「ごめんなさい。昨日は、迷惑かけちゃったね。本当にごめんなさい」

「あぁ。いいよ、別に」

俺は、俯いて答えた。昨日、初めて参考書を買おうと書店に立ち寄った。その帰り道、俺は見てしまった。先生が、同じクラスの佐々木と歩いているところを。

佐々木は、学校では特別な存在だった。学年での成績は常にトップであり、全国模試でも高順位を常にキープしていた。先生達からも厚い信頼を得ており、バカな不良生徒である俺とは真逆な人間だった。

二人は、人気のない場所まで無言で歩いていき、改装中のために立ち入り禁止となっている雑居ビルに入っていった。俺は、周りに誰もいないことを確認するとその建物の中に体を滑り込ませた。佐々木は、先生に何かを要求していた。先生は、ショルダーバッグから茶封筒を取り出すと佐々木に手渡す。中身を見なくても、それが金だと分かった。


「もうこんなことは最後にしてちょうだい。佐々木君の将来にもこんなこと悪影響よ」

「よくもまぁ、そんなこと言えるな。偉そうにしやがってっ! この人殺しが。僕は、見たんだ。お前が、他校の女子生徒と一緒に廃ビルの中に入る所を。そこで、お前は。お前は……化け物になった! そして、そいつを襲ったんだ。食ってた。この! このっ、化け物。だから、今更まともなこと言っても全然説得力ないんだよ」

佐々木は、言い終わると憎らしげに地面に唾を吐いた。興奮しているせいか、呼吸が荒い。

「……………」

先生は俯き、何も言わなくなった。

「でもよ、僕はあんたの味方だ。こうやって、金さえ渡してくれたらこれからもずっと黙っててやるよ。まぁ金が尽きたら、その体で払ってくれればいいぜ。アンタは可愛いからな。それにその透き通るような肌もそそる」

下卑た笑い声が、二十坪ほどの部屋に響き渡る。床には、AVケーブルや電話回線ケーブルなどの配線が、蛇のようにとぐろを巻いていた。

今すぐ、この柱から出ていって佐々木の顔面を思い切り殴りたかった。なんでかは分からないが、先生がこんなザコにいいように扱われていることが我慢出来なかった。 
胸にこみ上げてくる怒りが、沸点に達しようとしていたその時。

先生に異変が起きた。


「……っ」

急に胸を押さえ、蹲った。苦しそうに喘いでいる。

「はな……れ、て。お……ねが……ぃ」

「な、なな、なんだよっ! お前」

ホースのような太い血管が浮かんだ腕、丸太のようにどっしりとした足。壁のような背筋は、汗が蒸発し、そこだけ白んでいた。十秒ほどで、あんなに華奢だった先生の体が、見たこともない化け物に変異した。腰を抜かして尻餅をつく佐々木。そんな佐々木と同様に俺もショックを受け、身動きがとれなかった。寒くもないのに全身に鳥肌が立っていた。

俺は震えながら、それでもこの光景から目を離せないでいた。サメの歯のようなものが、口の奥までびっしりと生えており、口は常に半開き状態。ヨダレを周囲に撒き散らしている。自分でも認めたくない、先生の変わり果てた姿だった。その目は、狩をするときのライオンのように大きく、緑色をしていた。人間のような白目がなかった。

「くるなっ、化け物! 来るなって言ってるだろ! 畜生がっ」


『フルルルルルッ』


「頼むからぁ、助けて。ぼ、僕が悪かったっ! もう金は要求しないし、アンタが化け物だってことは絶対にっ、誰にも言わない。約束する」


嘘だ。コイツは、絶対に喋る。俺には、佐々木の心が手に取るように分かった。

「やっ! て、がふぅびゅぶっ」


佐々木の喉元に噛み付いた先生が、思い切りその肉を剥ぎ取った。喉を抉られた佐々木は、首から大量の血を流しながら、ただ呆然と眼前の先生を見ている。
自分に何が起きたのか、理解できていないようだった。先生の巨大な手で、頭を鷲掴みみにされた佐々木は、声を失った口を動かした。


