智が話し終えた後、篠田は、足元がおぼつかず、崩れるように近くにあった椅子に座り込んだ。
「じゃあ、最初から、私の協力なんてする気はなかったんだな」
「そういうことです」
怒りで声が震えている篠田に、智は淡々と答えた。
「……ははっ、馬鹿らしい。お前のようなガキに、今更何ができる」
負け惜しみのようにそう言い散らす篠田に、もはや刑事だったころの面影は無かった。
「せいぜいこの女たちが始末されるのを、その目で見ているがいいさ!」
智は変わり果ててしまった目の前の男を見て、呟くように言った。
「なぜ、こんなことを?」
篠田は狂ったように笑っていたが、やがて諦めたように、椅子にもたれかかり、うつむいた。ぽつりぽつりと動機を語った。
「……私の弟は、いじめられていた。弟が中学生の時だ。私は全寮制の学校に通ったから……弟とは疎遠で、何も知らなかった。ある日、母から電話が来た。弟が捕まったと。私が知っている弟は、おっとりしていて、虫一匹殺さないような奴だった。だから…………最初は驚いた。何をやったんだと聞いたら、放火だと言う。……想像できなかった」
篠田は、何かを思い出すように上を見上げた。
「近くにいた人が、バケツを持って歩いていた弟を不審に思い、後を付けたところ、放火をした……いや、しようとしてバケツの中身を撒いたから、取り押さえたらしい。だが間に合わず、その家は燃えた。近隣住民の素早い行動で、消防車はすぐに来た。結果、その家の人達は重軽傷を負うことになり、後遺症が残った人もいた。そして裁判の結果、弟は少年刑務所に入れられた。殺人未遂ということになってね。……私は、ようやく時間に余裕ができたとき、弟の面会に行った。最後に会った時は健康そうだった顔はすっかりやせこけ、目は曇っていた。弟は私に言うんだ。うわごとのように、『あいつを殺して。ねえ、お願い。あいつが悪いんだ。信じてよ……』って。『あいつって?』と聞くと、『同じクラスの、俊之助だ。あいつが悪い。あいつが悪い。あいつが……』。そこからは会話にならず、諦めて帰ったよ。私は、弟のやり残したことをしただけだよ」
篠田は悪びれる様子も無く、挑発的に笑った。
「あんなに優しい弟に、放火なんて真似はできない。それなのにそこまで追い込んだ奴は、自業自得だろう? 死んで何が悪い。君だってそう思わないかい? もし親友がいじめられて、人としての一線を越えてしまったら、君はそれでも親友をとがめるかい?」
「その時は、俺がいじめっ子をボコりますよ」
智の言葉には、確かな芯があった。篠田は智をじっと見つめた後、再び口を開いた。
「そうだろうね。君は強い。でも私は、そこに居合わせることすらできなかった。私ができるのは、せいぜいこれくらい――」
「それは違う!」
篠田の言葉を、智は大声で遮った。
「あんたは言い訳をしてる。弟がかわいそうだから仇を取った? そんなの、きれいごと並べてるだけだ。弟がかわいそうだと言うなら、なぜ寄り添ってやらなかったんだ? あんたなら、やろうと思えばできたはずだ。でも……調べたんだが、あんた、面会なんてそれきり行ってないだろ」
早口でまくし立てる智の目には、今までなかった、怒りの感情が見て取れた。
「あんた、幼いことから警察を目指してたんだろ? だから、警察官になるための専門学校に通ってたんだろ。その中で、身内に犯罪者がいるとなっては、周りの目が怖い。だからあんたは、弟を付き離そうとしたんだ。違うか? だってあんた、そのいじめっ子の名前を使って、弟に嫌がらせをしたそうじゃないか。狙いどおり、弟は刑務所内で自殺した。万々歳だよな。だが、まだ心配事があった。いじめっ子とその家族だ。一から叩き上げで地位を上げていったあんたは、弟の放火の被害者が、賠償請求をしてくることを心配した――いや、それによって恥さらしの弟の名が挙がるのを心配した。結局、弟がやった方法と同じ、放火で、全て消してしまおうと考えた。ここまであってるか?」
篠田は呆気に取られていた。怒りも憎しみも無く、ただ智を見つめていた。
「ああ、その通りだとも。くだらない説教ならいらないよ、智君。分かっているから」
智は、一層鋭い眼光を篠田に向けて言った。
「……は? あんた何も分かってねえよ。俺はそんなことしにお前と一緒にここまでやってきたわけじゃねえ。そんなことをしに、わざわざお前に話合わせてたわけじゃねえ。俺はな、お前の一番恐れていたことをやって、お前を地の底まで叩き落したいだけだ」
「何を言ってるんだ、智君。君をここから帰すわけ無いだろう? それに、君の友達だって――」
そう言って篠田が監視動画に目を向けると、少女たちと一緒に逃げる男の姿があった。
「――なぜ、こんなところに! 亡霊め!」
そこに映っていたのは、篠田が燃やした家にいたはずの、そして、純香の本当の父、俊之助の姿だった。
「あんた、せっかち過ぎんだよ。大方、純香の父が、あんたの追っていた俊之助だという情報だけで、この家を狙ったんだろ? もっと良く調べて行動すべきだったな」
「いや、間違っていないはずだ。この女の父は、あそこで身を隠すように生活していたはずだ」
智は、目の前の男の愚鈍さにあきれるようなしぐさをした。
「お前が十数年仕事に精を出している間、純香の家は一度父親が入れ替わったんだ。お前のめあての俊之助さんは、本当の父親、つまり、最初のほうだ。そして実際にあんたが葬ったのは、暴力三昧で家庭をめちゃくちゃにした、再婚相手のほうだ。純香やその母親としては、ありがたいことだろうな。まあ、暴力行為で警察に突き出される前に、死んだってことにして身を潜めていたらしいから、どっちでも良かったかもしれないが。俊之助さんは、今は探偵をやってるんだ。俺みたいな未成年が、探偵を雇うなんて金はねえよ。調べていて驚いたぜ。まさか、純香の父親が生きてるとはなあ。事情は詳しく聞かなかったが、多分俊之助さんは、こうなることが分かってたんだと思うぜ。じゃなけりゃ、育ち盛りの娘置いて、失踪したりしないだろう」
篠田は自分の浅はかさを心から憎んだ。
「お前がやろうとしていたのは、ただの自己満だ。壮大な計画が小さなミスで崩れるのは、さながらドミノのようだな。気持ちよかったよ。……言ってなかったが、俺は最初からこの会話を外部に流している。つまり、今も俺の仲間が外でこれを聞き、録音してくれているんだ。お前はもう終わりだ」
日々の運動で鍛え上げた肉体を誇示するように、篠田をやすやすと縛り上げた智は、明信と連絡を取った。
「おい、ちゃんと聞いてただろうな?」
「うん、録音もちゃんとやったよ」
事前に智から話を聞いていた明信は、動揺することなく、仕事を果たしていた。
「それは俺が後で警察、同時にマスコミに送り付ける。……聞いた通りだ、篠田さん。あんたは終わりだ。反省しろとは言わねえよ。どうせしないだろうからな。思う存分、後悔するがいいさ」
篠田は、本当に悔しそうに、智を睨みつけた。
*
純香は自分の想像に恐怖を感じながら、手を引かれるままにとうとう空中トンネルの入り口まで来てしまった。
「さあ、ここから二階へ降りて、はやく逃げましょう」
「ちょっと待って。何か、嫌な予感がする。ここ以外に道は無いの?」
突然の純香の言葉に、少女――涼菜は驚いた。
「ここ以外って言われても、辺りは監視カメラだらけで――」
涼菜の言葉は途中で遮られた。死角から男が現れて、純香と涼菜の腕を掴んだ。
二人は驚きのあまり言葉が出なかった。ここまで来て、運が尽きたか。そう思った純香だったが、涼菜は一言こう言った。
「あ、探偵のおじさん」
――……え?
