「ナオちゃん達の部屋は、確か五階だったよな。とりあえず五階まで行って、一階へと続く階段全てに割ったガラスを大量にばら撒く。念のため、エレベーターも使用出来ないようにする。それでしばらくは、覚醒した未来君を五階に足止め出来るはず。……………たぶんね」


僕とおじいちゃんはエレベーターで五階へと向かった。一度、自分たちが泊まっている部屋を確認した。物音はなく、特に問題なさそうだ。階段に割ったガラスをジャラジャラと撒いていく。六十を軽く越えているおじいちゃんだが、その身のこなしは忍者のように身軽で素早かった。無駄な脂肪などない洗練された肉体。見ていて、男の僕でも見とれてしまうくらい体格が良かった。二十分ほどで作業を完了した。一階まで降りた僕達は、椅子等で開いたエレベーターの扉が閉まらないようにした。


「はぁ……ぁ……終わった」

「だな。お疲れ」

「二人ともこっちへ来て。朝ご飯にしましょう」


おばさんが、僕たち二人を手招きする。開放的なロビーのテーブルにさまざまな料理が陳列していた。


「さっき、ナナちゃんと二人で準備したのよ。緊急事態だから、こんな場所で悪いけど」


「あ、ありがとうございます」


僕たち四人は、席に着いた。命を狙われている今の状況が嘘のように、この場は和んでいた。相手には、相変わらず襲ってくる気配はない。持久戦になりそうだ。


「どうしたの? ナオ。さっきから全然食べてないし。………お腹痛いの?」


「いや、そうじゃないんだけどさ。なんでかな、朝から全然食欲ないんだ」


先ほどから、体の調子が悪かった。緊張やストレスからくる体調不良とは違う気がする。
気分が落ち着かない。急に襲ってきた体の異変。


「ナオ君。おばさんに少し両目を見せてくれる?」


いつの間にか、僕の横に座っていたおばさんが、優しく僕の両目を覗き込んできた。


「今、どんな気分? もしかして、凄くイライラしてない?」


「はい。なんだか、興奮して………。どうしたんだ。なんで……」

確か、前にもこんな状態になったことがある。あの時は前園さんのことで、おばさんを傷つけてしまった。

額を汗が流れていく。マラソンした後のように呼吸は荒く、乱れていた。近くにいるおばさんの白い肌を噛み切りたい衝動。純白のものをメチャクチャに汚したい黒い思考が止まらない。


「時間がないから、率直に言うけど。ナオ君は、今覚醒しつつあるとっても不安定な状態なの。前から少しその傾向があったけど……。私の予想より、はるかに早く獣になりそうね。五分もしないうちに体が変異する。そして、私たちを襲うようになる。でもその前にナオ君を気絶させるから大丈夫よ。安心してね。時間を稼いで、その間に必ず薬を手に入れるから」


僕が、獣に………? 

この体の異変。病気とはまるで違う。力が、体の奥から溢れだし止まらない。

突然、後頭部に鈍い痛みを感じた。おばさんが、右手で素早く首の後ろに打撃を加えていた。でも、気絶することは出来なかった。


「攻撃する瞬間、その当たる部位だけ高速変異して肌を強化してる。…………こんなの見たことない。ナナちゃん! 手を貸して」


ナナとおばさんは、二人で僕の体を押さえつけたり、打撃を与えたりしたが、僕の変異を止めることは出来なかった。抵抗するつもりは全くない。それなのに、体が勝手に相手の攻撃に反応し、ことごとく防御していた。すでに人間の目では追えない素早い動きで、攻防を続ける三人。完全に変異するまでに残された時間は、あとわずか。


背中に触れたナナの手を無意識に掴んだ僕は、そのナナの華奢な体を思い切り壁に投げつけた。ナナは、壁に当たる直前で体勢を立て直そうとしたが間に合わず、全身を強打する。ドサッと床に倒れた。


「おばさん………僕を…殺して………。お願いしま…す………」


消え入りそうな声で、おばさんに懇願した。これ以上、誰も傷つけたくなかった。意識が飛びそうで話すことも難しい。このままだと本当にナナやおばさん、おじいちゃんを殺してしまう。


