「さて、もうそろそろ、帰らなければ」
 僕は、今まで来た通りを戻る。少しばかり上り坂になっているのを、少々辛く思った。
 歩いているうち、背中が温かいのを感じる。振り返ると、今までは空を明るく照らすだけだった太陽が、頭だけ、姿を見せていた。その煌々たる光に元気づけられるように、僕は坂を駆け上がった。
 僕が夜に出てきた庭の窓は、やはり鍵が閉められていなかった。
 猫のように、足音を立てず、そっと中へと入る。六時前で、起きている人もわずかにいるらしい。一番風呂に入りたいのだろう。僕も少し、そんな人たちの気持ちが分かる気がした。
 部屋へ戻り、何事も無かったかのように布団へ入る。八時までなら、二時間と少しは寝られるだろう。

 晴樹の声で目が覚める。
「おはよう! 温泉行こう」
 朝から元気だなと感心しつつ、僕も良く寝た、というように、大きな伸びをして、晴樹に返事をする。
 続いて、父と母を起こしにかかる。昨日は疲れただろうから、起こすのに、もっと苦戦するかと思っていたのだが、案外すぐに目が覚めていた。やはり慣れぬところでの睡眠は、体が休まらないのだろうか。
「晴樹が一番なんて、珍しいな」
 昨日、好きな酒をたくさん飲めたからだろうか、父は、いつもより大分機嫌が良いように見えた。母も同様である。
「朝ごはんは、昨日の夕飯の場所らしい。八時半には着くように行きたいんだが……」
 父がそう言って、みんな一斉に、壁掛け時計を見た。針が示すのは、八時十二分。どうやら僕も、歩きすぎて、少し寝坊したらしい。三人の表情も、先刻とは打って変わって、真剣な目つきになっていた。ここでようやく目が覚めた。
「晴樹、信明、歯磨きはここにあるから、しっかり磨くのよ」
 母はそう言うのだが、昨日の夜も歯磨きは忘れていないので、場所は言われずとも分かっている。相当焦っているようだった。
 何故、これから一度温泉に入るのに、化粧の必要があるのだろうか。それとも、母が温泉の事を忘れているだけなのか?
 しかし、こういうことに口を出すと、決まって母は、男のくせに、と言って、男差別の文句を並べるのだ。僕たち三人は、もしこれらの禁句を発すると、連帯責任になるということを熟知しているから、なるべく言わないよう努めている。
 父、晴樹、僕の三人は、母のように朝の準備が難しくないので、母よりもゆっくり支度をする。髪を一応整え、父だけ少しひげをそり、浴衣の帯を巻きなおすだけで済んだ。
 母の支度が終えると、時刻は八時二十五分。急ぎ足で食事の場所へ行き、なんとか八時半には間に合った。
 朝の食事は、山菜、卵焼き、豆腐、白米、みそ汁……と、質素だが、朝ごはんには丁度いいものだった。それに、デザートとして、フルーツの盛り合わせがあり、晴樹は満足げな表情をしている。父と母には、トマトが入ったサラダが、山菜とは別に置かれていた。
 食事を済ませた僕たちは、再び部屋に戻る。風呂に行くための道具を忘れたのだ。
 十時チェックアウトの予定だから、食事からそのまま温泉に行くと言っていたが、朝の忙しさで、すっかり忘れていた。
「昨日のようにゆっくりは入れないが、最後に一度は入っておこう。九時半には、部屋に集合だ」
 父がそう母に言い、三人と一人に分かれる。女湯と男湯が入れ替えられていたので、昨日とは逆の方に向かった。
「気持ちいいな、晴樹。そうだ、今日は帰りに、滝を見に行こうと思っているんだ。確か、名前は、空煩大滝と言ったかな」
「クウハン大滝? それは、どこにあるの?」
 晴樹は、興味津々の様子で、父に聞き返す。
「窓から、小川が見えただろう? ほら、土産屋の近くを流れていたあの川がそうだよ。その川が、下る途中、大きめの他の川と合流して、今より二倍、三倍にも太くなるらしい。その滝があるというから、行ってみないか?」