「知り合いなの?」
「うん。私たちをここに紛れ込ませてくれたのはこの人なんだよ」
涼菜の「私たち」という発言が気になったが、この際どうでもいい。
男は二人を、空中トンネルとは反対のN棟の方へ連れて行った。
「何処に行くんですか?」
純香が不安になって尋ねると、初めて男が口を開いた。
「まずは事情を説明する必要がある。それに純香、君に謝らなければならない」
純香は意味が分からなかったが、とにかく付いていくしかなかった。
場所は先刻純香と涼菜が会った実験室だ。
「ここなら監視カメラも無いし、安全だ。ではまず……純香、君は、本当のお父さんがどこに行ったか、知っているかい?」
純香は予想外の質問に困惑した。
「いや……知らない。周りの人には死んだって言われて――――」
「君のお父さんは生きている」
純香の言葉を遮って、男はぴしゃりと言った。
見知らぬ男が自分の父について何故知っているのか、それより、父が生きているとはどういうことか……疑問が多すぎて、純香は状況が理解できなかった。
「ああ、ごめん。しゃべりすぎたかな。まあ、これは後でもいいか……。とりあえず、僕が来た理由について話そうか。涼菜ちゃん、あのトンネルに監視カメラが少ないのは、結果から言うと罠だった。僕が忍び込んでいた管理室で、話し声が聞こえたんだ。色々あって、管理室の総員が一斉に動き出してね。その中で、半々に分かれて警備することになったんだ。半数が玄関まわり。そしてもう半数が、あの空中トンネルだった。恐らく、わざと警備を手薄にして、そこから逃げるのを待っていたんだろうね。涼菜ちゃんが裏切り者だと知られてしまったのも原因かもしれないけど……。でも大丈夫だ。あっちの会話が聞こえるように、受信機は持ってきた。こちらが位置を知られるようなことは無いから安心していいよ」
そこまで話した男は、涼菜が持っている地図のコピーを取り出した。正確には、コピーに新規の逃亡ルートを書き込んだものだ。
「この道に行けば、脱出できるはずだ。……純香、いきなり二人も知らない人が出てきて、怖いかもしれないけど、今はとりあえず、僕たちを信用してついてきてくれないか」
純香がその男をよく観察すると、濃い茶色の目に、ストレートの黒髪があった。目の色や髪質、高い鼻は、純香とよく似ていた。
「……分かった」
純香は、この二人に賭けてみることにした。
「ありがとう。じゃあまず、涼菜、どこかに長い棒は無いかな? 金属の、頑丈な」
「確か、あっちにあるはず」
そう言って涼菜は、実験準備室に駆けていった。
「ねえ、聞いてもいい? もしかして……あなたは、私の父親?」
男は一瞬狼狽したが、とうとう観念したように、純香に向き直って話し始めた。
「君に危険が及ばないように距離を置いたのに、君には随分迷惑をかけたようだね……すまなかった。僕の名前は俊之助だ。お母さんから聞いた事あるかな? 僕は個人で探偵をやっていてね。丁度君が生まれて、一年が経とうとしていた時、僕は、ある依頼で、ミヨサカに近くにある刑務所の囚人について調べていたんだ。そしたら、その刑務所である囚人が自殺したという情報が入った。その人は……僕の親友だった人だった。その原因を調べてみたんだ。そうしたら、外部の人間が、僕の名前を使って嫌がらせをしていたんだ。手紙が十数枚出てきていた。大体、手紙とかを送ると、検閲が入るんだ。それなのに、こんな手紙を容易に送ることができたのは、刑務所の関係者か、或いは家族のような近しい関係の人間だ。依頼そっちのけで調べたら、その人の兄が警察になっていて、裏で金を回し、刑務所の人間を取り込んでいたんだ。つまり、兄が弟を殺した」
純香は説明を聞きながら、父だという男に見入っていた。予期しない再会が、嬉しいはずなのに、少し怖かったのだ。何故かは分からなかったが。
「その兄について調べているうち、次に狙われるのは自分なのではないかと思い始めた。その時はまだ単なる勘だった。まあ、思い当たる節はあったんだ。でもそのうち、その兄が大胆な行動に出てね。最初は家に脅迫文を送ってくるだけだった。それも……死んだ親友の名で。ああ、親友が逮捕されたのは、僕が小さい時、僕の家に放火をしたことが原因だ。それで――」
「ちょっと待って。え、どういうこと? 親友なのに、放火……?」
有り得ない言葉の組み合わせに、純香は思わず男の言葉を遮った。
「ああ、そのことか。まあ驚くのも無理はないよね」
「本当に、親友なの?」
「ああ、それは本当だ。いつも静かで、物知りな彼といるのが、僕はとても楽しかったんだ。多分放火なんてことをしたのは……彼が、僕に裏切られたと勘違いをしたからだ。僕は、彼以外と遊ぶことも多くて、中学生になって部活が始まってからは、そっちの仲間といることのほうが多くなった。彼は部活には入らないで、いつも僕のところに来て遊ぼうと言ってきた。僕はそれが面倒だなどと思ったことは一度も無かった。でも、そのうち部活の仲間と離れていってしまって、部内で少し孤独を感じるようになった。全体で仲は良かったが、なんだか馴染めていないような気がしてたんだ。だから僕は、親友に一言、心無い言葉を言ってしまった。 『僕のところに来るのはもうやめてよ』って。彼はとても悲しそうな顔をしていた。彼は、人との付き合いがあまり良くなくて、僕以外と親しく話すことが無かった。だから僕は、とても酷なことをしたんだ。それから、僕らはなんだか話しづらくなってしまって、しばらく距離を置くようにしたんだ。僕としては、いずれ仲直りするだろうという感じの、ただの喧嘩のつもりだった。だが彼は違った。今までの友情が、全て噓だったんだと、そこまで思いつめる程に、傷ついていたんだ。僕が見て見ぬふりしていただけかもしれないな……」
悲しそうな顔で語る父を、純香はただ見つめていた。
――親友から裏切られたのは、どっちなんだか……。
「兄は多分、この事情までは知らなかったようだ。脅迫的な手紙には、僕がいじめたというような内容が書かれていた」
俊之助は一呼吸おいて、話題を変えた。
「ごめんごめん、話がそれたね。まあ、手紙とか、小さな嫌がらせが続いて、僕は君たちの家から出ていったんだ。それから一度、君の家の近くを通った時、声が聞こえたんだ。お母さんと君の、悲鳴が。それも一瞬だった。僕は得意の情報収集力を活かして、その見知らぬ男を調べた。出てきたのは悪いものばかりだ。ろくな生き方じゃあない。僕は人のこと言えないけどね……。それで、警察に話したんだ。君の家で、不審な男が女子供に暴力を振るっていると。嘘ではないはずだ。余計なことだったなら、今ここで謝ろう」
純香はあの日々を思い出して、身震いがした。
「いや、迷惑なんかじゃない。ありがたかった。でも……私はあの男がいなくなってから、お母さんにひどいことを……」
純香に再び後悔の念が襲い掛かった。枯れたはずの涙は、どこかから湧き出て来て、純香の心を染め上げた。
「……君をそんな感情にさせてしまったのは、僕だ。僕を怒れ。僕を憎め。君は悪くないよ。僕を、君の家族に入れてくれないかい?」
