第二幕
始動
明信の入院する個室からの帰り道、二人の高校生が、静寂に包まれた病棟を歩いていた、
「ああ、本当に良かった。まさか薬の大量服薬で死にかけるなんて、明信はやっぱりどうかしてる」
「ふふ、そうね、無事でよかった」
二人の顔には、同じような笑みが浮かんでいる。
「――さて、これからどうする?」
「これからって?」
「まさか、俺らの〝計画〟がこんなところで頓挫する訳にはいかないだろう?」
智がそう言うと、純香は上がっていた口角をさらに上げて、ニタっと笑う。
「当たり前じゃない。前にも言ったと思うけど、私と同じような趣味を持つ人なんて今まで会ったこと無かった。会うことなんてないと思ってた。それなのに、まさか高校のクラスメイトにいたとはね。私は、このチャンスを逃したくない」
「はは、大袈裟さ。俺だって、ずっと機会を伺っていたんだ。簡単なことじゃあないからな」
二人は顔を見合わせ、不気味に笑う。
「堕ちていく人間が見たい。……私は明信の信頼を思ったより簡単に得られて、本当に良かったと思う。もし失敗したら、それこそこの〝計画〟は頓挫してしまうもの」
「ああ、そうだな。俺は、今まで信じていたものが全て打ち壊され、そして、絶望に打ちひしがれる人間が虚無になって死んでゆく! そんなドラマチックなことが間近で見られる好機があるのなら、どんな事でもするさ!」
智は興奮した様子で、早口に言った。
「相変わらず、イイ趣味してるわね」
「はは、何言ってるんだ。お互い様、だろ?」
そう言って、二人は笑う。しかし、目は笑わず、ギラギラと光っていた。それはまるで、獲物を捉えた猟師のように。
「決行はいつだ?」
「そうね……明信が退院してから一週間後、なんてどう?」
「うん、良い頃合いだと思う」
それから二人に、少し気まずい沈黙が流れる。
「……前に確認したけど、あなた、本当に愛着はないのね?」
「言っただろう、俺はずっとこの為だけに、昔から付き合ってきたようなもんだ。今更そんなもの、あるわけないだろ」
その言葉に、純香は何も返さない。それを不信がってか、智も純香に問いかける。
「お前の方はどうなんだ。いつか終わるままごとだとはいえ、恋人として今まで付き合ってきたんだろ。……本当にいいのか?」
「当たり前でしょう? 私もあなたと同じ、目的のためならなんでもするわ」
二人は今度こそ互いに、確固とした信頼の目を向けた。
「じゃあ、また明日も、二人で見舞いに来よう」
「ええ。決してこの〝計画〟を悟られないように。あともう少しの辛抱よ」
自分自身にも言い聞かせるように、純香は呟いた。
白い廊下に、静かに、狂気の足音が響き渡る。
翌日、二人は病院の前に、午後六時に待ち合わせていた。
純香は今まで練りに練った〝計画〟の実行を想像し、思わず笑みが漏れた。ここ数年で最高の日になりそうだ。
「ごめん、純香。待った?」
「いや、私も今来たところ」
純香は相方の顔を見て、体の底から高揚感が溢れてくるのを感じた。
「やっぱり放課後は時間が無いな。部活も行けてないし、早く終わらせたいよ」
「何言ってるの。慌ててやっても、失敗するだけよ。ゆっくり、確実にいきましょう」
「……そうだな」
智が一瞬、目を泳がせたのを、純香は気づかなかった。口では慌てずに、などと言っているが、やはり心は急いているようだ。
病院に足を踏み入れた瞬間、二人は〝友達思いの同級生〟という仮面をつける。そして、堂々と白い廊下を歩き、獲物のもとへと足を急がせる。
個室の扉を開き、明信のベッドへと赴く。
「二人とも、また来てくれたんだ。学校があって忙しいだろうに、ありがとう」
以前とは違い、屈託のない笑みを浮かべる明信を見て、純香はより期待が増した。
――ああ、この笑顔を壊したい。絶望に突き落としたい!
けれども純香は、この汚穢にまみれた感情を巧みに包み隠して、明信に励ましの言葉を並べる。
「私、明信が帰ってくるの、待ってるからね。早く退院してね」
この言葉は、決して虚言という訳では無い。真意が伝わることは無いと思うが。
「俺も、早く戻ってきてほしい。またあの婆さんがやってる駄菓子屋行こうぜ」
智は、少しばかり悲しそうに、けれども笑顔で明信に言う。
「うん、ありがとう。早く退院できるように頑張るよ」
それから、今日の学校の事など、昨日のように他愛のない話をして、二人は病院をあとにした。もう外はすっかり暗くなっていた。西の方では、雷が落ちているようだった。
「ここももうすぐしたら降るかもな」
「早いうちに帰ろ」
病院を出た途端に本性をあらわにした純香は、この空模様に似合わぬ笑みを浮かべ、今にも飛び跳ねそうな様子で帰っていった。
病院からの帰り、純香は、自分の自信に満ちた〝計画〟が思い通りに成功するのを想像し、心踊らせていた。
――今までにこんな素晴らしい気持ちがあっただろうか! これが幸福というものだろう。
純香は、大げさな言い回しでこの高ぶる気持ちを表してみた。自分でもなかなか良い表現だと感じた。
さて、こんなことをしながらも、足は止まらず家へと急ぎ、とうとう見えるところまで来ていた。
家の前の階段を駆け上がり、勢いよくドアを開ける――
「いい加減にしやがれ、なんだ、その目は! 俺の何が不満だ!」
突然の罵声に純香はたじろぐ。声の主は男だ。
「何も不満になんて思ってないわ。あなた、やめて!」
母の悲鳴と男の罵声が飛び交っている。途端に足がすくんで動けなくなった。居間の惨状を想像すると、居間への扉はとてもじゃないが開けられなかった。
男は玄関のドアが閉まる音に気づいていたようで、半ば衝突したように、ガン、と音を立てて居間と暗い廊下を繋ぐ扉を開けた。
「ただいまくらい言え、馬鹿野郎!」
唾を飛び散らかしながら、放心状態の純香に怒鳴りつける。純香は腕を力いっぱい引っ張られ、はっと我に返り、「やめて!」と叫ぶ。助けなんて来ないのに――
気がつくと、純香は家の玄関の前に立っていた。白昼夢だと分かりほっとしたが、やはり恐怖は心の底深くから離れない。
――もう父はいないのに、これで何度目だ……。
先刻とは打って変わり、最悪の気分で家のドアを開ける。
「ただいま」
二人が〝計画〟の確認をするうち、ついに明信は退院した。
「待ってたよ、明信。無事退院できて良かった」
三人は、登校時間が重なり、歩きながら話していた。
「ああ。……そうだ、明信、退院祝いとして、来週の金曜日、純香と宴会を企画してるんだが、予定は大丈夫か?」
智の提案に、明信は目を輝かせる。
「僕の為に、わざわざ企画してくれたんだ。ありがとう、もちろん大丈夫だよ」
そう言う明信の鞄には、見慣れぬキーホルダーが付いていた。
「明信、それ何?」
純香に尋ねられた明信は、自分の鞄を見回す。
「ああ、これ? これはね、このあいだ家族で温泉旅行に行った時に買ったんだ。みて、この模様。朝顔の模様、とても綺麗でしょう」
「きれいだね。明信に似合うよ」
純香は適当なお世辞を言って機嫌を取る。今までの集大成の為に、少しでも自分への信頼を厚くしておきたいのだ。
「ああ、本当に綺麗だ」
智は、明信のキーホルダーに見惚れた様子でそうこぼした。
二人が待ちに待った時がやってきた。この日、三人は純香の家で、ゲームをしたり、明信がいなかった間の勉強を、明信に教えたりしていた。
「うーん、やっぱり数学は難しいなあ。授業聞いてれば良かった……」
「しょうがないでしょう? これから頑張って追いつこうよ」
「そうだぞ明信。まあ、俺の方から明信に勉強を教えるなんて、なかなか無い事だから、ちょっと楽しいが」
そう言って、智は笑う。純香はそんな智を見て、少し不安になった。今更中止だなんて言いだしはしないか、と。
しかし、もう後に引き返せないことは、二人とも承知済みである。智は、わざわざミヨサカへ必要な道具を手に入れに行ったのだ。純香には、もう智を信じるしか道はない。
二人はアイコンタクトを取り、〝計画〟を実行に移す。
「……私、ちょっとお手洗い行ってきます。勉強して疲れたでしょう? 居間に色々なお菓子とか、飲み物用意してるから、先に行って待っていてね」
そう残して、純香はお手洗い――ではなく、車庫へ急ぐ。
車庫には、予備のタイヤや工具はもちろん、車につけるドライブレコーダーなどのカメラもあった。その中から純香は、小型のデジタルカメラを手に取る。首に掛けるひももついていて扱いやすいのが特徴だ。
ここで十分ほど待機してから、純香も居間へと向かう。きっと、智が明信を睡眠薬で眠らせているはずだ。
――この緊張感が、たまらなく心地よい。
しかし、十分後、純香はついに、智と落ち合うことは無かった。
血相を変えて、家中二人を探し回る。見つけることはかなわなかった。
――家から、逃げた?
*
智は、明信にジュースを差し出す。
「ありがとう、智。でもいいのか? 純香の事待たなくて」
「いいんだよ。俺も喉乾いてたんだ。ジュースくらい大丈夫だろ」
智はそう言いながら、まだジュースに口は付けない。明信が飲むのを待っていた。
明信がジュースに口を付ける――――。
「ああ、美味しい!」
「だよな! やっぱり勉強の後の糖分は最高だ」
智は何の抵抗も無く、グレープソーダに口を付ける。炭酸のシュワシュワという音が心地よい。
「智は横でゲームしてただけじゃあないか。もう少し勉強もしようよ」
明信が少し呆れた様子で智に言う。
けれども智は、いつもなら笑顔で何かいい訳を言うところなのに、今は真剣な表情で視線を下に落としていた。明信も、ここで智の様子が変だと気づいた。
「どうした、智?」
智は一向に口を開く気配が無い。
「何かあるのか。体の調子でも悪いのか?」
緊張感の走る中、ゆっくりと智が口を開いた。そして、一言だけ明信に告げた。
「――急いでこの家から出るぞ」
*
空は既に、橙色に染まっていた。カラスが帰れとささやく。
「どこよ……。どこに行ったの!」
純香は、鬼のように智と明信を探していた。家の周り、学校の周り、裏山……。どこにも見当たらないのだ。
今まで時間をかけて作り上げた、芸術ともいえる〝計画〟が、全て水の泡になってしまう。それだけはどうしても許せなかった。
しばらく空を見上げた後、再び目を吊り上げて歩き始める。
――裏切り者め。絶対に許さない!
思わず智に呪いの言葉を吐きかける。
――愛着なんて無いって言ったのは、嘘だったのね。
何としても二人を見つけ出そうと躍起になっていると、ついに手がかりが一つ転がってきた。
――これは……明信のキーホルダー?
あの朝顔のとんぼ玉が、学校の近くに落ちていた。純香はニタっと笑い、近くの、人が隠れていそうな場所をくまなく探す。
しかし、いくら探しても人の気配はない。純香はとんぼ玉を靴で踏み、割ってしまった。朝顔は枯れてしまった。
――あと探していないのは……裏山。
確信があった。最後に純香が目を付けたのは、智と明信が二人でアイスを食べた、あの神社だった。
*
――はあ、はあ……。
智と明信は、神社の古堂に身を潜めていた。外は暗くなり、古びた障子に冷たい風が吹き付けていたが、二人の体からは汗が噴き出していた。
「ここまでくれば、明日の朝まではとりあえず安全だな」
「智……ちゃんと説明してくれ。なんで純香から逃げてるんだ?」
二人は、明信のキーホルダーが純香に拾われているとは思いもせず、古堂の中で一息ついていた。
息を整え、智は、これまでの純香との〝計画〟を全部明信に打ち明かした。純香の演技から、ミヨサカに行った理由まで、全て。
智が話し終えた後、汗冷えと相まって、明信の顔は青ざめていた。当然の反応だろう。まさか親しい人達が共謀して自分の命を狙っていたなんて、常人にはよほどのことが無い限り思いつくまい。
「……とりあえず、今の僕の状況は大体わかった。でも、それならどうして智は僕を助けたんだ?」
「そんなの当たり前だろ。元々純香は、一人でも実行するつもりだったらしい。もちろん、ターゲットはお前でな。それを俺は早い段階で分かったから、純香に近づいて、協力すると言って〝計画〟を聞き出したんだ。俺がお前を手に掛ける訳ないだろ?」
「そうか……。今までありがとう、智」
緊迫した状況下でも、やはり友人がいるのは頼もしいものだと、少し温かい気持ちになった。
しかしその安心感も、長くは続かなかった。何やら外から不穏な感じが漂ってきたのだ。
「おい、外から何か聞こえないか?」
「……たしかに。風の音で聞こえづらいけど、これは、歌?」
二人に不穏な考えがよぎった。
風の音に加え、かすかに聞こえたのは、人の声。楽しそうな声で、まるで歌のように聞こえた。
「ふふっ。どーこかなー。でてきてよー。パーティーの続きしよー……」
ゆっくりと歩いて近づいてくるその声は、どこか感情の無い、不気味な声色であった。そして、声の主は考えなくとも分かる。
――純香、もうここまで来ていたのか。
先刻、智は朝までは安全だと言っていたが、もうそんなお気楽な事も言っていられなくなった。狂気の足音が、背後まで迫ってきている。
二人は顔を見合わせ、動けなくなっていた。
「そこにいるんでしょう? 出てきなよー」
純香はついに古堂の目の前まで来た。
「もーいーかい」
純香は古堂の戸を開ける――――。
「……いない」
純香が戸を開けた先には、人の影一つありはしなかった。
「……どこよ……どこに隠れてるのよ! 近くにいるんでしょう? 出てきなさいよ。私から逃げられるなんて思ってるの!」
純香は、まるで何かに憑かれたように、気を狂わせ、目をぎらつかせて、叫び散らす。古堂の物を手あたり次第に壊してしまった。
確かに、純香が入った時、古堂に人影は無かった。しかし、純香は冷静さを失っていたために気づかなかったが、古堂の中の真ん中あたりには、かすかに人の体温が残っていた。
*
明信は、目を覚ますと、自分が温かい春の陽気に包まれた小さなお堂の中にいるのに気が付いた。隣には智がまだ寝ている。
「智、起きろ。今何時だ?」
明信の声で、智がゆっくりと体を起こす。やがて異変に気付いたのか、慌てて外の様子を見て、自分の携帯で時間を確認する。目をこすり、何度も画面を見直した後、呟いた。
「今は深夜一時だ」
二人はとりあえず外へ出て、場所を確認した。しかし、二人とも何も言うことができなかった。そこに広がっていた光景は――広がっていた、というのは語弊があるようにも感じるが――一面の空白であった。
二人が寝ていたのは、まぎれもなく、あの古堂だった。ただ、こちらはどこもかしこも真新しく、木のにおいが新鮮だった。そして、中から見るとあまり不自然さは感じられなかったが、外は途中で空間そのものが無くなっていた。まるで、何者かの断片的な記憶のように、お堂の周りだけがここに存在していた。
辺りを必死に駆け回り、お堂から半径十メートルほどの空間しか存在いしない事をようやく認めると、急に二人はぐったりしてしまって、またお堂の中で日向ぼっこでもしようかという気持ちになってしまった。人間は、常識では〝有り得ない〟と思っていることが起きると慌てるものだと思っていたが、逆に、妙に落ち着いてしまうこともあるのだと、二人は身をもって知った。
「智、携帯で時計見てみろよ」
明信は天井の木目を見ながら話しかける。
「ああ、動いてなかったさ。やっぱり、ここは俺らが知ってる〝この世〟じゃあないらしい。でも、お迎えも無いとなると、ここは〝あの世〟でもないらしいな」
二人とも、ここが変だということは十分に理解した。夢か現実かもわからないが、それでも二人は落ち着き払った様子でこの空間に溶け込んでいた。どちらでも構わなくなるほどに、この空間は、心地よかったのだ。この春のような陽気、木のかおり、そして床の木の冷たさまで、何から何までもが、二人をもてなすための贈答品のように思われた。
この心地よさに従い、二人は今度こそ深い眠りに落ちた――――。
夢うつつ?