『ば、け、も、の』


バキュッ。


頭蓋骨が砕ける音がし、マネキンのように佐々木は動かなくなった。佐々木は、僕の目の前で死んだ。初めて見る死体だった。テレビや映画のような作り物じゃない。本物の死体。
佐々木を粉々にした先生は、満足そうに雄叫びを発し、そして倒れた。倒れた先生の体は、風船が萎んでいくように小さくなり、一分ほどで元の姿に戻った。先生がさっきまで着ていた衣服は、ただの布切れと化しており使い物にならなかった。俺は、シャツを脱ぎ、それをそっと先生にかけた。先生は、まるで寝ているかのように静かだった。死んでいるんじゃないかと心配になったほどだ。尻ポケットから、震える指でタバコを一本取り出すと火をつける。紫煙を吸ったり、吐いたり繰り返すとさっきまで鼻にこびりついていた血生臭さが幾分緩和され、吐き気もおさまった。

信じたくない現実。笑顔をいつも絶やさない先生とさっき目の前で佐々木を殺害した先生。どちらが本当の先生なのか分からない。 


「タバコ…………ダメだ…よ」


虚ろな目をして、俺に注意をする先生。

「いいだろ、今ぐらい。これ吸ってないと気がおかしくなりそうなんだよ。今だけだ、許せ」

「いつから見てたの?」

「佐々木と先生が、このビルに入るところから」

「……そうなんだ。ごめんね、こんな残酷なものを見せて」

「いいよ。気にするな」

「気にするって。普通……。教え子殺すなんて教師失格だね。ってか、人間失格」

俺は、黙って先生の言葉を聞いていた。今、俺の前にいる先生は俺の知っている先生で。佐々木を殺した化け物とは似ても似つかなくて。これが、悪い夢ならどんなに良かったか。でも今起きたことは、紛れもなく現実だった。


「九重、私はどうしたらいい? 警察に自首してもいいけど、信じちゃくれないだろうし」

「とりあえず、この死体を片付けよう。このままじゃ、マズイ。俺は、叔父さんのワゴン借りてくるから。先生は飛び散った血を綺麗に拭いてろ。指紋も出来るだけふき取れよ」

「九重は、免許持ってないでしょ? ダメだよ、そんなことしちゃ。それに、九重まで巻き込みたくないし。私一人でなんとかするから。だから、もう。帰って」

「免許なくても運転ぐらい出来るんだよ。それに、アンタ一人残したら自殺しかねないからな。一日に二体も死体は見たくない。とにかく、今は俺の言うとおりにしろ。馬鹿なことするなよ! 絶対」



「……迷惑かけてごめんなさい」

俺は、走った。急いで家に帰り、叔父さんのワゴンを借りて、またこの雑居ビルに戻った。もしかしたら、首を吊っているんじゃないかと心配したが、それは杞憂に終わった。先生は、俺の指示通りに血を拭いていた。何故か半べそをかいており、時折鼻を啜っていた。 

「ちゃんと言うとおりにしてるな、偉いぞ」

「……うん。なんか、九重。先生みたいだね」

俺は、指紋を丁寧に拭き取った。車の荷台に死体を包んだブルーシートを乗せると、ただひたすら車を走らせた。ダムに沈んだ村を通り過ぎ、舗装されていない道を強引に突き進んだ。とある山中で車を降り、先生が見つけた大きな沼に、重りをつけた死体を沈めた。
俺は、祈った。死体が浮かんでこないように。誰にも見つからないように。

十一時を過ぎ、ようやく俺たちは、自分達の町に戻ることが出来た。白バイに捕まるんじゃないかと常に緊張していたので、疲労がハンパじゃなかった。

「じゃあな、先生」


「……今日のことは」


「誰にも言わないよ。俺を信じろ」

車を降りた先生は、何か言おうと迷っているようだった。 今は元気がないが、明日にはいつもの先生に戻っているだろう。再び車を発進させようとした俺に、

「どうしてこんなことするの? 九重には、将来があるのに。私のせいで人生がめちゃくちゃになってる。こんな危険なことさせてしまって。どうやって私、責任取ればいいの」

「先生が責任を感じる必要はないよ。だって、これは俺が勝手にやったことなんだから。アンタはアンタらしく、また明日から教師やってればいいんだ。俺みたいなバカな生徒の相手をしていればいいんだよ」

「私が、恐くないの?」

先ほどの映像がフラッシュバックし、心臓が痛み出す。肉を裂く音。飛び散る鮮血。臭気。どれ一つとっても一生忘れることは出来ないだろう。

「恐い。正直、すげぇ恐いよ。でもな、先生だって好きで人間襲ってるわけじゃないだろ。なら、仕方ない。仕方ないって思うしかない。俺のことを信じてるって前に言ったよな、アンタ。なら俺も先生を信じるよ」