ゆっくり、純香を落ち着かせるように話しかける俊之助は、純香が夢見ていたような、「お父さん」のまなざしをしていた。
純香は小さく「うん」とつぶやいて、必死に涙をぬぐった。
「その男は、もういないよ。この病院の管理者――もと刑事の篠田という男――が、僕と間違えて殺してしまったんだ……。その場しのぎのつもりで、身を隠していたその男に僕のふりをさせたんだ。そうしたら、嫌がらせの方向もその男の方に切り替わった。でも、表で動きすぎた僕は、そんな男に構うことなくまた姿を消した。本当に、申し訳ないことをした」
身代わりとなった男、二度目の父を、気の毒と思わないわけでは無かった。でもあの真っ黒な生活を思い出すと、非情にも、「ざまあみろ!」と叫びたくなる自分がいることに、純香は気づいていた。
「僕が今のこの事件を知ったのは、智って名の男の子が、インターネットでミヨサカのことを発言していたのを見たからだ」
「智が?」
純香は驚いて、言葉を遮ってしまった。智がここに関わる原因なんて、思い当たらなかった。
「ああ。『ミヨサカ』ってつぶやくだけで、ネット上の発言はすぐ消されてしまうんだけど、運よく消される数秒前にみれられたんだ。智君に聞くと、ミヨサカが何者かに荒らされて、大変なことになっていると言う。僕は、生まれ故郷が荒らされたのが悔しくて、智君に協力した。純香が危ないと知ったのは、随分後だった。作戦立案は、智君がやったんだ。僕は智君をうまく監視員の中に、涼菜ちゃんをエセ看護師の中に紛れ込ませただけだ。礼を言うなら、後で智君に直接言ってくれ。同じ学校なんだろう? 」
純香には、智が自分を助けるなんて、信じられなかった。今更、合わせる顔が無い。
しかし、そのことを説明している時間は無くなったようだ。廊下からは、追跡の足音が響いてきた。
涼菜がやっと鉄のポールを探してもってきた。なぜそんなものがあるのかは、この際気にしないことにした。俊之助はそれを受け取り、二人に玄関とは逆の方へ走れと言った。
「あっちに非常階段があるだろう。今、あそこは老朽化が進んで使われていないんだ。警備なんていない。あっちから出るんだ」
俊之助の合図で、二人は走り出した。後ろからは鬼が追いかけてきたが、振り返ることはできない。純香は足の遅い涼菜を引っ張りながら、なんとか追いつかれずに非常階段まで来た。
幸い鍵は壊れていたので、三人が急いで出た後、俊之助が先程のポールを使って、出口を塞いだ。
「これをいつまでもつか分からない。走れ! 外に車を用意してある。智君もそこにいるはずだ」
わき目もふらずに階段を駆け下りた。一階まで下りた頃、とうとう三階の出口が突破された音がした。
「あそこだ。急げ!」
二人の後ろから俊之助が叫んだ。指をさす方向を見ると、智が手を振っていた。
「こっちだ! 後ろ、もう来てるぞ、早く!」
智は車のエンジンを付けて、なるべく目につかない場所で待っていた。
「はあ、はあ……ありがとう智君。さあ、出発だ」
俊之助が運転席に、純香と涼菜が後部座席に乗り込んだ。
車を出した後、しばらくは追ってが止まなかったが、とうとう諦めて帰っていった。
唯一の帰り道に、トンネルがあった。足止めのため、いったん車を止めて、その入り口をふさぐことにした。小さなトンネルだったので、大木一本で十分だった。
「でも、大木なんてどうやって持ってくるんですか?」
「あ、持ってくるんじゃないよ、涼菜。俺、何かあった時の為に、軽い爆弾持ってきてんだ。これで木を倒せばいいんだろ 」
「ああ、頼めるかな、智君」
智の働きで、作業は滞りなく終わった。
帰りの車の中で、純香は智に掛ける言葉を探していた。
――ごめん……はなんか違う? ありがとうもちょっと……図々しいかな。
そんな純香の考えを読んだように、智は純香に言った。
「おい、お前もう寝とけよ。疲れてんだろ」
そっけない優しさに、純香は、やはり今まで感じたことの無い感情を覚えた。
「大丈夫。そっちこそ疲れてるでしょ。智君は……」
「俺は管理室で、篠田――黒幕と話してた。そうだなあ、子守歌代わりに、聞かせてやるよ」
――――俺は篠田を縛り上げた後、監視映像を見て、お前らの行動を見て出ていく頃合いを見計らってた。でも後ろのうめき声がうるさくて、暇つぶしにちょっと話してたんだ。
「そういえばあんた、どうして純香のこと知ってたんだ?」
光の消えた目で、篠田は俺を見たよ。
「……簡単なことだ。俊之助の父は、弟の放火で後遺症を残した。それは母から聞いたんだ。それでその父親は、入院生活を余儀なくされた。私はそれを覚えていたから、数年後、その病院の周りを仕事で張っていた時、偶然見た車いすの男が、その父親だとすぐに気づいた。火傷の重症だと聞いていたから、外見で分かるんだ。私はその人に近づいて、何とか息子、俊之助の居所を掴んだ。幸せそうに話していたよ。『息子が今度新居を構えるんだ』って。場所をきいたら、快く教えてくれた。あまりに無防備すぎて、逆に心配だったよ。でも……私は一度そこに行ったんだが、とても幸せな暮らしでは無かったぞ。時折悲鳴や、何かを殴打する不吉な音も聞こえた。放っておいたがな。……はあ、私は、警察失格だよ、まったく」
「じゃあ、その時にはもう、本物の俊之助さんはいなかったんだな」
俺は俊之助さんの父さんに、正直同情したよ。自分はその人が幸せだと思っていても、「現実は、どうも違うことが多いらしい。
「そういえば智君、君はどうやってここに参加したんだい? 私は、厳重なロックをしたサイトで、密かにこのメンバーを集めたんだが?」
「それこそ簡単なことだ。俺には協力者がいた。あんたがずっと追ってきた、俊之助さんだよ。あの人は探偵をやっていた。あの人があんたの計画を先読みしてくれたおかげで、そして俺を難なくここのメンバーに入れてくれたおかげで、俺は容易にあんたに近づくことができた」
篠田は、もうなんの反応もしなくなっていた。ただ一言「そうか」と言っただけだった。
「もう一つだけ、聞かせてくれないか。君はあの純香って女に、親友を傷つけられたといっただろう。何故あの女を助ける? それとも言ったことは嘘か?」
「嘘じゃねえ。……でも、そいつがあの女の幸せを願ってるんだ。俺は純香を助けるんじゃなく、親友の頼みを聞いただけだ」
今度は、篠田は静かに笑った。
「なるほど、ありがとう。私は、やっぱりきれいごとは好かんな」
「そうかい」
それからすぐ、お前らが動き出したから、俺も急いで外に出た。篠田はぐったり体を横たえていたよ――――
純香は智の話を聞いて、眠るどころか、寧ろ目が冴えた。涼菜純香の方にもたれかかって眠っていた。
「明信君が、私を……?」
途端に罪悪感で胸が押しつぶされそうになった。いっそ惨めに捨てられたほうが良かったのかもしれない。
「ああ、そうだ。事情を知らないあいつは、『純香は、立ち直れるかな』とか言って、お前のこと心配してたぞ。お前からしたら迷惑かもしれないが、受け止めろ。そして後悔してろ。俺はお前を心配してこんな大それたことをしたんじゃなくて、そこに寝てる涼菜の想い人の敵討ちさ。ただの自己満足さ」
