今の自分の成績じゃ、リアルに進学は厳しいと感じ始めていた。そんな焦りから塾の夏期講習なるものに申し込んだ。

「へっ!? 塾………。そのヒヨコ並の脳で? ってか、夏休みなんだよ? 一緒に海とか行って、いっぱい、くっついて遊びたいのに」

ナタリは震えながら、幽鬼のように足にすがり付いてきた。

「いや、僕だってバカなままじゃ嫌なんだよ。それにナタリだって、バイト再開したんでしょ? お互い、遊んでばかりもいられないし」

「……だって、お金ないもん。仕方ないじゃん、生きる為に働くのは………」

ナタリの頭を一時間ナデナデしたら、やっと機嫌を直してくれた。


夏期講習初日ーーー。

エアコンで冷え冷えな白い部屋に詰め込まれ、他の先輩塾生と一緒に勉強をした。最初は、講師が何を言っているか分からないレベルだったが、そんなバカな僕にも親切に教えてくれた。テキストも分かりやすく、情報量も多い。学校よりも勉強の密度が遥かに濃かった。

街灯が照らす薄い夜の道。塾からの帰り、ナタリが働く喫茶店に立ち寄った。
相変わらず客は少なく、若い男が二人だけだった。その男達が指差した先にウェイトレス姿の見知った顔。メリーザだ。なぜか、あの悪魔もナタリと一緒に働いていた。

こっちをチラ見し、明らかな舌打ち。顎でクイッと、中に入れば? のサイン。
店員としては、最低な態度。
いつもの席に座り、塾の宿題をしていると僕の隣にナタリが座った。

「疲れた?」

「少しね。でもすでに賢くなった気がするよ」

「お疲れ様。頑張ったね。偉い偉い。もう少しでバイト終わるからさ、一緒に帰ろうよ」

「うん。ところで、メリーザも一緒に働いてるの?」

突然、厨房から怒鳴り声がした。

「見りゃ分かるだろうがっ! お前の目玉は、飾りか。バカ」

「聞いただけだろ。……ったく、相変わらず態度がエグいな」

「態度がエグいのは、生まれつきだよ。バカッ!!」

「………自覚あるんだ」


ナタリは、呆れている僕を見て恐ろしいことを言い放った。

「うんうん、でもやっぱりハクシは特別だよね。メリーザが、こんなに長く人間と話してる所なんて、見たことないし。気に入らない人間は、さっきみたいにすーぐ殺しちゃうから」

さっき…………。

そういえば、あの席にいた若い男達はどうした? スマホや荷物を置いたまま帰るわけないよな。

嫌な汗が、頬を流れた。


◆◆◆◆◆【リアル】◆◆◆◆◆◆


授業の合間に、小話を挟む癖があった。

突然、この予備校講師は黒板に『殺す』と書いた。生徒は、黒板と男を交互に見て、時間のムダだとばかりにすぐに教科書に視線を戻す。


「簡単にこの言葉を口にする人間が、僕は一番嫌いなんだよね」

物好きな女生徒が、質問する。

「どうして嫌いなんですかぁ?」

「う~ん。なんだか、やけに安っぽいんだよ。その……響きがさぁ。リアリティーに欠ける」

男は上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた。教室の窓を開け、外界との接点を作る。初春の柔らかい風が、生徒一人一人の頬を平等に撫でていく。


「今から君をこの窓から突き落とす。この高さだから、落ちたら絶対に助からない」

教師は、下手な口笛を吹きながら目の前の眼鏡をかけた女生徒に近づいた。

「…………はぁ」

女生徒は呆れながら、講師を見ていた。きっと悪い冗談だと思っていたに違いない。


「僕は普段、鍛えてるわけじゃないけど。それでもね、小柄な君一人なら無理矢理この窓から突き落とせるくらいの力は持ってる」


その言葉から数分後。
男は宣言通り、この女生徒を窓から突き落として殺した。

この場にいた数十人。しかし誰一人として、この男を止めることが出来なかった。「力で敵わないから」そんな理由じゃない。

数人がすぐに動けば、この凶行を阻止することは出来た。でも、誰一人として動こうとしなかった。

彼らは、考えたーーーー。

何の理由もなく、人を殺すか?
そんなバカなことをするわけない。この男には、優しい妻と産まれたばかりの可愛い子もいるし。

その思考が、取り返しのつかないミスを犯した。

慌てて教室から逃げだす者。
恐る恐る窓から、落ちた生徒を見下ろす者。ショックで全く身動きがとれない者。

さまざま。

そんな生徒とは対照的に。

男はとても清々しい笑顔で、コンコンと軽く黒板を叩いた。


「これが、リアルなんだよ」