 滝、という未知のものに、晴樹はすっかり心奪われてしまったようだ。実際のところ、テレビでは何度か見かけたのだが、晴樹はそっぽを向いていたので、覚えていないらしい。
 それに僕も、滝自体には興味ないが、あの小川は、少々気になっている。どれほど大きくなって、大滝とまで呼ばれるようになるのか、この目で見てみたい。
 部屋に戻ると、やはり母が先に帰って、僕たちの帰りを待っていた。
「はあ、時間ぎりぎりだよ。ほら、もう九時二十七分」
 そういって、母は壁掛け時計を指さした。確かに、待ち合わせの時間には、なんとか間に合った、という感じだ。これでも、昨日より体を洗うのも、湯浸かる時間も早くしたはずなのだ。
 しかしながら、結局、時間に遅刻しそうになり、十分に体を拭かぬまま外に出てきたため、少し湯冷めしてしまった。
 時間ぎりぎりについた僕たちにも非はあるが、そんなに怒るほどではないと思う。母はいつも時間に厳しくて、僕らはよく叱られるのだ。
 父が言っていた、クウハン大滝、というのが気になり、一度調べた。漢字は「空煩」と書き、意味は分からなかった。地名になっているという訳でもないらしい。
 父だけが車を取りに行き、残った僕たち三人は、旅館入口で待つ。
「兄ちゃん、滝、楽しみだね」
 そんなに待ち遠しくは思っていないのだが、否定するのは面倒くさい。
「そうだね」
 気の無い返事をする。直後、車が僕たちの前に停まった。
 車の中で、母と晴樹が、その滝について話していた。
「母さん、その滝、近くまで行ける?」
「うーん、確か、危ないから、行けないようになっているんじゃなかったかしら」
 少し、寂しそうな顔をする晴樹に、母は言う。
「でも、記念撮影がしやすいように、決められた場所になら行けると書いてあったよ。たくさん写真撮りましょうね」
 晴樹の機嫌も直ったようで、再び嬉しそうに笑っていた。
「そういえば、父さん、空煩大滝の「空煩」って、何か意味はあるの?」
 僕は、会話に入りたそうに、ルームミラーをちらちら覗いている父に話しかけた。
「いや、聞いたこと無いなあ。でも、何か意味があると思うよ。この滝は、結構古くから、人と一緒に暮らしていたんだ。だから、昔の人が、何かの風習、滝の雰囲気とか、色んな事情で名付けたんだろう」
 得意げにそう言う父を見て、滑稽だと思ってしまった。
 実は、先ほどコンビニに寄った時、父がこっそり、その滝について調べているのを見たのだ。必死に話題を作ろうとしていたのだろう。
 他愛のない会話をしながら、旅館を出て一時間ほどで、空煩大滝に到着した。空気が澄んでいて、涼しく、しかしそれとは別に、何か不思議な雰囲気のある場所であった。
「母さん、父さん、向こうに道があるよ」
 晴樹ははしゃいで、一人で滝のある方向へと走って行ってしまった。父も母も、呆れた様子で、晴樹の後をついていく。僕も、その二人の後についていった。
 道の先には、あんなに細かった、静かな小川が、太く、たくましくなり、大きな音を立てて流れ落ちるのが見えていた。僕は目の前に広がる光景に圧倒され、一瞬、呼吸さえも忘れた。
「すごいね、母さん、大きな滝! 近くに行きたい!」
「駄目よ、もしあの滝つぼに落ちたらどうするの?」
 そう言って、母は、斜め下にある、滝の落ちる地点を指さした。白い泡が立ち、それが水面に広がっている。周りの涼しげな雰囲気と、大きな音とが相まって、そこがひどく恐ろく思えた。
 単なる知識として、滝つぼが恐ろしいのは知っていたが、近くで見ると、やはり、泳ぎの達人であっても、助かるのは困難だろうと想像できる。