智はそう言いくくって、「お前も寝ろ」と言い、眠ってしまった。
純香はまだ現状が理解できない。たくさんの感情が入り混じっているのと、安堵感で、少し気分が悪くなってきた。寝れば治るかと思い、涼菜と肩を並べて眠りについた。
やっと山道を抜け、信号機で車は一時停止した。
「智君、純香はもう寝たよ」
俊之助がそう言うと、智は目をぱっちりと開けた。初めから寝たふりをしていた。
「これから僕は、警察に証拠を届けなきゃいけないから、一度君たちを帰さないといけない」
「どうしてだ? このままいけばいいじゃないか」
「それなんだけど、やっぱりどこまでがこの事件に関わっているのか分からないんだ。君たちを連れて行って、また危ない目に合わせるわけにはいかないからね」
智は俊之助の顔を見た。やましいことがあるようには見えなかった。
「……わかった。じゃあまずは純香だ。母親が今入院してる以上、あの家に一人で行かせるわけにはいかない。何か考えないと……」
「ああ、そのことなんだけどね、純香は僕の母、つまり純香の祖母と一緒に暮らしてもらいたいと思っているんだけど、どうかな?」
俊之助は、少し明るいトーンで言った。しかし智は、反対に警戒心を持って答えた。
「無理だ」
ぴしゃりとそう言い放つ智に、俊之助は呆気に取られていた。
「……どうしてだい? 純香にも、帰る家が必要だろう」
「そういうことじゃねえ。お前、純香の父親なんかじゃないだろ」
何か確証があるとでも言うように、智はまっすぐ言った。
「純香の父親は死んだ。もういねえ。それとも、お前は地獄から逃げ出してきたのか?」
挑発的な態度を崩さない智に対し、俊之助と名乗る男は叫んだ。
「ふざけるな! 何を馬鹿なことを言ってるんだい。何か、僕が父親でない証拠でもあるのか?」
男の圧に押されること無く、智は言い返した。
「大声出すな。二人が起きる。……ああ、飲み物に睡眠薬入れたから、しばらく起きないのか。じゃあ、ゆっくり話せるな。お前の名は、篠田栄介だ。あの男の、実の弟だろ。はー、やることは大胆だねえ。まさか全部お前の思い描くようになっちまうとは」
そう話す智の横で、篠田栄介は怒りのあまりひどく汗をかいていた。
「弟は死んでなかった。お前、家族から虐げられていたんだろ? 家族はほとんど面会に来なかった。出獄した時だってそうだ。だから、持ち前のハッキング能力、情報収集能力を活かして自分の死を偽装、金儲けまでできるようになった。ここまで来れば、後は楽しい宴の始まりだろ? 自分を見放した兄貴、裏切った俊之助、そして、その妻子。復讐するのは容易だったはずだ。なんせ幽霊が自分に忍び寄るなんて予想しないからなあ」
赤信号で車は止まったが、既に都会のど真ん中に来ていたので、智の筋の通った推理を止められはしなかった。それに智はこの時のために、睡眠薬、隠されていた刃物など、武器となりうるものは全て奪っておいた。そのために車のキーを預かっておいたのだ。
「篠田がさらっと言っていたが、両親は事故死らしいな。一年前か……。俊之助さんがアルコール中毒で亡くなった年と同じだなあ。まあ、両親はお前がやったとは断言できないが、違ったとしても、お前としてはありがたかったんだろ? それに俊之助さんのことは、お前のこの車の後ろの資料で分かったぞ。捨ててりゃあ良かったのにな。あと今回は、本当に良くできた演劇だよ。一気に兄貴、純香を消せる。純香を助けたのは、やっぱり自分の手で終わりたかったからか。どうだ、俺の推理はあっているか?」
終わった頃には、栄介は怒りを通り越して感嘆していた。
「ああ、全て君の言った通りさ。だがこれからどうするんだい? 僕の犯行を暴いたとて、君に何もできないだろう。僕を警察に突き出すか?」
智はなお態度を変えずに言った。
「いや、幽霊を警察に突き出しても、俺に何も得は無いだろう? だから、俺の条件を飲んでくれれば、このままお前の計画に協力しよう」
智の言うことが、栄介には理解できなかった。
「今なんて……?」
「だから、俺も協力するって言ってんだ。俺は、お前の兄に用があったんだ。お前の計画がどうなろうと知ったこっちゃない。ああでも、念のため今の会話は全部録音してるからな。何かあったら、これを利用させてもらう」
栄介は運転をしながら、高笑いをした。
「ははは、そうか! よし、本当はもう終わりかと腹をくくっていたんだが、君の言葉で良く分かったよ。僕は、もう死んでしまっていたんだね。では君は、幽霊であるこの僕と契約しようっていうのかい。随分酔狂じゃあないか。それで、君の条件とはなんだい?」
「ああ、簡単なことだ。今日の事件を黙認し、ミヨサカ、及び涼菜には今後一切近づかない。これだけ守ってくれりゃあ、俺はもう何もいらない。後は好きにしてくれ」
智は、後部座席に座る純香を振り返りながら言った。
「ああ、分かったよ。君たちにはもう関わらない。今日のことは、言われずとも黙認する予定だったから問題ない。そのために脱出する直前、あの建物一帯は電波がつながらないように細工してきた。じゃあ、君たちをミヨサカの近くで下ろそう。何はともあれ、今日はありがとう 」
そうして、幽霊・栄介は純香一人を乗せてどこかへ走り去っていった。
*
涼菜をお父さんに預けた後、智は電話をかけた。相手は待っていたかのようにすぐに出た。
『もしもし! ああ、無事でよかった。言われた通り、車のナンバーも伝えたよ』
電話の相手は明信だった。
「おう、ありがとう。あいつは俺のこと信用してどっか行ったぜ」
『どっか行ったって……。本当に、純香は大丈夫かなあ』
――まったく、お前は変わんねえな。
明信のお人よし加減にあきれながらも、智はそれに安心していた。明信が変わらないでいてくれて、智は嬉しかったのだ。
「大丈夫さ。篠田に聞いた仲間に、篠田が縛り上げられてる写真送ったんだぜ。すぐさま調査に乗り出すだろう。お前、警察にどう言って画像送ったんだ?」
『ああ、現場にいた監視員?のふりして送ったよ。応援要請、みたいな感じで』
「うん、いい判断と思う。それならわざわざ発信元確認したりしないだろうからな」
少しの間の後、明信が智に言った。
『ねえ、僕のために色々智には迷惑かけたよね。本当にありがとう。智一人に任せてしまって、ごめん』
「何言ってんだ。信じられるのは自分だけっていう極限状態での脱出ゲームだと思ったら、結構楽しかったぞ。まあ、もう一度やりたいかと言われれば、断るがな」
『……本当にありがとう。今から電車乗って帰ってくるんでしょ? 駅まで迎えに行くから』
智は、明信に来なくていいといったが、明信は行くと言って聞かなかった。
空がオレンジ色に染まったところで、智はようやく帰路についた。
「じゃあ、最初から、私の協力なんてする気はなかったんだな」
「そういうことです」
怒りで声が震えている篠田に、智は淡々と答えた。
「……ははっ、馬鹿らしい。お前のようなガキに、今更何ができる」
負け惜しみのようにそう言い散らす篠田に、もはや刑事だったころの面影は無かった。
「せいぜいこの女たちが始末されるのを、その目で見ているがいいさ!」
