友愛
僕と智は、幼いことからの付き合いだと言ったが、それを、少し詳しく話そう。
幼い頃、と言うのは、具体的に、六歳、小学一年生の時だ。その年に越してきた僕は、人見知りの性格が災いして、いわゆる友達作りってやつに、完全に後れを取ってしまった。
心細くて、毎日怯えているうちに、友達なんていらない、一人でも大丈夫だと、自分を納得させようとしていた。
そんな時、僕に声をかけてくれたのが、近所に住んでいる智だった。クラスが同じだとは思っていたが、ガキ大将のような恰好で、怖かったのだ。話したことなんて一度も無い。
しかし、本当に、人は見かけによらぬものだ。智は面倒見がよく、一人だった僕をずっと気にしていたようで、ある時、休み時間に話しかけてくれた。
「おい、お前、ずっと一人だよな」
「……何? 僕、何かした?」
逃げ出したくなるほど怖かった。身長が僕よりずっと高いものだから、普通にしていても、見下ろされている感じがして、思わず少し涙が出た。
「なんで泣くんだ? 俺、何もしていないだろ」
不思議そうに僕を見る目は、よく見ると優しくて、安心感を覚えた。
僕は智に、友達がいないこと、作りたいと思っているが、どうしても失敗してしまうことを話した。智は僕の話を真剣に聞いてくれて、僕も話しやすかった。
「じゃあ、俺が友達になるよ」
笑顔でそう言う智は、本当に、太陽のように明るかった。
智がガキ大将のようだ、と言ったのは、あながち間違いではなかった。近所の子の中には、僕の事をいじめようとする子もいた。体が人より少しばかり小さくて、いじめやすいと思ったのだろう。
しかし、僕は一度もいじめられたことは無い。いつも智と一緒にいて、いじめっ子はみんな、智を怖がって近づかなかったのだ。時々智は、男子と喧嘩をして帰ってくることはあったが、暴力的な理由ではなく、いじめっ子を懲らしめるためだ。本当に、智は優しい。
智には、その優しさを理解する友達が何人もいた。その中の一人である僕と、いつも一緒にいて、他の友達といても、僕が一人でいるのを見つけると、僕が寂しくないように、話しかけに来てくれた。
中学校に入学した時、初めて智とクラスが分かれた。僕は、それまで智がいてくれるのに甘えて、自分から友達を作ることなく、そのやり方すら、学んでこなかった。智がいなくなって、再び孤独を知った。
クラスでは、いじめっ子こそいなかったが、みんな優しくて、それが、僕の孤独感をあざ笑っているように思えたのだ。ひねくれた考えだと思われるだろうが、僕はこの頃から、こんな性格なのだ。
結局、友達作りは諦めて、ただ一日を過ごすことに専念した。
しかし、やはり智だけは、僕を気にかけてくれて、帰りは、僕を見つけるといつも一緒に帰ってくれていた。
小学生の時は良かったが、中学生になると、部活が始まる。智は、大好きなサッカー部で、毎日のように汗を流して、三年にもなると、部長に推薦されるほどに、上達していた。一方僕は、何の部活にも入らないで、授業が終わると早々に帰宅し、部屋に閉じこもっていた。
生活が全く違うものになってもなお、智は一緒にいてくれた。今更ながら、智には、感謝したい。いくら学校がつまらなくても学校に通えていたのは、智のおかげだ。
しかし、憂い事はあった。中学三年生になって、待っていたのは高校選択。僕は、智はサッカーの推薦で、強いと有名な私立の双葉高校に行くと思っていた。今度こそ、独りになる事を覚悟していた。
「そういえば、明信、お前は高校どこにするんだ?」
「あー、一番近い、公立の緑谷高校かな。偏差値も丁度いいし」
「そうか、分かった。じゃあ、俺もそこにするわ」
目が飛び出そうだった。何を言っているのだろう。
「待って、智は、サッカーの推薦で双葉に行くんじゃないの? 僕の事は気にしなくていいんだよ」
「いや、私立だし、俺んちそんなお金ないから、行けないんだよ」
「でも、推薦だったら、少しは免除とか……」
「いいから。とにかく、俺もそこ行けるように、勉強頑張るか!」
僕の事を気にしているのは明らかだった。でも、なんだか嬉しくて、それ以上何も言うことはできなかった。
それから、智は本当に勉強を頑張っているようだった。いつも部活から帰ったら、勉強なんてしないですぐ寝ていたと言っていたのに、最近は隈も見られる。そりゃあ、三時間も部活をした後に猛勉強なんて生活を続けていたら、体の調子も壊す。
僕は家にすぐ帰って、数時間を毎日勉強につぎ込んでいたから、自然と偏差値は上がっていった。しかし、今までサッカー一筋でやってきた智は、勉強なんて二の次で、偏差値も三年間平均をキープしていた。
僕は智の体調が心配で、一度、志望校を変えようと言ったことがある。
「だから、お前のためじゃねえって。調べたら、そこのサッカー部も、全国大会に出場するくらい強いらしいんだ。俺も、俺の意志で行きたいんだ」
そう言って聞かないので、僕はずっと応援し続けた。そして、智は持ち前の根性で、なんとかその高校に合格して、晴れて二人とも緑谷の学生になることができた。
「入学おめでとう! 明信」
「智も、おめでとう」
二人そろって高校の制服を着て写真を撮ると、中学校卒業の時とは少し違って、なんだか少し大人になった気がした。大きめの制服は、律儀に折り目があって、ああ、僕も高校生になったのだと、意識させるようだった。
幸い智と同じクラスになる事が出来て、とても楽しい高校生活がスタートした。
