目の前に小さな男の子がいる。外から聞こえる子供達の楽しそうな声の中に入らず、熱心に絵を描いている。男の子は外で遊ぶ子供達を見てぽつりと呟いた。
「いいなぁ」
──どうして一緒に遊ばないのだろう?

 目が覚めると眩しい朝日に照らされた。まだ眠い目を擦り、今日の日付を確認する。あれから2週間が経ったのに、夕海さんとは1度も会っていない。僕は毎日美術室に行っているのに、彼女は少しも顔を見せないのだ。彼女のクラスは分からないし、なにせ友達が少ない僕には誰かに聞く勇気もない。深い溜息吐いて学校へ行く準備を始める。今日は会えると僅かな期待を抱きながら。

 学校に着いて、真っ先に美術室へ向かう。いつもは教室に行くけど、今日は何故か会える気がした。
扉を開くと、やっぱりいた。朝日に照らされ、展示された僕の絵を見ている彼女が。
「おはよう、渉くん」
僕に気付いた夕海さんは微笑んで言った。
「おはよう、2週間ぶりだね」
少しの皮肉を込めて言えば、夕海さんは困ったように笑った。
「ごめんね、なかなか来れなくて。それより、今日はいいものを持ってきたの!」
先程の表情から一変、夕海さんは嬉しそうに笑った。
「いいもの?」
「じゃーん!」
夕海さんが見せたのは最近できたと話題の水族館のチラシだった。
「ここに、朝倉先輩と行ってきなよ!」
「ちょっと待って!それと僕の特訓とどう関係があるの!?」
「人がダメならまずは生き物から。ついでに朝倉先輩との距離も近くなるでしょ?」
「い、意味がわからない…それに、僕に朝倉先輩を誘う勇気なんて…」
「渉君ならきっと大丈夫」
その時の夕海さんはとても真面目な顔をしていて、夕海さんのその言葉は僕の心の奥底にストンと落ち、不思議と勇気が湧いてきた。
「…分かった。やってみる」
夕海さんは安心したように笑った。

 「内海」
声のした方を見ると、少し不機嫌そうな水野くんがいた。彼は普段無気力という言葉が良く似合う人だが、作品を作っている時はとても生き生きとしてる。部活でその姿を見かけた時はいつも僕まで元気をもらっている気がするので、僕は密かに感謝している。
「やっと気付いた。何回呼んだと思ってるんだよ。朝からぼーっとしすぎじゃない?」
どうやら僕は、朝倉先輩をどう誘うか悩んでいるうちに今日一日中他のことがうやむやになっていたらしい。
「ご、ごめん」
「まぁ、もういいよ。それより、今日は部活ないから」
「えっ!?なんで…」
「この前美術室の空調が壊れただろ。それを今日業者が直しに来るらしい」
「そ、そうなんだ…」
「じゃ、ちゃんと伝えたから」
「あ、ありがとう…」
去っていく水野君の背中を呆然と眺めながら僕は絶望していた。
部活がないなら朝倉先輩が美術室に来ることは絶対にない。そうなると僕の方から会いに行かなければ誘う機会はほぼない。
(今日くらいにバレー部を覗くしかないか)
僕は緊張と焦りに頭を抱えていた。

 夕海さんに貰った水族館のチラシを持って体育館に向かう。ボールを呼ぶ声やボールを叩く音が大きくなるにつれ僕の心臓はどんどん脈打つ。恐る恐る体育館を覗いてみるが、バレー部の他にもバスケ部も同じ体育館で部活をしているので朝倉先輩をすぐに見つけることが出来ない。
「いない…?」
「だーれ探してるのっ!」
「うわぁ!?」
振り向いてみると、そこにはクスクスと笑っている朝倉先輩がいた。嬉しさと恥ずかしさで頬が上気するのがわかる。
「驚かせちゃってごめんね。誰かに用事?良かったらったら呼ぶよ」
「あ、朝倉先輩に…」
「私?」
「あのっ今度の日曜日空いてますかっ?」
「うん、空いてるよ。もしかして、それ?」
そう言って、朝倉先輩は僕の持っている水族館のチラシを指さした。
「は、はい。」
「ちょっと見せてくれる?」
チラシを見た朝倉先輩はどこか悲しげで、どこか嬉しそうな表情をしていて、その時の僕には朝倉先輩の気持ちを理解することは出来なかった。
「行こっか」
「え?」
「水族館」
顔をあげた朝倉先輩はいつもの太陽のような笑顔だった。

