木漏れ日ーーーー。

数十本の桜木に囲まれた学校。校歌が、第一体育館から聞こえてくる。
今日は、卒業式。俺は一人、教室に残っていた。ぼんやりと三階の窓から体育館を見下ろしていた。桜の花びらが、俺の前をひらひらと横切り、春の匂いだけを残していく。


「卒業おめでとう。九重君」

「気持ち悪いな、その呼び方。今まで通り、呼び捨てでいいよ」

「そう? じゃあ、九重。卒業おめでとう」

「あぁ。そんなことより、先生は出なくていいのか? みんな体育館に集まってる。早く行った方がいいよ」

「それは、九重も同じでしょ? こんなところにいたら卒業証書もらえないかもよ」

意地悪く笑う先生。背が低く童顔なので、相変わらず中学生のようだった。

「めんどくさいんだよ、あぁいう式。校長の話もバカみたいに長いしさ」

「アハハッ、確かに校長先生の話は長いよね。私も苦手だな。九重は、卒業したら鹿児島に行くんでしょ? 大学受かったんだよね。がんばったね。でも大学生活も大変だから気を抜いちゃダメよ」

背伸びして、頭を撫でようとする先生。反射的にその手から逃れた俺は、自分の席に腰を下ろした。


「鹿児島に親父の親戚がいるから、その人の空いてる部屋を貸してもらうんだ。大学行くには、金がかかるから少しでも節約しないとさ。バイトも探さないといけないし」

「フフ、変わったね。九重。なんかあの頃とは、別人みたい」

「そうか? 自分では良く分からないけど。先生は、このまま教師を続けるのか? そろそろアンタもいい年だろ。結婚とかしないのかよ」

「出来ないよ、結婚なんて。私みたいな化け物と結婚してくれる男なんていないよ。まぁ一人のほうが気楽でいいしね。土曜日とか、朝まで映画見てても誰も文句言わないし」

「いやっ、結婚してても映画は見れると思うけどな。そうか……。アンタも寂しい女だな」

「なによ、その目は。そんなに哀れむな! 九重だって、そんなにツンツンしてたら一生彼女も出来ないよ」 


怒って、教室を出て行こうとする先生。

「待っ」

ガシャンッ! 倒れるイス。
その時の俺は、どうかしていた。なんで、あんなことをしたのか分からない。気付いたら、俺は先生の左手を握っていた。先生の白く細い腕が、壊れてしまうんじゃないかと思うぐらい強く握っていた。驚いて振り向く先生の目を見たら、俺の心臓がドクリと大きく跳ねた。

「先生……あの、俺。その」

「ダメだよ、九重。先生にこんなことしちゃ」

先生は、右手で俺の手を優しく掴み、自分の手から離した。俺は、どうしていいか分からず、ただその場に突っ立ってることしか出来なかった。

頭が、混乱して。とても恥ずかしく。言葉を考える余裕が、まるでなかった。

「今のことは、忘れます。だから、二度とこんなことしないでね。九重のためだから。大学入ったらさ、可愛い子がいっぱいいるよ。さっき言ったのは、嘘。九重なら、すぐに彼女が出来る。だから、ね? 私は先生。ただの教師で、アナタは生徒。それ以上の関係になったら、ダメなんだよ」

先生は、優しく笑っていた。でも、俺にはその笑顔はとても悲しく感じられ、思わず涙が出そうになった。先生は、こんな風に何度も異性を突き放してきたのだろう。どんなに自分が好きになっても、相手に嫌われることを恐れ、そして諦めてきた。先生の孤独は、俺なんかには想像も出来ない。先生の深い悲しみを理解することは、俺には出来ない。

それでも俺は。先生の小さな体を後ろから抱きしめて、

「好きなんだ、先生のこと。大学卒業したら、必ず先生に会いに来る。それまで待っててくれ」

「はなして……おねがい」

「俺じゃ、ダメなのか?」

先生は、身を震わせて泣いていた。

「先生が、化け物になったって俺はかまわないんだ。先生一人だけ、悩む必要なんてないよ。二人でさ、幸せになろう。な?」

「……」

バタンッ! 