部活動は、一年生はまだ入れない期間があって、その間はずっと智と下校し、たまにコンビニに寄ったり、公園に寄ったり、すっかり寄り道の癖がついてしまった。中学生の僕では、そんな事をするなんて、想像できないことだろう。今は、本当に楽しい。
いつものようにコンビニに寄ったとき、智が言った。
「そうだ、学校の反対側、お前は行ったこと無いんだろ? 俺、一度行った時、神社見つけたんだ。今度行かないか?」
「へえ、それは楽しそうだね。じゃあ、早速明日、行ってみない?」
「オーケー」
その日は家に帰り、明日の事を想像しながら、眠りについた。
その夜、珍しく、夢を見た。
「おい、ここで何しているんだ?」
そう言うのは、白い大蛇。どうやら、ここは鳥居の前で、僕は中に入るのをためらっているようだった。
「さあ、入れ、小僧。何も怖いことなどない」
その声は、地の底から響くのだが、不思議と恐怖は感じられなかった。温かい。
僕はその声を信じて、鳥居をくぐる。そして、大蛇に導かれるように、前へ、前へと進んでいく。
その先には、古びた祠が一つあった。それが気がかりで、足を止めてしまった。
「なんだ、それが気になるか」
大蛇は僕に言う。とても、寂しそうな目をしている。
僕はその祠に手を合わせた。
「それはな、昔、この地の人々が、豊作を祈って設置したものなのだ。だが、見てわかる通り、もうこの辺りには、田畑は無くなってしまった。代わりに土地開発などというものが進み、この神社もいずれ壊される。だから、小僧に見てもらいたい。覚えていてほしいものがあるのだ」
大蛇は、また僕を導くように、ゆっくり、前へと進む。
見えてきたのは、古びたお堂。人の気配は皆無で、何年も整備されていないようだった。今にも崩れてしまいそうだ。
「ここには、昔小さな子供たちが来て、秘密基地と言って遊んでいたり、爺さんや婆さんが、参道の途中の休憩場所にしたりしていた。もう何年も昔のことだから、その活気が戻るとは思っていないさ。だけどな、ここが忘れられるのが、どうしても寂しいのだ。だからどうか、この儂と、お堂を、記憶のどこかに置いておいてはくれないだろうか」
僕は、笑顔で頷いた。すると大蛇は、ありがとうと言って、姿を消した。
そのお堂に近づくと、かすかに、声が聞こえた。子供の声だ。その声は、だんだんと近くなってきて、声の主が姿を現した。
「早く早く!」
「そんなに慌てないで、転んだらケガするよ」
「あはは、待てー!」
どうやら、小学三年生くらいの男の子が、三人で遊びに来たらしい。三人には僕が見えていなくて、人の記憶を覗き見ているような不思議な感覚だった。
その三人は、お堂の中で、ただずっとおしゃべりをしているだけだったが、なんだかとても楽しそうだった。秘密基地、という響きが、三人の心をくすぶっていたのだろう。
しかし、日も暮れて、三人は帰ってしまった。
またすぐ明るくなり、今度来たのは参道を歩いてきたと思われる旅の僧二人だ。
「おや、こんなところにお堂があるとは。少し、休ませてもらいますね」
そう言って、二人はお堂に手を合わせ、腰を掛けていた。この二人もまた、ただ周りの景色を見ているだけで、のんびりと、時が過ぎるのをその身で感じていた。
日が暮れては、今夜泊まるところが無いということで、彼らは参道を進んでいった。旅路の途中の休憩場所は、旅人にとって、天の恵みのような場所なのだろう。
しかし、それから人が来ることは無く、時は過ぎ、お堂は古びて、暗い、孤独な雰囲気をまとう場所となってしまった。それからいくら待っても、人が訪れることは無かった――――。
夢から覚めると、もう朝で、窓から光が差し込んでいた。普段は夢なんて見ないのに、こんなに鮮明に覚えているのが、不思議だった。
外に出ると、いつも僕の方が早いのに、今日は、智が先に来て待っていた。
「おはよう」
「おはよう。レポート終わらせたか?」
「ああ、ばっちりだ。終わってないと、居残りになるからな」
たまにこうやって確認をしないといけない。智は忘れている課題が多々あって、よく先生に叱られるのだ。自分がしっかりしているという訳でなく、智が、課題の事になると、すぐ忘れてしまうからいけない。
「今日さ、神社に行くとき、何か、お供え物持って行かないか?」
今日見た夢が、どうも気になっていた。もしかすると、あれは、今日行こうとしている神社の、守り神なのでは無いか、と。霊などの類はあまり信じていないが、夢の中の大蛇は、なんとなく、本物だろうという気がしていた。
「いいぜ。そこの店で、油揚げでも買っていくか?」
「いや、卵がいいんだ。生卵」
「生卵? 何で?」
朝気になって調べたのだ。狐には油揚げだろうが、蛇には何がいいのかと。調べたところ、白蛇には生卵がいいらしい。あとは酒や、米だ。しかし高校生が酒を買うわけにいかないし、米を持ち出すのは気が引ける。
「ああ……知り合いに、その神社について知っている人がいてさ、その人と、丁度昨日会ったんだ。それで、その神社の守り神は、白蛇の姿らしいんだ。白蛇には生卵がいいんだってさ」
なんとなく、智に夢の事を話すのは、良くない気がいた。それに話しても、どうせ信じてもらえないだろうし。
「なるほど、分かった。じゃあ帰りに買って行こう、ついでにアイスでも買って行って、神社で食べるか」
夢の光景を思い出す。今は古びてしまったお堂で過ごす人たちは、みんな楽しそうで、穏やかな表情だった。
「そうだね」
僕も、その古堂で、ゆっくり、時が過ぎるのをこの身で感じていたい。あの子供たちや、旅の僧たちのように。その古堂が、たとえどんなに寂れていたとしても。