 家に帰り、「ただいま」と母さんに言って平然を装いながら自分の部屋へ駆け込む。大きく深呼吸してベッドに飛び込む。
「よっしゃーーーーー!!!」
布団でくぐもった声が静まる部屋の空気を震わせた。家中を飛んだり跳ねたりしたい気分だ。あまりの嬉しさに階下で母さんがご飯できたよ、と言っていたのにも気づかなかった。痺れを切らした父さんが僕を呼びに来たが、僕があまりにもにやにやとしていたからか、驚いたような表情をしたが、すぐにいつもの無愛想な顔に戻って遅いぞ、と言って階段を降りていった。
「最近どう?」
3人で黙々と夕食を食べていると、母さんが口を開いた。
「誰に聞いてんだ」
父さんがぶっきらぼうに聞く。
「2人によ」
母さんはそんな父さんの態度を気にせず、いつものように朗らかな笑顔を保っている。笑って許すことは愚か、イラッとしてしまう僕はやはりまだ子供なのだろうか。
「俺はいつも通りだ」
そう言ってまた父さんは食事に集中する。
「僕は、まぁ普通だよ」
「勉強はちゃんとしてるのか」
「あなた」
ここぞとばかりにきつい口調で質問した父さんを母さんは優しく、かつ厳しい口調で制した。
「ちゃんとしてるよ」
「渉はきちんとしています。もう少し信用してあげてください」
またしてもきつい口調で言う母さんに父さんはさすがに萎縮した。
「絵は、まだ描いているのか」
先程より少し遠慮がちそうに父さんは質問した。しおらしい父さんは新鮮で、明日は槍か、と心の中で呟いた。
「描いてる」
父さんはその返答にそうか、とだけ呟き、今度こそ食事に集中し始めた。「友達と仲良く出来てる?いつでも家に呼んでいいのよ」
「いつかね」
父さんと似たような素っ気ない言い方をしてしまったことに気付いて言い直そうと思ったが、母さんは目尻の皺をより一層深めて、
「そうね」
と呟いた。母さんは朝日のように優しく眩しい笑顔で笑っていた。

 けたたましい音が部屋中に響いている。はっきりとしない視界と頭でなんとかその音を止めるが脱力し、再び目は閉じようとする。
(今日は日曜日…学校は休み…)
ハッとしてベッドから飛び起きる。
(今日は日曜日!朝倉先輩と水族館に行く日!)
時計を見ると集合時間まであと45分。家から集合場所まで15分。間に合う時間ではあるが、朝倉先輩を待たせなくない。なにより…
(早めに行ってかっこよく待っていたい…!)
バタバタと忙しなく動き、階下に行くとリビングからひょっこりと母さんが顔を出した。
「どこか行くの?」
「友達と遊びに…」
それを聞いた母さんの顔は一気に明るくなった。
「楽しんで来てね。気をつけていくのよ」
「分かってる」
僕が玄関のドアを開けようとすると、リビングから母さんが出てきた。
「渉」
閉まっていく玄関の隙間から見えた満面の笑みを浮かべた母さんは
「行ってらっしゃい」
と言った。
「行ってきます」
少し照れてしまい、小さな声になり、玄関も締まりかけていたから母さんにきちんと聞こえていたかは分からなかったけど、僕は満足した。広大な青空の下で大きく一歩を踏み出し、今日はいい日だ、と呟いた。