「九重……………」

「だから、今までと何も変わらない。アンタは先生だし、俺はその生徒だ」


いつの間にか、先生と目と目が合っていた。俺は、急に恥ずかしくなり視線を逸らした。先生も同じらしく、わざとらしく自分の足元を見ていた。

『 ありがとう。私を信じてくれて 』


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 夢から覚めた僕は、ソファーから体を起こし、立ち上がった。壁時計で時刻を確認する。あれから、まだ二十分と経っていなかった。その割に随分長い間、夢を見ていた気がする。肩を回すとギシギシと痛んだ。僕は、地下室に下り鉄扉を開けた。その瞬間、生々しい血の臭いが鼻を刺した。部屋の中央では、全裸で倒れている霊華がいた。露出した肌は、相手の血で真っ赤に染まっていた。

「そろそろ起きな」


「ひか……る? う~ん。おはよう」

「まだ夜だよ。寝ぼけてるね。立てそう?」

僕の両手を掴んで、ようやく立った霊華が部屋を見渡す。部屋中、血と肉片が飛び散り、足元もテラテラと赤黒く濡れていた。灰色だった部屋が、今だけ赤い部屋へと変わっている。そして、以前ここにいた少女は跡形もなく消えていた。

「また……わたし化け物になったんだね。フフ、そっか。そうなんだ。もう笑うしかないよ、ほんと」

「霊華?」

「こんなこと、いつまで続くんだろうね。光がさ、なんの罪もない少女を誘拐してきて、この部屋で何日も監禁してさ。化け物になった私が、その少女達を生きたまま食べてる。なんなんだろうね、これって。地獄でもこんな酷いことしないよね、たぶん」

「……僕は、霊華さえいてくれたらそれでいいんだ。だから、そんなに自分を責めないでくれ。ツラくなる。どんな難題も二人で乗り越えていくって決めただろ? そのために必要なことなら僕は何だってするよ。今更、天国に行きたいなんて図々しいこと思っちゃいない。僕はただ、生きている間は、霊華と一緒に幸せに暮らしたいんだ」

「私だって同じ。いつまでも光と一緒にいたい。幸せだもん、今」

僕たちは、激しく抱き合った。一緒にシャワーを浴び、僕は丁寧に霊華の体をスポンジで洗った。赤い泡が、排水溝に吸い込まれていく。
しかし、僕たちの罪までは洗い流してはくれない。この罪は、死んでも体を離れない。

「くすぐったいよぉ……ぅ」

体をねじりながら、僕の腕から逃げようとする。霊華の甘えた声は、僕の脳を興奮で麻痺させる。


「シャワー浴びながらするっていうのも興奮するよね。霊華もだろ?」

「……………変態」

霊華を背中から抱きしめる。自分の体がドロリと溶け、霊華の体の一部になっていくようだった。霊華から漂う花の蜜のような香りに、眩暈がした。


「っ……好き」

甘い唇から、熱い吐息が漏れた。潤んだ瞳には、僕だけが映っていた。霊華を愛おしいと想う。一生、守りぬく。だからこそ。だからこそ、僕にはやるべきことがある。もう時間がない。あの少女がいなくなった今、地下室には誰もいない。つまり、餌がない。
今度の発作までに新しい少女を確保しなくてはならなかった。霊華の発作を止めるには、新鮮な生きた餌を与えるしかない。僕は、その晩一人の少女にメールを打った。次のターゲットとなる女だ。

日曜日。


僕は駅前で、ある少女と待ち合わせをしていた。県庁所在地であるこの場所は、僕が住んでいる地区とは違い、雑居ビルが立ち並びそれなりに栄えている。新幹線が停車する駅でもあり、利用者も多く駅前は人で溢れていた。これだけ人が多ければ、顔バレする可能性も低くなる。一応、普段はしない帽子と眼鏡をかけてはいるが、それだけでは不安を拭い去ることは出来ない。なるべく、早く少女と接触したかった。腕時計で待ち合わせ時間を確認する。すでに約束の時間から二十分も経過していた。あと、十分たって来なかったら帰ろう。そう決めていた。

