(早く、早く絵を描きたい…!)
その一心で階段を駆け下りる。今日はどんな景色を描こうかとわくわくさせながら扉を開く。
扉を開いた先は美術室。今日まで定期テストだったから、美術担任の伊藤先生は学校に来ていない。今日はきっと残りの美術部員も来ないだろう。誰もいない美術室。今は僕だけの特別な場所。一年とちょっとしか経っていないのに、僕にとってはかけがえのない場所。画材を準備して海を描く。小さい時父さんに連れてってもらい、肩車をしてもらいながら見た、夕日に照らされた海。あれから何度か海を見ても、あの日の海は何故か特別だと思えた。あの日の風景が忘れられなくて、何度も描いている。
(楽しい、楽しい、楽しい!)
目の前で描かていく穢れのない、美しい景色。灰色の世界が唯一色付くこの瞬間が僕を1番幸せに感じさせる。絵を描くことが己の宿命だと錯覚してしまうほどに。気付けば既に日が傾いていた。
(そろそろ帰らないと母さんが心配するな…)
急いで画材を片付けようとすると、
「すごく綺麗…」
誰もいないはずの美術室に響いた声。ぎょっとして振り向くと、そこにはどこか儚げな雰囲気の子が僕がさっきまで描いていた絵を眺めていた。
彼女はうちの制服を着ているから、ここに居てもおかしくはない。上履きの学年カラーは僕と同じ赤なので同い年だろう。見たこともない子なので去年も今年も他クラスだったのは間違いない。
(でも、何故こんな時間に美術室へ…?)
「この絵、君が描いたの?」
「そうだけど…」
「他の絵も見ていい?」
食い気味に質問する彼女に当惑しながらも、
「……うん」
と答える。僕の了承を得た彼女は目を輝かせて僕のスケッチブックを1枚1枚じっくり見ている。
「あの、君は…?」
「人に名前を聞く時はまず自分から名乗ること。常識でしょ?」
彼女はいたずらっ子のような笑みを浮かべて言った。
「内海渉…です」
(あぁ、またやってしまった…)
弱々しい自分の声に内心焦る。僕は昔から人と関わることが苦手だ。特に自己紹介など僕にとって地獄以外のなにものでもない。上手くやろうと思っても結局「えっと…あの…その…」といったようにしか話せない。彼女もまた僕から離れていくのだろう、と自分自身を心の中で嘲笑した。そんな僕の様子を気にも留めず、彼女は花が咲いたように笑って
「知ってる。いつも展示ルームの作品は風景画を描いてるよね?」
と言った。僕は頷いた。そして驚いていた。美術部は作った作品を展示ルームに飾っているが、そこは本校舎から少し離れた場所にあるためわざわざ足を運ぶ人はいないに等しいのだ。美術室にも少しは飾ってあるが、ほんの些細なものだ。ちなみに僕は風景画を、部長の川合先輩は漫画やアニメのイラストを、同い年の水野君はペーパーアートを主に展示している。
「渉君、風景画は得意だけど人物画は苦手だったりする?」
「え、なんで分かって…!」
彼女は悪戯が成功した子供のような笑みを零し、僕が練習に描いた伊藤先生の絵を見て言った。
「この先生の絵、上手だけど風景画みたいな生き生きとした感じがないもの。」
「何度練習してもダメなんだ。いつも先生に『何かが足りない』って言われる」
「『何か』って?」
「分かんない。でも、先生に今年の文化祭に出す作品は人物画にしろって言われたから練習するしかないんだ」
彼女は何か考え込んでいるようで、黙り込んでしまった。僕は、まさか初対面の彼女にまで低評価を受けるとは思っていなかったので、僕はすっかり落ち込んでしまい、黙り込んだ僕は足元を見つめていた。
「あ、この絵は素敵!」
不意に聞こえた興奮した様子の彼女の言葉に僕は顔を上げた。彼女が見ていたのはバレー部の絵だった。絵に描かれている朝倉先輩は楽しそうにバレーをしていて、今にも絵から飛び出して「バレー大好き!」と太陽のような眩しい笑顔で言いそうだ。朝倉先輩というのは川合先輩の友達で、バレー部に所属している。よく美術室に遊びに来ては色んな話をしてくれる。朝倉先輩はそんな明るい性格からか、男女問わず人気が高く、僕も密かに想いを寄せている。この絵は、バレー部の見学と称してこっそり描かせてもらったものだ。
「渉君は朝倉先輩のことが好きなの?」
一気に頬が紅潮したのが分かった。
「な、なんで…!」
彼女は楽しそうに笑いながら
「ふーん」
と言って、再び何か考えるような素振りをみせ、ひらめいたと言わんばかりに目をキラキラとさせて言った。
「私、分かったかもしれない…!」
「何が分かったの?」
彼女は得意げに笑った。
「渉君の苦手をなくす方法!ねぇ、私と一緒に特訓しない?」
「特訓…」
「私、絵を見るのが大好きなの。特訓の間、私は渉君の絵が見れるし、渉君は私のアドバイスや感想からコツを掴んでいけるでしょ?どうかな?」
「う、うん…」
彼女の瞳はより一層輝いた。
「私は夕海。同い年だよ。これからよろしくね、渉君」
「よろしく、夕海さん」
こうして僕と彼女、もとい夕海さんとの特訓が始まった。その時僕達を優しく照らしていた夕日は、あの日海で見た時より眩しく、温かかった。