「そんなこと出来るわけないでしょ!! 方法はあるはず。だから諦めないで。しっかりしなさい」


床に倒れていたナナは、幽鬼のようにダランと両手を下げて立ち上がると、音もなく僕の背後に回り込む。天高く振り上げた左足を僕の頭上に思い切り振り下ろした。強烈な踵落とし。白い床が割れ、僕の両足は数センチ床にめり込んだ。パラパラとガラスのような堅く黒い皮膚が、足下に落ちてくる。普通なら頭蓋骨が陥没、首の骨がバキバキに折れ、絶命している。しかし、今の僕にウィークポイントなどなかった。無駄な攻撃を何度も何度もナナは、繰り返した。


そんな悲しそうな顔をしないでよ。もう気付いてるだろ? これ以上は、無理だってことに。


「絶対に止める。死んでも止め…る………」


飛んできたナナの涙が、僕の牙に触れた。………涙って、やっぱりしょっぱいな。

今更だけど僕、キミのことをーーーー。


ホテルの出入口に突進した。何も考えず、ただ走った。単純な命令しか、もう言うことを聞かないこの体。手に触れた石柱をなぎ倒した。窓ガラスが砕け散る。


「ナオっ!! やめて」


好きみたいだ。



今年の文化祭も未来とナナと三人で、またバカ騒ぎしたかったなぁ。当たり前の明日が来るはずだったのに……。おばさん。図々しいけど、おじいちゃんのこと頼みます。一人だと心配だから。

瓦礫と土煙が、ホテル前の大通りまで曇らせる。外に出るとその眩しさに目を開けられなかった。


早く殺せ。


これが、お前達が欲しがっていた獣人の体。人体実験でも何でも好きに利用すればいい。


『守るものが出来たんだね、ナオ』

目の前に二人の大人が立っていた。一人は、男性でジーンズに黒のパーカーを着ている。もう一人は女性で、何故か白衣を着ていた。女医のような格好だった。


『すぐ終わらせるから』


一瞬で僕の鼻先まで接近した男性は、ポケットから取り出した注射器を僕の胸に刺した。

その速さは、覚醒した僕の目でも追えなかった。しかも、いつの間にか僕の両手は、女性に掴まれていて指一本動かすことが出来ない。顔色一つ変えず、僕の暴走を赤ん坊をあやすように二人は、抑え込んだ。


ナナやおばさんですら、覚醒した僕の暴走を止められなかったのに。この人たちは、一体何者なんだ? それにさっきまで僕たちをマシンガンで狙っていた敵の気配がしない。


「だ……れ?」


貧血時のように目の前が真っ白になっていく。倒れる瞬間、二人が笑っているのが分かった。



『今は、ゆっくり眠りなさい』


…………………。
……………。
………。


どれくらいの時間が経ったのか。僕は、気がつくとベッドの中にいた。周囲を見渡すと他にもベッドが五つあり、どこからともなく消毒液の匂いがした。起き上がると軽い目眩がしたが、それ以外に体に異常はなかった。


「おじいちゃん……。ナナぁ……」

かすれた声で呼ぶが、返事がない。

病院の外に出ると、香ばしい匂いがした。煙と火。近くの広場でバーベキューをしている人の群れが見えた。すぐにそれが、ナナ達だと分かり、僕は走って合流した。


「からだ、だいひょうふ?」


ナナは、焼いた肉をリスのように口いっぱいに頬張っていた。


「うん……。何とか。ここは、どこ? 助かったの?」


「ここは、私たちの隠れ家だよ。元々病院だった場所だけど、少しリフォームして住んでる。ナオ達を狙っていた小悪党は成敗した。てんで弱かった。武器は立派でも実践経験がないのが丸分かりだったし」


ナナの隣にいる白衣の女性が、僕に話しかける。新しい肉と野菜を持ってきたのは、おじいちゃんと僕に注射を打った男。二人は楽しそうだった。


「顔色が、だいぶいい。直接、ブラックモンキーの血を注射で体内に入れたからね。カプセルとして加工する前より、即効性があるんだ。あの方法だと、成功すればすぐに元の体に戻れる。たまぁに体が爆発するような小さな副作用があるから、あまりオススメ出来ない方法だけどね」