 自分たちがいるのは、滝とは少し離れた見物場所だ。下はまた川が流れているが、柵があり、安全なつくりとなっている。
 昼時ということもあり、いるのは僕たちだけで、好きなように写真が撮れた。しかし、家族写真を撮ることに、あまり前向きじゃない僕は、少し近くを散策すると言い、その道を一人引き返した。
 駐車場に戻ると、古い、木の看板が立てられているのを見つけた。そこには、「空絆大滝」という文字があった。どうやら、この長い年月で、呼び名が変わったらしい。それにしても、この名は、どこか寂しそうな名だな、と思い、そっと看板の汚れを落とすのだった。
 それからしばらく歩いているうち、一つ、別の道があるのに気が付いた。そこは、先刻の道よりもかなり険しく、人が長年歩いている様子がうかがえなかった。それでも、こうして道があるというのは、使っていた人もまた、いた、ということだろう。僕は先へ進んだ。
 木々が生い茂り、とても観光用とはいいがたく、歩くのが精いっぱいであった。しかしそこを抜けると、とても、壮大な光景が待ち構えていた。
 そこは、先刻いた見物場所より、はるかに滝に近く、寧ろ、滝の中、といっても過言でないような場所だった。自然の気まぐれか、滝の落ちる背後に、空洞ができ、一人ならば、容易に歩き回れるくらいの広さがあった。
 恐らく、ここは昔、滝のあるここを通り抜けるための道として、人の生活の中にあったのだろう。そして、途中には、手を伸ばせば、滝に触れられるような場所もあり、僕は幼い子供のようにわくわくしていた。心臓の動きが分かる。
 手を伸ばし、滝に触れる。勢いが強く、掌が痛かった。落ちないよう気を付けながら、しゃがんで、下の滝つぼを覗き込む。
 そうしているうちに、三人が駐車場に戻ってきたので、僕も帰ろうと、来た道の方へ目を向ける。その時、ここで写真を撮っていないのに気づいた。カメラに収めておきたかったが、三人が僕を呼んでいるのも聞こえたので、名残惜しかったが、僕はその洞窟を後にした。
 帰りは、みんな疲れ切ったようで、眠たそうだった。母と晴樹は眠り、父は、閉じそうな目をかっと開いて、必死に睡魔を撃退する。
 僕は二時間ほどしか寝ていないが、車で眠るのはどうも苦手で、ひたすら外を見て過ごした。たまに橋を通ると、その下を眺め、あの小川や、竹藪、洞窟のことを思い出した。
 家に着いたのは、午後四時頃で、まだ空は明るかったが、両親と晴樹は体力の限界で、みんな寝こけてしまった。晴樹と母は車で随分寝ていたのに、まだ眠れるというものだから、僕はそれが可笑しかった。
 そんな僕も、父の荷下ろしを手伝った後、自分の部屋へ行き、早速寝転がってしまった。いくらショートスリーパーと言っても、旅行での二時間睡眠は堪えたようだ。

 旅行から帰ってきて、次の日、僕は熱を出した。
 元々長旅の後は、よく体を壊したものだから、今回も、薄々そうなるだろうとは思っていた。
 いや、旅行の所為ではなく、あの夜の散歩が原因だろうか。まあ、どちらでも構わない。僕が今、体調を崩しているこの事態は、きっと逃れられなかったのだろうから。
 智は、僕を心配して、学校帰りに見舞いに来てくれた。
「大丈夫か、明信。これ、今日の課題と、配布物」
「ありがとう、智。この土日、温泉に行ってきたんだ。土産もあるから、明日また来てよ。明日から、僕もちゃんと学校行くよ」
 智は、土産、という言葉に目を輝かせ、慌てて取り繕う。
「はあ、温泉に行って体を休めてきたのに、その旅行でまた体壊してちゃあ、世話ねえな」
 呆れた様子で、僕にそう言う。
 いつも体調を崩す度、智が見舞いに来てくれるのだ。そして、いつもこう言って、僕に笑いかける。心配してくれているのは、やはり温かいものだ。