智は変わり果ててしまった目の前の男を見て、呟くように言った。
「なぜ、こんなことを?」
篠田は狂ったように笑っていたが、やがて諦めたように、椅子にもたれかかり、うつむいた。ぽつりぽつりと動機を語った。
「……私の弟は、いじめられていた。弟が中学生の時だ。私は全寮制の学校に通ったから……弟とは疎遠で、何も知らなかった。ある日、母から電話が来た。弟が捕まったと。私が知っている弟は、おっとりしていて、虫一匹殺さないような奴だった。だから…………最初は驚いた。何をやったんだと聞いたら、放火だと言う。……想像できなかった」
篠田は、何かを思い出すように上を見上げた。
「近くにいた人が、バケツを持って歩いていた弟を不審に思い、後を付けたところ、放火をした……いや、しようとしてバケツの中身を撒いたから、取り押さえたらしい。だが間に合わず、その家は燃えた。近隣住民の素早い行動で、消防車はすぐに来た。結果、その家の人達は重軽傷を負うことになり、後遺症が残った人もいた。そして裁判の結果、弟は少年刑務所に入れられた。殺人未遂ということになってね。……私は、ようやく時間に余裕ができたとき、弟の面会に行った。最後に会った時は健康そうだった顔はすっかりやせこけ、目は曇っていた。弟は私に言うんだ。うわごとのように、『あいつを殺して。ねえ、お願い。あいつが悪いんだ。信じてよ……』って。『あいつって?』と聞くと、『同じクラスの、俊之助だ。あいつが悪い。あいつが悪い。あいつが……』。そこからは会話にならず、諦めて帰ったよ。私は、弟のやり残したことをしただけだよ」
篠田は悪びれる様子も無く、挑発的に笑った。
「あんなに優しい弟に、放火なんて真似はできない。それなのにそこまで追い込んだ奴は、自業自得だろう? 死んで何が悪い。君だってそう思わないかい? もし親友がいじめられて、人としての一線を越えてしまったら、君はそれでも親友をとがめるかい?」
「その時は、俺がいじめっ子をボコりますよ」
智の言葉には、確かな芯があった。篠田は智をじっと見つめた後、再び口を開いた。
「そうだろうね。君は強い。でも私は、そこに居合わせることすらできなかった。私ができるのは、せいぜいこれくらい――」
「それは違う!」
篠田の言葉を、智は大声で遮った。
「あんたは言い訳をしてる。弟がかわいそうだから仇を取った? そんなの、きれいごと並べてるだけだ。弟がかわいそうだと言うなら、なぜ寄り添ってやらなかったんだ? あんたなら、やろうと思えばできたはずだ。でも……調べたんだが、あんた、面会なんてそれきり行ってないだろ」
早口でまくし立てる智の目には、今までなかった、怒りの感情が見て取れた。
「あんた、幼いことから警察を目指してたんだろ? だから、警察官になるための専門学校に通ってたんだろ。その中で、身内に犯罪者がいるとなっては、周りの目が怖い。だからあんたは、弟を付き離そうとしたんだ。違うか? だってあんた、そのいじめっ子の名前を使って、弟に嫌がらせをしたそうじゃないか。狙いどおり、弟は刑務所内で自殺した。万々歳だよな。だが、まだ心配事があった。いじめっ子とその家族だ。一から叩き上げで地位を上げていったあんたは、弟の放火の被害者が、賠償請求をしてくることを心配した――いや、それによって恥さらしの弟の名が挙がるのを心配した。結局、弟がやった方法と同じ、放火で、全て消してしまおうと考えた。ここまであってるか?」
篠田は呆気に取られていた。怒りも憎しみも無く、ただ智を見つめていた。
「ああ、その通りだとも。くだらない説教ならいらないよ、智君。分かっているから」
智は、一層鋭い眼光を篠田に向けて言った。
「……は? あんた何も分かってねえよ。俺はそんなことしにお前と一緒にここまでやってきたわけじゃねえ。そんなことをしに、わざわざお前に話合わせてたわけじゃねえ。俺はな、お前の一番恐れていたことをやって、お前を地の底まで叩き落したいだけだ」
「何を言ってるんだ、智君。君をここから帰すわけ無いだろう? それに、君の友達だって――」
そう言って篠田が監視動画に目を向けると、少女たちと一緒に逃げる男の姿があった。
「――なぜ、こんなところに! 亡霊め!」
そこに映っていたのは、篠田が燃やした家にいたはずの、そして、純香の本当の父、俊之助の姿だった。
「あんた、せっかち過ぎんだよ。大方、純香の父が、あんたの追っていた俊之助だという情報だけで、この家を狙ったんだろ? もっと良く調べて行動すべきだったな」
「いや、間違っていないはずだ。この女の父は、あそこで身を隠すように生活していたはずだ」
智は、目の前の男の愚鈍さにあきれるようなしぐさをした。
「お前が十数年仕事に精を出している間、純香の家は一度父親が入れ替わったんだ。お前のめあての俊之助さんは、本当の父親、つまり、最初のほうだ。そして実際にあんたが葬ったのは、暴力三昧で家庭をめちゃくちゃにした、再婚相手のほうだ。純香やその母親としては、ありがたいことだろうな。まあ、暴力行為で警察に突き出される前に、死んだってことにして身を潜めていたらしいから、どっちでも良かったかもしれないが。俊之助さんは、今は探偵をやってるんだ。俺みたいな未成年が、探偵を雇うなんて金はねえよ。調べていて驚いたぜ。まさか、純香の父親が生きてるとはなあ。事情は詳しく聞かなかったが、多分俊之助さんは、こうなることが分かってたんだと思うぜ。じゃなけりゃ、育ち盛りの娘置いて、失踪したりしないだろう」
篠田は自分の浅はかさを心から憎んだ。
「お前がやろうとしていたのは、ただの自己満だ。壮大な計画が小さなミスで崩れるのは、さながらドミノのようだな。気持ちよかったよ。……言ってなかったが、俺は最初からこの会話を外部に流している。つまり、今も俺の仲間が外でこれを聞き、録音してくれているんだ。お前はもう終わりだ」
日々の運動で鍛え上げた肉体を誇示するように、篠田をやすやすと縛り上げた智は、明信と連絡を取った。
「おい、ちゃんと聞いてただろうな?」
「うん、録音もちゃんとやったよ」
事前に智から話を聞いていた明信は、動揺することなく、仕事を果たしていた。
「それは俺が後で警察、同時にマスコミに送り付ける。……聞いた通りだ、篠田さん。あんたは終わりだ。反省しろとは言わねえよ。どうせしないだろうからな。思う存分、後悔するがいいさ」
篠田は、本当に悔しそうに、智を睨みつけた。
*
純香は自分の想像に恐怖を感じながら、手を引かれるままにとうとう空中トンネルの入り口まで来てしまった。
「さあ、ここから二階へ降りて、はやく逃げましょう」
「ちょっと待って。何か、嫌な予感がする。ここ以外に道は無いの?」
突然の純香の言葉に、少女――涼菜は驚いた。
「ここ以外って言われても、辺りは監視カメラだらけで――」
涼菜の言葉は途中で遮られた。死角から男が現れて、純香と涼菜の腕を掴んだ。
二人は驚きのあまり言葉が出なかった。ここまで来て、運が尽きたか。そう思った純香だったが、涼菜は一言こう言った。
「あ、探偵のおじさん」
――……え?
