噂。

「また出たんだってよ。誘拐魔」

「え~、今度はどこよ」

「金糸町のさ、私立学校の生徒らしいんだけど。また一人消えたんだって」

「この近くじゃん。シャレになんねぇな、それ」

「だよねぇ、私のママも心配してさ。早く帰ってこいってうるさいんだ。部活だってまともに出来ないよ、これじゃあ。大会近いってのに」

「気持ち悪いよな。変態の仕業だろ、どうせ。そんな奴、私の竹刀でボコボコにしてやるのによ。殺しても正当防衛だろ」

「ハハ、やりすぎ。……あっ」

 
一限のチャイムの音が、学校中に鳴り響く。すると生徒の声も次第に萎んでいき、担任が教室に入る頃には、皆自分達の席についていた。進学校特有の緊張を帯びた空気が辺りに漂い始める。教室内の温度が一度下がった。教師は、素早く生徒の出席確認をとると教科書を開き、授業を開始した。

「三角形の重心の座標については、前回話したよね。四九ページ、問二。復習はしたかな? えっと……座標は、外心と一致するわけだから、この三角形は正三角形だということが分かるよね。この問題は、ベクトルでも図形でも答えは出るんだけど、面倒でも図をなるべく描いたほうがいい」

教師は、淡々と授業を進めていく。来年、受験を控えている彼らに解答力をつけさせる。難関大学に挑むには、一問でも多くの問題を解いていくしかない。この夏休みの期間が、勝負の分かれ道。かつて、彼もこの時期は死に物狂いで勉強した経験があった。彼は、無意識に自分の過去の姿を目の前にいる生徒に重ね合わせていた。

彼の名前は、九重光(ここのえひかる)。

私立、神里高校の数学教師。しばらくの間、黒板にチョークが当たるカッ、カッという小気味よい音と生徒のシャーペンが、紙を滑る音だけが教室内に響いていた。

…………………。
……………。
………。

今日の授業が全て終了し、僕は職員室で帰りの準備を始めていた。

「ねぇ、ねぇ、九重先生。昨日のニュース見たぁ? 金糸町の天林女子の誘拐事件。恐いよねぇ」

僕の右隣のデスクに座っている同僚の女教師、山中静(やまなかしずか)が、手鏡で顔のメイクをチェックしながら僕に話しかけてきた。

「そうですね。生徒には、一人で帰宅しないことと夜遅くに出歩かないように注意を促してはいるんですが。予備校とかもありますし、実際、徹底するのは難しいですね」

「予備校かぁ。やっぱり、特進クラスは違うなぁ。私の生徒なんかさ、普通にゲーセンで深夜まで遊んでるよ。アハハ」

「……笑い事じゃないですよ」

「でもさぁ、最初の誘拐事件からもう何年も経つのに全然犯人捕まらないね。警察、職務怠慢で訴えてやろうかしら。PTA煽ってさ」

山中先生は、アクセゴムでポニーテールを作っている。教師から一人の女に変わっていく瞬間だ。僕も男として少しドキリとしてしまう。

「早く犯人捕まってくれないと教師として寝付きも悪いですしね。いつ自分の生徒が標的にされるか分かりませんから」

「えっ? そうなんだ。私、メチャクチャ寝付きいいよ。最近」

本当に教師か? この人。

「何、その困った顔~。アッハッハ」

僕の微妙な顔が可笑しいらしく、チラチラこっちを見ながら笑っていた。

「九重先生って、面白いよね。う~ん、結婚さえしてなかったら、即立候補してたのに。ほんと、残っ念!」

嘘かホントか分からないことを平気な顔して言って、職員室を後にする山中先生。僕の心を乱して消えた。

暗くなる前に帰ろう。僕も職員室を後にした。
駐輪場にとめてあったマウンテンバイクに跨り、軽くペダルを漕いだ。すると、すぐに湿気を含んだ夏風が、僕の顔を優しく撫でていく。敏感になった鼻が、いち早く潮の香りを感じ取ると、すぐに僕の前に青い海が広がった。キラキラと夕日を浴びて輝く海面。海猫が数羽飛んでいた。海岸沿いの道を十分も走ると、ポツポツとマッチ箱のような住宅が見え始め、その中に我が家もあった。玄関ドアの横にマウンテンバイクを置き、家のチャイムを鳴らす。もちろん、僕も家の鍵を持ってはいるが、昔からの癖でどうしてもチャイムを鳴らしてしまう。

