺はどっと疲れが出た。
腐った女性陣をあとに階段を昇り、自宅である2階へと向かう。
シャワーを浴びて、汗を流すとエアコンをつけて涼しい部屋で泥のように眠った。
~次の日~
夜明けにスマホのアラームで目が覚める。
朝刊配達へと向かうのだ。
自宅の扉を開けようとしたそのときだった。
吹き飛ばされそうな強風が襲う。
「うわっ!」
思わず声が出てしまうほどだ。
おまけに頬に叩きつけるような大雨。
「こりゃ今日は荒れるな……」
嫌な予感がする。
長年、新聞配達をしていると嵐の日ほど苦労するものだと熟知している。
とにかく、朝刊配達というものはどんなことがあっても休みなどないのだ。
自身の身体が壊れない限り……。
なんてブラック企業。
俺は暴風と大雨に身体を揺さぶられながら、自転車のペダルをこぎ出す。
といっても道中何回もこけるので、途中から下りて押して歩いた。
いつもより3倍も時間をかけて、毎々新聞の真島店にたどり着く。
中に入ると店長があたふたしながら新聞を大型の機械に入れていた。
この機械は新聞紙をビニール包装するものだ。
そして奥では別の配達員が新聞紙の間にチラシを素早く織り込んでいく。
「あ、琢人くん! よく来れたね!」
配達店についたときは既に全身びちゃびちゃに濡れていた。
「まあ、いつものことですから」
大雪に比べたらましだ。
「さすが琢人くん。今日は一日台風みたいだよ?」
「え、マジっすか? 昨日まで天気よかったのに……」
ここで俺はなにかを忘れているような気がした。
ん? 今日って何か予定があったような……。
俺が必死に思い出そうとしたその時だった。
店長が奥からバイクを出してきた。
「はい、琢人くんの分! 真島は海が近いから波に飲まれて死なないようにね♪」
優しい笑顔で怖い事いうのやめてくれます?
「じゃ、いってきまーす」
俺はバイクのエンジンを吹かすと出発した。
配達中ゴミ袋が風に乗ってブッ飛んできたり、木が折れたり、この世の終わりのような風景を目の当たりにした。
例年にないような台風だな……。
※
何度もバイクを倒したりしたが、無事に配達を終えることができた。
だが、その間もずっと嵐はおさまることがない。
なんとか帰宅すると、シャワーを浴びる。
そして、スマホの通知画面を見ると41件もあることに驚いた。
「誰だ?」
メールとL●NEのコンボ。
ミハイルとアンナの二人からだ。
というか、ひとりでよく使い分けるよな。
『大丈夫か、タクト死んでないか?』
『新聞配達気をつけろよ!』
『オレも一緒に配達しようか?』
その前にきみが真島までこれないでしょ。
お次はアンナさん。
『タッくん、台風だいじょうぶ?』
『お仕事終わったらホットミルクでも飲んで身体を暖めてね』
『アンナ、泣いてるよ。タッくんが上半身裸でバイクに乗っているところを想像すると……』
ちょっと、なんで卑猥な妄想入ってるんすか?
さては昨日のBL本を読んだせいだな……。
俺はため息と共に苦笑する。
なんだかんだ言って、こいつ……いや、こいつらは俺のことを慕ってくれているんだな。
悪い気分じゃない。
無事に仕事を終えたことを"ふたり”に返信しておく。
すると一秒もしないでほぼ同時にメールとL●NEが送信されてきた。
ハッカー並みのタイピングでもしているんですかね?
『おつかれ! タクト☆』
『えらいね、タッくんってば☆』
ちょっとここまで来ると恐怖を感じますねぇ……。
それからしばらくミハイルとアンナの順に交互に連絡を取り合う。
リビングに来ると母さんが朝食の準備をしていた。
妹のかなでも眠そうにテーブルの前に座っている。
ちなみにノートPCを置いて朝から大ボリュームで男の娘もののASMRを流していた。
『はあああん! お兄ちゃ~ん、ボクなんかで……あああああ!』
これだからこの家は嫌なんだ。
「かなで。いつも言っているだろ。ノートPCは自室だけにしろと」
「なんでですの? BGMに最適でしょ?」
屈託のない笑顔で返すかなで。
「アホか、死ぬわ」
俺はコーヒーを淹れながら汚物を見るような目で見下す。
「そう言えば、死ぬといえば……タクくん大丈夫だったの?」
キッチンから母さんが目玉焼きを乗せた皿を二つ持って現れる。
「ん? なんのことだ?」
「あれよ」
そう言うと母さんはリビングの奥にあったテレビを指差す。
ちょうどローカル番組が放送されていて、若い女子アナが暴風のなか、ヘルメットにレインコート姿で映っていた。
『今年初めてとも言っていい……台風5号ですが、きょ、きょう…一日続くようです』
細い身体の女性は何度も身体を強風で揺さぶられ、フラフラしていた。
それはカメラも同様だ。映像がグラグラと不安定だ。
モニター越しでもヤバい天気だということがよくわかる。
『視聴者のみなさんは……不要不急の外出はおやめください……それではスタジオにお返しします』
中継先から静かなスタジオに映像が移り変わると、福岡では有名な男子アナ、島々浩二がこう言った。
『今日は‟博多どんたく”ですが中止でしょうね……』
「ん……」
俺は博多どんたくという言葉が引っかかった。
「残念ですわね、どんたくの男の娘パレード楽しみにしてたのに」
「そんなものやるか」
ツッコミを入れたが、今のご時世ならあるかも。
「あらあら、ゴールデンウィークの醍醐味だというのにね……」
母さんがそう言うと俺は微かな記憶がよみがえる。
そうだった。
今日は三ツ橋高校のJK、赤坂 ひなたと博多どんたくをデートするという取材の日だった。
「フッ、勝ったな」
俺は小さく拳を作り、ガッツポーズを決める。
めんどうくさいあのJKとのデートは台風という一大イベントで潰れたのだ。
すると、そのときスマホにメールが入る。
噂をすれば、赤坂 ひなただ。
『センパイ、台風ですね。でもどんたくは中止したとしても取材はしましょうね♪』
ファッ!?
命がけのデートですか……。
ちょっと、僕。遺書書いときますね。