9月の半ばが過ぎて、新学期を迎える。

あの後から新学期まで2週間くらいしか経ってないけど、その間、ケイは、うちにも、山小屋にも顔を見せなくなった。

山小屋に関しては、ケイがテント類を片付けたときに虫よけも一緒にとってしまったので、虫がたくさん寄ってくるようになっちゃったので、どうせすぐ新しいテントつけるから、もうちょっと秋が深くなるまでは、近づくのやめておこうって話にはなってたんだけどね。

そのせいなのか、それとも冬用のテントを買うためのバイトが忙しいせいなのか、あの人と会っているせいなのか、なんだかわからない喧嘩みたいなのをした私と顔を合わすのが何となく気まずいのか、もしかしたら紗々が怖いのか、それか、それ以外のことがあるのか、もう全然わからない。

あれ以来、さらに、ケイは私にとってわからない人になってしまった。一気に、遠くに行ってしまった感じ。

遠くに行ってしまうといえば、紗々も遠くに行ってしまう。結局、紗々は親と話し合った結果、1年半という学校の遅れを取り戻すために、アメリカはカルフォルニア州にある小さな町の私立高校へと転校することになった。

そこなら昔紗々たちが住んでいた場所でもあるので、紗々のパパの会社(今は支社)があるし、昔住んでいた家もまだある。ある程度の知り合いもいるので、そこならっていうことでパパが渋々許可をしてくれたらしい。

すぐには両親は一緒に行かないけど、定期的にパパとママが様子を見に来るから、大丈夫って、紗々が言っていた。当面は、パパの会社が持っているアパートメントの一室に住んで、そこから学校に通うことにしたんだそうな。アートメントの中は、パパの会社の人もたくさんいるから、心配ないよって、紗々は言っていた。

よく考えてみると、確かに、学校の1年半分の時間の溝を埋める方法は日本にはない。紗々がどんなに成績が良くても、それはあくまでその学年としての成績であって、今17歳の紗々が本来なら取れるはずの学校の単位を、本人の意志ひとつで一気に取り戻す方法はないのだ。

「ちょっと頑張ってみるよ、休むのは、もう、だいぶ休んだからね」
そう言って、紗々は9月の新学期が始まる前の週には、もうアメリカに発つことを決めていた。アメリカは9月末ごろに新学期だから、急いで行けば間に合うのだそうだ。

紗々が通うことになる学校では、自分の努力次第で学校の単位を多く取ることができ、試験などで先に学力を証明できれば、その授業に関しては試験だけでパスさせてくれる。確かに、とても合理的だ。

「私の努力次第だけど、遅れた一年半だけではなく、もう1年半から2年、先に進めることも出来るかもしれないの」
つまり紗々は、この留学で、最低1.5年、最高3年分の時間を濃縮させようとしている。もし本当にそうなったら、紗々は一気に大学生になるってことだ。すごいな、って思った。

紗々がレイジスに居なくなることはさみしいんだけど、紗々が自分の夢に向かって自分で思いっきりアクセルを吹かしたのを目の前で見てるので、そんなものを止めるのは、世界の誰にだって無理だと思った。きっと、紗々のパパもママも、娘の決意が変わらないことをわかって、やっとのことで理解を示したんだと思う。

ママに話したら「紗々ちゃんなら、どこ行っても、何でもやれそうよね」って感心していた。私もそう思う。「でも紗々ちゃんいなくなったら、さみしいでしょ麻衣」って言われて、小さい子みたいにママに泣きつきたいのをグッとこらえた。

離れてていても、私の心に紗々がいることと、紗々の心の中に私がいることは、今後もずっと変わらないんだから、私たちは大丈夫って、私たちの秘密の隠れ家であるボート室でボートに乗って話し合った。ちょっとベソはかいたけど、案外、大丈夫かもしれない。



新学期が始まったらすぐ、紗々は、ほんの数か月前にみんなに挨拶したときと同じように、首振扇風機の横に立って、みんなにお別れを言っていた。

学校に来たばかりの時のような、フワッとした儚げな妖精のような紗々ではなく、紗々のママみたいに、小さな冠が頭に乗っかっているかのような、自信と尊厳に溢れた態度で立って話していた。

あんなカッコいい女の子が、自分の親友だなんて嘘みたいだなって思って。何だかジーンとして、少し涙ぐんでしまった。

学校にケイが来ているのは知ってるけど、教室には行かなかったし、探すこともしなかった。ケイにはグループラインで、紗々の留学の話を紗々が自分でして、私が5日後の、出発の日程を送ってある。全部、既読マークがついてるので、ちゃんと読んでるらしい。