「どちら様ですか?」

「光だけど」

「どの光ですか?」

「アナタの夫の光だよ」

カチャッ! という音と共にドアが開いた。中から顔を出したのは僕の妻である、霊華(れいか)。彼女は、少し眠そうな顔をしていた。昼寝をしていたに違いない。

「おかえりなさい、ダーリン」

「今まで一度もダーリンなんて呼んだことないでしょ? 急に呼び方変わるとビックリするからやめてよ」

「なによ、その言い方っ! いいじゃない、たまには。こういうラブラブ夫婦を演じたってさ」

拗ねたようだ。僕を親の仇だと言わんばかりに睨みつける。しばらくして、妻の様子を窺うと、部屋の奥で胡坐をかいてテレビを見ていた。僕は、部屋着に素早く着替えるとソファーに腰を下ろした。妻は、こちらをチラッと見たが、すぐにテレビ画面に向き直る。まだかなり怒っている。

「ごめんね。僕が悪かったよ」

こっちを見てもくれない。

「ハニー、愛してる。世界中の誰よりも。だから、許してよ」

「ぅ……今回だけは、許す。先に夕飯食べるでしょ? すぐ準備するね」

そう言うと、妻はキッチンの奥で夕食の準備を始める。背伸びをして戸棚から皿を取り出していた。

「それ手伝うよ」

「あっ、ありがとう。じゃあ、このお皿運んでくれない? 割らないでね」

「今夜は、ハンバーグか。美味しそうだね」

「ハンバーグ好きでしょ?」

「うん」

「子供が好きな食べ物は、光も好きだよね。フフ」

妻は、嬉しそうに笑った。童顔なので一瞬、中学生のように見えた。子供みたいだが、実は僕よりも年上。しかも、昔は僕と同じく教師をしていたこともある。
さらに、妻は僕の恩師でもある。先生とその教え子、そんな二人が結婚。

まるでドラマみたいな話。

「学校、どうだった? 可愛い子に『先生、素敵ですわ。付き合ってください!』とか言われなかった?」

「言われなかったよ。そんな漫画の中のお嬢様キャラの持ち主もいないしね、うちのクラスは。今は、受験一色って感じかなぁ」

「ふ~ん、みんな真面目なんだね。昔は、光みたいな悪ガキもいたのにね」

テレビでは、地元のニュースを放送していた。昨日に引き続き、誘拐事件の特集が組まれている。僕は、リモコンを手に取り、チャンネルを歌番組に変えた。露出度の高い女性シンガーが、バックダンサーを従えて腰をフリフリ踊っていた。
見えそうで見えない、最高のチラリズム。

「……チッ」

僕は、動揺を隠しながら箸を持つ。自分の食べかけの皿を見るとハンバーグが一つ増えていた。霊華が、自分の分のハンバーグを僕の皿に移したみたいだ。

「体の調子、悪いの?」

「今のところは大丈夫だよ。発作も起きてないし」

「そっか。ならいいんだ。発作が起きそうになったら、すぐ教えてね。用意するのに少し時間がかかるからさ」

「光……大丈夫? 無理してるでしょ、私のために」


「僕は、大丈夫だよ。無理もしてない。つまらない証拠も残してないから、捕まる心配もないしね」

「ごめんね、ほんと。私のためにこんな危険なことさせて」

「何言ってるの? 夫婦は助け合うものでしょ。本当に大丈夫だからさ、心配しなくていいよ」

僕は、ハンバーグを一口サイズに箸で切ると口に放り込んだ。溢れ出た肉汁とソースの相性は抜群でご飯がすすむ。結局、三回もご飯のおかわりをした。
キッチンで、霊華が食器の洗い物をしている間、僕は地下室の様子を見に行った。ドライエリアを設け、湿気対策をした自慢の地下室だ。僕しか知らない暗証番号を入力し、鉄扉を開ける。四方をコンクリートの灰色の壁に囲まれた部屋。小さな羽虫のようなエアコン音。そのエアコンのおかげでカビの臭いもしない。温度、湿度ともに低く、快適に過ごせるように設定している。この部屋の設備は、ここに来る住人のために僕が用意したもの。