二人は長い事眠っていた。それでも外は不変に、丁度良い光が降っていた。
「時間は止まったままだ。もはやここがどこかなんて、どうでもいいがな」
「ああ、そうだな」
このまま永久にこの空間から出られなかったとしても、それはそれで、良い最期になるだろう、なんてことまで考え出した。
「おい、せっかくこんな場所に来られたんだから、もっと満喫しようぜ。お前、木登りとかしたことあるか?」
「いや、ないよ。登ってみたい。手伝ってくれる?」
智はにやっと笑い、子供のように、外へと走って飛び出していった。明信があくびをしていると、智は、早く来いよ、と言って大きく手を振った。
智は、ここらで一番登りやすい木――太く丈夫な枝が数多く分かれている、足を掛けやすい木を選び、下から明信の事を支えてやった。明信は、智の支えもあったが、ほとんど自力で上に達することができた。しかし、普段こんな運動することは無いので、上についてすぐにへばってしまった。
そのうち智も追って登ってきて、もう少し上まで行くことができた。
登ったところからは、やはり空も途中で無くなっているのだ、と知ることはできたが、少し、物足りなさがあった。しかし、不思議なことに、どこからか心地の良い風が吹いて、かいた汗を乾かしてくれた。
何も無いと分かっているのに、それでも二人は遠くを見つめた。高いところに上ると、人はだれでも、ただ遠くを見ようとするものだ。たとえその先が、人々が行き交う繁華街であっても、日々命が失われる紛争地域であっても、同様に、ただ純粋に見つめる。まさか山の頂上で、足元の砂利の数を数える人はいないだろう。
空模様は相変わらずだが、十分に時間が経ったと思われる頃、ようやく智が「戻ろう」と口を開いた。
下りるときには、明信も要領が分かって、造作もなく地面に着いた。
お堂に戻り、二人は石段に腰かける。
「明信、今みたいにゆっくり話せる時がまた来るか分からないしさ、その……俺、聞きたいことたくさんあるんだ」
明信には、智の言いたいこと、言えない理由も、良く分かった。親しいからこそ、余計に聞きにくい事もあるのだ。
「いいよ、智。思い出話でもしよう」
智はほどけたように笑い、仰向けに倒れこんだ。
「俺さ、ずっと明信にお礼したかったんだよ」
「お礼?」
智に何かしただろうか、と明信が思考を巡らしていると、
「ずっと前の事なんだが、そうだな、あれは小学一年生の時だ」
そりゃあ思い出せないのも無理はない。
「その時、俺は友達と喧嘩して、公園で一人泣きそうになりながら、ブランコに乗ってた。むしゃくしゃしてたから、いつもより大きく、高くなるまでずっと漕いでたんだ。でも、俺もまだ小さくて、そこまで高くなったら危険だろうとか、何も考えずにひたすら漕いでた。そして、俺は立ち乗りしてたから、高くなってから座ろうとして、足を踏み外したんだ。高さは二メートルくらいだったが、スピードが結構出てたから、俺は地面に叩きつけられるように衝突した。右足と右手の捻挫で済んだのは不幸中の幸いだったが、直後は起き上がれないくらい痛くてな。膝から流れる血を見て、ようやく俺は、自分が落ちたことが分かった。柄にもなく、大泣きしたよ。でも近くに喧嘩中の友達の家があったから、泣いてるところを見られたくないと思って、自分で家まで帰ろうとした。でも動けないんだ。足も痛いし、手も痛い。どうしようもなくなって、また泣き出しそうなときに、同じくらいの齢の少年が近くに来て、俺を心配してきた」
明信は、その時の事を思い出そうとしたが、なんだかもやがかかったようで、よく思い出せなかった。
「大丈夫かと言って手を差し出してきたが、俺はそれが、もしかしたら喧嘩中のやつじゃないかと思って、思い切り睨みつけたんだ。でも、よく見ると知らない顔で、怯えた目で俺を見てたよ。そんなに怯えてるにもかかわらず、手は引かなかった。それが可笑しくてなあ、俺は思わず笑ってしまったさ」
明信は思い出した。あの頃、明信はこの街に、父の仕事の都合で越してきたばかりだったのだ。友達ができなくて公園でしょげていたところ、機嫌の悪そうな少年が来たので、怯えて隠れていたのだった。
「本当に目つきが怖かったよ。まさか同い年だなんて思わなかった。智は昔から強がりだよな」
智は照れくさそうに下を向いて、笑った。
「あの時、ろくに話さないで帰っただろ、お前。ずっとお礼を言いたかったんだよ」
「そんな昔の事、もういいよ。それに、助けてもらったのは、きっと俺の方が多いだろう」
時の止まっているここで、過去に思いを馳せながら、二人今を生きている。
どれくらい経っただろうか、二人は、いつの間にか眠っていた。相変わらずの空を見上げながら、明信は微笑を浮かべる。
しかし、空の変わらぬ様子とは裏腹に、お堂の正面には、先刻まで無かった参道が現れていた。
――ここは、やはり――――。
明信は、この場所に見覚えがあった。しかし、なぜ来たのか、いつ来たのかは、全く思い出せなかった。
「……ん? 寝てたのか、俺」
智も目が覚め、異変に気付く。
「こんな道、先刻までは無かったよな? 寝ている間にできたのか」
しかし、二人ともこれといって驚いた様子は無かった。時間の流れが無いこの空間で、もはや何が起こっても不思議はない。
「そうみたいだね。智、僕、実はここに見覚えがあるんだ。いつ来たかは分からないけれど、確かにこの参道を見たことがあるんだ」
「おいおい、本当かよ……デジャヴ現象では無いのか?」
「いや、違うと思う。少し覚えてるんだ。ここの参道を、子供たちが走っていったり、旅の僧や、お爺さん、お婆さんが歩いていったり、そういう光景を見た記憶があるんだ。多分――」
明信が言い終わらないうちに、状況が一変した。参道の先に、何やら巨大な、ゆっくり動いているものがあった。
身構える二人の前に現れたのは、太く長い蛇だ。
「小僧、また会ったな」
地の底から響くこの声に、やはり明信は聞き覚えがあった。
「なんだよ、このでかい蛇! お前、会ったことあるのか?」
「ああ、やっぱりそうだ。うん、夢でね。前に智と神社に来ただろう? その前の日、僕は夢でここに来ていたんだ。お前はあの祠で眠っていた、この山の守り神だろう」
話についていけない智は、目を瞬いて明信と大蛇を交互に見る。
「ああ、そのとおりだ。お前は優しい。お前が私に伝えてくれた言葉、決して忘れることは無いだろう。長らく古びた祠にいた私は、あの時既に消えかかっていたのだ。せめて、この地を人に知ってほしくて、最後の力でお前を導いた。そうして、私は消えるつもりだったのだ」
地から響く優しい声に、いつの間にか智も聞き入っていた。
「だがお前の言葉を聞いて、私は、この世から消えてしまうのが惜しく思えた。二人が来てくれたおかげで、僅かではあるが、力を取り戻すことができた。この力尽きるまで、ここからこの山を守っていくのもまた一興だと思ってな」
大蛇の話を黙って聞いていた二人は、なぜこの場所がこんなにも穏やかで、安心できるのかが分かる気がした。この大蛇にとっては、お堂が人々の休息所となっていたあの頃が、とても懐かしく、大切な記憶なのだろう。
「そうか。僕もこの場所、結構好きだよ。またどこかで、会えるかもしれないな」
明信は、あの小さな祠を想いながら、それでもこの地に残ってくれる大蛇に感謝した。なぜだか無性に、嬉しかったのだ。
どこかから優しい風が吹いてきた。
「おい、一つ聞いていいか? ここを出る方法が知りたいんだが、お前は何か知らないか? これはただの推測だが、この場所を作り出してるのはお前だろう。気持ちの良いところだが、いつまでもいるわけにはいかないんだ」
智は大蛇に聞いた。明信も同じような考えを持っていた。少なからず、この場所は、あの世でもこの世でもない。
「ああ、そうだ。本題に入ろう。お前たちがなにやら慌てた様子でお堂に入ったのを見て、私がここに招待したのだ。人間には〝神隠し〟などと呼ばれるな。帰る方法ならあるぞ、心配せずとも、すぐに帰してやろう」
しかし、大蛇は心配そうな表情を浮かべて、二人を見つめた。
「だがお前たち、ここに来る前の事は覚えているか?」
その言葉で、二人は純香に追われていた事を思い出した。今帰ったら、純香に会うことにもなるかもしれない。
「人間というのは怖いな。なぜ同じ生き物同士で、命を奪い合うのか。私は長い事この山にいるが、やはりどうも理解できない。お前たち、どうかこの無知に教えてはくれないか」
二人は応答に困ってしまった。確かに人間は、非道で、愚かな生き物だろう。だが、それは人間に感情があるが故の問題だと思うのだ。それに――――
「俺らはあなたの考えを否定するつもりは無い。一つ、これもまた無知の一つの意見として聞いてくれないか」
智は改まった様子で、大蛇にそう告げた。
「俺は、確かに人間の中には非道な者もいると思ってる。でも、あんたにとっては一呼吸するくらいの短い時間かもしれないが、この十数年生きて、本当に優しい、素敵な人間もいるってことが分かった。だから、あんたも分かるはずだ。この、俺の友人のように、清い心を持つ者もいるんだ。それに、かつてこのお堂を訪れた人々は、みんな笑顔だったでしょう。みんな優しい心を持っていたんだろう。人間がみんな争い合っている訳では無いんだ」
明信は智に続けて言った。
「確かに、人間は思い上がりが強い、自己中心的な存在だ。その一因は、感情と、発達したコミュニケーション能力にあるんだと思う。でも、だからと言って、その二つが無くなってしまうのは、僕には惜しく思える。人に個性があるように、これは人間の個性なのかもしれない。個性が無くなってしまうのは、とても悲しい事だよ」
大蛇は無表情で、じっと二人を見つめていた。
「大蛇様、どうか、人間を嫌いにならないでください」
しばらくの間、この場を沈黙が支配した。二人にとってこの時間は、生きてきた中で最も緊張する時間だった。少しでも動けば、晴天から稲妻が落ちてくる。考えてみれば可笑しな話だが、そんな気さえした。
長い沈黙の後、大蛇が口を開いた。
「そうだな、私は確かに、人間に好意を持っているとは言えないかもしれぬ。私は人間を愛していたよ。私に願い、その願いをかなえてやるのが楽しかった。人間の喜ぶ顔が好きだった。だが、いつからか、ここを訪れる人間はいなくなり、力も衰え始めた。私はただ孤独だったのだ。お前たちのおかげで目が覚めた。礼を言おう」
それから二人は、大蛇から昔話を聞いた。
大蛇の名はホノカミというらしい。昔、農村の者が作物の豊作を願って付けた名だという。
農村の物は、晴れの日も、雨の日も、変わらぬ愛をもってこのホノカミを崇めた。おかげで最初こそ力も何もなかったが、人々の信仰が多く集まるうちに、天候をわずかに操るほどの力を手に入れた。そして、晴天が続いて作物が枯れてしまわないように、時々雨を降らしたり、災害をできるだけ防いだりしていた。
しかし、文明の発展と共に信仰心は薄れ、祠は存在すら知られなくなった。それに伴い、ホノカミも力を失い、今に至るということだ。
「祠に一人でいるのはつまらなかったが、たまに来る、お前ら人間のことを、どうしても嫌うことはできなかった」
ホノカミは、どこかを懐かしむように空を見つめていた。
「ありがとう、ホノカミ」
二人は最後にあの木に登った後、帰ることに決めた。
「本当に、行くのか。私は別に、ここにずっといさせてやっても構わないのだぞ。特にお前は、あまり人の生きる世に、満足している訳では無いのだろう」
「僕はまだ、十数年しか生きていないんだ。なんだか、この世を見限るのには、少し早すぎる気がする。もう少しの間、この滑稽な演劇をして過ごすのも一興だと思ったのさ」
ホノカミは、初めて笑い声を上げた。智はきょとんとした顔で、大蛇と明信の会話を聞いていた。
「ここの時の流れは、現の世とは少し違うのだ。恐らく現の世では、お前たちがここに来てから、半日も経っていないはずだ」
「分かった。ありがとう」
二人はお堂の中へ入り、少し経って床や壁が光りだした。
「辛くなったら、いつでもこのお堂を訪れるといい。私はいつでも、待っているぞ」
部屋全体が光に覆われたころ、どこからかホノカミの声が聞こえた。
目が覚めると、そこは夜明け前の古堂だった。
眠っていたのかと思ったが、二人とも、木に登ったような痕が手に残っていた。
「……帰ってきた、のか?」
「うん、帰ってきたんだよ」
妙な疲労感と高揚感が残って、二人はしばらく会話せずに座り込んでいた。
しばらくして、純香の事を思い出した。まだ探しているかもしれないと思うと、途端に恐怖がわいてきて、お堂から静かに外を観察した。この辺りにはいないようだった。
いつまでも古堂にいる訳にもいかず、そっと、なるべく音を立てずに、二人で家に帰った。もちろん家族にはこっぴどく怒られたが、ひどく安心したのを覚えている。明信は緊張が解けて、思わず泣きそうになってしまった。
翌日は土曜で学校は休みだったが、明信はなんだかよく眠れなくて、早朝に公園まで散歩した。
「よお、休みなのに起きるの早いな」
公園には智もいた。考えていることは同じらしい。
「そっちこそ。今日は朝部活無いの?」
「ああ、今日はたまたま休みなんだ。そんな事より、お前、純香があの後どうなったか知ってるか?」
――すっかり忘れていた。思い出すと、今でも恐怖を感じる。