「知り合いなの?」
「うん。私たちをここに紛れ込ませてくれたのはこの人なんだよ」
涼菜の「私たち」という発言が気になったが、この際どうでもいい。
男は二人を、空中トンネルとは反対のN棟の方へ連れて行った。
「何処に行くんですか?」
純香が不安になって尋ねると、初めて男が口を開いた。
「まずは事情を説明する必要がある。それに純香、君に謝らなければならない」
純香は意味が分からなかったが、とにかく付いていくしかなかった。
場所は先刻純香と涼菜が会った実験室だ。
「ここなら監視カメラも無いし、安全だ。ではまず……純香、君は、本当のお父さんがどこに行ったか、知っているかい?」
純香は予想外の質問に困惑した。
「いや……知らない。周りの人には死んだって言われて――――」
「君のお父さんは生きている」
純香の言葉を遮って、男はぴしゃりと言った。
見知らぬ男が自分の父について何故知っているのか、それより、父が生きているとはどういうことか……疑問が多すぎて、純香は状況が理解できなかった。
「ああ、ごめん。しゃべりすぎたかな。まあ、これは後でもいいか……。とりあえず、僕が来た理由について話そうか。涼菜ちゃん、あのトンネルに監視カメラが少ないのは、結果から言うと罠だった。僕が忍び込んでいた管理室で、話し声が聞こえたんだ。色々あって、管理室の総員が一斉に動き出してね。その中で、半々に分かれて警備することになったんだ。半数が玄関まわり。そしてもう半数が、あの空中トンネルだった。恐らく、わざと警備を手薄にして、そこから逃げるのを待っていたんだろうね。涼菜ちゃんが裏切り者だと知られてしまったのも原因かもしれないけど……。でも大丈夫だ。あっちの会話が聞こえるように、受信機は持ってきた。こちらが位置を知られるようなことは無いから安心していいよ」
そこまで話した男は、涼菜が持っている地図のコピーを取り出した。正確には、コピーに新規の逃亡ルートを書き込んだものだ。
「この道に行けば、脱出できるはずだ。……純香、いきなり二人も知らない人が出てきて、怖いかもしれないけど、今はとりあえず、僕たちを信用してついてきてくれないか」
純香がその男をよく観察すると、濃い茶色の目に、ストレートの黒髪があった。目の色や髪質、高い鼻は、純香とよく似ていた。
「……分かった」
純香は、この二人に賭けてみることにした。
「ありがとう。じゃあまず、涼菜、どこかに長い棒は無いかな? 金属の、頑丈な」
「確か、あっちにあるはず」
そう言って涼菜は、実験準備室に駆けていった。
「ねえ、聞いてもいい? もしかして……あなたは、私の父親?」
男は一瞬狼狽したが、とうとう観念したように、純香に向き直って話し始めた。
「君に危険が及ばないように距離を置いたのに、君には随分迷惑をかけたようだね……すまなかった。僕の名前は俊之助だ。お母さんから聞いた事あるかな? 僕は個人で探偵をやっていてね。丁度君が生まれて、一年が経とうとしていた時、僕は、ある依頼で、ミヨサカに近くにある刑務所の囚人について調べていたんだ。そしたら、その刑務所である囚人が自殺したという情報が入った。その人は……僕の親友だった人だった。その原因を調べてみたんだ。そうしたら、外部の人間が、僕の名前を使って嫌がらせをしていたんだ。手紙が十数枚出てきていた。大体、手紙とかを送ると、検閲が入るんだ。それなのに、こんな手紙を容易に送ることができたのは、刑務所の関係者か、或いは家族のような近しい関係の人間だ。依頼そっちのけで調べたら、その人の兄が警察になっていて、裏で金を回し、刑務所の人間を取り込んでいたんだ。つまり、兄が弟を殺した」
純香は説明を聞きながら、父だという男に見入っていた。予期しない再会が、嬉しいはずなのに、少し怖かったのだ。何故かは分からなかったが。
「その兄について調べているうち、次に狙われるのは自分なのではないかと思い始めた。その時はまだ単なる勘だった。まあ、思い当たる節はあったんだ。でもそのうち、その兄が大胆な行動に出てね。最初は家に脅迫文を送ってくるだけだった。それも……死んだ親友の名で。ああ、親友が逮捕されたのは、僕が小さい時、僕の家に放火をしたことが原因だ。それで――」
「ちょっと待って。え、どういうこと? 親友なのに、放火……?」
有り得ない言葉の組み合わせに、純香は思わず男の言葉を遮った。
「ああ、そのことか。まあ驚くのも無理はないよね」
「本当に、親友なの?」
「ああ、それは本当だ。いつも静かで、物知りな彼といるのが、僕はとても楽しかったんだ。多分放火なんてことをしたのは……彼が、僕に裏切られたと勘違いをしたからだ。僕は、彼以外と遊ぶことも多くて、中学生になって部活が始まってからは、そっちの仲間といることのほうが多くなった。彼は部活には入らないで、いつも僕のところに来て遊ぼうと言ってきた。僕はそれが面倒だなどと思ったことは一度も無かった。でも、そのうち部活の仲間と離れていってしまって、部内で少し孤独を感じるようになった。全体で仲は良かったが、なんだか馴染めていないような気がしてたんだ。だから僕は、親友に一言、心無い言葉を言ってしまった。 『僕のところに来るのはもうやめてよ』って。彼はとても悲しそうな顔をしていた。彼は、人との付き合いがあまり良くなくて、僕以外と親しく話すことが無かった。だから僕は、とても酷なことをしたんだ。それから、僕らはなんだか話しづらくなってしまって、しばらく距離を置くようにしたんだ。僕としては、いずれ仲直りするだろうという感じの、ただの喧嘩のつもりだった。だが彼は違った。今までの友情が、全て噓だったんだと、そこまで思いつめる程に、傷ついていたんだ。僕が見て見ぬふりしていただけかもしれないな……」
悲しそうな顔で語る父を、純香はただ見つめていた。
――親友から裏切られたのは、どっちなんだか……。
「兄は多分、この事情までは知らなかったようだ。脅迫的な手紙には、僕がいじめたというような内容が書かれていた」
俊之助は一呼吸おいて、話題を変えた。
「ごめんごめん、話がそれたね。まあ、手紙とか、小さな嫌がらせが続いて、僕は君たちの家から出ていったんだ。それから一度、君の家の近くを通った時、声が聞こえたんだ。お母さんと君の、悲鳴が。それも一瞬だった。僕は得意の情報収集力を活かして、その見知らぬ男を調べた。出てきたのは悪いものばかりだ。ろくな生き方じゃあない。僕は人のこと言えないけどね……。それで、警察に話したんだ。君の家で、不審な男が女子供に暴力を振るっていると。嘘ではないはずだ。余計なことだったなら、今ここで謝ろう」
純香はあの日々を思い出して、身震いがした。
「いや、迷惑なんかじゃない。ありがたかった。でも……私はあの男がいなくなってから、お母さんにひどいことを……」
純香に再び後悔の念が襲い掛かった。枯れたはずの涙は、どこかから湧き出て来て、純香の心を染め上げた。