「まつき……さん、ですよね? わたし」

「加奈ちゃんだよね。待ってたよ」

僕の前に、痩せた少女が姿を現した。想像よりも背が高く、色が白かった。ただ、その白さは霊華とは違い、不健康という印象しか僕には与えなかった。

目の下には隈のようなものがあり、彼女の抱えている疲労を感じることが出来た。一瞬、高校生なのかと疑ったほど、彼女からは大人の女性の色気を感じた。


「人が多いですね。日曜日だからかなぁ」

少女は、目を細め周囲を見渡した。彼女のボブヘアが揺れる度、強烈な香水の匂いがした。

「…………」

「無口なんですね。つまらないですか? 私といるの」

「そんなことないよ。喫茶でお茶でもしようか。ここは人が多すぎるしさ。ゆっくり、君と話をしたいから」

「はい。分かりました」 

違和感。

先ほどから何か違和感があり、それは僕に警鐘を鳴らしていた。しかし、その違和感が何であるのかまでは分からなかった。しばらく、様子を見ることにする。喫茶店に入ってからも違和感は消えることはなく、むしろ強くなっていった。当たり障りのない会話で時間を消化していく。

「へぇ、松木さんって釣りが趣味なんですね。私も釣りしてみたいです」

偽名に嘘の趣味。他にも彼女には、たくさんの嘘をついている。僕は、完全に別の人間『松木』になりきっていた。

「今度一緒に行こうね。加奈ちゃんは、趣味とかそういったものは何かあるの?」

「趣味……ですか。特にないですね。これといって」


最近、この無趣味という子が結構多い。つまり、何に対してもさほど興味が湧かず、ただなんとなく毎日を過ごしている。時間は膨大にあっても充実した日など一日もないのだ。
僕も高校時代は、こういった類の人間だった。霊華に出会うまでは。


「このお店、雰囲気がいいですね。良く来るんですか?」


「いや、この店は初めて入ったよ。でも外見で判断して、この店は当たりだと思ったけどね。お店の前は、綺麗に掃除されててゴミ一つなかったし、お店の命である看板も綺麗に磨かれてた。裏路地にあるのに結構お客さんも多い。この辺に住んでる人たちの隠れ家的なお店なんだろうね、きっと」

僕は、ざっと店内を見渡した。
大学ノートに何かを記入している学生、寝ている赤ちゃんの横で携帯をいじっている母親。カバンからノートパソコンを取り出し、その画面を見てブツブツ何かを喋っているサラリーマンらしき男性。若者が少なく店内は静かで、ゆったりとした時間が店全体に流れていた。

「松木さんのご自宅ってどこなんですか?」

「神里駅から、徒歩二十分ってところかな。ここに比べたら、随分田舎だよ。海が近いってことぐらいかな、いいところは」


「……行ってもいいですか? ご迷惑でなければ」

加奈と名乗る少女は、遠慮がちに僕にそう言った。

「うん。大丈夫だよ。タクシーで行こうか、電車より速いし」

どうやら、この少女にかなり気に入られたようだ。あと数回デートもどきをしなければ、自宅まで連れてくることは無理だと思っていた。出会い系で知り合った少女と言っても焦りは禁物で、時間と金をそれなりに使わないと相手に嫌われ、逃げられる。今回のように、一回のデートで僕の家までついてくる少女は、過去にはいなかった。思いの外、うまくいったことに内心かなり喜んでいた。これで、また霊華も助かる。タクシーの中で、霊華にメールを打った。新しい少女が手に入ったから、少しの間外出していてくれという内容。さすがに、家の中に奥さんがいたらこの少女も気分を害し、二度と僕とは会ってくれないだろう。

家から少し離れた場所でタクシーを降りた僕と少女。特に会話もなく家の前まで歩いた。

「ここだよ、僕の家は」

「一軒家なんですね。マンションかと思ってました」

「二年前に購入したんだ。このまま何年も家賃を払い続けるより、経済的だしさ」

少女は、家を珍しそうに見上げていた。そして、なぜかクスクスと笑い出した。

「どうしたの?」

「い、いえ。なんでもないです」

僕は家の鍵を開け、少女を中に通した。メールで指示した通り、霊華の姿はなく、家の中は静まりかえっていた。

「綺麗なお部屋ですね。新築の匂いがします」

「買って、まだ二年だからね。ここに住む前は、借家にいたんだけど。職場に遠かったし、近所もうるさくて結構苦労したな」

僕は、キッチンで冷たい麦茶を用意していた。少女は、大人しくソファーに座っている。それを確認した僕は、少女が飲むコップに睡眠薬の少し青みがかった液体を入れた。スプーンで音を立てないようにかき混ぜる。