先生は、強引に俺の手を振り解くと教室を出て行ってしまった。教室に一人残される俺。先生の涙の粒が、手の甲で光っていた。

「ハハ、フラれた」


冷たい机に頬をつける。

でも、これで諦めがつく。告白しないまま東京を離れたんじゃ、気になって夜も眠れなかった。今は、ショックだけど。いつか立ち直れる。だから、俺は今まで通り一人で好き勝手に生きよう。良かったんだ、これで。少し期待していた自分が恥ずかしかった。

蛇皮模様の賞状筒に卒業証書を丸めて入れると、俺はそれだけを持って教室を後にした。
廊下では、浮かれた女子が写真を撮り合っていた。蹴り飛ばしたいほど邪魔だったが、なんとか我慢する。


「九重君、一緒に写真撮らない? 思い出にさ」

「ねぇ、いいでしょ? みんなも九重君と撮りたがってるしさ」

俺は、その言葉を無視して歩いた。背後で俺の悪口を囁く声が聞こえたが、今更気にもならなかった。告白が失敗し、落ち込んでいる自分が何故か可笑しかった。下級生で賑わっている校門から出て行くのは、なんだか嫌だったので、校舎の裏からこっそりと出ることにした。


(最後まで、暗い高校生活だったな。まぁ、自分が悪いんだけど)


校舎裏は日当たりが悪く、しかも何年も手入れをしていないので、葉が細くて腐臭を発している雑草がそこらじゅうに生えていた。それらをガツガツ踏み潰しながら歩いていると、背後から声がした。その声は、もう二度と聞くことのない声のはずで。忘れていた興奮が、また蘇ってきて思わず全身が震えた。

「正面から堂々と出ればいいじゃない。卒業のときぐらい胸張りなさい」 

「うるせぇな、俺の勝手だろ。アンタには、関係ない。でも、まぁ先生に会うのも今日で最後だからな。アンタの注意には、正直うんざりしてたから助かったよ」

自分でも、分かっていた。言いたいのは、こんなことじゃない。

「最後まで憎たらしい教え子ね。でも、なんでかな。こんなにも気になるのは………」

先生。俺、アンタに感謝してるんだ。俺を信じてくれた大人は、先生だけだから。

「私、待ってるよ。九重のこと。これ、私のメールアドレス。遅くなるかもしれないけど必ず返信するから」

先生は、アドレスの書かれたメモ用紙を投げた。腕力がないので、俺には届かずに手前でポトリと落ちた。雑草の中から、それを拾う。

「大学を卒業して、俺がまた東京に戻ってきたら」

俺は、先生の目を見つめた。先生も俺を見ている。二人の想いが初めて通じ合った、そんな数秒。

「その時は、俺と付き合ってください」

「……うん。でも、私そんなに若くないけど、それでもいいの?」

先生は、申し訳なさそうに口を尖らせて言った。とても可愛い仕草だと思った。

「先生は、若くて可愛いよ。制服着れば、高校生でもいけるんじゃないかな」

「可愛いっていうのは嬉しいけど、後半は少しバカにされた気がするよ。童顔は気にしてるんだから、そんなに言わないで。お願いだから」

「分かった。なるべく、言わないようにするよ。そろそろ引越しの準備とかあるから、行くよ」

俺は、再び歩き出した。でも俺の足取りは、さっきよりも遥かに軽い。告白が成功し、宙に浮くような気分だった。

「本当に、私でいいの?」

その声は、悲しく草むらに響いた。

「生徒思いで、優しくて。信念を持って教師をしてる。今時、あんたみたいな馬鹿真面目な先生は珍しいと思うよ。俺は、そんな先生を好きになったんだ」

「……正直言うとね。すごく恐いの」

「恐い? なにが」

「いつか九重のこと、襲うんじゃないかって。殺してしまうんじゃないかって思うと恐くて仕方ないの。化け物になった時は、理性がなくなって自分でもコントロール出来ないから」

「俺なら大丈夫だよ。絶対に、先生は俺を襲わない。俺は、信じてる」 

…………そう言ったけど。

正直、確信はなかった。もし、先生が俺を襲ったとしてもそれなら仕方ないと思うし、好きな人だから許すことが出来る。先生の罪は、俺の罪。二人で共有しよう。彼女は、絶対に俺が守る。どんなことをしても。どんな犠牲を払っても。

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ッーーーー。

雨? 
ここは、地下室なのに。

「れい……か。どうし……て?」

ここにいるんだ。外出していたはずなのに。戻ってきたのか? 
しかも地下室にまで入ってきて。

約束しただろ? 
ここには、来るなって。

「ひかる……ごめんなさい。私のせいで、こんなに傷ついて」

ポタポタと霊華の涙が顔に落ちてきた。

「謝ること……ぃ…。僕が、た……こと」

あの少女は、どうなったんだ? 霊華以外の気配は感じない。
殺したのか? 
見なくても分かるよ。完全に体を破壊されて、床で息絶えている少女の姿が。

「やっぱり、私は化け物なんだよ。光は、違うって言ってくれたけど。獣人は、ただの化け物。あの子ね、死ぬ間際私に言ったの。『私達は、絶対に幸せにはなれない』って。化け物は、人間ではないから。だから、人間のように幸せになることなんか出来ないんだよ。光と一緒にいる間だけは、忘れることが出来たけど。それでもやっぱり私は、化け物でしかない。人間を襲い、そして喰う、ただの獣でしかない」


「ぃ……」 

霊華、それは違うよ。
僕は、高校で君に出会ってから、今までずっと幸せだった。僕たちは、立派に幸せを掴んだじゃないか。毎日笑って、喧嘩して。

ちゃんと人間してたろ?