紗々に、なんか、お土産っていうか、餞別を買おうかなって思って、園町に1人で出た。なんか特別なものっていうよりも、紗々が毎日使えるものがいいなって思って、いろいろ考えた挙句、園町のデパートで、なぜか日本てぬぐい買ってしまった。

デパート1階のお店をひとつひとつ見て歩いていたら、濃紺の布地に大きな満月が黄色で描かれて、ススキの茎のところだけがスッって一本だけ満月の中に入ってきている手拭いが飾ってあったの。

ステキだなって思ってじーっと見てた。これって、額に入れれば絵にもなるし、テーブルに敷けばランチョンマットにもなるし、いいかなーって思っていたら、お店の人が出てきて、他にもいろんな絵柄があることを説明してくれた。

海外に留学する友達にプレゼントって話したら

「日本てぬぐいって、便利なのよ。これ一本でタオルになるし、あかすりになるし、マフラーになるし、ハンカチにもなるし、ヘアバンドにもバンダナにもなる。古くなったらフキンとしても使えるし、ボロボロになったら三つに割いて編めば草履の鼻緒にもなるんだから」

って説明されて、鑑賞用以外にもそんなに最後まで使えるなんて、そりゃ便利だなって思って、5色買っちゃったんだけけど。よく考えると、紗々、こんなの使うかなって思って心配になってきた。

でも、もう買っちゃったから、今日か明日にでも、これ持って紗々の家に行こうって思って、園町から桜駅に行く電車に乗るために、ホームまでノロノロ階段を上った。

数週間前まで、暑くてアイスカフェオレばかり飲んでいたのに、台風が2回来ただけで、軽い羽織ものがないと少し肌寒く感じるようになった。まだ15時代なので、乗り降りする人も少なく、階段を使っているのは私だけだった。

階段の上から改札を振り返ると、ひと月ほど前、ケイが私が見送って、私がちゃんとホームまで行くところを腕組んで見届けていた姿を思い出した。

あんなことしちゃったな………と、あの日の自分を思い出して、階段の木の手すりに手をかけて、改札を見下ろしたまま、自分で自分を鼻で笑ってしまった。


でも、あの日、私はどうしても、帰ることができなかった。傷ついても、本当のことを知るのが怖くても、どうしても確かめたかったんだ。だから、しょうがない。

あまり認めたくないんだけど、多分、私は紅子と同じ片思いだ。ケイに。

それが自分で分かっただけでも、私には、十分かなって思った。ちょっと前までの自分を思い出せば、この夏、私の人生にいっぺんに起きたことは、私にはもう抱えきれないほどの量と熱さだったかもしれない。

だから、少しくらい、私の腕の中からこぼれてしまったんだとしても、それは仕方ないことなのかもしれないって思ったら、涙がこぼれた。

ああ、もう、これからは、こうして私が失恋して泣いても、私に白くて美しい形の手を伸ばして触れてくれる紗々もいない。泣きべそをかく私をからかって笑わせてくれるケイもいないんだなって思ったら、涙がたくさん流れてきた。

紗々に会ったときに泣いた涙とは違う種類の涙が、今、同じ私から流れているんだなって、そう思った。

でも、強くなりたい。
私は、あの紗々の友達なの。

これが私の中から出てきたホントの私なら、私は絶対に最後まで私を見てやるんだって思って、泣いているままホームまでの階段を上った。

人があまりいなくてよかった。
そう思いながら、桜駅に向かう方向とは反対の向きに椅子が並んでいるベンチに座って、鞄からティッシュを出して鼻をかんだ。

各駅停車の新宿方面に向かう電車が静かに入ってきた。この電車も今の時間帯ではガラガラで、どの車両にもほとんど人が乗っていない。

シューって音がして停まった電車は、待合のため、10分停車をするってアナウンスが流れた。誰も乗り降りしていない電車が、がらんどうのように口を開けている。中から、エアコンの涼しい風が流れ出てきて、気持ちよかった。


電車のエンジン音みたいなものが止まったので、どこにいるのかわからないセミの声と、私鉄の電車が入ってくる音、遠くで行きかうバスのクラクションの音が、一度に聞こえてくる。

電車の中から、女の人が、大きな黒い鞄を肩にかけ、スーツケースを持って出てきた。その人は、黒いリボンのついたREPETTOのバレリーナシューズを履いていた。

あのバレリーナシューズ可愛いな、欲しいんだよね。でもあれ、高いから買えないなって思いながら、こんな可愛いシューズを履いている恵まれた人は、どんな人だろうって思って見上げた。



あの人だった。

美保さんはスグに私に気が付いて、「あら」と言って、少し笑った。肩から一旦、黒い鞄を下ろして、私の座っている2つ隣に置き、スーツケースを立たせた。美保さんは、右頬と左の肘のあたりにサロンパスみたいなのを貼っていた。