 少し話した後、智は帰り、僕は一人、天井を見ながら考え事をしていた。
「父さんは仕事に、晴樹は遊びに、母さんは友達と茶会に、それぞれ自分の立場があって、日々暮らしている。それならば、みんな、家族ってなんだと思っているんだろう? 僕は、なにも心配をしてほしい訳じゃなくて、ただ……」
 そう言葉にして、続きは言えなかった。
 僕は、この家族を大切に思っているか、と聞かれれば、即座にノーと言うだろう。自分の人間性を疑うが、どうも霧がかかっているようで、深く考え込むほど、分からなくなっていくのだ。
 自分の存在に疑問を持つことは、誰にだってある、ごく当たり前の心理なのだろう。しかしながら、僕は、長らく疑問を持っているのが耐えられなくて、結論を出し急ぐ癖がある。
 今回もまた同様に、深く考えられなくとも、結論を急ぐのだ。そして、その結論がどうであれ、僕は、それに、ただ従順になることしか知らない。
「僕は、この家族のもとへ生まれたのが、間違いだったのだろう。たとえ間違いでなかったとしても、僕は、この家族と合っていないのだ。ならば、合わせればいいのだろうか」
 そう考えるが、想像すると、やはりどこか違和感がある。
 以前僕が滑稽だと笑った「家族愛」は、僕だけには取り憑かず、見放した。
 家族、という存在そのものについて、疑問を持つ者は、きっと少ないのだろう。それは、自分の立場をしっかり理解できる、まともな人間だからなのだ。そんな人間にだけ、「家族愛」という魔物は憑く。いや、そのような感性が身に付く、と表現したほうが良いのかもしれない。
 僕は反対で、未だ自分の立場ってやつが理解できなくて、家族って概念にも、疑問を持つばかりだ。その疑問というのは、まともな人間なら、愛、だとか、絆、だとか、そんな表現をする、目に見えない何かだ。
 家族というコミュニティに、そんなものが最初から存在するってのが、どうも納得できない。
 だいたい、夫婦間には、そのような言葉も通じるだろう。だが、その二人に産み落とされた、晴樹や、僕のような〝生産物〟には、そんな概念、鼻から無いのが普通だ。だって、親子といっても、所詮、思想も、肉体も、何もかも違う他人なのだから。
 そう言うと、まともな人間は否定をする。他人なんて表現はやめなさい、と、僕に罵詈雑言を浴びせる。僕にはそれが、不思議でしょうがない。
 その疑問が、最近、家族への不信感に変化しつつあるのを、少しばかり、感じ取っていた。
 今まで、目の前で見せられ続けてきた「家族愛」という名の劇は、僕の心を蝕み、脆くしていった。その感覚が、僕にとっては恐怖以外の何物でもなかった。
 僕の事を心配したり、気を遣ったり、そんな何気ない事も、僕には疑問なのだ。
 家族の事を見ると、僕が、浮いているようで、そして、申し訳なく思えてくる。僕だって、好きでこんな事を考えているんじゃあない。思想が先走り、脳はそれに当てはまる言葉を探し当て、僕に報告する。僕には、自分の思想を止めることはできないのだ。
 そんな事を考え、脳の回転を止めるために、もう一度布団を被る。寝てしまえば、思想との会話も、しなくて済むだろう。夢でも見ない限り。

 翌朝、僕は、体の調子が良くなっているのは感じたが、気分は沈んだままでいた。
 しかし、それだけで学校を休むわけにもいかず、階段を下りて、食卓に向かう。三人は相も変わらず笑顔の仮面をつけ、僕にそれを向けてくる。
「明信、もう調子は大丈夫? これ、おかゆね。今日は学校行って、何かあったら帰ってくるのよ」
 過保護なのだろうか、こんなにも、単なる息子のために、朝食で、みんなと違うものを作ったり、