「たす………て」

しかし、今僕の前で鎖に繋がれている少女は、とても快適そうには見えなかった。誘拐して、この部屋に監禁してからずっと少女は涙を流し続けている。
少女の前に置かれたスープとパンには、今日も口をつけていない。もう丸三日何も食べていないことになる。このままでは、死んでしまう。死んでしまったら、後は腐るだけ。使い物にならなくなる。それは、どんなことをしても避けなければならなかった。

僕は、落ち着いた声で少女に話しかけた。

「何か食べないと死んでしまうよ? リクエストがあれば、なんでも食べさせてあげるからね。フルーツとかどう?」


「どう……して。こんなこと……」


消え入りそうな涙声で、少女は言った。唇が乾燥し、ひび割れている。涙で濡れた髪が、ベットリと痩せこけた頬に張り付いていた。三日前、僕はこの少女、桜木を誘拐した。少女には、出会い系サイトで一ヶ月前に知り合った。何度か町でデートの真似事をし、欲しい物を買い与え、ようやくこの家まで連れてきた。後は、簡単。

睡眠薬入りのジュースを飲ませ、眠った体を地下室まで運び、両手足をネットで購入した鎖で拘束した。鎖の端は、壁に頑丈に取り付けてあるので逃げることは出来ない。防音も完璧なので、叫び声をどんなにあげたところで誰にも聞こえず、ただこの部屋で虚しく響くだけだ。
鎖に繋がれたその姿は、一見すると奴隷のようだ。これがもし、普通の誘拐魔なら性的な行為に及ぶだろうが、僕にはその考えは一切なかった。
そもそも、目的が彼らとは大きく違うのだ。僕が、彼女を誘拐したのは霊華を助けるため。


「たすけ、て……おねがい……ます。なんでも……する……だからたすけて」


少女は、そう言うとシャツのボタンを一つずつ震える手で外していく。スカートも脱ぎ、下着姿になった。白いブラとショーツだけとなった少女は小刻みに震えており、それでも僕の顔を見て、女の色気をアピールした。


「そんなことはしなくていいよ。僕には、その気はないしさ。服を着なさい。風邪を引いたら大変だ。……もうすぐ解放してあげるよ。だからさ、少しでいいから何か食べなさい」


僕は、怯えている相手の顔を見て優しく諭した。

「ほんとう? 本当に解放してくれるの」

少女の目に光が宿った。この光は、彼女の生きたいという想いそのもの。

「あぁ。だから、食べなさい。新しい食べ物を今持ってきてあげるからね」

僕は、そう言い残し部屋を後にした。十分後、食べ物を持ってきた僕に対して、服を着た彼女は掠れた声でお礼を言った。

「ありがとうございます。ぁ……このことは誰にも、絶対に誰にも言いませんから」

これほど分かりやすい嘘があるだろうか。たとえ、人生経験のない小学生でも彼女の嘘を見破れただろう。


「食べたら、眠りなさい。それじゃあ、また明日」

彼女は嘘つき。

でも、それは僕も同じだ。
彼女を解放する、それは絶対にありえない。そもそも解放するぐらいなら誘拐などしない。彼女の崩壊しつつある精神では、僕の言葉が神の言葉のように聞こえたのだろう。この閉鎖された空間では、一分が一時間にも等しく感じられる。気が狂い、舌を噛んで死んでしまわないように、僕は一日に何度か彼女の様子を見に地下室に下りた。霊華は、そんな僕の姿を見ても何も言わなかった。何も言わなかったが、その気持ちは痛いほど僕に届いていた。

僕には、地下室に行く以外にもやることがあった。それは、出会い系サイトで知り合った他の女子高生とのメールのやり取りだ。相手が喜びそうな話題を振り、よく相手の話を聞いた。僕自身、高校教師として生徒の流行や悩みを少なからず聞き知っていた。それが助けとなり、さほど苦労せずに相手の心に入り込むことに成功していた。
常に一人は、すぐに会えるようにしていた。緊急の場合に備えて、早めに準備を進めている。