その日は、学校が一日中楽しかった。終わった後の楽しみがあると、どんなこともただの前座に思えて、不思議なことに、いつもより物事に集中できる。もっと楽しみを見つけて生きていけたら、きっと楽しいだろう。
しかし前座はすぐに終わってしまって、放課後、真打登場だ。
「あそこの店だ。年のいった婆さんが、旦那さんと二人でやっていたんだが、旦那さんは数年前他界し、今は婆さん一人でやっているらしい。様子見がてらに丁度良かったよ」
「そうなんだ。大変だね」
「んー、いや、そうでもないらしいぞ。老後の資金はまあまああって、この静かな街の一角で店をやっていけるのが、楽しいと言っていた。傍から見れば、財政難で今にも崩れてしまいそうな店だけど、本人は、それで満足しているんだ」
「そっか。なら、大丈夫だね」
何が大丈夫なのか、具体的には言えない。でも、お婆さんの様子を聞くと、独り、でなくて、一人、という解釈が正しいらしいから、きっとこれからも、この街で店をやっていくのだろう。
「ああ、あの婆さんは、きっと長生きする」
僕も、そう思う。そうであってほしい。
「いらっしゃい、智くん」
「こんにちは」
歴史を感じる、小さな店だった。木造の平屋で、奥は人が住んでいるような様子のある部屋があった。お婆さんは、ここで暮らしているのだろう。背は小さいが、足腰が強く、笑顔の似合うお婆さんだった。
「これと、あと、アイス二つください」
アイスは溶けてしまうから、家の中に置いているらしかった。前に置いてあるのは、常温で保存可能な食材や、スポンジ、洗剤などの日用品だ。
「はい、あわせて百円ね」
安い! 思わず叫びそうになった。こんな調子では、いずれ……
「はい、五百円玉一つ、おつりはいらないよ」
「あらあら、ありがとうね」
……なるほど、ここまで商売を続けられている秘密が分かった。
店を出るとき、三十代に見える女性とすれ違った。
「こんにちは。今日はカレーライスだから、ニンジンとジャガイモ、それに、隠し味のリンゴを買っていくわね」
「おや、今日は、賑やかになるのかい?」
「ええ、単身赴任の旦那が、帰ってくるの」
「良かったねえ。ほら、これ。千円だよ。おまけに、あんたの好きなミカンも入れておいたよ。みんなで食べなさい」
「あら、ありがとう。じゃあ、これ、二千円。こんなに詰めてもらって千円なんて、安すぎるわ。もっと高くしないとだめよ」
ほほえましい会話が、後ろから聞こえてきた。この店は、何年も付き合いのあるお客さんや、高校生のような子供の客がいる限り、寂れることはないのだろう。あの大蛇に、見せてあげたかった。
少し坂道を上がり、人がめっきり少なくなったところで、目的地が見えてきた。標高の低い、ちょっとした山だ。その入り口に、ひっそり鳥居があった。赤くて少し傷のある鳥居だ。
そして、僕はやはり、その鳥居と、その先の光景に見覚えがあった。夢の中では、どこか暗い感じがしていたが、こうして昼間に来てみると、明るく、子供が秘密基地にするのも、分かる気がした。
大蛇と歩いた道を、智と一緒に歩く。周りには草が生い茂っていて、閑散とした空気があった。
「お、あれじゃね? 古堂だ」
夢で見たお堂を目の前にして、僕はその荒れ具合に、思わず涙を流しそうになった。
「これは……ひどい」
「しょうがないさ。もう、管理人もいなくなって、壊すことも出来ず、長年放置されていたんだろう。こんなところにも、神様はいるのかねえ」
智も、その古堂の寂しさに同情するように、腕を組んで言った。
「……きっと、いるよ」
夢で見た大蛇は、きっといる。僕がここに来る前に、この惨状を伝えてくれたのだろう。僕はあいにく、人を呼んでここを再びにぎやかにすることもできない無力な人間だが、今、あの夢のように、智と二人で、ここでのんびり過ごすだけでも、大蛇にあの頃を思い出させることくらいはできるだろうか。
智と僕は、できる限り古堂の埃などを取り払って、外を見ながら、並んで座る。
「ほら、これ、お前のアイスな」
「ああ、ありがとう」
僕は、智が買ってくれたアイスを受け取り、徐に古堂の中を見渡す。床には埃が敷き詰められている。しかし、信仰も薄れてしまったのだろうが、中央にある、夢で見た大蛇にそっくりな銅像の、厳かな雰囲気だけは、今も健在であった。
今度は、夢で子供たちが走ってきた右の方を見る。今はとっくに道と呼べるものなんて無くて、奥の方は光が届かない為に見えなかった。しかし、確かに昔は存在したのだろう。目を凝らすと、草に絡まるようにして立っている、木の小さい看板を見つけた。文字は読めなかったが、恐らく、修行僧たちのための、道案内の看板だったのだろう。
今この時代に生きる僕らにとってはただの木片、ただの銅像だとしても、かつては人々のために、目的をもって、確かにそこに存在したものだった。そう考えると、もの寂しいものだ。
大蛇が伝えたかったのは、実際何だったのか、知る術はない。だからこれは単なる推測だが、きっと大蛇は、忘れ去られることの悲しさ、寂しさを、現代に生きる僕たちに、繋いでくれたのではないだろうか。確かに僕たちには、それを実感する機会は少ない。
「なあ、明信、なんか見つけたのか?」
「ん? いや、何も」
あまり長い間古堂を見ていたものだから、智は不安げな目で僕を見ていた。
「そうか、ならいいんだ。いや、こんなにずっと人が来なかったのなら、ここの神様も怒っているんじゃないかと思ってな」
そうだ、お供え物を忘れていた!