「こんにちわ」
恋敵っていうか、全然、私じゃライバルにもならないような人だけど、この人は何も悪くないので、普通に挨拶をした。

「ケイは元気?」
美保さんが、荷物が重たかったのか、ふうって言いながら私にそう聞いてきた。てっきり、ケイはこの人とずっと会っているものだと思っていたので、私が意外そうな顔をしたのかもしれない。

「あら、あなたにも会ってないの?」
美保さんは、マスカラとアイラインが絶妙な濃さで彩られた、薄茶色い瞳を私に向けた。私は、ただ、頷いた。美保さんは、少し黙って考えてから、口を開いた。

そのしぐさを見て、ケイが、同じことするなって思って、その美しい動きを眺めていた。

「ケイをよろしくね。私、しばらく日本を離れることになったから」
そう言いながら、パンツのポケットから黒い細かなギンガムチェック模様のハンカチを出し、それで自分をパタパタあおいだ。

「これから、どっか行くんですか?」
「うん、ちょっとね」

「旅行ですか?」
「ううん。しばらくの間、結構長いかも」
そう答えて、ニッコリ笑う。少し目の周りに細かいしわが寄って、それがすごく魅力的だった。きっと、ケイも、そう思ったろうなって思ったら、胸が痛んだ。

「あの、ケイは、知ってるんですか?その、み、美保さんが」
「あら、私の名前知っててくれてるの?嬉しいわ。あなたは、マイマイちゃんでしょ?」
ハンカチの折り目を見ながら伏せていた瞳をぱっと開いて、ストレートに私を覗き込んだので、なぜか、ドキっとしてしまった。そして、私のことを、この人に、ケイが話しているってことが、なんだかすごく恥ずかしかった。

「ケイは知らないわ。というか、私たち、しばらく前に喧嘩別れしてそれっきりなの。最も、ケイは連絡しても、普段から気が向いた時じゃないと返事もよこさないけど」
美保さんは、鞄の底の方からフリスクのケースを取り出し、チャッチャと手のひらに5粒くらい出して、ポンといっぺんに口の中に放り込んだ。

「そうなんですか。え?喧嘩って、そのほっぺと腕、もしかしてケイがやったんですか?!」
顔と腕にサロンパスが貼ってあることの意味が今ようやくわかり、慌てて聞いてみた。

「違う違う。ケイがそんなことするわけないでしょ」
当然でしょう?という表情で、首を少しだけかしげて、私を見る。そうだ。ケイがそんなことするはずがない。

「主人よ。私の夫が私を殴ったの」
左手にハンカチを持ったまま、軽く腕組みをして美保さんはそう言った。私は驚きのあまり声が出なかった。

何に驚いているっていうと、美保さんが結婚してることも、旦那さんが美保さんを殴ることも、ケイが普段はロクに連絡もよこさないってことも、そのほか、私の想像が及ばない部分も含めて、全部。

「びっくりさせてごめんね。世の中には、こういう夫婦もあるのよ。大したもんじゃないから大丈夫。夫に申し訳ないって思わせたくて、大げさに貼ってあるだけなんだから」
だから大丈夫よって言いながら、屈託のない笑顔で笑う。

大きなかばんにフリスクとハンカチを放り入れ、サイドポケットに入ってるスマホを見て、

「私、飛行機の時間があるから、もう行くわ。本当に、ケイをよろしくね」
そう言って、立たせてあるスーツケースの引き手を押し込んで中にしまい、スーツケースの横についているピンク色の取っ手を持つために軽くかがんだ。サロンバスが付いているほうの手で、鞄の取っ手に腕を入れて、肩にかけて立ち上がる。

美保さんは、腕や胸元が少し透けてしまうほど細かい糸で編まれた、プリンセススリーブのサマーセーターを着て、下には黒い細身のサブリナパンツをはいて、そして、レペットを履いていた。

それが、黒い服を来た、お転婆なお姫様がお忍びでひとり旅に出かけるみたいで、ステキだなって思った。

よいしょって掛け声をかけて、スーツケースをしっかり手に持つと「じゃあね、元気でね」って言って、園町駅の階段を降りて行った。

桜町に向かう電車が入ってきて、電車に乗ったら、名前を呼ばれたような気がして振り返ると、電車の扉が閉まる音と、発車ベルの音でかき消されてしまったけど、美保さんが大きく手を振りながら、笑顔でなんか言っていた。

何て言ったのかて思って、扉のガラスに張り付いたけど、園町の駅のホームと階段は、私が乗った電車からぐんぐん離れて行ってしまった。