「光。外、歩かない?」

お風呂から上がって、いつものようにメールを激しく打っていた僕に霊華は言った。

「今から? 湯冷めしないかな。明日じゃダメ?」

「ダ~メ。今から行くの。早く準備しなさい」

妻は、既に外出用の白いワンピースに着替えていた。僕も慌ててジーパンに着替える。
二人で海岸を散歩。静かな夜だった。


「なんか空気が澄んでて気持ちがいいね。星も綺麗だし」

霊華と同じように空を見上げる。確かに今夜は、大小さまざまな星が煌いていた。都会に住んでいた頃は、空を見上げるという行為すらしなかったので、空から感動を得ることもなかった。
僕の少し先を歩いていた霊華が突然立ち止まり、蹲った。

「どうした?」

「ヤドカリが歩いてる。フフ、ちっこくて可愛い」

霊華の股の間をヤドカリが横断している。止まっては動き、またしばらく止まっては動く。その繰り返し。その姿を面白そうに見ている。屈んだ霊華の服の間からは、雪のように白い肌が見えた。それを見た瞬間、抱きしめたい衝動に駆られた。

「光。どうして教師になったの?」

僕は、暗い海を見ながら、その湿った声を聞いていた。


「そんなの決まってるでしょ。霊華に近づくためだよ。僕バカだったからさ、教師になるために必死に勉強したんだ。本当に死に物狂いでさ。霊華と同じ教師になれば、付き合えるって本気で信じてて。まぁその妄想があったから頑張れたんだけど」

「妄想が現実になったじゃん。良かったね」

「ハハ、そうだね。でも、僕が教員免許を取得したときには既に霊華は東京にはいなくてさ。しかもこんな田舎町に引っ越しててビックリしたよ。教師も辞めてるし」

「……ごめんね、教えなくて。心配かけたくなかったから。でも光が教師になったってメールで知った時は、凄く嬉しかったよ。本当に頑張ったんだなぁ、コイツって感じでさ。教え子として誇らしくなったもんよ」

背伸びをして僕の頭を撫でようとしている。が、背が低いのでそれでも届かない。僕は、腰を少し曲げた。霊華の小さな手が、僕のまだ湿っている髪を摩る。


「でも、あの学校一の不良生徒が先生になるんだから世の中分からないよね。あの頃の光は、金髪でピアスもしてたし。それに自分のこと『オレ』って言ってたよね。外見変わると中身も変わるのかなぁ、人間って」

確かに僕は、昔は自分のことを俺と言っていた。

いつからだっけ? 

自分のことを僕って言い始めたのは。

「そろそろ帰ろうか、寝るのが遅くなるし。明日も学校でしょ? 先生が寝坊したらカッコ悪いしね」

「そうだね。でもさ、今夜もエッチなことするから寝るのはどうせ遅くなるよ」

「……そういうこと、真顔で言わないで。恥ずかしいから」

照れてる。僕は、霊華の小さな体をそっと抱き寄せると、その顔にキスをした。目を閉じて、頬を赤く染めている。この仕草は、付き合ってるときから変わらない。あの頃のままだ。

『獣人』は、あまり歳をとらないから。

僕は、ゆっくりと目を閉じた。昔の光景が蘇ってくる。
これは、僕の命より大切な記憶。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「あっ! またそんなところでタバコ吸って。ダメだよ、まだ高校生なんだから」