「明信、これ持って行きなさい。頭が痛くなりやすいお前の事だ、必要になる事もあるだろう」
 こうやって、自分に合う薬を、病人でもないのに、わざわざ買ってきたりするのは。
 嬉しいが、少し、気味が悪い。滑稽さを通り越し、恐怖がある。
 こう考える自分に気づいたとき、芽生えるのは、他人への嫌悪感でなく、自分への嫌悪感なのだ。自分は、他人の気遣いも、ろくに受け入れることのできない、小心者なのだと、思い知らされる。
 逃げるように家を出て、学校へ向かう。空は、曇っていた。今にも降り出しそうで、傘を持ってこなかったのを後悔した。途中、智と会って、一緒に灰色の通学路を歩く。
「そういえば、温泉って、どこ行ってきたんだよ」
「ああ、言ってなかったね。えーと、幸磨温泉だよ。近くに有名な竹藪があって――――」
 そう話しているうちに、とうとう雲が堪えられなくなったように、雨が降り出した。
 僕は智に手を引かれ、走って校門を目指す。近くに見えているのに、なかなかたどり着けないもどかしさが、面白かった。
 校門をくぐり、玄関に入り、僕と智は息を荒げる。一気に降り出してきたので、髪は二人とも、まるで頭から水を被ったかのように、濡れていた。互いの顔を見て笑う。咳をしながら笑う。
「髪、こんなに濡れちゃあ、乾くのに時間もかかるだろう。シャワー室に行けば、ドライヤーでもあるんじゃないか?」
 そう言って、智は、いたずらをする子供の顔をして、にやっと笑った。
 いつも僕と智は、校舎に着くのが誰よりも早い。家が高校と近いというのもあるが、朝の、生徒がだれもいないこの空気が好きなのだ。この朝の時間、智と話すのが、最近の日課となっている。
 僕も、智と同じ顔を頑張って作り、にやっと笑って、いいね、と返した。
 シャワー室は、運動部の更衣室の横にある。僕の学校は敷地が狭く、地下に更衣室などの部屋を持ってきていたので、二階の職員室からは遠く、大きな音を出しても、この朝になら、見つかる心配は無いだろう。シャワー室が使われているのを見たことは無かったが、蛇口をひねると水が出てきたので、使えるようだった。
 僕と智は、シャワー室を入ってすぐ右の、鏡とドライヤーが置かれているところに向かった。ドライヤーも同様に、なんとか使うことができた。しかし、古い物らしく、音がうるさくて、風も、冷たいのしか出てこなかった。
「使えるだけ、感謝するか」
 智は、そう呟き、先に髪を乾かし始めた。一つしかなかったので、僕はその間、乾きやすいよう、髪の水を、搾れるだけ搾り取っておいた。
 そうして、二人とも乾かした後、いつものように、階段を上り、教室へと向かう。やはり僕たち以外に人は来ていなくて、静寂に包まれていた。
「そういえば、来る時の話、続きだったな。ほら、温泉の」
「ああ、そうだったね。僕が行ったのは、幸磨温泉っていう、有名な温泉、知らない?」
 智は首を傾け、唸り声を上げる。
「えーと、土産屋の数が、とても多くて、前にテレビで放送されていたよ」
「ああ。あそこか! それは俺も知っているぞ。饅頭とか、団子とか、美味しそうな菓子、たくさんあっただろ。いいな、俺も、一度行ってみたいんだ」
 温泉でなく、土産屋で記憶しているとは、流石智だ、と感心して、思わずくすっと笑ってしまった。智は、僕の心を知ってか知らずか、照れくさそうに笑う。話題を変えるように、僕に話しかける。
「お前、あそこの土産屋行ったなんて、なんだか羨ましいな。そうだ、今日、お前の家行くぞ。部活があって、少し遅れるけど、多分、七時には着くと思う」
 智はサッカー部で主将を務めている。週に五回もある、盛んな運動部で、よく僕のような静かな人と一緒にいられるなあ、と思ったことがある。