「純香は昨日、俺たちを追ってあの古堂のところまで来たみたいなんだ。でも、俺たちがいないのを確認して山を下りたらしい。それからここら辺を徘徊して、俺たちが帰ってくるのを待っていた」
明信は背中に嫌な汗が流れているのが分かった。腕には鳥肌が立っている。
「でも、包丁を持って何かをぶつぶつ言いながら歩いている純香を見て、近所の誰かが警察に通報したらしい。純香は保護されて、今は精神疾患を疑われてカウンセリングを受けてるってよ」
今ここに来る心配が無いと聞いて安心したが、なんだか複雑な気持ちだった。少なくともその結末を聞いて、喜ぶことはできなかった。
「それは、誰から?」
「父親さ。仕事から帰ってくるときにパトカーが来ていて、見ると、包丁を持った女子高生が警察に連れていかれるところだったらしい。警察の話が少し聞こえたんだとよ」
どこかで鳥の鳴き声が聞こえた。朝焼けの空が、今にも消えてしまいそうで、とても美しかった。
「智、純香は、なんであんなことになってしまったんだろうな。これは、一体だれが悪いんだろうな。少なくとも、誰も幸せにはならないだろう」
行き場の無い憤りを感じて、明信は震える声でそう言った。
「……お前には黙っていようと思っていたが、純香の家族について、聞くか?」
とにかく純香以外の誰かの所為にしたくて、明信は反射的に頷いてしまった。
「純香の父親は、純香が小さい時に亡くなったんだ。まあ詳しくは、失踪した。そして、間もなく母親は再婚した。しかし、その新しい父親が結婚して早々に本性を出した。家庭内暴力だな。母親は、既に父に逝かれ、母は早くも認知症を患っていたから、本当に、頼れるのはその父親しかいなかったのさ。それをいいことに、妻子を暴力で支配していた。しかし、そんな父親も早死にした。職場のトラブルということになっているが、実は暴力団関係だって話もある。これはまあ、風の噂だがな」
智は少し苦い顔をして言った。
「ということは、母子家庭にはなってしまったが、やっと穏やかな生活を手に入れたんだろう? 言い方は悪いかもしれないが……不幸の原因は消えたわけだ」
「ああ、普通はそう思うよな。でも、純香の場合、悪の根源が消えたことが、あろうことか不幸の始まりとなってしまったんだ」
二人の間に緊張が走る。
「男のもたらした不幸は、予兆に過ぎなかったと?」
明信は半笑いで言い返す。誰が、悪い?
「そういうことだ。父親がいなくなってから、母親と純香は、とりあえず喜んだ。お前の言う通り、やっと平穏が訪れるとな。まあ、金の問題は残っていたが、職場から――これはほぼ暴力団関係で間違いないだろうな――金が入ったんだ。それも、数年は生活に困らないような額だった。口止め料と考えるのが妥当だな。だから、警察が介入することなく父親の葬儀まで済ました。日常を取り戻しつつあったんだ。でも悲劇はそこからだ」
明信はごくりと息をのんだ。
「幼い頃から暴力が隣にあるのが普通だと思っていた純香は、平和で、静かすぎるくらいの生活に、違和感を覚え始めた。別に、飯は三食きちんと食べれていたし、学校にも行ける、ごくありふれた毎日だ。だが純香は、何かが足りないと思い始めた。そしてある時、純香は思いついた。自分があの最悪な父親の代わりを演じればいいと」
「純香の幸福には、暴力という不幸が必要だというのか」
智は頷く。
「かつての再婚相手のように、暴力、暴言という恐怖を振りまく純香に、母親がどう思うかは言うまでもないだろう。本当に、報われないよな」
二人の間に沈黙が流れた。
何も言わずに、二人は昨日の裏山に向かって連れ立った。お堂へ行けば何かが分かる。そんな漠然とした期待を胸に抱きながら。
あの時と違い、やはり古く寂れた雰囲気を纏うお堂に行き、寝転がって空を見つめる。もう太陽が見えてきて、雲は少し光っているように見えた。雲は何も知らずに、ゆったり空を泳いでいた。
明信は自分の無力感に打ちひしがれる。純香には散々な目に合わされてきたが、これでも一応恋仲だったのだ。そこそこ親しい関係にあったというのに、何も知らなかった自分を恥じた。
「純香はこれから、やり直せるかな?」
正しい答えが欲しい訳じゃあない。
「明信、お前は優しいな。あんなことになってもなお、あの狂人の幸せを願うのか」
智はつぶやくようにそう言った。
智の言った〝狂人〟という言葉が気になったが、言及はしない事にした。
確かに、普通なら呪いの一つでも言ってやりたくなるのかもしれないが、明信にはどうしても出来なかった。純香には単なる過程に過ぎなかったのかもしれないが、少なくとも明信にとって、純香と共に過ごした時間は本物だった。
――どうか、純香が救われますように。
――私はどこにいるのだろう? 自分の部屋じゃない……。
目が覚めた純香が最初に見たのは、クリーム色の天井だった。
「ねえ、ここはどこ?」
近くにいた、医師と思われる背の低い女性に尋ねた。
「病院ですよ。精神が少し混乱していたようだから、この病院で保護することになったの。これからゆっくり治していきましょう」
女性医師はありきたりな嘘はつかず、真実を明確に述べ、その上で落ち着かせるように優しく話した。
「母は?」
「お母さんも入院していますよ」
一言こう答えただけだった。これ以上何か言えば、純香を刺激することは明らかだったのだ。しかし純香は既に意識がはっきりしていた。そして全てを察し、笑った。それから、涙が溢れてきた。ただ静かに流れる涙を、純香は受け入れた。手に落ちたしずくをなめる。しょっぱい味がした。
女医は念の為、周囲に体を傷つけるような物が無いのを確認した上で、「何かあったら呼んでくださいね」と言い残して部屋を後にした。ドアの閉まる音を聞いた途端、糸が切れたようにわっと泣き出した。嗚咽が漏れるのを抑える様子も無く、声を上げて泣きじゃくった。何年も涙を流していなかった純香にとって、この塩っぽさは新鮮に感じられた。
それでもなお、純香自身、この涙が一体なんのために溢れ出ているのか分からなかった。後悔、屈辱、羞恥、そのどれでもなく、どれでもある気がした。言葉にならないような気持ちの渦が巻いていたのだ。その渦さえ、できては消え、できては消え……。
昼頃まで、純香の部屋に入ってくる者はいなかった。どこからか監視はされていただろうが、居心地はそう悪くなかった。
「純香さん、入ります」
例の女医が、ノックをして昼食を持ってきた。
「こんにちは。調子はどうですか? 今日の昼食は生姜焼きですけど、アレルギーとかあります?」
「いえ、無いです。ありがとうございます」
母親があんな状態になってしまったので、いわゆる家庭の料理というものを食べた事のない純香にとって、こんなにちゃんとした、温かい料理は、純香を感動させるのに十分なものだった。
女医はわけもなく涙を流す純香を見てあたふたしていた。
そんな女医をよそ目に、純香は初めて、心から美味しそうに、食事をした。今まで食べていた冷たい物体を、もはや料理だとは認められなくなっていた。
昼食は一汁三菜と、栄養バランスの取れた健康的なものだった。先に述べた生姜に加え、蓮根と人参の煮付け、冷奴、味噌汁にはわかめと油揚げが入っている。
食欲はあったが、いつも食事量の少ない純香にとって、この昼食を全て食べ切るのは至難の技であった。頑張って食べきろうとしたが、結局、煮付けと白米を残してしまった。もっと食べたいのに胃に入らない悔しさと、申し訳なさで俯いていた。
「こんなにたべられるなんて、よほどお腹が空いていたんですね」
女医は笑顔で純香にこう言った。純香への気休めの言葉に聞こえるかもしれないが、女医は言葉通り、予想以上に食べた純香に感心していたのだ。昼食の総カロリーは、運動部に属する女子高校生並みにあった。病院食にしては味が濃く、出来立てのように自然の湯気が立っていた。だから、純香は、この料理は自分のために作られたのだと分かっていた。だからこそ、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。思わず俯くと、その時にまた涙が出てきた。
「どうしたんですか?」
今度は女医も気になって聞いてきた。しかし、今度の涙はどこか心地よかった。
「とても美味しかったです」
純香のその言葉を聞いて、女医は優しく笑った。
しばらくは女医と話していたが、三十分ほど経った頃、院内のどこかでベルが鳴り、慌てた様子で仕事に戻ると言って、女医は行ってしまった。
再び一人になったとて、やることがあるわけでもなく、質素な部屋を見回していた。
部屋には小窓が一つと、その横にカーテン。テレビも申し訳程度に置かれていたが、純香には興味がなく、テレビの横に置かれているリモコンには触ってみようともしなかった。テレビ台の中は空だった。しかし、埃がかぶっていなかったので、純香がこの部屋に入るときに中身だけ移されたようだった。恐らく中身はコンセントか何かだろう。先に述べたように、この部屋には容易に身体を傷つけられるようなものが無い。細い紐もまた、危険なものの一つということだ。
部屋は個人部屋だったが、流石に中で歩き回っているのも息苦しくなってきて、少し、室外を散歩してみようと考えた。
――出ちゃだめなんて言われてないもんね。
自分にそう言い聞かせて正当化し、そっとドアを開け、耳をそばたてて周囲の安全を確認する。ちょっとした冒険心だ。子供のように純粋なその心は、あの事件の時から変わらずあった。
――……よし。
人の気配が無いのをしっかり確認し、部屋を出て左に進む。
廊下は外の光のおかげで明るくみえた。風は吹いていなかったが、なんだか涼しいと感じた。
また、廊下は埃一つ確認できないほど綺麗だった。そのためか、ここがこの世では無いのではという不思議な不安が込み上げてきた。それほど白く、透き通っていた。
しかし、歩いているうちに、不安のもう一つの原因が分かった。ここは人の気配がしないのでは無い。人の気配が〝無い〟のだ。
途端に恐ろしくなった。振り返って背後を確認することすらままならない。
部屋を出る前に、気づくべきだった。病院だと言うのに、医者や看護師どころか、入院している人の気配すら無い。
純香が慌てて部屋に戻ろうとした時、近くで叫び声が聞こえた。必死に何かを拒んでいるような声だ。今まで人の声なんて聞こえなかったから、突然の大声に耳がキーンとした。なにか恐ろしいことに対して発せられたその声は、純香の不安をも増大させた。
それでも、自分と同じようにここにいる人の身に起こっていることを他人事だとは思えず、声のした方に急いで駆け付けた。
「いやだ、やめてくれ! そんなもの、手術とは言わない!」
「手術」という言葉に反応し、恐怖は薄れ、先程の冒険心が勝った。
――なんだ、もしかしたら、治療を嫌がっているだけかもしれないな。
しかし、数秒後、純香は自分の愚かさを嘆いた。ドアの隙間から「手術」を一目見て、脳が理解するより早く、体が危機を察知した。ここは危ない。逃げなければ、と。
その「手術」とは、人の目から薄く伸ばした針のようなものを刺し、脳の前頭葉の切り取るというものだ。頭蓋骨に穴をあけることもある。これはロボトミー手術と呼ばれている。本来これは精神病を治すのに用いられていたのだが、ここではその目的を忘れ、人間を道具として扱う、非人道的な処置が行われていた。
純香はふと隣の部屋を見て、目を疑った。ここに人の気配が無いのは、単に人がいない訳では無かった。その「手術」を通して、ここの人間は人格を失ってしまっていたのだ。これは手術ではなく、表現としては「改造」が適切だろう。
生活に必要な最低限の機能以外を失った人間は、何も考えず、椅子に座るか寝床に寝るなどして、ひっそり静かに生きていた。そう、ただ生きていただけだ。それは、あながち必要な時だけ活動するロボットのようだった。
精神異常を治すと言われるこの治療は、実際に行われていた時にも問題は起きていた。当時はあまり知られていなかったが、副作用で無気力、集中力低下などがあり、稀ではあるが、人格や知能に影響を及ぼすこともあるという。医療が発展した今、こんな治療をしている病院はまず無いだろう。どうやらここで行われているのは、非合法的な人体実験らしい。
「が……あ…………」
先刻から抵抗していた男は、ついに動かなくなってしまった。
よくよく考えてみれば、未成年の純香が、なんの同意書も、金もなしに、病院に入院だなんて事があるわけないのだ。親が同意しようにも、その親は純香以上に重症ときた。金なんて、日々の生活にも困っているのに、払えるわけもなかった。
そう気づいても、足はすくんで動かない。父の暴力に対する恐怖に少し似ている。生命の危機を察知した時の、あの緊張に似ている。
かすかに人の気配を感じ、振り返ると、そこには先刻のとは別の女医が立っていた。恐ろしい笑顔だった。
「残念です」
「あ――――」
女医の手には金属製の小さい何かが握られていた。
第三幕
逃走
ようやく正気を取り戻した純香は、ただひたすらに走った。女医は後ろから追いかけてはこなかった。代わりに、内線で連絡を取っているらしかった。
「N棟へ逃走。道具などは何も持っていません。近くにいる者はただちにN棟へ」
――居場所がまるわかりだ。これじゃあ逃げてもきりがない。
病院内にいる限り逃げ場はないと悟った純香は、出口を探すことにした。後ろや横から、どこから湧いて出たのか分からぬ、看護師の恰好をした何者かが、鬼の形相で純香を追ってきた。
――どこか、この人たちを撒かないと!