「……君をそんな感情にさせてしまったのは、僕だ。僕を怒れ。僕を憎め。君は悪くないよ。僕を、君の家族に入れてくれないかい?」
ゆっくり、純香を落ち着かせるように話しかける俊之助は、純香が夢見ていたような、「お父さん」のまなざしをしていた。
純香は小さく「うん」とつぶやいて、必死に涙をぬぐった。
「その男は、もういないよ。この病院の管理者――もと刑事の篠田という男――が、僕と間違えて殺してしまったんだ……。その場しのぎのつもりで、身を隠していたその男に僕のふりをさせたんだ。そうしたら、嫌がらせの方向もその男の方に切り替わった。でも、表で動きすぎた僕は、そんな男に構うことなくまた姿を消した。本当に、申し訳ないことをした」
身代わりとなった男、二度目の父を、気の毒と思わないわけでは無かった。でもあの真っ黒な生活を思い出すと、非情にも、「ざまあみろ!」と叫びたくなる自分がいることに、純香は気づいていた。
「僕が今のこの事件を知ったのは、智って名の男の子が、インターネットでミヨサカのことを発言していたのを見たからだ」
「智が?」
純香は驚いて、言葉を遮ってしまった。智がここに関わる原因なんて、思い当たらなかった。
「ああ。『ミヨサカ』ってつぶやくだけで、ネット上の発言はすぐ消されてしまうんだけど、運よく消される数秒前にみれられたんだ。智君に聞くと、ミヨサカが何者かに荒らされて、大変なことになっていると言う。僕は、生まれ故郷が荒らされたのが悔しくて、智君に協力した。純香が危ないと知ったのは、随分後だった。作戦立案は、智君がやったんだ。僕は智君をうまく監視員の中に、涼菜ちゃんをエセ看護師の中に紛れ込ませただけだ。礼を言うなら、後で智君に直接言ってくれ。同じ学校なんだろう? 」
純香には、智が自分を助けるなんて、信じられなかった。今更、合わせる顔が無い。
しかし、そのことを説明している時間は無くなったようだ。廊下からは、追跡の足音が響いてきた。
涼菜がやっと鉄のポールを探してもってきた。なぜそんなものがあるのかは、この際気にしないことにした。俊之助はそれを受け取り、二人に玄関とは逆の方へ走れと言った。
「あっちに非常階段があるだろう。今、あそこは老朽化が進んで使われていないんだ。警備なんていない。あっちから出るんだ」
俊之助の合図で、二人は走り出した。後ろからは鬼が追いかけてきたが、振り返ることはできない。純香は足の遅い涼菜を引っ張りながら、なんとか追いつかれずに非常階段まで来た。
幸い鍵は壊れていたので、三人が急いで出た後、俊之助が先程のポールを使って、出口を塞いだ。
「これをいつまでもつか分からない。走れ! 外に車を用意してある。智君もそこにいるはずだ」
わき目もふらずに階段を駆け下りた。一階まで下りた頃、とうとう三階の出口が突破された音がした。
「あそこだ。急げ!」
二人の後ろから俊之助が叫んだ。指をさす方向を見ると、智が手を振っていた。
「こっちだ! 後ろ、もう来てるぞ、早く!」
智は車のエンジンを付けて、なるべく目につかない場所で待っていた。
「はあ、はあ……ありがとう智君。さあ、出発だ」
俊之助が運転席に、純香と涼菜が後部座席に乗り込んだ。
車を出した後、しばらくは追ってが止まなかったが、とうとう諦めて帰っていった。
唯一の帰り道に、トンネルがあった。足止めのため、いったん車を止めて、その入り口をふさぐことにした。小さなトンネルだったので、大木一本で十分だった。
「でも、大木なんてどうやって持ってくるんですか?」
「あ、持ってくるんじゃないよ、涼菜。俺、何かあった時の為に、軽い爆弾持ってきてんだ。これで木を倒せばいいんだろ 」
「ああ、頼めるかな、智君」
智の働きで、作業は滞りなく終わった。
帰りの車の中で、純香は智に掛ける言葉を探していた。
――ごめん……はなんか違う? ありがとうもちょっと……図々しいかな。
そんな純香の考えを読んだように、智は純香に言った。
「おい、お前もう寝とけよ。疲れてんだろ」
そっけない優しさに、純香は、やはり今まで感じたことの無い感情を覚えた。
「大丈夫。そっちこそ疲れてるでしょ。智君は……」
「俺は管理室で、篠田――黒幕と話してた。そうだなあ、子守歌代わりに、聞かせてやるよ」
――――俺は篠田を縛り上げた後、監視映像を見て、お前らの行動を見て出ていく頃合いを見計らってた。でも後ろのうめき声がうるさくて、暇つぶしにちょっと話してたんだ。
「そういえばあんた、どうして純香のこと知ってたんだ?」
光の消えた目で、篠田は俺を見たよ。
「……簡単なことだ。俊之助の父は、弟の放火で後遺症を残した。それは母から聞いたんだ。それでその父親は、入院生活を余儀なくされた。私はそれを覚えていたから、数年後、その病院の周りを仕事で張っていた時、偶然見た車いすの男が、その父親だとすぐに気づいた。火傷の重症だと聞いていたから、外見で分かるんだ。私はその人に近づいて、何とか息子、俊之助の居所を掴んだ。幸せそうに話していたよ。『息子が今度新居を構えるんだ』って。場所をきいたら、快く教えてくれた。あまりに無防備すぎて、逆に心配だったよ。でも……私は一度そこに行ったんだが、とても幸せな暮らしでは無かったぞ。時折悲鳴や、何かを殴打する不吉な音も聞こえた。放っておいたがな。……はあ、私は、警察失格だよ、まったく」
「じゃあ、その時にはもう、本物の俊之助さんはいなかったんだな」
俺は俊之助さんの父さんに、正直同情したよ。自分はその人が幸せだと思っていても、「現実は、どうも違うことが多いらしい。
「そういえば智君、君はどうやってここに参加したんだい? 私は、厳重なロックをしたサイトで、密かにこのメンバーを集めたんだが?」
「それこそ簡単なことだ。俺には協力者がいた。あんたがずっと追ってきた、俊之助さんだよ。あの人は探偵をやっていた。あの人があんたの計画を先読みしてくれたおかげで、そして俺を難なくここのメンバーに入れてくれたおかげで、俺は容易にあんたに近づくことができた」
篠田は、もうなんの反応もしなくなっていた。ただ一言「そうか」と言っただけだった。
「もう一つだけ、聞かせてくれないか。君はあの純香って女に、親友を傷つけられたといっただろう。何故あの女を助ける? それとも言ったことは嘘か?」
「嘘じゃねえ。……でも、そいつがあの女の幸せを願ってるんだ。俺は純香を助けるんじゃなく、親友の頼みを聞いただけだ」
今度は、篠田は静かに笑った。
「なるほど、ありがとう。私は、やっぱりきれいごとは好かんな」
「そうかい」
それからすぐ、お前らが動き出したから、俺も急いで外に出た。篠田はぐったり体を横たえていたよ――――
純香は智の話を聞いて、眠るどころか、寧ろ目が冴えた。涼菜純香の方にもたれかかって眠っていた。
「明信君が、私を……?」
途端に罪悪感で胸が押しつぶされそうになった。いっそ惨めに捨てられたほうが良かったのかもしれない。