「そんなこと、気にするんだな。まあ、幼馴染だし、お前といるの、慣れているっていうか……親友だろ? 一緒にいる理由なんて、なんでもいいじゃん」
 要領を得ない返答だったが、智らしくて、なんだか嬉しかった。変なやつだ、と言って、智も照れくさそうに、笑っていた――――。
「七時だったら、僕の家で夕飯食べていく? 母さんも、智ならいいって言うと思うし」
「お、そう? じゃあ、俺も母さんに連絡するから、いいって言われたら教えてくれ」
 二人とも、それぞれ母に連絡を取り、遅い時間ということで、母どうしでも連絡を取り、智は今日、僕の家に泊まることになった。

 学校が終わり、僕は一人家路につく。今日は、帰りが怖くなかった。いつも怖いのは、食事の時なのだが、今日は智がいる。それまでうまくやれば、きっと大丈夫だ。
 家に着き、呼吸を整えて、鍵を開ける。ただいま、の一言が怖いだなんて、きっと、だれにも分からないのだろう。
「ただいま……」
 家が静まり返っているように感じた。
 今日は誰もいないのか、と少し安心した矢先、キッチンから母の声が聞こえた。
「おかえりなさい。今日は智君来るから、智君の好きなカレーにするけど、大丈夫?」
 途端にカレーを煮込む鍋の音も聞こえてきた。
 僕に聞いて、一体どうするのだろう? 僕が嫌だと言ったら、きっと母は驚くのだろう。だったら――返答が一つしか許されないのなら、聞かないでほしい。
「……うん、大丈夫」
 この一言を口から出すのに、そんなことを考えるのも、僕だけなのだろうか。いや、多分これは、みんな一度は経験したことがあるだろう。そんなくだらない事を考えて、一人、嬉しくなるのだ。
 母と視線が合わないうちに階段を上がって、部屋に着く。やっと心置きなく呼吸ができる。そう思って、手始めに、深呼吸をしてみる。けれどもやはり、自分が可笑しくて、その訳の分からない恐怖心が可笑しくて、それらを払いのけるように、自分に向かって笑ってやるのだ。お前なんか、怖くない、お前なんか、ただの阿呆だと、簡単な罵声を浴びせることしかできないが、それでも必死に笑うのだ。
 しかし、どうやら一朝一夕で克服できるほど簡単なものではないらしく、全てを払いのけることは、とうとうかなわなかった。
 できるだけ、考えないようにと、他の事をして気を紛らわせることにした。智にあげる土産を、もう一度確認してみよう。そう思い、土産袋に手を伸ばす。
 中にあったのは、幸磨温泉にしかないという、抹茶色の、温泉饅頭や、竹形クッキー。そのどれもが、とても工場のような機械では生み出せないような、繊細な職人の技が施されているらしい。菓子に詳しいわけじゃない僕でも、その美味しさは、なにか特別なものがあると分かった。
 食べ物以外の土産は、僕の、夜の冒険記くらいだ。それでも、きっと智は、いかにも真剣そうな顔をして、僕の話に耳を傾けてくれるのだろう。

 午後七時。部活帰りの智が、まっすぐ僕の家に来た。
「お邪魔します」
 礼儀良く、母に挨拶をして、僕の部屋に荷物を置き、一緒に食卓へと向かう。
 夕飯が楽しいと思えたのは、いや、思えなくなったのは、いつのことだか忘れてしまったが、今日は、その感覚を、思い出すことができた。
「いっぱい食べてね、智君。サッカー部の主将なんて、すごいじゃない」
「ありがとうございます。でも、そんなたいそうな事じゃないですよ」
 謙遜してそう言う智を、母は笑顔で見つめる。古くからの付き合いがあって、恐らく、自分の子供のように思うこところがあるのだろう。
 いつもより数倍長い夕飯を終え、智と僕は、部屋で学校の続きのように、語り合う。
「ごめんね、母さんうるさくて」