追手がいる限り脱出も困難だ。幸い純香のほうが足が速かったので、追いつかれるという心配はなかった。しかし、この病院の構造はどうなっているのか、純香は全く知らない。非常に不利だ。
「とまれ! とまれええ!」
背中のほうで、獣の雄たけびにも似た、何かが響いていた。人の声であったのか、はたまた本物の鬼の怒号であったのか。いずれにしろ、それらが純香の命を狩り取ろうとしているのに違いなかった。
しかし、だんだんと追っては少なくなっていった。ある時、ようやく後ろに何もいないのに気が付いた。
ほっとして、一息つきたいところだったが、そんな暇はない。
まず、周囲を見わたし、監視カメラを確認する。しかし。驚いたことに監視カメラは無かった。
――ということは、出口を完全封鎖して、逃げ出さないようにしている可能性が高い……。
走って喉がカラカラになっていたが、自動販売機どころか、蛇口や洗面所も辺りにはなかった。どうやらN棟には、患者の個室は無いらしい。あるのは、やはり閑散とした、実験室のような部屋だ。ここらは全体的に暗かった。他と違って、窓の数も少なく、部屋には実験のためか、日光を遮るカーテンがあったからだろう。
――病院ならこんなカーテンは付けないよね。
何か武器を見つけるために、純香は謎の実験室に入った。
*
五十代ほどの黒いスーツを着た男は、煙草をふかしながら、長く白い廊下を、まっすぐ歩く。そして、左手にある白い扉の鍵を開けた。
「どうだ、様子は?」
「はい、たった今、N308の部屋に入りました」
この施設の管理者である篠田は、入口の一番近くにいた若い男に聞いた。
そこは、皆が一斉に目の前の画面に目を落とし、ただずっと、身じろぎもせずに監視の映像を見ている管理室だ。病院の地下にあり、その総勢は五十人。
「そうか」
篠田は小さくそう呟いて、煙草の火を消し、そのさらに奥の部屋へ入っていった。
ガラス張りの小さな部屋は、資料室になっている。篠田が今まで関わった事件、取引、その他重要な書類は、ほとんどこの部屋にあった。
棚に隙間なく並べられているファイルの中から、一つの青いファイルを取り出す。何度もめくって読んでいたため、既にファイルもその中身もボロボロだ。
最初に開いて見えるのは、ある事件の新聞の切り取りだ。見出しには「またも放火 犯人は中学生」という痛ましい言葉が書かれていた。
篠田は、その記事を今にでもくしゃくしゃにして捨ててしまいたかったが、まさに今、長年の計画が果たされようとしているのだ。震える手を抑え、頁をめくる。
次の頁には、放火の犯人が捕まったと書かれていた。記事の最後には、未成年のため、刑務所ではなく、少年院行きだということも書かれていた。
「……こいつには死刑がお似合いだ」
悲しい目でそう呟く篠田は、ガラスの向こうの管理室を振り返る。
皆が画面に目を落とし、監視、資料作成、その他システム管理など、各々の仕事をしている。ここには、システムエンジニアから警備員まで、本当に様々な職種の人が集まっている。今日の為に、篠田が元刑事である人脈を駆使し、各種の精鋭を集めたのだ。ネットなどの公のコミュニケーションツールは、足が付きやすいためあまり使えなかった。
「まさか法を厳守する刑事が、犯罪者まで堕ちちまうとはなあ」
少し感慨深く思っていると、資料室に一人の青年がコーヒーを持って入ってきた。
「何をそんなに寂しがっているんです? ようやく本番の日がやってきたと言うのに」
高校生くらいの齢の青年は、どこか嬉しそうにも思えた。
「ああ、智君、ありがとう」
コーヒーを受け取り、資料室内の小さな机に腰かける。
「ようやくこの日が来たんだな」
よみがえるのは古い記憶。弟の栄介が野球を始めたいとごねるので、とりあえず浜辺で一緒にキャッチボールをして遊んでやったこと。高校の入試で推薦が決まったと喜んで報告してきたこと。
もちろん良いことばかりでは無かった。喧嘩をして殴り合いになり、力余って家の窓をわってしまったこと。足を壊して野球ができなくなった栄介が、自暴自棄になって家出をしたこと。
ただ、今思うとどれも思い出だ。
――俺が無意識に、記憶をきれいに書き換えているだけかもしれないけどな。
遠くに想いを寄せながら、コーヒーを一口飲んだ。いつもより少し苦いと感じた。
管理室は依然と静けさを保っていた。誰もなにも言わない時間は、その場が緊張感に支配されていて、気が休まらない。
「やっぱり、皆気が休まらないよな。こんなところに拘束してしまって、申し訳ない」
煙草に火を付けながら篠田が言った。
「まあ、しょうがないですよ。うまくいけば、今日一日の辛抱です」
智は感情を隠すため、平坦な声を意識していたように見えた。
篠田は管理室から智のほうに視線を移す。
「そういえばあまりよく聞いていなかったが、智君はなんでこの作戦に協力したんだ。話したくないならそれでいいが」
智は、最初下を向いて何やら考え事をしていたようだった。
「理由は二つあるんです。一つは、あの女が俺の親友を傷つけたから。もう一つは―― 」
篠田と視線を合わせ、意を決したように頷くと、何かを思い出すように、視線を上にして話し始めた。
――――俺がまだ小学生だったころの話です。ある時、父に連れられて、遠縁の親戚だという家に行きました。電車で片道一時間はかかるところでしたが、そこは都会で、自分が暮らしている環境と全然違う街並みに感動しました。
駅から十分ほど歩いて、住宅街がありました。その一角の茶色いアパートが目的地です。表札には福原とありました。着いたのは、午後三時くらいだったと思います。
「やあ、いらっしゃい。どうぞ上がって」
家からは、優しい顔をした少し細いお父さんが出迎えてくれました。その後ろには、俺と同じくらいの女の子が、そっと玄関を覗いていました。
「久しぶりですね、福原さん。これ、つまらないものですが、お菓子を持ってきました。お子さんとご一緒にどうぞ」
そう言って、父は、家の近くの菓子屋で買った、団子や饅頭の詰め合わせを手渡しました。
福原さんの家は、娘が生まれてすぐに母親が亡くなってしまったため父子家庭だったんです。部屋に入ったら、母親の仏壇が目につきました。父はその仏壇に手を合わせてから、居間で福原さんと楽しそうに会話をしていました。二人ははとこで、年も近かったので、小さいころからよく遊んでいたそうです。いわゆる幼馴染ですね。
俺は、最初は一緒に隣に座って話を聞いていたんですが、やはり大人同士、幼馴染同士の会話は、俺は入っていけなかったんです。だから、父が持ってきた大福を二個ほど食べた後は、奥の仏壇のある部屋で、近くの棚から勝手に本を取り出して、読書をしていました。
数頁読んだところで、やはり普段読書なんてしない俺はすっかり飽きてしまいました。他にやることは無いかと模索していると、部屋の入口から女の子がひょっこり出てきました。
「暇なの?」
ただその一言を掛けてきました。
「うん。何か面白いことは無い?」
俺が聞くと、女の子はまたひょっこりどこかへ行ってしまいました。
からかいに来ただけかと思って少しむっとしましたが、俺の思い違いだったようで、女の子はすぐ帰ってきました。その手にはノートとペンがありました。
しかし、女の子は部屋の前でもじもじしていて、なかなか入ろうとしませんでした。俺の顔が怖かったのでしょうか。
「入っていいよ」
努めて優しく語りかけました。
すると女の子は、目をぱっと輝かせて、笑顔で俺のほうにやってきました。
「私ね、交換ノートっていうのをやってみたいの」
まっすぐな目で俺を見て、ノートを差し出してきました。表紙は無地の水色で「交換ノート」という題が書かれただけの、白紙のノートでした。
交換ノートなんて言葉は初めて聞いたので、女の子に聞きました。
「交換ノートっていうのはね、日記や、相手に対して書きたいことを書いて、それを交換しながら繰り返すものだよ」
やはり、女子が好きそうな遊びだなあ、と思いました。日記なんて付けたことが無いし、もっと言えば字を書くのもあまり好きではありません。
でも、その子が楽しそうに話すのを見て、断わることができず、仕方なく始めることにしました。
「そういえば、君の名前は? 俺は、智」
交換ノートをするのに、互いの名前も知らないのはおかしいでしょう。
「私は、涼菜」
こうして、二人の交換ノートが始まりました。
「じゃあ、最初は私が書くから、少し待っててね」
そう言って涼菜は部屋に戻っていきました。
それからしばらく、俺は父に言って、辺りを散歩していました。駅の近くのゲームセンターに行ったり、その近くの商店街で漫画を買ったりしました。あと、普段はあまり食べないコロッケを買って食べました。俺の家の近くには無い、人の多いその街は、子供の俺にとっては一人旅をしているようでとても楽しかったんです。
それから、近くの公園や小学校、中学校を見つけて、一通り眺めてからゆっくり帰りました。いつの間にか日は沈み、人で賑わっていた商店街からは、静けさが漂ってきました。
福田さんの家に戻ったとき、父が福田さんと夕飯の話をしていました。
「近くにピザ屋があるらしいですね。出前はどうです?」
「ああ、ごめんなさい。涼菜があんまりピザ好きでは無いんです」
「そうですか、全然大丈夫ですよ。じゃあ、近くのファミリーレストランはどうですか? お子様ランチもあるでしょうし」
「はい、そこにしましょう」
そう言って、福田さんは涼菜の部屋に向かいました。父は俺に気づいて、手招きをして言いました。
「今日は福田さんと外食だよ。家に帰るのは少し遅くなってしまうけど、お母さんには連絡したから大丈夫さ。好きなものを食べなさい」
久しぶりの外食で、俺は素直に喜びました。
涼菜も部屋から出てきて、四人で近くのファミリーレストランへ歩いていきました。外は晴れていて、上弦の月がよく見えました。ただ、住宅街が明るかったので、星はあまりよく見えなくて、少しがっかりしました。
俺は、ふと気になって、涼菜に流れ星を見たことがあるかと尋ねました。
「流れ星なんて、テレビでしか見たことない。本当にあるの?」
存在そのものを疑っているようでした。俺の小学校は、流星群が来るとたびたび屋上で観測会が開かれるので、何度か見たことがありました。
「今度見に行こう。俺の家の近くにはちょっとした山があるから、そこから見えるかもしれない」
涼菜は嬉しそうに笑いました。
それから数分歩いて、大きな通りに出ました。曲がり角に、家族連れが目立つレストランがありました。
「ここですね。ああ、いい匂いだ」
早速中に入り、テーブル席に案内されました。
メニュー表を見ると、ハンバーグ、オムライス、チャーハンなど、子供がよろこぶもがたくさん並んでいました。俺も例にもれず、即座に「ハンバーグ!」と指をさして言いました。
「ははは、やっぱり男の子は、肉が好きだよね。元気でいいことだよ」
福田さんはそう言ってから、涼菜にも注文を聞きました。涼菜は迷った末に、カレーを頼んでいました。
食べ終わった後は、もう時間も七時を回っていたので、あまり遅くなりすぎたら母が怒ると言って、俺たちは帰りました。
涼菜は帰り際に俺にノートを渡してきました。
「家に帰ってから読んでね」
家に着いたのは、夜八時で、母はテレビを見ていたようでしたが、いつの間にか寝てしまったようです。ソファに横たわったままの母に、父はタオルケットを掛けてやりました。
それから俺、父の順で風呂に入りました。母は、俺が風呂から上がった時には起きていました。
「どうだった、都会は? 確か、同じ年くらいの女の子がいたでしょう。仲良くできた?」
「道路がでかかった。あと星があんまり見えなかった。涼菜とは、これから交換ノートをすることになった」
母は、少し驚いた様子で俺のことを見返してきました。それから、ほっとしたよう笑って言ったんです。
「それは良かった。あの子は恥ずかしがり屋で、友達作りが苦手らしいのよ。だから、まさかあんたが初対面でそこまで距離を詰められるとは思ってなかった」
確かに、少しそんな気はしていました。でも割とすぐに話せるようになったので、心配しすぎなのではというのが本音でした。
部屋に行って、早速交換ノートを開きました。
『初めまして。まずは、お互い自己紹介からはじめましょう。
私は福原涼菜。小学五年生です。好きなものはそば、お菓子(特に駄菓子)、犬。嫌いなものは雷、辛いもの、虫。よろしくね。
今日言ってた流れ星、いつか見られるのを楽しみにしてるよ。約束忘れないでね。
私の家の近所には、智君の家のほうみたいに綺麗なものは少ないかもしれないけど、面白いものならたくさんあるよ。例えば、今日智君が来たミヨサカ駅は、外に出たところに商店街があって、ちょっとしたゲームセンターもあります。私は一人でどこかに出かけたことがあるのは本屋くらいだから、今度来たら一緒に行きたいな。
あと、少し遠いけど、ミヨサカ駅の三つ後の駅は、出たところから少し歩くと、すぐ海に出るよ。三潮ビーチって呼ばれてる。暑くなったら、海に行くのも楽しそうだね。
ああ、私ばっかり行きたい場所押し付けてごめんなさい。智君も、行きたいところとか、綺麗なところあったら、教えてください。涼菜』
少し丸まった小さな文字で、こう記されていました。嫌いなものの中に「虫」が入っているのは、やはり女の子だなあと、少し、かわいいと思いました。