「足を伸ばして、ゆっくりしてていいからね。テレビ見ててもいいよ。今の時間は、つまらないドラマか、ニュースしかやってないだろうけど」



「はい、分かりました。でも今は、テレビ見る気分じゃないので遠慮しときます」

僕は、麦茶とシュークリームが入った皿をテーブルに乗せた。

「こんなものしかないけど、食べて」

「いただきます」

一口だけ、シュークリームをかじると僕の方を見ながら麦茶を飲む少女。

「松木さんは、食べないんですか?」


「い、いやっ。食べるよ。シュークリームは大好物だからね」

僕もシュークリームにかぶりつく。甘ったるいクリームが、口全体に広がった。
横目で少女の様子を観察する。麦茶に入れた睡眠薬は即効性なので、十分もしないうちに効き始めるはず。

「松木さんって、教師なんですか?」

「えっ」

突然の少女の問いに上手く反応が出来なかった。少女には、僕が教師であることは隠している。バレるはずがない。

「僕は、ただの保険のセールスマンだよ。メールでもそう言ったでしょ? 教師なんかじゃないよ」

自分でも動揺しているのが分かった。心臓を落ち着かせ、演技を続ける。

「どうして、そう思ったの?」

「フフ、さぁ……どうしてかなぁ」

少女が、僕の顔を見てニヤリと笑った。薄気味悪い笑みだった。コッ、コッ、コッと壁時計の音だけが僕の耳に聞こえた。

「君は、」

会話を続けるとボロが出る。僕は、慌てて口を閉じた。

「……んぅ」

僕から視線を逸らした少女は、ダランと首を下げ、大きな欠伸をした。

「なんだか……眠くて。少し、横になっても……いいですか?」

「うん、いいよ。ゆっくり眠りなさい。今、毛布を持ってくるよ」 

それからすぐに少女は、静かに寝息を立て始めた。

「はぁ」

思わず、安堵の溜息が出る。理由は分からないが、長時間この少女と一緒にいるのは危険だと僕は判断した。一刻も早くこの少女を地下室に監禁しなくてはいけない。
抱きかかえた少女の体は、見た目以上に重く、地下室に行くまで僕は何度も休憩を挟まなくてはいけなかった。やせ細ったこの少女のどこにこんな重さがあるのか、疑問だった。
二十分もかけて、やっと地下室に少女を入れると、その両手に鎖付きの手錠をし、両足を拘束具で固定した。完全に少女の自由を奪うとやっと心が落ち着いた。 

自分でもどうしてこんなに焦っているのか不思議だった。額から汗が流れる。少女に背を向け、歩き出した。

その時ーーーーー。


「松木さんは、こんな変態な趣味を持っていたんですね。私、ショックです」

僕は、振り返った。少女は目を開け、上目遣いに僕を見ていた。その目からは、眠気を一切感じなかった。

「どうして……」

こんなことはありえない。ありえないんだ! 
あの睡眠薬は、通常二時間は効果が持続する。こんな数十分で効果が切れるはずがない。この少女は、確かに麦茶を飲んでいた。

薬の配分を間違えたのか? 
いやっ、そんなミスはしない。適量だったはずだ。

なら、何故。

「『どうして』って、さっきも言ってましたよね。松木さんの口癖ですか? フフ。さっきの質問の答えですけど、アナタが教師だと分かったのは、匂いがしたからです」

「匂い?」

「はい、そうです。松木さんからは、いろんな若い男の子や女の子の匂いがします。しかも、ほとんどが処女、童貞の匂い。私が、好きな匂いなので良く分かります。こんな匂いを身につけている職業は、教師ぐらいしかありませんから」


「大人をからかうもんじゃないよ。そんな匂いが分かるわけないだろ」

僕の声は、震えていた。

「それが、分かるんですよ。だって、私は」


少女は、視線を両手に下げると一気に手錠を引き千切った。

ギッーーーー。……シャリ。

ジャッッリン!!

今までに聞いたことのない金属の悲鳴が聞こえた。ジャラジャラと音を立てて落ちる手錠と鎖。自由になった両手でゆっくりと時間をかけて足枷を外す少女。僕は、ただその異常な光景を黙って見ていることしか出来なかった。

「私、獣人なんです。獣人は、普通の人間より何倍も鼻が利くんです。犬や猫のように。驚きましたか?」

笑いを耐えながら、少女は告白した。それは、まるで悪戯のばれた子供のようだった。

『獣人』

その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏に霊華の発作時の姿が浮かんだ。この目の前の少女も霊華と同じように体が変異するのか? 