「ああ、そうだ。事情を知らないあいつは、『純香は、立ち直れるかな』とか言って、お前のこと心配してたぞ。お前からしたら迷惑かもしれないが、受け止めろ。そして後悔してろ。俺はお前を心配してこんな大それたことをしたんじゃなくて、そこに寝てる涼菜の想い人の敵討ちさ。ただの自己満足さ」
智はそう言いくくって、「お前も寝ろ」と言い、眠ってしまった。
純香はまだ現状が理解できない。たくさんの感情が入り混じっているのと、安堵感で、少し気分が悪くなってきた。寝れば治るかと思い、涼菜と肩を並べて眠りについた。
やっと山道を抜け、信号機で車は一時停止した。
「智君、純香はもう寝たよ」
俊之助がそう言うと、智は目をぱっちりと開けた。初めから寝たふりをしていた。
「これから僕は、警察に証拠を届けなきゃいけないから、一度君たちを帰さないといけない」
「どうしてだ? このままいけばいいじゃないか」
「それなんだけど、やっぱりどこまでがこの事件に関わっているのか分からないんだ。君たちを連れて行って、また危ない目に合わせるわけにはいかないからね」
智は俊之助の顔を見た。やましいことがあるようには見えなかった。
「……わかった。じゃあまずは純香だ。母親が今入院してる以上、あの家に一人で行かせるわけにはいかない。何か考えないと……」
「ああ、そのことなんだけどね、純香は僕の母、つまり純香の祖母と一緒に暮らしてもらいたいと思っているんだけど、どうかな?」
俊之助は、少し明るいトーンで言った。しかし智は、反対に警戒心を持って答えた。
「無理だ」
ぴしゃりとそう言い放つ智に、俊之助は呆気に取られていた。
「……どうしてだい? 純香にも、帰る家が必要だろう」
「そういうことじゃねえ。お前、純香の父親なんかじゃないだろ」
何か確証があるとでも言うように、智はまっすぐ言った。
「純香の父親は死んだ。もういねえ。それとも、お前は地獄から逃げ出してきたのか?」
挑発的な態度を崩さない智に対し、俊之助と名乗る男は叫んだ。
「ふざけるな! 何を馬鹿なことを言ってるんだい。何か、僕が父親でない証拠でもあるのか?」
男の圧に押されること無く、智は言い返した。
「大声出すな。二人が起きる。……ああ、飲み物に睡眠薬入れたから、しばらく起きないのか。じゃあ、ゆっくり話せるな。お前の名は、篠田栄介だ。あの男の、実の弟だろ。はー、やることは大胆だねえ。まさか全部お前の思い描くようになっちまうとは」
そう話す智の横で、篠田栄介は怒りのあまりひどく汗をかいていた。
「弟は死んでなかった。お前、家族から虐げられていたんだろ? 家族はほとんど面会に来なかった。出獄した時だってそうだ。だから、持ち前のハッキング能力、情報収集能力を活かして自分の死を偽装、金儲けまでできるようになった。ここまで来れば、後は楽しい宴の始まりだろ? 自分を見放した兄貴、裏切った俊之助、そして、その妻子。復讐するのは容易だったはずだ。なんせ幽霊が自分に忍び寄るなんて予想しないからなあ」
赤信号で車は止まったが、既に都会のど真ん中に来ていたので、智の筋の通った推理を止められはしなかった。それに智はこの時のために、睡眠薬、隠されていた刃物など、武器となりうるものは全て奪っておいた。そのために車のキーを預かっておいたのだ。
「篠田がさらっと言っていたが、両親は事故死らしいな。一年前か……。俊之助さんがアルコール中毒で亡くなった年と同じだなあ。まあ、両親はお前がやったとは断言できないが、違ったとしても、お前としてはありがたかったんだろ? それに俊之助さんのことは、お前のこの車の後ろの資料で分かったぞ。捨ててりゃあ良かったのにな。あと今回は、本当に良くできた演劇だよ。一気に兄貴、純香を消せる。純香を助けたのは、やっぱり自分の手で終わりたかったからか。どうだ、俺の推理はあっているか?」
終わった頃には、栄介は怒りを通り越して感嘆していた。
「ああ、全て君の言った通りさ。だがこれからどうするんだい? 僕の犯行を暴いたとて、君に何もできないだろう。僕を警察に突き出すか?」
智はなお態度を変えずに言った。
「いや、幽霊を警察に突き出しても、俺に何も得は無いだろう? だから、俺の条件を飲んでくれれば、このままお前の計画に協力しよう」
智の言うことが、栄介には理解できなかった。
「今なんて……?」
「だから、俺も協力するって言ってんだ。俺は、お前の兄に用があったんだ。お前の計画がどうなろうと知ったこっちゃない。ああでも、念のため今の会話は全部録音してるからな。何かあったら、これを利用させてもらう」
栄介は運転をしながら、高笑いをした。
「ははは、そうか! よし、本当はもう終わりかと腹をくくっていたんだが、君の言葉で良く分かったよ。僕は、もう死んでしまっていたんだね。では君は、幽霊であるこの僕と契約しようっていうのかい。随分酔狂じゃあないか。それで、君の条件とはなんだい?」
「ああ、簡単なことだ。今日の事件を黙認し、ミヨサカ、及び涼菜には今後一切近づかない。これだけ守ってくれりゃあ、俺はもう何もいらない。後は好きにしてくれ」
智は、後部座席に座る純香を振り返りながら言った。
「ああ、分かったよ。君たちにはもう関わらない。今日のことは、言われずとも黙認する予定だったから問題ない。そのために脱出する直前、あの建物一帯は電波がつながらないように細工してきた。じゃあ、君たちをミヨサカの近くで下ろそう。何はともあれ、今日はありがとう 」
そうして、幽霊・栄介は純香一人を乗せてどこかへ走り去っていった。
*
涼菜をお父さんに預けた後、智は電話をかけた。相手は待っていたかのようにすぐに出た。
『もしもし! ああ、無事でよかった。言われた通り、車のナンバーも伝えたよ』
電話の相手は明信だった。
「おう、ありがとう。あいつは俺のこと信用してどっか行ったぜ」
『どっか行ったって……。本当に、純香は大丈夫かなあ』
――まったく、お前は変わんねえな。
明信のお人よし加減にあきれながらも、智はそれに安心していた。明信が変わらないでいてくれて、智は嬉しかったのだ。
「大丈夫さ。篠田に聞いた仲間に、篠田が縛り上げられてる写真送ったんだぜ。すぐさま調査に乗り出すだろう。お前、警察にどう言って画像送ったんだ?」
『ああ、現場にいた監視員?のふりして送ったよ。応援要請、みたいな感じで』
「うん、いい判断と思う。それならわざわざ発信元確認したりしないだろうからな」
少しの間の後、明信が智に言った。
『ねえ、僕のために色々智には迷惑かけたよね。本当にありがとう。智一人に任せてしまって、ごめん』
「何言ってんだ。信じられるのは自分だけっていう極限状態での脱出ゲームだと思ったら、結構楽しかったぞ。まあ、もう一度やりたいかと言われれば、断るがな」
『……本当にありがとう。今から電車乗って帰ってくるんでしょ? 駅まで迎えに行くから』
智は、明信に来なくていいといったが、明信は行くと言って聞かなかった。
空がオレンジ色に染まったところで、智はようやく帰路についた。