「いや、良い母親だと思うぞ。俺の母さんなんて、ずっと一人で話しているもんだから、しばらくするとみんなそっぽを向くんだ。でもお前の母さんは、ちゃんと会話ってやつを知っているから、話すのがとても楽しいよ」
 僕はそれに同意するべきか迷ったが、反対して微妙な空気になるのが嫌なので、とりあえず笑ってごまかした。
「はい、これ。旅行のお土産だよ」
 そう言って、僕は早速、菓子類の土産を智に渡す。
「これ、ずっと食べたいと思っていたんだ! ありがとう」
 智は、生粋の菓子好きなのに、全然太っている感じが無い。やはり、運動部っていうのは、よほど疲れるのだろうか。僕は、自分には無縁のその世界を想像して、所属しなくて良かったと、安堵した。
「そうだ、僕、夜に抜け出して、散歩していたんだけど、話聞いてくれる?」
 智は、僕がそんな行動を取るとは思っていなかったようで、目を丸くして、身を乗り出し、話を催促した。僕は大きく息を吸って、少しばかり誇張しながら、冒険記を語った。
「竹藪の中の泉は、本当に夢のような場所だったよ。蛍が飛んでいて、とにかくすごいんだ。写真撮ったから見てよ。ほら、これ」
「おお、綺麗だな。蛍か……。こんなに飛んでいたら、きっと楽しいんだろうな、蛍たちは」
「はは、それはどうだろうね」
 全部話し終えたとき、丁度風呂が沸いたようだ。母が、僕たちのどちらかが先に入るよう呼びに来た。
 僕は智に一番風呂を譲り、自分は温泉での出来事を思い出すように、目を瞑って、横になった。そして、智にとんぼ玉を見せていないのに気づいた。
 慌てて土産の袋を探すが、どこにも見つからない。もしかしたら、小さいから、温泉の部屋に落として、置いてきてしまったのだろうか。それとも、車の中に落ちてしまったのだろうか。車の中は、後日父が掃除していたので、見つかったら言ってくれるはずだが、何も言われていない。じゃあ、やはり温泉に……?
 顔を真っ青にして、僕は、とりあえず、部屋の中を探した。知らないうちに、袋から出していると思った。そうであってほしかった。しかし、見つからなかった。

 季節は廻り、九月、秋だ。
 今日は、一学期末テストが返される。自信が無くて、机をじっと見たまま、自分の名前が呼ばれるのを待っていた。
「次は、遠藤明信」
 僕の名前は、見てもらえばわかる通り、出席番号で言うと、とても前の方だ。こういうテスト返しの時とか、順番が早いと、心の準備ができないまま、悲痛な現実を知ることになる。
 高校生になって、勉強時間は増やしたつもりだが、やはり、たるんでしまったのだろう。点数がそれを物語っていた。周りから見れば、良い点数、だったとしても、僕の両親は、そんなの知った事ではない。
「おい、明信。この点数は、どうしたんだ」
 普段も恐ろしいのに、一層険しい顔をして、父は言う。
「最初の定期テストから、随分下がったじゃないか。もっと頑張りなさい」
 色々、頑張っているとは思うのだが、父は、それが勉強でなければいけない、という、実に教育熱心な人で、しかも、晴樹には期待できないからと、僕に全ての理想を押し付けるのだ。中学生の時は、僕もそこまで意識せず、過ごしていた。だが、高校生になると、妙にそれが気になって、父も父で、僕への期待を良く口にするようになった。
 僕は、父が僕の成績を心配していないと言うのは、建前であることは分かっているが、どうしても、それが憎らしく思えてしまう。気持ちが悪い。
 母はまた変わった人で、父のいる時は教育熱心のふりをして、いない時は、放任主義の立場でものを言うのだ。
 しかし、僕は、そんな奇異な状況を逆手に取った。勉強、を建前に、僕はそれから、部屋に閉じこもる時間が増えていった。