 朝倉先輩が集合場所に来たのは、集合時間の10分前だったが、開口一番に
「遅くなってごめんっ!」
と平謝りされたのにはとても驚いた。まだ約束の時間まで10分もありますよ、と言えば
「先輩として、かっこいいところ見せたかったのにな」
と少し拗ねたように言う先輩は、いつもバレーをしている時には見せない表情をしていてドキッとした。
水族館は新施設で期待値が高かったこともあってか、多くの人で賑わっていた。特に小さな子供連れを家族が多いが、カップルも沢山いた。
「わー!すっごい人だねー!」
そう言う先輩の目はとてもキラキラしていて、周りにいる小さな子供達と同じようにはしゃいでいた。
「行きましょうか」
「うん!楽しみだねっ!」
先輩は見るからにウキウキした様子で、僕もつられて姉妹、緊張なんか吹っ飛んでしまった。
 館内は暗く、魚がよく見えた。大きく立派なジンベイザメや色鮮やかな小魚達が眼前に広がっていた。幻想的とはこういうことを言うのだろうか、あまりの美しさに感嘆の声を漏らしていた。朝倉先輩も先程の元気な様子から一変、この光景に圧倒されたようで見惚れている様子だった。僕達はその大きな水槽に吸い寄せられるかのように近づいた。
「懐かしいな」
不意に朝倉先輩は呟いた。
「水族館、久しぶりなんですか」
「うん。前は結構な頻度で行ってたんだけど、学校が忙しくて行く機会も少なくなっちゃった」
そう言って、先輩は困ったような顔をした。
「水族館、好きなんですね」
「うん。でも、私より妹の方が好きだよ。あの子、本当は海が好きなんだけど、海は遠くてなかなか行けないからお父さんとお母さんが水族館に連れてったの。そうしたらことあるごとに水族館に行きたがるようになっちゃって」
先輩は楽しそうに笑うから、本当に妹さんのことが好きなんだろう。僕はそれを微笑ましく思えて、思わず笑みが溢れた。
「妹さんは幾つなんですか?」
「…14歳。中学二年生だよ。私と一緒で、中学からうちの学校通ってる」
「え、じゃあ僕も廊下とかですれ違ってるかもしれませんね」
「もしかしたら知り合いだったりして…!!」
「僕は交友関係は狭いし、外部生なので中学生とは接点ないですよ」
「あの子、気に入った子には誰彼構わず話しかけたりしちゃうから」
僕達は笑いあった。まさか、会ったこともない先輩の妹さんでこんなに盛り上がるとは思いもしなかった。
「川合先輩は妹さんとも仲が良いんですか?たしか、川合先輩と朝倉先輩は幼馴染なんですよね?」
「うん!美奈とはずっと親友!幼稚園の頃から一緒なの!」
「良いですね、そういうの」
先輩は誇らしげに笑った。
「私達3人で一度だけ大冒険をしたことがあるんだよ」
「どんなことしたんですか?」
先輩は楽しそうに笑った。
「いつだったか、私は『人魚姫』の絵本を妹に送ったことがあるの。妹は喜んで読んでくれたんだけど、最後まで読んだら、「どうしたらおひめさまはしあわせになるの?」って大泣きしちゃったの。当時の私はどうすることも出来なくて困ってたら、お母さんが「青い鳥を見つければいい」ってそう言ったの」
「『青い鳥』ですか?」
「うん。幸せを呼ぶ青い鳥。それから妹は「おひめさまをしあわせにする!」っ言って、青い鳥を探すようになったの。私と美奈はその青い鳥探しに付き合って、探してるうちに気が付いたら全然知らない所にいた、なんてしょっちゅうあったの。両親には何度も怒られてた」
「たしかに、それは大冒険でしたね」
「でしょ?沢山怒られたけど、色んな発見もあったからすごく楽しかったな」
それからはイルカショーやふれあいコーナーなどを回って一時を楽しんだ。僕にとって今日のこの出来事はとても幸せな思い出となった。しかしそれと同時に先輩と妹さんの話を聞いて、固く結ばれた家族の絆に少し嫉妬したことは僕の胸に納めておこう。