「そんなこと無いと思うよ。多分、僕たちが来て、喜んでくれているんじゃないかな。それじゃ、アイスも食べ終わったことだし、お供え物して帰ろうか」
「あ、おい、これ見てくれ! これ、当たりだ」
智の握るアイスの棒には、「当たりだよ! これを持って行くと、もう一本もらえるよ」という言葉が刻まれていた。
「きっと、神様のご利益だよ」
「……そうだといいな」
いつの間にか、空は黒く曇ってきていた。
帰り際、智から妙なことを聞かれた。
「そういえばお前、ゲームセンター、行ったことあるか? ここら辺は遅れているから、そんなのはできないんだけど、最近隣町のデパートにできたらしいんだよ。結構大きめのゲームセンター。……これから行ってみねえか?」
悪ガキのような顔をした智は、多分、ほんの少しの好奇心に身を任せてものを言っている。
僕は、別に、ゲームになんぞ興味はない。ただ、智と、この夕方から出かけるという、いわゆる〝不良〟のような行動には、興味がある。家族と上手くいっていないことの憂さ晴らしだと分かっているし、迷惑の掛かることだとも分かっているが、智を止める気にはなれなかった。これは友情、すなわち〝親愛〟でなく、ただの、悪ガキの悪巧みなのだ。
電車に揺られ、着いた先は、大勢の人が行き交う町、ミヨサカだ。駅と直通でデパートがあり、入って右に曲がったところに、すぐ、そのゲームセンターとやらがあった。
智は広いと言ったが、せいぜい横幅五十センチくらいのゲーム機が横に二十台、縦に三十台くらい並んでいるだけだ。ゲーム機で通路を作るように、規則正しく並べられていた。奥の方には喫煙所、休憩スペースもあるようだった。喫煙所は人の気配が無く、みんなそこらへんで煙をふかしている。
様々な種類のゲーム機に、大はしゃぎする大人、膝より何十センチも高くした裾のスカートを着た女子高生、周りの迷惑も考えず菓子を食べている男子高生、子供が泣いているのに目もくれない母親とみられる女性……僕が今まで無縁だった、様々な者が集まっていた。
その異様な光景は、まるで野生動物が生きるジャングルだ。みんなが自分の事を第一に考え、それぞれが勝手に生きている。しかし、全体としてのまとまりもある。
煙草臭さに、思わず顔をしかめたが、郷に入っては郷に従えということなので、慣れるしかないのだろう。
匂い以外にも、どこかからする鳴き声、笑い声、うめき声、そのすべてに神経をとがらせていては、身が持たない。照明があると言っても、ちゃんと機能しているのは少なく、集まる者たちの心を表しているように、薄暗かった。
しかし、こんな無法地帯のような場所だとは思っていなかった。元々ミヨサカは、治安があまり良くないというのは耳にしていたが、前に父と来たときは、そんなに気にならなかった。道に少し物乞いがいるというだけで、別に実害がある訳では無く、気にしなければ普通の繁華街だったはずだ。
智も同じことを思ったようだったが、ここまで来て引き返すのは格好が悪いという、いらないプライドがあり、僕らは渋々そこに足を踏み入れた。
不思議なことに、中に入ると、快適さを覚えた。周りが気にならない。きっと、周りが僕の事なんて見ていないという自意識があったからだろう。それもそのはず、周りはいかにも社会に溶け込むことを諦めた、というような大人ばかりで、僕になんて目もくれない。
反対に、智は早く帰りたがっていた。僕が新しいゲーム機に着手しようとしたとき、その手を掴んで外へ引っ張っていった。
「明信、やっぱりここは辞めよう。どこか他に、いいところがあるかもしれない」
「なんだよ、今いいところだったのに。智も、いるうちに慣れるよ。雑音ばっかでいやかもしれないけど、いずれ慣れる」
「そんなこと、言っている場合じゃないだろ。なんだかどこもかしこも煙たいし、絶対だめだ。俺から誘っておいて悪いけど、早く帰ろう」
その日は、結局八時半には家に着いた。家族は心配していて、父には少し怒られたが、何も心に響かない。なんだか頭にもやがかかったようで、家族の話が頭に入らないのだ。これは、ゲームセンターでのたばこの煙とは違って、心地いい感覚だった。
そして、後に僕は、この選択が間違っていたと知ることになるのだが、この時、心に決めたものがある。僕はこれから、あの町に通おう。
それからというもの、智とは距離を置き、今までのように一緒に帰ることも無くなった。学校帰り、毎日のように、ミヨサカに通った。交通費もかかるが、今までの貯金から崩して使った。ゲームをしない日だってあったが、僕は、その空間にいるだけで、満ち足りた気持ちであった。
智は、案の定心配してきた。ただ、何を言っても僕が聞かないことを悟ると、もう何も言わなくなっていった。ただ遠くから、僕の事を、心配そうに見つめていたのだ。
智は、多分、責任を感じていたのだろう。自分が誘わなければ、こんなことにはならなかったろうと。しかし、これは僕が勝手に決めた事だ。智は何も、悪くない。
僕と智は、幼いことからの付き合いだと言ったが、それを、少し詳しく話そう。
幼い頃、と言うのは、具体的に、六歳、小学一年生の時だ。その年に越してきた僕は、人見知りの性格が災いして、いわゆる友達作りってやつに、完全に後れを取ってしまった。
心細くて、毎日怯えているうちに、友達なんていらない、一人でも大丈夫だと、自分を納得させようとしていた。