「またかよ……。アンタも懲りねぇな。もう俺なんか無視してればいいのに」

「無視は出来ないよ。一応、私の教え子だし」

俺は、この女が嫌いだ。何かと俺の邪魔をするから、めんどくさかった。

「タ・バ・コ。消しなさい」

そんなに見つめられると落ち着いてタバコすら吸えない。本当に邪魔な女。俺は、タバコを足元に捨てると靴底でタバコが粉々になるまで踏み続けた。

「そっ! それでいいのよ。授業には出ないの? このままじゃ、どんどんおバカさんになるよ。来年は、受験でしょ?」

この女、正気か? こんな俺が勉強したところで、どこの大学が入学を許可するって言うんだ。それに、今更何をしても手遅れ。学校の成績も学年最下位だしな。

「受験なんかしない。アンタ、今の俺の成績知ってんのか? つまらねぇ冗談言うな」

「冗談? 何が。九重はさ、やれば出来る子だって思うけどな。勉強だって、ちゃんと真面目に机に向かえばすぐに成績もアップするよ。絶対」

「はいはい。じゃあ、俺は帰るから」

俺は、振り返らずに歩き出した。アイツは、子供のように口を尖らせて拗ねていた。

「わたし」

今日は、何するかな。あぁ、つまんねぇ。毎日、毎日。同じことの繰り返し。本当、つまんねぇ町だ。ここは。

「九重のこと信じてるからね!!」

俺の足が、止まった。無意識に。止まったと言う事実に自分自身が一番驚いていた。

「なに?」

「私はさ、九重を信じてるよ。だから、私だけは裏切らないでね。ショックが大きいから」

「バカだな、お前。ほんと、バカだ。俺を信じるなんて」

「うるさいっ! そんなにバカバカ言うな。もう決めたの。私は、アンタを信じるって」

校門を出てアイツの姿が見えなくなってから、俺は一度だけ振り返った。巨大な校舎が、俺を押し潰そうとしているようだった。俺みたいな人間のゴミを排除しようとしている。
このバカでかい校舎には、生徒が八百人以上、それと五十人以上の先生がいる。でも、その中でアイツだけが俺を信じてくれている。アイツは、嘘をつけるほど器用じゃないから。俺は、凄く動揺していた。アイツの「信じる」って言葉が、いつまでも俺の頭に鳴り響いていた。



「朝だよ。起きて」

「……」

夢。懐かしい夢を見た。

「遅刻しちゃうよ」

「起きてるから、そんなに激しく体を揺すらなくていいよ」

僕の体をゴロゴロと布団の上で転がしていた。目が回る。

「おはよう」

「うん。おはよう」

霊華は下着を着ていたが、僕は全裸だった。なんとかトランクスだけを発見し、身に着けた。
妻は、僕の顔を嬉しそうに見上げていた。

「どうしたの?」

「ううん。光が、まだ私と一緒にいてくれたから嬉しくて」

「そりゃ、いるでしょ。夫婦なんだから」

「そうだよね。それは、分かってるんだけど」

霊華が、悲しそうに目を伏せた。どうしていいか分からなかった。でも何かしなくちゃいけないと思い。そっと、壊さないように霊華の顔を僕のほうに向かせるとオデコに優しくキスをした。

「くすぐったいよぉ」

キスを繰り返す。白玉のように柔らかい頬やピンク色した唇にもキスをした。

「っもう! 本当に遅刻しちゃうよ」


霊華は、僕の体を両手で突っぱねた。

「イテテ。少しやりすぎた。そろそろ準備して行こうかな」

「うん。それがいいよ。コーヒーだけでも飲んでいくでしょ? 準備するね」

霊華は、リボン付きのネグリジェを着ると一階に降りていく。僕は、そんな妻の後姿を名残惜しそうに見ていた。


今日の授業は、正直暇だった。センター試験で出された過去十年間の問題の中から、間違えやすいものを僕が抜粋し、三枚のテスト用紙の中に収めた。

「……」

それを黙々と解いていく生徒。テストも終わり、授業時間が微妙に残った。
僕は、教室のドアを開けた。隣のクラスでは、まだ英語のリスニングのテストをしている。早めに生徒を帰宅させようと思ったが、これでは無理そうだ。仕方ないので、今更言う必要もないような受験対策で時間を潰すことにした。

「みんなは分かってると思うけど、センター試験のウエイトは大きい。先生の頃は、国公立大学を受験する人しかセンター試験は必要じゃなかったんだけど、今では私立大学でもかなりの大学がセンター試験も加味している。だから、今解いてもらったテストは、必ず家に帰って自己採点をしたほうがいいよ。センター試験は、解いた問題の量に比例して点数が上がるからさ」

「先生が高校生の頃は、頭は良かったんですか?」

このクラスで一番元気の良い剣道部所属の天海誠(あまみまこと)が、手をあげて質問してきた。

「頭は、良くなかったよ。だから、努力した。誰よりも勉強したと思うよ。一日の大半、勉強机の前にいたし、飯ですらそこで食べた。口に食べ物を入れながら、参考書を読んでたよ」


「うへぇ、マジかよ。凄いっすね」

天海は、心底驚いたように言った。彼女の小麦色の肌は、夏を感じさせる。

「受験するのは、親のためでも先生のためでもない。自分のためだよね。だからさ、しっかりと目標を持って、君たちには頑張ってほしい。偏差値の高い大学に行くのもいいと思うけど、そんな腕試しのようなことをするのはガキだとも思う。自分がさ、将来何になりたいのかをじっくりと考えて、そのために必要な知識、経験を身につけてほしい」