白衣の女とこの男に見覚えがあった。家に飾ってある写真の中の人物とそっくりだったから………。


「どうして、今まで一度も会いに来てくれなかったの? 危険なのは分かってるよ。でもさ、同じ獣人のおばさんは、ちゃんと子供と一緒に生活出来てる。どうして、僕だけ」


「私が、ナナちゃんと今もこうして生活出来ているのは、裏でナオ君の親が私たちを守ってくれてたからなのよ。私たちを狙っていた組織と本格的な戦争状態になった時ですら、君の両親は、私の参加を許さなかった。敵に私の存在を知られるのを防いだ。組織は壊滅させたけど、その代償としてナオトとヒカルは、ブラックリストに載ってしまった。一度リストに載ってしまうと顔などの身体的特徴が全部公開されるからね。今でもそれを見たつまらない賞金稼ぎに命を狙われることになる」


母さんが、僕の隣に来た。


「でもね、ナオ。私達は、少しも後悔してないよ。だって、あなたはまだこうして生きてる。立派に成長してるんだから。私たちみたいなダメ親を恨むなら恨めばいい。こんな親と絶縁したいなら、今からでも親子の縁を切ってもかまわない。でもね、これだけは信じて。私たちは誰よりもあなたを愛してる。あなたの為なら何だってするよ、私たちは」


僕は、両親の顔を交互に見た。二人の目から迷いや後悔を感じることは出来ない。その代わり、強い信念を感じた。


「恨むなんて出来ない。母さんや父さんの想いを知ったら、そんなこと出来ないよ。こうして、会えて良かった。本当に、二人に会えて良かった………」

両親の愛を感じ、僕の心は満たされていた。だから、これからもおじいちゃんと二人で生きていこう。そう決心した。


「まぁ、感動の再会も無事済んだことだし。今夜は楽しもう! なっ」


おじいちゃんが、僕たちに飲み物を手渡す。ナナの隣の席には、ちゃっかり未来が座っていた。今まで奴の存在を忘れていたことに気付く。


「ナナちゃん、今夜は星が綺麗だね。田舎だからかなぁ。都会より空が広い。この後、二人で散歩でもしない?」


「野犬に喰われろ。骨くらい拾ってやるよ」

「ナオのおばさん。この辺に磁場の狂った穴場ありませんか? 一度入ると二度と出てこれないような場所に行きたいんです、僕」

「フフ、面白い子。いいよ、後で連れて行ってあげる」

「ギョッ!?」


バーベキューは盛り上がり、僕たちは深夜まで飲み食いを続けた。未来が、間違えて酒を飲んで暴れたり、母さんとおばさんが、一升瓶を片手に飲み比べを始めたり、おじいちゃんと父さんの腕相撲対決など。僕たちは残り少ない時間を楽しんだ。


次の朝。
目が覚めると僕はパンツ一枚しか着ておらず、何故か未来とソファーで抱き合っていた。慌てて未来を自分から引っぺがし、急いでシャワーを浴びた。


「な、なな、何もない。うん、そうだ。記憶はないけど大丈夫」


いつもより、念入りに体を洗った。出発の準備を終え、僕たちは病院前のバス停に集合していた。ちなみにバスは来ない。ここは、廃病院だから。


「忘れ物ない?」


おばさんは、白の花柄ワンピースを着ていた。やっぱり、若くて綺麗だ。


「はい、大丈夫です」


「写真を撮ろう。思い出に、みんなで」

おじいちゃんのナイスアイディアに感謝。実は、僕も写真を撮りたかった。この幸せな時間を忘れないように。親子の絆を帰ってからも確かめるために写真は必要だ。


全員集まり、一列に並ぶ。

「ナオ。今度は、こっちから会いに行くよ。成長した君を見たいしさ」


父さんは、優しく僕の背中に触れた。僕の隣には、母さんがいる。母さんも同じように僕の背中に触れ、優しく笑っていた。目が、赤く充血している。


「父さん。母さん。僕さ、まだ諦めてないよ。いつか、三人で暮らすことを目標にして今を精一杯生きる。だから、それまで絶対に死なないで」

これ以上話したら、僕まで泣きそうだった。


カシャッ。


この写真の中には、僕が守っていかなくちゃいけないものが写っている。獣人だとか、そうじゃないとかは関係ない。幸せになる権利は、平等にあるはず。もし、その権利を奪おうとする奴が目の前に現れたら、その時は僕も戦うだろう。両親のように戦い、そして必ず幸せを勝ち取る。

僕は、手の中の写真に誓った。