そんな時、僕に声をかけてくれたのが、近所に住んでいる智だった。クラスが同じだとは思っていたが、ガキ大将のような恰好で、怖かったのだ。話したことなんて一度も無い。
しかし、本当に、人は見かけによらぬものだ。智は面倒見がよく、一人だった僕をずっと気にしていたようで、ある時、休み時間に話しかけてくれた。
「おい、お前、ずっと一人だよな」
「……何? 僕、何かした?」
逃げ出したくなるほど怖かった。身長が僕よりずっと高いものだから、普通にしていても、見下ろされている感じがして、思わず少し涙が出た。
「なんで泣くんだ? 俺、何もしていないだろ」
不思議そうに僕を見る目は、よく見ると優しくて、安心感を覚えた。
僕は智に、友達がいないこと、作りたいと思っているが、どうしても失敗してしまうことを話した。智は僕の話を真剣に聞いてくれて、僕も話しやすかった。
「じゃあ、俺が友達になるよ」
笑顔でそう言う智は、本当に、太陽のように明るかった。
智がガキ大将のようだ、と言ったのは、あながち間違いではなかった。近所の子の中には、僕の事をいじめようとする子もいた。体が人より少しばかり小さくて、いじめやすいと思ったのだろう。
しかし、僕は一度もいじめられたことは無い。いつも智と一緒にいて、いじめっ子はみんな、智を怖がって近づかなかったのだ。時々智は、男子と喧嘩をして帰ってくることはあったが、暴力的な理由ではなく、いじめっ子を懲らしめるためだ。本当に、智は優しい。
智には、その優しさを理解する友達が何人もいた。その中の一人である僕と、いつも一緒にいて、他の友達といても、僕が一人でいるのを見つけると、僕が寂しくないように、話しかけに来てくれた。
中学校に入学した時、初めて智とクラスが分かれた。僕は、それまで智がいてくれるのに甘えて、自分から友達を作ることなく、そのやり方すら、学んでこなかった。智がいなくなって、再び孤独を知った。
クラスでは、いじめっ子こそいなかったが、みんな優しくて、それが、僕の孤独感をあざ笑っているように思えたのだ。ひねくれた考えだと思われるだろうが、僕はこの頃から、こんな性格なのだ。
結局、友達作りは諦めて、ただ一日を過ごすことに専念した。
しかし、やはり智だけは、僕を気にかけてくれて、帰りは、僕を見つけるといつも一緒に帰ってくれていた。
小学生の時は良かったが、中学生になると、部活が始まる。智は、大好きなサッカー部で、毎日のように汗を流して、三年にもなると、部長に推薦されるほどに、上達していた。一方僕は、何の部活にも入らないで、授業が終わると早々に帰宅し、部屋に閉じこもっていた。
生活が全く違うものになってもなお、智は一緒にいてくれた。今更ながら、智には、感謝したい。いくら学校がつまらなくても学校に通えていたのは、智のおかげだ。
しかし、憂い事はあった。中学三年生になって、待っていたのは高校選択。僕は、智はサッカーの推薦で、強いと有名な私立の双葉高校に行くと思っていた。今度こそ、独りになる事を覚悟していた。
「そういえば、明信、お前は高校どこにするんだ?」
「あー、一番近い、公立の緑谷高校かな。偏差値も丁度いいし」
「そうか、分かった。じゃあ、俺もそこにするわ」
目が飛び出そうだった。何を言っているのだろう。
「待って、智は、サッカーの推薦で双葉に行くんじゃないの? 僕の事は気にしなくていいんだよ」
「いや、私立だし、俺んちそんなお金ないから、行けないんだよ」
「でも、推薦だったら、少しは免除とか……」
「いいから。とにかく、俺もそこ行けるように、勉強頑張るか!」
僕の事を気にしているのは明らかだった。でも、なんだか嬉しくて、それ以上何も言うことはできなかった。
それから、智は本当に勉強を頑張っているようだった。いつも部活から帰ったら、勉強なんてしないですぐ寝ていたと言っていたのに、最近は隈も見られる。そりゃあ、三時間も部活をした後に猛勉強なんて生活を続けていたら、体の調子も壊す。
僕は家にすぐ帰って、数時間を毎日勉強につぎ込んでいたから、自然と偏差値は上がっていった。しかし、今までサッカー一筋でやってきた智は、勉強なんて二の次で、偏差値も三年間平均をキープしていた。
僕は智の体調が心配で、一度、志望校を変えようと言ったことがある。
「だから、お前のためじゃねえって。調べたら、そこのサッカー部も、全国大会に出場するくらい強いらしいんだ。俺も、俺の意志で行きたいんだ」
そう言って聞かないので、僕はずっと応援し続けた。そして、智は持ち前の根性で、なんとかその高校に合格して、晴れて二人とも緑谷の学生になることができた。
「入学おめでとう! 明信」
「智も、おめでとう」
二人そろって高校の制服を着て写真を撮ると、中学校卒業の時とは少し違って、なんだか少し大人になった気がした。大きめの制服は、律儀に折り目があって、ああ、僕も高校生になったのだと、意識させるようだった。
幸い智と同じクラスになる事が出来て、とても楽しい高校生活がスタートした。
部活動は、一年生はまだ入れない期間があって、その間はずっと智と下校し、たまにコンビニに寄ったり、公園に寄ったり、すっかり寄り道の癖がついてしまった。中学生の僕では、そんな事をするなんて、想像できないことだろう。今は、本当に楽しい。
いつものようにコンビニに寄ったとき、智が言った。