「光。私はーーー」

「……ぃ」

声が、出ない。あと少し。
あと少しだけでいいから! 


息をさせてくれ。
震える左手を伸ばした。霊華は、その手を握って、自分の頬に当てた。柔らかいその頬を涙が流れているのが分かった。

こんなに泣かせて、ごめん。

「ひかるっ! 目を開けて。まだ、死んじゃダメだよ。私と幸せに暮らすんでしょ? 約束したよね……。おねがいだから、目を開けて」 

僕には、もう言葉を発する力はないけど、それでもこの想いだけは霊華に伝えなくちゃいけない。
僕は、霊華に出会ったことを神に感謝してるし、こんな最期だけど後悔もしていない。高校の時、霊華に出会ったのは運命だと思ってる。死人も同然だった僕を暗い沼から引き上げてくれた。他の大人は、みんな僕を無視したけど、霊華だけは立ち止まって僕の話を聞いてくれた。


「うぅ……いゃ……」

霊華の僕を呼ぶ声が、だんだんと小さくなっていく。



『ありがとう』


動かなくなった。死んでしまった。私は、光の頭を自分の膝の上に乗せ、何度も何度も頭を撫でた。

「きっと、光は天国に行けるよ。地獄に行くのは、私一人で十分だから。どうか、神様。光をお救い下さい」

私は、そっと光を床に寝かせると立ち上がった。自分の腕を見つめ、集中する。
すると、すぐに反応があった。違う生き物のように左腕が蠢き、日に焼けた男の腕のように太くなった。血管が皮膚を持ち上げ、更に腕に凶暴さが増していく。私の細かった腕は、数十秒で獣の腕と化した。
吐き気を堪えて、それを見つめる。この腕なら、簡単に自分の心臓をひねり潰すことが出来る。何も考えず即死できる。

「私も今からそっちに行くね」

自分の腕を胸に近づけた。目を閉じる。
……………。
…………。
……。

「先生っ! やっと教師になったよ。自分で言うのもなんだけど死ぬほど頑張った」

「……わざわざ、私に会いに来たの? こんな田舎まで」

「だって、約束しただろ。戻ってくるって。ってかさ、なんで勝手に引っ越してるんだよ。探すのに苦労したよ。ほんと」

「ごめんなさい。急に会うのが恐くなって」

「まだ、そんな弱気なこと言ってるのか。少しは変わってると思ったけど、あの頃と同じだな。相変わらず、童顔だし」


「そのことは言わないで!」

「ハハ。もう一つの約束、覚えてる?」


「うん」

「先生………。いや、霊華さん。僕と付き合ってください」

すごく嬉しかった。
光が、私に会いに来てくれたこと。私に告白してくれたこと。光の気持ちが変わっていなかったこと。そのことが、嬉しかった。

「霊華さん、泣いてるの?」

この人と一緒なら、私も幸せになれる。本気でそう思った。

「光と一緒にいたい。ずっと……ずっと」

トクン。

『死んだらダメだよ。君の体は、もう君だけのものではないんだから』


声が聞こえた。一瞬、光の声が。私は、自分の胸を見つめた。

トクン……トクン……トクン。

いつの間にか、私の腕はひ弱な元の形に戻っていた。

「ひか……る」

再びあふれ出た涙を止めることは出来なかった。私は、泣いた。全身で泣いた。泣くこと以外何も出来なかった。朝が来て、夜になって。また、朝が来て。ようやくこの涙が止まった。そして、私は生きることを決めた。

新しい命の存在に気付いたから。

私は、妊娠していた。光の子を。この子と一緒に生きていく。そして、幸せになる。

必ず!

一ヵ月後ーーーーー。

私は、光との家を売り払い、そして旅に出た。このお腹の子と幸せに暮らすことができる安全な場所を求めて。光は、私が幸せになることを望んでいる。だからもう、涙は流さない。天国にいる光が心配するから。山は、紅葉していた。もうすぐ冬が来る。その前に探さなくてはいけない。二人の安住の地を。

「わたし、幸せになるから。だから、光。天国で見守っててね」 

雲の隙間から見える夕日は、とても優しくて。照れた光のようだった。