ゲームセンターは、整備されているとはいえ、やはり少したばこ臭かったので、涼菜を連れては行きたくないなあと思いました。でも、ビーチには興味があります。山は近くにあって良く行くけど、海には家族ともあまり行ったことが無かったので、今度涼菜と一緒に行こうと心に決めました。
『初めまして、俺は大河 智(おおかわ さとし)。小六だ。涼菜の一つ上だったんだな。これからよろしく。
俺の好きなものは、肉、ごはん、野球とか、他にもたくさんある。嫌いなものは暑さだ。俺は野球の少年団に入っているんだけど、やっぱり練習中に暑いと辛い。
海は俺もあまり行ったことがない。今度行こう! 楽しみにしてる』
ゲームセンターのことはあえて書きませんでした。楽しいところだったけど、やはり勧められるようなところではないと思ったんです。
一週間後、俺はまたミヨサカに行きました。ノートを渡すためです。
「あ、智、福原さんの家に行くなら、これも持って行ってくれないか?」
そう言って、父は前に買っていた土産の大福が数個入った箱を渡してきました。
「福原さん、その大福気に入ってくれたんだ。本当は父さんが渡しに行くはずだったんだが、用事が入ってしまってね。頼めるかい?」
「分かった。行ってきまーす」
前と同じように、切符を買って、電車に乗り込みます。木をかき分けるように進んでいったんですが、三十分後にはもう高層ビルに挟まれていました。。
家に行く前に、少しゲームセンターで遊びました。いつもは泥だらけになって遊んでいたので、やはり画面を見て座って遊ぶというのはどこか新鮮でした。
――ピンポーン
「はーい」
涼菜の声がして、玄関が開きました。
「いらっしゃい。どうぞ上がって」
その日は、涼菜のお父さんはたまたま仕事で居ませんでした。父から預かった大福を代わりに涼菜に渡しておきました。
二人で涼菜の部屋で、海に行く計画を立てました。
「……でも、やっぱり小学生同士で行くのはだめだよね」
いまさら言うのは申し訳ないというように、遠慮がちに涼菜が言いました。
考えてみれば確かに、小学生二人で海なんて行けるはずありませんでした。
「じゃあさ、俺が高校生、涼菜が中学三年生になったら、一緒に行こうぜ。高校生の男子なんて、ほとんど大人みたいなものだろ」
今ならそうではないと分かるんですが、小学生からすると、高校生は立派な大人に見えたんです。
「それまでずっと、私と交換ノートしてくれるの?」
「もちろん」
涼菜は、本当に嬉しそうに笑いました。
それから俺たちは、一週間、長くても二週間ごとに互いの家に行き、交換ノートを続けていました。
しかし、高校受験で、俺は自分にとっては少し難しい場所を選んだので、受験勉強を本格に始めてから、交換ノートは徐々に少なくなり、最終的に、俺が「受験が終わるまで待ってくれ」と言って、涼菜としばらく会わなくなりました。
やっと高校生になり、涼菜を驚かそうと、連絡も入れずにミヨサカに行くことにました。
近くの山でスミレが咲いていたので、涼菜が好きな黄色と白のスミレを二、三本摘んで、水色の和紙に包んで持って行きました。
しばらく見ていなかった、電車からの風景は、初めて父と一緒に行った時とは違って、雨が降っていました。天気は湿っぽくても、俺の心は晴れやかだったんです。久しぶりに涼菜に会えるのが、何より嬉しかったんです。
でも、俺は涼菜と会えなかった。
ミヨサカは、俺が通わなくなって一か月たったころにある事件が起きて、すっかり荒廃していました。
ニュースすらろくに見ていなかった俺は、そんなこと夢にも思っていません。体は勝手に涼菜の家に走り出していました。そして、俺は本当の絶望感を初めて知りました。家に着くどころか、一帯の住宅地が更地になり果てていたんです。
気が付くと、俺は雨に濡れて、ミヨサカの駅のプラットホームに立ち尽くしていました。スミレはどこかで落としてしまったようです。
家に帰って父に聞こうか迷いましたが、もしかしたらあえて黙っているのではないかと思うと、結局何も聞けませんでした。初めて、雨に感謝しました。涙も、走った汗も、雨と一緒に流れていきました。
それからしばらく、俺はミヨサカのことを、涼菜ごと忘れてしまおうと思い、努めて普段どおり過ごしました。でも……忘れようとすればするほど、涼菜が……あいつの笑顔がちらつくようになったんです。俺は意を決して、墓参りに行こうと決めました。
墓と言っても、そんなものどこにあるかもわかりません。だから、涼菜の家があったところに、俺が勝手に手を合わせに行くだけです。
普通墓には花を飾るでしょう。花を摘みに、俺はまた山に行きました。墓に飾る花はどんなものがいいのかなんて、調べたくなかったんです。だから、遊びに行くときのように、軽い気持ちで花を摘みました。幸いスミレがまだ咲いていたので、今度は紫とピンクのスミレを持って行きました。
相変わらず、ミヨサカは悲惨な光景が広がっていました。でも今度は、雨は降っていませんでした。気持ちとは裏腹に、晴れ渡っていました。
そんな空から目を背けるように、俺はただじっと下を見て、涼菜の家があった場所まで歩きました。落とさないように、スミレを優しく握りながら――――
智の話の途中、管理室から篠田を呼ぶ声があった。
「少女に動きあり! それに……これは、副監理室の――」
急いで戻った篠田が目にしたのは、ある女が純香と共に逃げる姿だった。
「まさか――――」
*
純香が、入った部屋を実験室の〝ような〟と言ったのは、まるで物置のように、物が乱雑に置かれていて、しばらく人が入っていないような雰囲気があったからだ。
――この病院は、やっぱり変だ。
そもそもここが本当に病院であるのかは怪しいところだが、機能としてはやはり病院に一番近い気がした。もっと言えば、人体実験場というほうが適切だろう。
こんな施設を管理しているのは一体だれか。純香は、やっと冷静さを取り戻し、様々な疑問を挙げる。
しかし考えたところで答えは出ない。
とりあえずなにか武器を探そうと思ったが、扉の向こうから誰かが走ってくる音が聞こえた。
――まさか、この部屋に入ったのが見られていた?
足音はどんどん近くなる。
――お願い、止まらないで!
しかし純香の願いは届かず、足音は丁度純香が通った扉の前でぴたりと止んだ。
――どうしよう。戦う? ……いや、武器も何も持ってないのにそれは無理だ。また走って逃げる? ……いや、もう体力も限界だ。絶対追いつかれる。
とうとう足音は部屋に入ってきた。そして、背後に気配を感じ、純香は死を覚悟した――。
――……あれ、生きてる?
しばらく目を瞑ってじっとしていたが、首に手をかけられる感覚も、刃物で刺される感覚も無かった。
――もしかして、もうここは地獄?
純香が恐る恐る目を開けると、目の前には看護師の服を着た女の人が立っていた。
慌ててまた下を向くと、今度は声をかけられた。
「私はあなたの味方です。もう大丈夫、ここから逃げましょう」
予想外の言葉に純香は困惑し、目を開けた。目の前には、自分と同じくらいか、もっと下の、女の子がいた。看護師の服が少し大きくて、コスプレでもしているような感じだった。
「驚かれるのも無理はありませんよね。でも、事情をゆっくり説明している時間はありません。ここから出たいのであれば、私についてきてもらえませんか」
そう言って、純香の手を引き、部屋の奥、実験準備室に入った。少女はものが乱雑に置かれた棚から、地図を取り出した。この病院の地図だ。
「あなたがこの部屋に入ってくれて良かった。ここは、私がこの時のために色々準備していた場所だったんです」
そう言いながら、次に少女は拳銃を取り出した。
「いざという時のためです。あなたが持っていてください」
純香は本物の拳銃なんて触ったことが無かった。
――こんなの使える訳ない。
少女は純香の考えていることを見透かしたように言った。
「大丈夫、これは偽物。本物なんて、私はどこで手に入れるのかも分からない。だからこれは、もう道がなくなった時、脅して強行突破するときに使うんです」
悪だくみしている子供のように笑って、少女は言った。
純香は少女に地図を貰い、現在地を確認する。N棟の三階。出口はC棟の一階だから、かなり遠いところにいるようだ。
「私がいたのは、一階の副管理室。あ、管理室は別で、地下にあるらしいです。私は入ったことは無いけど。それで、副管理室は、地図を見てもらえば分かるとおり、出口の真横にあります。ですから、その出口から出るのは無理です。だから、ここから出ようと思います」
そう言って、少女が指したのは、A棟の非常階段だった。
「ここは、警備が手薄なはずです。私たちがN棟にいることは皆知っているので、恐らく反対側にそんな労力は割かないでしょうから。ただ、ここに行くまでに見つかってしまっては元も子もありません。だから私、事前に調査して、監視カメラの位置を確かめておいたんです」
よく見てみると、赤いバツ印がいたるところに記されていた。だが一部分、ほとんど監視カメラが無いところもあった。それはとても奇妙な場所だった。
「この病院の構造は面白くて、アルファベット順に棟が並んでいるんですけど、J棟とK棟の間から、B棟とC棟の間は、別ルートがあるんです。それは二階にあって、空中トンネルって呼ばれてます」
再び地図に視線を落とすと、二階だけ、確かに道が多かった。他と違って個室があるわけでも、実験室があるわけでもなかった。窓すら無い。本当に、ただの通路としてつくられた場所のようだった。
「不自然でしょう。私も最初気になって、見に行ったんです。そしたら、この地図には少し間違いがありました。一本道で、階段も無いように描かれているんですが、本当は三階に続く階段が、五か所ほどあるんです。三階でそこに通じているのは、いずれも実験室のところでした」
純香は想像していた。秘密の階段。実験室に隠されている。この病院の狂気……。
やがて一つの答えが出た。この通路は、外部の人間に見られないように〝何か〟を処理するための抜け道だ、と。
*
管理室は、篠田の絶叫で静まり返っていた。
「なぜ裏切る! 総員、この女を取り押さえろ!」
一瞬の間があったが、一斉に椅子を引く音が聞こえ、監視員たちは風のように駆けていった。
「ようやく気付きましたか、篠田さん」
篠田が顔を上げると、智の不敵な笑みに視線がぶつかった。
「言っていませんでしたが、俺はあなたの目的を邪魔するために来たんです」
篠田の顔は、怒りのあまり目が血走り、唇が震え、汗が滴っている。
「何を言っているんだ……? お前、私の何を知っている!」
唾を飛ばしながら、興奮して話す篠田は、さながら野生動物が吠えているような光景だ。
智は再び真面目な表情になった。
「話は途中でしたね。まあ見てのとおり、もうあなたの仕事はありません。俺の話、ゆっくり聞いてくださいね」
――――涼菜の家に着いたとき、俺はこみ上げる感情を無視して、ずかずか入って行きました。もう鳴らすチャイムも残ってなかったんです。
かつてダイニングテーブルがあったところに、持ってきたスミレを置こうとしたとき、俺にとっては奇跡のようなことが起こったんです。
「あれ、智君?」
その声を、俺は待ち焦がれていたんです。聞き違えるはずありません。
振り返ったところに、鮮やかな黄色のワンピースを着た涼菜が、いつも俺を迎えてくれる優しい笑顔で、手を振っていました。情けないと分かっていながら、俺は涙を流しました。
「涼菜……良かった。また会えた…………」
思わず抱きしめました。
「ごめんなさい。最近色々と忙しくて、連絡が遅くなってしまって……」
いまさら事情なんてどうでもいい。そう思っていました。とにかく涼菜に触れられるという現実が嬉しくて、何も考えることができませんでした。
落ち着いてから、スミレを直接涼菜に渡しました。
涼菜は少し驚いたようでしたが、笑って受け取ってくれました。
「ありがとう」
その一言さえ、どうしようもなく嬉しかったんです。
しばらくして、涼菜はゆっくり、ミヨサカに起こった出来事を説明してくれました。
「私が、いつものように学校から帰っているとき、ミヨサカの方から大量の人が逃げるように走ってきた。私は何がどうなっているのか分からなかったから、人の流れに逆らって、ミヨサカに向かったわ。そしてミヨサカ駅まで来た時……血まみれになって倒れてる男の人が見えた。遠くから、数人の男たちが騒ぎながら歩いてくる音が聞こえて、私は駅構内に隠れることにした。駅長室が空だったから、そこに鍵をかけて震えていたの。隙間から少し見てみたんだけど、その男たちはだらっとしたTシャツに、腰まで引き下げたジーパンを着て、先端に少し血の付いたバイクを押してた。男たちは駅の壁にスプレーで落書きをしたり、辺りの窓を割ったり、ポスターを引きはがしたり、やりたい放題に暴れてた。……もし、今隠れているところに男たちが来たら、なんて考えると、恐ろしくて、ばれないように警察に連絡しようと思ったの。それで通報したんだけど、警察は出なかった。よく見ると携帯は圏外だった」
涼菜は、その時のことを思い出して、手が少し震えていました。俺が握ってやると、少しだけ、安心したようで、話を続けます。