「そうだ、学校の反対側、お前は行ったこと無いんだろ? 俺、一度行った時、神社見つけたんだ。今度行かないか?」
「へえ、それは楽しそうだね。じゃあ、早速明日、行ってみない?」
「オーケー」
その日は家に帰り、明日の事を想像しながら、眠りについた。
その夜、珍しく、夢を見た。
「おい、ここで何しているんだ?」
そう言うのは、白い大蛇。どうやら、ここは鳥居の前で、僕は中に入るのをためらっているようだった。
「さあ、入れ、小僧。何も怖いことなどない」
その声は、地の底から響くのだが、不思議と恐怖は感じられなかった。温かい。
僕はその声を信じて、鳥居をくぐる。そして、大蛇に導かれるように、前へ、前へと進んでいく。
その先には、古びた祠が一つあった。それが気がかりで、足を止めてしまった。
「なんだ、それが気になるか」
大蛇は僕に言う。とても、寂しそうな目をしている。
僕はその祠に手を合わせた。
「それはな、昔、この地の人々が、豊作を祈って設置したものなのだ。だが、見てわかる通り、もうこの辺りには、田畑は無くなってしまった。代わりに土地開発などというものが進み、この神社もいずれ壊される。だから、小僧に見てもらいたい。覚えていてほしいものがあるのだ」
大蛇は、また僕を導くように、ゆっくり、前へと進む。
見えてきたのは、古びたお堂。人の気配は皆無で、何年も整備されていないようだった。今にも崩れてしまいそうだ。
「ここには、昔小さな子供たちが来て、秘密基地と言って遊んでいたり、爺さんや婆さんが、参道の途中の休憩場所にしたりしていた。もう何年も昔のことだから、その活気が戻るとは思っていないさ。だけどな、ここが忘れられるのが、どうしても寂しいのだ。だからどうか、この儂と、お堂を、記憶のどこかに置いておいてはくれないだろうか」
僕は、笑顔で頷いた。すると大蛇は、ありがとうと言って、姿を消した。
そのお堂に近づくと、かすかに、声が聞こえた。子供の声だ。その声は、だんだんと近くなってきて、声の主が姿を現した。
「早く早く!」
「そんなに慌てないで、転んだらケガするよ」
「あはは、待てー!」
どうやら、小学三年生くらいの男の子が、三人で遊びに来たらしい。三人には僕が見えていなくて、人の記憶を覗き見ているような不思議な感覚だった。
その三人は、お堂の中で、ただずっとおしゃべりをしているだけだったが、なんだかとても楽しそうだった。秘密基地、という響きが、三人の心をくすぶっていたのだろう。
しかし、日も暮れて、三人は帰ってしまった。
またすぐ明るくなり、今度来たのは参道を歩いてきたと思われる旅の僧二人だ。
「おや、こんなところにお堂があるとは。少し、休ませてもらいますね」
そう言って、二人はお堂に手を合わせ、腰を掛けていた。この二人もまた、ただ周りの景色を見ているだけで、のんびりと、時が過ぎるのをその身で感じていた。
日が暮れては、今夜泊まるところが無いということで、彼らは参道を進んでいった。旅路の途中の休憩場所は、旅人にとって、天の恵みのような場所なのだろう。
しかし、それから人が来ることは無く、時は過ぎ、お堂は古びて、暗い、孤独な雰囲気をまとう場所となってしまった。それからいくら待っても、人が訪れることは無かった――――。
夢から覚めると、もう朝で、窓から光が差し込んでいた。普段は夢なんて見ないのに、こんなに鮮明に覚えているのが、不思議だった。
外に出ると、いつも僕の方が早いのに、今日は、智が先に来て待っていた。
「おはよう」
「おはよう。レポート終わらせたか?」
「ああ、ばっちりだ。終わってないと、居残りになるからな」
たまにこうやって確認をしないといけない。智は忘れている課題が多々あって、よく先生に叱られるのだ。自分がしっかりしているという訳でなく、智が、課題の事になると、すぐ忘れてしまうからいけない。
「今日さ、神社に行くとき、何か、お供え物持って行かないか?」
今日見た夢が、どうも気になっていた。もしかすると、あれは、今日行こうとしている神社の、守り神なのでは無いか、と。霊などの類はあまり信じていないが、夢の中の大蛇は、なんとなく、本物だろうという気がしていた。
「いいぜ。そこの店で、油揚げでも買っていくか?」
「いや、卵がいいんだ。生卵」
「生卵? 何で?」
朝気になって調べたのだ。狐には油揚げだろうが、蛇には何がいいのかと。調べたところ、白蛇には生卵がいいらしい。あとは酒や、米だ。しかし高校生が酒を買うわけにいかないし、米を持ち出すのは気が引ける。
「ああ……知り合いに、その神社について知っている人がいてさ、その人と、丁度昨日会ったんだ。それで、その神社の守り神は、白蛇の姿らしいんだ。白蛇には生卵がいいんだってさ」
なんとなく、智に夢の事を話すのは、良くない気がいた。それに話しても、どうせ信じてもらえないだろうし。
「なるほど、分かった。じゃあ帰りに買って行こう、ついでにアイスでも買って行って、神社で食べるか」
夢の光景を思い出す。今は古びてしまったお堂で過ごす人たちは、みんな楽しそうで、穏やかな表情だった。
「そうだね」
僕も、その古堂で、ゆっくり、時が過ぎるのをこの身で感じていたい。あの子供たちや、旅の僧たちのように。その古堂が、たとえどんなに寂れていたとしても。