「やっと今、分かったよ。君に抱いていた違和感の正体が。それは、『殺気』だ。僕だけじゃない。駅前にいた全ての人間を見るとき、君の目には尋常じゃない殺気を帯びた冷たい光が浮かんでいた。その目で物色していたんだろ? 餌となる人間を」


「凄いです! 私のことを観察していたんですね。それに、私が獣人だと知っても逃げることもしない。普通の人間なら腰を抜かしていますよ? フフ」

少女は、立ち上がるとコンクリートの壁をその白い指先で撫でていく。撫でるたび、その足元にパラパラと白い粉が落ちていく。少女の指先の爪は、すでに人間のものではなかった。軽く撫でるだけで、壁を深く抉り取っていく。五本の白線が、少女が歩いた分だけ伸びていく。

「アナタの奥さんも獣人なんですよね。前に一回、町で見かけたんです。アナタと奥さんが仲良く二人で買い物しているところを。血の臭いですぐに分かりましたよ。そして、嬉しくなったんです。私と同じ仲間が、こんなに近くにいたことに」

「僕と今日こうして会ったのは、君の計画だったの?」

「はい。そうです」

「目的は何?」

「さっき。アナタの奥さんを見て、私のような獣人がいて嬉しいって言いましたけど、あれは半分嘘です。まぁ、確かに最初見たときは感動すらしたんですけど。そのうち憎くなりました」

「憎い? どうして」

僕は、搾り出すように声を出した。それでも掠れた声しか出なかった。人間である僕に獣人は殺せない。たとえ今、拳銃のような殺傷武器を持っていたとしても結果は同じ。それほどの力の差が、彼らとの間にあることを僕は霊華を見て知っていた。
少女の背筋は、ボコボコと盛り上がり、腕や足も太く凶暴に膨れていく。顔が縦長になり、一秒一秒経過するごとに人間の面影が失われていく。



「私には、恋人はおろか友達すらいない。それなのに、彼女には夫がいて幸せに暮らしている。不公平じゃないですか、こんなの。同じ獣人なんだから、私と同じように彼女も不幸にならなくちゃダメなんです!」

理性を少し残した状態で、少女は僕に一歩一歩静かに近づいてきた。

「僕を殺すのか?」

「はい。殺します。アナタを殺せば、奥さんもきっと不幸になります。そして、私のように孤独になります」

「ハハハハハハッ」

「何が可笑しいんですか?」

「君は、間違ってる。僕を殺したところで、妻は君のようにはならないよ。アイツはね、初めから幸せだったわけじゃないんだ。自分の運命を呪って、それでも歯を食いしばって頑張ってここまで生きてきたんだ。自分の力で幸せを勝ち取ったんだよ。君みたいに幸せになることを放棄した腰抜けじゃあない。僕を殺しても、きっと立ち直る。君とは違い、必ず不幸を克服する。僕は、そう信じてるよ」

「だまれっ! ただの人間のくせに」

霊華、ごめん。
もう少し、僕も頑張って生きたかったけど……ダメみたいだよ。最後に君の笑顔を見たかった。

あと少しだけ、一緒にいたかっ…………。

グチュ、グチュ。
ザァアァァー。
ザァァァ。

目の前が、霞んでいく。自分の左胸からは、夥しい量の血が流れていた。自分が倒れている周りには、血の水溜りが出来ている。こんなに大量の血が体内に入っていたことに少し驚いた。僕は、こんな絶望的な状況なのに妙に落ち着いていた。全身の力が抜けていくのが分かると『死』という存在が大きくなり、それが自分の上に覆いかぶさってくるようだった。それでも僕は、恐怖を感じていなかった。目は見えなくなりつつあったが、そのぶん音には敏感になっていた。

誰かが、階段を下りてくる音が聞こえ、その足音が大きくなり、次に悲鳴のような声が聞こえた。そして、僕の体の前を大きな黒い影がザッと横切るとーーーー。
次にスイカが潰れるような音がして、パラパラと腹の上に何かが降り注いだ。床に何度も何度も何かを叩きつける音がして、その度に地震のように部屋が揺れた。泣き叫び、懇願する声が聞こえた気もしたが、すぐにそれも聞こえなくなった。

頭が、ボーとして。意識が曖昧で……。


体はダルくて、疲れていた。ゆっくりと目を閉じた。