「男たちがいなくなって家に帰っていると、途中でお父さんが迎えに来てくれた。少し安心したけど、お父さんの顔は、とても悲しそうだった。私は『何かあったの?』って聞いた。まあ、住宅街から人がほとんど逃げ出していってる状況で、この言葉は可笑しかったかもしれないけどね。……それで、お父さんは一言、『家が燃えた』って。正確には、私の家の近隣一帯が、警察の服を着た人たちに燃やされたの。お父さんはたまたま会社にいたから、無事だったんだけど、近くに住んでたあの人は、家にいて……」
涼菜はそこで言葉が詰まって、うつむいてしまいました。
涼菜の言う「あの人」というのは、涼菜と同じ学校、同級生の男の子です。涼菜は、その人のことを良く交換ノートで書いていました。好きだったんです。俺が交換ノートを止める直前に、涼菜はその人に告白する、と意気込んでいたんです。俺も表面上は応援していましたよ。でも、やっぱり苦しい。俺は、涼菜のことをずっと見てきた。だから、やっぱり素直に応援できませんでした。先刻は受験のためにこうしたと言いましたが、正直、一度涼菜と距離を置いて、冷静になろうと思っていたんです。
涼菜の想い人は、謎の放火のため命を落としました。俺は、いくらその人が羨ましいと思っていても、やはり嬉しくありませんでした。いずれ正面から堂々と、涼菜を振り向かせるつもりでした。
涼菜の想い人が命を落とした原因は、その時は結局謎のままでした。
涼菜はやがて泣き止んで、スミレを見つめていました。
「ねえ、スミレの花言葉、知ってる?」
花言葉なんて、調べたことありません。
「このピンクのスミレと紫のスミレは、希望、幸せ、真実の愛、とかの意味があるの」
そんな意味があるなんて知らなかった俺は、途端に耳まで赤くなりました。
涼菜はそんな俺をからかうように笑って、再び、
「ありがとう」
と言いました。
手はしばらくつないだまま、二人で壊れたミヨサカを見つめていました。
その日はとりあえず帰りました。涼菜も、あの後父と二人で、逃げるようにビジネスホテルに行って、ずっと暮らしていたそうです。
俺はあるアイデアがあったんです。狂気じみてると思われるかもしれませんが、俺は、涼菜の想い人の敵討ちをしようと考えていました。
親にさりげなく、ミヨサカのことを聞いてみました。
「智、最近行ってないもんね。行きたいなら、またお父さんと行ってこれば?」
思った通り、母は何も事情を知らないようでした。
ミヨサカの惨状を見て思ったんです。こんなに荒れてしまったのに、報道の一つもされないなんておかしい。何か、情報がどこかでせき止められているんだと思いました。
涼菜は、放火したのは警察の服を着た人だと言っていましたが、俺は最初から、それは本物の警察だと考えていました。まあ、目的は分かりませんでしたが。
それから、俺は情報集めに骨を折っていました。しかし結局、有力そうな情報は見つかりませんでした。
とうとう自分一人ではどうにもできないと悟って、涼菜に相談しました。この時、反対されたら素直にやめようと思っていました。涼菜を巻き込むわけにはいかないので。もう一度ミヨサカに行って、いつもと同じ場所、涼菜の家で待ち合わせしました。
涼菜は俺がやっていることに驚いていました。何かを言おうと口を開きましたが、何かを考えるように、一度快晴の空を見上げました。
「……分かった。協力するわ」
正直、俺は反対されると思っていました。危険だし、何より、涼菜は復讐なんて望んでいないと思っていたので。
「勘違いしないで。私は敵討ちの方に賛同するんじゃなくて、犯人捜しの方に協力するの」
「ああ、分かった。ありがとな 」
「実は私、前に智君と会った時、ここに調査しに来てたの。ただの推測なんだけど、犯人がこんな大それたことをしたのは、もっと小さな、一つの目的を隠しているんじゃないかと思って。例えば、こんなに多くの家が燃やされたのは、ある一軒だけを燃やしたかったんじゃないかってね」
涼菜の意見は、俺には的を射ているように思えました。涼菜の言う通り、犯人が危険を顧みずこんな暴挙に出たのは、俺の目から見ても不自然でしたから。
「でね、偶然かもしれないけど、一軒だけ、集中して燃やされたところがあったの。あの日逃げた人に聞いたら、最初に燃やされたのは別の家だったから、私の推測が当たっていれば、その家の人に、犯人は何か恨みがあったんだと思う 」
それから、俺は涼菜に連れられて、その家に向かいました。確かに他と比べて跡が黒くのこってたけど、普通に歩いていたら見逃してしまうほどのわずかな違いでした。だから、俺たちは確証を持つには至りませんでした。
その家には、一人のサラリーマンが住んでいたと言います。涼菜はその家に住んでいた人を知っていると言いますが、ミヨサカを出た後、どこに住んでいるかは知らないということでした。安否も定かではありません。
「お父さんの知り合いが、犠牲者の名前が載った資料を持ってるらしいから、今日帰ってお父さんに聞いてみるよ」
そう言われ、その日はミヨサカを後にしました。
帰る途中、俺は犯人の目的を想像していました。
――金銭トラブル、恨み晴らし……もしかしたら、敵討ちか?
涼菜に任せきりになってしまって心苦しかったので、とりあえず、俺は警察の動きを探ろうと思って、様々な方法で情報を集めたんですが、やはりだめでした。しかし、めげそうになっている時、情報漏洩か何かでネットにあげられていた、あるサイトにアクセスできたんです。そこには、警察の中でもトップの人の、名前から生い立ちまでが、詳しく載っていました。
こんな個人情報がネットにあげられるなんておかしいと感じながら、俺はその画面に釘付けになっていました。
俺は、その人たちの出身小学校や中学校を調べていきました。そのサイトは数日で何事も無かったかのように消されてしまいましたが、たかが数十人を調べるのには十分でした。
調べた中で、たった一人、ミヨサカの隣町出身で、涼菜と同じ中学校を卒業した人がいました。それがあなたです、篠田さん――――
智が話し終えた後、篠田は、足元がおぼつかず、崩れるように近くにあった椅子に座り込んだ。
「じゃあ、最初から、私の協力なんてする気はなかったんだな」
「そういうことです」
怒りで声が震えている篠田に、智は淡々と答えた。
「……ははっ、馬鹿らしい。お前のようなガキに、今更何ができる」
負け惜しみのようにそう言い散らす篠田に、もはや刑事だったころの面影は無かった。
「せいぜいこの女たちが始末されるのを、その目で見ているがいいさ!」
智は変わり果ててしまった目の前の男を見て、呟くように言った。
「なぜ、こんなことを?」
篠田は狂ったように笑っていたが、やがて諦めたように、椅子にもたれかかり、うつむいた。ぽつりぽつりと動機を語った。
「……私の弟は、いじめられていた。弟が中学生の時だ。私は全寮制の学校に通ったから……弟とは疎遠で、何も知らなかった。ある日、母から電話が来た。弟が捕まったと。私が知っている弟は、おっとりしていて、虫一匹殺さないような奴だった。だから…………最初は驚いた。何をやったんだと聞いたら、放火だと言う。……想像できなかった」
篠田は、何かを思い出すように上を見上げた。
「近くにいた人が、バケツを持って歩いていた弟を不審に思い、後を付けたところ、放火をした……いや、しようとしてバケツの中身を撒いたから、取り押さえたらしい。だが間に合わず、その家は燃えた。近隣住民の素早い行動で、消防車はすぐに来た。結果、その家の人達は重軽傷を負うことになり、後遺症が残った人もいた。そして裁判の結果、弟は少年刑務所に入れられた。殺人未遂ということになってね。……私は、ようやく時間に余裕ができたとき、弟の面会に行った。最後に会った時は健康そうだった顔はすっかりやせこけ、目は曇っていた。弟は私に言うんだ。うわごとのように、『あいつを殺して。ねえ、お願い。あいつが悪いんだ。信じてよ……』って。『あいつって?』と聞くと、『同じクラスの、俊之助だ。あいつが悪い。あいつが悪い。あいつが……』。そこからは会話にならず、諦めて帰ったよ。私は、弟のやり残したことをしただけだよ」
篠田は悪びれる様子も無く、挑発的に笑った。
「あんなに優しい弟に、放火なんて真似はできない。それなのにそこまで追い込んだ奴は、自業自得だろう? 死んで何が悪い。君だってそう思わないかい? もし親友がいじめられて、人としての一線を越えてしまったら、君はそれでも親友をとがめるかい?」
「その時は、俺がいじめっ子をボコりますよ」
智の言葉には、確かな芯があった。篠田は智をじっと見つめた後、再び口を開いた。
「そうだろうね。君は強い。でも私は、そこに居合わせることすらできなかった。私ができるのは、せいぜいこれくらい――」
「それは違う!」
篠田の言葉を、智は大声で遮った。
「あんたは言い訳をしてる。弟がかわいそうだから仇を取った? そんなの、きれいごと並べてるだけだ。弟がかわいそうだと言うなら、なぜ寄り添ってやらなかったんだ? あんたなら、やろうと思えばできたはずだ。でも……調べたんだが、あんた、面会なんてそれきり行ってないだろ」
早口でまくし立てる智の目には、今までなかった、怒りの感情が見て取れた。
「あんた、幼いことから警察を目指してたんだろ? だから、警察官になるための専門学校に通ってたんだろ。その中で、身内に犯罪者がいるとなっては、周りの目が怖い。だからあんたは、弟を付き離そうとしたんだ。違うか? だってあんた、そのいじめっ子の名前を使って、弟に嫌がらせをしたそうじゃないか。狙いどおり、弟は刑務所内で自殺した。万々歳だよな。だが、まだ心配事があった。いじめっ子とその家族だ。一から叩き上げで地位を上げていったあんたは、弟の放火の被害者が、賠償請求をしてくることを心配した――いや、それによって恥さらしの弟の名が挙がるのを心配した。結局、弟がやった方法と同じ、放火で、全て消してしまおうと考えた。ここまであってるか?」
篠田は呆気に取られていた。怒りも憎しみも無く、ただ智を見つめていた。
「ああ、その通りだとも。くだらない説教ならいらないよ、智君。分かっているから」
智は、一層鋭い眼光を篠田に向けて言った。
「……は? あんた何も分かってねえよ。俺はそんなことしにお前と一緒にここまでやってきたわけじゃねえ。そんなことをしに、わざわざお前に話合わせてたわけじゃねえ。俺はな、お前の一番恐れていたことをやって、お前を地の底まで叩き落したいだけだ」
「何を言ってるんだ、智君。君をここから帰すわけ無いだろう? それに、君の友達だって――」
そう言って篠田が監視動画に目を向けると、少女たちと一緒に逃げる男の姿があった。
「――なぜ、こんなところに! 亡霊め!」
そこに映っていたのは、篠田が燃やした家にいたはずの、そして、純香の本当の父、俊之助の姿だった。
「あんた、せっかち過ぎんだよ。大方、純香の父が、あんたの追っていた俊之助だという情報だけで、この家を狙ったんだろ? もっと良く調べて行動すべきだったな」
「いや、間違っていないはずだ。この女の父は、あそこで身を隠すように生活していたはずだ」
智は、目の前の男の愚鈍さにあきれるようなしぐさをした。
「お前が十数年仕事に精を出している間、純香の家は一度父親が入れ替わったんだ。お前のめあての俊之助さんは、本当の父親、つまり、最初のほうだ。そして実際にあんたが葬ったのは、暴力三昧で家庭をめちゃくちゃにした、再婚相手のほうだ。純香やその母親としては、ありがたいことだろうな。まあ、暴力行為で警察に突き出される前に、死んだってことにして身を潜めていたらしいから、どっちでも良かったかもしれないが。俊之助さんは、今は探偵をやってるんだ。俺みたいな未成年が、探偵を雇うなんて金はねえよ。調べていて驚いたぜ。まさか、純香の父親が生きてるとはなあ。事情は詳しく聞かなかったが、多分俊之助さんは、こうなることが分かってたんだと思うぜ。じゃなけりゃ、育ち盛りの娘置いて、失踪したりしないだろう」
篠田は自分の浅はかさを心から憎んだ。
「お前がやろうとしていたのは、ただの自己満だ。壮大な計画が小さなミスで崩れるのは、さながらドミノのようだな。気持ちよかったよ。……言ってなかったが、俺は最初からこの会話を外部に流している。つまり、今も俺の仲間が外でこれを聞き、録音してくれているんだ。お前はもう終わりだ」
日々の運動で鍛え上げた肉体を誇示するように、篠田をやすやすと縛り上げた智は、明信と連絡を取った。
「おい、ちゃんと聞いてただろうな?」
「うん、録音もちゃんとやったよ」
事前に智から話を聞いていた明信は、動揺することなく、仕事を果たしていた。
「それは俺が後で警察、同時にマスコミに送り付ける。……聞いた通りだ、篠田さん。あんたは終わりだ。反省しろとは言わねえよ。どうせしないだろうからな。思う存分、後悔するがいいさ」
篠田は、本当に悔しそうに、智を睨みつけた。
*
純香は自分の想像に恐怖を感じながら、手を引かれるままにとうとう空中トンネルの入り口まで来てしまった。
「さあ、ここから二階へ降りて、はやく逃げましょう」
「ちょっと待って。何か、嫌な予感がする。ここ以外に道は無いの?」
突然の純香の言葉に、少女――涼菜は驚いた。
「ここ以外って言われても、辺りは監視カメラだらけで――」
涼菜の言葉は途中で遮られた。死角から男が現れて、純香と涼菜の腕を掴んだ。
二人は驚きのあまり言葉が出なかった。ここまで来て、運が尽きたか。そう思った純香だったが、涼菜は一言こう言った。
「あ、探偵のおじさん」
――……え?