その日は、学校が一日中楽しかった。終わった後の楽しみがあると、どんなこともただの前座に思えて、不思議なことに、いつもより物事に集中できる。もっと楽しみを見つけて生きていけたら、きっと楽しいだろう。
しかし前座はすぐに終わってしまって、放課後、真打登場だ。
「あそこの店だ。年のいった婆さんが、旦那さんと二人でやっていたんだが、旦那さんは数年前他界し、今は婆さん一人でやっているらしい。様子見がてらに丁度良かったよ」
「そうなんだ。大変だね」
「んー、いや、そうでもないらしいぞ。老後の資金はまあまああって、この静かな街の一角で店をやっていけるのが、楽しいと言っていた。傍から見れば、財政難で今にも崩れてしまいそうな店だけど、本人は、それで満足しているんだ」
「そっか。なら、大丈夫だね」
何が大丈夫なのか、具体的には言えない。でも、お婆さんの様子を聞くと、独り、でなくて、一人、という解釈が正しいらしいから、きっとこれからも、この街で店をやっていくのだろう。
「ああ、あの婆さんは、きっと長生きする」
僕も、そう思う。そうであってほしい。
「いらっしゃい、智くん」
「こんにちは」
歴史を感じる、小さな店だった。木造の平屋で、奥は人が住んでいるような様子のある部屋があった。お婆さんは、ここで暮らしているのだろう。背は小さいが、足腰が強く、笑顔の似合うお婆さんだった。
「これと、あと、アイス二つください」
アイスは溶けてしまうから、家の中に置いているらしかった。前に置いてあるのは、常温で保存可能な食材や、スポンジ、洗剤などの日用品だ。
「はい、あわせて百円ね」
安い! 思わず叫びそうになった。こんな調子では、いずれ……
「はい、五百円玉一つ、おつりはいらないよ」
「あらあら、ありがとうね」
……なるほど、ここまで商売を続けられている秘密が分かった。
店を出るとき、三十代に見える女性とすれ違った。
「こんにちは。今日はカレーライスだから、ニンジンとジャガイモ、それに、隠し味のリンゴを買っていくわね」
「おや、今日は、賑やかになるのかい?」
「ええ、単身赴任の旦那が、帰ってくるの」
「良かったねえ。ほら、これ。千円だよ。おまけに、あんたの好きなミカンも入れておいたよ。みんなで食べなさい」
「あら、ありがとう。じゃあ、これ、二千円。こんなに詰めてもらって千円なんて、安すぎるわ。もっと高くしないとだめよ」
ほほえましい会話が、後ろから聞こえてきた。この店は、何年も付き合いのあるお客さんや、高校生のような子供の客がいる限り、寂れることはないのだろう。あの大蛇に、見せてあげたかった。
少し坂道を上がり、人がめっきり少なくなったところで、目的地が見えてきた。標高の低い、ちょっとした山だ。その入り口に、ひっそり鳥居があった。赤くて少し傷のある鳥居だ。
そして、僕はやはり、その鳥居と、その先の光景に見覚えがあった。夢の中では、どこか暗い感じがしていたが、こうして昼間に来てみると、明るく、子供が秘密基地にするのも、分かる気がした。
大蛇と歩いた道を、智と一緒に歩く。周りには草が生い茂っていて、閑散とした空気があった。
「お、あれじゃね? 古堂だ」
夢で見たお堂を目の前にして、僕はその荒れ具合に、思わず涙を流しそうになった。
「これは……ひどい」
「しょうがないさ。もう、管理人もいなくなって、壊すことも出来ず、長年放置されていたんだろう。こんなところにも、神様はいるのかねえ」
智も、その古堂の寂しさに同情するように、腕を組んで言った。
「……きっと、いるよ」
夢で見た大蛇は、きっといる。僕がここに来る前に、この惨状を伝えてくれたのだろう。僕はあいにく、人を呼んでここを再びにぎやかにすることもできない無力な人間だが、今、あの夢のように、智と二人で、ここでのんびり過ごすだけでも、大蛇にあの頃を思い出させることくらいはできるだろうか。
智と僕は、できる限り古堂の埃などを取り払って、外を見ながら、並んで座る。
「ほら、これ、お前のアイスな」
「ああ、ありがとう」
僕は、智が買ってくれたアイスを受け取り、徐に古堂の中を見渡す。床には埃が敷き詰められている。しかし、信仰も薄れてしまったのだろうが、中央にある、夢で見た大蛇にそっくりな銅像の、厳かな雰囲気だけは、今も健在であった。
今度は、夢で子供たちが走ってきた右の方を見る。今はとっくに道と呼べるものなんて無くて、奥の方は光が届かない為に見えなかった。しかし、確かに昔は存在したのだろう。目を凝らすと、草に絡まるようにして立っている、木の小さい看板を見つけた。文字は読めなかったが、恐らく、修行僧たちのための、道案内の看板だったのだろう。
今この時代に生きる僕らにとってはただの木片、ただの銅像だとしても、かつては人々のために、目的をもって、確かにそこに存在したものだった。そう考えると、もの寂しいものだ。
大蛇が伝えたかったのは、実際何だったのか、知る術はない。だからこれは単なる推測だが、きっと大蛇は、忘れ去られることの悲しさ、寂しさを、現代に生きる僕たちに、繋いでくれたのではないだろうか。確かに僕たちには、それを実感する機会は少ない。
「なあ、明信、なんか見つけたのか?」
「ん? いや、何も」
あまり長い間古堂を見ていたものだから、智は不安げな目で僕を見ていた。
「そうか、ならいいんだ。いや、こんなにずっと人が来なかったのなら、ここの神様も怒っているんじゃないかと思ってな」
そうだ、お供え物を忘れていた!