僕の話を静かに聞いていた天海が、突然立ち上がった。

「私……先生みたいな教師になりたいです!」


「えっ」

他の生徒が、天海と僕を交互に見ている。その目は、好奇に満ちていた。教室内が、ザワつく。


「憧れます。先生みたいな人」

天海の目は、純粋で濁りがなく、そんな目でいつまでも見られていることに僕は耐えられなかった。


「ハハ、なんだか照れるな。でもありがとう。天海も自分の夢を実現してね」

天海…………。
お前は知らないだろ? 

先生は、誘拐魔。世間を騒がしてる最低の犯罪者。お前と同じ女子高生を誘拐して、家の地下室に今も監禁してる。お前は今、そんな人間に憧れてるって言ったんだ。


「はいっ! 必ず実現させます。先生が、誇れるような人間になります」

お前の目には、僕はどう映っているんだ? 教えてくれよ、なぁ。

学校からの帰り道。自転車のペダルがいつもより重く感じた。僕の前から、墨汁を含んだ綿のような雲が迫ってきている。もうすぐ、どしゃ降りになるだろう。
早く、帰ろう。霊華の待つ家に。
家に着いた瞬間、シャワーのように雨が降ってきた。僕は、慌ててチャイムを鳴らす。
でも、応答がない。霊華は、出かけているのだろうか。仕方なく自分のスペアキーで家のドアを開けた。開けた瞬間、ムワッとむせるような熱気が顔にかかった。


「ただいま……」

返事がない。

やはり、出かけてーーー。

音?

キッチンから人の気配がした。微かな息遣い。

「いるのか?」

カバンを投げ捨て、キッチンに駆け寄った。そこで僕が見たのは。

「れいかっっ!! しっかりしろ」

床に倒れている霊華の姿だった。まな板には、刻んだキャベツが半分だけ残されていた。右手には、包丁が握られている。また、起きたのだ。あの発作が。
僕は、霊華から包丁を奪うとそれをまな板の上に乗せ、その軽い体を抱きかかえ寝室まで運んだ。霊華の顔を玉のような汗が流れていく。体中の水分を吐き出すような大量の汗だった。

閉じられている瞼を親指と人差し指で軽く押し広げた。

「くそっ!」

瞳が、琥珀色をしている。瞳孔も細長く、もはや人間の目ではなかった。発作が起きる間隔が短くなっている。
去年までは、半年に一度だった発作が、今では三ヶ月に一度のペース。このままじゃ、餌の確保が追いつかなくなる。先ほどから唸るような音が、霊華の喉元からあふれ出ている。唇を両手で静かにめくると食肉目特有の裂肉歯が小さく見えた。

とにかく時間がなかった。

こうなってしまえば、もう残された道は一つしかない。僕は、霊華の体を再び抱きかかえ、地下室に下りた。素早く暗証番号を入力し、中に入る。
目の前の少女は口を開け、目を丸くして僕と霊華を交互に見ていた。


「どっ、どうし、えっ?」

何から喋っていいのか分からないようだった。それもそうだ。きっと、彼女は僕のことを一人暮らしだと思っていたに違いない。メールのやり取りでも僕は、独身を装っていたし。


「この人は、僕の奥さんだよ。会うのは、初めてだよね」 


「奥……さん? 結婚されていたんですか。こ、こんな場面を見せて大丈夫なんですか?」

昨日よりも声に力がある。きっと、食事をとったおかげで少し元気になったのだろう。空になったスープのお椀が少女の足元に転がっていた。


「あぁ、大丈夫だよ。僕の奥さんも君のことは知っていたしね。別に隠してたわけじゃないんだ」

その言葉を聞いた瞬間、少女の目の奥がどす黒く濁った。僕は、その目から軽蔑と憤怒を感じた。

「…………鬼畜。あなた達夫婦は鬼畜です。こんな残酷なことをして。でも、もういいです。全て忘れますから。だから、早く解放してください! お願いしますっ」

少女は、頭を下げた。彼女の髪には、白い涙の結晶がポツポツと付着していた。


「僕と妻が、きちく? それは、違うよ。君は、勘違いしてる。僕は、確かに君の言うとおり鬼畜だよ。地獄に落ちるべき人間だ。でも妻は違う。僕とは違う。妻に鬼畜と言ったこと、謝ってくれないかな」