「知り合いなの?」
「うん。私たちをここに紛れ込ませてくれたのはこの人なんだよ」
涼菜の「私たち」という発言が気になったが、この際どうでもいい。
男は二人を、空中トンネルとは反対のN棟の方へ連れて行った。
「何処に行くんですか?」
純香が不安になって尋ねると、初めて男が口を開いた。
「まずは事情を説明する必要がある。それに純香、君に謝らなければならない」
純香は意味が分からなかったが、とにかく付いていくしかなかった。
場所は先刻純香と涼菜が会った実験室だ。
「ここなら監視カメラも無いし、安全だ。ではまず……純香、君は、本当のお父さんがどこに行ったか、知っているかい?」
純香は予想外の質問に困惑した。
「いや……知らない。周りの人には死んだって言われて――――」
「君のお父さんは生きている」
純香の言葉を遮って、男はぴしゃりと言った。
見知らぬ男が自分の父について何故知っているのか、それより、父が生きているとはどういうことか……疑問が多すぎて、純香は状況が理解できなかった。
「ああ、ごめん。しゃべりすぎたかな。まあ、これは後でもいいか……。とりあえず、僕が来た理由について話そうか。涼菜ちゃん、あのトンネルに監視カメラが少ないのは、結果から言うと罠だった。僕が忍び込んでいた管理室で、話し声が聞こえたんだ。色々あって、管理室の総員が一斉に動き出してね。その中で、半々に分かれて警備することになったんだ。半数が玄関まわり。そしてもう半数が、あの空中トンネルだった。恐らく、わざと警備を手薄にして、そこから逃げるのを待っていたんだろうね。涼菜ちゃんが裏切り者だと知られてしまったのも原因かもしれないけど……。でも大丈夫だ。あっちの会話が聞こえるように、受信機は持ってきた。こちらが位置を知られるようなことは無いから安心していいよ」
そこまで話した男は、涼菜が持っている地図のコピーを取り出した。正確には、コピーに新規の逃亡ルートを書き込んだものだ。
「この道に行けば、脱出できるはずだ。……純香、いきなり二人も知らない人が出てきて、怖いかもしれないけど、今はとりあえず、僕たちを信用してついてきてくれないか」
純香がその男をよく観察すると、濃い茶色の目に、ストレートの黒髪があった。目の色や髪質、高い鼻は、純香とよく似ていた。
「……分かった」
純香は、この二人に賭けてみることにした。
「ありがとう。じゃあまず、涼菜、どこかに長い棒は無いかな? 金属の、頑丈な」
「確か、あっちにあるはず」
そう言って涼菜は、実験準備室に駆けていった。
「ねえ、聞いてもいい? もしかして……あなたは、私の父親?」
男は一瞬狼狽したが、とうとう観念したように、純香に向き直って話し始めた。
「君に危険が及ばないように距離を置いたのに、君には随分迷惑をかけたようだね……すまなかった。僕の名前は俊之助だ。お母さんから聞いた事あるかな? 僕は個人で探偵をやっていてね。丁度君が生まれて、一年が経とうとしていた時、僕は、ある依頼で、ミヨサカに近くにある刑務所の囚人について調べていたんだ。そしたら、その刑務所である囚人が自殺したという情報が入った。その人は……僕の親友だった人だった。その原因を調べてみたんだ。そうしたら、外部の人間が、僕の名前を使って嫌がらせをしていたんだ。手紙が十数枚出てきていた。大体、手紙とかを送ると、検閲が入るんだ。それなのに、こんな手紙を容易に送ることができたのは、刑務所の関係者か、或いは家族のような近しい関係の人間だ。依頼そっちのけで調べたら、その人の兄が警察になっていて、裏で金を回し、刑務所の人間を取り込んでいたんだ。つまり、兄が弟を殺した」
純香は説明を聞きながら、父だという男に見入っていた。予期しない再会が、嬉しいはずなのに、少し怖かったのだ。何故かは分からなかったが。
「その兄について調べているうち、次に狙われるのは自分なのではないかと思い始めた。その時はまだ単なる勘だった。まあ、思い当たる節はあったんだ。でもそのうち、その兄が大胆な行動に出てね。最初は家に脅迫文を送ってくるだけだった。それも……死んだ親友の名で。ああ、親友が逮捕されたのは、僕が小さい時、僕の家に放火をしたことが原因だ。それで――」
「ちょっと待って。え、どういうこと? 親友なのに、放火……?」
有り得ない言葉の組み合わせに、純香は思わず男の言葉を遮った。
「ああ、そのことか。まあ驚くのも無理はないよね」
「本当に、親友なの?」
「ああ、それは本当だ。いつも静かで、物知りな彼といるのが、僕はとても楽しかったんだ。多分放火なんてことをしたのは……彼が、僕に裏切られたと勘違いをしたからだ。僕は、彼以外と遊ぶことも多くて、中学生になって部活が始まってからは、そっちの仲間といることのほうが多くなった。彼は部活には入らないで、いつも僕のところに来て遊ぼうと言ってきた。僕はそれが面倒だなどと思ったことは一度も無かった。でも、そのうち部活の仲間と離れていってしまって、部内で少し孤独を感じるようになった。全体で仲は良かったが、なんだか馴染めていないような気がしてたんだ。だから僕は、親友に一言、心無い言葉を言ってしまった。 『僕のところに来るのはもうやめてよ』って。彼はとても悲しそうな顔をしていた。彼は、人との付き合いがあまり良くなくて、僕以外と親しく話すことが無かった。だから僕は、とても酷なことをしたんだ。それから、僕らはなんだか話しづらくなってしまって、しばらく距離を置くようにしたんだ。僕としては、いずれ仲直りするだろうという感じの、ただの喧嘩のつもりだった。だが彼は違った。今までの友情が、全て噓だったんだと、そこまで思いつめる程に、傷ついていたんだ。僕が見て見ぬふりしていただけかもしれないな……」
悲しそうな顔で語る父を、純香はただ見つめていた。
――親友から裏切られたのは、どっちなんだか……。
「兄は多分、この事情までは知らなかったようだ。脅迫的な手紙には、僕がいじめたというような内容が書かれていた」
俊之助は一呼吸おいて、話題を変えた。
「ごめんごめん、話がそれたね。まあ、手紙とか、小さな嫌がらせが続いて、僕は君たちの家から出ていったんだ。それから一度、君の家の近くを通った時、声が聞こえたんだ。お母さんと君の、悲鳴が。それも一瞬だった。僕は得意の情報収集力を活かして、その見知らぬ男を調べた。出てきたのは悪いものばかりだ。ろくな生き方じゃあない。僕は人のこと言えないけどね……。それで、警察に話したんだ。君の家で、不審な男が女子供に暴力を振るっていると。嘘ではないはずだ。余計なことだったなら、今ここで謝ろう」
純香はあの日々を思い出して、身震いがした。
「いや、迷惑なんかじゃない。ありがたかった。でも……私はあの男がいなくなってから、お母さんにひどいことを……」
純香に再び後悔の念が襲い掛かった。枯れたはずの涙は、どこかから湧き出て来て、純香の心を染め上げた。
「……君をそんな感情にさせてしまったのは、僕だ。僕を怒れ。僕を憎め。君は悪くないよ。僕を、君の家族に入れてくれないかい?」
ゆっくり、純香を落ち着かせるように話しかける俊之助は、純香が夢見ていたような、「お父さん」のまなざしをしていた。
純香は小さく「うん」とつぶやいて、必死に涙をぬぐった。
「その男は、もういないよ。この病院の管理者――もと刑事の篠田という男――が、僕と間違えて殺してしまったんだ……。その場しのぎのつもりで、身を隠していたその男に僕のふりをさせたんだ。そうしたら、嫌がらせの方向もその男の方に切り替わった。でも、表で動きすぎた僕は、そんな男に構うことなくまた姿を消した。本当に、申し訳ないことをした」
身代わりとなった男、二度目の父を、気の毒と思わないわけでは無かった。でもあの真っ黒な生活を思い出すと、非情にも、「ざまあみろ!」と叫びたくなる自分がいることに、純香は気づいていた。
「僕が今のこの事件を知ったのは、智って名の男の子が、インターネットでミヨサカのことを発言していたのを見たからだ」
「智が?」
純香は驚いて、言葉を遮ってしまった。智がここに関わる原因なんて、思い当たらなかった。
「ああ。『ミヨサカ』ってつぶやくだけで、ネット上の発言はすぐ消されてしまうんだけど、運よく消される数秒前にみれられたんだ。智君に聞くと、ミヨサカが何者かに荒らされて、大変なことになっていると言う。僕は、生まれ故郷が荒らされたのが悔しくて、智君に協力した。純香が危ないと知ったのは、随分後だった。作戦立案は、智君がやったんだ。僕は智君をうまく監視員の中に、涼菜ちゃんをエセ看護師の中に紛れ込ませただけだ。礼を言うなら、後で智君に直接言ってくれ。同じ学校なんだろう? 」
純香には、智が自分を助けるなんて、信じられなかった。今更、合わせる顔が無い。
しかし、そのことを説明している時間は無くなったようだ。廊下からは、追跡の足音が響いてきた。
涼菜がやっと鉄のポールを探してもってきた。なぜそんなものがあるのかは、この際気にしないことにした。俊之助はそれを受け取り、二人に玄関とは逆の方へ走れと言った。
「あっちに非常階段があるだろう。今、あそこは老朽化が進んで使われていないんだ。警備なんていない。あっちから出るんだ」
俊之助の合図で、二人は走り出した。後ろからは鬼が追いかけてきたが、振り返ることはできない。純香は足の遅い涼菜を引っ張りながら、なんとか追いつかれずに非常階段まで来た。
幸い鍵は壊れていたので、三人が急いで出た後、俊之助が先程のポールを使って、出口を塞いだ。
「これをいつまでもつか分からない。走れ! 外に車を用意してある。智君もそこにいるはずだ」
わき目もふらずに階段を駆け下りた。一階まで下りた頃、とうとう三階の出口が突破された音がした。
「あそこだ。急げ!」
二人の後ろから俊之助が叫んだ。指をさす方向を見ると、智が手を振っていた。
「こっちだ! 後ろ、もう来てるぞ、早く!」
智は車のエンジンを付けて、なるべく目につかない場所で待っていた。
「はあ、はあ……ありがとう智君。さあ、出発だ」
俊之助が運転席に、純香と涼菜が後部座席に乗り込んだ。
車を出した後、しばらくは追ってが止まなかったが、とうとう諦めて帰っていった。
唯一の帰り道に、トンネルがあった。足止めのため、いったん車を止めて、その入り口をふさぐことにした。小さなトンネルだったので、大木一本で十分だった。
「でも、大木なんてどうやって持ってくるんですか?」
「あ、持ってくるんじゃないよ、涼菜。俺、何かあった時の為に、軽い爆弾持ってきてんだ。これで木を倒せばいいんだろ 」
「ああ、頼めるかな、智君」
智の働きで、作業は滞りなく終わった。
帰りの車の中で、純香は智に掛ける言葉を探していた。
――ごめん……はなんか違う? ありがとうもちょっと……図々しいかな。
そんな純香の考えを読んだように、智は純香に言った。
「おい、お前もう寝とけよ。疲れてんだろ」
そっけない優しさに、純香は、やはり今まで感じたことの無い感情を覚えた。
「大丈夫。そっちこそ疲れてるでしょ。智君は……」
「俺は管理室で、篠田――黒幕と話してた。そうだなあ、子守歌代わりに、聞かせてやるよ」
――――俺は篠田を縛り上げた後、監視映像を見て、お前らの行動を見て出ていく頃合いを見計らってた。でも後ろのうめき声がうるさくて、暇つぶしにちょっと話してたんだ。
「そういえばあんた、どうして純香のこと知ってたんだ?」
光の消えた目で、篠田は俺を見たよ。
「……簡単なことだ。俊之助の父は、弟の放火で後遺症を残した。それは母から聞いたんだ。それでその父親は、入院生活を余儀なくされた。私はそれを覚えていたから、数年後、その病院の周りを仕事で張っていた時、偶然見た車いすの男が、その父親だとすぐに気づいた。火傷の重症だと聞いていたから、外見で分かるんだ。私はその人に近づいて、何とか息子、俊之助の居所を掴んだ。幸せそうに話していたよ。『息子が今度新居を構えるんだ』って。場所をきいたら、快く教えてくれた。あまりに無防備すぎて、逆に心配だったよ。でも……私は一度そこに行ったんだが、とても幸せな暮らしでは無かったぞ。時折悲鳴や、何かを殴打する不吉な音も聞こえた。放っておいたがな。……はあ、私は、警察失格だよ、まったく」
「じゃあ、その時にはもう、本物の俊之助さんはいなかったんだな」
俺は俊之助さんの父さんに、正直同情したよ。自分はその人が幸せだと思っていても、「現実は、どうも違うことが多いらしい。
「そういえば智君、君はどうやってここに参加したんだい? 私は、厳重なロックをしたサイトで、密かにこのメンバーを集めたんだが?」
「それこそ簡単なことだ。俺には協力者がいた。あんたがずっと追ってきた、俊之助さんだよ。あの人は探偵をやっていた。あの人があんたの計画を先読みしてくれたおかげで、そして俺を難なくここのメンバーに入れてくれたおかげで、俺は容易にあんたに近づくことができた」