「そんなこと無いと思うよ。多分、僕たちが来て、喜んでくれているんじゃないかな。それじゃ、アイスも食べ終わったことだし、お供え物して帰ろうか」
「あ、おい、これ見てくれ! これ、当たりだ」
智の握るアイスの棒には、「当たりだよ! これを持って行くと、もう一本もらえるよ」という言葉が刻まれていた。
「きっと、神様のご利益だよ」
「……そうだといいな」
いつの間にか、空は黒く曇ってきていた。
帰り際、智から妙なことを聞かれた。
「そういえばお前、ゲームセンター、行ったことあるか? ここら辺は遅れているから、そんなのはできないんだけど、最近隣町のデパートにできたらしいんだよ。結構大きめのゲームセンター。……これから行ってみねえか?」
悪ガキのような顔をした智は、多分、ほんの少しの好奇心に身を任せてものを言っている。
僕は、別に、ゲームになんぞ興味はない。ただ、智と、この夕方から出かけるという、いわゆる〝不良〟のような行動には、興味がある。家族と上手くいっていないことの憂さ晴らしだと分かっているし、迷惑の掛かることだとも分かっているが、智を止める気にはなれなかった。これは友情、すなわち〝親愛〟でなく、ただの、悪ガキの悪巧みなのだ。
電車に揺られ、着いた先は、大勢の人が行き交う町、ミヨサカだ。駅と直通でデパートがあり、入って右に曲がったところに、すぐ、そのゲームセンターとやらがあった。
智は広いと言ったが、せいぜい横幅五十センチくらいのゲーム機が横に二十台、縦に三十台くらい並んでいるだけだ。ゲーム機で通路を作るように、規則正しく並べられていた。奥の方には喫煙所、休憩スペースもあるようだった。喫煙所は人の気配が無く、みんなそこらへんで煙をふかしている。
様々な種類のゲーム機に、大はしゃぎする大人、膝より何十センチも高くした裾のスカートを着た女子高生、周りの迷惑も考えず菓子を食べている男子高生、子供が泣いているのに目もくれない母親とみられる女性……僕が今まで無縁だった、様々な者が集まっていた。
その異様な光景は、まるで野生動物が生きるジャングルだ。みんなが自分の事を第一に考え、それぞれが勝手に生きている。しかし、全体としてのまとまりもある。
煙草臭さに、思わず顔をしかめたが、郷に入っては郷に従えということなので、慣れるしかないのだろう。
匂い以外にも、どこかからする鳴き声、笑い声、うめき声、そのすべてに神経をとがらせていては、身が持たない。照明があると言っても、ちゃんと機能しているのは少なく、集まる者たちの心を表しているように、薄暗かった。
しかし、こんな無法地帯のような場所だとは思っていなかった。元々ミヨサカは、治安があまり良くないというのは耳にしていたが、前に父と来たときは、そんなに気にならなかった。道に少し物乞いがいるというだけで、別に実害がある訳では無く、気にしなければ普通の繁華街だったはずだ。
智も同じことを思ったようだったが、ここまで来て引き返すのは格好が悪いという、いらないプライドがあり、僕らは渋々そこに足を踏み入れた。
不思議なことに、中に入ると、快適さを覚えた。周りが気にならない。きっと、周りが僕の事なんて見ていないという自意識があったからだろう。それもそのはず、周りはいかにも社会に溶け込むことを諦めた、というような大人ばかりで、僕になんて目もくれない。
反対に、智は早く帰りたがっていた。僕が新しいゲーム機に着手しようとしたとき、その手を掴んで外へ引っ張っていった。
「明信、やっぱりここは辞めよう。どこか他に、いいところがあるかもしれない」
「なんだよ、今いいところだったのに。智も、いるうちに慣れるよ。雑音ばっかでいやかもしれないけど、いずれ慣れる」
「そんなこと、言っている場合じゃないだろ。なんだかどこもかしこも煙たいし、絶対だめだ。俺から誘っておいて悪いけど、早く帰ろう」
その日は、結局八時半には家に着いた。家族は心配していて、父には少し怒られたが、何も心に響かない。なんだか頭にもやがかかったようで、家族の話が頭に入らないのだ。これは、ゲームセンターでのたばこの煙とは違って、心地いい感覚だった。
そして、後に僕は、この選択が間違っていたと知ることになるのだが、この時、心に決めたものがある。僕はこれから、あの町に通おう。
それからというもの、智とは距離を置き、今までのように一緒に帰ることも無くなった。学校帰り、毎日のように、ミヨサカに通った。交通費もかかるが、今までの貯金から崩して使った。ゲームをしない日だってあったが、僕は、その空間にいるだけで、満ち足りた気持ちであった。
智は、案の定心配してきた。ただ、何を言っても僕が聞かないことを悟ると、もう何も言わなくなっていった。ただ遠くから、僕の事を、心配そうに見つめていたのだ。
智は、多分、責任を感じていたのだろう。自分が誘わなければ、こんなことにはならなかったろうと。しかし、これは僕が勝手に決めた事だ。智は何も、悪くない。