「だって、奥さんもこれを知ってて黙認していたんですよね? なら、おなじ」

「何が同じ?」

「え、あっ、その……。ごっ、ごめんなさい! 私、変なことを言いました。謝ります、ごめんなさい」

少女は、床に頭をつけて謝った。

「顔を上げていいよ」

この土下座に彼女の誠意などない。僕は、霊華の体を傷つけないようにそっと床に下ろした。霊華の伸びた凶暴な爪が僕の腕に食い込み、その傷からは、血がたらたらと流れていた。

トッ……。

床に落ちた血。僕は、ぼんやりとそれを見ていた。少女もやっと異変に気付いたらしく、怯えながらその変化を見ていた。

「なっーーー、えっ、なに? いやっ!! なんなのっ、コイツ」

「約束どおり君を解放するよ」

僕は番号を入力し、内側から厚い鉄扉を開けた。振り返ると、少女に襲いかかる巨大な霊華の背中が見えた。盛り上がった背筋で、霊華の白いシャツが引き裂かれている。

「助けてぇえぇ! だれかぁっ! この化け物をなんとかしてっ、いやぁあぁぁあぁ」

少女は、スープが入っていたお椀を拾うと、思い切り霊華の頭に投げつけた。

カンッ! 

乾いた音が部屋に響く。が、それだけだった。少しもダメージを与えることが出来ず、ただ怒りを買っただけ。霊華の口からあふれ出たヨダレが、少女の顔にかかった。その瞬間、少女の体がぶるぶると震え、少女は失禁した。水溜りが出来るほど大量の小便だった。

「おね、がぃぃ……たすけてぇ……おねがいぃぃ……」

既に限界を超えた少女は、両目から血の涙を流しながら、僕に最後の助けを求めた。

『フルルルルッ』

低い唸り声。

次の瞬間、少女は人間とは思えない声で絶叫した。ボキリ、ボキリ、という音。
霊華は、少女の腕を噛み千切っていた。血液がほとばしる肉の断面を一度だけ大きな舌で舐めると嬉しそうに目を細め、凶暴な歯で骨ごと噛み砕いている。

「ごめんね。妻には君のような少女の肉がどうしても必要なんだ」

これは、本当だ。発作が起き、変貌した霊華には生きた少女の肉が必要だった。人間以外の動物や加工した肉は、霊華は決して食べようとしない。男性や二十歳を過ぎた女性の肉もあまり食べなかった。高校生くらいの年齢の少女が、一番適していた。霊華の餌として。覚醒した獣人は、人間を喰うようになる。この残酷な運命から逃れる事は出来ない。覚醒している時は、その時の記憶がない。それが唯一の救いだった。

階段を上り、リビングに戻る。まだ、雨は降っていた。濡れた洗濯物をとりこみ、再び洗濯機の中に押し込んだ。キッチンに行き、出しっぱなしの野菜を冷蔵庫に戻し、ついでに麦茶を取り出す。冷えた麦茶で喉を潤すと胸がスゥーと爽やかになり、忘れていた空腹を思い出した。


「……………」

あと三十分で食事が終わり、霊華は元の姿に戻る。僕は、ソファーに寄りかかると耳を澄ました。雨音だけが、僕の耳を優しく刺激する。車が、雨をはじき飛ばしながら家の前の通りを通過していく。テレビ台の上には、霊華と行った沖縄旅行の写真があり、その中の僕は僕自身が恥ずかしくなるような満面の笑みだった。霊華は麦藁帽子を被っており、背が低いのと日に焼けたせいで地元の中学生のように見えた。

「また行きたいな。来年あたり」

霊華は、僕が出会った女性の中で一番純粋だ。その純粋さが彼女の雰囲気を良くしており、周りにいる人までも幸せにする。それは、彼女が持っている一番の才能であり、僕も尊敬しているところだ。目を閉じると、より一層雨の世界に意識を持っていかれる。頭の先端を誰かにつままれているような気分。自分が誰なのか、どこにいるのか。とても曖昧になっていく。

僕は、また昔の夢を見た。