篠田は、もうなんの反応もしなくなっていた。ただ一言「そうか」と言っただけだった。
「もう一つだけ、聞かせてくれないか。君はあの純香って女に、親友を傷つけられたといっただろう。何故あの女を助ける? それとも言ったことは嘘か?」
「嘘じゃねえ。……でも、そいつがあの女の幸せを願ってるんだ。俺は純香を助けるんじゃなく、親友の頼みを聞いただけだ」
今度は、篠田は静かに笑った。
「なるほど、ありがとう。私は、やっぱりきれいごとは好かんな」
「そうかい」
それからすぐ、お前らが動き出したから、俺も急いで外に出た。篠田はぐったり体を横たえていたよ――――
純香は智の話を聞いて、眠るどころか、寧ろ目が冴えた。涼菜純香の方にもたれかかって眠っていた。
「明信君が、私を……?」
途端に罪悪感で胸が押しつぶされそうになった。いっそ惨めに捨てられたほうが良かったのかもしれない。
「ああ、そうだ。事情を知らないあいつは、『純香は、立ち直れるかな』とか言って、お前のこと心配してたぞ。お前からしたら迷惑かもしれないが、受け止めろ。そして後悔してろ。俺はお前を心配してこんな大それたことをしたんじゃなくて、そこに寝てる涼菜の想い人の敵討ちさ。ただの自己満足さ」
智はそう言いくくって、「お前も寝ろ」と言い、眠ってしまった。
純香はまだ現状が理解できない。たくさんの感情が入り混じっているのと、安堵感で、少し気分が悪くなってきた。寝れば治るかと思い、涼菜と肩を並べて眠りについた。
やっと山道を抜け、信号機で車は一時停止した。
「智君、純香はもう寝たよ」
俊之助がそう言うと、智は目をぱっちりと開けた。初めから寝たふりをしていた。
「これから僕は、警察に証拠を届けなきゃいけないから、一度君たちを帰さないといけない」
「どうしてだ? このままいけばいいじゃないか」
「それなんだけど、やっぱりどこまでがこの事件に関わっているのか分からないんだ。君たちを連れて行って、また危ない目に合わせるわけにはいかないからね」
智は俊之助の顔を見た。やましいことがあるようには見えなかった。
「……わかった。じゃあまずは純香だ。母親が今入院してる以上、あの家に一人で行かせるわけにはいかない。何か考えないと……」
「ああ、そのことなんだけどね、純香は僕の母、つまり純香の祖母と一緒に暮らしてもらいたいと思っているんだけど、どうかな?」
俊之助は、少し明るいトーンで言った。しかし智は、反対に警戒心を持って答えた。
「無理だ」
ぴしゃりとそう言い放つ智に、俊之助は呆気に取られていた。
「……どうしてだい? 純香にも、帰る家が必要だろう」
「そういうことじゃねえ。お前、純香の父親なんかじゃないだろ」
何か確証があるとでも言うように、智はまっすぐ言った。
「純香の父親は死んだ。もういねえ。それとも、お前は地獄から逃げ出してきたのか?」
挑発的な態度を崩さない智に対し、俊之助と名乗る男は叫んだ。
「ふざけるな! 何を馬鹿なことを言ってるんだい。何か、僕が父親でない証拠でもあるのか?」
男の圧に押されること無く、智は言い返した。
「大声出すな。二人が起きる。……ああ、飲み物に睡眠薬入れたから、しばらく起きないのか。じゃあ、ゆっくり話せるな。お前の名は、篠田栄介だ。あの男の、実の弟だろ。はー、やることは大胆だねえ。まさか全部お前の思い描くようになっちまうとは」
そう話す智の横で、篠田栄介は怒りのあまりひどく汗をかいていた。
「弟は死んでなかった。お前、家族から虐げられていたんだろ? 家族はほとんど面会に来なかった。出獄した時だってそうだ。だから、持ち前のハッキング能力、情報収集能力を活かして自分の死を偽装、金儲けまでできるようになった。ここまで来れば、後は楽しい宴の始まりだろ? 自分を見放した兄貴、裏切った俊之助、そして、その妻子。復讐するのは容易だったはずだ。なんせ幽霊が自分に忍び寄るなんて予想しないからなあ」
赤信号で車は止まったが、既に都会のど真ん中に来ていたので、智の筋の通った推理を止められはしなかった。それに智はこの時のために、睡眠薬、隠されていた刃物など、武器となりうるものは全て奪っておいた。そのために車のキーを預かっておいたのだ。
「篠田がさらっと言っていたが、両親は事故死らしいな。一年前か……。俊之助さんがアルコール中毒で亡くなった年と同じだなあ。まあ、両親はお前がやったとは断言できないが、違ったとしても、お前としてはありがたかったんだろ? それに俊之助さんのことは、お前のこの車の後ろの資料で分かったぞ。捨ててりゃあ良かったのにな。あと今回は、本当に良くできた演劇だよ。一気に兄貴、純香を消せる。純香を助けたのは、やっぱり自分の手で終わりたかったからか。どうだ、俺の推理はあっているか?」
終わった頃には、栄介は怒りを通り越して感嘆していた。
「ああ、全て君の言った通りさ。だがこれからどうするんだい? 僕の犯行を暴いたとて、君に何もできないだろう。僕を警察に突き出すか?」
智はなお態度を変えずに言った。
「いや、幽霊を警察に突き出しても、俺に何も得は無いだろう? だから、俺の条件を飲んでくれれば、このままお前の計画に協力しよう」
智の言うことが、栄介には理解できなかった。
「今なんて……?」
「だから、俺も協力するって言ってんだ。俺は、お前の兄に用があったんだ。お前の計画がどうなろうと知ったこっちゃない。ああでも、念のため今の会話は全部録音してるからな。何かあったら、これを利用させてもらう」
栄介は運転をしながら、高笑いをした。
「ははは、そうか! よし、本当はもう終わりかと腹をくくっていたんだが、君の言葉で良く分かったよ。僕は、もう死んでしまっていたんだね。では君は、幽霊であるこの僕と契約しようっていうのかい。随分酔狂じゃあないか。それで、君の条件とはなんだい?」
「ああ、簡単なことだ。今日の事件を黙認し、ミヨサカ、及び涼菜には今後一切近づかない。これだけ守ってくれりゃあ、俺はもう何もいらない。後は好きにしてくれ」
智は、後部座席に座る純香を振り返りながら言った。
「ああ、分かったよ。君たちにはもう関わらない。今日のことは、言われずとも黙認する予定だったから問題ない。そのために脱出する直前、あの建物一帯は電波がつながらないように細工してきた。じゃあ、君たちをミヨサカの近くで下ろそう。何はともあれ、今日はありがとう 」
そうして、幽霊・栄介は純香一人を乗せてどこかへ走り去っていった。
*
涼菜をお父さんに預けた後、智は電話をかけた。相手は待っていたかのようにすぐに出た。
『もしもし! ああ、無事でよかった。言われた通り、車のナンバーも伝えたよ』
電話の相手は明信だった。
「おう、ありがとう。あいつは俺のこと信用してどっか行ったぜ」
『どっか行ったって……。本当に、純香は大丈夫かなあ』
――まったく、お前は変わんねえな。
明信のお人よし加減にあきれながらも、智はそれに安心していた。明信が変わらないでいてくれて、智は嬉しかったのだ。
「大丈夫さ。篠田に聞いた仲間に、篠田が縛り上げられてる写真送ったんだぜ。すぐさま調査に乗り出すだろう。お前、警察にどう言って画像送ったんだ?」
『ああ、現場にいた監視員?のふりして送ったよ。応援要請、みたいな感じで』
「うん、いい判断と思う。それならわざわざ発信元確認したりしないだろうからな」
少しの間の後、明信が智に言った。
『ねえ、僕のために色々智には迷惑かけたよね。本当にありがとう。智一人に任せてしまって、ごめん』
「何言ってんだ。信じられるのは自分だけっていう極限状態での脱出ゲームだと思ったら、結構楽しかったぞ。まあ、もう一度やりたいかと言われれば、断るがな」
『……本当にありがとう。今から電車乗って帰ってくるんでしょ? 駅まで迎えに行くから』
智は、明信に来なくていいといったが、明信は行くと言って聞かなかった。
空がオレンジ色に染まったところで、智はようやく帰路についた。
最終幕
日常
〝神隠し〟から数か月。僕は、元の生活を取り戻しつつあった。少し変わった事と言えば、純香が転校したことくらいだ。親の仕事の都合だと先生は説明していたが、精神病棟に入って療養中だなんて噂もあるとか。
「おはよう、明信」
目玉焼きとみそ汁、白米という、質素で贅沢な朝食のにおいに導かれるように、僕は席に座る。
「おはよう、母さん」
家族という仮面は、僕にはもはや、付けている感覚が無かった。朝顔のキーホルダーを無くしたのは惜しかったが、またあの温泉に行くことがあったら買おうと思った。
ホノカミに言ったとおり、まだ完全にこの世を楽しんでいるわけではないが、以前と比べると、断然息がしやすい。
「おお、明信、起きてたのか」
「父さん、おはよう。そうだ、次の土日、智に泊まりに来ないかって誘われてるんだけど、行ってもいいかな」
智との関係は、今もなお良好だ。寧ろ、以前より中が深まったように感じる。
「ああ、行ってきなさい。丁度昨日の夜、智君のお父さんに会ったんだ。俺も日曜、智君のお父さんとゴルフの練習に行くことになったよ」
父さんたちは、僕たちに気を遣っているのだろうか。少し申し訳ない気がするが、ありがたく受け取っておくことにした。
「ありがとう、父さん」
母さんは、焼き終わった鮭をテーブルに並べて、やっと席に着いた。食卓に香ばしい匂いが加わる。
「そういえば、晴樹は?」
「ああ、また寝坊ね。明信、悪いけど起こしてきてくれない?」
晴樹は毎日のように寝坊をする。最近、晴樹を起すのが僕の日課になってきていた。できれば自力で起きてほしいところだ。
「晴樹、また寝坊だぞ。いい加減目覚ましで起きられるようになったらどうだ」
最初、呼びかけても返事が無かった。心の奥で何かが騒いだので、慌てて僕は晴樹の布団を引っぺがした。
しかし、僕の心配とは裏腹に、ぐっすり眠っている晴樹がいた。今度は勢いよく叩き、確実に起こす。晴樹は体をびくっとさせて体を起こすが、寝ぼけているようだった。
「あれ、兄ちゃん? どうしたの?」
目が開いていない晴樹を見て、思わず笑ってしまった。これだけ寝てもまだ眠たいなんて、一体どれだけ眠れば気が済むのだろう。
「もう朝ごはんできてる。早く来ないと遅刻だぞ」
朝ごはんに反応して、晴樹は寝起きだと言うのに階段を駆け下りていった。
洗面台をいつも独り占めする晴樹をどけて、寝癖を直し、やっとの思いで家を出る。朝から良い運動だ。
家を出た先には、智が待っていた。夏の試合に向けて特訓をしている智は、最近、より体が大きくなってきたような気がする。
「おう、おはよう」
「おはよう。今日は早いんだね」
智も晴樹と同じく、朝に弱い。
「ああ、朝練があってな」
あくびをしながら言たので、声のトーンが変になっていた。
「あはは、体壊さないようにね。今度の大会はいつだっけ? 晴樹と一緒に応援に行こうと思うんだけど」
「今週の土曜だ。試合の後、俺の家に泊まりに来るって言ってたじゃないか。忘れるなよ」
言葉とは裏腹に、智は楽しげだった。
「そうだったな、ごめんごめん。応援してるからな」
智は親指を立て、笑顔を見せる。
しかし、智は急に神妙な面持ちになって言った。
「テレビ見たか? 純香を連れて行ったあの男、捕まったんだとよ。ついでに篠田の兄も、警察の中で違う派閥だったやつにばれて、とことん叩かれているらしい。いい気味だな」
「そっか……。純香のことは?」
智は押し黙ってしまった。そして一言、「ニュースでは、何も言われていなかった」と小さく言った。
そうこうしているうち、学校に着いた。まっすぐ朝練に向かうという智と別れ、一人教室に向かう。二年になり、教室は三階に移動した。おかげで朝、階段を上がるのが辛いが、智とはまた同じクラスになり、他のクラスメイトとも親しくなることができた。順風満帆な高校生活を実感した。
三階の廊下を歩いていると、グラウンドでサッカー部が朝練をしているのが見えた。窓を開け、肘をついてグラウンドを見る。智は僕に気づいたようで、笑顔で手を振ってきた。僕も手を振り返し、邪魔するといけないと思い、教室に戻る。
クラス替えを機に、純香の机は無くなってしまった。今、どこで何をしているのかは知らないが、ここにいたという証が何も無くなってしまうのは、少し、寂しい気がした。
「純香も、どこかでうまくやれてるといいな……」
数か月前の事でも、まるで何年も前の事ように、懐かしく感じる。特に遊園地は楽しかった。本当は、今度は僕から誘おうと思ったのに……。
思い出すのは笑顔だ。自分が気を病んでいる時、いつも励ましてくれていた純香が、僕は好きだったんだと思う。
智は全部嘘だと言ったが、僕にはどうもそうは思えない。記憶が美化されているだけかもしれないが、人の気持ちなんて、その人自身にしか分からないのが普通だ。寧ろ自分にも分からない時だってある。
あの時の笑顔が嘘でも、本物でも、それが僕を元気づけたのは事実だ。
「ありがとう」
誰にも届かないと知りながら、教室で独り言をつぶやいた。